関藤 謙治(せきとう「せきどう」 けんじ、1875年9月1日… 関藤 謙治(せきとう「せきどう」 けんじ、1875年9月1日 - 1964年8月2日)は、岡山県笠岡市出身の実業家。元井笠鉄道代表取締役社長。 1875年9月1日、笠岡市西浜で生まれる。 1908年、井原笠岡軽便鉄道(後の井笠鉄道)の設立に尽力し、1934年、井笠鉄道取締役、1935年、専務取締役を経て、1941年、代表取締役社長となり、地方交通の発展に尽力した。 また、笠岡湾の浚渫、防波堤の築造、富岡湾の干拓などの事業に協力し、井笠地域の発展に尽力した。 1964年8月2日死去。享年88。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
北畠 安五郎(きたばたけ やすごろう、 1875年〈明治8年… 北畠 安五郎(きたばたけ やすごろう、 1875年〈明治8年〉9月 - 1933年〈昭和8年〉)は、明治から昭和期の実業家、日本エナメル株式会社(現・タカラスタンダード)創業者。旧姓、河合。兄は、佐藤達次郎(初代東京医学専門学校長・第3代順天堂医院長・初代順天堂医科大学長)。 1875年(明治8年)9月、河合貞輔の三男として、東京府で生まれる。後に北畠市郎右衞門の養子となる。 その後、立教専修学校(現・立教大学)で修学。1906年(明治39年)、東京帝国大学医科大学薬学科を卒業。 卒業した後、ドイツに留学し、そこでホーローに出会う。 日本に帰国後、西欧の製品に劣らないホーロー製品をつくろうと、1912年(明治45年)5月、日本エナメル株式会社(現・タカラスタンダード)を設立。
竹村 秋竹(たけむら しゅうちく、1875年9月 - 191… 竹村 秋竹(たけむら しゅうちく、1875年9月 - 1915年12月27日 )は、日本の俳人。本名:竹村 修。別名:修竹。 愛媛県松山市生まれ。明治27年(1894年)旧制三高入学、制度変更のため翌年四高に転入、同33年東京帝国大学英文科卒。島根県杵築中学、新潟県長岡中学、福井県小浜中学に勤め、小浜中学在任中に没。 俳句は早くより正岡子規に学ぶ。四高在学中『北辰会雑誌』『北國新聞』に俳句、俳論を発表。特に新聞紙上で客観写生俳句の主張と月並俳句攻撃の論陣をはり、旧派中条屋居石と論戦をかわす。 明治29年5月より北國新聞俳壇選を担当。同30年4月『北声会』を結成、北陸俳壇に大きな影響を与えた。 明治34年、子規の選句を無断で収録した『明治俳句』を発行。
鈴木 重禮(すずき しげひろ、1875年(明治8年)9月 -… 鈴木 重禮(すずき しげひろ、1875年(明治8年)9月 - 1913年(大正2年)3月1日)は、日本の農芸化学者。学位は農学博士(東京帝国大学) 旧水戸藩士・鈴木重任の長男に生まれる。1893年(明治26年)茨城県尋常中学校を、1897年(明治30年)第一高等学校を卒業し、1900年(明治33年)に東京帝国大学農科大学農芸化学科を首席で卒業、優等生として銀時計を下賜された。東京帝国大学大学院に進学し、農芸化学一般特に土壌に関する事項を研究する。 1903年(明治36年)東京帝国大学農科大学助教授と農商務省農事試験場の技師を兼任し、朝鮮半島の土壌調査を行った。1907年(明治40年)東京帝国大学より農学博士を授与された。
深沢 新一郎(ふかざわ しんいちろう、1875年(明治8年)… 深沢 新一郎(ふかざわ しんいちろう、1875年(明治8年)9月 - 1934年(昭和9年)9月1日)は、日本の検事。裁判官。 長崎県出身。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学法律科を卒業した。横浜区裁判所検事、横浜地方裁判所検事、統監府判事、同検事、京城地方裁判所判事、同控訴院検事、京城覆審法院検事、釜山地方法院検事正、高等法院検事、法務局刑務課長、京城地方法院検事正を歴任。1925年(大正14年)、大邱覆審法院長となり、法務局長を経て、1932年(昭和7年)から高等法院長を務めた。
関口 八重吉(せきぐち やえきち、1875年8月29日 - … 関口 八重吉(せきぐち やえきち、1875年8月29日 - 1949年12月24日)は、日本の機械工学者。東京工業大学機械工学科教授や、衛生工業協会会長、日本機械学会会長を務めた。 東京府出身。1896年東京高等工業学校(現東京工業大学)機械科卒業。1898年同校助教授。1902年からイギリス、アメリカ合衆国に留学し機械製作を研究し、コーネル大学大学院修了、修士。1905年に帰国し、教授に昇格。1921年工学博士。1929年東京工業大学機械工学科教授。1933年衛生工業協会会長。1935年日本機械学会会長。1943年蔵前工業会理事長、蔵前工業会館代表取締役会長。1949年勲二等旭日重光章受章。門下に中田孝東京工業大学名誉教授など。
