甲斐中 文治郎(かいなか ぶんじろう、1898年(明治31年… 甲斐中 文治郎(かいなか ぶんじろう、1898年(明治31年)1月17日 - 1974年(昭和49年)12月24日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員 (1期) を務めた。 兵庫県城崎郡五荘村(現・豊岡市)栃江に生まれる。苦学の末、弁護士となり、内務省嘱託や斎藤隆夫の秘書になった。1947年五荘村長に就任、1950年に合併による豊岡市発足まで務めた。斎藤隆夫の死(1949年)を受けて地盤を受け継ぎ、1952年の第25回衆議院議員総選挙において兵庫5区から自由党公認で出馬して初当選。1953年の第26回衆議院議員総選挙で落選。1958年の豊岡市長選では現職の佐川辰夫に敗れた。
椎名 悦三郎(しいな えつさぶろう、1898年〈明治31年〉… 椎名 悦三郎(しいな えつさぶろう、1898年〈明治31年〉1月16日 - 1979年〈昭和54年〉9月30日)は、日本の官僚、政治家。岸信介の腹心 として満洲国の運営に関わり、また商工次官として統制経済を推進、軍需次官も務めた。戦後は政界入りし、内閣官房長官(岸内閣)、通商産業大臣(19代・28代)、外務大臣(94-95代)、自由民主党において政調会長、総務会長、副総裁を歴任した。田中角栄の後継の総裁として三木武夫を指名した「椎名裁定」を下した人物として知られている。椎名素夫は次男、血縁のない叔父に後藤新平がいる。 1898年(明治31年)に岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て、現在の奥州市)に生まれる。
洪 性夏(ホン・ソンハ、朝鮮語: 홍성하、1898年1月15… 洪 性夏(ホン・ソンハ、朝鮮語: 홍성하、1898年1月15日 - 1978年)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教授、政治家、サッカー組織幹部。制憲韓国国会議員。政界では金融通として知られる。 慶尚南道東萊(現・釜山広域市)または全羅南道光山出身。中央大学政治科もしくは経済科卒。日本統治時代は普成専門学校(現・高麗大学校)教授・評議員、京城第一プリント社経営者を務め、解放後は韓国民主党中央執行委員・中央常務委員・労農部長・青年部長、中央労働調整委員、非常国民会議代議員、大韓国民代表民主議院特別経済専門委員、民族統一総本部宣伝部長、過度政府立法議院議員などを務めた。李承晩が大統領に就任し、ソウル東大門甲選挙区の制憲国会議員に欠員が出た後に実施した1948年の補欠選挙で、韓国民主党の候補として国会議員に当選し、国会財経委員長・金融通貨委員長・財政金融委員長・税制分科委員長を務めた。
斎藤 晌(齋藤 晌、さいとう しょう、1898年1月15日 … 斎藤 晌(齋藤 晌、さいとう しょう、1898年1月15日 - 1989年5月11日)は、日本の哲学研究者、東洋大学名誉教授、明治大学名誉教授。 1898年、愛媛県生まれ。実家は宇和島藩の藩校の儒学者の家系で、早くから漢籍に親しむ。1924年、東京帝国大学文学部哲学科を卒業。 卒業後は東洋大学教授、大東文化学院教授などを務めた。1943年より日本出版会常務理事。1944年に辞職した。 太平洋戦争が終結すると、占領期にはかつての論説等が戦争協力にあたるとされ、公職追放の対象となった。公職追放解除後、1952年より明治大学教授、1953年からは東洋大学教授を兼任。1956年より東洋大学文学部長。1969年に定年退任した。
村上 肇(むらかみ はじめ、1898年(明治31年)1月15… 村上 肇(むらかみ はじめ、1898年(明治31年)1月15日 - 1978年(昭和53年)8月21日)は、元多芸村長、化学者である。岐阜県養老郡養老町橋爪出身。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
内田 登一(うちだ とういち, 1898年1月15日-197… 内田 登一(うちだ とういち, 1898年1月15日-1974年8月17日)は、日本の昆虫学者。北海道大学名誉教授。専門はヒメバチ類の分類。農林害虫に関する論文も多数著し、昆虫生態学の研究をすすめ、指導的役割を果たした。 1898年(明治31)1月15日、埼玉県に生まれる。 1918年(大正7)北海道帝国大学予科に入学し、その後松村松年教授に師事、昆虫学を学ぶ。1924年(大正13)3月、北海道帝国大学農学部農業生物学科を卒業し、4月より同大学農学部助手となる。1930年(昭和5)5月、同大学農学部助教授となり、9月に農学の博士号を取得した。1935年には動物学昆虫学養蚕学の講座を担当している。
