樋口 澄雄(ひぐち すみお、1907年2月28日 - 198… 樋口 澄雄(ひぐち すみお、1907年2月28日 - 1985年10月12日)は、日本の初等教育者。 長野県小県郡中塩田村(現上田市)出身。旧制上田中学を経て、1926年東京府青山師範学校卒業、1930年同専攻科修了。東京都の小学校教諭をへて、港区桜田小学校校長、同区西桜小学校校長。日本幼児教育研究会会長を務めた。
1907年(明治40年)生まれ:685人
樋口 澄雄(ひぐち すみお、1907年2月28日 - 198… 樋口 澄雄(ひぐち すみお、1907年2月28日 - 1985年10月12日)は、日本の初等教育者。 長野県小県郡中塩田村(現上田市)出身。旧制上田中学を経て、1926年東京府青山師範学校卒業、1930年同専攻科修了。東京都の小学校教諭をへて、港区桜田小学校校長、同区西桜小学校校長。日本幼児教育研究会会長を務めた。
山本高行(やまもと たかゆき 1907年2月28日 - 19… 山本高行(やまもと たかゆき 1907年2月28日 - 1961年5月17日)は、日本の官僚。
伊勢 正義(いせ まさよし、1907年2月28日 - 198… 伊勢 正義(いせ まさよし、1907年2月28日 - 1985年11月18日)は、日本の洋画家。 秋田県鹿角郡小坂町出身。1931年東京美術学校西洋画科卒。藤島武二に師事した。1933年の第20回光風会展でK夫人賞を受け、1934年に光風会会員となった。1934年の第15回帝展に出品した「カルトン」が初入選した。1935年の第22回光風会展で初の光風特賞を受賞した。同年、第二部会展で特選、文化賞を受賞した。 1936年に猪熊弦一郎などとともに新制作派協会(後の新制作協会)を結成した。その後は、同協会の中心会員として活躍した。 1936年ベルリンオリンピックの芸術競技の絵画種目に「フットボール」という作品を出品した。
高橋 長太郎(たかはし ちょうたろう、1907年2月28日 … 高橋 長太郎(たかはし ちょうたろう、1907年2月28日 - 1991年3月29日)は、日本の経済学者。経済学博士(一橋大学・1960年)。一橋大学名誉教授。一橋大学経済研究所長、専修大学学長等を歴任。正四位勲二等瑞宝章。東京生まれ 1927年旧制東京商科大学(現一橋大学)予科修了。1930年同大学学士。1932年同大学研究科修了。哲学者の山内得立教授に師事した。1934年法政大学商業学校教諭。1947年大蔵省内閣統計官。1949年東京商科大学経済研究所教授。一橋大学経済研究所国民所得・再生産研究部門主任教授として倉林義正らと国民経済計算を行い、1959年から小原敬士の後任として第6代一橋大学経済研究所長を務めた。
満留 正光(みつどめ まさみつ、1907年2月27日 - 1… 満留 正光(みつどめ まさみつ、1907年2月27日 - 1993年10月24日)は日本の政治家。鹿児島県串木野市長(3期)。串木野市名誉市民。 鹿児島県日置郡串木野村(串木野町、串木野市を経て現いちき串木野市)荒川に生まれる。1919年3月に荒川尋常小学校(現いちき串木野市立荒川小学校)を卒業し、三井鉱山の串木野鉱山西山坑勤務を経て、1920年10月串木野村役場職員に採用される。働きながら串木野村立公民学校で学び、1927年卒業。1932年9月鹿児島県庁職員に採用され転任。働きながら鹿児島法学院で学ぶ。戦後、鹿児島県の内務部、議会調査局、出納長室、教育委員会事務局(教育庁)の中の各課長などを経て、1955年12月24日串木野市助役に就任。
手島 志郎(てしま しろう、1907年2月26日 - 198… 手島 志郎(てしま しろう、1907年2月26日 - 1982年11月6日)は、日本のサッカー選手およびサッカー指導者。 東京帝国大学で若槻礼次郎と同窓だった父が台湾総督府の高官在任時に台北で生まれ、まもなく帰国し広島で育った。長沼健は親戚にあたる。広島高等師範附属中学(現広島大学附属高校)から1925年、創設間もない旧制広島高校(現広島大学総合科学部)に進学。 1926年、東京帝大主催による官立旧制高校の全国大会、第3回全国高等学校ア式蹴球大会(インターハイ)でセンターフォワード(CF)として準優勝。1、2年生チームでの健闘は大きな話題となった。1928年の第5回大会では、幅広い動きで当代随一と評を得たHB・野沢正雄主将らと、身長152cmのCF・手島もコマネズミのように動きまわり得点を重ねチームを優勝に導いた。
宮原 道也(みやはら みちや、1907年2月26日 - 没年… 宮原 道也(みやはら みちや、1907年2月26日 - 没年不詳)は、日本の医師、医学者。専門は産婦人科。 熊本県玉名市出身。旧制熊本県立玉名中学校を経て熊本医科大学を卒業した。1933年に熊本医科大学産婦人科教室に入局し、講師や医学専門部の教授を歴任した。この間、1945年10月には論文「副腎の組織呼吸に関する研究」で熊本医科大学から医学博士号を取得した。 戦後の1950年から国立熊本病院の副院長兼産婦人科部長となった。1957年、熊本市内で産婦人科医院を開業した。