田宮 嘉右衛門(たみや かえもん、1875年8月29日 - … 田宮 嘉右衛門(たみや かえもん、1875年8月29日 - 1959年4月13日)は、日本の実業家。初代神戸製鋼所支配人、第5代神戸製鋼所社長。 愛媛県新居郡立川山村(現:新居浜市)出身。1890年、別子山村の小足谷尋常高等小学校卒業。1904年、鈴木商店入社。1905年、神戸製鋼所支配人となり、1911年、神戸製鋼所が鈴木商店から分離独立して株式会社となると、常務取締役に就任。1928年に専務取締役、1934年に取締役社長となり、1945年に社長を退いて相談役となった。戦後の1947年に公職追放指定を受けたが、1951年の解除後は再び相談役に就任した。また、播磨造船所社長、神戸銀行取締役などを歴任し、経済同友会名誉会員、神戸商工会議所顧問などもつとめた。
米田 甚太郎(よねだ じんたろう、1875年(明治8年)8月… 米田 甚太郎(よねだ じんたろう、1875年(明治8年)8月27日 - 1938年(昭和13年)3月4日)は、日本の内務官僚、朝鮮総督府官僚。実業家。 富山県出身。1898年(明治31年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、翌年に判事検事登用試験と弁護士試験に合格した。司法官試補、宮津区裁判所判事、札幌区裁判所・札幌地方裁判所検事を務めた。1905年(明治38年)に北海道庁警視に転じ、栃木県事務官・警察部長、秋田県内務部長、石川県内務部長を歴任した。さらに朝鮮総督府に移り、忠清北道知事、平安南道知事、京畿道知事を務めた。 退官後は、朝鮮水力電気株式会社社長、朝鮮電気株式会社取締役、天安電灯株式会社取締役などに就任した。
下元 鹿之助(しももと しかのすけ、1875年(明治8年)8… 下元 鹿之助(しももと しかのすけ、1875年(明治8年)8月26日 - 1947年(昭和22年)10月22日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。 下元興行、桃の三男として、高知県高岡郡東又村(窪川町を経て、現在の四万十町)に生まれる。20歳まで家業手伝いののち高知県立農林学校を経て、東京蚕糸学校で養蚕技術を学ぶ。卒業後は母校の県立農林学校で教諭を3年間務めたのち県庁に出仕し、高知県技師として蚕業の発展に尽力する。のち大分県技師、1914年(大正3年)東又村長、翌年高知県会議員(3期当選、副議長などを歴任)を経て、1924年(大正13年)5月の第15回衆議院議員総選挙では高知県第4区から出馬し当選。
青木 周三(あおき しゅうぞう、1875年(明治8年)8月2… 青木 周三(あおき しゅうぞう、1875年(明治8年)8月26日 - 1946年(昭和21年)12月1日)は、日本の鉄道官僚、貴族院勅選議員、横浜市長。 山口県大島郡久賀町(現在の周防大島町)出身。青木周哲の三男として生まれ、青木五百輔の養子となる。盛岡中学を経て、1898年(明治31年)第二高等学校卒業。1902年(明治35年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業後、鉄道書記となり、1904年(明治37年)に高等文官試験に合格した。その後、鉄道事務官、鉄道庁参事、鉄道院参事、鉄道院理事を歴任した。 1919年(大正8年)筑豊鉄道専務取締役。1921年(大正10年)横浜市電気局長に就任し、1923年(大正12年)には助役として関東大震災の対応に尽力した。
山田 孝雄(やまだ よしお、1875年〈明治8年〉8月20日… 山田 孝雄(やまだ よしお、1875年〈明治8年〉8月20日 - 1958年〈昭和33年〉11月20日)は、日本の国語学者、国文学者、歴史学者。東北帝国大学教授を歴任。文化勲章受章。 独学の人として知られる。「契沖、真淵、宣長以来の国学の伝統に連なる最後の国学者」とも評される。 1873年、富山県富山市総曲輪(そうがわ)に於保多神社宮司山田方雄の次男として生れる。父は前田利保に歌を学んだ連歌の宗匠でもあった。履新小学校卒業。富山県尋常中学校を中退後、独学で小、中学校教員検定試験(文検)に合格。富山県内の小学校や兵庫、奈良、高知などの中学校で教員を務める。 1907年(明治40年)文部省国語調査委員会補助委員、1920年(大正9年)日本大学講師、1921年(大正10年)日本大学文学部国語科主任、1925年(大正14年)東北帝国大学講師、1927年(昭和2年)同教授に昇格。
今西 龍(いまにし りゅう、1875年〈明治8年〉8月15日… 今西 龍(いまにし りゅう、1875年〈明治8年〉8月15日 - 1932年〈昭和7年〉5月20日)は、日本の朝鮮史家、京都帝国大学教授。子は今西春秋。 1875年、岐阜県池田郡池田野新田(現:揖斐郡池田町)で生まれた。幼名は了哉。1903年、東京帝国大学文科大学史学科を卒業。 1906年より慶州など朝鮮半島ならびに中国東北部で考古学の調査を行い、1913年秥蝉県碑を発見。同1906年、京都帝国大学講師に就いた。1916年、助教授昇格。1922年、学位論文『Jusen部国考』を京都大学に提出して文学博士の学位を取得。 1922年から1924年まで北京に2年間の留学を命じられ、1926年に京城帝国大学・京都帝国大学兼任教授となった。
