菊池俊吉(きくち しゅんきち、1916年5月1日 - 199… 菊池俊吉(きくち しゅんきち、1916年5月1日 - 1990年11月5日)は日本昭和時代の写真家である。 1916年(大正5年)、岩手県花巻市御田屋町生まれ。1937年(昭和12年)、オリエンタル写真学校を卒業後、1938年(昭和13年)東京光芸社写真部に入社し、報道写真家として始まり。1941年(昭和16年)岡田桑三が設立した東方社写真部に入社、1942年(昭和17年)2月に創刊された陸軍参謀本部の対外宣伝グラフ誌『FRONT』の写真部員となる。戦時中、日本本土及び外地の部隊、産業記録撮影など幅広く活躍した。 1945年(昭和20年)敗戦後、解散の東方社スタッフは文化社として再建。同年9月、文部省の学術調査団のもとで原爆被災地の医療状況を記録映画撮影、スチール写真担当として医学班に属し、10月1日~10月22日被爆後の広島を撮影。
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猪俣 甚弥(いのまた じんや、1916年(大正5年)4月30… 猪俣 甚弥(いのまた じんや、1916年(大正5年)4月30日 - )は、日本の陸軍軍人。陸軍中野学校1期生で、ポツダム宣言受諾後の皇統護持作戦に参加し、「本丸」計画の責任者であった。最終階級は陸軍少佐。 福島県若松市(現会津若松市)に生まれる。1934年(昭和9年)会津中学を卒業し二高に進学したが、学費滞納で中退する。1937年(昭和12年)歩兵第29連隊に入隊し、翌年には歩兵学校で通信を専攻した。 この1938年(昭和13年)7月には、秋草俊や岩畔豪雄らが中心になり陸軍中野学校の前身である後方勤務要員養成所が設立される。猪俣は騎兵学校の推薦で、養成所の入所試験に合格した。事前の知識としては情報関係の仕事である程度しかなく、入所後に長期海外勤務要員と知らされる。
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昆布 猛(こんぶ たけし、1916年4月30日 - 2001… 昆布 猛(こんぶ たけし、1916年4月30日 - 2001年12月16日)は、日本の経営者。三楽オーシャン(現在のメルシャン)社長、会長を務めた。福井県出身。 1938年に東京外国語大学中国語学科を卒業し、同年に味の素に入社した。1967年11月に取締役に就任し、1969年11月に常務、1973年10月に専務、1979年6月に三楽オーシャン副社長を経て、1985年3月に社長に就任した。1987年3月に会長を経て、1988年3月には相談役に就任。 2001年12月16日肺炎のために死去。85歳没。
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春田 正治(はるた まさはる、1916年4月29日 - 20… 春田 正治(はるた まさはる、1916年4月29日 - 2005年7月24日)は、日本の教育学者、教育者。和光学園理事長を務めた。 愛知県生まれ。東京文理科大学教育科卒。山梨教育研究所、1952-68年和光学園校長、和光大学人文学部教授、1983-97年和光学園理事長。全国生活指導研究協議会、日本生活教育連盟。社会科および生活指導について実践・研究した。
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北爪 利世(きたづめ りせい、1916年4月28日 - 20… 北爪 利世(きたづめ りせい、1916年4月28日 - 2004年6月30日)は、日本クラシック音楽界の草分け的クラリネット奏者で、その黎明期から長年にわたり第一人者の一人として演奏・教育など多方面において重要な役割を果たした。 旧制成城学園オーケストラでクラリネットを始め、同時に成城合唱団に属して新交響楽団(現・NHK交響楽団)とも共演する。同窓に作曲家の柴田南雄などがいる。 1937年に東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)入学。同級生には千葉 (後の川崎) 静子、佐々木成子、中山悌一、栗本正、高田信一、中田一次、中山冨士雄らがいた。1943年に卒業後、東京放送管弦楽団、東京都フィルハーモニー管弦楽団(現・東京フィルハーモニー交響楽団)を経て、東宝交響楽団(現・東京交響楽団)首席奏者を務める。
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宮崎 要(みやざき かなめ、1916年4月27日 - 196… 宮崎 要(みやざき かなめ、1916年4月27日 - 1965年6月17日)は、佐賀県出身のプロ野球選手(内野手)、(監督)。
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瀬田 貞二(せた ていじ、1916年4月26日 - 1979… 瀬田 貞二(せた ていじ、1916年4月26日 - 1979年8月21日)は、日本の児童文学作家・翻訳家・児童文学研究者。 東京市本郷区(現:東京都文京区)湯島切通坂町にて父・瀬田金之助と母・余寧の息子として生まれる。1939年、俳人中村草田男に師事。本郷尋常小学校、開成中学校、東京高等学校を経て、1941年、東京帝国大学国文科卒業。同1941年、東京府立第三中学校(のちの、都立両国高校)の夜間部の教諭となる。 1942年、千葉県立国府台陸軍病院の衛生兵となる。1945年の終戦後、東京府立第三中学校に復職し、同年の秋、結婚。 戦後、東京府立第三中学校夜間部教師のかたわら、余寧金之助の筆名で児童文学作品を雑誌に寄稿。
