佐々 保雄(ささ やすお、1907年3月22日 - 2003… 佐々 保雄(ささ やすお、1907年3月22日 - 2003年5月16日)は、日本の地質学者・地球科学者・登山家。北海道大学名誉教授で日韓トンネル研究会名誉会長も務めた。北海道札幌市出身。父は函館高等水産学校校長を務めた佐々茂雄。 化石燃料などの資源開発に関する調査・立案や、青函トンネル建設の際の調査に携わった。
1907年(明治40年)生まれ:685人
佐々 保雄(ささ やすお、1907年3月22日 - 2003… 佐々 保雄(ささ やすお、1907年3月22日 - 2003年5月16日)は、日本の地質学者・地球科学者・登山家。北海道大学名誉教授で日韓トンネル研究会名誉会長も務めた。北海道札幌市出身。父は函館高等水産学校校長を務めた佐々茂雄。 化石燃料などの資源開発に関する調査・立案や、青函トンネル建設の際の調査に携わった。
井桁 貞敏(いげた さだとし、1907年3月22日 - 19… 井桁 貞敏(いげた さだとし、1907年3月22日 - 1980年1月11日)は、日本のロシア語学者。 1929年東京帝国大学文学部言語学科卒業。東京外国語学校講師を経て、1937年から1943年まで海軍兵学校ロシア語教授、戦後は防衛大学校教授。1972年定年退官。ほかに東京大学、慶應義塾大学、埼玉大学、東京都立大学等でロシア語を講ずる。『コンサイス露和辞典』同和露辞典を編纂した。ロシア文学者・井桁貞義は息子。
西島 芳二(にしじま よしじ、1907年3月22日 - 19… 西島 芳二(にしじま よしじ、1907年3月22日 - 1987年10月12日)は、日本のジャーナリスト。兵庫県出身。1931年東京帝国大学卒、東京朝日新聞社に入社。調査部長、論説委員などをへて64年論説主幹。のち神奈川新聞社副社長、論説委員長。
近藤宮子(こんどう みやこ、1907年3月21日 - 199… 近藤宮子(こんどう みやこ、1907年3月21日 - 1999年4月8日)は広島県広島市国泰寺町(現在の中区国泰寺町)出身の唱歌作詞家。唱歌『チューリップ』、『こいのぼり』作詞者。
高橋 一臣(たかはし かずおみ、1907年(明治40年)3月… 高橋 一臣(たかはし かずおみ、1907年(明治40年)3月21日 - 没年不明)は、日本の実業家。東邦自動車、弥栄化学工業創業者。大和郷会元理事。 本名は高橋 繁正(たかはし しげまさ)。正六位・勲五等受章。紺綬褒章受章。長男は弥栄化学工業元社長の高橋一永。 高橋叶五郎・コンの四男として新潟県南魚沼郡塩沢町に生まれる。戦前は自動車業を営み、1939年(昭和14年)10月に東邦自動車を設立した。 その後企業合同により化学業界に進み、1941年(昭和16年)11月に弥栄化学工業を設立。 タクシー業界に明るく、事故防止対策又会社給与明細等のパンフレットを関係諸官庁等に配布し、現在の交通運輸行政の陰の力となった。
高島 春雄(たかしま はるお、1907年(明治40年)3月2… 高島 春雄(たかしま はるお、1907年(明治40年)3月20日- 1962年(昭和37年)5月31日)は、日本の動物学者。 高島春雄は、東京生まれの動物学者である。 1960年にコビトカバが上野動物園に導入された際、オカピ、ジャイアントパンダ、コビトカバの3種を世界三大珍獣として選抜したことで知られる。
山下 実(やました みのる、1907年3月20日 - 199… 山下 実(やました みのる、1907年3月20日 - 1995年4月4日)は、兵庫県神戸市出身のプロ野球選手・監督。抜群の打撃力で鳴らし、高校野球、東京六大学野球、草創期のプロ野球で活躍した。
藤見 敬譲(ふじみ けいじょう、1907年3月20日 - 1… 藤見 敬譲(ふじみ けいじょう、1907年3月20日 - 1982年12月9日)は、日本の経営者。明治乳業社長を務めた。 山口県出身。1930年に九州帝国大学農学部農芸化学科を卒業。明治製菓での勤務を経て、1937年に明治乳業に転じ、1959年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1977年6月に社長に就任した。 1982年12月9日、肝臓癌のために死去。75歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
岡本 敏明(おかもと としあき、明治40年(1907年)3月… 岡本 敏明(おかもと としあき、明治40年(1907年)3月19日 - 昭和52年(1977年)10月21日)は、昭和時代に活躍した日本の音楽家(作曲家)。 1929年(昭和4年)、玉川学園教師、1940年(昭和15年) 、日本放送合唱団で指揮を5年とった後、1942年(昭和17年)からは興亜工業大学(現・千葉工業大学)の音楽担当教員(正科目)などを務めた。戦後は国立音楽大学の設立に携わるとともに文部省図書編集委員として、音楽教科書、音楽学習の指導要領の作成に携わった。また日本基督教団讃美歌委員としても活躍。多くの讃美歌を残す。父は組合教会牧師岡本松籟。教会においてオルガンの音を聴きつつ育った。