升田 憲元(ますだ のりもと、1875年(明治8年)8月15… 升田 憲元(ますだ のりもと、1875年(明治8年)8月15日 - 1949年(昭和24年)5月10日)は、日本の政治家、官僚、弁護士、陸軍軍人。衆議院議員(立憲民政党)。最終階級は陸軍大尉。 島根県飯石郡赤名村(現・飯石郡飯南町)に難波常八郎の子として生まれ、伯母升田きしの養子となった。1900年(明治33年)11月21日、陸軍士官学校(12期)を卒業し、1901年(明治34年)6月25日、歩兵少尉に任官。日露戦争への従軍を経て、陸軍大尉に累進した。1912年(明治45年)、京都帝国大学法科大学政治科を卒業し、1913年(大正2年)には法律科を卒業した。高等文官試験に合格し、陸軍省参事官、岐阜県不破郡長、同本巣郡長、国勢院事務官、同書記官、大蔵事務官、国勢院総裁秘書官を歴任し、1922年(大正11年)に退官して弁護士を開業した。
丸尾 晋(まるお すすむ、1875年《明治8年》8月12日 … 丸尾 晋(まるお すすむ、1875年《明治8年》8月12日 - 1921年《大正10年》9月8日)は、日本の医学者(眼科学)、医師。 東京帝国大学医科大学での勤務を経て、日本医学校講師、東京女医学校教授、復明館眼科医院院長、静岡県医師会会長などを歴任した。 浜松県出身の医学者、および、眼科医である。「日本の近代眼科の父」と称される河本重次郎の薫陶を受け、東京帝国大学の医科大学を経て日本医学校や東京女医学校で教鞭を執った。のちに復明館眼科医院の院長に就任し、静岡県を中心に分院や出張所を幅広く展開した。 1875年(明治8年)8月12日、浜松県城東郡池新田村にて生まれた。丸尾家は医業を家業としており、祖父である丸尾良益は腕のいい眼科医として知られていた。
大塚 楠緒子(おおつか くすおこ/なおこ、1875年(明治8… 大塚 楠緒子(おおつか くすおこ/なおこ、1875年(明治8年)8月9日 - 1910年(明治43年)11月9日)は明治末期に活躍した歌人、作家。夫は美学者の大塚保治(入婿)。本名:大塚久寿雄。別名:久寿雄子・楠緒・楠緒子。才色兼備で夏目漱石が恋した人として知られる。 東京控訴院長・大塚正男の長女として東京市麹町区一番町で生まれる。麹町の富士見小学校出身。東京女子師範附属女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)を卒業後、佐々木弘綱・信綱の元で和歌を学んだ。1895年、小屋保治と結婚(保治は大塚姓になった)。夫が留学中、英語を明治女学校で学ぶほか、絵画を橋本雅邦に師事、ピアノや料理なども学んだ。
檀野 礼助(檀野 禮助、だんの れいすけ、1875年(明治8… 檀野 礼助(檀野 禮助、だんの れいすけ、1875年(明治8年)8月9日 - 1940年(昭和15年)3月20日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・繁夫。 長崎県彼杵郡矢上村(現長崎市)の旧佐賀藩郷士・檀野勝次、とう夫妻の長男として、高来郡諫早村の母の実家で生まれる。現川小学校、長崎県尋常中学校、第五高等中学校を経て、1899年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業した。 大学卒業後、三井物産に入社し、シンガポール出張所長、バンコック出張所長、台北出張所長、若松出張所長を歴任。1913年2月、北海道炭礦汽船に転じ、商務課長、売炭部長を務めた。その後、南洋貿易 (株) を設立して社長に、また、東京海運 (株) を設立して常務取締役にそれぞれ就任。
市村 光恵(いちむら みつえ、1875年(明治8年)8月5日… 市村 光恵(いちむら みつえ、1875年(明治8年)8月5日 - 1928年(昭和3年)9月27日)は、日本の憲法学者、政治家。京都市長。 1875年(明治8年)8月5日、高知県高岡郡蓮池村芋岡(現:土佐市)に生まれる。1894年(明治27年)高知尋常中学校、1902年(明治35年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業。 東京帝国大学講師になる。1903年(明治36年)京都帝国大学助教授に、1909年(明治42年)京都帝国大学教授に就任。翌年、法学博士の学位を受く。昭和2年(1927年)京都市長に選任されたため、大学を退官し、名誉教授となる。昭和3年(1928年)9月27日、53歳で死去。墓は京都市上賀茂大乗寺境内。
米田 奈良吉(よねだ ならきち、1875年(明治8年)8月5… 米田 奈良吉(よねだ ならきち、1875年(明治8年)8月5日 – 1938年(昭和13年)12月16日)は、逓信官僚。 奈良県出身。1901年(明治34年)に東京帝国大学法科大学を卒業後、同大学院で学び、1902年高等文官試験に合格した。逓信省通信書記、通信事務官、一等郵便局長、長野郵便局長、逓信管理局事務官、関東都督府事務官、逓信省参事官、九州逓信局長などを歴任した。1924年(大正13年)、逓信次官に就任した。 退官後、第15回衆議院議員総選挙に出馬したが、当選を果たせなかった。 その後、逓信協会会長を務めた。
