服部 峻治郎(はっとり しゅんじろう、1890年(明治23年… 服部 峻治郎(はっとり しゅんじろう、1890年(明治23年)12月18日 - 1983年(昭和58年)4月19日)は、日本の医学者、小児科医。医学博士。第14代京都大学総長。 1890年兵庫県生まれ。京都帝国大学教授、同病院長を経て1951年に京都大学総長に就任。その直後、昭和天皇の京都大学視察訪問に際し、学生が公開質問状を用意し「平和の歌」をうたって迎えた『京大天皇事件』が起こり、その責任をとって1953年辞任。1983年に92歳で死去。 主な受章歴は以下のとおり。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
大野 良蔵(良藏、おおの りょうぞう、1890年(明治23年… 大野 良蔵(良藏、おおの りょうぞう、1890年(明治23年)12月17日 - 1976年(昭和51年)2月18日)は、大正から昭和期の外科医、政治家。貴族院勅選議員、医学博士。 福岡県御笠郡二日市村(筑紫郡二日市町、筑紫野町を経て現筑紫野市)で大野良作の長男として生まれる。1917年(大正6年)九州帝国大学医学部を卒業した。卒業後、同医学部第一内科教室、同外科教室で勤務した。1923年(大正12年)7月24日、九州帝大より医学博士号を授与された。 1924年(大正13)大阪で外科大野病院を開業した。その他、港病院院長、木津川病院院長も務めた。 1946年(昭和21年)6月19日、貴族院勅選議員に任じられ、研究会に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
近藤 駿介(こんどう しゅんすけ、1890年(明治23年)1… 近藤 駿介(こんどう しゅんすけ、1890年(明治23年)12月17日 - 1966年(昭和41年)4月30日)は、日本の内務官僚。県知事、南洋庁長官。 長崎県出身。呉服商・近藤九右衛門の五男として生まれる。長崎県立中学猶興館、第五高等学校を経て、1916年5月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1915年10月、文官高等試験に合格した。 1916年5月、内務省に入り警視庁警部として保安部保安課に配属された。以後、総監官房文書課審査係長、保安部保安課長、日本橋堀留警察署長、芝三田警察署長、深川西平野警察署長などを歴任。 1921年7月、高知県内務部商工水産課長に就任。以後、同県教育課長、東京府内務部学務兵事課長、同府視学官、同学務部長、山口県書記官・警察部長、警視庁書記官・衛生部長、同保安部長、青森県書記官・内務部長、京都府書記官・内務部長などを歴任。
大澤 雅休(おおさわ がきゅう、1890年〈明治23年〉12… 大澤 雅休(おおさわ がきゅう、1890年〈明治23年〉12月17日 - 1953年〈昭和28年〉9月12日)は、昭和時代の日本の書家・歌人。平原社主宰。日本の書道界における前衛派の先駆けである。本名・雅休(まさやす)。 群馬県群馬郡大類村(現・高崎市柴崎町)の農家の長男として生まれる。高陽義塾を経て高山社に学ぶ。 1908年(明治41年)群馬郡金島村金島小学校代用教員となり、翌1909年同郡倉賀野町へ転勤。1911年高崎歩兵第15連隊に入営、除隊後大類小学校に勤務。村上鬼城や村上成之(蛃魚)に俳句の指導を受ける。 1916年(大正5年)栃木県那須開墾地に入植。このころ『ホトトギス』に小説や俳句を発表、また『アララギ』会員となり島木赤彦の指導を受ける。
坂本 末雄(さかもと すえお、1890年(明治23年)12月… 坂本 末雄(さかもと すえお、1890年(明治23年)12月16日 - 1966年(昭和41)9月28日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸軍士官学校第26期、陸軍大学校第35期卒業 1890年(明治23年)に熊本県菊池郡田島村で生まれた。熊本県立鹿本中学校(現・熊本県立鹿本高等学校)卒業後、海軍経理学校に合格したが陸軍への道を選び、1911年12月に士官候補生として歩兵第53連隊に入隊。なお、この時経理学校に補欠合格した林義秀も同じく入学を辞退し、陸士・陸大で同期となっている。陸軍士官学校第26期、陸軍大学校第35期卒業。1938年(昭和13年)3月1日に陸軍歩兵大佐に進級、6月30日に歩兵第53連隊長(中支那派遣軍・第17師団・第17歩兵団)に就任し、日中戦争では、武漢攻略に参加した。
片倉 三平(かたくら さんぺい、1890年12月15日 - … 片倉 三平(かたくら さんぺい、1890年12月15日 - 1977年3月29日)は、日本の実業家、長く日東紡績などの経営に当たった。妻・かずは2代目片倉兼太郎の次女。 片倉三平は、片倉財閥を興した片倉家の一員・片倉光治の三男として、長野県諏訪郡川岸村(現岡谷市)に生まれた。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、東京高等蚕糸学校(現東京農工大学)を卒業。その後、片倉合名会社社員となり、その北陸監督や、片倉共栄製糸社長、片倉越後製糸社長など、傘下の様々な企業の役職を兼務した。 1921年に片倉傘下となっていた福島紡織が改組され、新たに福島県郡山市を拠点とする日東紡績が1923年に設立された際には、片倉三平が初代社長に就任した 。
