武原 はん(たけはら はん、1903年(明治36年)2月4日… 武原 はん(たけはら はん、1903年(明治36年)2月4日 - 1998年(平成10年)2月5日)は、徳島県出身の日本舞踊家。本名・武原幸子。 1903年2月4日、徳島県徳島市籠屋町に生まれる。家は花街の裏手にあり、父親はブリキ職人だった。1915年、大阪宗右衛門町の大和屋芸妓学校に入学。山村流の上方舞を修行。14歳で芸者になり、20歳まで大和屋で働いた。1930年、青山二郎の後妻として結婚。青山を通じて小林秀雄、永井龍男、中原中也、宇野千代らとの交流が始まる。1931年、上京し、料亭「灘万」の若女将を務める。藤間勘十郎や二世西川鯉三郎に師事、関西の上方舞を東京に根付かせるのに尽力した。1934年、青山と離婚。
六代目 歌川 豊国(うたがわ とよくに、明治36年(1903… 六代目 歌川 豊国(うたがわ とよくに、明治36年(1903年)2月3日 - 平成12年(2000年)11月11日)は、大正時代から平成時代の浮世絵師。 明治36年、2代目歌川国鶴の次男として、東京市麻布区笄町(現在の東京都港区西麻布)に生まれる。母は四条派の絵師ゆた。祖父は歌川国鶴。始めは2代目歌川国春と号しており、明治38年(1905年)に大阪市南区(現在の中央区)徳井町に移った。さらにその3年後、明治41年(1908年)には京都市に転居している。父の2代目歌川国鶴のもと、浮世絵を学んだ後、山元春挙及び中井汲泉に師事し、運筆及び風景画を習得した。大正7年(1918年)には、叔父の5代目歌川豊国に引き取られ、再び浮世絵を学んだ後、大正11年(1922年)には東京府下幡ヶ谷の前田英に師事し、写真背景画を学んでいる。
橋 閒石(はし かんせき、1903年2月3日 - 1992年… 橋 閒石(はし かんせき、1903年2月3日 - 1992年11月26日)は、石川県出身の俳人、英文学者。神戸商科大学名誉教授。俳誌「白燕」(びゃくえん)創刊・代表。本名泰来(やすき)。 金沢市十三間町に生まれる。本名の泰来は、石圃または閒遊と号した書家であった祖父・往來(ゆきき)の名からとっており、のちの俳号閒石もこの祖父の号に由来する。金沢二中(現・石川県立金沢錦丘中学校・高等学校)、四高を経て京都帝国大学英文科卒。中学の後半からたびたび病に臥せるようになり、病床で俳書を読んだことから独学で俳句を学ぶ。 1928年、京大卒業し和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)教諭に赴任。1931年、新設された兵庫県立神戸高等商業学校(兵庫県立神戸商科大学を経て、現・兵庫県立大学)教授となり神戸に移住。
板垣 正貫(いたがき まさつら/しょうかん、明治36年(19… 板垣 正貫(いたがき まさつら/しょうかん、明治36年(1903年)2月3日 – 昭和17年(1942年)11月26日)は、板垣退助の孫で土佐板垣氏(乾氏)の第12代当主。 明治36年(1903年)2月3日、板垣鉾太郎の三男として東京府荏原郡品川町大字北品川宿141番地に生まれる。母は松本丑太郎の長女 節子(せつこ)。本名は「まさつら」と読むが、家人をはじめ親しい人からは「しょうかん」と音読みで呼ばれた。 大正15年(1926年)、早稲田大学専門部政治経済科を卒業し、浅野スレート株式会社に勤務する。 同年(1926年)、兄板垣守正が、祖父退助を侮辱するかのような戯曲『自由党異変』を上演しようとして、自由党員らの反発を買い問題化したため、同5月24日付けで東京区裁判所の判決により6月12日に守正が隠居し、正貫が家督を相続することで事態を沈静化させた。
秋山 謙蔵(あきやま けんぞう、1903年(明治36年)2月… 秋山 謙蔵(あきやま けんぞう、1903年(明治36年)2月1日 - 1978年(昭和53年)3月5日)は、日本の歴史学者。号は一石。日中関係史、琉球貿易などの研究で知られる。大正大学教授、國學院大學教授、女子美術大学教授などを歴任した。大日本言論報国会理事。主著に『日支交渉史話』『日支交渉史研究』。 広島県比婆郡西城町(現・庄原市)に生まれる。旧姓は江木。1925年に第七高等学校造士館を卒業し、東京帝国大学文学部国史学科に入学、1928年に卒業、同大学院に入学。 国史学科卒業後すぐに史学会委員となり、東洋史学者の中山久四郎や日本歌謡史研究者の高野辰之のところに出入りする。国史学科の1年後輩にあたる森克己によれば、当時、高野辰之は「秋山は近年国史学界の生んだ鬼才ではないか?」と評していたという。