工藤 鉄男(工藤 鐵男、くどう てつお、1875年8月5日 … 工藤 鉄男(工藤 鐵男、くどう てつお、1875年8月5日 - 1953年6月16日)は、大正・昭和期の日本の政治家。行政管理庁長官(第3代)。衆議院議員(7期)。参議院議員(1期)。 青森市出身。日本大学法学部を卒業後、二六新報、日本新聞にて記者を務める。日露戦争では従軍記者を務め、日露戦争後は日比谷焼打事件に連座したこともある。 その後ロンドン大学に学び、日大歯科医専講師などを経て青森に帰郷し、普選運動を展開する。1924年の第15回衆議院議員総選挙に憲政会から立候補し、青年団体などの支持を集め初当選する。以後通算当選7回。戦前は憲政会・立憲民政党に所属し、1931年の第2次若槻内閣で文部参与官、1938年の第1次近衛内閣にて厚生政務次官を歴任する。
柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31… 柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の官僚、民俗学者。 東京帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)を卒業して農商務省(現在の経済産業省・農林水産省)官僚となり、貴族院書記官長(現在の衆議院事務総長/参議院事務総長に相当)まで昇り詰めた。退官して約20年を経た1946年(昭和21年)に枢密顧問官に補され、枢密院が廃止されるまで在任した。 日本学士院会員、日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は正三位・勲一等。出版物等においては、常用漢字体による「柳田 国男」という表記も使用される。 「日本人とは何か」という問いの答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行した。
箭内 亙(やない わたり、1875年〈明治8年〉7月17日 … 箭内 亙(やない わたり、1875年〈明治8年〉7月17日 - 1926年〈大正15年〉2月10日)は、日本の東洋史家、東京帝国大学教授。号は尚軒。モンゴル史研究に業績を残した。次男は歴史学者の箭内健次。 福島県西白河郡泉崎村出身。1889年(明治22年)福島県立安積中学校に入学、1894年(明治27年)3月卒業の後、仙台市の第二高等学校を経て、東京帝国大学文科卒。1907年に第一高等学校講師となる。1908年満州朝鮮歴史地理調査部部員となり、白鳥庫吉の指導で調査にあたる。1910年(明治43年)に教授となる。1919年(大正8年)東京帝大東洋史学科助教授、ついで1925年から教授を務めた。 1926年2月10日、胃潰瘍のため死去する。
高橋 龍太郎(たかはし りゅうたろう、1875年(明治8年)… 高橋 龍太郎(たかはし りゅうたろう、1875年(明治8年)7月15日 - 1967年(昭和42年)12月22日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、大日本麦酒社長、高橋ユニオンズオーナー、日本サッカー協会会長(第3代)。 ビール製造技術者から経営者となり、「日本のビール王」とも称される。 愛媛県喜多郡内子村(現内子町)生まれ。旧制松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)卒業後、東京高等商業学校(現一橋大学)に進学するも、脚気の治療のための転地を兼ねて新設された第三高等学校(現京都大学)工学部機械工学科に転校、1898年に卒業する。 高等学校卒業後、大阪麦酒(後の大日本麦酒、現・アサヒグループホールディングスおよびサッポロホールディングス)に入り、1898年から6年間ドイツに留学して醸造技術を学び、帰国後は製造責任者としてビール造りに携わる。
青木 亮貫(あおき りょうかん、1875年(明治8年)7月1… 青木 亮貫(あおき りょうかん、1875年(明治8年)7月15日 - 1941年(昭和16年)8月4日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、医師。 滋賀県甲賀郡、のちの水口村(水口町を経て現甲賀市水口町)に、士族隠岐貢の五男として生まれ、青木亮運の養子となった。大阪府立高等医学校(現在の大阪大学医学部)で内科と精神科を学び、1904年(明治37年)に卒業した。卒業後は大阪府立高等医学校病理教室助手兼大阪府立病院医員となり、日露戦争に従軍した。その後、日本赤十字社医員を経て、社団法人水口病院院長となった。 1915年(大正4年)に滋賀県会議員に当選し、1926年(大正15年)には水口町長に選ばれた。
林 古溪(はやし こけい、1875年〈明治8年〉7月15日 … 林 古溪(はやし こけい、1875年〈明治8年〉7月15日 - 1947年〈昭和22年〉2月20日)は歌人、作詞家、漢文学者、立正大学教授、東洋大学講師。本名は竹次郎。東京・神田出身。哲学館(現東洋大学)教育学部卒。 林羅山に連なる家系で、代々学者の家柄である。林家の次男として東京神田に生まれる。 幼少時代を神奈川県愛甲郡古沢村(現厚木市)で過ごし、古渓の筆名はこの古沢村から採ったという。 10歳の時に父を失って以来、池上本門寺に入って修行。さらに哲学館(現東洋大学)に入学すると国漢を学んだ。漢詩に非凡な才を見せたが、一方で新体詩のグループを作っては積極的に活動を始めた。卒業後、同校付属の京北中学校で国漢科教員となり、生徒たちから「達磨さん」と呼ばれて慕われたという。
