小柴 幹治(こしば かんじ、1916年1月12日 - 没年不… 小柴 幹治(こしば かんじ、1916年1月12日 - 没年不明)は、北海道函館市出身の日本の俳優。 本名は蓮見章。別名・旧芸名に三条雅也、三條雅也、美浦平八郎、小柴完二を持つ。 1979年(昭和54年)に発行された『日本映画俳優全集 男優篇』では、存命人物として大阪府守口市の連絡先が示されているが、既に引退しており、以後の消息は不明である。
1916年(大正5年)生まれ:564人
小柴 幹治(こしば かんじ、1916年1月12日 - 没年不… 小柴 幹治(こしば かんじ、1916年1月12日 - 没年不明)は、北海道函館市出身の日本の俳優。 本名は蓮見章。別名・旧芸名に三条雅也、三條雅也、美浦平八郎、小柴完二を持つ。 1979年(昭和54年)に発行された『日本映画俳優全集 男優篇』では、存命人物として大阪府守口市の連絡先が示されているが、既に引退しており、以後の消息は不明である。
景山 春樹(かげやまはるき、1916年1月9日-1985年7… 景山 春樹(かげやまはるき、1916年1月9日-1985年7月22日)は、日本の神道・仏教美術学者。 1916年、滋賀県大津市で生まれた。景山家は比叡山公人の家系であった。國學院大学文学部国史学科で学び、1939年に卒業。 1939年5月、京都市教育局学務課に入職。1941年1月、恩賜京都博物館鑑査員となった。1944年に応召し、1946年に復員。 1947年に文部技官となり、京都国立博物館考古室長兼普及室長を務めた。1964年、学位論文『神道美術の研究』を國學院大學に提出して文学博士の学位を取得。1970年に京都国立博物館学芸課長となり、1976年に退官。 1976年4月からは帝塚山大学教授として教鞭をとった。
木戸口 久治(きどぐち ひさはる、1916年1月9日 - 2… 木戸口 久治(きどぐち ひさはる、1916年1月9日 - 2005年1月7日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。石川県出身。 1942年(昭和17年)9月に中央大学法学部を卒業。同年10月に司法官試補となったが、陸軍に召集されてベトナムに出征。復員後に5日間だけ検事になったが、「同期より遅く任官しても将来どうなるか」と考え、1948年(昭和23年)1月に弁護士登録をした。 第二東京弁護士会に所属。十条製紙の顧問弁護士を務め、立木の所有権や境界などの紛争があるたびに出かけ、北海道から九州まで全国の山を歩いた。製紙工場の公害問題も地方の人たちと丁寧に話し合い、訴訟に持ち込まれないで解決した。 中央大学理事や第二東京弁護士会会長を務めた。
今井 文男(いまい ふみお、1916年1月9日 - 1995… 今井 文男(いまい ふみお、1916年1月9日 - 1995年12月16日)は、国文学者。専門は俳諧、文学表現。 1916年、愛知県犬山市に生まれる。1935年、青山師範学校本科二部を卒業。1936年、東京高等師範学校文科第二部(国語・漢文専攻)入学、諸橋轍次・垣内松三・能勢朝次の教えを受ける。1939年、東京高等師範学校を3年で修了し、東京文理科大学文学部国語学国文学専攻に入学。 1941年、東京文理科大学を卒業。1950年、金沢大学金沢高等師範学校教授、1952年、東海大学助教授、1954年、金城学院大学助教授、1956年、東京教育大学講師、1958年、金城学院大学教授を歴任。1975年、愛知淑徳大学設立に伴って同大学へ移籍、教授兼文学部長。
田口 正治(たぐち まさはる、1916年(大正5年)1月9日… 田口 正治(たぐち まさはる、1916年(大正5年)1月9日 - 1982年(昭和57年)6月29日)は、日本の水泳選手。専門は自由形。1936年ベルリンオリンピック800mフリーリレー金メダリスト。 1916年(大正5年)1月9日、京都府出身。同志社大学在学時の昭和8年度第7回明治神宮体育大会水上競技大会の新人競技の部・男子100m自由形に出場して1分1秒6のタイムで優勝し、注目を集める。 同志社大学から立教大学へ転じて、立教大学在学中の1936年(昭和11年)日本選手権水泳競技大会の競泳男子200m自由形で2分14秒8のタイムで優勝。その年のベルリンオリンピック日本代表選手に選出される。 ベルリンオリンピックでは100メートル自由形で4位入賞を果たし、男子800メートルリレーで、遊佐正憲・杉浦重雄・新井茂雄と共に金メダルを獲得。
