金 史良(キム・サリャン、1914年3月3日 - 1950年… 金 史良(キム・サリャン、1914年3月3日 - 1950年10月以降行方不明)は、朝鮮の小説家。本名は金時昌(キム・シチャン)。日本語・朝鮮語両方で創作した。「在日朝鮮人文学」の先駆的存在である。 金史良、本名金時昌は1914年(大正3年)3月3日、日本統治時代の朝鮮平壌府陸路里102番地で生まれた。母と姉は熱心なキリスト教徒であり、一族は平壌屈指の富裕層で、兄の金時明はのちに朝鮮人としては最初の朝鮮総督府専売局長に就任した。 平壌高等普通学校5年の時の1932年(昭和7年)冬に、留学のため初めて日本に渡る。当時の一般的な朝鮮人学生とは異なり、金史良は日本への留学は本意ではなく、北京の大学に憧れていたという。
小田村 寅二郎(おだむら とらじろう、大正3年〈1914年〉… 小田村 寅二郎(おだむら とらじろう、大正3年〈1914年〉3月2日 - 平成11年〈1999年〉6月4日)は、日本の保守派の学者。亜細亜大学教授。日本学生協会理事、精神科学研究所創立者、国民文化研究会理事長。戦前の帝大での学風刷新運動の中心人物で、右派の立場から体制批判、自由主義・社会主義批判、反戦運動を展開し、小田村事件により東京帝国大学法学部退学処分となった。 東京府東京市四谷区に小田村有芳の次男として生まれる。大正9年(1920年)4月、学習院初等科入学。大正15年(1926年)4月、学習院中等科入学。同年9月、東京府立第一中学校編入。中学卒業の頃に肋膜炎に罹患し、療養生活に入る。昭和8年(1933年)4月、第一高等学校文科丙類(仏語専攻)入学。
新福 尚武(しんふく なおたけ、1914年3月2日 - 20… 新福 尚武(しんふく なおたけ、1914年3月2日 - 2012年3月12日)は、日本の医学者・精神科医。東京慈恵会医科大学名誉教授。長男は医学者で神戸大学名誉教授の新福尚隆。 鹿児島県鹿児島市生まれ。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、1937年九州帝国大学医学部卒業、下田光造に師事。1947年「ショック療法の精神病理学的研究」で九州帝国大学より医学博士の学位を取得。 台北帝国大学医学部精神科助手、陸軍軍医(高雄)、鳥取大学医学部助教授などを経て、1952年同教授。1966年東京慈恵会医科大学教授、1979年定年退職、名誉教授。アルコール医学会長、交通科学会長、心身医学会長、国際老年精神医学会名誉会長など。
姜 昌瑢(カン・チャンヨン、朝鮮語: 강창용、1914年3月… 姜 昌瑢(カン・チャンヨン、朝鮮語: 강창용、1914年3月2日 - 2000年9月25日)は、大韓民国の実業家、政治家。第2代韓国国会議員。本貫は晋州姜氏。 姜 昌鎔、姜 昌溶(それぞれ読み、ハングルともに同じ)とも表記される。 済州島北済州郡涯月面(現・済州市)出身。漢城商業学校卒業後は専売庁に就職した。咸鏡北道の出先支所に赴任したが、両親の懇願により2年ほどで済州島に帰郷した。1935年に涯月面書記に就任し、2年後に内地に留学に行った。1941年に法政大学政治経済科を卒業し、金融組合連合会理事見習試験に受験して合格した。慶尚北道・慶尚南道の金融組合で1950年ごろまでに朝鮮金融組合に10年勤務し、専務理事などを務めた。
松本 善壽(まつもと よしじ、1914年3月1日 - 200… 松本 善壽(まつもと よしじ、1914年3月1日 - 2000年1月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。計理士。税理士。行政書士。社会保険労務士。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
高田 久寿(たかだ ひさとし、1914年(大正3年)3月 -… 高田 久寿(たかだ ひさとし、1914年(大正3年)3月 - 1984年(昭和59年)5月20日)は、日本の英文学者、イギリス文学者。大正大学名誉教授。 長野県生まれ。1931年(昭和6年)、旧制松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)卒業。1937年(昭和12年)、大阪外国語学校(現大阪大学外国語学部)卒業。東京都立高校教諭を経て、大正大学名誉教授。 終戦直後の「上海残留日僑子弟補習室」で英語教師などを務めたほか、東京都立石神井高等学校校歌の作詞を行っている。 平和祈念展示資料館には先の大戦で経験された方の「苦労体験手記」が収められている。その中に中国での体験手記として、景山澈氏の『上海日僑中学生の終戦日記』がある。