若槻 修道(わかつき しゅうどう、1907年2月26日 - … 若槻 修道(わかつき しゅうどう、1907年2月26日 - 1999年10月11日)は、日本の政治家、僧侶。島根県飯梨村長、島根県議会議員(2期)、全国社会福祉協議会会長などを歴任。安来市萬松院十四世。号は活禅。 明治40年、能義郡飯梨村(現: 安来市)生まれ。1934年、曹洞宗大学(現: 駒澤大学)仏教学科卒業。曹洞宗研究生修了。 宗議会議員、飯梨村長(1947年4月から時期不明)、島根県議会議員(1951年5月から1959年4月まで)、県共同募金会会長、県社会福祉協議会会長、全国社会福祉協議会会長、仏教年鑑編集長などを務める。著書に「大乗経典の概説」など。 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。
板垣 修(いたがき おさむ、1907年2月26日 - 198… 板垣 修(いたがき おさむ、1907年2月26日 - 1987年11月19日)は、日本の外交官。 宮城県仙台市出身。1931年高等試験外交科、行政科試験に合格。翌32年東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務省に入省。英国、中国などに勤務し、南京の中華民国大使館勤務中に終戦を迎える。1946年以降、外務省管理局経済部総務課長、総務局資料課長、同局総務課長、中国連絡調整事務局長、貿易局長、経済審議庁審議官を務める。 その後、香港総領事、通産省通商局長、外務審議官、アジア局長を経て1959年7月ノルウェー大使に就任。1962年5月フィリピン大使、65年2月インド大使、66年8月カナダ大使、69年5月中華民国(台湾)大使を歴任した後、72年3月に退官。
永井 鱗太郎(ながい りんたろう、1907年(明治40年)2… 永井 鱗太郎(ながい りんたろう、1907年(明治40年)2月26日 - 1985年(昭和60年)11月5日)は、日本の児童劇作家。日本児童演劇協会常任理事を務めた。 福井県あわら市(旧金津町八日)出身。本名は善太郎。 1927年、福井師範学校を卒業。福井県あわら市伊井小学校で小学校教師を始めるが、1933年に上京。 東京で小学校教師として働くかたわら、1936年に正善達三らと児童劇団「子供町」を結成(1944年解散)。戦後文筆生活にはいる。児童劇脚本研究会「こまの会」を主宰。 1953年『お月さまをたべたやっこだこ』で小学館児童文化賞受賞。1980年、日本児童演劇協会功労賞受賞。1984年には芸術文化功労者として勲五等瑞宝章を受けた。
周藤 吉之(すとう よしゆき、1907年2月25日 - 19… 周藤 吉之(すとう よしゆき、1907年2月25日 - 1990年1月21日)は、日本の中国史学者、東京大学名誉教授。 島根県簸川郡直江村大字下直江(現・出雲市斐川町直江)に生まれる。旧制島根県立商業学校(現・島根県立松江商業高等学校)、旧制松江高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学文学部東洋史学科卒。宋代史の専門家で東京大学東洋文化研究所教授を務め、1956年「中国土地制度史研究」で日本学士院賞受賞、1957年文学部東洋史学科教授、1967年定年退官。
阿部 行蔵(あべ こうぞう、1907年2月25日 - 198… 阿部 行蔵(あべ こうぞう、1907年2月25日 - 1981年4月28日)は、日本の歴史学者(近代思想史、歴史理論)、旧・東京都立大学(現首都大学東京を経て東京都立大学)教授、牧師。平和運動家。政治家、第10代東京都立川市長。 広島県広島市出身。最初、川端画学校の藤島武二に師事したが1928年、賀川豊彦の集会に出席して神学を学ぶことを決意する。神田の中央バプテスト教会(三崎町教会)で中島力三郎からバプテスマ(洗礼)を受ける。 関東学院に入学、神学部に学ぶ。キリスト者学生運動に参加の後、日本戦闘的無神論者同盟に加盟。1933年治安維持法違反容疑で検挙され執行猶予。1937年同志社大学文学部神学科を卒業すると姫路バプテスト教会に赴任する。
山崎 功(やまざき いさお、1907年2月25日 - 198… 山崎 功(やまざき いさお、1907年2月25日 - 1983年6月3日)は、日本のジャーナリスト、イタリア研究者、翻訳家。 石川県金沢市生まれ。1927年東京外国語学校イタリア語科卒後、読売新聞社に入る。ローマ特派員、1942年ローマ大学政治学部卒。欧米部次長、論説委員。
藤村 義朗(ふじむら よしろう、1907年〈明治40年〉2月… 藤村 義朗(ふじむら よしろう、1907年〈明治40年〉2月24日 - 1992年〈平成4年〉3月18日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍中佐。旧名・義一(よしかず)。 大阪府出身。実業家・藤村義正の長男として生まれる。堺中学を経て、1927年(昭和2年)3月、海軍兵学校(55期)卒業。1928年(昭和3年)10月、海軍少尉任官。海軍砲術学校高等科で学ぶ。1934年(昭和9年)7月、「長月」砲術長に就任、以後、砲術学校専攻科学生、「綾波」砲術長、砲術学校教官、「白雲」「厳島」の各砲術長を歴任。1939年(昭和14年)11月、海軍少佐に昇進。1940年(昭和15年)4月、海軍大学校(甲種37期)を首席で卒業した。