内田 保秀(うちだ やすひで、明治31年(1898年)1月1… 内田 保秀(うちだ やすひで、明治31年(1898年)1月14日 - 昭和32年(1957年)6月23日)は日本の実業家、政治家。元米吾代表取締役。内田家の12代目。元米子市議会副議長。 大正15年(1926年)社長職に就いた保秀にとって、先代・秀蔵とともに建設を始めた「米子米吾ビル」の竣工が初仕事となった。 昭和22年(1947年)、米子市議会議員に立候補し初当選を果たした。昭和24年(1949年)には、「米吾」を有限会社とした。昭和28年~30年(1953~1955年)には市議会副議長をつとめた。 内田家は代々米問屋を家業としていた。明治7年(1874年)廃業、旅館経営へ転業。明治35年(1902年)国鉄山陰線敷設以来、米子駅構内営業を始める。
船田 享二(ふなだ きょうじ、1898年〈明治31年〉1月1… 船田 享二(ふなだ きょうじ、1898年〈明治31年〉1月13日 - 1970年〈昭和45年〉3月14日)は、日本の法学者(ローマ法)、教育者、政治家。教育者として作新学院院長。政治家として衆議院議員(当選3回)、行政管理庁長官、賠償庁長官。叙従三位、叙勲一等授瑞宝章。 政治家一家として知られた「船田三兄弟」の次男で、衆議院議長となった船田中は兄、自治大臣や運輸大臣などを歴任した藤枝泉介は実の弟にあたる。また夫人の船田文子は主婦連副会長をつとめた。 1898年1月13日、船田兵吾(作新学院創設者)の次男として、栃木県宇都宮市に生まれる。一高を経て1921年東京帝国大学法学部英法科卒業。1924年から1926年までローマ法研究のためフランス・ドイツ・イタリア・イギリスに留学。
人見 誠治(ひとみ せいじ、1898年(明治31年)1月12… 人見 誠治(ひとみ せいじ、1898年(明治31年)1月12日 - 1978年(昭和53年)1月16日)は、日本のジャーナリスト、マスメディア経営者。 1898年(明治31年)秋田市中亀ノ丁に生まれる。1915年(大正4年)に秋田中学校を卒業し、小学校代用教員などを務める。 1927年(昭和2年)、秋田魁新報社に入社。運動部記者、政経部記者を経て、計画部長兼地方部長、計画部長兼社会部長、業務局次長兼計画部長などを歴任し、1943年(昭和18年)取締役に就任する。以後、常務取締役業務局長、専務取締役を務め、1946年(昭和21年)11月代表取締役社長に就任、同社の経営に当たった。1953年(昭和28年)、ラジオ東北株式会社を設立(代表取締役社長)。
薄田 七郎(うすだ しちろう、1898年〈明治31年〉1月1… 薄田 七郎(うすだ しちろう、1898年〈明治31年〉1月12日 - 1983年〈昭和58年〉10月22日)は、日本の病理学者、厚生技官、医師。医学博士。台北帝国大学医学部病理学教室病理学第一講座第2代教授。 新潟県中蒲原郡木戸村大字鴉俣(現 新潟市東区山木戸)の医師・薄田敬勝の長男として出生。 1915年(大正4年)3月に新潟中学校を卒業、1919年(大正8年)7月に第二高等学校を卒業、1923年(大正12年)4月に東京帝国大学医学部医学科を卒業。 東京帝国大学医学部病理学教室に入室、1925年(大正14年)1月に泉橋慈善病院内科医員に就任、1926年(大正15年)4月に同病院病理解剖科医員に就任、1932年(昭和7年)11月に東京帝国大学から医学博士の学位を取得。
奥田 達郎(おくだ たつろう、1898年(明治31年)1月1… 奥田 達郎(おくだ たつろう、1898年(明治31年)1月12日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 広島県出身。1921年(大正10年)、東京帝国大学法学部法学科を卒業し、高等試験に合格した。台湾総督府財務局事務官、台中州大屯郡守、台北州内務部勧業課長、高雄州警務部長、警務局衛生課長、財務局税務課長、台北州警務部長、殖産局特産課長などを歴任。1939年(昭和14年)、台中州知事に就任し、さらに米穀局長、食糧局長、国土局長を務めた。 1943年(昭和18年)に退官した後は、台湾食糧営団理事長に就任した。 戦後は広島市助役に任命された。
高田 賢治郎(たかだ けんじろう、1898年(明治31年)1… 高田 賢治郎(たかだ けんじろう、1898年(明治31年)1月12日 - 没年不詳)は、内務官僚。東京市・東京都区長。 京都府出身。1921年(大正10年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、翌年に高等試験行政科に合格した。大分県属、大阪府属、警視・群馬県警務課長、同保安課長、事務官・福岡県商工課長兼水産課長、熊本県学務部長を歴任し、1932年(昭和8年)に退官した。 1933年(昭和8年)に東京市主事となり、保健局庶務課監理係長、駒込病院事務長、監査局都市計画課長、世田谷区長、教育局防衛課長、城東区長、厚生局保護課長、神田区長、中央卸売市場長、芝区長を歴任した。