加藤 東一(かとう とういち、1916年(大正5年)1月6日… 加藤 東一(かとう とういち、1916年(大正5年)1月6日 - 1996年(平成8年)12月31日 )は、日本画家、日展理事長。岐阜県岐阜市出身。
赤根谷 飛雄太郎(あかねや ひゅうたろう、1916年1月5日… 赤根谷 飛雄太郎(あかねや ひゅうたろう、1916年1月5日 - 1969年8月22日)は、秋田県秋田市出身のプロ野球選手(投手)、野球指導者(秋田市立秋田商業高等学校硬式野球部監督)。プロ野球史上、最も漢字名の長い(7文字)選手として知られる。 なお、「ヒユウタロウ」は誤読である。巨人の星の星飛雄馬風に「ヒュウタロウ」である。 秋田商業を経て、法政大学に進学すると、東京六大学野球で活躍を見せる。その後、社会人野球の秋田コンマーシャルクラブ・帝国石油でプレー。 1948年に32歳にして急映フライヤーズに入団。新人ながら加藤正二(35歳)に次ぐ高齢の選手だった。1年目は二軍の急映チックフライヤーズの監督を兼任しながらドロップを武器に一軍で12試合に登板し2勝を挙げるが、9月28日に行われた対金星戦(後楽園球場)で坪内道則に史上初の1000本安打を打たれてしまう。
大久保 竹治(おおくぼ たけじ、1916年〈大正5年〉1月5… 大久保 竹治(おおくぼ たけじ、1916年〈大正5年〉1月5日 - 2010年〈平成22年〉5月30日)は、日本の実業家。丸広百貨店グループ創業者。勲四等瑞宝章。日本百貨店協会常任理事、埼玉県公安委員長、川越商工会議所会頭などを務めた。 埼玉県入間郡飯能町(現在の飯能市)の製茶農家に5人兄弟妹の二男として生まれる。少年の頃に都心の百貨店をみた竹治は「こんな大きな店があったのか。いつの日にか自分の店を持ちたい」と思い、それが夢となり進学も就職も商業の道を進んだ。 飯能実業学校卒業後は東京都八王子市で衣料を扱う「丸木」で働き修行。1939年(昭和14年)に飯能で修行先の名前を借りて「丸木商店」を開店。
韓 泰淵(ハン・テヨン、朝鮮語: 한태연、1916年1月5日… 韓 泰淵(ハン・テヨン、朝鮮語: 한태연、1916年1月5日 - 2010年9月20日)は、大韓民国の法学者、大学教授、政治家、ジャーナリスト。第6・9・10代韓国国会議員。 本貫は清州韓氏。号は栗山(ユルサン、율산)。キリスト教徒。 咸鏡南道永興郡出身。早稲田大学法学部卒。高等文官試験行政科合格。成均館大学校、ソウル大学校法科大学、東国大学校、漢陽大学校、東亜大学校大学院で教授を務めたほか、ソウル新聞主筆、韓国憲法学会会長などを務めた。1963年の第6代総選挙で初当選以降、1973年から1980年までは維新政友会所属の第9・10代国会議員を務めた。1972年の朴正煕大統領時代には葛奉根らと共に維新憲法の制定に参加した。
新関 欽哉(にいぜき きんや、1916年 <大正5年> 1月… 新関 欽哉(にいぜき きんや、1916年 <大正5年> 1月4日 - 2003年 <平成15年> 8月11日)は、日本の外交官。印章の研究者でもあった。位階は正三位。 東京都出身。武蔵高等学校を卒業後、1938年東京大学法学部政治学科卒業。 外務省に入省し、1938年外務省在外研究員、1951年欧米局第5課長(ソ連課長)、1956年在ソ大使館参事官(代理大使)、1958年欧亜局参事官、1963年大臣官房国際資料部長(初代)、在香港総領事、1966年情報文化局長、1968年在オーストリア特命全権大使、1971年在ソ連特命全権大使、1972年在モンゴル大使兼任、1973年在インド特命全権大使。その後、日本国際問題研究所理事長、ソ連研究センター所長、原子力委員会委員を務める。