大山 敏子(おおやま としこ、1914年2月28日 - 19… 大山 敏子(おおやま としこ、1914年2月28日 - 1978年4月13日)は、日本の英文学者、翻訳家。専門はシェイクスピア作品の研究。旧姓は吉成(よしなり)。 徳島県徳島市生まれで、1935年3月に津田塾専門学校本科を卒業した後、1942年9月に東京文理科大学(英語英文学専攻)を卒業し、同年10月に同大学院文学研究科に入学、1944年9月に同大学院を退学した後、同年10月に同大学副手となり、戦後は1946年4月から翌年3月まで津田塾専門学校教授を務め、1947年4月に東京第一師範学校に就職、文部教官となり世田谷分校で勤務し、1949年4月に東京学芸大学助教授となり、1962年3月に退職。この間、1950年10月に米国オハイオ州立大学大学院に留学、翌年に卒業しマスター・オブ・アーツ(英語版)の学位を取得した。
金 鍾漢(キム・ジョンハン、김종한、日本名:月田 茂(つきた… 金 鍾漢(キム・ジョンハン、김종한、日本名:月田 茂(つきた しげる)、1914年2月28日 - 1944年9月27日)は、日本統治時代の朝鮮の詩人。号は、高句麗の宰相であった乙巴素(ウルファソ)(朝鮮語版)から名をとって、乙巴素(을파소)としていた。 咸鏡北道明川郡西面に生まれた。生家は農家であったが、6歳の時に医師であった伯父の養子となり、清津府へ移り、さらに養父とともに雄基郡に移って、鏡城中学校、次いでに鏡城高等普通学校(朝鮮語版)に学んだ。鏡城高普の在学中の1933年ころから、「乙巴素」名義で雑誌や新聞のコンテストなどに自作の詩を書き送るようになり、その後一時期は満州などを放浪したとされる。
遠山 茂樹(とおやま しげき、1914年〈大正3年〉2月23… 遠山 茂樹(とおやま しげき、1914年〈大正3年〉2月23日 - 2011年〈平成23年〉8月31日)は、日本の歴史学者。研究分野は日本近代史、東アジア史、東洋史、自由民権運動、明治維新、歴史教育。横浜市立大学名誉教授。『遠山茂樹著作集』(全9巻、岩波書店刊)がある。 1914年、東京市京橋区(現東京都中央区)月島で生まれた。旧制浦和高等学校で学び、1934年に卒業。東京帝国大学国史学科に進学し、1938年に卒業。 1938年から1942年まで文部省維新史料編纂事務局に勤務。1942年から東京帝国大学史料編纂所に勤務。1951年から1952年までは東京大学教職員組合委員長を務めた。1956年、東京大学を退職。
武川 寛海(たけかわ ひろみ、1914年2月22日 - 19… 武川 寛海(たけかわ ひろみ、1914年2月22日 - 1992年5月2日)は、日本の音楽評論家。ベートーヴェン研究家。音楽之友社『音楽芸術』編集長。 判事を務めていた武川佳海の息子として東京に生まれる。父の転勤に伴い、福島県から静岡県や栃木県を転々として育つ。栃木県立栃木中学校 (旧制)から成蹊高等学校 (旧制)を経て、1938年3月、東京帝国大学文学部美学科卒業。大学在学中、下總皖一に作曲を師事。1938年4月、日本コロムビア株式会社に入社。文芸部に所属し、ディレクターとして勤務。1943年に同社を退社して満洲の新京に渡り、株式会社満洲映画協会に入社。音楽監督を務める。1946年8月に満洲から引き揚げ、同年10月、音楽之友社に入社。
廉 殷鉉(ヨム・ウニョン、1914年2月22日 - 1999… 廉 殷鉉(ヨム・ウニョン、1914年2月22日 - 1999年1月19日)は、朝鮮半島出身のバスケットボール選手。本貫は坡州廉氏。 1936年ベルリンオリンピックに日本代表選手の一人として出場した。 第二次世界大戦後は大韓民国で西洋史の大学教員となった。 ソウル出身という。延禧専門学校(現在の延世大学校)のバスケットボール部で、センターとして活躍。1936年の全日本選手権では朝鮮代表(延禧専門学校)として出場し、優勝した。1936年ベルリンオリンピックには日本代表選手の一人として出場した。この時の日本代表チームには、廉殷鉉を含む3人の朝鮮人選手が参加していた。ほかの2人も全日本選手権優勝メンバーで、李性求(延禧専門学校OB)・張利鎮(延禧専門学校学生)である。
上林 猷夫(かんばやし みちお、1914年2月21日 - 2… 上林 猷夫(かんばやし みちお、1914年2月21日 - 2001年9月10日)は、日本の詩人。 北海道札幌市出身。旧姓は高垣。生後6ヶ月で伯父の養子となり、大蔵省専売局官吏だった養父に従って全国を転々とする。同志社高等商業学校卒。大阪地方専売局を経て、高砂香料工業に勤務。取締役総務部長を務めた。 1936年池田克己、佐川英三らと『豚』を創刊。戦後は『花』を創刊、『日本未来派』に参加。1952年『都市幻想』で第3回H氏賞受賞。1963年から日本現代詩人会理事長として、事務的手腕を発揮した。1987年日本現代詩人会会長。