陸 直次郎(くが なおじろう、1898年1月12日 - 19… 陸 直次郎(くが なおじろう、1898年1月12日 - 1944年8月11日)は日本の作家。本名は野沢嘉哉(のざわ よしや)。東京府東京市本郷区(現・東京都文京区)本郷出身。 早稲田大学文科中退。中央新聞、時事新報、萬朝報、読売新聞に勤務。妻の清子は直次郎と死別した後、弁当屋の経営を経て小唄の師匠に転向、堀小代清の芸名で活動した。 息子は4人おり、三男はクラブ馬主「東京ホースレーシング」創業者の野沢直哉、四男は声優・俳優・演出家の野沢那智、孫にお笑いタレントの野沢直子(直哉の娘)、クリエイティブディレクターの野澤直龍(直哉の息子)、声優・俳優の野沢聡(那智の息子)、曾孫に格闘家の真珠・野沢オークレアー(直子の娘)。
福島 久作(ふくしま きゅうさく、1898年1月11日 - … 福島 久作(ふくしま きゅうさく、1898年1月11日 - 1990年11月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1898年 1月11日 埼玉県深谷市血洗島 出生 1920年 5月26日 陸軍士官学校32期 卒業 1929年11月29日 陸軍大学校41期 卒業 1940年 3月 9日 第8師団参謀長 1941年 3月 1日 歩兵第4連隊長 陸軍大佐 1942年 4月 1日 西部軍高級参謀 1945年 1月29日 第16方面軍 兼 西部軍参謀副長 1945年 3月 1日 陸軍少将 大東亜戦争で西部軍高級参謀から第16方面軍兼西部軍参謀副長(第2総軍)に転じ、本土決戦に備えていた。
松沢 兼人(松澤、まつざわ けんじん / かねんど / かね… 松沢 兼人(松澤、まつざわ けんじん / かねんど / かねと、1898年(明治31年)1月10日 - 1984年(昭和59年)5月23日)は、日本の社会運動家、教育者、政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(3期)。 新潟県北蒲原郡水原町(現阿賀野市)で、裁判官の息子として生まれる。父の転勤に伴い各地の小学校へ転校した。1915年、長野県立上田中学校を卒業し、第七高等学校造士館に入学。同年12月、メソヂスト鹿児島教会(現:日本基督教団鹿児島加治屋町教会)で洗礼を受けた。1918年、東京帝国大学法科大学政治学科に入学し、新人会の結成に加わった。1921年、同大法学部を卒業した。 卒業後、大阪市社会部に勤務し、その後、大阪労働学校主事兼講師に就任。
鶴 友彦(つる ともひこ、1898年(明治31年)1月10日… 鶴 友彦(つる ともひこ、1898年(明治31年)1月10日 - 1960年(昭和35年)9月1日[要出典])は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚、海軍司政長官。 鶴丈一郎の三男として大阪府大阪市に生まれる。第八高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科に入学し、在学中の1922年(大正11年)11月に高等試験行政科に合格。1923年(大正12年)同大卒業と同時に台湾総督府殖産局農務課に奉職。 翌年12月、台南州警務局警務課長に転じ、1927年(昭和2年)台北州内務部勧業課長、1930年(昭和5年)同州地方課長、1931年(昭和6年)総督府交通局参事、逓信部庶務課長兼海事課長、1933年(昭和8年)総督府高等海員審判所審判官、1935年(昭和10年)台中州内務部長を経て、1936年(昭和11年)台南州内務部長に就任。
村松 恒一郎(むらまつ こういちろう、1898年1月10日 … 村松 恒一郎(むらまつ こういちろう、1898年1月10日 - 1984年5月11日)は、日本の西洋史学者。一橋大学名誉教授。南山大学名誉教授。 東京府八王子生まれ。1919年に東京高等商業学校を、1921年に同校専攻部経済科を卒業。三浦新七門下。同年4月東京商科大学助手。1925年に東京商科大学予科教授兼助教授。 1926年からオーストリアに留学し、アルフォンス・ドプシュ(英語版)や、ベルリンでフリードリヒ・マイネッケに師事した。また、留学中和辻哲郎や大西克礼と交友を持った。1928年からイタリア、アメリカ合衆国に留学。 1936年東京商科大学教授。1946年東京商科大学附属図書館長。1949年一橋大学教授兼東京商科大学教授。
安 駿相(アン・ジュンサン、朝鮮語: 안준상、1898年1月… 安 駿相(アン・ジュンサン、朝鮮語: 안준상、1898年1月9日 - 1994年12月27日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、実業家、政治家、独立運動家。制憲韓国国会議員。 初代文教部長官の安浩相は従弟。 慶尚南道宜寧郡富林面立山里の耽津安氏(朝鮮語版)の世居地である立山村出身。東萊高等普通学校、正則英語学校(現・正則学園高等学校)卒。早稲田大学政経科2年修了。三・一運動のときは宜寧郡内の万歳運動を主導し、その後も族叔の安熙済の独立闘争活動を手伝った。また、立山学院長、古今社経営者、宜寧協同組合創立・経営者、馬山ゴム工業社経営者、薬草栽培園経営者を歴任した。光復後は慶尚南道ハングル文化普及会長、釜山東亜大学(現・東亜大学校)理事、独立促成国民会釜山支部副会長、朝鮮民族青年団慶尚南道団部理事、釜山一五倶楽部幹事、宜寧郡選出の国会議員、制憲同志会会長などを務めた。