秋月 辰一郎(あきづき たついちろう、1916年(大正5年)… 秋月 辰一郎(あきづき たついちろう、1916年(大正5年)1月3日 - 2005年(平成17年)10月20日)は、日本の医師で、元長崎聖フランシスコ病院院長。長崎へ原爆が投下された当時、自らも被爆しながら、医師として負傷した被爆者の治療にあたった。また、医師のかたわら、原爆の証言の収集を長年に渡って行った。 秋月平和賞は、生前の秋月辰一郎の平和貢献活動をたたえて長崎市の市民団体が2008年(平成20年)に創設した賞である。秋月平和賞は核兵器廃絶に貢献する活動をしている個人や団体に贈られ、2024年には15回目となった。 この項目は、医療関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:医学と医療、PJ:医学、PJ:歯学)。
西郷 信綱(さいごう のぶつな、1916年〈大正5年〉1月3… 西郷 信綱(さいごう のぶつな、1916年〈大正5年〉1月3日 - 2008年〈平成20年〉9月25日)は、日本の国文学者。専門は上代文学・古代文学。横浜市立大学名誉教授。 大分県生まれ。東京帝国大学英文科に進学したが、斎藤茂吉の短歌に傾倒して国文科に転じ、1939年3月卒業。丸山静とともに「アララギ」派の短歌に傾倒する。戦後、鎌倉アカデミアの創設に参加し教授、その後横浜市立大学教授を長く務め、定年後法政大学教授、この間ロンドン大学教授も務めた。 1990年、『古事記注釈』で角川源義賞受賞。1995年、文化功労者。「九条科学者の会」呼びかけ人を務めていた。 2008年9月25日午後10時35分、急性心不全にて川崎市内の病院で逝去。
武者 一雄(むしゃ かずお、1916年〈大正5年〉1月2日 … 武者 一雄(むしゃ かずお、1916年〈大正5年〉1月2日 - 2008年〈平成20年〉12月17日)は、日本の小説家、児童文学作家、僧侶。群馬県出身。本名・中村一雄。『ビルマの竪琴』の水島上等兵のモデルとなったとされることで知られる。 碓氷郡松井田町(現 安中市)生まれ。13歳で僧となる。旧制高崎中学校(現 群馬県立高崎高等学校)を経て、1936年駒澤大学専門部仏教科卒業。卒業後ただちに高崎第15連隊に入隊。1938年に北支に出征した後1941年に帰国。福井県の永平寺で2年間修業するが再び召集され、フィリピン、タイなど東南アジアを転戦後、多くの死者が出たインパール作戦に参加し、ビルマ(今のミャンマー)で終戦を迎える。
山崎 隆(やまざき たかし、1916年1月2日 - 2004… 山崎 隆(やまざき たかし、1916年1月2日 - 2004年3月31日)は、昭和戦中戦後に活躍した前衛の日本画家である。 1916年1月2日京都市に生まれる。1933年京都市立絵画専門学校(絵専、現・京都市立芸術大学)に入学、梥本一洋に師事した。在学中に革新的な若手日本画家たちによって結成された新日本画研究会に参加。1936年同校卒業後、研究科に進学。翌1937年日華事変に応召するが、翌年中国北部で負傷し召集解除。 1938年歴程美術協会第1回試作展に《象》を出品。同展に出品された山岡良文《シュパンヌンク》と並び、それまでの日本画にまったく見られない「純粋抽象」表現として記録される。翌年同協会の会員となり、1942年第8回展まで出品を続けた。
高田 ユリ(たかだ ユリ、1916年1月2日 - 2003年… 高田 ユリ(たかだ ユリ、1916年1月2日 - 2003年12月24日)は消費者運動の先駆者。主婦連合会元会長(1989-1991)。 1916年1月2日、新潟県佐渡郡相川町に生まれる。両親とも佐渡島で小学校教諭をしていた。1919年、父母とともに上京。1937年共立女子薬学専門学校卒(後の共立薬科大学)卒。1942年同校助教授。1943年12月29日朝日新聞社の高田靖彦と結婚。東京・市ヶ谷の砂土原町に住居を構える。1950年8月夫晴彦の勧めで奥むめお会長に会う。同年10月主婦連に日用品審査部が新設され、専門委員となる。その後、各地の生活センターの先駆けとなった主婦連日用品試験室主任として、科学的なデータをもとに商品テストを担当するようになった。
後藤 聰一(ごとう そういち、1916年(大正5年)1月2日… 後藤 聰一(ごとう そういち、1916年(大正5年)1月2日 - 2003年(平成15年)3月30日)は、第19-21代東京都八王子市長。 東京都南多摩郡由井村打越(現八王子市打越町)に多摩一とも呼ばれた精穀業「後藤常吉水車」を営む家に生まれる。 1933年(昭和8年)八王子市役所に臨時職員として就職、同年3月八王子市立商業公民学校後期を卒業した。 後藤は職員として働きながら東京府立第二商業学校を中退した後、1942年(昭和17年)に東京主計商業学校第二本科を卒業した。 1936年(昭和11年)に第二乙種合格、第二補充兵として編入される。体重は49キロと軽かったが視力も良く馬に乗れたため1938年(昭和13年)9月に野砲第1連隊の砲兵に応召。