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西郷 準(さいごう ひとし、1916年4月25日 - 194… 西郷 準(さいごう ひとし、1916年4月25日 - 1945年5月28日)は、鹿児島県鹿児島市出身の元アマチュア野球選手。 西郷菊次郎(元・京都市長)の7男7女のうち六男として出生する。西郷隆盛の孫にあたる。鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高、28回卒)を経て立教大学へ進学、東京六大学野球で活躍し神宮球場を沸かせた。 二中に進学すると野球部へ入った。準が1年次の1930年、二中野球部は当時の全国中等学校優勝野球大会に出場し、全盛期を迎えていた。当時は九州から南北それぞれ1校のみ出場でき、全国(甲子園)大会出場は難関だった。1932年には準の2年先輩かつ立教大学野球部でも先輩で、大洋ホエールズ投手・コーチとなる有村家斉がエースとして活躍したが、当時準は遊撃手であった。
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谷長 茂(たになが しげる、1916年4月25日 - 198… 谷長 茂(たになが しげる、1916年4月25日 - 1981年11月22日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。元中央大学教授。 旧制第三高等学校から東京帝国大学文学部仏文科卒、学習院大学講師をへて1954年に中央大学商学部助教授となり、62年教授となった。パリ・コミューンの研究で知られ、三高寮歌「沫雪流れ」の作詞者。妻・静枝は女子美術大学卒で、洋画家グループの旺玄会に所属する画家。1981年11月22日夜、船橋市の自宅から出火して全焼、夫婦ともに死去した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
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小林 邦二(こばやし くにじ、1916年〈大正5年〉4月25… 小林 邦二(こばやし くにじ、1916年〈大正5年〉4月25日 ‐ 2010年〈平成22年〉4月5日)は、日本の洋画家。 長野県小県郡県村(現東御市)に生まれた。少年時代から画家にあこがれ、当時上田市に住む倉田白羊に洋画の手ほどきを受けた。 邦二は高等小学校を卒業後、16歳で兄・啓三と上京し、日本橋通郵便局に勤めながら、中村不折経営の太平洋美術学校選科へ入学した。 1934年(昭和9年)1月、昭和10年1月、太平洋画会展覧会に連続入選。1935年(昭和10年)2月、東光会洋画展覧会に『E君の像』を出品し入選。同年3月、太平洋美術学校選科を修了すると、阿以田治修に師事した。兄弟子に松本竣介、須田寿がおり、阿以田邸に出入りしていた。
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永田 禎彌(ながた よしひろ、1916年4月24日 - 20… 永田 禎彌(ながた よしひろ、1916年4月24日 - 2008年6月24日)は、洋画家。兵庫県尼崎市出身。兵庫県三木市にて死去。
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太田 文平(おおた ぶんぺい、1916年4月24日 - 19… 太田 文平(おおた ぶんぺい、1916年4月24日 - 1999年7月6日)は、経営学者、寺田寅彦研究者。 静岡県生まれ。1938年名古屋高等商業学校(現・名古屋大学経済学部)卒業。日立製作所に入社。1976年退社、日本大学経済学部教授。1986年定年、名古屋商科大学教授。1989年退任。1999年、くも膜下出血のため死去。 本業で多くの著書を著すかたわら、寺田寅彦などの科学者文学者の研究もおこなった。
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チャールズ・アルフレッド・フィッシャー(Charles Al… チャールズ・アルフレッド・フィッシャー(Charles Alfred Fisher、1916年4月23日 - 1982年7月1日)は、イギリスの地理学者。ロンドン大学教授、東亜及びアフリカ研究所所長を歴任。 英国ノッティンガムシャーのアッテンバラ(Attenborough)生まれ。ケンブリッジ大学卒業。同大学大学院修士課程修了。さらにオックスフォード大学大学院修士課程修了。レスター大学を経てロンドン大学(University of London School of Oriental and African Studies)教授に就任。 第二次世界大戦中には東南アジアの現地調査中に現地で応召。その後、日本軍の捕虜となる。