宇都宮 直賢(うつのみや なおかた、1898年(明治31年)… 宇都宮 直賢(うつのみや なおかた、1898年(明治31年)1月9日 - 1997年(平成9年)6月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 本籍鹿児島県。東京府で鉄道省技師・宇都宮新の二男として生まれる。加治木中学校(現鹿児島県立加治木高等学校)を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付となる。1925年(大正14年)4月から1926年(大正15年)3月まで東京外国語学校英語科で委託学生として学んだ。 1930年(昭和5年)11月、陸軍大学校(42期)を卒業した。 1930年12月、近衛歩兵第4連隊中隊長に就任。1931年(昭和6年)9月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(米班)、参謀本部付(支那研究員、上海・香港駐在)、参謀本部付(上海武官補佐官)、陸軍省兵務局付(防諜班長)を務め、1938年(昭和13年)3月、歩兵中佐に昇進。
内田 正練(うちだ まさよし、1898年1月7日 - 194… 内田 正練(うちだ まさよし、1898年1月7日 - 1945年2月14日)は、日本の水泳選手。オリンピックに出場した日本最初の水泳選手の一人であり、日本でのクロール泳法の普及に尽力した。 静岡県浜松市に生まれる。内田家は浜松有数の名家で、父が産業家、母が産婦人科開業医師で、5人兄弟の二男であった。兄の内田千尋(東京帝国大学卒)が水府流太田派古式泳法の師範という環境で、内田も幼少時より水練に親しみ、古式泳法を習得した。 旧制浜松中学校(現在の静岡県立浜松北高等学校)に入学すると、浜松中水泳部に属して水泳を研鑽した。内田は部員にとって憧れの存在であり、1学年後輩の田畑政治も内田に憧れた1人であった。
箕田 貫一(みのた かんいち、1898年 <明治31年> 1… 箕田 貫一(みのた かんいち、1898年 <明治31年> 1月6日 - 1983年 <昭和58年> 1月13日)は、日本の経営者。栗本鐵工所社長を務めた。位階は正五位。 和歌山県出身。1926年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に日本綿花に入社した。1938年に栗本鐵工所に転じ、1944年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1950年8月から1953年3月までと1953年9月から1961年5月までに社長を務めた。 1965年に藍綬褒章を受章し、1968年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1983年1月13日老衰のために死去。85歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
本多 静雄(ほんだ しずお、1898年(明治31年)1月5日… 本多 静雄(ほんだ しずお、1898年(明治31年)1月5日 - 1999年(平成11年)5月6日)は、愛知県西加茂郡上郷村(現・豊田市)出身の実業家、陶芸研究家。愛知工業大学教授。猿投古窯跡を発見した功績で知られる。 1898年(明治31年)1月5日、愛知県西加茂郡上郷村花本(現・豊田市花本町)に生まれた。父は本多松三郎、母はちかであり、静雄は次男だった。 11歳だった1909年(明治42年)、宇佐美一夫の娘である7歳の宇佐美美恵と見合いし、美恵は静雄の許嫁となった。1910年(明治43年)に西加茂郡猿投第二尋常高等小学校(現・豊田市立青木小学校)を卒業し、1915年(大正4年)3月に愛知県立工業学校(現・愛知県立愛知工業高校)を卒業すると、同年4月には東京・神田の私立東京中学校(現・東京高等学校)に編入した。
山縣 昌夫(やまがた まさお、1898年(明治35年)1月4… 山縣 昌夫(やまがた まさお、1898年(明治35年)1月4日 - 1981年(昭和56年)3月3日)は、日本の船舶工学者。東京大学名誉教授。