山田 良之助(やまだ りょうのすけ 1907年3月19日 -… 山田 良之助(やまだ りょうのすけ 1907年3月19日 - 1990年6月13日)は日本の金属工学、材料工学者、教育者。 1907年(明治30年)京都府に生まれる。京都府立第二中学校、第三高等学校を経て京都帝国大学機械工学科に入学。1921年(大正10年)に卒業すると、そのまま同大の講師を務めた。1923年(大正12年)東北帝国大学助教授、1927年(昭和2年)には東京高等工業学校の講師を兼ねた。1928年(昭和3年)ドイツに留学、1930年(昭和5年)に帰国後、京都大学教授。その後、東京工業大学金属科長、静岡大学学長兼短期大学学長、武蔵工業大学学長などを務めた。
近藤 益雄(こんどう えきお、1907年3月19日 - 19… 近藤 益雄(こんどう えきお、1907年3月19日 - 1964年5月17日)は、障害児教育実践家。 長崎県佐世保市生まれ。1927年國學院大學高等師範部卒。長崎県で小学校教師となり、生活綴方運動などにとりくむ。長崎の原爆で長男耿(あきら)を亡くす。1948年田平小学校長。1950年校長を自ら辞め、佐々町立口石小学校に特殊学級「みどり組」を開設、その担任となる。1953年のぎく寮(のちのぎく学園)を開き、1962年口石小を辞めてのぎく寮での実践に専念する。 「のんき・こんき・げんき」をモットーとした。文部大臣表彰、1954年読売教育賞、西日本文化賞、1963年ヘレン・ケラー教育賞、日本精神衛生連盟表彰。
中川 宋淵(なかがわ そうえん、1907年3月19日 - 1… 中川 宋淵(なかがわ そうえん、1907年3月19日 - 1984年3月11日)は、昭和の臨済宗の禅僧。俳人としても知られた。道号は玄珠、法諱は宋淵。本名は中川基(なかがわ もとし)。号は密多窟。 山口県玖珂郡岩国町(現・岩国市)出身。大正12年(1923年)、旧制第一高等学校入学。昭和2年(1927年)東京帝国大学文学部入学。 東京帝国大学在学中の昭和6年(1931年)3月19日、山梨県の向嶽寺勝部敬学につき得度。得度後は大菩薩山中にて木食修行に励む。昭和5年(1930年)東京の白山道場で山本玄峰に師事し、昭和10年(1935年)に静岡県三島市の龍沢寺へ転錫。昭和26年(1951年)4月、山本の跡を継いで龍沢寺第10世住職並びに僧堂師家となる。
山田 匡蔵(やまだ きょうぞう、あるいは山田耕雲、- こうう… 山田 匡蔵(やまだ きょうぞう、あるいは山田耕雲、- こううん、1907年3月18日 - 1989年9月13日)は、日本の実業家(日本油脂常務、東京顕微鏡院理事長)、禅指導者(三宝教団2代管長・正師家、耕雲軒山田円光禅心)。 1907年3月18日、山田脩(二本松町長・二本松製糸会社副社長)の次男として福島県二本松市に生まれる。 第一高等学校 (旧制)から東京帝国大学法学部に進む。在学中に高等文官行政科試験に合格。1930年に卒業。 千代田生命に入社するも長兄が亡くなり、家業を助けるため、妹の友人で小児科医の山田和江(旧姓:阿部)と結婚後、満州に渡り満州鉱山で人事課長となる。引き揚げ後鎌倉に居住。
今野 武雄(こんの たけお、1907年〈明治40年〉3月17… 今野 武雄(こんの たけお、1907年〈明治40年〉3月17日 - 1990年〈平成2年〉3月29日)は、日本の教育者、数学者、科学史家、政治家。元衆議院議員(日本共産党公認、1期)。イギリスの動物学者・ランスロット・ホグベンの『百万人の数学』を翻訳したことでも知られる。 東京都出身。東京帝国大学理学部数学科を卒業後、東京物理学校(現・東京理科大学)や慶應義塾大学、法政大学などで教鞭を執る傍ら、1933年(昭和8年)に日本共産党へ入党。1940年1月の「唯研事件」第2次一斉検挙をはじめ、戦前は3度の逮捕・投獄を余儀なくされたが、その間も数学・科学史関連の著書・訳書を多数発表した。 戦後は読売新聞論説委員を経て、1946年には民主主義科学者協会(民科)設立に関わり、常任幹事や事務局長に就く。
平等 文成(びょうどう ぶんじょう、1907年(明治40年)… 平等 文成(びょうどう ぶんじょう、1907年(明治40年)3月17日 - 1970年(昭和45年)12月12日))は、衆議院議員(日本社会党)、歴史学者。選挙には「びょうどう ぶんせい」の読みで出馬した。 神奈川県横浜市出身。1929年、新潟高等学校卒業。東京帝国大学文学部卒業。東京で新聞・雑誌記者として勤めたのち、中国大陸に渡り高橋公館、興亜院華北連絡部に勤務。のち、新民学院や北京大学(農学院)教授などを歴任し、東洋史の研究に従事する。第二次世界大戦後、長野県北佐久郡軽井沢町の浅間山麓に入植し、農民運動を始め、全日本農民組合中央常任委員、同国際部長、同長野県連合会委員長、日本社会党長野県本部統制委員長、私学新報社長などを歴任した。
