橘 清治郎(たちばな せいじろう、1850年6月29日(嘉永… 橘 清治郎(たちばな せいじろう、1850年6月29日(嘉永3年9月25日)- 1928年(昭和3年)5月30日)は、明治から大正期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・吉田。 越中国礪波郡中田町(富山県東礪波郡中田町を経て現高岡市)で吉田要蔵の二男として生まれる。射水郡、のちの守山村(現:高岡市)の米穀商・砂紋四郎家に住み込みで奉公し、同村の農業・安右衛門の養子となり、文久2年3月(1862年3-4月)家督を相続。1872年(明治5年)橘姓で戸籍の届け出を行った。 米の仲買人として成功して一代で財産を築いた。越中物産取締役、北越人造肥料取締役、高岡銀行取締役、高田共立銀行監査役なども務めた。
岡田 只治(おかだ ただじ、嘉永3年5月19日〈1850年6… 岡田 只治(おかだ ただじ、嘉永3年5月19日〈1850年6月28日〉 - 大正3年〈1914年〉9月10日)は、日本の実業家・発明家。 嘉永3年(1850年)5月、美濃国山県郡保戸島村大字戸田16(現在の岐阜県関市戸田267)の庄屋の家に生まれた。 故郷は長良川と今川に挟まれており、古くから水害の多い場所だった。1933年(昭和8年)に保戸島橋が架かるまで、渡し舟を用いないと対岸との行き来ができない土地だった。 岡田は自費で用水の開削と堤防の築造を計画し、1880年(明治13年)8月に両者が竣工した。さらに各務用水の開削にも着手し、1891年(明治24年)5月にはほとんど完成に至ったが、同年10月28日の濃尾地震で水路が崩壊した。
小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 19… 小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 1904年(明治37年)9月26日)は、ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、日本民俗学者。東洋と西洋の両方に生きたとも言われる。 出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)。ラフカディオが一般的にファーストネームとして知られているが、実際はミドルネームである。アイルランドの守護聖人・聖パトリックにちなんだファーストネームは、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったといわれる。 日本・東京府豊多摩郡大久保村西大久保
久保田 貫一(くぼた かんいち、1850年6月26日(嘉永3… 久保田 貫一(くぼた かんいち、1850年6月26日(嘉永3年5月17日)- 1942年(昭和17年)6月13日)は、明治期の官僚。県知事、錦鶏間祗候。 但馬豊岡藩士・久保田周輔の三男として豊岡に生まれる。 1879年、外務省に入り書記生となりロンドンに在勤。以後、農商務省・参事院・内務省などの各書記官、兼内務大臣秘書官などを歴任。 1891年4月、埼玉県知事に就任。1892年2月、第2回衆議院議員総選挙において選挙干渉を行った。このため民党から反発が起こり、同年11月、県会において知事不信任案が可決された。久保田は県会の解散を命じて選挙が行われたが、不信任案に賛同した議員のほとんどが再選され、同年12月に久保田は知事を非職となった。
狩野 揆一郎(かのう / かの きいちろう、1850年6月2… 狩野 揆一郎(かのう / かの きいちろう、1850年6月24日(嘉永3年5月15日)- 1893年(明治26年)3月5日)は、明治期の官吏、実業家、政治家。衆議院議員。名・順、名・天佑、号・尚堂、通称・揆一郎。 下総国印旛郡山田村(千葉県印旛郡山田村、六合村、印旛村を経て現印西市)で、豪農、酒醸造業を営む狩野家に生まれた。佐倉の郷儒・島田から学び、さらに江戸の安井海保に師事して漢学を修めた。 廃藩置県後、印旛県から里正、戸長に任じられ、1873年(明治6年)10月、印旛・南相馬郡学区取締に就任。 1876年(明治9年)内務省に出仕し、図書局、戸籍局で勤務した。1880年(明治13年)千葉県に転じ、庶務、学務を担当。
寺井 純司(てらい じゅんじ、1850年6月18日(嘉永3年… 寺井 純司(てらい じゅんじ、1850年6月18日(嘉永3年5月9日)- 1917年(大正6年)11月17日)は、明治期の教育者・政治家(立憲政友会所属)。勲四等。 弘前藩士の子。藩校「稽古館」で国学漢学を修めたのち、藩命により箱館でロシア正教会伝道者ニコライよりロシア語を学び、1869年(明治2年)には慶應義塾で政治学・法律学を修める。南部盛岡藩征討、箱館の乱、賊徒追討で軍功を挙げ藩主より金百を賜る。 その後、教育者として弘前英漢学校英学係、一等教授兼幹事、小学校教員、同校長を務める。また。政治家として土手町会議員、同学区会議員、郡町村連合会議員、同副議長、青森県会議員、同副議長、議長などを歴任。