有倉 遼吉(ありくら りょうきち、1914年2月20日 - … 有倉 遼吉(ありくら りょうきち、1914年2月20日 - 1979年6月10日)は、日本の法学者。専門は、憲法学・教育法学。学位は、法学博士(1960年)(学位論文「公法における理念と現実」)。元早稲田大学法学部教授。 厳格な法実証主義による解釈を行った。閣議の議決方法については、多数決説を、憲法判断の回避の問題では、憲法判断先行説をとる。教育基本法の法的性格として、準憲法的法律説を提唱、日本教育法学会の初代会長を務めるなど、教育法学の理論形成に大きく貢献した。中国大連市(当時)生まれ。
近藤 春雄(こんどう はるお、1914年2月20日 - 20… 近藤 春雄(こんどう はるお、1914年2月20日 - 2014年1月21日)は、日本の中国文学者、愛知県立大学名誉教授。 三重県生まれ。父は漢学者・近藤杢。九州帝国大学法文学部支那文学科卒。福岡県中学修猷館教諭、愛知県立女子専門学校教授、愛知県立女子短期大学助教授、愛知県立大学教授、79年定年退官、名誉教授。79年「唐代小説の研究」で九州大学文学博士。古代から現代まで中国文学を幅広く研究した。87年勲三等旭日中綬章受章。2014年1月24日逝去。享年99。
中村 治朗(なかむら じろう、1914年2月20日 - 19… 中村 治朗(なかむら じろう、1914年2月20日 - 1993年8月24日)は、日本の裁判官。元最高裁判所判事。 香川県出身。旧制第六高等学校を経て東京帝国大学法学部在学中に高等試験司法科合格。1940年、判事任官。最高裁判所調査官、最高裁判所民事局長兼行政局長、最高裁判所首席調査官など最高裁内部での勤務期間が長かった。英米法に対する造詣が深く、学者的裁判官といわれた。 1972年に青年法律家協会問題が注目された際には、東京高裁判事として、再任拒否問題とは別に青法協問題が解決される必要があるとの立場を取って「①青法協は日本の政治的状況の中では新野党的位置に属する、②裁判官は一定の思想的立場や信条に深くコミットすることを避けるべきで一般市民に比べて思想信条の自由は制約される、③青法協を脱退しても裁判官が失うものは多くはないはずで、裁判独立のため裁判官が総力を上げて戦うのには青法協問題はふさわしい場ではない」と裁判所内部で表明して注目された。
大刀 豊(だいとう ゆたか、1914年2月19日 - 199… 大刀 豊(だいとう ゆたか、1914年2月19日 - 1998年1月10日)は、日本の地方公務員。札幌市交通局長、札幌副都心開発公社社長などを歴任した。 北海道札幌市または石狩郡当別町出身。実家は旅館「大刀館」を営んでいた。札幌第二中学校(現・北海道札幌西高等学校)を経て、1932年に北海道帝国大学予科農類へ入り、1938年に北海道帝国大学農学部卒業、卒業論文は「インドネシアの植民政策」。 大学卒業後は満洲興業銀行に入社、日中戦争の勃発に伴い、入社から8ヶ月後の同年12月に月寒連隊に現役招集され1943年5月まで兵役につき、復職後1945年3月に満州で再招集され、北支戦線で3年間に84回の戦闘を経験し「人斬り大刀中隊長」の異名で報じられ、大尉に進むものの、その後1945年8月にソ連軍に捉えられ、戦後3年間のシベリア抑留の後、1948年に引き揚げし当別町で郵便局長を務めていた弟の家に居候しながら職を求めた。
内海 五十雄(うつみ いそお、1914年2月19日 - 19… 内海 五十雄(うつみ いそお、1914年2月19日 - 1992年)は、京都府出身のプロ野球選手(内野手)。
福島 鉄次(ふくしま てつじ、1914年2月19日 - 19… 福島 鉄次(ふくしま てつじ、1914年2月19日 - 1992年)は、絵物語作家。本名:加藤 興(かとう たかし)。別名は上山 路夫である。 福島県白河市出身。19歳のころより、洋画家の岡吉枝に師事する。 戦前は小学館の学年別学習雑誌や朝日新聞社の『アサヒグラフ』などに挿絵を描いた。 戦後、一時日本鋼管に勤務したが、1948年に秋田書店より単行本『コングの猛襲』、『コンドル魔島』を出版する。1949年、秋田書店から創刊された『冒険王』に「ポップ少年の冒険 ダイヤ魔神」を描き、2号から『沙漠の魔王』(のちに『砂漠の魔王』に改題)を連載する。巨大な魔王は少年たちの間で話題を呼び、絶大な人気を得た。
蔦谷喜一(つたや きいち、1914年2月18日 - 2005… 蔦谷喜一(つたや きいち、1914年2月18日 - 2005年2月24日)は、画家、塗り絵作家。東京都出身。 1914年(大正3年)、京橋の紙問屋「蔦谷音次郎商店」の9人兄弟の7番目(五男)として生まれる。 1931年(昭和6年)、東京市立京橋商業学校を中退し、画家を志し川端画学校で学ぶ。 1939年(昭和14年)、画家としてはなかなか芽が出ず、見兼ねた兄の口利きで25歳にして商売をすることになり、菓子店の経営者となるが、商才は全くなく、赤字により1年ほどで店を閉める。 1940年(昭和15年)、友人が持ち込んだ「ぬりえ」の仕事をフジヲの名で始める。フジヲは、夏目漱石の「虞美人草」の藤尾からとった。