李 錫(イ・ソク、朝鮮語: 이석、1907年3月17日 - … 李 錫(イ・ソク、朝鮮語: 이석、1907年3月17日 - 没年不詳)は、大韓民国の校長、実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 漢字は不明だがイ・インチュル(이인출)という名もある。 本籍地の慶尚北道迎日郡神光面(現・浦項市)に生まれた。徽文高等普通学校(現・徽文高等学校)、明治大学法学部卒。新聞社と雑誌社を経営していた。1948年の初代総選挙では慶州乙選挙区より大韓独立促成国民会の公認で立候補して当選した。このほか、安康中学校の校長を務めていたが、朝鮮戦争の際に北朝鮮により拉致され、以後消息不明。
大日方 傳(おびなた でん、明治40年(1907年)3月16… 大日方 傳(おびなた でん、明治40年(1907年)3月16日 – 昭和55年(1980年)8月21日)は日本の映画俳優。常用漢字では「大日方 伝」と表記する。 福岡県小倉市堺町の地元の料理家で指月館という敷地が一丁四方ある裕福な名家に生まれたが、父の時代には家は衰えていたという。少年時代からよく喧嘩をしていて顎に傷が残った。中学校卒業後に家族で東京府に移り、東京府立園芸学校(現・東京都立園芸高等学校)を卒業後、しばらく園芸好きの兄の農園を手伝ったが東洋大学社会科へ進む。 昭和5年(1930年)、大学卒業後に日活の専属俳優として『至誠の輝き』で銀幕デビュー。デビュー後に日活で数作に出演した後、松竹(松竹蒲田撮影所)へ移籍し同社の専属俳優となる。
黄田 多喜夫(おうだ たきお、1907年〈明治40年〉3月1… 黄田 多喜夫(おうだ たきお、1907年〈明治40年〉3月16日 - 1998年〈平成10年〉)は、日本の外交官、通産官僚。外務書記官、大東亜省電信課長、香港占領地外事部長、公正取引委員会総務部長、通産省通商局長、外務省経済局長、駐デンマーク公使・大使、駐インドネシア大使、外務審査官、外務次官を務めた。 1907年広島県生まれ。広島国泰寺高校から東京帝国大学を経て、第39回文官高等試験外交科合格後、1930年に外務省に入省。1942年に外務書記官(在米大使館外務書記生)を務めた後、大東亜省電信課長を経て、日本占領下の香港で外事部長を務め 、日本の降伏まで務めた。帰国後は、終戦連絡中央事務局経済部長、公正取引委員会総務部長、通商産業省の通商局長(通商監)、外務省の経済局長、駐英公使(1954年より)、駐デンマーク公使・大使、インドネシア大使などを歴任。
川本 末雄(かわもと すえお、1907年(明治40年)3月1… 川本 末雄(かわもと すえお、1907年(明治40年)3月16日 - 1982年(昭和57年))は、熊本県玉名村(現玉名市玉名)出身の日本画家。 現代的解釈による大和絵の世界を展開し、郷里の菊池川周辺の自然風景をモチーフに、現代日本画の新境地を開いた。 1907年(明治40年)、熊本県玉名村に生まれる。旧制玉名中学校(現熊本県立玉名高校)を経て1929年、東京美術学校(現東京芸術大学)へ入学、1933年卒業。松岡映丘に師事する。1938年の松岡映丘の死去により翌1939年より山口蓬春に師事。 1948年、第4回日展(日本美術展覧会)にて「水辺薄日」が初入選、翌1949年第5回日展で「夕映」特選、1953年第9回日展で「朝の渓谷」が特選・白寿賞・朝倉賞を受賞。
今泉 亀撤(いまいずみ きてつ、1907年3月15日 - 2… 今泉 亀撤(いまいずみ きてつ、1907年3月15日 - 2009年12月29日)は、日本の眼科医、医学博士。岩手医科大学名誉教授。福島県郡山市出身。 旧制安積中学校(現福島県立安積高等学校)、旧東北帝国大学(現東北大学)医学部卒。東北大学助教授を経て岩手医科大学に教授として赴任。1949年11月、日本で最初の事例として角膜移植の手術を行った。その後1956年3月、日本最初のアイバンクとなる『目の銀行』を岩手医科大学内に設立した。
関口 真大(關口 眞大、せきぐち しんだい、1907年3月1… 関口 真大(關口 眞大、せきぐち しんだい、1907年3月15日 - 1986年10月2日)は、天台宗の僧、仏教学者。 1907年、栃木県生まれ。1931年、大正大学文学部を卒業。日光山華厳院住職となる。また、母校である大正大学で教授を務め、1960年「天台止観の成立と達摩禅」を大正大学に提出して文学博士号を取得。1978年に定年退職すると同時に名誉教授となった。以降も、国際仏教研究所理事、全日本仏教会評議員を務めた。