牧野 虎雄(まきの とらお、明治23年(1890年)12月1… 牧野 虎雄(まきの とらお、明治23年(1890年)12月15日 - 昭和21年(1946年)10月18日)は、日本の洋画家である。現在の新潟県上越市西城町1丁目に生まれた。父は藤一郎、母は兼。 父・藤一郎は、虎雄が生まれたころ東京府東京市下谷区役所に単身で勤務していた。虎雄が5歳のときに土木請負「久米組」の社員となり、今の渋谷区代々木で一緒に暮らすようになった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
高垣 松雄(たかがき まつお、1890年12月13日 - 1… 高垣 松雄(たかがき まつお、1890年12月13日 - 1940年9月13日)は、アメリカ文学者。立教大学文学部教授、文学部英文学科長。日本で初めてアメリカ文学を専門に研究した人とされ、日本におけるアメリカ文学研究の権威として基礎を築いた。 神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学文科を中退した後、1919年(大正8年)立教大学英文科卒業。大学卒業後すぐに、旧制立教中学校の英語教師となるが、同年夏にハワイのザ・フレンド・ピース奨学生の銓衡試験をパスして、ホノルルにある、孫文や第44代アメリカ大統領のバラク・オバマも学んだプナホ・アカデミーに留学。翌1920年(大正9年)にはシカゴ大学に入学。 病のため1921年(大正10年)に帰国し、1922年(大正11年)立教大学文学部教授に就任。
原 邦道(はら くにみち、1890年12月11日 - 197… 原 邦道(はら くにみち、1890年12月11日 - 1976年10月10日)は、日本の官僚、経営者。日本長期信用銀行初代頭取を務めた。島根県平田市(現在の出雲市)出身。 1916年に東京帝国大学経済科を卒業。大蔵省での勤務を経て、1939年に日本製鉄に転じ、常任監査役、常務、副社長を歴任した。1943年に東京証券取引所副理事長を経て、1944年に野村合名会社総務理事に就任し、野村銀行(現在の大和銀行)社長、野村證券会長、野村生命会長を歴任した。1952年12月に日本長期信用銀行初代頭取に就任し、1957年11月から1959年5月までに会長を務めた。大和銀行相談役も務めた。 1966年5月に勲一等瑞宝章を受章。
六代 正田 文右衛門(ろくだい しょうだ ぶんえもん、前名・… 六代 正田 文右衛門(ろくだい しょうだ ぶんえもん、前名・敏一郎、1890年〈明治23年〉12月9日 - 1973年〈昭和48年〉7月25日)は、日本の実業家、醤油醸造家(亀甲正醸造元)。正田醤油、館林航器各社長。日本醤油協会会長。日本栄養食料(現日本農産工業)監査役。館林町会議員、群馬県公安委員。上皇后美智子の生家正田家の本家筋の出身で、大叔父にあたる。 1890年(明治23年)群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)に、5代・正田文右衛門の長男として生まれる。1909年(明治42年)、東京府立第一中学校卒業。1914年(大正3年)、東京高等商業学校卒業。 1917年(大正6年)正田醤油専務取締役に就任。
高橋 権六(權六、たかはし ごんろく、1890年(明治23年… 高橋 権六(權六、たかはし ごんろく、1890年(明治23年)12月9日 - 1972年(昭和47年)3月4日)は、大正から昭和期の実業家・政治家。衆議院議員。 福岡県八女郡、現在の八女市で酒造家の家に生まれる。1918年(大正7年)明治学院普通部を卒業。 若いときから院外団に加わった。福岡県会議員に選出され2期在任し、同参事会員、八女郡教育会評議員も務めた。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙から1947年(昭和22年)第23回総選挙まで立候補を続けたがいずれも落選。同年の福岡県知事選挙でも落選した。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙(福岡県第3区、無所属)で当選。当時の地元新聞に「同情票で勝利」と分析した記事が掲載された。
神林 美治(かんばやし よしはる、明治23年(1890年)1… 神林 美治(かんばやし よしはる、明治23年(1890年)12月8日 - 昭和54年(1979年))は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍軍医中将。呉海軍病院長、海軍医学校校長を歴任する。長野県長野市出身。 明治23年(1890年)12月8日、長野県更科郡稲里村(現在の長野市)の士族であった神林英三郎の五男として出生する。第二高等学校を経て、大正6年(1917年)に九州帝国大学医学部医学科を成績優秀で卒業し、恩賜の銀時計を授与される。海軍省に入省後、軍医となる。大正12年4月に九州帝国大学大学院へ進学し、小野寺教授の下で指導を受ける。大正14年11月に同校を修了する。 大正15年(1926年)には、久邇宮の欧州外遊に同行し、昭和3年(1927年)2月、ドイツ駐在員となる。