阿部 信文(あべ のぶふみ、1907年(明治40年)2月24… 阿部 信文(あべ のぶふみ、1907年(明治40年)2月24日 - 1983年(昭和58年)12月29日)は、日本の柔道家(講道館9段)、教育者。 講道館創始者嘉納治五郎に直接柔道の手ほどきを受けた直弟子で大正末期から昭和初期の現役時代には得意の背負投を武器に一世を風靡し、後には全日本柔道連盟評議員・常任理事、境港市教育委員長、鳥取県体育協会評議員、鳥取県柔道連盟会長、境港市体育協会会長を務めるなど日本柔道界の重鎮として知られた。 鳥取県西伯郡余子村(現・境港市高松町)出身。県立米子中学校(現・県立米子東高校)時代には右の一本背負投や跳腰で名を馳せ県下に伍する者無く、身長165cm・体重68kgの小兵ながら在学中に大日本武徳会で2段位を取得した。
森 元治郎(もり もとじろう、1907年2月24日 - 19… 森 元治郎(もり もとじろう、1907年2月24日 - 1999年5月14日)は、日本の政治家。参議院議員(3期、日本社会党)。 茨城県水戸市出身。1930年青山学院英文科卒。卒業後は新聞連合社(のち同盟通信社)に入り、欧州特派員、政治部次長などを務める。戦後、同盟通信社は共同通信社となり、論説委員となる。1947年片山内閣が成立すると内閣総理大臣秘書官となる。1956年の第4回参議院議員通常選挙において茨城地方区から日本社会党公認で立候補して初当選。連続3期務める。国会内では参議院懲罰、決算各委員長を歴任し、党内では茨城県委員長、党外交部長などを務めた。1974年の第10回参議院議員通常選挙に出馬せず引退。
李 孝石(イ・ヒョソク、1907年2月23日 - 1942年… 李 孝石(イ・ヒョソク、1907年2月23日 - 1942年5月25日)は朝鮮の小説家。本貫は全州。号は可山。兪鎮午に「小説の形式で詩を吟じた作家」と評され、郷土の美しさを詩のような流れる文筆で描いた。その代表作が『ソバの花咲く頃(메밀 꽃 필 무렵)』である。 1907年2月23日、江原道平昌郡蓬坪面倉洞2区南安洞681番地に1男3女の長男として生まれる。父の李始厚は漢城師範学校出身で、京城で教鞭を執っていた。母、康洪敬は珍富の聖潔教会の功労者として知られていた。父の仕事のため、一時京城に住むも、5歳のときに再び故郷に戻り、私塾で漢学を学んだ。非常に物覚えのよい李は村人から神童と呼ばれるほどであった。
山田 憲太郎(やまだ けんたろう、1907年2月21日 - … 山田 憲太郎(やまだ けんたろう、1907年2月21日 - 1983年2月3日)は、香料研究者、東西交渉史学者。 長崎県諫早市出身。1932年神戸商科大学(現神戸大学)卒。小川香料(香料会社)勤務、1950年「中世のアラビヤ人が初めて東方に伝えた龍涎香とジヤスミン」で國學院大學文学博士。1954年近畿大学経営学部教授。1958年桃山学院大学経済学部教授、名古屋学院大学教授、77年定年、名誉教授。東アジアの香料史および東西交通史を研究し、1977年「東亜香料史研究」で日本学士院賞受賞。78年、奈良県明日香村のマルコ山古墳で出土した人骨から発した芳香について、古代中国から伝わった「竜脳」だと鑑定した。
金子 岩三(かねこ いわぞう、1907年〈明治40年〉2月2… 金子 岩三(かねこ いわぞう、1907年〈明治40年〉2月20日 - 1986年〈昭和61年〉12月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(9期)、科学技術庁長官、農林水産大臣、長崎県議会議長などを歴任。勲一等旭日大綬章受章(1984年)。長崎県知事や農林水産大臣を務めた金子原二郎は次男。鈴木善幸元首相と並んで、自由民主党の代表的な水産族議員として知られた。がんちゃんの愛称で知られる。 長崎県北松浦郡生月村(現・平戸市)に、旅館経営・田中仙蔵の三男として生まれる。その後海産物仲買業・金子源作に見込まれ、10歳の時に金子家の養子となる。1923年生月村山田実業補習学校を卒業後、家業に従事する。1942年生月村議、1947年長崎県議、1955年同県議会議長を経て、1958年1月に西岡竹次郎知事死去に伴う長崎県知事選に出馬するが佐藤勝也に敗れて落選。
武田 文吾(たけだ ぶんご、1907年2月19日(1907年… 武田 文吾(たけだ ぶんご、1907年2月19日(1907年12月28日説もあり) - 1986年12月3日)は、元騎手(京都競馬倶楽部、阪神競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬)、元調教師(阪神競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会〈JRA〉)。北海道石狩国札幌郡江別村(現・江別市)出身。1978年11月3日、勲五等双光旭日章を授章。1986年、正六位叙位。息子の武田博は日本中央競馬会の元騎手・元調教師。名馬シンザンの鞍上としてクラシック三冠を制した元騎手・元調教師の栗田勝は娘婿。 尾形藤吉とともに「東の尾形、西の武田」と並び称された名調教師。タケブン、ブンテキなどの愛称で親しまれた。五冠馬シンザン・二冠馬コダマ・牝馬二冠馬ミスオンワードなどの名競走馬、また栗田勝・福永洋一などの名騎手を育て、人馬両面において中央競馬、とくに関西地区の競馬の発展に大きな足跡を残した。
