西村 清次(にしむら せいじ、1915年 <大正4年> 2月… 西村 清次(にしむら せいじ、1915年 <大正4年> 2月18日 - 2013年 <平成25年> 8月1日)は、日本の経営者。京都中央信用金庫理事長を務めた。位階は従四位。 京都府出身。関東軍無線電信教習所、朝鮮平壌日本穀産工業での勤務を経て、1947年1月に京都中央信用金庫に入社し、1949年に立命館大学文学部哲学科を卒業。1950年4月に理事に就任し、1959年に専務を経て、1972年12月に理事長に就任。1989年5月に会長に就任し、1995年5月から2000年5月までに相談役を務めた。1981年に立命館理事長に就任し、1995年11月には名誉会長に就任。 1977年に黄綬褒章を受章し、1981年4月に勲三等瑞宝章を受章し、1996年4月に勲二等瑞宝章を受章。
梅崎 春生(うめざき はるお、1915年〈大正4年〉2月15… 梅崎 春生(うめざき はるお、1915年〈大正4年〉2月15日 - 1965年〈昭和40年〉7月19日)は、日本の小説家/随筆家。 海軍体験を基にした『桜島』の成功で第一次戦後派の代表的存在となった。戦争物のほか、人間心理の暗闘を戯画的に描いた市井事物でも評判を呼び、作家としての地位を確立。「第三の新人」の先駆とも目されたが、やがて心身不調となり、『幻化』を遺して没した。 福岡市簀子町生まれ(現中央区大手門)。父親の建吉郎は佐賀県出身で陸軍士官学校を卒業した軍人であり、海軍大将百武源吾とも旧制佐賀中学の同窓。父の福岡配属時に春生が生まれた。祖父梅崎長明の弟梅崎綱吉は、佐賀で相場師として活躍し名を馳せた。
小副川 十郎(おそえがわ じゅうろう、1915年2月15日 … 小副川 十郎(おそえがわ じゅうろう、1915年2月15日 - 1996年6月15日)は、日本の経営者。日本水産社長、会長を務めた。佐賀県出身。 1940年に農林水産講習所を卒業し、同年に日本水産に入社。 1964年に取締役に就任し、1969年5月に常務、1971年5月に専務を経て、1973年5月に副社長に就任し、1975年12月には社長に昇格。1980年6月に取締役相談役に就任し、1982年6月には相談役に就任。 1979年4月に藍綬褒章を受章。 1996年6月15日心不全のために死去。81歳没。
小松崎 茂(こまつざき しげる、1915年〈大正4年〉2月1… 小松崎 茂(こまつざき しげる、1915年〈大正4年〉2月14日(戸籍上2月21日[要出典]) - 2001年〈平成13年〉12月7日)は、東京府(現:東京都)出身の画家・イラストレーター。 空想科学イラスト・戦記物・プラモデルの箱絵(ボックスアート)など、挿絵画家の第一人者として幅広く活躍した。 東京府北豊島郡南千住町(現在の東京都荒川区南千住)で生まれ、青年期には日本画家を志望し花鳥画の堀田秀叢(ほったしゅうそう)に学ぶ。しかし、転じて秀叢の弟弟子の画家・小林秀恒の下で挿絵画家の道を歩むことになる。 1938年(昭和13年)に「小樽新聞」に連載の悟道軒圓玉の講談小説『白狐綺談』の挿絵でデビューし(筆名は「恒方」)、翌々年には科学雑誌『機械化』の挿絵で、戦争物や空想科学を題材にした絵を描き評判になる。
新富 卯三郎(しんとみ うさぶろう、1915年2月13日 -… 新富 卯三郎(しんとみ うさぶろう、1915年2月13日 - 1945年8月1日)は、福岡県出身のプロ野球選手。
北見 禮子(きたみ れいこ、1915年2月13日 - 200… 北見 禮子(きたみ れいこ、1915年2月13日 - 2007年)は、日本の女優である。新漢字表記北見 礼子、出生名・旧芸名稲村 美津子(いなむら みつこ)、結婚後本名林 美津(はやし みつ)。夫は林敏夫、長男は林与一である。 1915年(大正4年)2月13日、千葉県東葛飾郡野田町(現在の同県野田市)に生まれる。 1932年(昭和7年)3月、野田町立野田高等女学校(現在の千葉県立野田高等学校)を卒業し、同年4月、東京・巣鴨の河合映画製作社に入社、同年6月10日に公開された吉村操監督の『大磯心中 天国に結ぶ恋』に出演して、映画界にデビューした。同年10月20日に公開された根岸東一郎監督の『下宿屋の娘』で、初めて主役に抜擢される。
石井 象二郎(いしい しょうじろう、1915年2月12日 -… 石井 象二郎(いしい しょうじろう、1915年2月12日 - 2004年12月10日)は、日本の昆虫学者・農学者。 大阪府大阪市出身。1937年東京高等農林学校(現東京農工大学)卒業。農林省農事試験場昆虫部、佐賀県立農事試験場を経て、1946年京都帝国大学農学部卒。1956年「アズキゾウムシの寄生選好に関する研究」により、農学博士の学位を取得。農林省農業技術研究所技官を経て、1963年京都大学農学部教授となる。1978年定年退官、名誉教授。ゴキブリの集合フェロモンを発見し、昆虫の生理生化学的研究を進めた。日本応用動物昆虫学会会長、日本昆虫学会会長を務めた。1991年『イラガのマユのなぞ わたしの研究』で日本科学読物賞受賞。