伊藤 清(いとう きよし、1890年(明治23年)12月7日… 伊藤 清(いとう きよし、1890年(明治23年)12月7日 - 1981年(昭和56年)6月12日)は、大正から昭和期の弁護士、裁判官、政治家。衆議院議員。 千葉県匝瑳郡福岡町(八日市場町、八日市場市を経て現匝瑳市)で、伊藤啓三郎の二男として生まれる。錦城中学校(現錦城学園高等学校)、第三高等学校を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。 1918年8月、司法官試補に任官し、東京地方裁判所予備判事、長崎地方裁判所判事を歴任し、1921年(大正10年)7月に退官した。留学してロンドン大学、ベルリン大学で学び、在学中に司法省から英独の労働法研究の委嘱を受けた。1925年(大正14年)に帰国し弁護士を開業した。
仁科 芳雄(にしな よしお、1890年〈明治23年〉12月6… 仁科 芳雄(にしな よしお、1890年〈明治23年〉12月6日 - 1951年〈昭和26年〉1月10日)は、日本の物理学者。学位は理学博士(東京帝国大学・1930年)。日本現代物理学の父。 岡山県浅口郡里庄町浜中出身。東京帝国大学卒。日本に量子力学の研究拠点を作ることに尽力し、理化学研究所(理研)に在籍して宇宙線関係、加速器関係の研究で業績をあげた。 死去から4年後の1955年、原子物理学とその応用分野の振興を目的として仁科記念財団が設立された。この財団では毎年、原子物理学とその応用に関して著しい業績を上げた研究者に仁科記念賞を授与している。また理研の仁科加速器科学研究センターにも名を残す。 ニールス・ボーアの下で身に着けたその自由な学風は、自由で活発な精神風土を日本にもたらし、日本の素粒子物理学を世界水準に引き上げた。
内海 清温(うつみ きよはる、1890年(明治23年)12月… 内海 清温(うつみ きよはる、1890年(明治23年)12月6日 - 1984年(昭和59年)3月9日)は、大正時代から昭和時代の土木工学者、内務官僚。 鳥取県久米郡倉吉町(現・倉吉市)に生まれる。第一高等学校を経て、1915年(大正4年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省に入省する。江戸川改修事務所勤務として江戸川分流頭首工事を担当する。1919年(大正8年)9月に退官し、朝鮮に渡り電気化学工業(現・デンカ)の発電水力調査業務に従事。工務部土木課長として朝鮮での10万kW級の水力発電所の建設可能性を現地調査し、帰朝後は宮崎県の大淀川の水力発電所建設所長に転じ、1万5千kWと3万kWの2ヵ所の水力発電所を建設した。
阿部 浅十(あべ あさじゅう、1890年〈明治23年〉12月… 阿部 浅十(あべ あさじゅう、1890年〈明治23年〉12月6日 - 没年不明)は、日本の政治家、農民。鳥取県西伯郡余子村会議員。境港町議会議員。境港市議会議員。 鳥取県西伯郡余子村大字高松(現・境港市高松町)出身。久栄の長男。弓浜高等小学校を卒業後、家業の農業に専念し、傍ら弓浜組合製糸監事、農協理事、農会理事等を歴任する。1954年、境港町議会議員に当選する。西伯郡米子市養蚕農業協同組合連合会理事、誠道中組合議員を兼任する。1956年、市制実施とともに市会議員となる。 自治及び養蚕功労者として当局より再三表彰され、地区有力者として尊敬される。趣味は畜育。宗教は曹洞宗。住所は境港市高松町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
田代 茂樹(たしろ しげき、1890年〈明治23年〉12月5… 田代 茂樹(たしろ しげき、1890年〈明治23年〉12月5日 - 1981年〈昭和56年〉8月8日)は、日本の実業家。東洋レーヨン(現・東レ)社長、日本化学繊維協会会長、日本腎臓財団初代会長、福岡県人会第三代会長などを務めた。明治専門学校(現・九州工業大学)第一期生。 福岡県遠賀郡香月村楠橋(現・北九州市)生まれ。父は村役場の助役、収入役を経て長らく村長を務めた。 旧制東筑中学(現・福岡県立東筑高等学校)、明治専門学校機械工学科を卒業後、三井物産に入社。 三井物産名古屋支店長時代の1936年、当時の東洋レーヨン社長に見込まれ、同社取締役に転じる。1945年に社長となるが、公職追放となる。1950年代表取締役会長として復帰し、1970年まで務めた。
森 慈秀(もり じしゅう、1890年12月5日 - 1973… 森 慈秀(もり じしゅう、1890年12月5日 - 1973年4月15日)は、熊本県天草郡湯島村(現上天草市)出身の政治家。熊本県議会議員(1期)、大矢野町長(3期)。天草五橋架橋の功労者として知られている。 1890年(明治23年)12月5日、熊本県天草郡湯島村(天草諸島の湯島、現上天草市大矢野町湯島)に生まれた。父は森幸吉、母は森タミ。幼名は秀松であり、長男である。 1901年(明治34年)には湯島村立尋常小学校4年課程を修了し、湯島村役場の小使となった。18歳か19歳の時、貿易商の親戚を頼って上海に渡航し、事業によって財を成した。1917年(大正6年)または1918年(大正7年)頃に日本に引き揚げたが、この時には当時の金額で100万円を持ち帰っている。
石榑 敬一(いしぐれ けいいち、1890年12月5日 - 1… 石榑 敬一(いしぐれ けいいち、1890年12月5日 - 1968年11月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県岐阜市生まれ。1908年岐阜県立農林学校卒。陸軍に入り、中尉まで進む。その後、岐阜市主事、三里村(現・岐阜市)村長、岐阜県会議員、岐阜在郷軍人連合分会長、岐阜市警防団長などを歴任する。 1928年12月4日から1931年10月15日まで第36代岐阜県会副議長を務めた。 1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)では、岐阜1区(当時)から立候補する。翼協の非推薦ながら在郷軍人会をバックに当選を果たす。衆議院議員は1期務めた。 戦後の1955年の岐阜市長選挙に立候補したが、自由党推薦の松尾吾策に敗れて落選した。