荻原 麟次郎(おぎわら りんじろう、1907年(明治40年)… 荻原 麟次郎(おぎわら りんじろう、1907年(明治40年)3月15日 - 1997年(平成9年)4月4日)は、日本の政治家。第14代秋田市長。勲五等双光旭日章。 秋田県秋田市泉三嶽根出身。明治大学専門部卒。秋田県庁に入り、経済部長、出納長、会社社長、秋田県議会議員(4期、自民党)などを経て、1971年(昭和46年)、秋田市長選挙に保守系から立候補し、現職の革新系の川口大助を破って当選した。市長在職中は市民広場の夜間照明の設置、大型市町村圏(秋田、男鹿、南秋田、河辺)促進連絡会議の発足、点字による市の広報の発行などの施策を実行した。しかし、翌1972年(昭和47年)、市長選挙で現職の川口市長のスキャンダルを週刊誌に売り飛ばし、選挙妨害をしたとして解職請求が出され、同年12月の投票の結果、賛成が反対を上回り、荻原は市長を失職となった。
川田 晴久(川田 義雄)(かわだ はるひさ(かわだ よしお)… 川田 晴久(川田 義雄)(かわだ はるひさ(かわだ よしお)、本名:岡村 郁二郎、1907年〈明治40年〉3月15日 - 1957年〈昭和32年〉6月21日)は、昭和期を代表する日本の俳優、歌手、コメディアン、ボードビリアン。いわゆるボーイズものの創始者である。灘康次を始め、多くの弟子を育てたことでも知られる。また、美空ひばりの「師匠」または「芸能界の育ての親」としても、近年、再評価が為されている。戦前は主に吉本興業(東京吉本)所属。 東京府東京市本郷区根津の印刷所を経営する岡村嘉松の子として生まれる。貧しかった少年時代に、家々の屋根を棒で飛び越えるという遊びに興じていた際に転落してしまう。この不慮の事故により脊椎カリエスを患うことになり、これが終生川田を悩ませる病となる。
菅沼 俊彦(すがぬま としひこ、1907年3月14日 - 2… 菅沼 俊彦(すがぬま としひこ、1907年3月14日 - 2001年12月18日)は、日本の経営者。日本板硝子社長、会長を務めた。大阪府大阪市出身。 1935年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に住友電気工業に入社。1963年2月に取締役に就任し、1967年2月に常務、1972年8月に専務を経て、1976年6月には日本板硝子社長に就任。1982年6月に会長に就任し、1984年6月に取締役相談役を経て、1986年6月から相談役を務めた。 1991年3月から1996年6月までに住友化学監査役を務めた。 2001年12月18日腹部大動脈りゅう破裂のために死去。94歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
堀江 知彦(ほりえ ともひこ、1907年〈明治40年〉3月1… 堀江 知彦(ほりえ ともひこ、1907年〈明治40年〉3月13日 - 1988年〈昭和63年〉6月28日)は、日本の書家・書道史家。 東京生まれ。号は秋菊。早稲田大学国文科卒。1934年から1969年まで東京国立博物館勤務。その後、1982年まで二松學舍大学教授を務めた。古筆鑑定、会津八一の研究を行った。
守屋 典郎(もりや ふみお、1907年3月12日 - 199… 守屋 典郎(もりや ふみお、1907年3月12日 - 1996年7月17日)は、日本の弁護士、左翼活動家、経済学者。 東京出身。本籍・岡山県小田郡矢掛町。父は第11・12代岡山市長、衆議院議員の守屋松之助。妻としの兄は同志社大学名誉教授の和田洋一 (文学研究者)。1929年東京帝国大学法学部卒。在学中新人会に加入。1930年弁護士開業。1932年日本共産党に入る。野呂栄太郎、平野義太郎らの指導で経済学を研究、講座派の一員として野口八郎の筆名で活動。1933年検挙され投獄。1934年倉敷絹織に入り法律問題の仕事に従事。1938年人民戦線事件などで検挙、投獄される。1940年出獄して大日本紡績連合会に入り、綿スフ統制会から繊維統制会価格課長。
安田 光昭(やすだ みつあき、1907年(明治40年)3月1… 安田 光昭(やすだ みつあき、1907年(明治40年)3月11日 - 1993年(平成5年)1月12日)は日本の教育者、政治家。元鳥取県議会議員。元米子市教育長。号東馬。 地方教育行政の要として野坂寛治市長のもと教育基盤の確立に尽力。米子市独自の教育立地計画を樹立することが肝要と6年間にわたり現場教職員と一体となり実態調査を実施。その結果を4冊にまとめ逐次刊行した。このことは全国的に注目された。また、全国の都市教育委員会の教育長に呼びかけて全国都市教育長会を結成し、地教委本来の使命達成に努めた。その他、県立移管となった市立米子高等学校の開設「米子市小学校再配置計画」の立案実施を行った。 鳥取県西伯郡大篠津村(現米子市大篠津町)の「大阪屋」という割烹旅館の長男として生まれた。