片山 正英(かたやま まさひで、1914年(大正3年)2月1… 片山 正英(かたやま まさひで、1914年(大正3年)2月17日 - 2005年(平成17年)3月22日)は、昭和期の農林官僚、政治家。参議院議員、林野庁長官。 宮城県仙台市出身。1939年(昭和14年)東京帝国大学農学部林学科を卒業した。 農林省に入省し、同山林局、林野庁、経済審議庁などで勤務。群馬県林務部長、林野庁業務部長などを歴任し、林野庁長官に1967年(昭和42年)9月から1970年(昭和45年)1月まで在任して退官した。 1971年(昭和46年)6月の第9回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で出馬して初当選。なお、この選挙を通じて関係者19人が買収、文書違反の疑いで逮捕されている。
小林 政夫(こばやし まさお、1914年 <大正3年> 2月… 小林 政夫(こばやし まさお、1914年 <大正3年> 2月16日 - 2000年 <平成12年> 9月15日)は、日本の実業家、政治家。日東製網社長、参議院議員(1期)、福山商工会議所会頭などを歴任した。位階は従四位。孫に衆議院議員の小林史明がいる。 広島県福山町(現・福山市西町)に生まれる。1931年(昭和6年)、広島県立福山誠之館中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)卒業。1938年(昭和13年)に東京商科大学(現・一橋大学)を卒業。 三洋証券社長の土屋陽三郎、新日本証券社長の鷹尾寛、東京銀行頭取の横山宗一、鹿島建設副会長の原明太郎、マツダ会長の岩沢正二、丸井今井社長の今井道雄、三井不動産社長の坪井東、一橋大学学長の小泉明らとともに大学の同期会を結成。
奥島 啓弐 (おくしま けいじ、1914年2月16日 - 2… 奥島 啓弐 (おくしま けいじ、1914年2月16日 - 2002年4月11日 )は、日本の工学者。京都大学名誉教授。摂南大学名誉教授。専門は生産工学、切削工学。工学博士(京都大学)(1949年)。京都府生まれ。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
稲葉 襄(いなば のぼる、1914年2月15日 - 2006… 稲葉 襄(いなば のぼる、1914年2月15日 - 2006年1月8日)は、日本の経営学者。神戸大学名誉教授、広島経済大学名誉教授。経営学博士。専門は中小工業経営・家庭経済学・仏教的企業経営学。 神戸女子大学、武庫川女子大学、神戸女子薬科大学でも非常勤講師を務めた。 1914年、千葉県市原市舞鶴に生まれる。1931年、千葉県立大多喜中学校卒業。1934年、和歌山高等商業学校(現、和歌山大学経済学部)卒業。1937年、神戸商業大学 (旧制)(現神戸大学)卒業、同大学研究科に進学し、1939年修了。同年、和歌山高等商業学校講師に就任。1940年同校教授。 1944年軍需省軍需監理官、1946年商工省近畿地方商工局事務官を経て、同年、神戸経済大学附属経営学専門部講師・教授。
福本 栄治(ふくもと えいじ、1914年2月15日 - 20… 福本 栄治(ふくもと えいじ、1914年2月15日 - 2001年3月30日)は、日本の経営者。大同生命保険社長を務めた。 奈良県出身。1934年に大阪商科大学を卒業し、同年に大同生命保険に入社。1969年5月に取締役に就任し、1972年5月に常務、1975年2月に専務を経て、1978年4月に社長に就任。1988年7月に会長に就任し、1990年6月には名誉会長に就任。 1981年11月に藍綬褒章を受章し、1986年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2001年3月30日胸部大動脈瘤破裂のために死去。87歳没。
大野 陽朗(おおの ようろう、1914年2月15日 - 20… 大野 陽朗(おおの ようろう、1914年2月15日 - 2005年2月18日)は日本の物理学者、北海道大学名誉教授。東京都出身。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