韓 徳銖(ハン・ドクス、한 덕수、1907年2月18日 - … 韓 徳銖(ハン・ドクス、한 덕수、1907年2月18日 - 2001年2月21日)は、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)の初代議長。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)最高人民会議代議員を務めた。 1907年、朝鮮・慶尚北道生まれ。1927年に声楽家を目指して日本に渡り、1928年に日本大学に入学。退学後は丹那トンネルの労働運動に参加し逮捕され、懲役2年執行猶予3年の判決を受ける。1934年には朝鮮人労働者のストライキを指導したため再び逮捕され、以後十数回に渡り逮捕された。 第二次世界大戦後の1945年10月15日、新たに結成された在日本朝鮮人連盟(朝連)に参加し、直後の第1回中央委員会において総務部局長に選出されたが、GHQから公職追放を受ける。
小林 宏治(こばやし こうじ、1907年 <明治40年> 2… 小林 宏治(こばやし こうじ、1907年 <明治40年> 2月17日 - 1996年 <平成8年> 11月30日)は、日本の実業家。元日本電気(NEC)社長、会長。位階は正三位。 山梨県大月市出身。1925年に山梨県立都留中学校(現山梨県立都留高等学校)を卒業した後、旧制松本高校理科甲類、東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、1929年に日本電気に入社する。常務、専務、副社長を経て、1964年社長となる。小林が社長の時代に、NECは通信とコンピュータ、半導体を主軸とした総合電器メーカーへと発展し、「NEC中興の祖」と呼ばれた。1976年会長に就任。父親、藤本氏から小林氏に入婿(本姓 藤本氏)[要出典]。
久保田 藤麿(くぼた ふじまろ、1907年(明治40年)2月… 久保田 藤麿(くぼた ふじまろ、1907年(明治40年)2月17日 - 1993年(平成5年)5月8日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)。衆議院議員(2期)。 1907年(明治40年)、三重県鈴鹿市にて出生。 旧制福岡高校を経て、東京大学法学部政治学科卒業。文部省各課長。内閣総理大臣・文部大臣秘書官。文部省施設局長・管理局長・調査局長。自由民主党の文教調査副会長となり万国著作権条約会議・諸外国の教育事情を視察するために欧米各国に出張する。九州大学助教授、日本短波研究所理事長も務めた。 1955年(昭和30年)の第27回衆議院議員総選挙と1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙に三重1区から無所属で出馬するが、落選。
呉 泰次郎(ごう たいじろう、1907年〈明治40年〉2月1… 呉 泰次郎(ごう たいじろう、1907年〈明治40年〉2月17日 - 1971年〈昭和46年〉7月1日)は、日本の作曲家である。叔父は小説家の村井弦斎。校歌等、学校歌の作曲なども多く手がけ、代表的なものに日本体育大学の校歌や北海道帝国大学桜星会の歌等がある。 大連で実業家の次男として生まれた。家は代々雅楽を行い、父は篳篥の名人で大連雅楽会長であった。母は箏を奏した。姉はピアノを弾き、チェリストの彭城昌平と結婚した関係で、泰次郎は8歳の頃から義兄にチェロを習った。また泰次郎の家は兄弟7人とも楽器を奏し、一家で合奏することもしばしばであった。 13歳より5年間、ピアノを大連音楽学校長の園山民平に、歌を東海林久子、チェロをスカルスキーに学ぶ一方で作曲を独学し、多くの習作を書いた。
奥山 儀八郎(おくやま ぎはちろう、1907年(明治40年)… 奥山 儀八郎(おくやま ぎはちろう、1907年(明治40年)2月17日 - 1981年(昭和56年)10月1日)は、日本の木版画家。山形県出身。主に商業広告版画・創作版画を手がけた。広告版画のパイオニア。 1907年山形県西村山郡寒河江町(現・寒河江市)に生まれる。子供の頃から木版画に親しみを持ち、1928年に日本創作版画協会展に初入選を果たした。同年その技量を買われて日本毛織宣伝部の広告作家として数々の商業広告を手がけ、後に大高重治とともにニッカウヰスキーのポスター・ウイスキーラベルのデザインも木版画で制作した。1936年に浮世絵研究家の石井研堂に師事し、伝統的技法の復興に注力した。また、自らのコーヒー好きが高じて歴史等を研究しコーヒーの多様な呼び方を表した木版画「かうひい異名熟字一覧」を制作した。