鈴木 成高(すずき しげたか、1907年(明治40年)3月1… 鈴木 成高(すずき しげたか、1907年(明治40年)3月11日 - 1988年(昭和63年)3月7日)は、日本の西洋史学者(専門は西洋中世史)。京都学派の一人。正五位勲三等瑞宝章。 1907年、高知県生まれ。旧制高知高等学校を経て、1929年京都帝国大学文学部西洋史学科を卒業。戦前は第三高等学校教授、1942年より京都帝国大学助教授を務めた。戦時下には大東亜戦争(太平洋戦争)を「世界史の哲学」の立場から思想的に位置付けようと試みた「世界史的立場と日本」座談会や「近代の超克」座談会に参加。 戦後、思想的事由により不適格と判定され京都大学を公職追放により離れる。1951年の追放解除の後に早稲田大学教授を務めた。
石井 桃子(いしい ももこ、1907年3月10日 - 200… 石井 桃子(いしい ももこ、1907年3月10日 - 2008年4月2日)は、日本の児童文学作家・翻訳家。位階は従四位。日本芸術院会員。 「くまのプーさん」「ピーターラビットのおはなし」「うさこちゃん」といった数々の欧米の児童文学の翻訳を手がける一方、絵本や児童文学作品の創作も行い、日本の児童文学普及に貢献した。 埼玉県北足立郡浦和町(後の浦和市、現:さいたま市)常盤に兄1人姉4人のきょうだいの末っ子として生まれる。生家は旧中山道沿いで金物店を営む旧家だった。父は小学校教師を経て友人と銀行を興し、浦和商業銀行の支配人をつとめていた。 1913年4月、埼玉県立女子師範附属小学校(現在の埼玉大学教育学部附属小学校)入学。
由水 政次(よしみず まさじ、1907年3月10日 - 20… 由水 政次(よしみず まさじ、1907年3月10日 - 2004年10月24日)は、日本の経営者。北越製紙社長を務めた。 石川県出身。1931年に九州帝国大学法科を卒業し、同年に日本勧業銀行に入行。1958年5月に取締役に就任し、1960年6月には北越製紙専務に就任し、1972年6月に副社長を経て、同年12月には社長に就任した。1977年7月に会長を経て、1981年6月には相談役に退いた。 2004年10月24日、老衰のために死去。97歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
玉林 憲義(たまばやし のりよし、1907年3月10日 - … 玉林 憲義(たまばやし のりよし、1907年3月10日 - 1996年7月4日)は、日本のドイツ文学者、教育功労者。 山口県生まれ。1930年京都帝国大学文学部独逸文学科卒、1933年関西学院大学予科教授として就任後、文学部部長・キリスト教主義教育研究室長・院長事務取扱・理事・評議員などを歴任。関西学院大学における独文学科設立の尽力者でもある。1967年には兵庫県教育功労者として表彰を受け、1974年関西学院大学を定年退職後は兵庫医科大学教授に就任した。 日独文化協会の会員、ドイツ・テュービンゲン大学への留学歴もあり、同じ京都帝国大卒で関西学院院長だった久山康、玉林とともに関西学院大学独文学科発足に尽力した村井勇吾らと独文学の翻訳や教本出版にも積極的に取り組んだ。
瀨古 新助(せこ しんすけ、1907年3月10日 - 199… 瀨古 新助(せこ しんすけ、1907年3月10日 - 1990年10月15日)は、日本の土木工学者。逓信省技官から大学教授に転身し、後半生は実業家となった。 1937年に日本大学旧工学部(現日本大学理工学部)を卒業し、同年逓信省電気局に入省する。後に興亜院(1938年設置)に移った。興亜院に向かう際の出迎役であった大来佐武郎と意気投合し、その後小沢久太郎とも交友を深めた。 1942年、日本大学専門部工科(現日本大学工学部)教授に就任(1944年に日本大学旧工学部助教授、1946年に同教授となる)。教職員適格審査委員会の委員としてGHQと大学との折衝に尽力した。 しかしながら、工学部教授に就任した1946年に大学を辞す。
荒舩 清十郎(あらふね せいじゅうろう、1907年(明治40… 荒舩 清十郎(あらふね せいじゅうろう、1907年(明治40年)3月9日 - 1980年(昭和55年)11月25日)は、日本の政治家、実業家。位階は正三位、勲等は勲一等。運輸大臣(第33代)、行政管理庁長官(第40・42代)、衆議院副議長(第49代)。衆議院議員(13期)。東映フライヤーズのプロ野球選手(1970年 - 1972年)、埼玉県議会議員(1期、1979年4月 - 1983年3月)であった荒舩洋資は甥であり後に養子となる。 埼玉県秩父郡高篠村(現秩父市)出身。先代・清十郎の長男。埼玉県立工業学校卒業、明治大学専門部中退。織物製造業を経営。 「清十郎」は先祖代々の襲名で、本人は16代目にあたる(以後は襲名者は出ていない)。