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亀川 正東(かめかわ しょうとう、1916年4月22日 ‐ … 亀川 正東(かめかわ しょうとう、1916年4月22日 ‐ 2018年1月13日)は、日本の英米文学者、文筆家、琉球大学名誉教授。 沖縄県平良市生まれ。1940年早大高等師範学校英文科卒、東京中野高等無線学校英語教官。 1946年宮古男子高等学校教官。1947年宮古英語教員養成所長。1948年宮古女子高等学校教官。1949年沖縄文教学校教官。50年琉球大学英語部助教授、コロラド大学大学院。 1953年琉球政府文教審議員、59年琉球政府中央教育委員。60年琉球大学文理学部教授、法文学部教授。 1975年中華民国・中華学術院より「沖縄の英学、米国文学におけるクリティシズムについて」で文学博士。 1981年定年退官、名誉教授。
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島村 洋二郎(しまむら ようじろう、1916年4月21日 -… 島村 洋二郎(しまむら ようじろう、1916年4月21日 - 1953年7月29日)は、日本の画家。 戦後、クレパス画で作品を描いた。長い間忘却されていたが、現代画廊の洲之内徹に見いだされた。 東京市牛込区中町(現・東京都新宿区)に島村忠次郎、小千代の二男として生まれる。祖父は貴族院勅選議員や錦鶏間祗候などを務めた仁尾惟茂。東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)に進学し、在学中は同人誌『路』を友人たちと作成した。中学2年生の時には箏楽家の宮城道雄が隣家に転居した。 1935年に浦和高等学校に入学するも、同年秋には、画家を目指して退学した。1936年頃より里見勝蔵に師事する。日本の古い文化に学ぶことを教示され、京都、奈良へ赴く。
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大村 喜吉(おおむら きよし、1916年4月21日 - 20… 大村 喜吉(おおむら きよし、1916年4月21日 - 2003年2月19日)は、英語教育史の研究者、埼玉大学名誉教授。
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池浦 喜三郎(いけうら きさぶろう、1916年(大正5年)4… 池浦 喜三郎(いけうら きさぶろう、1916年(大正5年)4月21日 - 1998年(平成10年)11月9日)は、日本の銀行家。日本興業銀行(現:みずほフィナンシャルグループ)頭取、同会長を歴任し、中山素平後の興銀で一時代を築いた。 和歌山県出身。1939年(昭和14年)東京帝国大学法学部を卒業し、日本興業銀行に入行。取締役名古屋支店長、常務取締役、副頭取を経て、1975年(昭和50年)第4代興銀頭取に就任。頭取時代には、それまでの国内における重厚長大産業向け中心であった興銀の融資を転換し、海外支店網を拡大し、興銀の国際化路線を強力に推進した。こうして興銀は海外のリゾート施設建設や第二パナマ運河構想などを手がけることとなる。
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亀井 正夫(かめい まさお、1916年4月20日 - 200… 亀井 正夫(かめい まさお、1916年4月20日 - 2002年6月23日)は、日本の実業家。住友電気工業元社長、会長。関西国際空港株式会社元会長。住友老壮会会長。社会経済生産性本部元会長。国鉄再建監理委員会委員長。政治改革推進協議会会長。「新しい歴史教科書をつくる会」の賛同者。新しい日本をつくる国民会議元会長。勲一等旭日大綬章受章。 1916年兵庫県神戸市生まれ。旧制第一神戸中学校から岡山の旧制第六高等学校を経て1939年東京帝国大学法学部卒業。同年住友本社入社。1946年住友電気工業入社。1973年社長、1982年会長を経て1991年相談役に就任。1992年日本生産性本部会長。2001年より住友老壮会会長となる。
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守分 勉(もりわけ つとむ、旧姓藤井、大正5年(1916年)… 守分 勉(もりわけ つとむ、旧姓藤井、大正5年(1916年)4月19日 - 平成12年(2000年)8月16日)は、日本の銀行家。元中国銀行頭取・会長。 中国地方各地で、税務署長を務めた地主藤井宇一郎の5男として、広島県深安郡千田村(現福山市)で生まれる。 京都帝大卒後、神戸海上保険勤務を経て守分家の婿養子となる。 1948年(昭和23年)中国銀行入行。支店長、役員等歴任。義父である守分十の死去に伴い、頭取に就任する。 頭取在任時は、自主健全経営を堅持したほか、時代に即応した経営戦略を打ち出し人事諸制度の整備、改革の実施、事務管理体制の強化、店舗網の整備拡充、総合オンライン体制への移行や相次ぐ関連会社の設立などの施策を講じた。