及川 舜一 (おいかわ しゅんいち、1914年 <大正3年>… 及川 舜一 (おいかわ しゅんいち、1914年 <大正3年> 2月14日 - 1999年 <平成11年> 3月11日) は、日本の地方政治家。岩手県一関市長(3期)。位階は正六位。 岩手県東磐井郡大東町(現・一関市)生まれ。1931年岩手県立工業学校(現・岩手県立盛岡工業高等学校)卒。卒業後は岩手県庁に入る。一関、大船渡、水沢各土木事務所長、一関市建設部長、同助役を経て、1983年一関市長に当選する。 当選後は岩手県市長会監事、一関地方衛生組合管理者、三陸地方地域産業開発促進協議会会長、一関地区土地開発公社理事長、北上川上流改修期成同盟会会長などを歴任した。北上川の改修や一関遊水地事業を進めた。
吉井 良三(よしい りょうぞう、1914年 <大正3年> 2… 吉井 良三(よしい りょうぞう、1914年 <大正3年> 2月14日 - 1999年 <平成11年> 1月28日)は、日本の昆虫学者。京都大学名誉教授。専門は洞窟生物学、昆虫形態学。位階は従四位。 1914年(大正3年)、大阪府の旧家に生まれる。旧制第三高校を経て、1938年(昭和13年)に京都帝国大学理学部動物学科を卒業。トビムシ研究から、日本の洞窟生物の研究をたちあげた。 また、その土壌動物採集の中でカマアシムシ目の昆虫を日本で初めて発見した。その種は彼の名にちなんでヨシイムシと名付けられた。 1959年、京都大学理学博士。学位論文の題は「粘管目の分類・系統学的研究」。 1987年勲三等旭日中綬章受章。
倉金 章介(くらかね しょうすけ、本名:倉金 虎雄〈くらかね… 倉金 章介(くらかね しょうすけ、本名:倉金 虎雄〈くらかね とらお〉、1914年2月13日 - 1973年8月25日)は、日本の漫画家、出版美術家連盟会員。『あんみつ姫』の作者として知られる。 倉金 とらを、倉金 良行(くらかね よしゆき)の筆名で活動していたこともある。 1914年(大正3年)2月13日、山梨県甲府市で料理屋の四男として生まれる。 甲府市立甲府商業学校(現在の甲府市立甲府商業高等学校)に在学中から、『少年倶楽部』や『少女倶楽部』などの雑誌に作品を投稿。 卒業後、料理屋の仕事を継ぐのがどうしても嫌だった倉金は、家族に告げずに、雑誌に掲載された作品や写真、履歴書を同封した弟子志望の手紙を尊敬する田河水泡に送る。
北園 孝吉(きたぞの こうきち、1914年2月13日 - 1… 北園 孝吉(きたぞの こうきち、1914年2月13日 - 1984年12月)は、日本の作家、歴史家。 東京市日本橋区本町 (現・中央区日本橋室町) の提灯屋・大和屋四代目の家に生れる。彼の父は、番傘や提灯などにさまざまな書体や紋章を施す筆耕職人であった。9歳のとき、関東大震災を経験。 1937(昭和12)年10月、「明日はお天気」が第21回サンデー毎日大衆文芸賞に入選し作家デビュー。『新青年』や『宝石』などに執筆した。ユーモア小説、風俗小説、時代小説を書いた。ほか歴史ノンフィクションも書いている。 1958(昭和33)年1月刊行の『おとぼけ侍』 (和同出版社) を原作として、1961(昭和36)年6月公開の映画『橋蔵の若様やくざ』(河野寿一/監督、東映)が製作されている。
中山 善郎(なかやま よしろう、1914年(大正3年)2月1… 中山 善郎(なかやま よしろう、1914年(大正3年)2月12日 - 1996年(平成8年)1月25日)は、日本の実業家。東京市荒川区生まれ、長野県古間村育ち。
早川 真平(はやかわ しんぺい、1914年2月11日 - 1… 早川 真平(はやかわ しんぺい、1914年2月11日 - 1984年12月28日)は、日本のバンドネオン奏者。タンゴ楽団『早川真平とオルケスタ・ティピカ東京』代表。 1914年、大阪府生まれ。大阪府立天王寺中学校(現・大阪府立天王寺高等学校)卒業。25歳のとき、渡辺はま子の伴奏楽団を編成する。 1947年に、タンゴ楽団の『オルケスタ・ティピカ東京』を結成する。1950年には、原孝太郎と東京六重奏団の歌手の藤沢嵐子が、この楽団に加わる。後に、早川真平は、自分の妻子と別れ、藤沢嵐子と再婚する。1953年、1954年、1956年、1964年に、アルゼンチン演奏旅行を実現している。このころ、早川真平が使っていたバンドネオンのボタンは、クロマティク方式で、アルゼンチンや今の日本で使われているディアトニック方式とは別と、推定されている。
鈴木 正四(すずき まさし、1914年2月11日 - 200… 鈴木 正四(すずき まさし、1914年2月11日 - 2001年12月24日)は、日本の歴史学者。愛知大学名誉教授。 山形県出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)を経て、1933年第七高等学校造士館 (旧制)卒業。1936年東京帝国大学西洋史学科卒業。外務省図書係嘱託、ナウカ社「社会評論」編集長を経て、1956年愛知大学教授、後に同大学国際問題研究所長。1985年定年退任。