大浦 兼武(おおうら かねたけ、1850年6月15日〈嘉永3… 大浦 兼武(おおうら かねたけ、1850年6月15日〈嘉永3年5月6日〉- 1918年〈大正7年〉9月30日)は、明治・大正期の日本の内務官僚、政治家。 島根県知事(第10代)、山口県知事(第4代)、熊本県知事(第4代)、宮城県知事(第6代)、警視総監(第12・14代)、貴族院議員(勅選)、逓信大臣(第14代)、農商務大臣(第22・26代)、内務大臣(第24・27代)、大日本武徳会会長を歴任した。 薩摩藩主島津家の分家である宮之城島津家の家臣の大浦源太夫の長男として宮之城屋地に生まれる。幼名は均。戊辰戦争では19歳で、薩摩藩軍に参加し、奥羽会津城方面に出征。1869年、宮之城町に藩の常備隊が置かれると、二番小隊の小頭に任じられた。
島田 孝之(しまだ たかゆき、嘉永3年5月3日(1850年6… 島田 孝之(しまだ たかゆき、嘉永3年5月3日(1850年6月12日) - 明治40年(1907年)1月15日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党)、実業家。字は維則、号は克堂・湘洲・鴎東など。 越中国礪波郡島新村(現在の富山県高岡市)出身。明治8年(1875年)に新川県教務監督となるが、翌年に新川県が石川県に吸収されて廃県になると、県令山田秀典の新たな赴任先の青森県に随行し、野辺地警察署長に就任した。明治14年(1881年)に辞任して郷里に帰り、自由民権運動に参加し、北辰社を結成した。翌年、北辰社は他の結社と合同して越中改進党となり、幹事の島田は石川県会議員に選出された。明治16年(1883年)に富山県が置かれると、富山県会議員となり、3期務めた。
岩谷 松平(いわや まつへい、1850年6月 - 1920年… 岩谷 松平(いわや まつへい、1850年6月 - 1920年3月10日)は、薩摩国(鹿児島県)出身の実業家、政治家。岩谷商会会長。別名、岩谷天狗。煙草事業で競合した村井兄弟商会の村井吉兵衛ととも、明治時代の「たばこ王」として知られる。日本の煙草産業の大立者として「たばこの父」と呼ばれるほか、卓越した広告センスを持ち、宣伝広告の在り方や印刷技術の発展にも大きな影響を与えたことから、「近代日本のPRの父」とも呼ばれる。 薩摩国薩摩郡隈之城郷東手村の向田町(現在の薩摩川内市)にて、郷士・岩谷卯之助の二男として生まれる。1858年に母と死別。1863年に父をも失った。両親同じく熱病で長兄も失い、家族を養うために小菓を作って近在を行商して3年ほど糊口を凌いだのち、酒造業と質屋を営む本家・岩谷松兵衛の長女さい子の婿養子となる。
初代野村 徳七(のむら とくしち、1850年5月26日(嘉永… 初代野村 徳七(のむら とくしち、1850年5月26日(嘉永3年4月15日) - 1907年(明治40年)9月30日)は大阪の両替商。野村徳七 (二代)、野村元五郎の父。 1850年(嘉永3年)4月15日、河内国渋川郡久宝寺村(現在の大阪府八尾市久宝寺)に生まれる。幼名は徳松。11歳から大阪屋弥兵衛の大弥両替店に丁稚奉公する。1871年(明治4年)2月、大阪屋弥兵衛の養子となるが、8月に主人の弥兵衛が他界し、さらに翌1872年(明治5年)8月に、弥兵衛の妻さくも他界した。明治維新後の1869年(明治2年)には、東京、大阪に為替会社が設立され、1872年(明治5年)の「国立銀行条例」によって国立銀行が設立され、幣制の改革も行われて、両替店の機能は次第に低下した。
瀬戸岡 為一郎(せどおか / せとおか ためいちろう、旧字体… 瀬戸岡 為一郎(せどおか / せとおか ためいちろう、旧字体: 瀨戶岡 爲一郞、1850年5月19日(嘉永3年4月8日)- 1934年(昭和9年)2月10日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員。 武蔵国多摩郡瀬戸岡村(のち神奈川県西多摩郡瀬戸岡村、東京府移管を経て、現:東京都あきる野市瀬戸岡)で名主・瀬戸岡為助の長男として生まれる。 1881年、自由党の結成に加わり、石坂昌孝、村野常右衛門、内山安兵衛、瀬沼伊兵衛らと自由民権運動を推進した。神奈川県会議員に選出され、1890年7月の第1回衆議院議員総選挙で神奈川県第三区から立憲自由党所属で出馬して当選。以後、第2回総選挙でも再選され、弥生倶楽部に所属して衆議院議員を連続二期務めた。
木村 敏(きむら とし、1850年(嘉永3年)5月18日 -… 木村 敏(きむら とし、1850年(嘉永3年)5月18日 - 1908年(明治41年)3月2日。)は、明治時代の日本の教育者である。子訥、斉治と名乗り、北村と号した。小学校教員のかたわら仙台師範学校校長をつとめるなど、宮城県で初等教育の確立・充実に尽力した。 仙台藩士・木村景直の長男として、嘉永3年(1850年)5月18日に、木村家の領地である陸奥国桃生郡北村で生まれた。現在の宮城県石巻市北村である。弟が二人いて、木村剛は海軍の軍人、木村匡は台湾総督府の役人になった。妻にたびたび先立たれて4度結婚し、最初の妻との間に力という息子を儲けた。 慶応4年(1868年)、19歳のとき戊辰戦争に従軍し、白河口で戦った。