樋浦 誠(ひうら まこと、1898年〈明治31年〉1月4日 … 樋浦 誠(ひうら まこと、1898年〈明治31年〉1月4日 - 1991年〈平成3年〉1月14日)は、日本の農学者。専門は植物病理学。農学博士(北海道帝国大学)。酪農学園大学初代学長。酪農学園短期大学初代学長。聖隷学園浜松衛生短期大学初代学長。 新潟県西蒲原郡西川町(現新潟市西蒲区)出身。 1916年東北帝国大学農科大学予科入学。1919年北海道帝國大学農学部に進学。 1922年北海道帝國大学農学部農業生物学科卒業。同農学部助手。1924年岐阜高等農林学校教授。1929年アメリカ・ヨーロッパ留学。1949年各種学校として酪農学園大学部を設立し、学長に就任。1950年酪農学園短期大学を設立に参画し、初代学長に就任。
鈴木 信雄(すずき のぶお、1898年〈明治31年〉1月4日… 鈴木 信雄(すずき のぶお、1898年〈明治31年〉1月4日 - 1979年〈昭和54年〉6月15日)は、日本の弁護士、政治家、実業家。勲等は勲三等。位階は従四位。 弁護士としては1921年(大正10年)の登録から50年以上に渡って活動し、その間に生地静岡県における三百屋の規制や被疑者の人権擁護などに役割を果たした。政治家としては戦前に立憲政友会の所属で静岡市議、静岡県議を務め、戦後も県政において保守派の重鎮として影響力を保った。その他、1976年(昭和51年)に設立された静岡県民放送の初代社長を務めるなど、県の行政分野にも影響を残している。 1898年(明治31年)1月4日、静岡県小笠郡笠原村の裕福な農家に生まれる。
栗林 友二(くりばやし ともじ、1898年1月3日 - 19… 栗林 友二(くりばやし ともじ、1898年1月3日 - 1977年8月8日)は、日本の実業家・篤志家・馬主。 実業家・政治家の栗林五朔の息子として北海道に生まれる。札幌中学を経て東京帝国大学農学部獣医学科を卒業後、イギリス・ケンブリッジ大学に留学。帰国後は父が興した栗林商船に入社し、後に会長を務めた。本業の傍らで競走馬の馬主としても著名であり「ミスター・ケイバ」と呼ばれ、全日本馬主協会連合会(現・日本馬主協会連合会)会長などを歴任した(後述)。1977年8月8日、肺炎により79歳で死去。 兄は栗林商船や栗林商会社長、政治家などを務めた栗林徳一。弟には南方林業の社長を務めた栗林定四朗がいる。長男・定友は栗林商船、三男・英雄は栗林運輸の社長を務めた。
貝塚 武男(かいづか たけお、明治31年(1898年)1月3… 貝塚 武男(かいづか たけお、明治31年(1898年)1月3日 - 昭和19年(1944年)10月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍兵学校46期生。
桜井 安右衛門(さくらい やすうえもん、1898年(明治31… 桜井 安右衛門(さくらい やすうえもん、1898年(明治31年)1月3日 - 1994年(平成6年)8月9日)は、日本の内務・厚生官僚。官選栃木県知事。 東京府出身。桜井常次郎の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1922年(大正11年)、東京帝国大学経済学部を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。農商務省を経て内務省に入省し社会局属となり労働行政畑を歴任。 1925年(大正14年)、第七回国際労働会議にジュネーブ帝国事務所書記兼社会局事務官の肩書で政府代表委員附として参加。 1938年(昭和13年)、厚生省大臣官房文書課長となる。1942年(昭和17年)1月、栃木県知事に就任。戦時下の対応に尽力。
熊澤 貞夫(くまざわ さだお、1898年1月3日 - 198… 熊澤 貞夫(くまざわ さだお、1898年1月3日 - 1986年1月8日)は、日本の経営者。神奈川県出身。 1920年に東京高等商業学校本科を卒業し、同年に王子製紙に入社。 1946年11月に取締役に就任し、1950年1月に常務、1952年11月に専務、1958年2月に副社長を経て、1967年4月に社長に就任した。1968年11月から相談役を務めた。 1986年1月8日心不全のために死去。88歳没。
五味 國男(ごみ くにお、1898年1月2日 - 没年不詳)… 五味 國男(ごみ くにお、1898年1月2日 - 没年不詳)は、日本の俳優、映画監督、元子役である。新漢字表記五味 国男。クレジットは五味 國雄(新漢字表記五味 国雄)と表記されることもあった。本名小崎 久雄(こさき ひさお)、父を初代とし、二代目 五味 國太郎(にだいめ ごみ くにたろう、新漢字表記五味 国太郎)を名乗ることもあった。 1898年(明治31年)1月2日、東京府東京市日本橋区(現在の東京都中央区日本橋)に生まれる。父は俳優の五味國太郎(1875年 - 1922年)、妹はのちに女優の五味國枝(1905年 - 没年不詳)になった。生年月日については、初期の文献である『日本映画年鑑 大正十三・四年』には「明治三十年一月二日」(1897年1月2日)、『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』では「明治三十年一月元旦」(1897年1月1日)とされている。