斎藤 十一(齋藤 十一、さいとう じゅういち、1914年(大… 斎藤 十一(齋藤 十一、さいとう じゅういち、1914年(大正3年)2月11日 - 2000年(平成12年)12月28日)は、昭和期の編集者・出版人。
長谷川 武彦(はせがわ たけひこ、1914年2月11日 - … 長谷川 武彦(はせがわ たけひこ、1914年2月11日 - 1983年10月31日)は、日本の実業家。長谷川工務店(現:長谷工コーポレーション)創業者・会長。 1914年兵庫県生まれ。1936年関西高等工学校(現:大阪工業大学)建築学科卒。1937年個人経営の長谷川工務店(現:長谷工コーポレーション)を創業。1946年株式会社に改組。当初は、学校建築や社宅建築などを手掛け、戦後の好景気の波に乗って急成長を続け、大阪・東京で株式上場を果たす。1964年の東京オリンピック後の不況で一転して苦境に陥ったことを契機に、マンション建設事業への転換を図る。1968年自社マンション第1号を兵庫県芦屋市に建設し、建設から販売までのノウハウを蓄積し、長谷工独自の「土地持ち込みによる特命受注方式」(マンション建設に適した土地を持ち込み、提案・受注する方式)を確立。
伴 紀雄(ばん のりお、1914年(大正3年)2月11日 -… 伴 紀雄(ばん のりお、1914年(大正3年)2月11日 - )は、日本のボート競技(ローイング競技)選手。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した。 1914年2月11日、東京府東京市赤坂区(現在の東京都港区)に生まれる。慶應義塾普通部在学中にボート部に所属し、活躍を始める。その後、慶應義塾商工学校を経て慶應義塾大学に進む。中澤篤史の調査によれば、オリンピック出場時に伴は慶應義塾商工学校の所属であるが、『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』では大学入学後のこととして記述されている。 慶應義塾の端艇部には、対校選手団である「三色旗クルー」のほかに複数のかじ付きフォア(英語版)のクルーが編成されており、伴は慶應義塾商工学校OBおよび現役生を中心とした「自尊会」に属していた。
生田 幸夫(いくた ゆきお、1914年2月11日 - 198… 生田 幸夫(いくた ゆきお、1914年2月11日 - 1989年9月18日)は、日本の経営者。富士紡績社長、会長を務めた。山口県出身。 1936年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に三菱銀行に入行。1963年6月に富士紡績常務に就任し、1968年4月に専務を経て、1970年7月に社長に就任した。1980年7月に会長に就任し、1984年7月に相談役を務めた。 1989年9月18日、急性呼吸不全のために死去。75歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
茂在 寅男(もざい とらお、1914年2月10日 - 201… 茂在 寅男(もざい とらお、1914年2月10日 - 2013年5月31日)は、日本の工学博士(航海計器学)、作家、水中考古学(海洋考古学)研究者。 茨城県筑波郡筑波町大字北条(現・つくば市北条)出身、千葉県市川市に在住していた。勲三等旭日中綬章、東京商船大学(現・東京海洋大学)名誉教授、英国王立航海研究所名誉会員、日本水中考古学会副会長。ペンネームは、油棚憲一(あぶらだな けんいち)、茂在公望(もざい こうぼう)、鬼怒川公望(きぬがわ こうぼう)、他。 日本で初めてヨットを製作する。土浦中学校(現・茨城県立土浦第一高等学校)、東京高等商船学校(現・東京海洋大学)航海科卒業後、日本郵船を経て、鳥羽商船学校、東京高等商船学校(東京商船大学を含む)、横浜国立大学、東京大学、東海大学で教鞭をとりながら、先端研究分野である船舶のオートパイロットを視野にいれた航海計器の近代航海術の技術開発研究を行う。
向山 一人(むかいやま かずと、1914年2月10日 - 1… 向山 一人(むかいやま かずと、1914年2月10日 - 1995年12月21日)は日本の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 長野県上伊那郡中箕輪村(後の中箕輪町、現在の箕輪町)生まれ。旧制長野県伊那中学校(現長野県伊那北高等学校)を経て、早稲田大学附属高等工学校卒業。古河電工無線研究所研究課長を退職して、1940年東京市荏原区(現品川区)に「興亜工業社」(現KOA) を設立した。1955年伊那毎日新聞設立。1963年には建設省の専門委員、1964年興亜ソリッド社長、1967年には日本経済団体連合会常任理事を歴任した。1977年コーア会長に就任。 1962年紺綬褒章受章。1962年5月長野県箕輪町教育施設費のため100万円寄付により1963年2月2日紺綬褒章受章(飾版)、寄付の功績顕著として木杯一組台付を賜った。