前之園 喜一郎(まえのその きいちろう、1890年12月4日… 前之園 喜一郎(まえのその きいちろう、1890年12月4日 - 1971年2月17日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)。弁護士。 鹿児島県出身。指宿生まれ、鹿屋育ち。16歳のときに台湾鉄道教習所に入り、25歳の頃まで台湾総督府鉄道勤務。旧制中・高の検定試験と文官試験を受けて台湾鉄道学校の教官となるが、大卒でないと不利だと感じたため、東京へ出て日本大学に入学する。上京に際しては、台湾の産業交通に関する本を制作・販売して資金をつくった。日本大学法科及び明治大学高等研究科卒。 1922年に弁護士試験に合格。東京で開業した後、鹿児島に移って事務所を開設(1923年)。鹿児島弁護士会長、鹿児島市議、同議長を経て、1947年8月の参議院鹿児島地方区から立候補して当選、参議院議員を1期務め、決算委員長を歴任した。
岩田 三史(いわた さんし、1890年(明治23年)12月3… 岩田 三史(いわた さんし、1890年(明治23年)12月3日 - 1973年(昭和48年)9月3日)は、大正から昭和期の医師、政治家。貴族院多額納税者議員、埼玉県川口市長、川口市名誉市民。 埼玉県北足立郡川口町(現在川口市)で、川口屈指の大地主・岩田武三郎、いよ の長男として生まれた。浦和中学校(現埼玉県立浦和高等学校)、第四高等学校第三部を経て、1919年(大正8年)九州帝国大学医学部を卒業。同医学部副手、東京帝国大学医学部細菌学教室研究生となり、医学博士号を取得した。その後、帝国女子医学薬学専門学校(現在の東邦大学)教授、額田内科病院副院長を務めた。 1931年(昭和6年)6月4日、補欠選挙で貴族院多額納税者議員に選出され、1932年(昭和7年)9月28日まで在任。
佐藤 惣之助(さとう そうのすけ、1890年〈明治23年〉1… 佐藤 惣之助(さとう そうのすけ、1890年〈明治23年〉12月3日 - 1942年〈昭和17年〉5月15日)は、日本の詩人、作詞家。 神奈川県橘樹郡川崎町砂子(現在の川崎市川崎区)にて於いて佐藤慶次郎・うめ夫妻の二男として出生。佐藤家は川崎宿砂子の本陣を預かる家柄であった。 1897年(明治30年)川崎尋常小学校入学。1903年(明治36年)3月、高等科1学年修了。4月、東京市麻布区飯倉町の糸商「万文」に丁稚奉公開始。住み込み、この頃から句作をする。1904年(明治37年)俳句雑誌『半面』に関与し、千家元麿と識り、ともに『新潮』俳句欄に投稿するとともに、同欄選者佐藤紅緑に師事する。1906年(明治39年)渡米を志し、身体検査を受けるも、眼疾のため不合格となる。
坂口 忠次(さかぐち ちゅうじ、1890年12月3日 - 没… 坂口 忠次(さかぐち ちゅうじ、1890年12月3日 - 没年不詳)は、日本の鉄道官僚、実業家。 坂口貫太郎の長男として福岡市東中洲町に生まれる。1910年福岡県立中学修猷館、1914年7月第一高等学校英法科を経て、1917年7月東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。高等文官試験行政科に合格する。 鉄道院に入省し、鉄道省事務官兼参事官、鉄道大臣秘書官を務め、欧米各国に留学後、鉄道局参事となり、仙台鉄道局庶務課長、鉄道省監督局業務課長・総務課長、大臣官房人事課長、広島鉄道局長、東京鉄道局長、鉄道監督官を歴任し、1940年退官する。その後、西武鉄道(旧)社長を務めた。
松山 茂助(まつやま もすけ、1890年12月2日 - 19… 松山 茂助(まつやま もすけ、1890年12月2日 - 1973年6月25日)は日本の醸造学者、実業家。 長野県下水内郡飯山町(現飯山市)の酒造業者に生まれる。旧制飯山中学校(後の長野県飯山北高等学校、統合により現在は長野県飯山高等学校)を経て北海道帝国大学農学部卒業。恵迪寮OBで、1969年度寮歌『藻岩の緑』の作詞を担当。ビール醸造学を修めて1919年日本麦酒鉱泉に入社。カタラーゼに関する研究で農学博士号を得る。研究部長となりドイツに留学。1961年日本麦酒(サッポロビール)社長に就任。1968年正月、歌会始の召人となる。歌集に「川」がある。
江崎 岩吉(えさき いわきち、1890年12月1日 - 19… 江崎 岩吉(えさき いわきち、1890年12月1日 - 1986年1月16日)は、日本の海軍軍人、海軍造船官。最終階級は海軍技術中将。 東京市議・江崎礼二の四男として東京で生まれる。東京府立第三中学校、第一高等学校を経て、1916年4月、海軍造船学生となり、1917年7月、東京帝国大学工科大学(後の工学部)造船学科(後の船舶工学科)を卒業し、海軍造船中技士(後の海軍造船・造機中尉)に任官し横須賀鎮守府付となる。 呉工廠付、同造船部副部員、造船監督官、艦政本部員(第4部)、イギリス駐在などを経て、1923年10月から1926年6月まで、グリニッジ海軍大学で学んだ。 艦政本部(第4部)、横須賀工廠造船部員、横須賀鎮守府付、艦政本部員(第3部)、海軍技術研究所出仕、兼艦政本部員(第4部)、呉工廠造船実験部長、横須賀工廠造船部長などを歴任し、1940年11月、海軍造船少将に進級した。