志村 立美(しむら たつみ、1907年2月17日 - 198… 志村 立美(しむら たつみ、1907年2月17日 - 1980年5月4日)は、日本画家、挿絵画家、美人画家。群馬県高崎市生まれ。本名 仙太郎。 群馬県高崎市新町甲百番地の有馬屋質店の長男として生まれ、その後横浜市中区へ移住する。神奈川県立神奈川工業高等学校図案科を中退して、1924年(大正13年)山川秀峰に入門美人画を修める。当時、山川秀峰は鏑木清方同門であった伊東深水と共に、挿絵での活動もしていた。岩田専太郎、志村立美と小林秀恒は、挿絵界の「三羽烏」。山川秀峰の推薦を受け、立美も挿絵での活動を行うようになる。また、金田信武の株式会社金田商店から、新版画と呼ばれている木版画も描いている。 肉筆画も鏑木清方主宰の郷土会、師である山川秀峰、伊東深水らの主宰する青衿会等へ出品をする。
小川 善吉(おがわ ぜんきち、明治40年(1907年)2月1… 小川 善吉(おがわ ぜんきち、明治40年(1907年)2月16日 - 平成9年(1997年)1月28日 )は、日本の裁判官。横浜地裁所長。早稲田大学講師、司法試験委員(商法)を務めた。位階は正三位。勲二等旭日重光章。 横浜銀行取締役会長小川是、東京ガス専務小川明良の実父。 三重県員弁郡梅戸井村出身。順吉の次男。 昭和7年(1932年)11月高等試験司法科合格。昭和8年(1933年)3月東京帝国大学法学部卒業。昭和9年(1934年)12月判事に任官。司法事務局同書記官、最高裁事務総局総務局第一課長を経て昭和24年(1949年)6月東京地裁判事。1977年春の叙勲で勲二等旭日重光章を受章。1997年死去。
横山 フク(よこやま ふく、1907年〈明治40年〉2月16… 横山 フク(よこやま ふく、1907年〈明治40年〉2月16日 - 1991年〈平成3年〉11月4日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。 東京府東京市神田区須田町(現千代田区)生まれ。東京府第一高等女学校卒業、日本大学法学部(夜間)卒業。 職業婦人になるため三省堂に勤務しながら夜は速記塾で学んだ。1927年、東京府産婆会書記になり、その縁で1932年に産婆の資格をとり、板橋で開業。 1947年板橋区議会議員に当選、1950年の第2回参議院議員通常選挙全国区に無所属で立候補したが、落選。1953年の第3回参議院議員通常選挙全国区に自由党公認で初当選。以後連続3期当選。 1955年、日本看護協会助産婦部会長として、国際看護師協会加盟に絡み、日本助産婦会を設立、初代会長に就任。
木崎 国嘉(きざき くによし、1907年2月15日 - 19… 木崎 国嘉(きざき くによし、1907年2月15日 - 1984年6月17日)とは、日本の医師、教育者、タレント。 実弟は鹿児島大学教養部、立正大学文学部で教授を務めた歴史学者の木崎良平。 大阪府生まれ。1924年(大正13年)大阪府立北野中学校卒業、1928年(昭和3年)大阪高等学校 (旧制)理科を卒業。1932年(昭和7年)京都帝国大学医学部卒業後、同付属病院内科勤務を経て大阪赤十字病院に入り、1969年(昭和44年)まで内科部長を務める。 その頃、テレビ番組11PMの大阪局製作分においてセックスドクター、木崎ドクターとしてレギュラー出演。藤本義一、アンナ・ルーセンとエッチな会話をする医師として人気を博した。
本間 仁(ほんま まさし、1907年2月15日 - 2010… 本間 仁(ほんま まさし、1907年2月15日 - 2010年8月17日)は、昭和期の土木工学者。専攻は水理学、河川工学、海岸工学。神奈川県横須賀市浦賀出身。東京大学名誉教授。専門は水理学・河川工学・海岸工学。この分野の開拓者、創始者であり、第一人者として学界をリードした。また、指導者として多くの優れた研究者・技術者を育てた。 戦前の本間の仕事の前半は内務省(現、国土交通省)土木試験所および下関港修築事務所でなされたものであり、後半は東京帝国大学での研究である。戦前、戦後(東京大学定年まで)を通じての主な仕事は「本間 仁博士論文選集」に収められている。 戦前の研究を大別すれば、波に関するもの、河川、港湾等の現地調査に関するもの、水面形や越流堰に関するもの、射流に関するものである。
鷹野 孝徳(たかの たかのり、1907年2月15日 - 19… 鷹野 孝徳(たかの たかのり、1907年2月15日 - 1997年5月8日 )は、日本の経営者、銀行家。鹿児島銀行頭取を務めた。 山梨県甲府市出身。1928年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に日本銀行に入行した。1959年11月に鹿児島銀行に転じ、副頭取に就任し、1960年5月には頭取に昇格した。1979年12月に会長を経て、1986年6月には相談役に就任。 1970年10月に藍綬褒章を受章し、1977年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1997年5月8日、脳梗塞のために死去。90歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