北村 茂男(きたむら しげお、1915年2月11日 - 20… 北村 茂男(きたむら しげお、1915年2月11日 - 2002年3月11日)は、日本の経営者。滋賀県出身。 1935年に彦根高等商業学校を卒業し、同年に第一銀行に入行。1951年9月にオリンパス光学工業に転じ、1964年12月に取締役に就任し、1969年12月に常務、1971年12月に専務を経て、1973年12月に社長に就任。1984年1月に会長に就任。 1979年4月に藍綬褒章を受章。 2002年3月11日肺炎のために死去。87歳没。
川名吉エ門(かわなきちえもん、1915年(大正4年)2月11… 川名吉エ門(かわなきちえもん、1915年(大正4年)2月11日 - 1998年(平成10年)9月6日)は、日本の都市計画学者。旧・東京都立大学名誉教授。 千葉県出身、東京大学建築学科卒業。 都市計画の研究に多くの実績を残す一方、東京都立大学(のち首都大学東京)工学部建築学科の他、日本女子大学、大阪市立大学工学部建築学科で都市計画方面の人材を数多く育成。 代表作に、神戸市西区の研究学園都市西神ニュータウン、鈴蘭台住宅団地基本計画、大阪既製服縫製近代化協同組合枚方工場団地、など。 1987年勲三等瑞宝章受章。
松永 義正(まつなが よしまさ、1915年 <大正4年> 2… 松永 義正(まつなが よしまさ、1915年 <大正4年> 2月11日 - 1995年 <平成7年> 11月4日)は、日本の経営者。日本軽金属社長、会長を務めた。位階は正四位。 東京都出身。1937年に早稲田大学商学部を卒業。富士川電力での勤務を経て、1939年に日本軽金属に転社。1963年5月に取締役に就任し、1965年5月に常務、1967年5月に副社長を経て、1975年5月に社長に就任。1983年11月に会長に就任し、1987年6月に取締役相談役、1989年6月に取締役名誉会長を経て、1990年6月に名誉会長に就任。 1980年4月に藍綬褒章を受章し、1986年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1995年11月4日心不全のために死去。
福田 時雄(ふくだ ときお) のち 森山 時雄(もりやま と… 福田 時雄(ふくだ ときお) のち 森山 時雄(もりやま ときお、1915年2月10日 - 2001年1月6日)は、日本の陸上競技(障害走)選手・指導者、実業家、美術収集家。1936年ベルリンオリンピックに男子400メートルハードルで出場。 島根県出身。県立大社中学校(現在の島根県立大社高等学校)卒業。 関西大学に入学。1936年ベルリンオリンピックで日本代表選手となり、男子400メートルハードルに出場。 1937年9月5日、日本陸上競技選手権大会400メートルハードルにおいて、当時の日本学生記録(54秒8)をマーク。 1938年(昭和13年)関西大学法学部卒業。醸造業を営み、島根県醤油工業協同組合理事長を務めた。
清河 七良(きよかわ しちりょう、1915年〈大正4年〉2月… 清河 七良(きよかわ しちりょう、1915年〈大正4年〉2月10日 - 2004年〈平成16年〉8月24日)は、日本の政治家。富山県松倉村長および魚津市長を歴任。位階は従四位。 1915年2月10日、朝鮮半島の鎮海にて、池上家の七人兄弟姉妹の6番目の子供として生を受ける。1928年3月に鎮海尋常高等小学校卒業、1933年3月に釜山公立中学校卒業。1936年3月15日に立命館大学専門部文科を卒業。 1936年9月4日、富山県下新川郡松倉村北山の旅館業『仁右衛門家』を営む清河家(母方の実家)の清河さきと養子縁組をし、美智子と結婚。同年12月16日から1940年6月30日まで富山県中新川郡早月加積尋常高等小学校に代用教員として勤務し、続いて同年6月30日から1941年3月29日まで富山県公立青年学校教諭となり、下新川郡魚津青年学校に勤務。
阿部 正雄(あべ まさお、1915年2月9日 - 2006年… 阿部 正雄(あべ まさお、1915年2月9日 - 2006年9月10日)は、日本の禅哲学者、奈良教育大学名誉教授。禅と西洋哲学との比較研究、またキリスト教徒やユダヤ教徒との宗教間対話に力を注いたことから、西洋の学界、宗教界で著名である。 大阪市立大学卒業、1942年に京都帝国大学で西洋哲学を研究する。1952年奈良学芸大学助教授、奈良教育大学教授、1980年定年退官、ハワイ大学禅文化研究所に勤務。1985年「禅と西洋思想」で京都大学文学博士。 1950年代から、ニューヨークにあるユニオン神学校で、20世紀を代表する神学者であるラインホルド・ニーバーやパウル・ティリッヒに師事し、キリスト教神学を学んだ。