浅野 辰雄(あさの たつお、1916年1月1日 - 2006… 浅野 辰雄(あさの たつお、1916年1月1日 - 2006年9月15日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。ドキュメンタリー映画『号笛なりやまず』の監督であり、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『アナタハン』ではスタンバーグと脚本を共同執筆したことでも知られる。日本記録映画作家協会委員、「世田谷を記録する会」会長を歴任した。 日本映画データベース等で混同されている大映の製作者・浅野辰雄(1904年 - 没年不詳)は、別人である。 1916年(大正5年)1月1日、栃木県宇都宮市に生まれる。北海道函館市の旧制・北海道庁立函館中学校(現在の北海道函館中部高等学校)を卒業して上京、旧制・東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部)機械科に進学するも、在学中に『文芸街』『ズドン』等の文学運動に関係しており、1936年(昭和11年)7月10日、講座派の一斉検挙であるコム・アカデミー事件に関連し、同誌関係者として浅野次郎、中島正伍らとともに検挙されている。
有田 一壽(ありた かずひさ、1916年1月1日 - 199… 有田 一壽(ありた かずひさ、1916年1月1日 - 1999年4月1日)は、日本の実業家、政治家、教育家。一寿とも。旧姓は正木。 日本統治時代の朝鮮平安北道新義州に生まれる。5歳で母親と、11歳で父親と死別し、福岡県築上町の叔父に引き取られる。小倉師範学校、福岡高等学校 (旧制)を経て、1941年東京帝国大学文学部教育学科を卒業。直ちに兵役に就く。 戦後は青葉ヶ丘女子高校(現・高稜高等学校)校長、福岡県教育委員(1948年当選)を務めた後、妻の兄である石橋健蔵が経営する若松築港(現・若築建設)に1952年に入社し、専務を経て、1958年社長に就任。後に会長(1976年)、名誉会長、相談役を歴任する。
権 東哲(クォン・ドンチョル、朝鮮語: 권동철/權東哲、19… 権 東哲(クォン・ドンチョル、朝鮮語: 권동철/權東哲、1916年1月1日または1月21日 - 2006年11月24日)は、日本統治時代の朝鮮の教育者、大韓民国の公務員、政治家。青松郡守、第8代義城郡守、第4代達城郡守、参議員などを歴任した。 本貫は安東権氏(朝鮮語版)、号は汾谷(プンゴク、분곡)。キリスト教徒。 日本統治時代の慶尚北道義城郡出身。同志社大学文学部神学科卒。私立白牙島(朝鮮語版)学院院長、義城学院院長、米軍政庁人事行政処職員、慶尚北道人事処補任課長、青松郡守、第8代義城郡守(1950年9月24日 - 1951年9月19日)、第4代達城郡守(1951年9月19日 - 1955年8月23日)、慶尚北道農道院長、サムソン中学校長、学校法人サムソン学院理事長、大韓民国憲政会(朝鮮語版)運営委員などを務めた。
高木 啓太郎(たかぎ けいたろう、1916年1月1日 - 1… 高木 啓太郎(たかぎ けいたろう、1916年1月1日 - 1997年10月11日)は、日本の写真作家、美術家。 写真、陶芸、書画を中心に、日本のみならず、欧米でも数多くの個展を開催するなど幅広く活躍した。 1916年(大正5年)倉吉で生まれ、戦前に大陸に渡る。敗戦後、シベリア抑留を経験する。1948年(昭和23年)に帰国すると、倉吉でカメラ店を開き、民俗写真、民俗風景の撮影に熱中した。独学で写真を始め、塩谷定好や植田正治との親交を通じて技術を磨いた。同好の仲間と「光画クラブ」というアマチュア写真集団を作る。「光画クラブ」には、戦後の「砂丘社」復興にかかわった画家・徳吉英雄も参加した。さらにカメラ店の他に、民藝品店、画廊、喫茶店(久良)、蕎麦屋(土蔵蕎麦)など商売の幅を広げ、そこが芸術家たちの集うサロン的な場所となった。