横山 静雄(よこやま しずお、1890年12月1日 - 19… 横山 静雄(よこやま しずお、1890年12月1日 - 1961年1月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福岡県出身。村役場収入役・横山麓の長男として生まれる。中学伝習館を経て、1912年5月、陸軍士官学校(24期)を卒業、同年12月、歩兵少尉任官、歩兵第24連隊付となる。1925年11月、陸軍大学校(37期)を卒業。 歩兵第24連隊中隊長、参謀本部付勤務、参謀本部員、朝鮮軍司令部付、欧州出張、関東軍鉄道線区司令部付、同鉄道線区司令官、関東軍司令部付などを歴任。日中戦争では歩兵第2連隊長として出征し、河北戡定作戦、徐州会戦に参加。1939年3月、陸軍少将に進級。第2野戦鉄道司令官、第1野戦鉄道司令官などを歴任し、1941年10月、陸軍中将となった。
梅澤 捨次郎(うめざわ すてじろう、新字体:梅沢 捨次郎、1… 梅澤 捨次郎(うめざわ すてじろう、新字体:梅沢 捨次郎、1890年〈明治23年〉12月1日 - 1958年〈昭和33年〉4月29日)は、石川県出身の建築家。位階は正五位。 日本統治時代の台湾で数々の公共建築物の設計を手がけ、多くは文化資産として現在も活用されている。2000年代以降にアニメーション作家、アニメ監督として活躍している吉浦康裕の曾祖父にあたる。 1890年(明治23年)12月1日、石川県石川郡鶴来町(現・白山市)の士族のもとで出生。元は秋田姓だった。本籍は同県金沢市広阪通。 1907年(明治40年)、測量人員として県に就職するが、翌年東京の私立工手学校(現・工学院大学)建築科入学のため離職。
佐藤 泰舜(さとう たいしゅん、1890年12月1日 - 1… 佐藤 泰舜(さとう たいしゅん、1890年12月1日 - 1975年2月28日)は、日本の仏教学者。駒澤大学教授、東洋大学教授、京城帝国大学教授など歴任。永平寺74世貫首、曹洞宗管長。道号は博裔。 愛知県新城市生まれ。1903年得度。1915年曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業。1919年曹洞宗大学図書館主事。1920年東京帝国大学文学部選科に入学。1923年東京帝大文学部印度哲学科を卒業。同校大学院に入学。研究題目「支那仏教思想の発達」。奈良東大寺に留学。1931年欧州留学。帰国後、駒澤大学教授、東洋大学教授に就任。1934年京城帝国大学助教授を経て教授。終戦により曹洞宗京城別院・曹渓寺の引継ぎなど、戦後処理をして引き揚げた。
福田 啓二(ふくだ けいじ、1890年〈明治23年〉12月1… 福田 啓二(ふくだ けいじ、1890年〈明治23年〉12月1日 - 1964年〈昭和39年〉3月23日)は、日本の海軍軍人、造船学者。戦艦「大和」設計者の一人。海軍技術中将正四位勲二等(旭日重光章・瑞宝章)。 福田馬之助海軍造船中将の次男。東京府東多摩郡中野村(現東京都中野区)生まれ。旧制第一高等学校を経て1914年(大正3年)、東京帝国大学工学部造船科卒業。海軍中技師(中尉相当)任官。1920年(大正9年)から1923年(大正12年)まで英国駐在。グリニッジ王立海軍大学校に学ぶ。造船中佐時代はロンドン海軍軍縮会議のため半年間英国出張した。 藤本喜久雄の急死後、1935年(昭和10年)から1936年(昭和11年)にかけて、海軍艦政本部第四部基本計画主任として大和型戦艦の設計に携わる(平賀譲#平賀艦艇設計の評価)。
豊島与志雄(とよしま よしお、1890年(明治23年)11月… 豊島与志雄(とよしま よしお、1890年(明治23年)11月27日 - 1955年(昭和30年)6月18日)は、日本の小説家、翻訳家、仏文学者、児童文学者。法政大学名誉教授。明治大学文学部教授もつとめた。日本芸術院会員。
大久保 作次郎(おおくぼ さくじろう、1890年〈明治23年… 大久保 作次郎(おおくぼ さくじろう、1890年〈明治23年〉11月24日 - 1973年〈昭和48年〉2月28日)は、洋画家、日本芸術院会員。 旧姓は氏原。大阪府泉北郡山滝村(現在の岸和田市内畑町)に生まれ、大阪市で育つ。旧制岸和田中学校(現在の岸和田高等学校)に入学するが、3年のとき、母が亡くなったため大阪市に戻り、桃山中学校に転入する。1911年に叔父の大久保家を継いだ。 東京美術学校西洋画科で黒田清輝に学ぶ。同級に鍋井克之がいた。在学中に文展に初入選。卒業後も同校研究科に進み、1918年修了。1916年-1918年文展特選。1923年には渡仏して以後4年間をヨーロッパで過ごす。1935年多摩美術大学教授。
中村 白葉(なかむら はくよう、1890年11月23日 - … 中村 白葉(なかむら はくよう、1890年11月23日 - 1974年8月12日)は、ロシア文学者。