佐々木 宇右衛門(宇右衞門、ささき うえもん、1850年5月… 佐々木 宇右衛門(宇右衞門、ささき うえもん、1850年5月17日(嘉永3年4月6日)- 1909年(明治42年)10月27日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・市助。号・栗園(りつえん)。 出羽国置賜郡成田村(山形県西置賜郡成田村、長井村を経て現長井市成田)で、先代・佐々木宇右衛門の息子として生まれた。 佐々木太右衛門、佐々木忠右衛門と協力して桑畑10町歩を設けた。1873年(明治6年)製糸工場を開設し、製糸業の発展に尽力した。また、明治初期に森鉱山を開いてその経営に当たった。 政界では、1879年(明治12年)1月に山形県会議員に選出され、1880年(明治13年)1月、病のため辞職した。
間宮 喜十郎(まみや きじゅうろう、嘉永3年3月25日(18… 間宮 喜十郎(まみや きじゅうろう、嘉永3年3月25日(1850年5月6日) - 明治28年(1895年)3月2日)は、駿河国沼津出身の教育者。沼津尋常小学校(現・沼津市立第一小学校)校長。 間宮家は駿河国沼津宿の下本町で本陣を営んでいた家である。嘉永3年3月25日(1850年5月6日)、間宮喜十郎は間宮家の長男として生まれた。生まれ諱は格、通称は喜十郎、後の呼び名は烟雨。父親は間宮喜右衛門。幼少時より聡明だった間宮は、西間門村の實相院の院主である西尾麟角から書法を学び、水野藩士の五十川中に経書を学んだ。 元治元年(1864年)5月には14歳(数え年15)で江戸に出て、林大学頭の門で漢学を学んだ。
井上 武子(いのうえ たけこ、1850年5月4日〈嘉永3年3… 井上 武子(いのうえ たけこ、1850年5月4日〈嘉永3年3月23日〉 - 1920年〈大正9年〉3月21日)は、日本の女性。井上馨の妻。夫と共に「鹿鳴館外交」を担い「鹿鳴館の華」とも言われた。旧姓は岩松、新田。 生年は嘉永5年(1852年)とも。父は上野国下田島(現・群馬県太田市下田島町)領主の岩松(新田)俊純。母は旗本の関盛泰の娘の千代子。武子は幼少期を下田島で送ったが、明治元年(1868年)の10月に東京へ上っている。 明治2年(1869年)、当時大蔵少輔であった井上馨と結婚した。 1876年(明治9年)に井上と共にアラスカ号で渡航し、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスにそれぞれ滞在する。
金沢 松右衛門(金澤、かなざわ まつえもん、1850年5月3… 金沢 松右衛門(金澤、かなざわ まつえもん、1850年5月3日(嘉永3年3月22日)- 1924年(大正13年)9月18日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・平治。 先代金沢松右衛門の二男として出羽国秋田郡土崎湊(秋田県南秋田郡土崎港町を経て現・秋田市)に生まれる。兄は夭折し、二男である松右衛門が家督を継いだ。1883年(明治16年)以降、南秋田郡学務委員、同郡肴町および連合町会議員、南秋田・河辺両郡連合町村会議員、南秋田郡会議員などを歴任する。 のち、秋田県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、1892年(明治25年)6月29日から1897年(明治30年)9月28日まで在任した。
安藤 源五郎(あんどう げんごろう、嘉永3年5月〈1850年… 安藤 源五郎(あんどう げんごろう、嘉永3年5月〈1850年〉 - 1921年〈大正10年〉1月26日)は、明治期の司法官僚、大審院判事。 美濃国中島郡駒塚村(現・岐阜県羽島市)生まれ。1867年(慶応3年)江戸に出て安井息軒に漢学を学び、1874年(明治7年)慶應義塾法律科一期生として卒業する。卒業後司法省八等出仕となり長崎上等裁判所の裁判官となり大審院検事となる。1886年(明治19年)大審院法律諮問会員、1890年(明治23年)青森地方裁判所検事正、1892年(明治25年)福島裁判所検事正等、各地方に歴任し、のちに退官し京都に移る。
久須美 秀三郎(くすみ ひでさぶろう、1850年4月26日(… 久須美 秀三郎(くすみ ひでさぶろう、1850年4月26日(嘉永3年3月15日)- 1928年(昭和3年)1月18日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。号・雲堂。 越後国三島郡小島谷村(新潟県三島郡小島谷村、島田村、和島村を経て現:長岡市)で、素封家の旗本知行所代官・久須美毅堂(左衛門)の長男として生まれる。 長岡藩需士、大瀬虎治・田中春回に漢籍を、1870年(明治3年)に上京して島田重礼に学んだ。 1875年(明治8年)柏崎県第二大区副大区長に就任。1876年、久須美家当主、叔父・三郎が死去したため家督を相続。1884年(明治17年)吉田村他14ヵ村戸長となる。三島郡参事会員、新潟県会議員、同副議長も務めた。
杉山 直矢(すぎやま なおや、嘉永3年3月14日(1850年… 杉山 直矢(すぎやま なおや、嘉永3年3月14日(1850年4月25日) - 明治29年(1896年)5月16日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。支那(清国)情勢研究の第一人者として知られ、参謀本部における対外情報研究の草分け的存在とされた。 杉山直矢は、嘉永3年(1850年)3月14日(15日とも)、周防国熊毛郡室積村東之庄(現・山口県光市)に、士族林家の次男として生まれ、幼名を文蔵といった。父は一膺、母は光子。少年期に藩儒・東宗一に師事し、特に陽明学に深く通じたとされる。豪胆で不敵な性格で知られ、慶応年間には干城隊に加わって第二次長州征伐に参加し上阪、活躍が認められて山縣有朋の知遇を受けた。