多藤 省徳(たとう せいとく、1916年 - )は、日本の実… 多藤 省徳(たとう せいとく、1916年 - )は、日本の実業家。生涯を捕鯨の発展に捧げた。鯨類研究所の大村秀雄は多藤を「捕鯨の大家」と賞賛した。 宮城県古川市(現大崎市古川)出身。旧制古川中学(宮城県古川高等学校)、1939年に函館高等水産学校(北海道大学の前身校の一つ)を卒業し極洋捕鯨に入社。小笠原捕鯨、北洋捕鯨、南氷洋捕鯨などに尽力。1961年の国際捕鯨オリンピックでは船団長として船団を率いた。その後、同社取締役、常務取締役、専務取締役、1976年には取締役副社長を歴任した。
梅崎 作太郎(うめさき さくたろう 1916年 - 1944… 梅崎 作太郎(うめさき さくたろう 1916年 - 1944年12月)は、日本の元アマチュア野球選手。秋田県出身。ポジションは投手。 1916年、秋田市に生まれた。秋田中学(現・秋田県立秋田高等学校)在学中は、甲子園に4回出場。夏のみ。4回(1931年~1934年まで4年連続)出場し、最後の出場となった1934年夏の大会ではベスト4に入る健闘を見せた(準決勝で、藤村富美男らを擁した優勝候補筆頭の呉港中学〈現・呉港高等学校〉と当たり0-9で大敗)。梅崎、赤根谷飛雄太郎(梅崎のライバルで、秋田商出身。後に急映・東急でプレー)、渡辺誠太郎(土崎商出身。後に阪神等でプレー)の三人を称して、「戦前秋田の三大投手」と呼ばれた。
吉川 需(よしかわ まつ、1916年 - 1995年)は、日… 吉川 需(よしかわ まつ、1916年 - 1995年)は、日本の造園学者。庭園史家。研究は発掘庭園史をテーマに戦後に東京大学の助手を経て昭和26年から文化財保護委員会に移り以後、文化庁退官まで一貫して庭園の調査研究、文化財遺構の発掘調査・復元整備に尽力。師の吉永義信と共に精力的に全国を巡り、幾多の名園を実測調査、記録・報告する。 庭園の名勝指定や解除、遺構の整備、復原などに携わり、平城京の北宮庭園などの指定、岡山の後楽園をはじめ、鹿苑寺(金閣寺)や縮景園などの戦災復旧事業に尽力すると同時に、中尊寺、毛越寺、無量光院などに関連した平泉の庭園遺跡について一連の調査を進め、その成果を総括。 文化財保護審議会専門委員(第3專門調査会会長),財団法人日本ナショナルトラスト専門委員、社団法人日本庭園協会理事長、文化財指定庭園保護協議会会長、識名園復旧整備委員会、史跡永福寺発掘整備委員会、松本城整備研究会会長他、昭和35年5月から日本造園学会評議員・理事・監事・副会長を歴任。
峰島 秀(みねしま ひで、1916年 - 没年不詳)は、日本… 峰島 秀(みねしま ひで、1916年 - 没年不詳)は、日本の女子陸上競技選手、高等女学校教師。1936年ベルリンオリンピック陸上女子円盤投代表。元円盤投日本選手権覇者。女子スポーツ黎明期に欧米の選手の好敵手として五輪で入賞した名選手として知られる。 資料によっては「峯島秀」、「峰島秀子」と表記するものもある。 千葉県千葉市出身で、千葉第一尋常高等小学校(現・千葉市立新宿小学校)を経て千葉県立千葉高等女学校(現・千葉県立千葉女子高等学校)に進学する。千葉高女2年生の頃よりテニスをはじめ、1931年には県下女子庭球選手権大会で、1932年には関東女子競技大会で優勝を果たした。また投擲(とうてき)種目もこの頃より始め、高女3年には学友会誌に「スポーツ界の現状を直視して」と題した論文を寄せるなど文才も発揮し、「人見二世」と呼ばれた。
加藤 匡夫(かとう ただお、1916年 - 1996年)は、… 加藤 匡夫(かとう ただお、1916年 - 1996年)は、日本の外交官。外務省経済局長、OECD代表部特命全権大使、駐イギリス特命全権大使、日英協会理事長などを歴任した。正三位勲一等瑞宝章。 東京出身。東京高等学校文科甲類を経て、1937年東京帝国大学法学部政治学科卒業。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、1943年9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。1945年(昭和20年)3月、主計大尉に昇進して終戦を迎えた。 1948年連絡調整中央事務局連絡調整官。1950年通商産業省通商局市場第二課長。1955年外務省経済局第四課長。1956年外務省経済局第一課長。