大岡 博(おおおか ひろし、1907年(明治40年)3月9日… 大岡 博(おおおか ひろし、1907年(明治40年)3月9日 - 1981年(昭和56年)10月1日)は、日本の歌人。 静岡県静岡市生まれ。貿易商だった父延時(1883年 - 1935年)の関係で少年期までを神戸で過ごす。その後、三島に定住。曾祖父の永夢は幕臣で旗本。徳川慶喜の駿府移住に随行し、同地に住んだ、祖父直時は、三島に移り、のちに三島警察署長を務めた。1924年(大正13年)沼津中学校(現静岡県立沼津東高等学校)卒業後、父不在のもと苦学し、家族の病気や経済面から進学を断念して三島市で教職につく。のちに1949年(昭和24年)から1951年(昭和26年)まで県教職員組合執行委員長、初代県立児童会館長、中学校校長を務めるなど教育者として力を尽くした。
井染 四郎(いぞめ しろう、1907年3月8日 - 1943… 井染 四郎(いぞめ しろう、1907年3月8日 - 1943年6月23日)は、日本の俳優である。本名は齋藤 四郎(さいとう しろう)。伊染 四郎と表記に揺れがある。日活太秦撮影所、日活多摩川撮影所などで活躍した二枚目俳優の一人である。 1907年(明治40年)3月8日、東京府東京市日本橋区久松町(現在の東京都中央区日本橋久松町)に生まれる。 旧制獨逸学協会中学校(現在の獨協高等学校)を経て法政大学文科に進学するが、中退。大学在学中、築地小劇場のエキストラに応募するも落選してしまい、結局は自動車会社に勤務する、とされている。1934年(昭和9年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』(映画世界社)等によれば、築地小劇場に加入して初舞台を踏むが、僅か1年余りで退いてしまい、自動車会社を3ヶ月勤務した後、失業生活を半年ほど過ごしたという旨が記されている。
鮫島 國三(さめじま くにぞう、1907年〈明治40年〉3月… 鮫島 國三(さめじま くにぞう、1907年〈明治40年〉3月8日 - 1990年〈平成2年〉6月17日)は、日本の中国古典文学者(文字学専攻)で、久留米大学名誉教授。書家としても「春岳」の号で多くの作品を残した。 鹿児島県内(現・薩摩川内市)に生まれる。幼少時に両親に連れられて中国に移住した。 1930年(昭和5年)に中華民国の 南開大学(中国古典文学、文字学専攻)を卒業した。1944年(昭和19年)に満洲国の新京特別市にあった新京法政大学(中国語版)(日本の法政大学とは無関係)の教授となる。 日本の敗戦後に中国から引き揚げ、1952年(昭和27年) に久留米大学教授に就任した。久留米大学では1971年(昭和46年)に商学部長となる。
北町 一郎(きたまち いちろう、明治40年(1907年)3月… 北町 一郎(きたまち いちろう、明治40年(1907年)3月7日 - 平成2年(1990年)9月4日)は、日本の小説家。 新潟県中蒲原郡小須戸町(現新潟市)小向生まれ。福島高等商業学校(現福島大学)特待生を経て、1932年に東京商科大学(現一橋大学)卒業後、婦女界社に入社。記者や、婦女界編集長を務めた。 1935年に「賞与日前後」でサンデー毎日大衆文芸入選。小説家として活動し、太平洋戦争中は大日本帝国陸軍報道班員としてスマトラ島で従軍取材を行い、昭南新聞マレー語版の編集責任者を務めた。 1948年に「健康教室」を創刊し78歳まで編集長を務めたほか、婦女界編集顧問、文部省嘱託、日本学校衛生会主事、日本文芸著作権保護同盟理事などを務めた。
救仁郷 繁(くにごう しげる、1907年3月6日 - 200… 救仁郷 繁(くにごう しげる、1907年3月6日 - 2001年5月26日)は、日本の翻訳家、経済学者。 北海道札幌市生まれ。北海道帝国大学農学部農業経済学科卒。1962年「西ドイツの農業経済」で北海道大学農学博士。ソ連の農業経済などに関する著作を翻訳した。
渡邉 智哲(わたなべ ちてつ、1907年〈明治40年〉3月5… 渡邉 智哲(わたなべ ちてつ、1907年〈明治40年〉3月5日 - 2020年〈令和2年〉2月23日)は、日本のスーパーセンテナリアン、政治家、地方公務員。新潟県上越市浦川原区に在住していた長寿の男性。日本国内並びに世界最高齢男性であった野中正造が2019年1月20日に死去した時点では、日本国内及び世界最高齢男性となっていた(詳細は後述)。ただし、トーマス・ピナレス・フィゲレオ(1906年3月31日 - 2020年9月24日)が世界最高齢男性に認定された為、世界最高齢の男性では無くなっている。 1907年(明治40年)、新潟県東頸城郡浦川原村(現・上越市浦川原区)の農家に生まれる。新潟県立高田農学校(現・新潟県立高田農業高等学校)卒業後、大日本製糖(現・DM三井製糖ホールディングス)に入社し、終戦まで台湾で働いた。