井上 マス(いのうえ ます、1907年2月15日 - 199… 井上 マス(いのうえ ます、1907年2月15日 - 1991年5月30日)は、日本の随筆家、井上ひさしの母。旧姓広沢、戸籍名は鈴木マス。 広沢マスとして神奈川県小田原に生まれ、鈴木家の養女となる。14歳の時(1921年)東京新宿にある病院に勤める。ここで薬剤師の井上修吉と知り合い、20歳の時(1927年)修吉の郷里の山形県東置賜郡小松町(現:川西町)へ駆落ちし、事実婚関係となり、滋、廈、修祐の三人の息子を儲ける。修吉と駆け落ちした経緯から、養家の鈴木家に修吉との入籍を許されず、井上の籍に入れず、戸籍名の「鈴木マス」も使用せず、日常生活では「広沢ます」「井上マス」を使い分けていた。32歳の時(1939年)夫と死別。
宮脇 紀雄(みやわき としお、1907年2月15日 - 19… 宮脇 紀雄(みやわき としお、1907年2月15日 - 1986年11月18日)は、日本の児童文学作家。 岡山県川上郡成羽町(現・高梁市)出身。 農業、岡山市で書店勤めや書店経営をしたが、1935年上京して坪田譲治に師事。土師清二の知遇を得て童話を書き始める。1969年「山のおんごく物語」で野間児童文芸賞、1976年「ねこの名はヘイ」で日本児童文芸家協会賞、1977年「おきんの花かんざし」、1980年「かきの木いっぽんみが三つ」で産経児童出版文化賞を受賞。海外児童文学、日本の古典などの再話を数多く行った。 生態学者の宮脇昭は弟。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
陣出 達朗(じんで たつろう、1907年2月14日 - 19… 陣出 達朗(じんで たつろう、1907年2月14日 - 1986年4月19日)は、日本の時代小説家。第3代日本作家クラブ会長。石川県出身。 『遠山の金さん』シリーズ、『伝七捕物帳』シリーズ、『新五捕物帳』の作者として知られる。 小松市生まれ。本名・中村達男。兄が南満州鉄道に勤めていたため満州にわたり、奉天中学校に入学したが病気のため帰郷、金沢中学校(現・金沢高等学校)四年修了。1929年日活脚本部に入社する。のち右太プロ脚本部に転じたが、再び日活に戻る。 1933年、『さいころの政』で第12回「サンデー毎日」大衆文芸賞を受賞。1938年会社を辞し脚本家から作家に転身する。 1947年に探偵作家クラブ創設の際、捕物作家も入会するはずだったが、木々高太郎の反対で実現しなかった。
石井 栄三(いしい えいぞう、1907年〈明治40年〉2月1… 石井 栄三(いしい えいぞう、1907年〈明治40年〉2月14日 - 1994年〈平成6年〉1月27日)は、日本の警察官僚。岡山市今村出身。従三位勲二等旭日重光章。旧姓・高原。 高原光五郎の三男として生まれ、石井琢郎の養子となる。岡山一中、一高を経て、1932年3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。1931年10月、高等試験行政科試験に合格。1932年、内務省に採用される。神奈川県属を振出しに、神奈川県警部、内務属・警保局配属、地方警視・高知県警務課長、福井県特高課長、福岡県特高課長、神奈川県警務課長を歴任。1941年5月、内務事務官・警保局配属。1943年11月福井県経済部長。1944年8月富山県警察部長。
柳田 桃太郎(やなぎだ ももたろう、1907年(明治40年)… 柳田 桃太郎(やなぎだ ももたろう、1907年(明治40年)2月13日 - 2004年(平成16年)8月8日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)、門司市長。 福岡県門司市大字畑(現北九州市門司区畑)で、農業・柳田春太郎、ミチ夫妻の三男として生まれる。福岡県立小倉中学校を経て、1928年、長崎高等商業学校を卒業。 1928年、大連市の国際運輸(株)に入社。1933年、満洲国官吏に転じ、ハルビン市、国務院官需局、同興農部、同経済部で勤務し、地方行政、農林行政、鉱山行政担当の部課長を歴任した。 1946年、満洲から引揚げて、故郷で農業を営む。農業協同組合理事を経て、1949年、中央経済調査庁に入庁し、監査部の部課長を務めた。
北野 熊喜男(きたの ゆきお、1907年2月13日 - 19… 北野 熊喜男(きたの ゆきお、1907年2月13日 - 1989年6月3日)は、日本の経済学者。神戸大学名誉教授。位階は従三位。 1907年、大阪府大阪市北区堂島で生まれた。1918年(大正7年)に大阪市立天王寺商業高等学校を卒業し、神戸高等商業学校(現・神戸大学)に進んだ。1928年に同校を卒業。続いて京都帝国大学経済学部に進み、1932年に卒業。 卒業後は、1933年から1935年まで京都帝国大学経済学部副手に採用された。同1933年より同志社高等商業学校講師を務め、1936年からは教授。1939年より和歌山高等商業学校講師、同年教授昇進。 戦後の1945年より福島経済専門学校教授を務めた。