菅井 準一(すがい じゅんいち、1903年2月1日 - 19… 菅井 準一(すがい じゅんいち、1903年2月1日 - 1982年6月14日)は、日本の科学史家。 山形県出身。旧制山形高校、東京帝国大学理学部物理学科卒業。陸軍士官学校教授などを経て、1942年文部省視学官兼科学官。教育科学研究会の科学教育研究部会数学教育分会に参加。1941年の日本科学史学会創立に加わり『近代科学成立史』を編集した。1973年横浜商科大学教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
藪下 泰司(やぶした たいじ、男性、1903年2月1日 - … 藪下 泰司(やぶした たいじ、男性、1903年2月1日 - 1986年7月15日)は、記録映画の撮影、日本のアニメーション映画監督・演出・企画、アニメーション制作の教育者。大阪府北河内郡四条村(現 大東市)生まれ。東京美術学校写真科卒業。略字の薮下、本名の藪下 泰次と表記することも多い。代表作に『白蛇伝』等がある。映画監督の高橋玄は孫。 東京美術学校写真科卒業後、1925年松竹株式会社撮影所現像部を経て、1927年文部省社会教育局で映画製作設備を創設。そこでツェッペリン号飛来時の無声記録短編映画等を代表とする、文化・記録映画製作を約40本ほど担当し、記録映画畑を歩む。 戦時体制が解けた後の1947年、山本善次郎が設立する日本動画株式会社(1948年1月創立)で、初めてアニメーション作品の制作に参加。
戸川 行男(とがわ ゆきお、1903年2月1日 - 1992… 戸川 行男(とがわ ゆきお、1903年2月1日 - 1992年1月3日)は、日本の臨床心理学者。早稲田大学名誉教授。 東京出身。早稲田大学卒。1945年早稲田大学教授、58年「適応理論及び欲求理論の研究」で早稲田大学より文学博士の学位を取得。73年定年、名誉教授、明星大学教授。臨床心理学を日本に導入。文化についても発言した。
渡辺 良(わたなべ りょう、1903年2月 - 1976年3… 渡辺 良(わたなべ りょう、1903年2月 - 1976年3月4日)は、日本のジャズベース奏者。日本で最初にウッド・ベースでジャズを演奏した人物。東山千栄子、中江百合は実姉。 神奈川県横浜市に当時横浜地方裁判所長であった渡辺暢の三男として生まれる。法政大学在学中に作間毅らと学生初のジャズバンド、ラッカンサン・ジャズ・バンドを結成する。大学を卒業後、山田和一、前野港造バンドを経て、コロムビア・ジャズ・バンドに入団し、のち、楽長に就任する。1929年から1954年まで一貫して同バンドでレコードの吹込みに携わる。戦後は、自己のバンド、ニュー・フェローにより米軍クラブなどで活躍する。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
伊藤 昇(いとう のぼる、1903年1月31日 - 1993… 伊藤 昇(いとう のぼる、1903年1月31日 - 1993年2月7日)は、日本の作曲家、トロンボーン奏者。伊藤能矛留のペンネームも用いた。次男はレーシングライダーとして知られ,ヤマハに初の世界GP優勝をもたらした伊藤 史朗。 長野県松本市出身。松本商業学校中退、各種学校アテネ・フランセ卒業。1919年から海軍軍楽隊でトロンボーン奏者として活動。除隊後は山田耕筰率いる日本交響楽協会に参加し、山田に作曲と対位法を師事した。その後、近衛秀麿率いる新交響楽団で首席トロンボーン奏者を務め、そのかたわら菅原明朗に作曲を学び、新興作曲家連盟に参加した。作風はダリウス・ミヨーの多調、アルノルト・シェーンベルクの無調、アロイス・ハーバの微分音、ジャズなどを取り入れた前衛的なものであった。
色川 幸太郎(いろかわ こうたろう、1903年1月30日 -… 色川 幸太郎(いろかわ こうたろう、1903年1月30日 - 1993年8月5日)は日本の弁護士、最高裁判所裁判官。 千葉県出身。旧制土浦中学校(現在の土浦第一高等学校)、旧制第二高等学校卒業。東京帝国大学在学中に高文司法科試験に合格。1927年4月に大学卒業とともに弁護士となった。大阪の農民組合から法律顧問の水谷長三郎の後任を依頼されて大阪で開業し、関西で住むことになった。1947年、色川法律事務所を開設。 戦前は日本農民組合顧問として小作争議を支援。労働法に精通し、リベラル派として知られた。 戦中は陸軍に召集され法務将校として勤務。最終階級は法務中尉。 戦後は大阪地方公共企業体等調停委員、大阪市人事委員などを長く務め、大阪弁護士会会長も歴任。
近藤 真柄(こんどう まがら、別名・筆名: 堺真柄・近藤真柄… 近藤 真柄(こんどう まがら、別名・筆名: 堺真柄・近藤真柄、旧姓戸籍名: 堺マガラ、最初の結婚改姓戸籍名: 高瀬マガラ、第2の結婚改姓戸籍名: 近藤マガラ、女性、1903年1月30日 - 1983年3月18日)は、社会主義者、婦人運動家、フェミニスト。