馬場 恒吾(ばば つねご、1875年7月13日 - 1956… 馬場 恒吾(ばば つねご、1875年7月13日 - 1956年4月5日)は、日本のジャーナリスト・政治評論家・実業家。ジャパンタイムズや国民新聞などで自由主義擁護の論陣を張る。第二次大戦後、読売新聞社社長。 岡山県邑久郡長浜村奥浦(現・瀬戸内市牛窓町)に、代々庄屋を務めた馬場家の長男として生まれる。1892年、京都の第三高等学校予科に入学。1895年、三高予科を修了し、仙台の第二高等学校入学。東北学院で押川方義が行っていた聖書の講義に通い、メソジストとして洗礼を受ける。1896年、二高中退。1897年、安部磯雄を追って同志社神学校(現・同志社大学神学部)に入学するが、葛藤の末キリスト教と決別し、一年弱で中退。
景浦 直孝(かげうら なおたか、1875年(明治8年)7月1… 景浦 直孝(かげうら なおたか、1875年(明治8年)7月12日 - 1962年(昭和37年)8月19日)は、明治時代から昭和中期にかけての愛媛県の郷土史家。号は景浦稚桃。 愛媛県松山城下北夷子町72番戸(現松山市三番町2丁目1-3)に、士族景浦充孝の子として生まれる。1894年(明治27年)愛媛県立伊予尋常中学校(後の旧制松山中学校)を卒業。湯殿高等小学校訓導を経て、1901年(明治34年)に松山高等女学校(現松山南高校)の教諭となり、1926年(大正15年)の退職、1926年(大正15年)から1938年(昭和13年)までは北予中学校(現松山北高校)の教諭となる。 1910年(明治43年)愛媛県の公刊事業で、『愛媛県誌稿』の編纂が始まり、景浦は委員に委嘱される。
青山 禄郎(あおやま ろくろう、1875年(明治8年)7月6… 青山 禄郎(あおやま ろくろう、1875年(明治8年)7月6日 - 1940年(昭和15年)1月6日)は、日本の技術者、実業家。日本信号創業者。電信・無線・信号・電気事業の分野で幾つもの国家的重責を担った。日産自動車のダットサン(DAT)のAは青山に由来する。 1875年(明治8年)7月6日に岡崎で父・鈴山巌と母・智恵の間に生まれる。愛知県額田郡高等小学校卒業。静岡中学校を中退し、1891年(明治24年)9月に上京して東京郵便電信学校に転校した。1892年(明治25年)に青山家に養嗣子として入籍した。1893年(明治26年)に東京郵便電信学校を首席で卒業し、逓信技手に任ぜられ逓信省電務局に勤務した。
戸部 良祐(とべ りょうすけ、1875年7月6日 - 193… 戸部 良祐(とべ りょうすけ、1875年7月6日 - 1934年12月19日)は、日本の実業家・政治家。衆議院議員(1期)。 石川県出身。1900年、陸軍教導団歩兵科卒。のちに明治法律学校で学ぶ。日露戦争に従軍し、帰国後は小学校訓導、石川県立第二中学校(現・石川県立金沢錦丘中学校・高等学校)助教諭心得、第四高等学校助教授となり、区長、七尾町助役、鹿島郡会議員、七尾町議、石川県議となる。また、能登部銀行監査役、七尾無尽(株)取締役社長、能登藁工品同業組合、鹿島郡蚕糸同業組合各組合長を務めた。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において石川2区から立憲民政党公認で立候補して当選し、衆議院議員を1期務めた。
鹿島 精一(かじま せいいち、1875年(明治8年)7月1日… 鹿島 精一(かじま せいいち、1875年(明治8年)7月1日 - 1947年(昭和22年)2月6日)は、大正から昭和時代前期の土木工学者、実業家、政治家。鹿島組社長、土木学会会長、貴族院勅選議員。 旧盛岡藩士葛西晴寧、すえの長男として岩手県岩手郡上田村(現在の盛岡市上田)に生まれる。翌年父晴寧が死去し、家族は仁王村字下台(現在の盛岡市梨木町)母の実家出渕家に引き取られる。盛岡中学を経て、1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、逓信省鉄道作業局に出仕する。同年、鹿島組組長の鹿島岩蔵の長女と結婚し、養嗣子となり、鹿島組副組長に就任する。1912年(明治45年)養父の岩蔵の死去により、37歳にして3代目鹿島組組長となり、1930年(昭和5年)鹿島組を株式会社に改組し、初代社長に就任した。
二反長 音蔵(にたんちょう おとぞう、1875年(明治8年)… 二反長 音蔵(にたんちょう おとぞう、1875年(明治8年)7月1日 - 1951年(昭和26年)8月7日)は、日本の農民・農業技術者。阿片の材料となるケシの日本国内栽培に尽力した。「日本の阿片王」と称された。 大阪府三島郡福井村(現在の茨木市)の出身。旧姓は川端。 20歳頃よりアヘン材料となるケシの栽培に興味を示し、台湾総督府要人の後藤新平のバックアップを得ることに成功、福井村でケシ栽培をはじめる。以後ケシの栽培技術と品種の改良に努め、モルヒネ含有量が従来品種の数倍多い三島種を開発した。 昭和戦前期に日本は満州・朝鮮・内蒙古などの植民地・占領地でケシを栽培してアヘンを製造し、これが軍部の収入源となっていた。