前田 正名(まえだ まさな、1850年4月23日(嘉永3年3… 前田 正名(まえだ まさな、1850年4月23日(嘉永3年3月12日) - 1921年(大正10年)8月11日)は、明治期日本の官僚。男爵。幼名・弘庵。明治政府の殖産興業政策の政策立案と実践した中心人物である。 薩摩国(鹿児島)揖宿郡山川郷の漢方医田善安の六男。山川郷もしくは、鹿児島城下の後の鹿児島市小川町に生まれる。兄・献吉より15歳年下である。9歳で緒方洪庵門下の蘭学医・八木称平(薩摩藩開成所教授)に師事して住み込み、蘭学や貿易実務を学ぶ。八木が行なっていた琉球密貿易も手伝った。1865年(慶応元年)の薩摩藩第一次英国留学生の選抜にもれるも、同年、長崎への藩費遊学を許可され、砲術家で科学者の薩摩藩外国掛・中原猶介の紹介で何礼之塾に入塾する。
志波 三九郎(しば さんくろう、1850年4月16日〈嘉永3… 志波 三九郎(しば さんくろう、1850年4月16日〈嘉永3年3月5日〉 - 1903年〈明治36年〉6月29日)は、日本の政治家。衆議院議員、県知事、長崎県会議長。心形刀流免許皆伝。 肥前国高来郡神代村(現:長崎県雲仙市)で神代鍋島家家臣・中島如幼の三男として生まれ、志波丈之助の養子となる。佐賀藩校・弘道館などで学び、また剣術の修行にも精進した。 1879年、長崎県会議員に選出され、後に県会議長となる。1894年3月、第3回衆議院議員総選挙に長崎県第三区で自由党から出馬し当選。1898年3月の第5回総選挙まで連続3回の当選を果した。 1898年6月、第1次大隈内閣が成立し、翌月、石川県知事に登用された。
林 董(はやし ただす、嘉永3年2月29日(1850年4月1… 林 董(はやし ただす、嘉永3年2月29日(1850年4月11日) - 大正2年(1913年)7月20日)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣、明治時代の日本の外交官、政治家。伯爵。蘭方医佐藤泰然の5男で初代陸軍軍医総監・男爵の松本良順は実兄。幼名は信五郎、名は董三郎(とうさぶろう)とも。変名、佐藤 東三郎(さとう とうさぶろう)。
川村 景明(かわむら かげあき、1850年4月8日〈嘉永3年… 川村 景明(かわむら かげあき、1850年4月8日〈嘉永3年2月26日〉- 1926年〈大正15年〉4月28日)は、日本の陸軍軍人、華族。東京衛戍総督、鴨緑江軍司令官等を歴任した。官位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級子爵。 薩摩藩士・野崎吉兵衛の三男として薩摩に生まれ、後に川村新左衛門景尚の養子となり川村家を継ぎ、川村源十郎と名乗る。薩英戦争・戊辰戦争に従軍、1869年(明治2年)4月、薩摩藩歩兵第1大隊第1小隊小頭に就任。 1871年(明治4年)4月に上京し同7月から御親兵付・陸軍軍曹として明治新政府に仕える。1872年(明治5年)7月、陸軍少尉・近衛歩兵第2大隊付となり、翌年、陸軍中尉に進む。
井上 正一(いのうえ せいいち、1850年4月7日(嘉永3年… 井上 正一(いのうえ せいいち、1850年4月7日(嘉永3年2月25日) - 1936年(昭和11年)10月3日)は、日本の法学者、衆議院議員、大審院判事。 長門国大津郡伊上村(山口県大津郡菱海村、油谷町を経て現在の山口県長門市油谷伊上)生まれ。1866年の四境戦争に際して長州藩諸隊の一つ鐘秀隊に加わり、芸州口と石州口を転戦。その後許可を得て隊を離れ、萩明倫館と山口文学寮で学ぶ。維新後に単身上京して箕作麟祥の下でフランス学を修めた。1870年開成学校に入った後、長州藩の貢進生に選ばれ、大学南校を経て1875年に司法省法学校を卒業。同年秋にフランスに留学し、法学博士の学位を取得。1881年に帰国するとただちに司法省雇となり、開校間もない明治法律学校(のちの明治大学)にも講師として迎えられた。
浅原 才市(あさはら さいち、1850年4月2日(嘉永3年2… 浅原 才市(あさはら さいち、1850年4月2日(嘉永3年2月20日) - 1932年(昭和7年)1月17日)は、浄土真宗の妙好人のひとり。石見の才市と呼ばれる。「口あい(くちあい)」と称せられる信心を詠んだ多数の詩で知られ、「日本的霊性」として鈴木大拙によって世界的に紹介された。
伊藤 一郎(いとう いちろう、嘉永3年4月(1850年) -… 伊藤 一郎(いとう いちろう、嘉永3年4月(1850年) - 大正4年(1915年)4月24日)は、日本の政治家、教育者、哲学者である。讃岐国三豊郡財田村(現・香川県三豊市)出身。衆議院議員。 多度津藩の藩校・日新書院助教、同自明館支配などを務める。その後、大区会議員、同議長、愛媛県会議員、四国新道開鑿県相談役などを歴任。1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に香川県第5区から立候補し当選し、衆議院議員を1期務めた。哲学に精通し、著書も多い。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