小槙 孝二郎(こまき こうじろう、1903年1月30日 - … 小槙 孝二郎(こまき こうじろう、1903年1月30日 - 1969年5月3日)は、日本のアマチュア天文家。日本の流星観測のネットワークを組織。 現在の岡山県津山市上之町の山本家に生まれる。1921年、天文同好会(後の東亜天文学会)に入り京都大学の山本一清に師事し、同会の流星課長として月刊誌『天界』に流星観測報告や論文を発表。1925年、和歌山県有田郡(現・有田川町)に転居(小槙姓となる)。以後、教職に就きながら流星観測を続け1943年に「紀伊天文同好会」を設立。後にこれが「日本流星研究会」に発展し、全国三百数十カ所にわたる流星観測のネットワークを組織。日本全国のアマチュア天文家と交流し青少年の宇宙への夢を育んだ。
武藤 清(むとう きよし、1903年1月29日 - 1989… 武藤 清(むとう きよし、1903年1月29日 - 1989年3月12日)は、日本の建築家・建築構造学者・構造家。千葉工業大学工学部建築学科の創設者。元鹿島建設副社長。兄は医学者の武藤完雄。日本建築学会会長、国際地震工学会初代会長、日本コンクリート会議初代会長などを歴任し、また自身で武藤構造力学研究所を開く。 茨城県北相馬郡井野村大字青柳(現在の取手市青柳)出身。龍ヶ崎中学校(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)から第二高等学校を経て東京帝国大学工学部建築学科に進学。1925年(大正14年)卒業後、母校に残り佐野利器の元で建築構造の研究に打ち込む。 関東大震災の直後から構造振動解析の研究に着手し、耐震構造学の研究を進めた。
大野 俊一(おおの しゅんいち、1903年1月29日 - 1… 大野 俊一(おおの しゅんいち、1903年1月29日 - 1980年3月26日)は、ドイツ文学者、比較文学者。 1903年、東京・浅草に生まれた。第一高等学校を経て、東京帝国大学独文科に入学。1927年に卒業。1931年に渡欧し、パリとベルリンで独仏語ならびに文学を学び、1935年帰国。 帰国後は様々な翻訳を行った。1936年に外務省嘱託となり、1937年に応召。1941年からは情報局嘱託として勤務。1943年に再び応召、1945年に帰国した。 戦後は翻訳に従事するとともに、非常勤講師や研究に従事。1957年、慶應義塾大学文学部教授に就任。1963年、『ゲーテとフランス』を慶応大学に提出して文学博士号を取得。
北岡 正見(きたおか まさみ、1903年1月29日 - 19… 北岡 正見(きたおか まさみ、1903年1月29日 - 1979年1月13日)は、日本の医学者、病理学者、ウイルス学者。 富山出身。旧制第四高等学校を経て、1927年(昭和2年)東京帝国大学医学部卒業。同大第三内科入局。同大伝染病研究所入所。1941年(昭和16年)同大助教授。1947年(昭和22年)国立予防衛生研究所リケッチア・ウイルス部、1952年(昭和27年)部長。1970年(昭和45年)予研副所長、1973年(昭和48年)退官。 1934年2月東京帝国大学医学博士。論文の題は「病原性並に非病原性スピロヘータに関する研究」。 妻・安慰子は高田商会社長・高田釜吉の長女。孫は女優の髙田万由子、孫婿(高田の夫)はヴァイオリニストの葉加瀬太郎。
齋藤 昇(さいとう のぼる、1903年〈明治36年〉1月28… 齋藤 昇(さいとう のぼる、1903年〈明治36年〉1月28日 - 1972年〈昭和47年〉9月8日)は、日本の内務官僚、政治家。位階は正三位。 運輸大臣、厚生大臣、警察庁長官を務めた。参議院議長を務めた斎藤十朗は子息。 三重県阿山郡東柘植村(現在・伊賀市)出身。父・角蔵、母・のぶへの長男として生まれる。 上野中学、八高を経て、東京帝国大学入学。 1925年(大正14年)に東京帝大農学部農学科を卒業し、1926年(大正15年)高等試験に合格した。1927年(昭和2年)、内務省に入省した。1928年(昭和3年)に東京帝大法学部政治学科を卒業する。地方局属、地方局行政課長、大臣官房文書課長、防空総本部総務局長等を歴任した。
西堀 栄三郎(にしぼり えいざぶろう、1903年(明治36年… 西堀 栄三郎(にしぼり えいざぶろう、1903年(明治36年)1月28日 - 1989年(平成元年)4月13日)は、日本の登山家、無機化学者、技術者。従四位。 京都府出身。京都一中、三高を経て、京都帝国大学理学部化学科卒業。京大講師、助教授を歴任した後、東京電気(東芝)に移る。 1936年、京都大学より理学博士。論文の題は「分子線による化學的研究」。 東芝技術本部長時代には海軍の要請を受けて真空管「ソラ」を開発し、技術院賞を受賞した。材料不足の状態でも大量生産できるように、微細な部分に至るまで製造マニュアルを完備し、"新橋の芸者を集めてでも製造可能"とされた。 戦後は独立の技術コンサルタントとして統計的品質管理手法を日本の産業界に持ち込み、デミング賞や電電公社総裁賞を受賞。