宮本 又次(みやもと またじ、1907年3月5日 - 199… 宮本 又次(みやもと またじ、1907年3月5日 - 1991年3月12日)は、日本の歴史学者。専攻は、日本経済史・近世商業史。経済学博士(九州大学)。大阪大学名誉教授。日本学士院会員。文化功労者。 大阪府大阪市生まれ。旧制大阪府立市岡中学校、大阪外国語学校仏語部を経て、1931年(昭和6年)京都帝国大学経済学部卒業、同大学院修了。同大学助手、日本経済史研究所を経て、1939年(昭和14年)彦根高等商業学校(現・滋賀大学経済学部)教授。 1942年(昭和17年)九州帝国大学助教授、1945年(昭和20年)同教授。1950年(昭和25年)九州大学より経済学博士の学位を取得、学位論文は「江戸時代問屋の研究」。
丸山 三四子(まるやま みよこ、1907年〈明治40年〉3月… 丸山 三四子(まるやま みよこ、1907年〈明治40年〉3月4日 - 1995〈平成7年〉12月26日)は、詩人・丸山薫の妻。詩人としてまだ収入の乏しかった時期の丸山を、マネキンとしての仕事で支えた。昭和初期のマネキンの事情を綴った書籍『マネキン・ガール』の著者として知られる。旧姓は高井。 1907年、愛知県知多郡有松町(現・名古屋市)で誕生した。先進的な父の方針で、横浜の捜真女学校に入学後、家庭の事情で名古屋の金城女学校に転校した後、愛知県立第一高等女学校専攻科(現・愛知県立明和高等学校)を卒業した。 1927年(昭和2年)、丸山薫と結婚した。丸山薫が詩人としてまだ芽が出ていなかったため、働き口を捜して知人のもとを訪れたところ、三四子の働き口ならあるとして、東京マネキン倶楽部を紹介され、マネキンとなった。
厚木 たか(あつぎ たか、1907年〈明治40年〉3月3日 … 厚木 たか(あつぎ たか、1907年〈明治40年〉3月3日 - 1998年〈平成10年〉5月19日)は、日本の記録映画作家。本名・芳賀 松江。 1907年(明治40年)群馬県伊勢崎市新町に岡田清平・すみの長女として生まれる。1929年(昭和4年)日本女子大学英文科卒。 1930年(昭和5年)、日本プロレタリア映画同盟に参加。1934年(昭和9年)にPCL(現・東宝)に入社。1938年(昭和13年)芸術映画社に移る。構成を担当した『或る保姆の記録』(芸術映画社、1942年)が国民映画賞を受賞[要検証 – ノート]。 朝日映画にも一時所属したが、1945年(昭和20年)以降はフリーの脚本家となる。1958年(昭和33年)『おふくろのバス旅行』で教育映画祭最高賞ブルーリボン賞受賞。
棚橋 諒(たなばし りょう、1907年3月2日 - 1974… 棚橋 諒(たなばし りょう、1907年3月2日 - 1974年5月5日)は、岐阜県出身の建築学者。 京都帝国大学卒業、神戸高工(現神戸大学)講師、昭和20年京都帝大教授。 1951年に京都大学工学部 石原藤次郎、理学部 小堀憲らとともに京都大学防災研究所を立ち上げ、初代所長を務めた。 日本建築学会第28代会長(1963年 - 1965年)を歴任。
玉置 敬三(たまき けいぞう、1907年3月2日 - 199… 玉置 敬三(たまき けいぞう、1907年3月2日 - 1996年7月8日)は、日本の官僚。通産事務次官を最後に退官後、東京芝浦電気社長・会長。 和歌山県出身。旧制姫路高等学校を経て、1930年、東京帝国大学法学部卒業。同年、商工省入省。 1941年4月、総力戦研究所出向経験を経て、戦後、通商機械局長(のちの機械情報産業局長)、1952年から1953年にかけて通産事務次官を務める。岸信介らの「統制派」の流れを汲み、その他に山本高行、平井富三郎、徳永久次らがいた。朝鮮特需によりジョゼフ・ドッジらによる自由経済から方向転換、統制派が復権、通商産業省による戦後政策のはじまりだった。 事務次官就任までの経緯は、白洲次郎らの「白洲派」・「外交派」または「通商派」に属すると目された入省同期の始関伊平(旧資源庁長官)との争いであった。
赤木 健介(あかぎ けんすけ、1907年3月2日 - 198… 赤木 健介(あかぎ けんすけ、1907年3月2日 - 1989年11月7日)は、日本の詩人、歌人、編集者、歴史家。本名・赤羽 寿(あかばね ひさし)、別名・伊豆 公夫(いず きみお)。 青森市生まれ。九州帝国大学法文学部中退。姫路高等学校時代から『アララギ』に投稿、1928年の三・一五事件以来、左翼運動に挺身。1933年、検挙投獄。1935年、出獄ののち、渡辺順三らの『短歌評論』に参加。1932年、唯物論研究会に属し、日本共産党に入党するが、1938年、一斉検挙にあい、1944年に判決が下って下獄。この間、1940年に「在りし日の東洋詩人たち」で第4回透谷文学賞を受賞した。敗戦後、1945年10月に連合軍により解放される。