湯浅 貞太郎(湯淺、ゆあさ さだたろう、1850年3月30日… 湯浅 貞太郎(湯淺、ゆあさ さだたろう、1850年3月30日(嘉永3年2月17日)- 1911年(明治44年)8月16日)は、日本の政治家。衆議院議員、徳島県勝浦郡小松島町長。 阿波国勝浦郡田野村(現徳島県小松島市田野町)で、庄屋湯浅家・4代佐平次の長男として生まれる。私塾で学び、漢学、剣術、馬術を修めた。 徳島藩主蜂須賀家の家債整理について尽力した。1870年4月(明治3年3月)勝浦郡四番里長に就任し、以後、同郡第二小区用係、学校世話係、地租改正委員総代を歴任。徳島県が高知県に属していた1879年(明治12年)1月から名東郡、勝浦郡各書記を務めた。 1882年(明治15年)に結成された立憲改進党に参加。
清浦 奎吾(きようら けいご、旧字体: 淸浦 奎吾、1850… 清浦 奎吾(きようら けいご、旧字体: 淸浦 奎吾、1850年3月27日〈嘉永3年2月14日〉- 1942年〈昭和17年〉11月5日)は、日本の官僚、政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位伯爵。幼名は普寂(ふじゃく)。旧姓大久保(おおくぼ)。 肥後(現在の熊本県)出身。司法・内務官僚として活躍した後に貴族院議員となり、官界や貴族院に大きな影響力を持った。その後、司法大臣、農商務大臣、内務大臣、枢密顧問官、枢密院副議長、枢密院議長を歴任。 1924年(大正13年)に第23代内閣総理大臣として組閣したが、超然主義との批判を受け、選挙に大敗したため5か月で総辞職した。その後は重臣として国事に関与した。 嘉永3年(1850年)2月14日、肥後国山鹿郡上御宇田村(現:山鹿市鹿本町来民)の明照寺(浄土真宗本願寺派)住職・大久保了思の五男に生まれ、後に清浦の姓を名乗った。
角田 秀松(つのだ ひでまつ、1850年3月25日(嘉永3年… 角田 秀松(つのだ ひでまつ、1850年3月25日(嘉永3年2月12日) - 1905年(明治38年)12月13日)は、日本の武士(会津藩士)、海軍軍人。最終階級は海軍中将。戊辰戦争において「朝敵」とされた会津藩出身者として最初の海軍将官となった人物である。 会津藩医、角田良智の二男として生まれる。父の蝦夷地赴任に同行し、南摩綱紀に学んだ。秋月悌次郎に従って上洛し、林権助に洋式訓練を受ける。鳥羽・伏見の戦い、会津戦争と歴戦したが、藩の降伏を迎えた。古川庄八らに学んだ後、商船の水夫となり船長代理に昇る。征台の役に運送船に乗組んだ際に西郷従道の知遇を得て、1874年10月、長崎海軍出張所雇となる。
小林 仲次(こばやし なかじ、1850年3月21日(元治元年… 小林 仲次(こばやし なかじ、1850年3月21日(元治元年3月1日)- 1944年(昭和19年)2月29日)は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、愛知県宝飯郡御津村長。 三河国宝飯郡西方村(愛知県宝飯郡御津村、御津町を経て現豊川市御津町西方)で、小林仲三郎の長男として生まれた。御馬村の石黒須賀雄に学んだ。素封家・小林伝八郎の養子となり1883年(明治16年)家督を相続した。農業、金融業を営んだ。社会公共のため、御油海水浴場の開設、港湾修築、道路開削などに私財を提供した。 1884(明治17年)西方村戸長に就任した。山本三太郎の死去に伴い1897年(明治30年)3月に実施された第4回衆議院議員総選挙愛知県第10区補欠選挙で初当選し、その後、第9回、第12回総選挙でも再選され、衆議院議員に通算3期在任した。
肥田 景之(ひだ かげゆき、1850年3月21日(嘉永3年2… 肥田 景之(ひだ かげゆき、1850年3月21日(嘉永3年2月8日)- 1932年(昭和7年)4月3日)は、幕末の薩摩藩士、明治から昭和初期の官吏・実業家・政治家。衆議院議員。 日向国諸県郡都城郷(宮崎県北諸県郡都城町を経て現都城市)で、薩摩藩士・肥田景正の二男として生まれた。1886年(明治19年)兄・景直が戊辰戦争で戦死していたため家督を相続した。 造士館で兵学を修め、都城明道館児輩指南、講武館兵式訓練教導を務めた。慶応3年10月(1867年)戦兵伍長となり戊辰戦争に従軍した。造士館助教授、都城神柱神社(神柱宮)祠官を務めた。西南戦争に従軍した。 1878年(明治11年)10月、鹿児島県警部に任官。
芦原 甫(あしはら はじめ、嘉永3年1月30日(1850年3… 芦原 甫(あしはら はじめ、嘉永3年1月30日(1850年3月13日) - 大正7年(1918年)9月25日)は大日本帝国陸軍の軍人。陸軍中佐。乃木希典大将の副官、日露戦争で人事管理部長。 西南戦争にて当時軍曹だった芦原甫は負傷した乃木希典少佐を介助したことにより、命の恩人と称される。 副官時、乃木に面会に来た静子夫人を返した「乃木大将妻返しの松」が香川県善通寺市金倉寺にある。 養子芦原信之(医師)の四男がシャンソン評論家の芦原敏信(英了)、五男が建築家の芦原義信、その長男が芦原太郎、長男芦原勝(耳鼻科医)の孫が心療内科医の芦原睦、甫の孫が旅行作家の芦原伸。 この項目は、軍事上の人物に関連した書きかけの項目です。