堀江 薫雄(ほりえ しげお、1903年(明治36年)1月28… 堀江 薫雄(ほりえ しげお、1903年(明治36年)1月28日 - 2000年(平成12年)8月27日)は、日本の銀行家、経済学博士。東京銀行頭取を務めた。 徳島県麻植郡鴨島町に生まれる。旧制徳島中学校、 第五高等学校を経て1928年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。 大学卒業後、横浜正金銀行に入行、海外各支店に勤務した。終戦後、GHQの命令により、横浜正金銀行改組室長に任命されて整理にあたり、東京銀行を創立した。1946年、取締役となり、常務取締役、副頭取、頭取、会長を歴任し、1967年に退任した。 1952年にサンフランシスコで行われた対日講和条約の調印では吉田茂首相の経済演説の原稿を書くとともに、その講義を一週間続けて行った。
吉村 廉(よしむら れん、1903年1月28日 - 1988… 吉村 廉(よしむら れん、1903年1月28日 - 1988年1月21日)は、佐賀県東松浦郡浜玉町出身の日本の映画監督。 佐賀県立唐津中学校(旧制)、東京写真専門学校卒業。1925年、助監督として日活京都大将軍撮影所へ入所。その後、太秦撮影所では内田吐夢監督の助監督を務め、1931年に『作業服』で監督デビューを果たした。 歌謡曲を題材とした、歌謡映画を多く監督したが、1965年(『 大日本チャンバラ伝 』を監督した後)監督業から引退した。
井村 重雄(いむら しげお、1903年(明治36年)1月28… 井村 重雄(いむら しげお、1903年(明治36年)1月28日 - 1972年(昭和47年)3月22日)は、日本の医師、政治家。金沢市長(2期)。衆議院議員(3期)。
伊藤 清(いとう きよし、1903年(明治36年)1月28日… 伊藤 清(いとう きよし、1903年(明治36年)1月28日 - 1980年(昭和55年)2月16日)は、日本の内務官僚、国会職員。官選島根県知事。位階は従三位。 東京府出身。伊藤徳次郎の三男として生まれる。第一高等学校を卒業。1925年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し兵庫県属となる。 以後、和歌山県課長、大阪府課長、京都府課長、東京府課長、厚生省児童課長、和歌山県総務部長などを経て、兵庫県部長・内政部長となる。 1945年9月、島根県知事に就任。戦後の復興に尽力。1946年1月、東京都次長に転じた。後に公職追放となる。 その後、特別調達庁契約局長、参議院事務局内閣委員会調査室長、東京家庭裁判所参与を務めた。
隈元 謙次郎(くまもと けんじろう、1903年1月28日 -… 隈元 謙次郎(くまもと けんじろう、1903年1月28日 - 1978年1月25日)は、美術史家。近代日本美術の研究に貢献。 鹿児島県鹿児島郡中郡宇村大字中(現在の鹿児島市鴨池)出身。1924年旧制第七高等学校理科卒業。1928年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業、1931年大学院西洋美術史専攻中退。1932年帝国美術院附属(1947年から国立博物館附属)美術研究所入所。1951年美術研究所第二研究部長となり、1952年の改組によって東京文化財研究所(1954年東京国立文化財研究所と改称)美術部第二研究室室長、1966年退職。1966年から1974年まで東京家政大学教授。その他、文化財保護審議会専門委員、東京国立近代美術館評議員も務めた。
内山 誠一(うちやま せいいち、1903年1月27日 - 1… 内山 誠一(うちやま せいいち、1903年1月27日 - 1973年9月22日)は、日本の経営者。北越製紙社長を務めた。 新潟県出身。1927年に東北帝国大学応用化学科を卒業し、同年に北越パルプ工業(のちの北越製紙)に入社。 1950年2取締役、常務、専務、副社長を経て、1968年6月に社長に就任し、1972年12月までに務めた。 1973年9月22日、心臓麻痺のために死去。70歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
深谷 博治(ふかや ひろはる、1903年1月27日 - 19… 深谷 博治(ふかや ひろはる、1903年1月27日 - 1975年12月15日)は、日本の歴史学者。早稲田大学教授。福島県出身。 1928年に早稲田大学文学部史学科を卒業。宮内省臨時帝室編修局に勤務。1933年に同局廃止の後は、公刊明治天皇御紀編修委員会書記を1938年までつとめる一方で尾佐竹猛に誘われ明治文化研究会に参加。その後、同様に尾佐竹の推薦で貴族院嘱託となって『貴族院五十年史』編纂に関与。1941年から43年まで早稲田大学文学部講師を兼任し、続いて同大学大隈研究室で大隈文書整理にあたる。1949年に早稲田大学第一・第二文学部専任講師、1952年助教授、1955年教授、1973年定年退職。