井狩 正司(いかり まさし、1916年 - 2011年)は、… 井狩 正司(いかり まさし、1916年 - 2011年)は、日本の国文学者。1934年、旧制・日本大学中学校(現・日本大学第一高等学校)卒業。元日本大学文理学部教授、元隅田川神社宮司。
山本 高治郎(やまもと たかじろう、1916年 - )は、日… 山本 高治郎(やまもと たかじろう、1916年 - )は、日本の小児科医、聖路加国際病院名誉医長。 滋賀県生まれ。1941年東京帝国大学医学部卒。1953年東京大学医学博士。論文の題は「穀粉栄養障碍に於けるビタミンA欠乏症状発現に関する実驗的研究」。 聖路加国際病院小児科医長、のち名誉医長。北里大学客員教授。1983年『母乳』で毎日出版文化賞受賞。
佐山 昌義(さやま まさよし、1916年 - 没年不明)は、… 佐山 昌義(さやま まさよし、1916年 - 没年不明)は、大分県出身のプロ野球選手。 中津中学から門司鉄道局を経て1937年に大東京軍へ入団。1938年に退団。
大久保 公治(おおくぼ こおじ、1916年(大正5年) - … 大久保 公治(おおくぼ こおじ、1916年(大正5年) - 2002年(平成14年))は、日本の画家。
山本 博愛(やまもと ひろちか、1916年 - 没年不明)は… 山本 博愛(やまもと ひろちか、1916年 - 没年不明)は、東京都出身のプロ野球選手(三塁手、遊撃手)。
大宮 清(おおみや きよし、1916年 - 1944年)は、… 大宮 清(おおみや きよし、1916年 - 1944年)は、愛知県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、捕手。
新井 一(あらい はじめ、1916年 - )は、愛知県出身の… 新井 一(あらい はじめ、1916年 - )は、愛知県出身のプロ野球選手。
藤井 孝夫(ふじい たかお、1916年〈大正5年〉 - )は… 藤井 孝夫(ふじい たかお、1916年〈大正5年〉 - )は、日本の神学者である。関西学院大学名誉教授。 山口県徳山市(現周南市)生まれ。山口高等商業学校卒、京城で勤務、入営する。関西学院神学部から1944年日本基督教神学専門学校卒。牧師として大分県、山口県で活動後、関西学院大学神学部助教授、教授、1987年定年退任、名誉教授。
佐藤 日吉(さとう ひよし、1916年〈大正5年〉 - 20… 佐藤 日吉(さとう ひよし、1916年〈大正5年〉 - 2007年〈平成19年〉)は、日本の倫理学者。専門は倫理学・宗教的倫理学。北海道教育大学名誉教授・元旭川大学女子短期大学部学長。山形県東村山郡出身。 この他1968年(昭和43年)から1974年(昭和49年)まで北海道教育大学附属旭川小学校長を務める 勲三等旭日中綬章(1990年) 『北海道人物・人材リスト 2004 な-わ』(日外アソシエーツ編集・発行、2003年) この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
竹内 良夫(たけうち よしお、1916年 - 1993年)は… 竹内 良夫(たけうち よしお、1916年 - 1993年)は、日本の文芸評論家。東京生まれ。中国哲学者・竹内照夫は兄。日本大学経済科卒業。1946年読売新聞社入社、文芸欄担当を10年ほど務め、71年12月退社。佐藤春夫、檀一雄、田中英光らと交友があり、同人誌『下界』に参加、西村賢太編集『田中英光私研究』第二輯(1994)に追悼特集があり、田中らをモデルにした小説「告別」(1960)もある。
加賀谷 力司(かがや りきじ、1916年〈大正5年〉– 20… 加賀谷 力司(かがや りきじ、1916年〈大正5年〉– 2002年〈平成14年〉)は、日本の政治家・実業家。 林業、建設業を営む企業の経営に携わるとともに、地元秋田県を中心に、戦後日本の地域社会や林業振興・緑化推進に長年にわたって継続的な影響を与えた人物として知られる。 1916年に秋田県五城目町に生まれる。父・加賀谷直治は秋田県議会副議長を務めた政治家であり、加賀谷家は地域において代々公職と産業に携わってきた。秋田県立秋田高等学校、そして早稲田大学で教育を受けたのち、地元に戻り、木材・造林・建設業を中心とする家業を継承。企業経営と地域の活性化を通じて、地域の復興と発展に尽力した。 1951年(昭和26年)に五城目町議会議員に初当選、1956年には町議会議長に就任し、翌1957年より町長を務めた。