山口 左一(やまぐち さいち、1875年(明治8年)6月26… 山口 左一(やまぐち さいち、1875年(明治8年)6月26日 - 1936年(昭和11年)9月8日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員。神奈川県中郡高部屋村長。 山口左七郎の長男として、神奈川県、のちの中郡高部屋村(伊勢原町を経て現伊勢原市)に生まれる。1912年(明治45年)2月に家督を相続する。 同志社卒業。農業を営む傍ら、高部屋村収入役、同村長、同村会議員、所得税調査委員、中郡農会副会長、県農会議員、帝国農会議員を歴任した。 実業界では産業組合中央会県支会副会長、伊勢原銀行頭取、伊勢原電気、横浜興業信託、相武電力、神奈川県農工銀行各取締役、相模銀行、農工信託各監査役を務めた。
武井 真澂(たけい しんちょう、1875年(明治8年)6月2… 武井 真澂(たけい しんちょう、1875年(明治8年)6月24日 - 1957年(昭和32年)6月3日)は、日本の山岳画家。本名は真澄。 長野県諏訪郡豊田村十川(現・諏訪市)に生まれる。1896年に東京美術学校本科を卒業。1900年(明治33年)から1914年(大正3年)まで旧制長野県立松本中学校で図画を教えた。退職後は東京に住みながら、長野県内を主体に山梨県・富山県・静岡県などの山に登り、山岳画を描いた。
中原 芳煙(なかはら ほうえん、1875年(明治8年)6月2… 中原 芳煙(なかはら ほうえん、1875年(明治8年)6月24日 - 1915年(大正4年)6月20日)は明治・大正時代の日本画家。 島根県邑智郡都賀行村大字潮村(現・美郷町)に、農業と鉄山経営をしていた旧家の当主・源吉郎の次男として生まれた。本名は佐次郎、画号を芳煙という。 幼い頃から絵を好み、那賀郡町村組合立石見学校(現・島根県立浜田高等学校)を卒業後、1896年(明治29年)9月、画家を志して東京美術学校(現・東京藝術大学)に進学、川端玉章に師事した。 日本画本科2学年の時に美術学校生徒成績品展覧会で「秋野鹿図」が一等褒状を受賞した。 師の玉章は芳煙の画風を推賞して惜しまなかったといわれる。
松下 禎二(まつした ていじ、1875年(明治8年)6月21… 松下 禎二(まつした ていじ、1875年(明治8年)6月21日 - 1932年(昭和7年)6月23日)は、日本の衆議院議員(庚申倶楽部)、医学者。 鹿児島県高城郡西方村(現在の薩摩川内市西方町)出身。1890年(明治23年)、第五高等中学校医学部に入学し、1894年(明治27年)に卒業した。 1897年(明治30年)よりドイツに留学し、フライブルク大学・ギーセン大学・ハレ大学・ブレスラウ大学で植物学・動物学・物理学・鉱物学・内科学・病理学・衛生学・細菌学・耳鼻咽喉科学・哲学・心理学・論理学などを学んだ。 1902年(明治35年)に帰国し、翌年3月17日に医学博士の学位を得た。同年、京都帝国大学医科大学教授となり、衛生学講座を担当した。
阿部 宗孝(あべ むねたか、1875年(明治8年)6月20日… 阿部 宗孝(あべ むねたか、1875年(明治8年)6月20日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の教育者。山口県豊浦郡( 現・下関市)の出身である。東京府立六中(都立新宿高校)初代校長、府立高等学校2代目校長。 1875年(明治8年)6月20日、山口県豊浦郡豊田中村(現:下関市豊田町)に、豊浦藩藩士・阿部宗忠の二男として出生。初め伝(つたえ)、1911年(明治44年)に宗孝と改名し、陸柱と号した。兄が早逝したため嫡子となった。 1902年(明治35年)に東京帝国大学文科大学国史科を卒業後、神奈川県立第二中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)へ教諭として赴任した。赴任当初は絣木綿の着物に袴をつけていたことからまるで書生のようであったという。
末松 偕一郎(すえまつ かいいちろう、1875年6月18日 … 末松 偕一郎(すえまつ かいいちろう、1875年6月18日 - 1947年6月26日)は、日本の内務官僚、政治家、教育者。官選県知事、衆議院議員、別府市長。 小倉藩医・末松玄洞の三男として生まれる。1898年、第五高等学校大学予科第一部(法科)を卒業。1902年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1901年11月、文官高等試験に合格。内務属となり内務省地方局勤務となる。 1903年12月、静岡県参事官に就任し、同県事務官・第二部長、福岡県事務官・第三部長、同第二部長、内務書記官、清国政府聘用(自治局顧問)、山梨県事務官・警察部長、法制局参事官などを歴任。 1915年3月、徳島県知事に就任。