鹿毛 信盛(かげ のぶもり、1850年2月26日(嘉永3年1… 鹿毛 信盛(かげ のぶもり、1850年2月26日(嘉永3年1月15日)- 1914年(大正3年)9月9日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 筑後国御井郡、後の金島村(現福岡県久留米市)で、鹿毛佐金次の長男として生まれる。嘉永6年(1853年)に家督を相続した。 1878年(明治11年)以降、福岡第十七国立銀行(現福岡銀行)取締役、甘泉社社長、金島銀行頭取、福岡県御井郡農業組合長、両筑十二郡精藍組組長、久留米絣同業組合組長、久留米絣株式会社代表などを務めた。 政界では、福岡県会議員となり、また、1890年(明治23年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ、1897年(明治30年)9月28日の任期満了まで1期在任した。
常陸山 虎吉(ひたちやま とらきち、1850年2月25日(嘉… 常陸山 虎吉(ひたちやま とらきち、1850年2月25日(嘉永3年1月14日) - 1915年(大正4年)11月1日)は、現在の茨城県水戸市出身で入間川部屋に所属した大相撲力士。最高位は前頭筆頭。本名は五十嵐 虎吉(後出羽ノ海姓)。4代出羽ノ海。横綱常陸山谷右エ門の師匠。 1873年(明治6年)4月入間川部屋から初土俵を踏む。徐々に番付を上げ、1878年(明治11年)5月二段目10枚目以内(現在の十両相当)昇進。1882年(明治15年)に入幕した。幕内上位から中堅で活躍し、1886年(明治19年)5月大関剣山と預かり、1891年(明治24年)1月、1892年(明治25年)1月剣山、1894年(明治27年)1月関脇朝汐を破っている。
井手 毛三(いで もうぞう、1850年2月21日(嘉永3年1… 井手 毛三(いで もうぞう、1850年2月21日(嘉永3年1月10日)- 1929年(昭和4年)9月15日)は、明治から昭和初期の政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県真庭郡落合町長。 美作国真島郡西河内村(岡山県真島郡瀬田河村大字西河内、真庭郡瀬田河村、落合町を経て現真庭市西河内)で、庄屋・井手勘三郎の長男として生れた。親族の山田方谷、その他、進祥山、三島中洲らに師事して漢学を修めた。 1874年(明治7年)副戸長に任じられ、戸長、久米北条郡区長などを歴任し、1877年(明治10年)父の出身地英田郡区務所長となる。1878年(明治11年)4月、共之社に加わり、1879年(明治12年)12月、国会開設建言書提出の作州総代に選出され元老院に提出した。
平田 力之助(ひらた りきのすけ、1850年2月21日(嘉永… 平田 力之助(ひらた りきのすけ、1850年2月21日(嘉永3年1月10日)- 1932年(昭和7年)10月1日)は、明治から大正期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員。 伊勢国朝明郡、のちの三重県三重郡大矢知村(現四日市市)で生まれる。漢学、英学、普通学を学び、1888年(明治21年)慶應義塾を卒業。農業、商業を営む。 大矢知村会議員、学務委員、三重郡会議員、三重県会議員を務めた。一貫して自由党系政党に所属し、地価修正、地租軽減に尽力した。 和波久十郎の失職に伴い、1900年(明治33年)11月に実施された第6回衆議院議員総選挙三重県第3区補欠選挙に出馬して初当選し、その後、第8回まで再選され、衆議院議員に連続3期在任し、この間、政友会院内主事などを務めた。
宮本 易孝(みやもと やすたか、嘉永3年1月6日(1850年… 宮本 易孝(みやもと やすたか、嘉永3年1月6日(1850年2月17日) - 明治45年(1912年)5月22日)は日本の政治家。中浜村長(第2代)、村会議員、郡会議員。西伯郡町村長代表を務めるほどの実力者村長だった。 小篠津村(現鳥取県境港市小篠津町)の豪農宮本家に生まれる。易孝の父宗久は茶人として知られる一方、明治初期の戸長職も務めた。 明治30年(1897年)12月、第2代中浜村長に就任した。 明治31年(1898年)小篠津村字茶苑畑に7棟86坪の避病舎を建築したのをはじめ、農友会を組織して産業の改良発達や風紀の改善につとめた。退任後郡会議員として活躍したが、2期目の在職中に没した。
漆 昌巌(昌巖、うるし しょうがん、1850年2月12日(嘉… 漆 昌巌(昌巖、うるし しょうがん、1850年2月12日(嘉永3年1月1日)- 1934年(昭和9年)1月25日)は、幕末から昭和初期の僧侶・実業家・政治家。衆議院議員、東京府荏原郡品川町長。旧姓・加藤。娘・漆雅子は品川女子学院の創立者。 伊勢国桑名郡江内村(岐阜県下石津郡江内村、油島村、海津郡大江村大字油島、海津町を経て現海津市油島)で、自作農・加藤武右衛門の二男として生まれる。万延元年(1860年)美濃国石津郡高須町(現海津市)の浄土宗円心寺に入り僧となる。明治元年(1868年)芝増上寺学寮に入り仏典を学ぶ。名字は浄土宗開祖法然の漆間にちなみ漆(うるし)と改称し届出た。1874年(明治7年)荏原郡北品川宿、法禅寺住職に就任。