中薗 盛孝(なかその もりたか、1890年〈明治23年〉11… 中薗 盛孝(なかその もりたか、1890年〈明治23年〉11月22日 - 1943年〈昭和18年〉9月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県川辺郡、のちの川辺町(現南九州市)で、役場書記・中薗平左衛門の三男として生まれる。川辺中学を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第6連隊付となる。1915年(大正4年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。大阪砲兵工廠員、陸士生徒隊付などを経て、1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。翌月、野砲兵第6連隊中隊長に就任。 1923年(大正12年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、第15師団参謀、第3師団参謀、陸軍野戦砲兵学校教官を歴任し、1927年(昭和2年)7月、砲兵少佐に昇進。
米山 治(よねやま はる、1890年11月21日 - 196… 米山 治(よねやま はる、1890年11月21日 - 1968年1月)は、日本の銀行員、作詞家。島根県出身。本名は米山 豊蔵(よねやま とよぞう)。 1890年(明治23年)、島根県神門郡杵築町(現在の出雲市大社町)の旧家に生まれる。1907年(明治40年)に京都市立商業実修学校を卒業し、大阪の三十四銀行へ入行。京橋、次いで神田支店長に就いた。三十四銀行は1933年(昭和8年)に鴻池・山口の両行と合併して三和銀行(現在の三菱UFJ銀行)となり、船場支店長を経て天満、朝日橋、中央市場支店長を歴任する。 定年退職後は島根へ帰郷し悠々自適の生活を送っていたが、1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約発効記念事業として島根県が懸賞募集を行った県民歌で応募作「薄紫の山脈」が宮田隆の応募作「青い空なら」と並んで準入選で採用された。
上沢 謙二(うえざわ けんじ、1890年11月21日 - 1… 上沢 謙二(うえざわ けんじ、1890年11月21日 - 1978年7月7日)は、日本の児童文学者童話作家教育者である。 1890年に栃木県上都賀郡東大芦村(現 鹿沼市)に生まれる。地元の引田尋常小学校および高等科を卒業して上京。日本銀行に見習いとして採用される。1907年、日本基督教団日本橋教会で洗礼を受け、以後、キリスト者の道を歩む。1919年に結婚した後に日本銀行を退職、アメリカ合衆国へ留学する。1923年にワシントン州立大学教育学部卒業後、帰国。子供之友編集主任、日本キリスト教文化協会長などを歴任する。1938年、洗足幼稚園の経営を引き継ぐが、戦局の悪化に伴い1944年に休園。やがて1945年3月の東京大空襲により幼稚園が焼失し、郷里に疎開させていた家族のもとへ戻る。
日下 辰太(くさか たつた、1890年〈明治23年〉11月1… 日下 辰太(くさか たつた、1890年〈明治23年〉11月19日 - 没年不詳)は、日本の農商務官僚。関東州官僚。台湾総督府官僚。 岡山県出身。日下謙太の長男。1916年(大正5年)、東京帝国大学法学部独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。農商務属、臨時産業調査局事務官、水産局書記官、水産講習所教授、水産局事務官・農商務局書記官、農商務参事官、特許局事務官、法制局参事官、商工書記官、関東庁事務官・長官官房文書課長、同内務局殖産課長、同内務局長、関東局司政部長、台中州知事などを歴任した。 1936年(昭和11年)に退官した後、台湾拓殖株式会社理事に就任。その他、星規那産業株式会社代表、台湾単寧興業株式会社代表、台湾畜産興業株式会社取締役、南日本化学工業株式会社取締役、台湾産金株式会社取締役、南日本塩業株式会社取締役、台湾通信工業株式会社取締役、台湾石炭株式会社取締役などを務めた。
小高 長三郎(おだか ちょうざぶろう、1890年(明治23年… 小高 長三郎(おだか ちょうざぶろう、1890年(明治23年)11月19日 – 1958年(昭和33年)3月26日)は、衆議院議員(立憲政友会)、外務参与官。ジャーナリスト。 千葉県武射郡蓮沼村(現在の山武市)出身。1910年(明治43年)、大倉商業学校(現在の東京経済大学)を卒業。自由通信社に入社し、外交部長、支配人、社長を歴任した。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、第21回衆議院議員総選挙まで4回連続当選を果たした。その間、米内内閣で外務参与官を務めた。 大政翼賛会の推薦議員のため公職追放となった。 また『立憲政友会史』『立憲政友会報国史』の編纂に携わった。
11代 池本 甚四郎(いけもと じんしろう、1890年(明治… 11代 池本 甚四郎(いけもと じんしろう、1890年(明治23年)11月18日 - 1964年(昭和39年)1月30日)は、大正から昭和期の農業経営者、醸造家、政治家。衆議院議員、京都府会議長、京都府久世郡小倉村長、宇治市長。旧名・嘉一郎、号・水也。 京都府久世郡小倉村大字小倉小字久保(現宇治市小倉町)で、素封家の10代池本甚四郎、静の長男として生まれる。小倉尋常小学校(現宇治市立小倉小学校)、久世郡組合高等小学校、伏見彰徳高等小学校、府立京都第二中学校(現京都府立鳥羽高等学校)を経て、1913年(大正2年)3月、山口高等商業学校を卒業した。卒業後、家業の醤油醸造業に従事した。1920年(大正9年)4月、京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)教諭に就任し、また宇治に設立された夜間中学の教師も務めた。