井上 四郎(いのうえ しろう、1915年2月8日 - 201… 井上 四郎(いのうえ しろう、1915年2月8日 - 2010年7月11日)は、昭和期の日本の銀行員。日本銀行理事、アジア開発銀行総裁(第2代)などを務めた。東京都出身。父は1932年に、血盟団事件で暗殺された元大蔵大臣の井上準之助、母は華族・吉敷毛利家の毛利重輔の娘・千代子。 1931年、東京府立一中を四修で修了し、府立高等学校 (旧制)、東京帝国大学卒業後、日本銀行に入行。日本銀行理事(外国局担当 1967年10月-1972年9月)に就任、ニクソンショックの渦中にあって、当時の柏木雄介大蔵省顧問らと同様、日本銀行を代表して日本市場閉鎖に反対の立場をとった。この間、閉鎖するまでの12日間で当時2200億円の為替差損を生じさせることとなったが、一方で、これは市中銀行が輸出奨励政策の一貫からこれまで巨額のドルを保持していたこと、また、日本の国際収支の“黒字隠し”のためにこの「ドルの保持」が利用されていたこともあって、国家が民間企業の巨額の差損を肩代わりすることで“救った”ものだと評されている 。
加茂 健(かも たけし、1915年2月8日 - 2004年3… 加茂 健(かも たけし、1915年2月8日 - 2004年3月26日)は、静岡県出身のサッカー選手。ポジションはインナーレフト。加茂正五は弟。 静岡県浜松師範学校付属小学校4年時にサッカーを始める。浜松一中では5年時にキャプテンを務め、中部大会に優勝した。 早稲田大学入学後はア式蹴球部に所属。在学中の1936年に開催されたベルリンオリンピックのサッカー日本代表に選出され、背番号10を付けた。1回戦のスウェーデン代表戦に出場し、ベルリンの奇跡の立役者となった。また、2回戦のイタリア代表戦にも出場した。 また、1938 FIFAワールドカップ・予選および1940年東京オリンピック の日本代表にも選出されたが、試合会場となるベトナムへの渡航に難色を示した大日本蹴球協会(現:日本サッカー協会)によりW杯予選への不参加が決定された。
村山 達雄(むらやま たつお、1915年〈大正4年〉2月8日… 村山 達雄(むらやま たつお、1915年〈大正4年〉2月8日 - 2010年〈平成22年〉5月20日)は、日本の大蔵官僚、政治家。正三位勲一等旭日大綬章。 衆議院議員(12期)、大蔵大臣(第82代・第91代・第92代)、厚生大臣(第60代)を歴任。税制通で知られ、消費税導入にもかかわった。 新潟県長岡市坂之上町生まれ。株屋をやっていた幸太郎の三男。 長岡市立表町尋常小学校から長岡中学校に進む。長岡中二年の時、母が死去、姉静子に身のまわりの面倒をみてもらうようになった。当時の旧制中学は五年制だったが、中学四年生から旧制高校を受験できた。担任教諭の勧めで一高を受験、合格した。 1937年(昭和12年)に東京帝国大学法学部を卒業。
春日 和男(かすが かずお、1915年2月8日 - 2012… 春日 和男(かすが かずお、1915年2月8日 - 2012年)は、日本の国語学者。九州大学名誉教授。 長野県生まれ。春日政治の長男で、親子二代で九州大学国語国文の教授を務めた。旧制福岡県立福岡中学を経て、京都帝国大学文学部国文科卒。1962年「古代国語における存在詞の展開」で九州大学文学博士。福岡経済専門学校教員、福岡商科大学(校名変更、のち福岡大学)助教授、九州大学文学部助教授を経て、教授となる。1978年定年退官、名誉教授、帝京大学文学部教授を務めた。
神田 貞之助(かんだ ていのすけ、1915年2月8日 - 1… 神田 貞之助(かんだ ていのすけ、1915年2月8日 - 1997年4月23日)は、日本の物理学者。神戸大学名誉教授。理学博士。大阪府大阪市出身。
吉賀 大眉(よしか たいび、1915年2月8日 - 1991… 吉賀 大眉(よしか たいび、1915年2月8日 - 1991年10月13日)は、陶芸家。文化功労者。 山口県萩市出身。本名は寿男。東京美術学校彫刻科卒。萩焼作家協会会長、山口芸術短期大学教授を務めた。1971年日本芸術院賞受賞。1982年日本芸術院会員。1986年勲三等瑞宝章、1990年文化功労者。墓は山口県萩市大井の周鷹寺の墓地にある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
西沢文隆(にしざわ ふみたか、1915年2月7日 - 198… 西沢文隆(にしざわ ふみたか、1915年2月7日 - 1986年4月16日)は、日本の建築家。元坂倉建築研究所所長。関西を中心に活動し、コートハウス論や日本庭園研究でも知られる。日本芸術院賞受賞者。 関西を中心に活動し、「前橋市庁舎」「大阪府青少年海洋センター」「ホテルパシフィック東京」「ルナ・ホール」などを代表作とする。また、1967年に「大阪府野外活動センター」で日本建築学会賞を受賞した。 1985年、建築「神宮前の家」(白倉邸)ほか一連の住宅作品に対して日本芸術院賞を受賞した。 西沢は、日本の風土に即した住宅としてコートハウスに注目し、著書『コート・ハウス論』などを通してその理論化を行った。