富ノ山 等(とみのやま ひとし、1914年2月10日 - 1… 富ノ山 等(とみのやま ひとし、1914年2月10日 - 1945年10月30日)は、宮城県栗原郡築館町(現栗原市)出身で花籠部屋に所属した力士。本名は佐藤 等。最高位は西前頭4枚目。身長185cm、体重116kg。 1930年、花籠部屋から初土俵を踏む。序ノ口、三段目、幕下で優勝を経験し、3年で十両に昇進した。そのあと少し出世はゆっくりとなったが、1935年1月、20歳で新入幕を果たした。「富野山」に改名した1936年5月場所自己最高位となる西前頭4枚目まで上がるが、11戦全敗で終わった。「冨ノ山」に再改名した1937年5月場所十両に落ち、一時期素行不良で破門され、幕下付出で再出発したこともあった。
浅岡 三郎(あさおか さぶろう、1914年〈大正3年〉2月8… 浅岡 三郎(あさおか さぶろう、1914年〈大正3年〉2月8日 - 没年不明)は、大阪府出身のプロ野球選手(投手、内野手、外野手)。 大阪府出身で北野中学卒業後はセミプロ(クラブチーム)の神戸ダイアモンドでプレー。1936年に東京セネタースへ誘われ入団。セネタースの先発投手として活躍し、1940年には初の二桁勝利となる14勝を挙げている。1941年には大洋軍に移籍し、この年も11勝を挙げている。1942年を最後に退団。浅岡は兼任で野手としても活躍し、425試合に出場している。浅岡によると当時のプロ野球はデーゲームのみで開催されていたため、大学の夜間部に通っていた。プロ野球退団後は応召により軍隊に入り、戦後は球界からは完全に離れた。
金丸 三郎(かねまる さぶろう、1914年(大正3年)2月8… 金丸 三郎(かねまる さぶろう、1914年(大正3年)2月8日 - 2007年(平成19年)8月15日)は、日本の官僚、政治家。自治事務次官、鹿児島県知事、自由民主党参議院議員、総務庁長官、参議院協会会長、財団法人井上育英会顧問を務めた。 位階は従三位。勲等は勲一等瑞宝章。学位は法学士(東京大学)。称号は特定非営利活動法人日本居合道連盟名誉範士。 鹿児島県出水郡上出水村(後の出水町)生まれ、現在の出水市出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校(のち鹿児島県立鶴丸高等学校)、第七高等学校造士館(のち鹿児島大学)を経て、東京帝国大学(のち東京大学)法学部卒業後の1938年(昭和13年)、内務省入省(地方局配属)。
鳥越 憲三郎(とりごえ けんざぶろう、1914年2月8日 -… 鳥越 憲三郎(とりごえ けんざぶろう、1914年2月8日 - 2007年3月23日)は、日本の宗教学者・民俗学者・歴史学者。 岡山県出身。関西学院大学法文学部卒、1962年「琉球宗教史の研究」で東京文理科大学(後の東京教育大学)文学博士。大阪学芸大学講師、助教授、1967年校名変更で大阪教育大学助教授、1973年教授。1979年定年退官、名誉教授、大阪経済法科大学教授。1989年退職。1955年『馬酔木』に投稿し、水原秋桜子に師事した。長男は鳥越皓之。 沖縄戦前の1942年に沖縄県の嘱託で祭祀などを調査。同年、湧上元雄と共に久高島のイザイホーを視察した。また中国雲南省に日本人の起源を求めた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
朝吹 三吉(あさぶき さんきち、1914年2月7日 - 20… 朝吹 三吉(あさぶき さんきち、1914年2月7日 - 2001年2月3日)は、日本のフランス文学者。
李 澔(イ・ホ、이호、1914年2月7日 - 1997年5月… 李 澔(イ・ホ、이호、1914年2月7日 - 1997年5月24日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の検察官、法律家、政治家。 本貫は永川李氏(朝鮮語版)。日本名は李家 澔(りのいえ ひろし)。 慶尚北道永川郡にて、大地主の息子として誕生。1923年3月に慶尚北道永川公立普通学校卒業後、翌4月に京城第二公立高等普通学校2学年に編入し、1930年3月に修了した。1930年4月、京都の立命館中学校3学年に編入して1933年3月に卒業。同年4月に佐賀高等学校文科甲類に入学して1936年3月に卒業。1936年4月、東京帝国大学法学部法律学科に進学し、1940年3月に卒業。大学在学中の1939年11月に高等文官試験司法科に合格。