板野 勝次(いたの かつじ、旧姓:森本、1903年1月26日… 板野 勝次(いたの かつじ、旧姓:森本、1903年1月26日 - 1985年12月30日)は、日本の政治家、労働運動家。参議院議員(日本共産党公認、1期)、清涼飲料協同組合理事長。 岡山県岡山市紺屋町で古物商を営む森本岩助、寿子夫妻の次男として生まれる。3歳の時に広島に住む寿子の兄・板野安次郎の養子に出され板野姓を名乗る。岡山県立商業学校(現・岡山県立岡山東商業高等学校)在学中から社会主義に目覚め、商業学校卒業後の1920年12月、堺利彦や山川均、大杉栄らが率いる日本社会主義同盟に加入する。 同盟は程なくして解散に追い込まれるが、在籍中は山川からマルクスの『共産党宣言』についての講義を聞き、労働組合の必要性を悟った板野は、1922年12月に県下初の本格的な労働組合・岡山労働組合を発足させる。
三上 章(みかみ あきら、1903年〈明治36年〉1月26日… 三上 章(みかみ あきら、1903年〈明治36年〉1月26日 - 1971年〈昭和46年〉9月16日)は、日本の言語学者。数学教師。筆名に、加茂 一政(かも いっせい)。従来の主語概念を否定して、「何々は」と「何々が」との機能差を明確にした「主語廃止論(主語否定論)」などで知られる。数学史家の三上義夫は大叔父にあたる。 広島県高田郡甲立村大字上甲立(現・安芸高田市)出身。1960年に『構文の研究』で文学博士(東洋大学、1960年)。『象は鼻が長い』などの日本語研究で知られている。三上自身が創立期に参加していた奥田靖雄・鈴木重幸らの言語学研究会での評価のほか、世界的な評価もあり1970年にはハーバード大学に招かれて講義を行ったことがある。
金子 文子(かねこ ふみこ、1903年1月25日 - 192… 金子 文子(かねこ ふみこ、1903年1月25日 - 1926年7月23日)は、大正期日本のアナキスト、ニヒリスト。 関東大震災の2日後に、治安警察法に基づく予防検束の名目で、愛人(内縁の夫)である朝鮮人朴烈と共に検挙され、予審中に朴が大正天皇と皇太子の殺害を計画していたとほのめかし、文子も天皇制否定を論じたために、大逆罪で起訴され、有罪となった(朴烈事件)。後に天皇の慈悲として無期懲役に減刑されたが、宇都宮刑務所栃木支所に送られてそこで獄死した。 現代の韓国においては「良心的日本人」とされており、2018年11月17日、国家報勲処より日本人としては2人目になる大韓民国建国勲章(愛国章)が追叙され、2022年、布施辰治とともに2023年5月の今月の独立運動家に選定された。
外山 卯三郎(とやま うさぶろう、1903年〈明治36年〉1… 外山 卯三郎(とやま うさぶろう、1903年〈明治36年〉1月25日 - 1980年〈昭和55年〉3月21日)は、日本の美術評論家、教育者。 1903年(明治36年)1月25日、和歌山県に生れる。1928年(昭和3年)に京都帝国大学文学部美術史学科を卒業した。同年、同人誌『詩と詩論』の発行に参画する。 1939年(昭和14年)、ナチスによって閉鎖されたバウハウスの流れを汲む画塾「美術工芸学院」を、東京高円寺に開く。画塾には三木清や西園寺公一、現代アートの前衛画家たちが訪ねてきたが、学生は富山妙子ら10人ほどしか集まらず、経営難に陥った。 1946年(昭和21年)、造形美術協会を創立して理事長に就任する。
常陽山 正治(じょうようざん まさじ、1903年1月25日 … 常陽山 正治(じょうようざん まさじ、1903年1月25日 - 1972年1月25日)は、新潟県中頸城郡(現妙高市)出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は楡井 正次。引退後は9代稲川を襲名し、後進の指導につとめた。身長174cm、体重88kg。最高位は東十両筆頭。 1919年1月初土俵、1932年2月十両昇進。東筆頭まで躍進するが入幕はならず、1938年5月に引退し9代稲川を襲名した。平年寄で役職には就けず、1968年1月定年退職。1972年心臓衰弱で死去。なお、生没同日である。
藤野 重夫(ふじの しげお、1903年(明治36年)1月24… 藤野 重夫(ふじの しげお、1903年(明治36年)1月24日 - 1983年(昭和58年)7月31日)は、日本の銀行家。北海道銀行頭取、北海道テレビ放送会長。 兵庫県出身。1927年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に朝鮮銀行に入行。 1951年3月に北海道銀行常務に就任し、1961年11月に専務を経て、1965年5月に頭取に就任し、1967年11月には監査役に就任。 1967年12月には北海道テレビ放送会長に就任。 1983年7月31日間質性肺炎のため死去。80歳没。