佐野 憲治(さの けんじ、1915年2月6日 - 1978年… 佐野 憲治(さの けんじ、1915年2月6日 - 1978年4月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。
多 久興(おおの ひさおき、1915年(大正4年)2月5日 … 多 久興(おおの ひさおき、1915年(大正4年)2月5日 - 1979年(昭和54年)11月17日)は、日本のヴァイオリニスト。元東京芸術大学音楽学部教授。徳島文理大学客員教授。 東京音楽学校卒業。東京都出身。父はヴァイオリニストの多久寅。 東京都出身。東京音楽学校の教授でヴァイオリニストである多久寅の子として生まれ、弟の多久尚もヴァイオリニストである。 1937年(昭和12年)に東京音楽学校を卒業し、1938年(昭和13年)の第6回日本音楽コンクールで第3位となる。 また東京藝術大学で教鞭を執り、同大学の教授を務めたほか、徳島文理大学の客員教授も務めた。 1979年(昭和54年)11月17日、死去。
厳 敏永(オム・ミニョン、朝鮮語: 엄민영/嚴敏永、1915… 厳 敏永(オム・ミニョン、朝鮮語: 엄민영/嚴敏永、1915年2月4日 - 1969年12月10日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の政治家、官僚、弁護士。本貫は寧越厳氏。漢字表記は厳敏英とも。日本名は雉山 敏夫(きじやま としお)。 慶尚北道慶山郡または善山郡にて誕生。大邱公立高等普通学校(のちの慶北高等学校(朝鮮語版))を経て、1936年法政大学予科修了。1939年九州帝国大学法文学部法科卒業。米国ノースウェスタン大学法科大学院修了。高等文官試験行政科に合格して朝鮮総督府の官吏となり、京城地方専売局清州出張所で勤務した。1943年以後、全羅北道任実郡と茂朱郡の郡守を務めた。 太平洋戦争(大東亜戦争)終戦後は、全羅北道農商部長と全羅南道農林局長を務めた。
二葉 あき子(ふたば あきこ、1915年2月2日 - 201… 二葉 あき子(ふたば あきこ、1915年2月2日 - 2011年8月16日)は、日本の女性歌手。 広島駅のすぐ北側、広島県広島市大須賀町二葉(現在の東区二葉の里)出身で、芸名は二葉の里で安芸の国と地元からとる。本名は加藤芳江。 広島県立広島高等女学校(現在の広島県立広島皆実高等学校)を経て、1935年、東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)師範科卒業。音楽学校在籍中、東京音楽学校の奏楽堂で同校期待の増永丈夫の美しいバリトンを聴いて感銘を受ける。その増永丈夫はすでに藤山一郎として流行歌手として名をなしていた。 レコードデビューは、在学中にコロムビアで吹込んだ教育レコード。卒業後、地元の広島の三次高等女学校(現在の広島県立三次高等学校) で教鞭をとる。
八尋 俊邦(やひろ としくに、1915年2月1日 - 200… 八尋 俊邦(やひろ としくに、1915年2月1日 - 2001年10月27日)は東京都出身の実業家。三井物産の社長や会長を歴任したほか、商社出身者として初めて経済団体連合会副会長を務めた。1987年に勲一等瑞宝章を受章。 東京で生まれたものの、日本製粉勤務の父の仕事の関係でまもなく福岡県久留米市に転居。4年後、父が下関支店長となったため、下関に転居。 養治小学校、旧制豊浦中学校(現:山口県立豊浦高等学校)、旧制第二神戸中学(現:兵庫県立兵庫高等学校)を経て、1932年旧制麻布中学校卒業。旧制東京商科大学(現:一橋大学)卒業。大学では一橋新聞部、上田辰之助ゼミナールに所属。戸倉勝城(元阪急監督)は小学校、中学校の友人。
大社 義規(おおこそ よしのり、1915年2月1日 - 20… 大社 義規(おおこそ よしのり、1915年2月1日 - 2005年4月27日)は、日本の実業家。日本ハム創業者で元社長。香川県大川郡津田町津田(現・さぬき市)出身。 1934年、家の没落で旧制高松高等商業学校(現・香川大学経済学部)を中退した。叔父経営の養豚組合に就職したのち1942年に日本ハム株式会社の前身母体となる「徳島食肉加工工場」を徳島市で設立。その後戦災による工場焼失、1951年に株式組織とし「徳島ハム株式会社」の設立を経たのち大阪市浪速区に拠点を移し、「鳥清ハム」との合併を経て1963年に日本ハムに商号を変更、ハム・ソーセージを中心とした食肉加工のトップメーカーに成長させた。この頃、取材に訪れた業界紙「日本加工食品新聞」の小菅留治編集長と知り合い、その後長きに渡って交流する。