渡辺 素舟(渡邊 素舟、わたなべ そしゅう、1890年11月… 渡辺 素舟(渡邊 素舟、わたなべ そしゅう、1890年11月16日 - 1986年1月16日)は、工芸研究者。 愛知県西春日井郡新川村(現・清須市)出身。本名は清重郎。1916年東洋大学専門部哲学科卒。1931年帝国美術学校講師、多摩帝国美術学校教師、1939年東京高等工芸学校講師、1948年多摩造形芸術専門学校教授。1953年校名変更で多摩美術大学教授、1965年定年退任、名誉教授。1961年「東洋文様史の研究」で東洋大学文学博士。日本工芸会評議員。東洋に伝わる建造物や工芸品、着物の文様を系統的に研究した先駆者。
鈴木 義尾(すずき よしお、1890年(明治23年)11月1… 鈴木 義尾(すずき よしお、1890年(明治23年)11月15日 - 1944年(昭和19年)11月21日)は、日本の海軍軍人。海軍中将。前名は義雄。主な軍歴を第二艦隊に歩み、太平洋戦争において軍令部第二部長、第三戦隊司令官を歴任。マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に参戦し、台湾沖で乗艦「金剛」 の沈没時に戦死した。 山形県出身。新庄中学を経て、海軍兵学校40期を卒業。席次は144名中29番。鈴木は海軍大学校航海学生を修了した航海科専攻士官で、重巡洋艦「加古」など4艦の航海長を務めた。 大尉で第一艦隊参謀を務め海大甲種23期を修了。高木武雄、角田覚治、田結穣らが同期生である。中佐時代は欧米出張を経て、日本海軍の前進部隊である第二艦隊の参謀に就任。
坪山 徳弥(徳彌、つぼやま とくや、1890年(明治23年)… 坪山 徳弥(徳彌、つぼやま とくや、1890年(明治23年)11月15日 – 1970年(昭和45年)12月28日)は、大正から昭和期の農業指導者、政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)、栃木県河内郡姿川村長。栃木県を代表する戦後昭和期の農業指導者。 栃木県河内郡姿川村下欠(現宇都宮市)で、坪山弥重、トモの二男として生まれる。1910年(明治43年)栃木県立宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)を卒業した。 その後、家業の農業に従事。徴兵され、その後、陸軍砲兵中尉に昇進し、帝国軍人教育会地方委員、帝国在郷軍人会姿川分会長、同河内郡連合分会長などを務めた。また、地方森林会議員、栃木県馬匹畜産組合連合会副会長、同養蚕組合連合会副会長などにも就任した。
崎山 武夫(さきやま たけお、1890年(明治23年)11月… 崎山 武夫(さきやま たけお、1890年(明治23年)11月15日 - 1934年(昭和9年)5月11日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→立憲政友会)、鉄道官僚、ジャーナリスト。 鹿児島県鹿児島市に竪山吉太郎の二男として生まれ、崎山賢輔の養子となった。一年志願兵制度によって陸軍歩兵中尉に任じられ、1920年に中央大学経済学部を、翌年に日本大学法律科を卒業した。鉄道局書記、鉄道属、鉄道省嘱託を経て、やまと新聞記者となった。 1928年の第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、3回連続当選を果たした。その他、南九州窯業株式会社取締役も務めた。墓所は多磨霊園(11-1-11-8)
和田 清(わだ せい、1890年11月15日 - 1963年… 和田 清(わだ せい、1890年11月15日 - 1963年6月22日)は、大正後期から昭和前期にかけての東洋史学者。 1890年、神奈川県高座郡鶴嶺村(現在の茅ヶ崎市)の豪農の家に生まれた。第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科東洋史学専攻に進学。1915年に卒業し、同大学大学院に進んだ。 大学院修了後は、中央大学予科および東京帝国大学講師となった。1924年に留学を命じられ、欧米や中華民国に留学。帰国の翌年の1927年に東京帝国大学助教授に昇格。折りしも、留学中に東京帝国大学における東洋史学の基礎を築いた白鳥庫吉・市村瓚次郎が定年退官を迎え、世代交代の最中にあった。和田は池内宏・加藤繁とともに新しい東洋史学科の中心的な地位に立つことになった。
富田 砕花(とみた さいか、1890年11月15日 - 19… 富田 砕花(とみた さいか、1890年11月15日 - 1984年10月17日)は、日本の詩人、歌人。校歌や市町歌の作詞など、旺盛な詩作活動を行なったことから「兵庫県文化の父」と称される。 岩手県盛岡市生まれ。本名・戒治郎。日本大学殖民科卒業。1902年に上京し、同年12月から会計検査院に勤める。1908年、与謝野寛と与謝野晶子の新詩社に加わり、石川啄木とともに歌会に参加する。以来、啄木に思想的な影響を受け、啄木の死に際してエッセイを発表した。 1912年、歌集『悲しき愛』を出版する。その前後にホイットマンやエドワード・カーペンターの訳詩集を刊行し、彼らの詩を日本に初めて紹介した。1915年、最初の詩集『末日頌』を上梓。