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池田 一郎(いけだ いちろう、1916年4月19日 - 20… 池田 一郎(いけだ いちろう、1916年4月19日 - 2000年4月22日 )は、日本の経営者。大和銀行頭取を務めた。 大阪府大阪市出身。1941年に大阪商科大学を卒業し、同年に大和銀行に入行。1968年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1975年5月に副頭取に就任し、1977年4月に頭取に就任。1984年6月に取締役相談役に就任し、1986年6月に相談役を経て、1998年4月から顧問を務めた。 大阪銀行協会会長、朝日放送監査役、西日本旅客鉄道非常勤取締役を歴任。 1981年11月に藍綬褒章を受章し、1986年11月に勲二等旭日重光章を受章。 2000年4月22日肺炎により、大阪市の病院で死去。
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浅野 賢澄(あさの よしずみ、1916年〈大正5年〉4月19… 浅野 賢澄(あさの よしずみ、1916年〈大正5年〉4月19日 - 1997年〈平成9年〉7月31日)は、日本の官僚、実業家。郵政事務次官、フジテレビジョン社長、日本民間放送連盟第5代会長を務めた。岐阜県出身。 京都帝国大学法学部卒業後、逓信省入省。経理局に配属される。短期現役海軍主計科士官(5期)を志願し、1940年(昭和15年)9月に海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。1941年(昭和16年)1月に経理学校を卒業。工作艦明石に配属され、以後、海南警備府司令部付副官事務、舞鶴海軍航空隊主計長兼副官、第31航空廠会計科長、第三南遣艦隊司令部付、第33警備隊主計長兼副官を歴任。ミンダナオ島の戦いで辛酸をなめた。
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高橋 展子(たかはし のぶこ、1916年4月19日 - 19… 高橋 展子(たかはし のぶこ、1916年4月19日 - 1990年9月25日)は、日本の昭和期の労働官僚、評論家。旧姓は富田。建築家の富田玲子は娘。 旧満洲長春に生まれる。1929年3月、長春西広場尋常小学校を卒業。長春高等女学校から、大連神明高等女学校に転校した。1933年(昭和8年)、東京女子大学英語専攻部に入学。当初、別の大学に入学したが、どうにも合わず2日で退学し、合格していた東京女子大学に1週間遅れで入学した。卒業後、直ぐに結婚し、医師の夫(道也)との間に1女2男をもうけた。娘は、建築家の富田玲子。 1943年の春に夫が召集され、旧満洲の陸軍病院へ。同年冬に5歳の長男を連れ満洲にわたるも、夫は南方へ転進。
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原田 文也(はらた ぶんや、1916年〈大正5年〉4月18日… 原田 文也(はらた ぶんや、1916年〈大正5年〉4月18日 - 2000年〈平成12年〉12月12日)は、昭和から平成初期の政治家。長野県茅野市長。 長野県諏訪郡玉川村(現茅野市)で、原田浜三郎、なか の二男として生まれた。早稲田大学商学部聴講生(講義録)修了。1932年(昭和7年)伊勢丹に入社し、その後、2年間兵役に就いた。1940年(昭和15年)日立航空機に移り、1945年(昭和20年)玉川村役場に入り、1852年(昭和27年)収入役に就任。1955年(昭和30年)合併で茅野町収入役となる。茅野市発足後、1958年(昭和33年)収入役、1963年(昭和38年)助役となる。1967年(昭和42年)に退職し、東洋精機興業に入社し事業部副部長に就任。
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齊藤 了英(さいとう りょうえい、1916年(大正5年)4月… 齊藤 了英(さいとう りょうえい、1916年(大正5年)4月17日 - 1996年(平成8年)3月30日)は、日本の実業家。大昭和製紙(現・日本製紙)名誉会長。「東海の暴れん坊」の異名をとった。大昭和製紙創立者斉藤知一郎の長男。 齊藤知一郎の長男として静岡県に生まれた。 静岡県立沼津中学校を経て、1938年(昭和13年)に早稲田大学専門部商科、1941年(昭和16年)に日本大学専門部法科をそれぞれ卒業(旧制大学専門部は、旧制専門学校に相当)。父・知一郎が創業した大昭和製紙(現・日本製紙)に入社。取締役・専務・副社長を歴任。1961年(昭和36年)父の死後、2代目社長に就任。 1980年(昭和55年)から1981年(昭和56年)にかけて大昭和は過剰投資、過剰在庫、過剰借り入れにより経営危機に陥った。
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相京 昌信(あいきょう まさのぶ、1916年4月17日 - … 相京 昌信(あいきょう まさのぶ、1916年4月17日 - 1991年12月28日)は、日本の経営者。住友倉庫社長、会長を務めた。愛知県出身。位階は従四位。 1941年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に住友倉庫に入社。1966年11月に取締役に就任し、1971年5月に常務を経て、1974年11月に専務に就任し、1976年6月に社長に昇格。1981年6月に会長を経て、1987年6月取締役相談役を経て、1989年6月には相談役に就任。 1980年11月に藍綬褒章を受章し、1986年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1991年12月28日呼吸不全のために死去。75歳没。死没日付をもって従七位から従四位に進階した。