樫出 勇(かしいで いさむ、1915年〈大正4年〉2月 - … 樫出 勇(かしいで いさむ、1915年〈大正4年〉2月 - 2004年〈平成16年〉6月)は、陸軍軍人、戦闘機操縦者。最終階級は陸軍大尉。新潟県刈羽郡北条村(現・柏崎市)出身。 ノモンハン事件および太平洋戦争末期の本土防空戦において活躍し、B-29爆撃機に対する通算最多撃墜記録を有する。陸軍のエースパイロットである。 日本陸軍とソ連空軍の間に起こったノモンハン航空戦に樫出は参戦しており、5機以上を撃墜する戦果を挙げた。20機以上を撃墜したノモンハンエースは23名おり、その中で篠原弘道准尉、井上重俊大尉、西原吾郎軍曹、3名は九七式戦闘機を駆り戦った撃墜王として有名である。篠原弘道准尉は戦死したが、3ヶ月で58機を撃墜した。
西村 睦男(にしむら むつお、1915年1月31日 - 20… 西村 睦男(にしむら むつお、1915年1月31日 - 2006年3月9日)は、日本の地理学者。京都大学教授・奈良大学教授・奈良大学学長を歴任。 1915年、山口県厚狭郡楠町(現宇部市)で生まれた。幼少期に台湾へ移住。旧制台北一中、台北高等学校 (旧制)を経て、京都帝国大学文学部地理学科に進んだ。1938年に卒業。卒業論文は「台北市の地理学的研究」、自身も育った植民地都市の空間構造を考察したものであった。 卒業後は、京都・嵯峨野高等女学校など高等学校教員として13年間地理の中等教育に当たった。1951年、京都大学教養部助教授に着任。教養部人文地理学教室には藤岡謙二郎が在籍しており、共に教学にあたった。
大島 靖(おおしま やすし、1915年(大正4年)1月30日… 大島 靖(おおしま やすし、1915年(大正4年)1月30日 - 2010年(平成22年)8月7日)は、日本の政治家、官僚。第14代大阪市長。労働省労働基準局長。大阪市長を1971年から1987年まで、4期16年務めた。 1915年1月30日、和歌山県田辺市に生まれる。旧制和歌山県立田辺中学校(現・和歌山県立田辺高等学校)、第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業、1939年に内務省へ入省。 1949年から大阪府労働部長を務め、1954年に在ジュネーヴ領事へ転じた。1959年に労働省審議官に就任し、1960年には労働省労働基準局長に着任。1963年5月31日から中馬馨大阪市長のもとで大阪市助役となった。
小津 正次郎(おづ しょうじろう、1915年1月29日 - … 小津 正次郎(おづ しょうじろう、1915年1月29日 - 1997年11月25日)は、日本の実業家、プロ野球球団経営者。三重県出身。 阪神電気鉄道の取締役、専務取締役を歴任し、プロ野球阪神タイガースの球団社長に転じた。 球団社長時代、阪神球団のチーム改革を断行した手腕やドラフト会議でのクジ運の強さから、「オヅの魔法使い(オズの魔法使いのパロディ)」、「オヅワルド(ジョン・F・ケネディ射殺犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドのパロディ)」「コンピューター付ブルドーザー(田中角栄もこう呼ばれた)」等の異名をとった。 旧制津中学校(現在の三重県立津高等学校)から旧制高松高等商業学校(現在の香川大学経済学部)に進む。
都倉 栄二(榮二、とくら えいじ、1915年(大正4年)1月… 都倉 栄二(榮二、とくら えいじ、1915年(大正4年)1月27日 - 2000年(平成12年)7月4日)は、日本の外交官。イスラエル、ハンガリー、スウェーデン、アイスランドの大使を務めた。イスラエル大使時代にテルアビブ空港乱射事件に遭遇。位階は正三位。息子に作曲家の都倉俊一。孫に女優の都倉伶奈とJリーガーの都倉賢。 神奈川県出身。旧制東京府立第八中学校(現東京都立小山台高等学校)を経て、ロシア文学に惹かれて東京外国語学校(現東京外国語大学)露語科に進む。 1934年、外務省入省。外務書記生となる。 ハイデルベルク大学留学、在ドイツ日本大使館勤務を経て、1936年、在ウラジオストク日本領事館に勤務。
臼田 甚五郎(うすだ じんごろう、1915年〈大正4年〉1月… 臼田 甚五郎(うすだ じんごろう、1915年〈大正4年〉1月25日 - 2006年〈平成18年〉10月26日)は、日本の国文学者・民俗学者・歌人(雅号:碧洋)。文学博士(國學院大学・論文博士・1961年)(学位論文「日本歌謡の文学史的民俗学的考察」)。國學院大學名誉教授。 東京都大田区生まれ。東京府立第一中学校を経て、1937年國學院大學文学部卒。柳田國男、折口信夫、河野省三らに師事[要出典]。1953年國學院大學文学部助教授、1957年同教授。1961年「日本歌謡の文学史的民俗学的考察」で國學院大学より文学博士の学位を取得。1985年定年退職、同大学名誉教授。1990年、勲三等瑞宝章受章。学外では日本学術会議会員や歌謡学会会長などを歴任した。