川合 道雄(かわい みちお、1916年- )は、日本近代文学… 川合 道雄(かわい みちお、1916年- )は、日本近代文学・文化研究者、編集者。 京都府生まれ。川合信水(山月)の次男。早稲田大学文学部国文学科卒。博文館編集局、高校等に勤務の後、早稲田大学文学部非常勤講師。1977年国士舘短期大学教授、国士舘大学文学部教授、89年退職。早稲田大学国文学会名誉会員。
鈴木 二郎(すずき じろう、1916年 - 2008年)は、… 鈴木 二郎(すずき じろう、1916年 - 2008年)は、日本の社会人類学者、東京都立大学 (1949-2011)名誉教授。 早稲田大学文学部で学び、卒業。東京都立大学教授を務めた。1980年に東京都立大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は東京造形大学学長を務めた。また、創価大学特任教授。1997年に退任。人権・平和運動に注力した。
伊藤 弘人(いとう こうじん、1916年 - 1988年)は… 伊藤 弘人(いとう こうじん、1916年 - 1988年)は、神奈川県相模原市出身の日本画家。日本美術院特待。相模原市民文化彰受賞。本名は、伊藤弘。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
近藤 鉄己(こんどう てつみ、1916年 - 1945年8月… 近藤 鉄己(こんどう てつみ、1916年 - 1945年8月3日)は、日本のアマチュア野球選手。愛知県出身。ポジションは捕手。 愛知商業(現・愛知県立愛知商業高等学校)在学中は、甲子園に2回出場(内訳は春1回〔1935年〕。夏1回〔1935年〕。)出場した大会でどちらもベスト4まで進出し、自身は1935年春の大会で優秀選手賞を受賞した。 愛知商業卒業後、1936年に慶應義塾大学に進学。六大学野球でも活躍し、1939年秋季リーグで高木正雄とバッテリーを組み、慶大の13季ぶりの優勝の立役者となった。 しかし慶大を卒業後応召され、終戦12日前の1945年8月3日にフィリピンルソン島イフガオ州キャンガンにて、胸部貫通銃創により戦死した。
小塚 光彦(こづか みつひこ、1916年(大正5年) - 2… 小塚 光彦(こづか みつひこ、1916年(大正5年) - 2011年(平成23年)7月26日)は、日本のフィギュアスケート選手。 「フィギュア王国」愛知県の基礎を築いた。長男はグルノーブルオリンピック男子フィギュアスケート代表の小塚嗣彦、孫はバンクーバーオリンピック男子フィギュアスケート代表、2011年世界選手権銀メダリストの小塚崇彦。 愛知県名古屋市生まれ。学業を終え満州に渡り、満州国協和会の保安部警務司のカメラマンとなる。撮影に訪れた新京の児玉公園(いまの勝利公園)で撮影モデルに頼んだ少女スケーターと出逢ったことがきっかけでフィギュアスケートを知り、自らもスケートを始める。その後、フィギュアスケート選手中村公正と知己となったことで練習に励み、満州では中村とともに優れた成績を収めるほどになった。
高城 俊男(たかじょう としお、1916年 - 1997年1… 高城 俊男(たかじょう としお、1916年 - 1997年10月31日)は、昭和時代後期から平成時代にかけて活動した日本の作詞家。俳号は渓水(けいすい)。 1916年(大正5年)、鹿児島県鹿児島郡伊敷村大字小山田(現在の鹿児島市小山田町)で農家の長男として出生。鹿児島工業学校在学中に漫画家を志し、卒業後に上京して田河水泡から弟子入りを認められアシスタントとして活動したが、実家から呼び戻されたためデビューを断念し私立校の教員となった。 鹿児島へ帰郷したのち1950年(昭和25年)に公募展で入選してから作詞家として活動するようになり、1972年(昭和47年)には市が第27回太陽国体の開催を記念して懸賞公募した「鹿児島市民歌」で応募作が入選したのを始め公募や依頼で生涯に約140曲を作詞している。