江口 孝(えぐち たかし、1898年 <明治31年> 1月1… 江口 孝(えぐち たかし、1898年 <明治31年> 1月1日 - 1985年 <昭和60年> 3月14日)は、日本の経営者、理学博士。福岡県出身。位階は従四位。 1920年に大阪高等工業学校応用化学科を卒業。1929年に海軍技師を経て、1944年に人道石油取締役に就任し、1951年に日本瓦斯化学工業専務を経て、1959年5月に副社長に就任し、1966年11月には社長に昇格した。1968年11月から相談役を務めた。 1962年11月に紫綬褒章を受章し、1968年に勲三等瑞宝章を受章。 1985年3月14日腎不全のために死去。87歳没。死没日付をもって従五位から従四位に進階した。
加藤 瀧二(滝二、かとう たきじ、1898年〈明治31年〉1… 加藤 瀧二(滝二、かとう たきじ、1898年〈明治31年〉1月1日 - 1984年〈昭和59年〉3月22日)は、昭和時代の政治家。官吏。埼玉県川越市長。 加藤甚左エ門の長男として、福井県大野郡下庄村(下庄町を経て、現大野市)に生まれる。1926年(大正15年)日本大学法文学部政治学科を卒業し、同年高等試験(行政科)に合格する。1927年(昭和2年)官界に入り、資源局企画課、拓務省文書課勤務、資源局統計官、総務企画部、資源局企画院総務部属を経て、1940年(昭和15年)8月に和歌山県経済部長となり、群馬県経済部長、富山県内務部長を歴任した。1947年(昭和22年)富山県知事選挙に立候補するも落選し、官界を退き川越へ移住する。
浜田 政二郎(はまだ まさじろう、1898年1月 - 198… 浜田 政二郎(はまだ まさじろう、1898年1月 - 1981年1月24日)は、日本のアメリカ文学者。 神戸市生まれ。1930年東北帝国大学英文科卒、宮城県立女子専門学校専任講師。1931年広島女学院専門学校教授、1934年米国南メソジスト大学大学院入学、1936年修士課程修了、1942年神戸高等工業学校専任講師、同教授、1949年神戸大学教授、1960年定年退官、甲南大学教授、1972年「アメリカのユートピア文学」で東北大学文学博士、1974年甲南大退職、名誉教授。 マーク・トウェインとウィラ・キャザーを研究した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
松田 義郎(まつだ よしろう、1898年 - 没年不詳)は、… 松田 義郎(まつだ よしろう、1898年 - 没年不詳)は、日本のアナウンサー。ラジオ創生期の日本放送協会で活動した。 生家は味噌・醤油醸造業の「松田屋」(松田甚兵衛参照)。旧制東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校・附属中学校)、旧制官立第四高等学校、早稲田大学政治経済学科を経て、兄とともに家業を手伝ったのち、1926年2月、社団法人東京放送局(のちの日本放送協会東京放送局)に入局。 株式市況、ニュース、天気予報の読み上げを担当したほか、肉声で時報を担当し、1932年末の自動化まで務めた[要出典]。 政府による各種式典の音声中継に、スタジオで予定稿とブザーによる合図を使ってアナウンスを追加する、「式典放送」と呼ばれる疑似実況放送を得意とした。
秦 秀雄(はた ひでお、1898年 - 1980年)は日本の… 秦 秀雄(はた ひでお、1898年 - 1980年)は日本の美術評論家・数寄者。骨董収集鑑定家・文筆家・随筆家でも著名である。号は「珍堂」。 明治31年(1898年)福井県三国の浄土真宗・本流院に生まれる。中学卒業後、得度して律師、釈円明と改名。上京して大正11年(1922年)東洋大学倫理科を卒業。福岡県中学修猷館、芝中学などで国語教師を務めるかたわら美術雑誌「茶わん」を発行。昭和5年(1930年)北大路魯山人の知遇を得て高級料亭・星岡茶寮の支配人となる。昭和12年(1937年)独立して東京目黒に驪山荘を経営。昭和18年(1943年)伊東温泉に疎開、昭和19年(1944年)驪山荘を閉じる。「陶和会」「落穂会」主宰。
榎田 竹林(えのきだ ちくりん、1898年(明治31年) -… 榎田 竹林(えのきだ ちくりん、1898年(明治31年) - 1974年(昭和49年))は、川柳作家。本名は圭太良(または桂太郎)。静岡市出身。 1916年(大正5年)3月、静岡県立静岡中学校卒業後、教職に就き、のち上京。川柳栗吟社同人として活躍。1923年(大正12年)に帰省、静岡川柳社を興す。以後門弟の育成に努め、1966年(昭和41年)4月、静岡県川柳協会会長。その間、静岡刑務所篤志面接委員、静岡新聞、NHKの文芸選者などを務め、静岡市教育文化功労者、静岡県文化奨励賞を受賞。 静岡市登呂公園に句碑が建ち、後に静岡市常磐公園に移され現在に至っている。夫人は川柳作家の榎田柳葉女(りゅうようじょ)。