丸山 孝一郎(まるやま こういちろう、1850年2月7日(嘉… 丸山 孝一郎(まるやま こういちろう、1850年2月7日(嘉永2年12月26日)- 1912年(明治45年)5月12日)は、明治期の海軍軍人、実業家、政治家。衆議院議員、米沢市会議長。 出羽国置賜郡米沢(山形県南置賜郡米沢を経て現米沢市)で、米沢藩士・丸山英造の長男として生まれた。1871年(明治4年)米沢に洋学舎が設立され諸勤学生(副舎長)に就任し、イギリス人チャールズ・ヘンリー・ダラスから学んだ。 五十嵐力助らと県会の開設を建議した。1879年(明治12年)海軍裁判所に出仕し、1884年(明治17年)海軍少尉に任官。東京軍法会議判士を務めた。また興亜会の中国語学校・興亜学校の初代校長に就任した。
今井 藤七(いまい とうしち、嘉永2年12月24日(1850… 今井 藤七(いまい とうしち、嘉永2年12月24日(1850年2月5日) - 大正14年(1925年)10月24日)は、日本の実業家。北海道の老舗百貨店丸井今井(現・三越伊勢丹ホールディングス傘下)の創業者。 1878年に今井藤七の次弟・武七の長男として新潟県南蒲原郡三条町に生まれ、子がいなかった藤七の養子となる。1898年に慶應義塾を卒業し、藤七の許しを得て渡米。帰国後は丸井今井に入り、1925年藤七の死去を受け後継。1935年に武徳殿(現・三条市歴史民俗産業資料館)の建設基金として3万円を三条市に寄付、1940年の三条商工会議所の設立には初代会頭に推薦され就任。1944年死去、66歳。定明寺に眠る。
江木高遠(えぎたかとお、1850年2月3日(嘉永2年12月2… 江木高遠(えぎたかとお、1850年2月3日(嘉永2年12月22日) - 1880年(明治13年)6月6日)は、文明開化期の学者、啓蒙家、外務官僚。養子に入り、『高戸賞士』を名乗った時期があった。米国で軍事と法律を学び、教員を経て演説家として名を馳せたが、外交官として渡米後ピストル自殺した。 備後福山藩の儒官、江木鰐水の第四子として福山に生まれた。幼名は賞士、通称は賞一郎。母は、年(とし)。 1856年(安政3年)(7歳)、藩校誠之館に入り、1868年(明治元年)(19歳)秋、長崎でフルベッキに学び、翌年、藩の推薦により東京の開成学校に転じ、明治2年(1869年)に慶應義塾に学んだ。1870年(明治3年)(21歳)、華頂宮博経親王の随員の一人としてニューヨークへ渡り、コロンビア法律学校(Columbia Law School)に学んだが、1872年、病気の親王と帰国し、1874年再渡米して、1876年卒業した。
中倉 万次郎(なかくら まんじろう、嘉永2年12月22日(1… 中倉 万次郎(なかくら まんじろう、嘉永2年12月22日(1850年2月3日) - 昭和11年(1936年)2月6日)は、明治時代から昭和時代初期にかけての日本の政治家・実業家。 現在の佐世保市吉井町の川崎家に生まれ、幼時に現在の同市世知原町の中倉家の養子となる。 1883年(明治16年)長崎県会議員に選出される。1889年(明治22年)に町村制が施行されると、北松浦郡山口村(現在の佐世保市相浦地域)の村長に選ばれた。 その後中央及び地元で長崎県農工銀行取締役頭取、衆議院議員、帝国農会議員、米価調節委員を歴任。 製茶練習所を世知原村内に開設して所長となり現在同地区の名産となっている茶作りの基礎を築いた他、北松浦郡内の道路整備や、当時栄えていた北松炭田からの石炭積み出しを目的とした佐世保軽便鉄道(のち佐世保鉄道、現松浦鉄道西九州線の一部)の設立、平戸島電燈会社の設立など、地域の発展に務めた。
永田 一二(ながた かずじ、1850年(嘉永3年)2月 - … 永田 一二(ながた かずじ、1850年(嘉永3年)2月 - 1897年(明治30年)1月28日)は、日本の武士(中津藩士)、自由民権運動家。 中津藩士・永田源右衛門の長男に生まれる。幼名は兼太郎。1871年(明治4年)、藩主奥平昌邁に続いて慶應義塾に入塾した。廃藩置県のため中津市学校の教員となるが、まもなく退任して義塾に戻り1875年(明治8年)卒業。1877年(明治10年)7月から高知の立志学舎に英学教師として派遣され、傍ら自由民権運動に没頭。1880年(明治13年)に愛国社に加わった。愛国志林記者、愛国新誌記者、山陽新報主筆、日本立憲政党新聞記者などを経て1882年(明治15年)には福井の杉田定一に招かれ北陸自由新聞主筆となり、1884年(明治17年)東海暁鐘新報の主筆となり、海南新聞、北陸公論、江湖新聞、東海新報、岡山日報を歴任。
伊東 熊夫(いとう くまお、1850年1月22日(嘉永2年1… 伊東 熊夫(いとう くまお、1850年1月22日(嘉永2年12月10日)- 1913年(大正2年)5月7日)は、明治時代の政治家・実業家・銀行家。新聞編集者。製茶業者。衆議院議員(1期)。 山城国綴喜郡上村(京都府綴喜郡普賢寺村 、田辺町を経て現京田辺市)で、庄屋、素封家・伊東喜蔵、チカの長男として生まれる。村塾で漢学を学び、その後は和漢の典籍を独学した。1868年(明治元年1月)に家督を相続。1876年(明治9年)ころ 沢辺正脩の田辺校に寄寓し、西川義延や喜多川孝経と共に地方民権や政治について議論を交わした。1878年(明治11年)儒者・山口正養を京都から招聘し田辺町に盍簪家塾を創立し、さらに1881年(明治14年)8月、三山木村に南山義塾を設立し、初代社長に就任した(1881年10月-1883年3月在任)。