鶴 襄(つる のぼる、1915年1月25日 - 2006年1… 鶴 襄(つる のぼる、1915年1月25日 - 2006年12月21日)は、日本の教育者。学校法人鶴学園創設者。鶴学園名誉総長。 広島県広島市にて鶴家の四男として出生。父は旧制広陵中学校(現・広陵高等学校)、広島電機高等学校(現・広島国際学院高等学校)の設立に尽力した鶴虎太郎。その後、福岡県に移り、1932年福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)卒業。同期に麻生典太がいた。広島県に戻り、芸備日日新聞(後に中国新聞社に吸収)に勤務。南満州鉄道にも勤めた。退職後は広島電機高等学校勤務を経て、広島高等電波学校(現・広島工業大学高等学校)、次いで学校法人鶴学園を創設した。1963年に広島工業大学、旧広島高等学校及び附属中学校(現広島なぎさ中学校・高等学校)デネブ高等学校、広島工業大学専門学校、なぎさ公園小学校等、数多くの学校教育機関の設立に携わった。
桜井 茂尚(さくらい しげなお、1915年(大正4年)1月2… 桜井 茂尚(さくらい しげなお、1915年(大正4年)1月25日 - 没年不明)は、昭和期の文筆家、政治家。衆議院議員、千葉県教育委員会委員長。 千葉県匝瑳郡福岡町(八日市場町、八日市場市を経て現匝瑳市)で生まれる。1940年(昭和15年)東北帝国大学法文学部法科を卒業した。 南満州鉄道に入り経理部勤務、同東亜経済調査局員・副参事を務めた。その後、国民経済研究所農業担当研究員、農林省嘱託、社会主義政治経済研究所参事、九十九里種畜場経営、日本農民組合千葉県連統制委員長、公選の千葉県教育委員、同委員長、労働大学主事、同講師、習志野市立習志野高等学校社会科担当教師、世界芸術協会常務理事、日本社会党千葉県連書記長、同政審会長、同党本部政審会事務局次長、同常任参与、同書記局員などを務めた。
山元 卯一郎(やまもと ういちろう、1915年(大正4年)1… 山元 卯一郎(やまもと ういちろう、1915年(大正4年)1月24日 - 2014年(平成26年)1月31日)は、日本の英語学者、言語学者。横浜市立大学名誉教授。 鹿児島県川辺郡知覧町(南九州市)出身。1927年3月鹿児島市立清水尋常小学校卒業。1931年3月鹿児島県立第一鹿児島中学校(鹿児島県立鶴丸高等学校の前身)四年修了。1934年3月第七高等学校造士館文科卒業。1937年東京帝国大学文学部英文学科卒業。福岡県立門司中学校(福岡県立門司高等学校の前身)教諭、福岡県立福岡中学校(福岡県立福岡高等学校の前身)教諭を経て、1943年6月陸軍招集、1945年11月復員。1947年6月18日より岡崎高等師範学校教授、1949年8月20日より名古屋大学助教授兼任。
大島 久見(おおしま ひさみ、1915年(大正4年)1月23… 大島 久見(おおしま ひさみ、1915年(大正4年)1月23日 - 2004年(平成16年)2月3日)はシテ方喜多流の能楽師で、重要無形文化財総合認定保持者である。 父は喜多流職分の大島寿太郎。広島県出身。1932年(昭和7年)福山誠之館中学校(現広島県立福山誠之館高等学校)卒業後、家元内弟子として喜多六平太 (14世)・15世喜多実両師の指導を受ける。1958年(昭和33年)以降、広島県福山市にて能楽教室(定例鑑賞能)年4回の定例能会を主宰。1971年(昭和46年)9月、3階建の「喜多流能楽堂(現・喜多流大島能楽堂)」完成。1982年(昭和57年)広島文化賞受賞。2004年(平成16年)沒、行年89歳。
西脇 昌治(にしわき まさはる、1915年1月23日 - 1… 西脇 昌治(にしわき まさはる、1915年1月23日 - 1984年4月14日)は、日本の哺乳類学者。琉球大学名誉教授。東京都出身。 学習院初等科から学習院高等科を経て、1939年(昭和14)3月31日東京帝国大学農学部水産学科卒。 1939年(昭和14)4月1日 海軍航空隊飛行科予備学生として召集。小松島海軍航空隊附兼教官、ボルネオ島東カリマンタン州バリクパパン‐第22特別根拠地隊航空隊長、海軍大尉。1945年(昭和20)に海軍少佐に進級、終戦。1946年(昭和21)7月に復員、召集解除。 1948年(昭和23)鯨類研究所所員。東京大学助教授時代の1951年(昭和26)4月17日には、皇居に招かれ科学委員会合に出席。