高木 正雄(たかぎ まさお 1916年 - 1944年6月1… 高木 正雄(たかぎ まさお 1916年 - 1944年6月18日)は、日本の元アマチュア野球選手。京都府出身。ポジションは投手。
繁里 栄(しげり さかえ、1916年 - 1960年12月8… 繁里 栄(しげり さかえ、1916年 - 1960年12月8日)は、大分県出身のプロ野球選手。ボジションは投手。
仲野 良俊(なかの りょうしゅん、1916年 - 1988年… 仲野 良俊(なかの りょうしゅん、1916年 - 1988年1月6日)は、日本の浄土真宗僧侶・仏教学者。 京都府京都市生まれ。1939年大谷大学文学部卒業。 同大学講師、1942年ビルマで日本語学校の教師となる。1956年真宗大谷派教化研究所所員。1966年教学研究所副所長就任。北海道教学研究所所長、1981年教学研修所所長。京都・真宗大谷派専念寺住職。
岸本 英八郎(きしもと えいはちろう、1916年 - 198… 岸本 英八郎(きしもと えいはちろう、1916年 - 1986年6月21日)は、日本の経営学者。 1941年神戸商科大学卒、1962年「技術革新と経営管理論の形成」で神戸大学経営学博士。神戸大学経済経営研究所勤務ののち、南山大学助教授、甲南大学助教授、教授を務め、1982年名誉教授となり、大阪学院大学教授を務めた。
佐藤 俊明(さとう しゅんみょう、1916年 - 1997年… 佐藤 俊明(さとう しゅんみょう、1916年 - 1997年6月2日)は、日本の僧侶、曹洞宗大教師。 山形県生まれ。1936年、山形県宝泉寺の住職となる。1939年、駒澤大学文学部仏教学科を卒業。1974年から1981年まで、曹洞宗大本山總持寺の出版部長、布教師会事務局長、副監院を歴任。1985年、千葉県龍光寺住職。1988年、曹洞宗大教師に補任され、布教活動に専念。1995年、龍光寺住職を引退。 著書に『禅のはなし』『続・禅のはなし』『禅語と教育』『禅のこころ』『こころ自由自在』『心のお経』『修証義に学ぶ』『禅語百話』『古教照心』『とらわれない心』『心にのこる禅の名話』など多数。 1997年6月2日逝去、享年80。
中世古 祥道(なかせこ しょうどう、1916年 - 2019… 中世古 祥道(なかせこ しょうどう、1916年 - 2019年1月1日[要出典])は、日本の歴史学者、曹洞宗の僧侶(三重県正泉寺14世住職のち東堂)。道元禅師・愛洲氏の研究で知られる。号は興国。 北海道に生まれる。1937年に大連第一中学校(旧制)を卒業後、駒澤大学仏教学部に入学。道憲寮にて衛藤即応博士に師事。1940年に卒業。 大学の舎監を辞して1941年より天津に赴任し、道元の研究を重ねる(「道元禅師の歩み」)。戦中・戦後の中、研究活動は幾度も中断。1948年、度会郡小川郷中学校の教諭となり、以降、1975年まで五ヶ所小学校・中学校で教鞭を取る。研究の方では1967年に小川弘貫博士の「唯識研究会」に参加したのを契機とし、1970年に『道元禅師伝ノート』を刊行。
和泉 克雄(いずみ かつお、1916年 - 2010年2月1… 和泉 克雄(いずみ かつお、1916年 - 2010年2月1日)は、日本の詩人、俳人、グッピー研究家。 東京府東京市深川区(現東京都江東区)本所柳島生まれ。本名・牛次。中央大学商業学校卒業、アテネ・フランセ中退。1950-1980年「和泉熱帯魚研究所」を経営、おもにグッピー、卵生メダカ・卵胎生メダカを研究・繁殖。日本グッピー協会会長を務めた。
浅野 英(あさの なぶさ、本名は「ハヤブサ」、1916年 -… 浅野 英(あさの なぶさ、本名は「ハヤブサ」、1916年 - 1997年(平成9年)9月1日)は、日本の都市計画家。日本都市計画学会名誉会員。日本都市計画学会の専務理事としても活躍した。 旧制第二高等学校出身。二高卒業後は東京帝国大学工学部土木工学科に進学し1935年(昭和10年)3月に卒業。都市計画行政の中軸を歩む。神奈川県都市計画課主任技師兼任で別官制の内務省都市計画神奈川地方委員会技師。神奈川県相模原土地区画整理事務所長を歴任。相模原の新興工業都市なる「ニュータウン」造りにかかわる。 戦後は戦災復興院に移籍し土地局工務課。建設省発足後は、1950年(昭和25年)6月から1951年5月の間、建設省計画局都市復興課長。