隅田 豊吉(豐吉、すだ とよきち、1875年(明治8年)6月… 隅田 豊吉(豐吉、すだ とよきち、1875年(明治8年)6月15日 – 1942年(昭和17年)6月18日)は、明治末から昭和前期の農業経営者、政治家、実業家。衆議院議員、和歌山県那賀郡池田村長。 和歌山県那賀郡、のちの池田村(打田町を経て現紀の川市)で隅田小三郎の長男として生まれた。和歌山県立和歌山中学校(現和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)を卒業。農業を営んだ。 1907年(明治40年)5月、池田村会議員に選出され、同年9月、那賀郡会議員当選し、同議長に就任して1期・4年在任。1911年(明治44年)9月、和歌山県会議員に当選し、1915年(大正4年)9月に再選された。1916年(大正5年)2月、池田村長に就任し約8ヵ月在任した。
日高 胖(ひだか ゆたか、1875年6月15日 - 1952… 日高 胖(ひだか ゆたか、1875年6月15日 - 1952年12月20日)は、日本の建築家。 旧住友財閥において多くの建築物の設計を手がけた。アール・ヌーヴォー様式の神本理髪店の設計や、住友ビルディングの建設の総指揮をとったことなどで知られる。
原 夫次郎(はら ふじろう、明治8年(1875年)6月14日… 原 夫次郎(はら ふじろう、明治8年(1875年)6月14日 - 昭和28年(1953年)11月26日)は、日本の政治家、弁護士。島根県知事(1期)、衆議院議員。位階は従四位。勲二等旭日重光章。 島根県楯縫郡、のちの簸川郡檜山村(平田町、平田市を経て現出雲市)出身。和仏法律学校(現・法政大学)仏語法科卒。 明治29年(1896年) 文官高等試験司法科に合格し、以後、判事や検事などを歴任。明治32年(1899年) 弁護士試験に合格。 明治40年(1907年) フランスへ留学(パリ大学、グルノーブル大学)。仏国法学博士を授与される。 帰国後、法政大学講師や司法大臣秘書官を務める。大正元年(1912年) 首相秘書官となり原敬や清浦奎吾らを支える。
根来 源之(ねごろ もとゆき、1875年(明治8年)6月14… 根来 源之(ねごろ もとゆき、1875年(明治8年)6月14日 - 1939年(昭和14年)4月18日)は、日系アメリカ人[要出典]の労働運動者である。 和歌山県池田村(後の打田町、現在の紀の川市)に生まれる。福沢塾(慶応義塾大学)出身の本多和一郎の門人となり彼が建てた共修学舎で学び、卒業後法学を学ぶために渡米した。カリフォルニア大学に入学し、苦労を重ねながらも法学博士を取得しハワイのホノルルにて法律事務所を開設する。 その後は、日本人のハワイ移民による労働の改善のために1905年に革新同志会を創設し、ホノルル日本国総領事の更迭に貢献した。1908年には人種差別問題による賃金改善の目的で同地で活動る耕地労働者のために、翌1909年までにハワイ移民約7000人の大規模なストライキを起こし首謀者として指導し、後に逮捕され投獄された。
織田 秀実(おだ ひでざね、1875年(明治8年)6月11日… 織田 秀実(おだ ひでざね、1875年(明治8年)6月11日 - 1907年(明治40年)4月1日)は、明治時代の華族。尚長流織田家14代当主。 大和柳本藩13代藩主織田信及の次男。夫人は久邇宮朝彦親王の九女純子。子は織田信一(長男)、織田長利(次男)ら4男1女。官位は従四位。爵位は子爵。 1889年(明治22年)10月11日、家督を相続して子爵に叙される。1899年(明治32年)7月、学習院高等学科を卒業する。1901年(明治34年)11月、久邇宮朝彦親王の九女純子と結婚する。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学を卒業する。1907年(明治40年)4月1日死去、享年33。 秀実の死後、信一が継ぐも夭折したため、弟の長利は1904年生で子爵を継承し、1909年に相続、長男に長功(1930年生)を儲けたのち1961年に死去、しかし長功の一人娘の彰子(1966年生)は2008年に死去し長功自身も2016年に死去したため、男系および尚長流織田家は断絶した。
小田内 通敏(おだうち みちとし、1875年6月6日 - 1… 小田内 通敏(おだうち みちとし、1875年6月6日 - 1954年12月4日)は、日本の地理学者、教育者。 秋田県秋田市出身。1899年に高等師範学校の地理歴史科専修科を卒業し、早稲田中学校の教員となった。1914年に早稲田大学の講師に招かれ地理学を講義し、1925年には慶應義塾大学に招かれ地理学を講義した。戦後は国立音楽大学の教授となっている。 郷土会に参加し、1926年に人文地理学会を創設した。1930年には文部省の教育制度調査を嘱託され、尾高豊作らとともに郷土教育連盟を創設した。
河原 操子(かわはら みさおこ、1875年6月6日 - 19… 河原 操子(かわはら みさおこ、1875年6月6日 - 1945年3月7日)は、日本の女子教育者。婚氏は一宮。日本人女性として初めて中国の女子教育に携った先駆者と評される一方、日露戦争時の対露特別任務隊を支援したことからスパイとも評される。 筑摩県筑摩郡松本北深志町(現・長野県松本市)に旧松本藩士・河原忠の長女として生まれる。長野県師範学校女子部を卒業後、2年間附属小学校の教員として勤める。1895年東京女子高等師範学校に入学するも、翌年肋膜炎により中退する。1899年、長野高等女学校(現 長野西高等学校)に奉職する。1990年長野に来た下田歌子を訪ねたのをきっかけに、下田の推薦で、横浜で中国人が経営していた在日清国人教育機関「大同学校」の教師となる。