甲斐 巳八郎(かい みはちろう 1903年1月24日 - 1… 甲斐 巳八郎(かい みはちろう 1903年1月24日 - 1979年6月16日)は、日本の画家。水墨画を中心とした日本画の創作を行った。 1903年(明治36年)1月24日、熊本県熊本市に生まれる。京都市立絵画専門学校本科に入学して福田平八郎に師事。1927年に卒業すると中国大陸へ渡り、南満州鉄道社員会報道部に勤務しながら日本画を中心とした作品制作などに携わった。また『北京画集』『満州郷土人形』などを著した。第二次世界大戦終結後の1947年、日本へ引揚げて福岡県に定住する。1948年には日本美術院展に「筑紫路」を出展、初入選したことを足掛かりに、以降、多くの作品を発表。水墨画を現代化した独自の作風を生み出した。
日置 陸奥夫(ひおき/へき むつお、1903年(明治36年)… 日置 陸奥夫(ひおき/へき むつお、1903年(明治36年)1月23日 - 1957年(昭和32年)5月26日)は、日本の医学者。金沢医科大学(現在の金沢大学医学部)教授や同大学附属病院長を務めたほか、日本結核病学会を歴任した。 郷土史家の日置謙の息子として石川県に生まれる。1926年(大正15年)に東京帝国大学医学部卒業後、金沢医科大学にて教鞭を執る。後に同僚であった大里俊吾の指導により、脂質代謝を研究した。 1932年(昭和7年)には同内科助教授となり、1936年(昭和11年)からドイツに留学し、ミュンヘン化学研究所や、カイザー・ウィルヘルム研究所などで研究する。1938年(昭和13年)に帰国し、1942年(昭和17年)に金沢医科大学結核研究所員となり、1944年(昭和19年)には第2内科主任教授となる。
中村 信敏(なかむら のぶとし、1903年(明治36年)1月… 中村 信敏(なかむら のぶとし、1903年(明治36年)1月23日 - 1978年(昭和53年)11月17日)は、日本の法律家。元東京高検刑事部長、退官後、弁護士としてロッキード事件、日通事件等に携わる。妻・榮子は陸軍少将篠原四郎の長女。 1903年(明治36年)、北海道小樽市にて生まれる。1928年(昭和3年)に法政大学法学部を卒業し、司法試験に合格後、検察官に任官し、1931年(昭和6年)9月東京地方裁判所検事に任官される。検察官として中野正剛の逮捕事件、炭鉱国管疑獄事件などに携わる。東京高等検察庁刑事部長などを務め、1951年(昭和26年)退官後、弁護士として、ロッキード事件で児玉誉士夫、日通事件で福島敏行の弁護人を務める。
宮畑 虎彦(みやはた とらひこ、1903年1月23日 - 1… 宮畑 虎彦(みやはた とらひこ、1903年1月23日 - 1988年5月16日)は、日本の男子競泳選手。高知県四万十市下田出身。 1924年パリオリンピックに出場し、男子4×200mフリーリレーにおいては小野田一雄、野田一雄、高石勝男とともに4位になっている。100m自由形にも出場しているが、1次予選で3位に入り敗退している。1928年アムステルダムオリンピックには役員として選手団に同行した。 この項目は、水泳選手(飛込競技選手・アーティスティックスイミング選手・水球選手を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:スポーツ/PJスポーツ人物伝)。
山口 正城(やまぐち まさき、1903年1月22日 - 19… 山口 正城(やまぐち まさき、1903年1月22日 - 1959年12月5日)とは、日本の画家、グラフィックデザイナー、デザイン・図案に関する教育者。 千葉大学工学部工業意匠学科教授を務めた。フォトグラムを含め、抽象的な作品が多い。
大島 多蔵(多藏、おおしま たぞう、1903年〈明治36年〉… 大島 多蔵(多藏、おおしま たぞう、1903年〈明治36年〉1月22日 - 1978年〈昭和53年〉5月20日)は、昭和期の教育者、政治家。衆議院議員(2期)。 佐賀県杵島郡、のちの江北村(現江北町)で、大島喜一の二男として生まれる。1929年(昭和4年)九州帝国大学法文学部法律科を卒業した。 佐賀県立鹿島中学校教諭、宮崎県立都城中学校教諭、熊本県中學済々黌教諭、佐賀県立佐賀商船学校教諭、同武雄中学校教諭、同唐津中学校教諭、長崎県立諫早中学校教諭、同対馬中学校教諭などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で佐賀県全県区に無所属で出馬して当選し、1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で佐賀県全県区に国民協同党公認で出馬して再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