柏田 武治(1898年(明治31年) - 没年不明)は、日本… 柏田 武治(1898年(明治31年) - 没年不明)は、日本の発明家。 奈良県五條町出身。奈良県立五條中学校(現在の奈良県立五條高等学校)卒業後に汽車製造株式会社に入社した。 汽車製造に勤務する傍ら大阪工業専修学校高等部機械科を卒業し、逓信省電気主任技術者資格検定試験第二種に合格した。汽缶や火爐に関する研究を行い、特許10件、実用新案9件を取得した。1938年(昭和13年)に帝国発明協会の全国発明表彰により、進歩賞が授与されている。
小倉 静三(おぐら せいぞう、1898年-1987年)は、日… 小倉 静三(おぐら せいぞう、1898年-1987年)は、日本の洋画家。谷口午二主宰の金羊会の結成メンバー。 鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)卒業。在学時期から大牟礼南島の指導を受けたと推定されている。 旧制中学卒業後は東京美術学校や川端画学校で学び、藤島武二、岡田三郎助らに師事したといわれているが定かではない。鹿児島に帰郷後は山下兼秀のすすめで、大嵩双山とともに谷口午二に師事し、金羊会を結成。 南國美術展の創設にも関わったとされる。その後、上京し、松坂屋宣伝部などに勤め、光風会展や日展に出品。また、示現会に所属。 優れた描写力を生かして戦争画も多く残した。
中原 靖夫(なかはら やすお、1898年 - 1970年)は… 中原 靖夫(なかはら やすお、1898年 - 1970年)は、日本の建築技師。大阪府建築課元技師。名古屋建築士補導所・第二職業訓練所元所長。愛知県総合建設共同高等訓練所元講師。 関西工学専修学校(現:大阪工業大学)建築科卒業。大阪府建築課に入庁、技師となる。戦時下で外地官庁技師の任務を経て、終戦により内地に引き揚げた後、名古屋建築士補導所・第二職業訓練所、岡崎職業訓練所の各所長を歴任。愛知県広域で名古屋・安城・刈谷・豊田の各建設職業訓練所講師を務める。また、愛知県総合建設共同高等訓練所講師、三重県上野建設訓練所講師も務めた。特に、これら東海地方の職業教育の功により勲五等瑞宝章を受章。
向井 參之充(むかい さんのじゅう、1898年(明治31年)… 向井 參之充(むかい さんのじゅう、1898年(明治31年) - 1963年(昭和38年))は、日本の化学者。熊本大学名誉教授。学位は工学博士。専門は応用化学。 本籍地は佐賀県。第八高等学校 (旧制)、九州帝国大学工学部を卒業ののち、九州帝国大学工学部助教授。京城帝国大学教授を経て、戦後は熊本大学教授。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
福嶋 俊翁(ふくしま しゅんおう、1898年 - 1981年… 福嶋 俊翁(ふくしま しゅんおう、1898年 - 1981年)は、禅学者、花園大学名誉教授。 京都帝国大学文学部哲学科卒。東福寺塔頭願成寺住職。花園大学教授、1969年定年、名誉教授。
宮岡 謙二(みやおか けんじ、1898年-1978年)は、日… 宮岡 謙二(みやおか けんじ、1898年-1978年)は、日本の経営者兼作家。元別府亀の井ホテルの社長。 ホテル経営の傍ら執筆。 子は6人。その内の一人は、トリニトロンカラーテレビ開発元ソニー常務の宮岡千里で、甥は元日本郵船社長の宮岡公夫。 1922年 慶應義塾大学政治科卒業大阪商船入社。以後、上海、ブエノスアイレスなどに勤務した。 1946年 大阪商船退職。別府亀の井ホテル入社。同ホテル北、不老町の社宅に住む。その間、国際ロータリー・クラブの発展につくし、また町内の役員もやり近所の住民からも好かれる。 1954年 1954年4月『死面列伝・旅芸人始末書:異国遍路』を執筆。この本はその後、『死面列伝・旅芸人始末書:異国遍路.明治会見記』宮岡謙二筆. 樋口配天著クレス出版2007年9月[復刻版]日本人物詩選集/記田順一郎監修・解説 第8巻に納められる。
平野 ミドリ(ひらの ミドリ、1898年 - 1983年)は… 平野 ミドリ(ひらの ミドリ、1898年 - 1983年)は、日本の看護師、公衆衛生看護学者。ボストンで公衆衛生看護学を学び、ミス・ヌノと共に聖路加国際病院公衆衛生部門を創設した。「日本の保健婦の母」と呼ばれる。「平野 みどり」とも。 父が英語学者の斎藤秀三郎と母・とらの三女として生まれる。平野真三の妻。兄はチェリストで指揮者の斎藤秀雄。父の影響で幼少期より、語学や音楽などに触れていた。 双葉女学校専攻科、聖心女子学院語学科卒業。ボストンへと留学をし、公衆衛生看護学を学び経験を積んだ。 1927年、聖路加国際病院社会事業部へ入職をした。 1931年には、ロックフェラー財団フェローとしてコロンビア大学看護科へと再び留学。