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勝守 すみ(かつもり すみ、1916年4月16日 - 198… 勝守 すみ(かつもり すみ、1916年4月16日 - 1982年3月17日)は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。 富山県富山市生まれ。富山県立富山高等女学校を経て、1937年に奈良女子高等師範学校文科を卒業し、金蘭会高等女学校教諭。1938年に富山市立富山高等女学校教諭となる。1940年東京文理科大学入学。国史学を専攻し、同期に津田秀夫らがいる。1942年に卒業。1943年、群馬師範学校助教授を経て、1946年同校教授。1951年に群馬大学学芸学部講師となり、1953年助教授、1972年に同大学教育学部教授。 勤務地である群馬県の地域史研究に務め、関東長尾氏や太田道灌の研究を進めた。
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鈴木 博章(すずき ひろあき、1916年4月15日 - 19… 鈴木 博章(すずき ひろあき、1916年4月15日 - 1976年9月16日)は、日本の実業家。神戸製鋼所社長を務めた。 京都府京都市出身。1944年に京都帝国大学法学部を卒業し、神戸製鋼所に入社した。総務部長、取締役、常務、専務を経て、1974年5月から副社長を務め、同年11月社長に就任した。 しかし、1976年9月16日在任中に急性心不全により死去。60歳没。
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田代 由紀男 (たしろ ゆきお、1916年4月15日 - 1… 田代 由紀男 (たしろ ゆきお、1916年4月15日 - 1997年8月22日)は日本の政治家。参議院議員(3期)。熊本県天草郡河浦町(現天草市)出身。東亜同文書院大学卒業。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
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上田 修一郎(うえだ しゅういちろう、1916年〈大正5年〉… 上田 修一郎(うえだ しゅういちろう、1916年〈大正5年〉4月15日 - 1973年〈昭和48年〉5月11日)は、日本の戦史研究家、軍人。防衛大学校教授を歴任。戦中に軍事史と出会って以来研究し、近世を中心とした体系的な軍事思想書を執筆した。 高知県吾川郡春野村(現・高知市)出身。1936年(昭和11年)、高知高等学校文科乙類卒業後、東京大学文学部西洋史科に入学し、林健太郎が研究室の副手をしていたため、上田と親交をそれ以来持つ。1939年(昭和14年)、東京大学大学院に進学し、参謀本部の委嘱により大場弥平少将(但し当時は予備役になっていた)の指導を受ける。この頃から軍事史を研究し始め、軍務に服して陸軍少尉になる。
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品川 不二郎(しながわ ふじろう、1916年4月15日 - … 品川 不二郎(しながわ ふじろう、1916年4月15日 - 2012年3月28日)は、日本の教育心理学者。東京学芸大学名誉教授。 東京文理科大学卒、1962年「知能とpersonality traitsとの構造的関連に関する研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。東京学芸大学助教授、教授、1980年定年退官、名誉教授、洗足学園短期大学教授。1989年勲三等旭日中綬章叙勲。妻の品川孝子も教育学者で、共著も多い。 2012年3月28日に死去した事が親族からの死亡届により判明した。
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二瀬川 政一(ふたせがわ まさいち、1916年4月15日 -… 二瀬川 政一(ふたせがわ まさいち、1916年4月15日 - 1959年8月22日)は、奈良県北葛城郡新庄町(現葛城市)出身で朝日山部屋に所属した大相撲力士。本名は井口 政一(旧姓安川)。最高位は東関脇。身長171cm、体重128kg。得意手は突っ張り、押し、右四つ、寄り。 1931年5月場所初土俵、その後ゆっくりではあったが着実に昇進し、1940年5月場所新入幕を果たした。二の腕から先の柔軟性を生かした突き押し、右四つからの腰の重い寄りを得意とした。ところがこの場所、横綱双葉山をはじめ上位陣に休場者が多く、相手方の横綱男女ノ川の対戦相手を番付の上から数えていくと、二瀬川にあたってしまったので、13日目、前日まで5勝7敗であったのに対戦が組まれ、敗れて負け越してしまった。