大塚 貢(おおつか みつぐ、1850年1月18日(嘉永2年1… 大塚 貢(おおつか みつぐ、1850年1月18日(嘉永2年12月6日) - 没年不詳)は、明治期の大蔵・内務官僚。官選茨城県知事(未赴任)。旧姓・池上。 肥後国熊本で熊本藩士・池上貞雄の三男として生まれ、大塚郁太郎の養子となる。 明治5年(1872年)、白川県十五等出仕に任官。以後、福岡県第三課長、山口県収税長、東京府収税長などを歴任。1896年11月1日、司税官・東京税務管理局長(初代)に就任。その後、名古屋税務管理局長を経て、1898年11月28日、内務省に転じ北海道庁事務官・内務部長に就任。1905年4月19日、北海道庁官制の改正に伴い、内務部長が第一部長に改称された。 上司の園田安賢長官と関係を深め、園田と進退を共にして同時に辞表を提出。
押川 方義(おしかわ まさよし、1850年1月17日〈嘉永2… 押川 方義(おしかわ まさよし、1850年1月17日〈嘉永2年12月5日〉 - 1928年〈昭和3年〉1月10日)は、日本人のキリスト教宗教家、教育者。東北学院及び宮城学院の創立者。日韓同志組合代表者の一人。新島襄、本多庸一、植村正久、内村鑑三、新渡戸稲造と並び、明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者とされる。長男は、冒険小説家の草分け押川春浪(本名、方存)。二男は、プロ野球の生みの親である押川清。 NHK朝の連続テレビ小説『はね駒』の登場人物・松浪毅のモデルである。 押川方義の生年に関しては諸説あったが、押川家の鎧櫃から「熊三郎 産髪包紙銘記 嘉永二年十二月五日出生 熊三郎産髪」 と記された和紙が発見され(実際に産髪が包装されていた)、嘉永2年生まれ(グレゴリオ暦への換算では1850年)であることがほぼ確実となった。
天野 董平(あまの とうへい、1850年1月17日(嘉永2年… 天野 董平(あまの とうへい、1850年1月17日(嘉永2年12月5日)- 1923年(大正5年)6月24日)は、明治から大正初期の醸造家・実業家・政治家。衆議院議員、山梨県北都留郡笹子村長。 甲斐国都留郡吉久保村(山梨県北都留郡笹子村を経て現大月市笹子町吉久保)で、酒造業・天野五郎左衛門の長男として生まれる。漢学を修めた。明治2年1月(1869年)家督を相続し家業を継承した。 1872年(明治5年)吉久保村戸長に就任。笹子村戸長を務め、1882年(明治15年)山梨県会議員に選出され、同常置委員、同参事会員、所得税調査委員、徴兵参事員、笹子村長、笹子村会議員、北都留郡会議員なども務めた。 衆議院議員には第9回、第10回総選挙で当選し、立憲国民党に所属し連続2期在任した。
石田 貫之助(いしだ かんのすけ、1850年1月13日(嘉永… 石田 貫之助(いしだ かんのすけ、1850年1月13日(嘉永2年12月1日)- 1934年(昭和9年)10月8日)は、明治から大正期の政治家。兵庫県会議員、衆議院議員、富山県知事。旧姓は太田垣。 但馬国朝来郡新井村の農業・酒造業の太田垣家に生まれ、石田小治郎の養子となる。 1879年に兵庫県会議員となり、1880年5月から1881年2月まで同副議長を、同月から1890年7月まで同議長を務めた。また、同郡部会議長、同常置委員など務めた。立憲改進党に加わり、さらに愛国公党の創立委員となり、次いで自由党に入党した。 1890年7月、第1回衆議院議員総選挙に兵庫県第四区から出馬して当選。その後、第4回総選挙まで連続4回当選し、さらに第6回、第9回総選挙でも当選し、通算6回の当選を果たした。
由布 惟義(ゆふ これよし、1850年1月9日(嘉永2年11… 由布 惟義(ゆふ これよし、1850年1月9日(嘉永2年11月26日)- 1925年(大正14年)7月22日)は、幕末の柳河藩士、明治から大正期の政治家。衆議院議員、福岡県会議長。 筑後国山門郡柳川城下奥州小路(福岡県山門郡城内村字奥州町、柳川町を経て現柳川市奥州町)で、柳河藩士の家に生まれた。1861年(文久元年9月)家督を相続した。藩校伝習館(現福岡県立伝習館高等学校)で学んだ。戊辰戦争に従軍し、二等小隊長に就任。東京市中取締に従事。1870年(明治3年10月)に帰藩した。以後、柳河藩二等隊長、三潴県凖等外戸長、福岡県9等属などを歴任した。 1878年(明治11年)12月、福岡県会議員に選出され、8期在任し、同常置委員、同議長も務めた。
五十村 良行(いがむら りょうこう、1850年1月8日(嘉永… 五十村 良行(いがむら りょうこう、1850年1月8日(嘉永2年11月25日)- 1905年(明治38年)7月8日)は、幕末の佐賀藩武雄領主・武雄鍋島家家臣、明治期の官僚・政治家。衆議院議員。旧姓・佐々木、名・達之助。 肥前国杵島郡武雄(現佐賀県武雄市)で武雄鍋島家家臣・佐々木家に生まれ、五十村平左エ門の養子となる。漢学を修めた。 明治5年1月(1872年2-3月)石鉄県十三等出仕となり、以後、司法省十二等出仕、司法少解部、判事・高知裁判所徳島支庁在勤、脇町区裁判所長、熊本県警部兼属、熊本警察署長兼監獄署長、山梨県収税長、愛媛県収税長、大分県参事官などを歴任。 1892年2月、第2回衆議院議員総選挙おいて佐賀県第三区から出馬して二位景暢と選挙戦を戦い当選し、衆議院議員を一期務めた。