柏倉 俊三(かしわくら しゅんぞう、1898年 - 1996… 柏倉 俊三(かしわくら しゅんぞう、1898年 - 1996年)は、日本の英文学者。 山形県生まれ。1927年東京帝国大学英文科卒。北海道大学助教授、教授、1959年定年退官、名誉教授、相模女子大学教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
秋丸 次朗(あきまる じろう、1898年 - 1992年)は… 秋丸 次朗(あきまる じろう、1898年 - 1992年)は、日本の陸軍軍人(主計)、政治家。軍人としての最終階級は陸軍主計大佐。太平洋戦争開戦前の1940年(昭和15年)に陸軍省内に設置された「秋丸機関」(正式名称:陸軍省戦争経済研究班)の班長を務め、日本とアメリカをはじめとする主要国の経済力を比較分析したことで知られる。 宮崎県飯野村(現・えびの市)出身。 陸軍経理学校を首席で卒業後、東京帝国大学経済学部に派遣され経済学を学んだ。満州国では関東軍参謀部付として経済建設に携わり、満洲産業開発五カ年計画などに参画した。 1939年(昭和14年)9月、ノモンハン事件や第二次世界大戦勃発を受けて帰国。
篠崎 平馬(しのざき へいま、1898年 - 1981年)は… 篠崎 平馬(しのざき へいま、1898年 - 1981年)は、日本の化学工学者。元山形大学学長。 茨城県生まれ。東京高等工業学校(現東京工業大学)応用化学科を経て、1923年東北帝国大学工学部化学工学科卒業。同年助手。1927年商工省東京工業試験所入所。1928年理学博士。1933年保土谷曹達入社。保土谷曹達郡山工場長を経て、1952年山形大学工学部応用化学科教授。1955年山形大学工学部長。1963年山形大学学長。山形大学工学部に化学工学科を設立し、退官後は、山形大学名誉教授の称号を受け、日本大学工学部工業化学科教授となった。1981年郡山市内の病院で死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
田口 正治(たぐち まさはる、1898年(明治31年) - … 田口 正治(たぐち まさはる、1898年(明治31年) - 1978年(昭和53年))は、日本思想史学者、大分大学名誉教授。 1933年(昭和8年)広島文理科大学漢文学専攻卒業。大分師範学校教授、大分大学教授。1961年(昭和36年)定年退官、名誉教授。1962年(昭和37年)「玄語稿本之研究」で九州大学文学博士。三浦梅園を研究、梅園学会会長を務めた。
中村 幸彦(なかむら ゆきひこ、1898年 - 1975年)… 中村 幸彦(なかむら ゆきひこ、1898年 - 1975年)は、日本の化学者・農学者。農学博士(北海道帝國大學)。専門は、生物化学。北海道大学名誉教授・元北海学園大学教授。市立名寄短期大学元学長。北海道出身。 1922年北海道帝国大学農学部農芸化学科卒。同農学部助手を経て、1926年同農学部助教授(生物化学を担当)。1935年ドイツ・アメリカ合衆国に生物化学研究のため留学。 1942年北海道帝国大学農学部教授。1962年北海道大学停年退官。同名誉教授。北海学園大学教養部教授(物質科学・物質環境科学を担当)。1969年市立名寄短期大学3代学長に就任。1973年市立名寄短期大学学長退任。 1942年 北海道帝国大学より農学博士の学位を取得、論文の題は「澱粉より分離せられる新複糖類及びその構造並びにそれより導かれる澱粉分子の構成に対する考察」。
楊 建平(よう けんぺい、1898年 - 1949年)は、中… 楊 建平(よう けんぺい、1898年 - 1949年)は、中国の政治家、官僚、外交官、軍人、実業家、教育者。広東省中央銀行副総裁、上海商務局長、潮山税関監督署長、第11軍後方部大佐局長、国民革命軍少将、復旦大学教授、政法大学教授、農民工民主党創設者の一人。 1898年、広東省大埔県百侯鎮侯南村に旧名、楊金坤として生まれる。広東高等師範学校を経て、1925年、立教大学文学部を卒業(大学令による第1回卒業生)。 同年、中国に帰国後、復旦大学、光華大學(中国語版)、滬江大学(中国語版)、政法大学で講師、教授を歴任。 その後、上海商務局長となり、1928年、第11軍司令官陳銘樞中佐の秘書、第11軍後方部大佐局長を務める。
田中 泰阿弥(たなか たいあみ、1898年 - 1978年)… 田中 泰阿弥(たなか たいあみ、1898年 - 1978年)は、日本の作庭家、庭師。新潟県柏崎市出身。孤高の「庭匠」とよばれた。本名・田中泰治。 1929年、京都慈照寺(銀閣寺)「洗月泉」滝の石組を発見、新聞報道される。この発掘以来、慈照寺出入りの庭師となる。1931年には「相君泉」の石組、紅葉御殿及び西指庵に通ずる路の他、足利義政の築造とされるお茶井戸石組や約50坪の茶席跡と庭園を龍居松之助らと発掘。こうした慈照寺における一連の発掘修復活動によって、その名を知られるようになっていく。 茶道を長安院の住職・多田宗夢に師事。日本庭園協会新潟県支部に田中泰阿弥研究会がある。