五十嵐 豊作(いがらし とよさく、1907年(明治40年)2… 五十嵐 豊作(いがらし とよさく、1907年(明治40年)2月13日 - 1981年(昭和56年)1月14日)は、日本の政治学者。 新潟県出身。1932年東京帝国大学法学部卒。南原繁に師事。東北帝国大学助教授。戦後名古屋大学教授。1971年定年退官、名誉教授、名城大学教授。政治学研究会に属した。
春日 正一(かすが しょういち、1907年2月13日 - 1… 春日 正一(かすが しょういち、1907年2月13日 - 1995年2月22日)は、日本の政治家。日本共産党から、衆議院議員1期、参議院議員2期を務めた。 長野県上伊那郡赤穂村(現・駒ヶ根市)出身。高等小学校卒業後上京し、芝浦製作所勤務の頃に労働運動に参加する。電機学校(現東京電機大学)卒業。1928年日本共産党に入党、まもなく三・一五事件で検挙され、懲役5年の判決を受ける。満期出獄後、京浜工業地帯でひそかに党再建の運動(京浜グループ)をつづけていたが、1940年5月9日以降、ふたたび検挙される。 戦後、出獄すると、再建された日本共産党の幹部として活動し、1945年12月の第4回大会で中央委員候補、まもなく政治局員。
末吉 俊雄(すえよし としお、1907年(明治40年)2月1… 末吉 俊雄(すえよし としお、1907年(明治40年)2月13日 - 1977年(昭和52年)1月24日)は、日本の実業家。三井東圧化学(現三井化学)社長や、日本硫安工業協会会(現日本肥料アンモニア協会)会長を務めた。 1930年東京商科大学(現一橋大学)卒業、三井鉱山入社。1931年三池窒素工業入社。1937年東洋高圧工業入社。東洋高圧工業営業課長等を経て、1947年東洋高圧工業取締役に昇格。1955年東洋高圧工業常務取締役。1957年東洋高圧工業専務取締役。1963年東洋高圧工業取締役副社長。1970年三井東圧化学取締役社長。1973年三井石油開発取締役。1974年日本硫安工業協会会長。日本原子力産業会議理事等も務めた。
小池上 春芳(こいけがみ はるよし、1907年〈明治40年〉… 小池上 春芳(こいけがみ はるよし、1907年〈明治40年〉2月11日 - 1997年〈平成9年〉10月26日)は、日本の解剖学者、医師。医学博士。新潟医科大学解剖学第二教室第2代教授。新潟大学名誉教授、日本解剖学会名誉会員。 新潟県新潟市上大川前通8番町(現 新潟市中央区上大川前通8番町)の富商・小池上春五郎の四男として出生。 1923年(大正12年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1926年(大正15年)3月に新潟高等学校を卒業、1930年(昭和5年)3月に新潟医科大学を卒業。 1930年(昭和5年)4月に新潟医科大学解剖学教室(担任:平澤興教授)助手に就任、1934年(昭和9年)3月に新潟医科大学解剖学教室助教授に就任、1935年(昭和10年)1月に新潟医科大学から医学博士の学位を取得。
川嶋 紀子(かわしま いとこ、1907年2月11日 - 20… 川嶋 紀子(かわしま いとこ、1907年2月11日 - 2002年12月10日)は、大阪市長・池上四郎の六女で、内閣統計局長・川嶋孝彦の妻、文仁親王妃紀子の祖母。小室眞子、佳子内親王、悠仁親王の曾祖母に当たる。京都大学名誉教授池上惇は甥である。 1907年、当時大阪府警察部長であった池上四郎と妻の小菅智淵四女・浜の六女として大阪市で生まれた。1913年、父・四郎が大阪市長に就任した。1923年に大阪府立清水谷高等女学校を卒業。1927年に茨城県保安課長(当時)の川嶋孝彦と結婚。子供は、学習院大学名誉教授の辰彦(次男)、東京国際大学教授の行彦(三男)等。 秋篠宮文仁親王妃紀子は孫(辰彦の長女)にあたるが、こちらは「きこ」と読む。
大槻 丈夫(おおつき たけお、1907年2月11日 - 19… 大槻 丈夫(おおつき たけお、1907年2月11日 - 1978年2月24日)は、日本の経営者。近畿日本ツーリスト社長を務めた。 京都府綾部市出身。1929年に高文行政科に合格し、1930年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に鉄道省に入省。興亜院、運輸省での勤務を経て、1950年12月に国鉄理事に就任し、1956年3月までに務めた。 1962年11月に近畿日本鉄道専務に就任し、1968年5月に副社長を経て、1973年11月に常任監査役に就任。1976年1月には近畿日本ツーリスト社長に就任した。 1978年2月24日、肺腫瘍のために死去。71歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
金子 登(かねこ のぼる、1907年2月11日 - 1989… 金子 登(かねこ のぼる、1907年2月11日 - 1989年7月30日)は放送作家、ユーモア研究者。 東京・芝に生まれる。明治学院大学文芸部卒業。 戦前は新興キネマ、国際文化振興会等に所属。戦後米国大使館などの勤務を経て、放送作家として独立。ラジオでの作品に「時の神の戯れ」「ほのぼの人生」など。 また、ユーモア関係の著書も多く、落語から西洋の古典まであらゆる古今東西のユーモア文学に通暁する。