高橋 延清(たかはし のぶきよ、1914年2月6日 - 20… 高橋 延清(たかはし のぶきよ、1914年2月6日 - 2002年1月30日)は、日本の森林学者。東京大学名誉教授。東京大学の北海道演習林(富良野市)で林長を務め、「森こそ教室」として東京での授業や教授会よりも現場観察を重視し、いつも泥まみれで歩く姿と、自らを「のろまでも、こうだと決めたらこつこつとやる」と亀にたとえていたことから「どろ亀さん」(ドロ亀さん)、「どろ亀先生」」の愛称で、多くの人に親しまれた。 氷雪や雪崩の研究家でエッセイストの高橋喜平は兄、元沢内村長の太田祖電と直木賞作家の高橋克彦は甥である。 1914年(大正3年)、岩手県和賀郡沢内村(現:西和賀町)に生まれる。出生届を出すのに数年かかったので、正確な生年月日は不明という(戸籍上は1914年2月6日生まれ)。
永野 孝(ながの たかし、1914年〈大正3年〉2月6日 -… 永野 孝(ながの たかし、1914年〈大正3年〉2月6日 - 没年不明)は、日本の保護司、福祉事業家。阪南福祉事業会理事長。岸和田市長をつとめた永野耕平の祖父。 大阪府岸和田市出身。永野勇吉の長男。1931年3月に大阪府立佐野工業学校卒業、同年4月に岸和田紡績に就職し、1933年に退社、家業の別珍加工業につく。同年に司法保護団体公道授産会を設立、非行少年の収容保護を開始、父親とともに従事する。 1938年7月に別珍加工業を廃業する。1943年、公道授産会を徴用工特別錬成道場に転換する。1945年8月、終戦により公道授産会を再発足する。1948年、児童福祉施設岸和田学園に転換する。1958年、岸和田学園理事長兼園長。
安田 章一郎(やすだ しょういちろう、1914年2月6日 -… 安田 章一郎(やすだ しょういちろう、1914年2月6日 - 2019年11月13日)は、日本の英文学者、翻訳家。名古屋大学名誉教授。 島根県生まれ。1937年京都帝国大学文学部英文科卒、浪速大学、奈良女子大学教授、1971年名古屋大学教授、1977年定年退官、甲南女子大学教授を務めた。 T・S・エリオット、W・H・オーデン、ジェラード・マンリ・ホプキンスなど英国モダニズム詩人を研究、翻訳した。深瀬基寛の一番弟子。 2019年11月13日、呼吸不全のため死去。105歳没。死没日をもって従四位に叙される。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
米山 寅太郎(よねやま とらたろう、1914年2月5日 - … 米山 寅太郎(よねやま とらたろう、1914年2月5日 - 2007年4月19日)は、日本の漢字学者。 長野県出身。東京文理科大学を卒業後、同校助手となる。1949年諸橋轍次編の『大漢和辞典』で、用例を充実する仕事を引き受ける。1960年の完成後、1966年から修訂作業を始め、1986年に完成させた。静嘉堂文庫長、静嘉堂文庫美術館長も務めた。 1986年に勲三等瑞宝章を受章した。2007年4月19日、呼吸不全のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
高田 浩運(たかた こううん、1914年2月4日 - 197… 高田 浩運(たかた こううん、1914年2月4日 - 1977年7月17日)は、日本の政治家、厚生官僚。位階は従三位。勲等は勲二等。参議院議員(2期)。 1914年(大正3年)熊本県玉名市生まれ。熊本県立玉名中学校、第五高等学校を経て、1936年(昭和11年)、東京帝国大学卒業後、内務省に入省する。1937年(昭和12年)に香川県警警務課長。 1941年(昭和16年)に厚生省に配転され、1945年(昭和20年)より同省庶務課長、1955年(昭和30年)より医務局次長、1956年(昭和31年)より児童局長、1960年(昭和35年) より官房長、1962年(昭和37年)4月より保険局長を経て、同年7月社会保険庁長官に就任。
中村 六郎(なかむら ろくろう、1914年2月4日 - 20… 中村 六郎(なかむら ろくろう、1914年2月4日 - 2004年4月11日)は岡山県備前市伊部生まれの陶芸家。愛称は「六さん」 日本工芸会中国支部、備前焼陶友会、伝統工芸士会に所属した。 父親が金重陶陽らの作家たちと親しく、その影響で陶芸家を志す。終戦までは会社勤めをするが、1945年に金重陶陽に師事し、技術の修練を積む。また、北大路魯山人が金重陶陽宅に来訪時には、藤原啓、山本陶秀らと共に、その技術を学び影響を受けたと言われている。 1961年に六郎窯を築いて独立する。1986年には伝統工芸士に認定される。 ろくろでは徳利などの酒器を好んで製作。たたらでは泡瓶、急須、茶碗なども手がける。朴訥で野性味あふれる作風。