三浦 弥太郎(みうら やたろう、1903年1月21日 - 1… 三浦 弥太郎(みうら やたろう、1903年1月21日 - 1978年1月31日)は、日本の経営者。山形銀行頭取を務めた。山形県出身。 1925年に福島高等商業学校を卒業。 1932年9月に三浦銀行監査役に就任し、1948年10月に両羽銀行(のちの山形銀行)専務を経て、1957年10月から1972年4月までに頭取を務めた。 1968年10月に藍綬褒章を受章。 1978年1月31日心筋梗塞のために死去。75歳没。
清澤 又四郎(きよさわ またしろう、1903年1月20日 -… 清澤 又四郎(きよさわ またしろう、1903年1月20日 - 2001年7月4日)は、日本の眼科医。日本医師会副会長、福岡県医師会会長。
中川 俊思(ながかわ しゅんじ、1903年(明治36年)1月… 中川 俊思(ながかわ しゅんじ、1903年(明治36年)1月20日 - 1973年(昭和48年)11月30日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(8期)を務めた。娘婿は衆議院議員を務めた中川秀直、孫は衆議院議員を務めた中川俊直。 広島県賀茂郡荘野村(現竹原市)出身。堀川市助の三男に生まれ、禎助の養子となる。 1923年(大正12年)中央大学法学部中退。中国新聞や國民新聞の記者を経て1949年の第24回衆議院議員総選挙に吉田茂率いる民主自由党公認で広島2区から立候補し初当選、通算8回当選(当選同期に池田勇人・佐藤栄作・岡崎勝男・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一など)。
上枝 一雄(うええだ かずお、1903年(明治36年)1月2… 上枝 一雄(うええだ かずお、1903年(明治36年)1月20日 - 1987年(昭和62年)5月5日)は、日本の実業家。三和銀行元頭取。 香川県高松市出身。1934年に東京帝国大学法学部を卒業し、三和銀行の前身である三十四銀行に入行。取締役、常務、専務を経て、1957年11月から副頭取を務め、1960年5月から頭取に就任し、1971年9月までに務めた。 その一方で、1966年から1977年までに関西経済連合会副会長を務め、南海電気鉄道、江崎グリコ、関西電力の各取締役、毎日新聞社相談役、関西テレビ放送監査役などを歴任した。1973年に勲二等旭日重光章を受章した。 1987年5月5日脳卒中により兵庫県芦屋市内の自宅で死去。
永井 大三(ながい だいぞう、1903年(明治36年)1月2… 永井 大三(ながい だいぞう、1903年(明治36年)1月20日 - 1988年(昭和63年)1月20日)は、日本の実業家。社長不在時の朝日新聞社で常務取締役業務局長としてトロイカ体制を敷いたが村山事件で解任された。 広島県出身。1927年旧制東京商科大学(現一橋大学)を卒業し、朝日新聞社に入社。 販売部門を歩み売上を伸ばし、1947年に販売及び広告を統括する業務局長に就任。業務局長のまま、1951年から取締役、1956年から常務を兼任し、社長不在の中で、信夫韓一郎専務、笠信太郎論説主幹とトロイカ体制を敷いた。 この間、1952年から東京放送取締役を兼務。1961年に復帰した村山長挙社長と対立し、1963年の村山事件で退任して朝日新聞社社友となる。
金井 幸佐久(かない こうさく、1903年1月19日 - 没… 金井 幸佐久(かない こうさく、1903年1月19日 - 没年不明)は、日本の郷土史家。群馬県吾妻郡中之条町出身。民俗学・教育史・宗教史に造詣が深く、多くの著書があり、100歳を超えてなお執筆活動に取り組んでいることでも話題を呼んだ。 1936年 群馬県師範学校専攻科を卒業。坂上村坂上小学校に就職し同校教頭をへて、群馬県立吾妻高等学校教頭を勤める。中之条町誌編集委員、群馬県文書館調査委員、群馬県地域文化研究協議会評議員などを歴任した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
大串 兎代夫(おおぐし とよお、1903年(明治36年)1月… 大串 兎代夫(おおぐし とよお、1903年(明治36年)1月19日 - 1967年(昭和42年)1月3日)は、日本の法学者、国家学者。東洋大学教授、國學院大學教授、名城大学教授、名城大学法商学部長、名城大学総長。従四位勲三等瑞宝章。 国民精神文化研究所では哲学者の小島威彦、教育学者の伏見猛弥と共に三羽烏と呼ばれる。 1903年、判事大村大代の三男として、大阪市に生まれる。1907年、長崎県西彼杵郡面高村の大串一郎の養子となる。1923年、第五高等学校卒業。1926年、東京帝国大学法学部英法科を卒業、同大学大学院に進学して上杉慎吉に師事する。1927年、高等試験司法科合格。1928年、大学院を修了すると、ドイツに留学。