上山 市郎兵衛(うえやま いちろうべえ、前名・市三郎、189… 上山 市郎兵衛(うえやま いちろうべえ、前名・市三郎、1890年〈明治23年〉11月13日 - 没年不明)は、日本の実業家。元内外除虫菊会長。上山殖産代表取締役。和歌山県多額納税者。大日本除虫菊の創業者上山英一郎は養叔母ゆきの夫。 和歌山県有田郡保田村(現・有田市)出身。先代・市郎兵衛の長男。先代・市郎兵衛は南海水力電気を起こした。1922年、家督を相続し、前名・市三郎を改め襲名する。 祖業を継ぎ農業を営み、傍ら上山殖産会社を創立する。上山殖産社長、南海水力電気社長、関西配電理事、南海工業会長、内外除虫菊会長を務めた。 人となりは、朗らかな明るい紳士である。先代・市郎兵衛より、父子共に社会公共に尽した。
上野 基三(うえの きぞう、1890年(明治23年)11月8… 上野 基三(うえの きぞう、1890年(明治23年)11月8日 - 1953年(昭和28年)12月11日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 栃木県芳賀郡中村(現在の真岡市)に栃木県会議員上野大太郎の三男として生まれた。真岡中学校、第一高等学校を経て、1916年(大正5年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。西沢金山株式会社社員、第一生命保険相互会社社員、下野電力株式会社支配人、野州電気株式会社専務取締役などを務めた。その後、弁護士を開業し、栃木県会議員に選出された。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第18回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。
永瀬 寅吉(ながせ とらきち、1890年(明治23年)11月… 永瀬 寅吉(ながせ とらきち、1890年(明治23年)11月5日 - 1965年(昭和40年)7月17日)は、日本の実業家・政治家。貴族院多額納税者議員、埼玉県川口市長(第3代)。 埼玉県北足立郡川口町(現:川口市)で、川口町長・鋳物業、永瀬庄吉の長男として生まれる。1909年、埼玉県立浦和中学校卒業後に東京高等工業学校を修了した。 1912年以降、永瀬鉄工所管理者、川口商工会議所会頭、川口鋳物工業組合理事などを務めた。 1933年、川口市の市制施行に伴い市会議員に就任し、初代議長を務めた。1935年7月1日、第3代川口市長に就任し、1938年4月1日まで在任。その他、埼玉県産業報国会副会長、大政翼賛会埼玉県支部参与などを務めた。
矢代 幸雄(やしろ ゆきお、1890年11月5日 - 197… 矢代 幸雄(やしろ ゆきお、1890年11月5日 - 1975年5月25日)は、日本の美術史家、美術評論家である。音楽家矢代秋雄は長男。秋雄の長女(孫)は古代ギリシア美術史研究者平山東子。妻の弟が木村健二郎。 横浜で讃岐高松藩元藩士の矢代宗勝と神戸出身の美佐の長男に生まれる。父は初め塗物屋を開業、のち商館番頭をしていた。横浜商業学校に進んだが、算盤が苦手で神奈川県立第一中学校に転校し、第一高等学校英法科を経て東京帝国大学法科大学に入学したが、文科大学英文科に転じ、1915年に卒業。一高時代から大下藤次郎主宰の日本水彩画研究所に通い、大学時代には第7回文展に入選。実家があまり裕福でなく、自作の水彩画を売ったり美術書の翻訳をしたりして学費の足しにしていたが、成績優秀で学資免除の特待生になった。
小林 篤一(こばやし とくいち、1890年(明治23年)11… 小林 篤一(こばやし とくいち、1890年(明治23年)11月5日 - 1972年(昭和47年)11月23日)は、大正・昭和期の産業組合活動家、政治家。参議院議員(1期)。ホクレン農業協同組合連合会の創立者とされる。 兵庫県城崎郡、のちの日高町(現豊岡市)で生まれる。8歳で北海道に移住し、現在の岩見沢市峰延町で農業を営む。1914年(大正3年)峰延産業組合(現峰延農業協同組合)を設立し理事に就任し、組合長を30年務めた。1919年(大正8年)北海道信用購買販賣組合聯合會(北聯、現ホクレン農業協同組合連合会)を設立し理事に就任。1936年(昭和11年)北聯会長に就任。北海道食糧営団理事長、同農業会長、同青果物配給公社社長、北海道販売農協連会長、道購買農協連合会会長、道農協中央会会長、全販連理事、全購連理事などを歴任。
山川 菊栄(やまかわ きくえ、旧字体: 山川 菊榮、1890… 山川 菊栄(やまかわ きくえ、旧字体: 山川 菊榮、1890年〈明治23年〉11月3日 - 1980年〈昭和55年〉11月2日)は、日本の婦人問題評論家・研究家、社会主義者、労働運動家、婦人運動家である。戦前、公娼制度の廃止、女性労働者の地位向上、古い家族制度の批判、社会主義フェミニズムの理論化、女性社会主義者の組織化などを展開。アウグスト・ベーベルの『婦人論』の最初の完訳者としても有名。戦後も、女性運動、婦人労働運動の理論的指導者として活動し、労働省の初代婦人少年局長をつとめた。 東京府東京市麹町区四番町(現:千代田区九段北)生まれ。旧姓は森田、後に青山姓となる。夫は山川均。息子は山川振作。 1916年、『青鞜』1月号に、「日本婦人の社会事業に就て伊藤野枝氏に與ふ」を発表し、『青鞜』1915年12月号に発表された伊藤野枝の論文「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業に就て」を批判した。