吉崎 秀(よしざき ひいず、1915年 <大正4年> 1月2… 吉崎 秀(よしざき ひいず、1915年 <大正4年> 1月23日 - 1991年 <平成3年> 4月30日)は、日本の経営者。トピー工業社長を務めた。東京都出身。位階は正五位。 1939年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に東京シャリングに入社。日本金属取締役、東都製鋼常務、トピー工業専務を経て、1970年5月にトピー工業副社長に就任し、1977年5月には社長に昇格。1983年6月に会長を経て、1985年6月から相談役兼名誉会長を務めた。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1985年4月に勲三等瑞宝章を受章した。 1991年4月30日心不全のために死去。76歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
大迫 倫子(おおさこ りんこ、1915年1月22日 - 20… 大迫 倫子(おおさこ りんこ、1915年1月22日 - 2003年10月4日)は、日本の作家。
松浦 卓造(まつうら たくぞう、1915年1月22日 - 1… 松浦 卓造(まつうら たくぞう、1915年1月22日 - 1977年3月11日)は、将棋棋士。八段。神田辰之助九段門下。広島県三原市出身。棋士番号なし。 商業学校を中退後にアマチュア強豪として活躍。 入門は遅く、27歳だった1942年に神田辰之助に入門。28歳で二段。 1944年に四段に昇段。 戦後の1946年の順位戦C級クラスに参加、10勝4敗の好成績で六段特進。以後トントン拍子にA級へ昇級。 晩年は病気のために休場する事がしばしばあり、第30期順位戦B級2組を休場したのが順位戦の最後となった。 主催者変更問題に伴う順位戦の中断期間の最中、1977年3月11日に現役死去。 研究熱心で、豪快な攻め将棋で知られる。
晝間 仲右衛門(ひるま なかうえもん、1915年(大正4年)… 晝間 仲右衛門(ひるま なかうえもん、1915年(大正4年)1月21日 - 1997年(平成9年)1月18日)は、日本の政治家。埼玉県鳩ヶ谷市(現・川口市)長(6期)。 埼玉県出身。1932年、埼玉県立浦和中学校(現・埼玉県立浦和高等学校)卒。1954年、鳩ヶ谷町議会議員となり、2期務める。1966年、鳩ヶ谷町長に当選。翌1967年、鳩ヶ谷町の市制施行により鳩ヶ谷市長となる。市長を6期務め、1990年に退任した。1997年に死去した。
宇佐美 誠次郎(うさみ せいじろう、1915年1月21日 -… 宇佐美 誠次郎(うさみ せいじろう、1915年1月21日 - 1997年4月25日)は、日本のマルクス経済学者。法政大学名誉教授。 東京出身。1937年東京帝国大学経済学部卒。東方文化学院東京研究所員、日本銀行調査局嘱託、1948年法政大学教授。のち同大原社会問題研究所長。1960年「臨時軍事費」で法政大学より経済学博士の学位を取得。85年定年退任、名誉教授。日本ドイツ民主共和国友好協会理事長。「日本資本主義講座」(岩波書店)の中心的編集者だった。ほかに国家財政などを研究。
平川 彰(ひらかわ あきら、1915年〈大正4年〉1月21日… 平川 彰(ひらかわ あきら、1915年〈大正4年〉1月21日 - 2002年〈平成14年〉3月31日)は、日本の仏教学者。東京大学名誉教授。日本学士院会員。 1915年、愛知県渥美郡老津村(現在の豊橋市)で生まれた。1936年第八高等学校文科乙類入学、1939年東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科で学び、1941年に卒業し、同大学大学院に進み、1946年東京帝国大学副手に任命される。 1950年、北海道大学助教授に着任。1954年、東京大学文学部印度哲学科助教授に転じた。1959年、学位論文『律蔵の研究』を東京大学に提出して文学博士号を取得。1962年に教授昇格。1975年に東京大学を定年退官、名誉教授の称号を受ける。
吉川 勇次(よしかわ ゆうじ、1915年1月20日 - 19… 吉川 勇次(よしかわ ゆうじ、1915年1月20日 - 1977年2月6日)は、日本のヤクザ。暴力団三代目山口組若頭補佐、初代吉川組組長。三重県度会郡出身。 大正4年(1915年)三重県度会郡に生まれた。 大正8年(1919年)、兵庫県神戸市に移住した。 昭和6年(1931年)、神戸二中(後の兵庫県立兵庫高等学校)に入学した。田岡一雄(後の三代目山口組組長)らと喧嘩を繰り返した。その後、父親の病死で神戸二中を中退した 昭和20年(1945年)終戦後、田岡一雄と再会した。 同年、田岡が神戸市兵庫区下沢通りで田岡組を作った。吉川勇次も田岡組に参加した。戦後の混乱で警察力は弱体化していた。田岡は、街や闇市の警備のために、神戸市新開地の「花月劇場を本拠地に「自警団」を結成し、闇市への不良在日外国人の干渉を排除した。