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楠田 浩之(くすだ ひろし、1916年4月14日 - 200… 楠田 浩之(くすだ ひろし、1916年4月14日 - 2008年9月13日)は、日本の撮影技師である。名の読み「ひろゆき」は誤りである。 1916年(大正5年)4月14日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。 旧制・京華中学校(現在の京華高等学校)を卒業する。1934年(昭和9年)、松竹蒲田撮影所に入社、撮影部に配属されて撮影助手となる。小原譲治、厚田雄春らに師事する。1936年(昭和11年)、撮影所が蒲田から新設の松竹大船撮影所に引越し、楠田も異動になる。 1943年(昭和18年)、技師に昇進し、木下恵介監督の第1作『花咲く港』で、木下とともに一本立ちする。また、翌1944年(昭和19年)に木下の妹の芳子(のちに脚本家として活動する)と結婚する。
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小池 千枝(こいけ ちえ、1916年4月14日 - 2014… 小池 千枝(こいけ ちえ、1916年4月14日 - 2014年5月28日)は、日本の教育者、ファッションデザイナー育成者。文化服装学院名誉学院長、文化服装学院10代目学院長、文化女子大学教授、勲四等瑞宝章。 長野県須坂市出身。旧姓は花園。文化裁縫女学校(現:文化服装学院)卒業。 1916年4月14日に長野県須坂市で米穀商を営む父:花園亀(ヒサシ)、母:咲(さく)の第二子長女として生まれる。1933年、須坂高等女学校(現:須坂東高等学校)を卒業後、文化裁縫女学校(現:文化服装学院)本科に入学。1934年に研究科に進み、1935年に研究科卒業と同時に学院に残り教員の道を選び、助手として最年少19歳の「先生」となる。
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南部 泰三(なんぶ たいぞう、1916年4月13日 - 没年… 南部 泰三(なんぶ たいぞう、1916年4月13日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。本名は松角 知己男(まつかど ちきお)。1936年(昭和11年)に大都映画に入社して助監督となり、その後、大毎東日映画部、日本映画社、満洲映画協会を経て、第二次世界大戦後に独立した。1964年(昭和39年)から成人映画を手がけ、黎明期の作家とされる。第八芸術映画プロダクション代表、「亜細亜文化振興会」情報部長を歴任した。 1916年(大正5年)4月13日、長崎県北高来郡湯江村(現在の同県諫早市高来町湯江)に生まれる。叔父に新国劇理事を経て、戦後、東宝取締役、東宝舞台代表取締役社長を歴任した俵藤丈夫(1893年 - 1964年)がいる。
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笠松 実(かさまつ みのる、1916年4月13日 - 197… 笠松 実(かさまつ みのる、1916年4月13日 - 1970年9月16日)は、大阪府出身のプロ野球選手(投手)。
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菅 利雄(かん としお、1916年4月12日 - 没年不明)… 菅 利雄(かん としお、1916年4月12日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(一塁手、三塁手、外野手)。
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高橋 英辰(たかはし ひでとき、1916年4月11日 - 2… 高橋 英辰(たかはし ひでとき、1916年4月11日 - 2000年2月5日)は、福島県福島市出身のサッカー選手、サッカー指導者。サッカー日本代表監督を務め、2009年に日本サッカー殿堂入りした。 刈谷町立亀城小学校(現・刈谷市立亀城小学校)4年の時にサッカーをはじめ、愛知県刈谷中学校(現:愛知県立刈谷高等学校)から早稲田高等学院を経て、早稲田大学に入学。在学中はア式蹴球部に所属した。 1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックの日本代表は、当時日本最強だった早稲田のメンバーを中心に構成されたが、在学中の1940年に開催予定の東京オリンピックは幻となった。大学卒業後の1941年(昭和16年)に日立製作所サッカー部に入り、同年の明治神宮競技大会において実業団の部で準優勝を飾った。
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深水 藤子(ふかみず ふじこ、1916年4月10日 - 20… 深水 藤子(ふかみず ふじこ、1916年4月10日 - 2011年12月18日)は、日本の映画女優である。画家の伊東深水が同芸名の名づけ親で、本名は安田 富士子(やすだ ふじこ、旧姓)。戦前の日活京都の時代劇スター女優であり、戦後は沈黙したが、林海象監督の手によりふたたびスクリーンに登場した。