塩田 末平(しおた すえひら、1907年〈明治40年〉2月1… 塩田 末平(しおた すえひら、1907年〈明治40年〉2月10日 - 没年不明)は、日本の検察官、弁護士、公証人。元広島地方検察庁検事正。 香川県三豊郡仁尾村(現・三豊市仁尾町)出身。常三郎の二男。旧制香川県立三豊中学校、旧制第六高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業。 1929年(昭和4年)高等文官試験司法科合格。東京帝国大学卒業後、1930年(昭和5年)司法省入省。1931年(昭和6年)松山地方裁判所検事局検事に任官。岡山地方裁判所検事局検事、東京地方裁判所検事局検事に転任。 1941年(昭和16年)外務省に出向。上海領事館検察領事、南京領事館検察領事に就任。1945年(昭和20年)司法省に復帰。
黒木 博(くろき ひろし、1907年2月10日 - 2001… 黒木 博(くろき ひろし、1907年2月10日 - 2001年12月24日)は、日本の政治家。宮崎県知事。宮崎県宮崎市出身。宮崎県立高鍋農学校(現・宮崎県立高鍋農業高等学校)、宇都宮高等農林学校(現・宇都宮大学)卒。 宇都宮高等農林学校卒業後、宮崎県庁に入庁。農林大臣秘書官、県副知事などを務めた後、県知事選挙に出馬し当選。 以来、約20年間で通算6期連続当選したが、6期目の当選後まもなくトンネル工事に絡んだ3000万円の賄賂を受け取った容疑で1979年に逮捕され、辞職した(黒木事件)。一審では有罪判決が下ったが、二審で逆転無罪判決、後に無罪が確定した。ただし、裁判では賄賂性は否定されたものの建設業界から3000万円を授受したことと3000万円の使途に関する黒木の供述は信用できないことは認定された。
津田 恭介(つだ きょうすけ、1907年(明治40年)2月1… 津田 恭介(つだ きょうすけ、1907年(明治40年)2月10日 - 1999年(平成9年)6月17日)は、日本の薬学者、有機化学者。台湾生まれ、埼玉県出身。海産天然物の医薬品を開発。またフグ毒のテトロドトキシンを抽出する分離精製法を開発し、化学構造を決定した。1980年文化功労者。1982年文化勲章受章。位階は従三位。 旧制浦和高校、東京帝国大学医学部薬学科卒業。九州大学医学部教授、東京大学薬学部教授、東京大学応用微生物研究所所長、共立薬科大学学長、厚生省(現厚生労働省)薬事審議会会長などを歴任。フグ毒テトロドトキシンの抽出分離製法を開発し化学構造を解明、漢方薬成分マトリンの化学構造を解明、海藻類のコレステロールを発見した。
渡辺 照宏(わたなべ しょうこう、1907年2月10日 - … 渡辺 照宏(わたなべ しょうこう、1907年2月10日 - 1977年12月27日)は、日本の仏教学者。 1907年、成田山東京別院深川不動尊監院渡辺照叡の子として生まれた。東京帝国大学文学部インド哲学科で学び、1930年3月に卒業。卒業と同時にドイツに留学し、エルンスト・ロイマン(Ernst Leumann)らに師事。1933年5月に帰国。東京帝国大学大学院に進み、1935年3月に修了。 1935年4月、智山専門学校(現:大正大学)教授に就いた(1943年3月まで)。1943年9月、文部省民族研究所所員となった。 終戦により、1945年10月に民族研究所は廃止され、1946年4月からGHQ民間情報教育局宗教調査課に勤務(1948年3月まで)。
水田 義雄(みずた よしお、1907年2月10日 - 198… 水田 義雄(みずた よしお、1907年2月10日 - 1982年2月26日)は、日本の法学者。専門は比較法学。学位は、法学博士(早稲田大学・1960年)(学位論文「英国比較法研究」)。早稲田大学名誉教授。 東京都生まれ。翻訳家・水田栄雄の四男。1929年早稲田大学法学部卒。法律事務所を開設するが、のち早大法学部助教授、教授、1960年「英国比較法研究」で早稲田大学より法学博士の学位を取得。1977年定年退任、名誉教授、大東文化大学教授。比較法学が専門。
吉村 寿人(よしむら ひさと、1907年2月9日 - 199… 吉村 寿人(よしむら ひさと、1907年2月9日 - 1990年11月29日)は、日本の医学者、生理学者。ヒトの環境適応に関する研究と蛋白栄養に関する研究をした。日本生気象学会会長、日本栄養食糧学会会長等歴任。 京都大学の正路倫之助(兵庫県立医科大学、後の神戸医科大学初代学長)の元で学生時代を送り、卒業後引き続き助手、講師を務める。その後、正路に命じられて満洲の731部隊に赴任し、通称「吉村班」で凍傷を防ぐための研究に従事した(昭和13年から)(吉村を含め京都大学から8名の若手教官が派遣された)。軍での身分は陸軍技師。 戦後京都大学に戻った後、正路倫之助が学長になった兵庫県立医科大学(現在の神戸大学医学部)に移動して研究を続け、その後京都府立医科大学の教授となり、同大学の学長を務めた。