遊佐 正憲(ゆさ まさのり、1915年(大正4年)1月20日… 遊佐 正憲(ゆさ まさのり、1915年(大正4年)1月20日 - 1975年(昭和50年)3月8日)は、日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピックの800mリレーで金メダル、1936年ベルリンオリンピックの800mリレーで金メダル、100m自由形で銀メダルを獲得した。 香川県仲多度郡多度津町の出身。旧制多度津中学校(現・香川県立多度津高等学校)から日本大学に進学、日大1年次の17歳で出場した1932年ロサンゼルスオリンピック800メートルリレーで宮崎康二、横山隆志、豊田久吉とチームを組んで金メダルを獲得する。この800mリレーの優勝を讃えられ、遊佐は宮崎、横山、豊田と共に1932年度の朝日賞体育部門(現・朝日スポーツ賞)を受賞した。
池田 雅雄(いけだ まさお、1915年1月19日 - 198… 池田 雅雄(いけだ まさお、1915年1月19日 - 1988年11月27日)は、日本のジャーナリスト、相撲評論家である。 長年にわたり、ベースボール・マガジン社の雑誌『相撲』の編集者・顧問として幅広く相撲研究に取り組み、多くの記事やエッセイを著した。本名での執筆とともに、〈国立浪史〉〈葛飾太郎〉のペンネームもしばしば使用した。奈良県桜井市出雲名誉区民、実兄はベースボール・マガジン社創設者の池田恒雄、息子は早稲田大学教授の池田雅之、姪はエッセイストの工藤美代子、姪は池田晶子、從孫は産経新聞記者の猪谷千香。 東京市本所区南二葉町(現在の墨田区亀沢)出身。「相撲の神様」として有名な野見宿禰神社の近くで育ち、少年時代は本場所前に相撲部屋の親方に連れられて必勝祈願に参詣するのを楽しみにしていたという。
高橋 秀俊(たかはし ひでとし、1915年1月15日 - 1… 高橋 秀俊(たかはし ひでとし、1915年1月15日 - 1985年6月30日)は、日本の物理学者。日本のコンピュータのパイオニア。理学博士(東京大学)。東京大学名誉教授。文化功労者。正四位勲二等旭日重光章に叙される。東京府豊多摩郡代々幡村(現・東京都渋谷区代々木)生まれ。 父の高橋穣は、心理学者・倫理学者で東北帝国大学教授や学習院大学教授を務めた。心理学者・元良勇次郎の孫。船舶工学者・元良誠三の従兄。 1937年に東京帝国大学(現・東京大学)理学部物理学科を卒業し、助手に就任。1942年に助教授に、1957年に教授に昇任した。 早くから電磁気学、特に回路論的思考を深く身につけ、分野にとらわれない自由な発想で数多の卓越した研究を行った。
重光 晶(しげみつ あきら、1915年1月15日 - 200… 重光 晶(しげみつ あきら、1915年1月15日 - 2000年8月27日)は、日本の外交官、外交評論家。位階は正三位。 外務省国際連合局長を経て、駐ナイジェリア特命全権大使や、駐ソビエト連邦特命全権大使を務めた。重光葵元外務大臣の甥。 石川県金沢市生まれ。東京出身。1935年静岡高等学校文科丙類卒業。1936年東京帝国大学法学部政治学科に入学。1938年に外交官試験に合格し、大学を中退した。1939年に外務省に入省し、ポーランド、ラトビア、ブルガリアでロシア語研修を受ける。 1951年から外務省条約局第三課長を務め、1952年からは外交官領事館採用試験専門試験委員(憲法)や、外務書記採用試験専門試験委員も担当した。
村松 敏雄(むらまつ としお、1915年1月15日 - 19… 村松 敏雄(むらまつ としお、1915年1月15日 - 1995年5月2日)は、日本の経営者。近畿車輛社長を務めた。静岡県出身。 1939年に東京帝国大学法学部法科を卒業し。鉄道省、日本国有鉄道での勤務を経て、1964年5月に近畿車輛常務に就任し、1970年5月に専務を経て、1977年6月に副社長に就任し、1978年6月には社長に昇格。1986年6月には相談役に就任。 1995年5月2日心筋梗塞のために死去。80歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
木元 健太(きもと けんた、1915年〈大正4年〉1月15日… 木元 健太(きもと けんた、1915年〈大正4年〉1月15日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である。本名は木元 一郎(きもと いちろう)。館林 一郎(たてばやし いちろう)の名で脚本を提供したことがある。 1915年(大正4年)1月15日、群馬県邑楽郡館林町(現在の同県館林市)に生まれる。 明治大学文芸科に進学し、在学中は映画研究会に所属した。1936年(昭和11年)に明治大学を卒業。1937年(昭和12年)日活多摩川撮影所(のちの大映東京撮影所、現在の角川大映撮影所)助監督部に入社、内田吐夢(1936年 - 1940年在籍)、伊賀山正光(当時は正徳、1934年 - 1942年在籍)、春原政久(1934年 - 1941年在籍)、千葉泰樹(1934年 - 1939年在籍)、富岡捷(1938年 - 1939年在籍)らに師事した。