小松原 隆二(こまつばら たかじ、1875年(明治8年)6月… 小松原 隆二(こまつばら たかじ、1875年(明治8年)6月2日 - 1944年(昭和19年)12月17日)は、日本の教育者、文部官僚。 岡山県出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学文科大学英文学科を卒業。1902年(明治35年)、第七高等学校造士館教授に就任し、1908年(明治41年)に第八高等学校教授に転じた。1922年(大正11年)、文部省督学官となり、翌年には姫路高等学校校長に就任した。その後、第八高等学校校長となり、1940年(昭和15年)1月に退官した。退官後は第八高等学校名誉教授の称号を受けた。 また同年3月から翌年にかけて、富山高等学校校長事務取扱を務めた。
五来 欣造(ごらい きんぞう、1875年(明治8年)6月 -… 五来 欣造(ごらい きんぞう、1875年(明治8年)6月 - 1944年(昭和19年)8月1日)は、日本の政治学者、文学者、読売新聞主筆、明治大学教授、早稲田大学教授、皇化連盟代表。茨城県出身。五来素川(ごらい そせん)や斬馬剣禅(ざんば けんぜん)の筆名での作品を残す。青年時代に植村正久の教えをうけた敬虔なクリスチャンであった。
入沢 重麿(いりさわ しげまろ、1875年(明治8年)6月 … 入沢 重麿(いりさわ しげまろ、1875年(明治8年)6月 - 没年不詳)は、関東州官僚・朝鮮総督府官僚。青島民政署長。 旧徳山藩藩士入沢義温の長男。1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、台湾総督府属となった。1903年(明治36年)高等文官試験に合格し、1905年(明治38年)に関東州民政署事務官となった。旅順民政署長事務取扱、関東都督府参事官・事務官、同秘書官を歴任。1912年(大正元年)、朝鮮総督府書記官に転じ、京畿道第一部長などを務めた。さらに青島守備軍に転じ、民政部総務部長、青島民政署長を務めた。 退官後は、朝鮮鉄道株式会社副社長に就任した。
神野 三郎(かみの さぶろう、1875年(明治8年)5月28… 神野 三郎(かみの さぶろう、1875年(明治8年)5月28日 - 1961年(昭和36年)4月30日)は、愛知県西春日井郡清洲村(現・清須市)出身の実業家。養父である初代神野金之助の下で神野新田の開拓責任者となり、また1943年(昭和18年)に設立された中部瓦斯の初代社長を務めた。豊橋市名誉市民。出生名は竹田 三郎(たけだ さぶろう)。 改称については明らかとなる資料は見つかって無く諸説あるが、書籍の神野三郎伝に神野三郎の昭和34・35年頃の談話として、改称について次のような記述がある。 「最初は、確かに、ジンノだった。新田もジンノ新田だったが、大正の始め頃本家が、カミノと改めたので、わしのほうも、自然と、カミノになったのだ。
草間 八十雄(くさま やそお、1875年(明治8年)5月26… 草間 八十雄(くさま やそお、1875年(明治8年)5月26日 - 1946年(昭和21年)1月28日)は、明治から昭和前期の公吏、新聞記者、作家。東京市幼年少年保護所長を歴任。 筑摩県筑摩郡(現・長野県松本市)に生まれる。松方デフレで家業の米穀商が傾き一家で上京。1898年に和仏法律学校を卒業。翌年から警視庁勤務、1903年に退職し、中央新聞・東京日日新聞・日本新聞・大正通信等の記者、内務省嘱託を経て、1922年(大正11年)に東京市社会局嘱託、1928年(昭和3年)に東京市主事、東京市社会局保護課、1933年(昭和8年)に東京市幼少年保護所長に就任する。終戦直後の1946年(昭和21年)に世田谷区の被災者用バラックで死去した。
水野 広徳(みずの ひろのり、旧字体: 水野 廣德、明治8年… 水野 広徳(みずの ひろのり、旧字体: 水野 廣德、明治8年(1875年)5月24日 - 昭和20年(1945年)10月18日)は、日本海軍の軍人・軍事評論家。最終階級は海軍大佐。父は旧松山藩能方の水野光之で末子。
松戸 覚之助(まつど かくのすけ、1875年5月24日 - … 松戸 覚之助(まつど かくのすけ、1875年5月24日 - 1934年6月21日)は、明治から昭和にかけての梨農家。千葉県葛飾郡大橋村(後に八柱村、現在の松戸市)の人。「二十世紀」の発見者。 11歳の時に父親が新たに梨の栽培を始めた事から梨に興味を持つ。高等小学校2年(13歳)の時、分家の石井佐平の家を訪れた際にゴミ捨て場に芽を出している梨の苗木があるのを発見した。覚之助は石井より苗木を譲り受けて自宅に植えた。試行錯誤の末、23歳となった1898年に結実した。 覚之助は人を招いて試食したところ、多汁で甘く、肉質も柔らかであるとの評価を受けた。話を聞いた大隈重信も試食に与かったところ、高い評価を与えた。