中川 喜次郎(なかがわ きじろう、1907年3月2日 - 1… 中川 喜次郎(なかがわ きじろう、1907年3月2日 - 1982年1月15日)は、鹿児島県出身の実業家。 鹿児島県川辺郡西南方村(現・南さつま市)にて、中川伊勢次郎・イトの次男として生まれる。高等小学校卒業後、1936年に海産物商「中川商店」を設立し、南九州の海産物を満州に卸していき、満州に渡って関東軍の御用商人として財を成す。 1940年に「唐津造船所」を創設。また中川商店の海運部を分立する形で、1944年に大連にて中川海運を設立、終戦直前に帰国し1946年に水産業に進出し中川水産を設立。1948年に照国海運を設立、油送船や鉱石専用船を中心に展開し鹿児島から奄美群島への貨客定期航路などを展開、外航分野への進出で中型タンカー会社として成長を遂げ、最盛期には国内業界9位の中堅級の外航海運会社となっていた。
星 英府(ほし えいふ、1907年3月 - 没年不詳)は、日… 星 英府(ほし えいふ、1907年3月 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は川上 英男(かわかみ ひでお)。マキノ・プロダクションの主要人物の一人である。 1907年(明治40年)3月、神奈川県横浜市北方町(現在の同県中区同町)に生まれる。 京都市立工業学校(現在の京都市立洛陽工業高等学校)を卒業後、貿易商社に入るが、1926年(大正15年)7月、マキノ・プロダクションへ入社する。同年8月27日公開の曽根純三監督映画『砕かれた人形』で映画デビューを果たし、金が有り余るという男役を演じた。以後、マキノの中堅俳優として多数の作品に出演した。翌々年1928年(昭和3年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(映画世界社)など一部の資料によれば、京都府葛野郡花園村天授ヶ丘(現在の同府京都市右京区花園天授ヶ岡町、マキノ・プロダクション内)、京都府京都市一条通大将軍坂田町7番地(現在の同府同市北区大将軍坂田町)と転々と住み、趣味は絵描き、ダンス、散歩であり、洋酒と外国煙草が嗜好であるという。
林 誠之助(はやし せいのすけ、1907年3月 - 1988… 林 誠之助(はやし せいのすけ、1907年3月 - 1988年12月9日)は、日本の俳優である。本名久保 十郎(くぼ じゅうろう)。引退後、実業家となった。 1907年(明治40年)3月、佐賀県杵島郡橘村(現在の同県武雄市橘町)に生まれる。 旧制・佐賀県立鹿島中学校(現在の佐賀県立鹿島高等学校)に進学するも、1923年(大正12年)に中途退学し、二代目市川荒太郎に入門して歌舞伎役者となる。翌1924年(大正13年)、師の荒太郎とともに京都の松竹下加茂撮影所に入社、師の主演映画に「林 誠之助」の名で助演して、映画界にデビューする。同年末、師の荒太郎は同撮影所を退社、それを機に、林は松竹キネマに残留し、東京の松竹蒲田撮影所に異動する。
北原 武夫(きたはら たけお、1907年2月28日 - 19… 北原 武夫(きたはら たけお、1907年2月28日 - 1973年9月29日)は、日本の小説家。 神奈川県小田原市の医家に生まれる。神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)を経て、家業を継ぐべく旧制新潟高等学校理科に入学するが父に反抗して中退し、慶應義塾大学予科に入学。慶應義塾大学文学部仏文科に進むが国文科に転じ、1932年に卒業。在学中に、井上友一郎、田村泰次郎らの同人誌『桜』に参加。 都新聞社に入社。横浜支局に勤務。1934年、都新聞社本社に転勤。この間、1933年に宇野千代と知り合う。1936年、宇野千代と共に日本最初のファッション雑誌『スタイル』を創刊。1938年、『妻』を発表して芥川賞候補となり文壇にデビュー。
折口 春洋(おりくち はるみ、旧姓: 藤井、1907年2月2… 折口 春洋(おりくち はるみ、旧姓: 藤井、1907年2月28日 - 1945年3月19日)は、日本の国文学者、歌人。折口信夫の門弟、養嗣子。國學院大學教授。最終階級は陸軍中尉。 1907年(明治40年)2月28日、石川県羽咋郡一ノ宮村一ノ宮寺家千五十七番地(現・羽咋市)に藤井升義の四男として生まれる。 1913年(大正2年)4月、一ノ宮小学校に入学。1919年(大正8年)4月、金沢市少将町高等小学校に転じる。長兄・次兄と共に、同村の老婦をつけて、早くから遊学させられた。1920年(大正9年)4月、石川県立金沢第一中学校(現・石川県立金沢泉丘高等学校)入学。 1925年(大正14年)4月、國學院大學予科入学。