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木下 忠司(きのした ちゅうじ、1916年4月9日 - 20… 木下 忠司(きのした ちゅうじ、1916年4月9日 - 2018年4月30日)は、日本の作曲家。兄は映画監督の木下恵介。兄が監督した映画の音楽を数多く手掛けた。 妻は元音楽プロデューサーでiLabシリーズを販売するパントロン・ワンの創業者である木下美智子(関根光致子)。 静岡県浜松市生まれ。映画監督として有名な木下恵介の弟で、妹に脚本家の楠田芳子がいた。 静岡県立浜松第一中学校(現:浜松北高等学校)を卒業後、1934年に上京し諸井三郎に音楽理論を学び、武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)で声楽を学ぶ。1940年卒業、新交響楽団(現NHK交響楽団)の機関誌『フィルハーモニー』の編集に携わるが、応召して敗戦まで内地および支那で軍隊勤務する。
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山本 忠敬(やまもと ただよし、1916年4月9日 - 20… 山本 忠敬(やまもと ただよし、1916年4月9日 - 2003年1月14日)は、挿絵画家、アートディレクター。 東京生まれ。東京美術学校工芸科図案部卒業後、東京シネマ漫画映画研究所員、チューデザイングループ主宰。児童文学に関する挿し絵、絵本多数。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
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浅原 直人(あさはら なおと、1916年4月8日 - 198… 浅原 直人(あさはら なおと、1916年4月8日 - 1987年2月1日)は、愛知県出身のプロ野球選手(内野手、外野手)。 愛知一中時代は陸上選手として活躍。卒業後はアマチュア野球の大連実業団でプレーし、愛知県警を経て1936年に名古屋軍へ入団。秋季リーグ途中に大東京軍へ移籍し、翌年は4番打者として活躍した。途中、満州化学工業へ移籍するが、のち朝日軍(大東京から名称変更)でプロに復帰。1943年途中で応召された。戦後の1946年7月に外地から引き上げ社会人野球の強豪チーム熊谷組で選手兼任監督に就任し、2年連続で都市対抗野球にも出場した。1952年に35歳という年齢で東急フライヤーズでプロに復帰し、5番打者として活躍。
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大西 鐵之祐(おおにし てつのすけ、1916年4月7日 - … 大西 鐵之祐(おおにし てつのすけ、1916年4月7日 - 1995年9月19日)は、元早稲田大学教授。大西鉄之祐とも。元ラグビー日本代表監督・早稲田大学ラグビー部監督。奈良・郡山中学、早稲田大学卒業。奈良県奈良市出身。 早大選手時代のポジションはフランカー。卒業後は東芝に就職するも兵役に就き終戦を迎える。戦後、早大職員から教授へ。後に早大ラグビー部監督に就任する。兄の栄造も早大の選手・監督だった。 1950年度シーズンより早大監督に就任。以後5シーズン監督を務め、1950年、1952年、1953年の各年度において東西学生ラグビーフットボール対抗王座決定戦に勝利し、『全国制覇』をもたらした。また、この第1期監督時代に優勝時に「荒ぶる」を歌唱する伝統が始まった。
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大西鐡之祐(おおにしてつのすけ、1916年4月7日 - 19… 大西鐡之祐(おおにしてつのすけ、1916年4月7日 - 1995年9月19日)は元早稲田大学教授。元ラグビー日本代表監督・早稲田大学ラグビー部監督。奈良・郡山中学、早稲田大学卒業。奈良県奈良市出身。
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中村 彰(なかむら あきら、1916年4月7日 - 1969… 中村 彰(なかむら あきら、1916年4月7日 - 1969年12月9日)は、日本の俳優である。本名同じ。 1916年(大正5年)4月7日、東京府北多摩郡巣鴨村大字池袋(現在の東京都豊島区池袋)に、成蹊学園の創設者である中村春二の五男として生まれる。 1929年(昭和4年)、東京高師附属小学校(現在の筑波大附属小)、1934年(昭和9年)に東京高師附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。同級生には澄田智(第25代日本銀行総裁)がいた。旧制第一高等学校(1950年廃止)を経て、東京帝国大学(現在の東京大学)文学部美学科へ進学し、父・春二とほぼ同じ学校歴をたどる。 東京帝国大学在学中から、後に映画監督となる家城巳代治や堀川弘通、同じく後に映画評論家として活躍する登川直樹や清水晶と交流し、1940年(昭和15年)、大学を卒業と同時に東宝に入社した。