朴 在洪(パク・チェホン、朝鮮語: 박재홍、1903年1月1… 朴 在洪(パク・チェホン、朝鮮語: 박재홍、1903年1月18日または1906年1月18日 - 1979年6月28日または6月29日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のアナキスト、独立有功者、実業家、政治家。第3代韓国国会議員。浄土宗の仏教徒。 慶尚南道金海郡(現・金海市)出身。大成中学校、長崎商高、山口高商を卒業後、早稲田大学政経科2年修了。日本社会党幹部を務めたが、朴烈らと無政府運動を行ったため、大阪刑務所で3年8か月間留置された。その他は日活キネマ脚本部勤務、釜山朝紡会社人事課勤務を経て、大邱府で映画館大鏡館を経営し、大分県別府市で日鮮貿易商会を経営した。その後は満洲へ渡り、満州事変の時は長春市居留民僑胞団副委員長を務めたが、1932年に満洲派遣関東軍に従軍して1等通訳官として奉天、熱河、吉林、黒龍江各省を転戦した。
綿谷 雪(わたたに きよし、1903年〈明治36年〉1月17… 綿谷 雪(わたたに きよし、1903年〈明治36年〉1月17日 - 1983年〈昭和58年〉5月18日)は、日本の作家、時代考証家、日本武術(古武道)史研究家。 和歌山県和歌山市出身。牧師だった父に「キヨシ」と名付けられるも、生後間もなく死別。母の再婚に伴い、綿谷家に入る。旧制神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)を経て、1930年に早稲田大学政治経済学部卒。在学中、教授の山口剛から推薦を受け真山青果に師事し、創作、歴史考証を学ぶ。 戸伏 太兵(とぶし たへい)の筆名で小説や戯曲も書き、『戯曲集 天ノ川辻』所収の「天ノ川辻」「十津川秋雨の譜」「遊撃四番隊」の3作が第11回直木賞の候補になっている。
山本 祐二(やまもと ゆうじ、1903年(明治36年)1月1… 山本 祐二(やまもと ゆうじ、1903年(明治36年)1月17日 - 1945年(昭和20年)4月7日)は、日本の海軍軍人(海兵51期卒)。戦艦「大和」を旗艦とする第二艦隊の沖縄海上特攻作戦(坊ノ岬沖海戦)で戦死。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少将。
本川弘一(もとかわ こういち、1903年1月17日 - 19… 本川弘一(もとかわ こういち、1903年1月17日 - 1971年2月3日)は、日本の生理学者。東北大学教授・学長。石川県出身。加賀市名誉市民。 1903年、石川県江沼郡桑原村(現在の加賀市桑原)で、本川弘の4番目の子として生まれる。五人姉弟中、唯一の男子であり、農家の後を継ぐのが当然のものとして育てられた。小学校を卒業する時、「この子は成績が抜群だから是非中学に進学させるように」と担任が自宅まで親を説得に来た。弘一も是非進学したいと懇願したが、「農家の跡継ぎだから家を継がせる。代々肝煎の家を絶やしたのでは御先祖様に申し訳がない」という父親の強い意向により、卒業後は家業の農業に従事した。 しかし勉学への思いは断ち難く、17歳で家出する。
秋笹 政之輔(あきささ まさのすけ、1903年1月16日 -… 秋笹 政之輔(あきささ まさのすけ、1903年1月16日 - 1943年7月15日)は、日本の戦前の政治運動家。日本共産党中央委員、「赤旗」編集長。 埼玉県北足立郡田間宮村(現鴻巣市)出身。本名は正之輔。埼玉県立熊谷中学校を経て早稲田大学附属第二高等学院に進む。同学院在学中に関東学生連合会に加盟、組織部長・常任委員。1926年3月、京都学連事件に連座、軍事教練反対などの運動を指導、退学処分になる。 1927年1月、産業労働調査所に入り機関誌『インターナショナル』の編集発行人。1927年10月、労働農民党に入党、本部書記。1928年7月、日本共産党に入党。1929年4月、四・一六事件で逮捕、懲役5年の判決を受けたが病気を理由に1931年2月に保釈出所。
藤本 武助(ふじもと ぶすけ、1903年1月16日 - 19… 藤本 武助(ふじもと ぶすけ、1903年1月16日 - 1985年)は、日本の空気力学者、流体力学者、教育者。 1903年(明治36年)大阪府に生まれる。1927年(昭和2年)、京都帝国大学工学部機械学科を卒業。京都帝国大学工学部講師、助教授を経て1935年(昭和10年)から欧米に留学。帰国した1939年(昭和14年)に京都帝国大学の教授となった。 1953年(昭和28年)、京都大学工学所所長に就任。1960年(昭和35年)から1962年(昭和37年)にかけて京都大学工学研究所(現京都大学エネルギー理工学研究所)研究用原子炉建設本部の本部長に就任。原子炉の設置承認に立ち会った。1963年(昭和38年)から1965年(昭和40年)、京都大学大学院工学研究科・工学部部長を務め、1966年(昭和41年)からは京都工芸繊維大学工業短期大学部学長を務めた。