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岩井 一成(いわい いっせい、1916年4月6日 - 199… 岩井 一成(いわい いっせい、1916年4月6日 - 1996年1月22日)は、日本の薬学者、薬化学者。父は医学者の岩井誠四郎。 東京出身。1941年(昭和16年)東京帝国大学医学部薬学科を卒業後、同年4月東京帝国大学医学部に奉職、その後4年間にわたる海軍短期現役勤務を経た後、1946年(昭和21年)1月同大学医学部薬化学教室副手に復職、落合英二教授のもとで戦後の薬化学教室の再興に当り、同教室の中心テーマであったヘテロ環化学の発展に貢献した。 1951年(昭和26年)から5年間助教授として九州大学薬学科の建設に参画、津田恭介教授を助けて薬化学教室の基礎を築いた。 1956年(昭和31年)に退職して、三共に入社。
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丸山 儀四郎(まるやま ぎしろう、1916年4月4日 - 1… 丸山 儀四郎(まるやま ぎしろう、1916年4月4日 - 1986年7月5日)は、確率過程論研究の指導者として知られる日本の数学者である。オイラー・丸山法(Euler–Maruyama method)でも知られる。日本学術会議会員、日本数学会理事長。 長野県東筑摩郡上川手村(現安曇野市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、東北帝国大学卒業。昭和16年(1941年)九州帝国大学助手、同25年(1950年)お茶の水女子大学教授、同31年(1956年)九州大学教授、同40年(1965年)東京教育大学教授、同48年(1973年)東京大学教授、同60年(1985年)東京電機大学教授、理学部数理学科長などを歴任した。
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森 和夫(もり かずお、1916年(大正5年)4月1日 - … 森 和夫(もり かずお、1916年(大正5年)4月1日 - 2011年(平成23年)7月14日)は、日本の実業家。東洋水産創業者。静岡県賀茂郡田子村(現在の西伊豆町)出身。静岡県立豆陽中学校(旧制)(後の静岡県立下田高等学校)、水産講習所(現在の東京海洋大学)卒業。 実家は元々漁業を営んでいたが、父の代で冷蔵製氷業に転じ、1919年(大正8年)に田子製氷株式会社(2007年(平成19年)に東洋水産に吸収合併される)を設立し、田子村で冷蔵庫を運営していた。 和夫は水産講習所卒業後水産会社に就職するが、間もなく徴兵され、旅順の陸軍予備士官学校を経て1939年(昭和14年)のノモンハン事件に従軍。所属していた部隊がほとんど全滅に近い被害を受ける中、かろうじて生き残り帰国する。
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中尾 辰義(なかお たつよし、1916年(大正5年)4月1日… 中尾 辰義(なかお たつよし、1916年(大正5年)4月1日 - 2012年(平成24年)12月20日)は、日本の政治家。参議院議員(4期)。 鹿児島県日置郡串木野村(串木野町、串木野市を経ていちき串木野市)下名の後の串木野市元町に生まれる。1930年3月串木野高等小学校卒業。その後大阪市で学び、1936年3月旧制上宮中学校(現上宮高等学校)卒業、1940年3月大阪歯科医学専門学校(現大阪歯科大学)卒業。1940年12月歩兵入隊、1946年6月内地へ復員。1953年4月大阪市東区で歯科医院を開設し、創価学会に入会。 創価学会船場支部長から1957年(昭和32年)4月の参議院大阪府選挙区補欠選挙に創価学会系無所属として出馬したが落選。
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水藤 春夫(みずとう はるお、1916年4月1日 - 199… 水藤 春夫(みずとう はるお、1916年4月1日 - 1991年)は、日本の児童文学者、児童文学研究者。 岡山県生まれ。1939年早稲田大学文学部卒業、中央公論社に入社、児童出版研究課員。48年退社。早大在学中から早大童話会に属し、岡本良雄、町本広、鈴木隆らとともに児童文学の創作、研究を行う。坪田譲治に師事し、「びわの実学校」同人。赤い鳥文学賞選考委員。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
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那須 聖(なす きよし、1916年4月 - 2017年6月)… 那須 聖(なす きよし、1916年4月 - 2017年6月)は、ニューヨーク在住の外交評論家。 大正5年4月、米国カリフォルニア州に生まれる。 6歳の時、東京に移住。翌年、関東大震災を体験。 神戸に移り、関西学院大学で心理学を専攻。 当時から心理学界で異端視されていた霊を研究対象にする超心理学の研究を始める。 卒業後、昭和15年、東京帝国大学航空研究所嘱託として航空心理学の研究に従事。真珠湾奇襲攻撃直後に陸軍に応招。 戦後、毎日新聞社に入社。 昭和27年、コロンビア大学で国際関係論・国際機構論を専攻。 毎日新聞社外信部副部長、ワシントン特派員、ニューヨーク支局長、論説委員を歴任。 退社後、ニューヨークで外交評論家として新聞、雑誌などに寄稿する傍ら、各地で講演を行い、この間、吉田茂首相をはじめ、9名の日本の首相と対談。
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