伏見 猛彌(伏見 猛弥、ふしみ たけや、1904年〈明治37… 伏見 猛彌(伏見 猛弥、ふしみ たけや、1904年〈明治37年〉1月2日 - 1972年〈昭和47年〉3月15日)は、日本の教育学者。戦後日本の英才教育の先駆者として知られる。福島県出身。国民精神文化研究所では哲学者の小島威彦、国家学者の大串兎代夫と共に三羽烏と呼ばれた。 1928年、東京帝国大学文学部教育学科卒業。東京帝国大学大学院修了。 東京帝国大学助手兼日本大学講師。1936年、文部省国民精神文化研究所所員。1943年、教学錬成所錬成官。戦後公職追放。1951年、学校図書株式会社顧問。1952年、追放解除、玉川大学教授。1963年教授。玉川大学教育学科長。1965年、英才教育研究所設立、同所長。
池島 重信(いけじま しげのぶ、1904年(明治37年)1月… 池島 重信(いけじま しげのぶ、1904年(明治37年)1月2日 - 1991年(平成3年)8月18日)は、日本の哲学者、文芸評論家。専門はドイツ哲学。法政大学名誉教授。 1904年(明治37年)1月2日に茨城県水戸市に生まれる。1929年(昭和4年)に法政大学法文学部哲学科を卒業する。 法政大学助手を経て講師になるが、1935年(昭和10年)の法政騒動で野上豊一郎たちと共に辞職、日本放送協会教養部に勤務し、教養部副部長に就任する。 戦後、1946年(昭和21年)に法政大学に復職し、文学部助教授に就任、教授・文学部長などを歴任する。 1991年(平成3年)8月18日に死去、87歳。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
石井 繁丸(いしい しげまる、1904年〈明治37年〉1月1… 石井 繁丸(いしい しげまる、1904年〈明治37年〉1月1日 - 1983年〈昭和58年〉10月8日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(3期)、前橋市長(5期)。前橋市立工業短期大学学長。大日本帝国陸軍軍人(陸軍曹長)[要出典]。 群馬県勢多郡木瀬村大字野中(現・前橋市野中町)出身。永明尋常高等小学校を経て、1922年(大正11年)県立前橋中学校卒業。警視庁麻布警察署書記として勤務の後、日本大学に学ぶ。1926年(大正15年)司法試験合格。1927年(昭和2年)に日本大学法科を卒業し、同年法律評論社の編集記者として勤める。1928年(昭和3年)弁護士となる。須永好による強戸村農民運動に協力した。
仁井田 陞 (にいだ のぼる、1904年〈明治37年〉1月… 仁井田 陞 (にいだ のぼる、1904年〈明治37年〉1月1日 - 1966年〈昭和41年〉6月22日)は、日本の法制史学者。東京大学名誉教授。中田薫門下。中国法制史の開拓者として知られる。正三位勲二等瑞宝章。宮城県仙台市生まれ。 旧制松本高等学校文科甲類を経て、1928年に東京帝国大学法学部を卒業。東方文化学院東京研究所研究員に着任。第二次世界大戦中は華北農村、北京商工ギルドの調査に従事。戦後その研究成果として、法社会学的な観点も取り入れた『中国の社会とギルド』『中国の農村家族』を著した。本業の中国法制史の分野でも、『中国法制史』『中国法制史研究』(朝日賞受賞)などの大著を世に送り、学会をリードした。
富田 常雄(とみた つねお、1904年(明治37年)1月1日… 富田 常雄(とみた つねお、1904年(明治37年)1月1日 - 1967年(昭和42年)10月16日)は、日本の小説家。柔道五段。東京府生まれ。明治大学商学部卒。初め心座文芸部に入って新劇運動に参加したのち、『姿三四郎』が大変な人気を呼んで流行作家となる。戦後『面』『刺青』で直木賞受賞。映画化、ドラマ化された作品も多く、大衆文学の大家として人気を博した。 柔道家富田常次郎の子として東京府に生まれる。永田町小学校(現千代田区立麹町小学校)、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)卒業、明治大学商学部。在学中、詩誌『感情革命』を創刊する。1928年、河原崎長十郎らの心座文芸部に参加する。他のメンバーに舟橋聖一、村山知義らがいた。
桜田 一郎(さくらだ いちろう、戸籍上は「櫻田」。1904年… 桜田 一郎(さくらだ いちろう、戸籍上は「櫻田」。1904年(明治37年)1月1日 - 1986年(昭和61年)6月23日)は、日本の化学者。京都大学名誉教授。日本学士院会員。紫綬褒章・文化勲章受章。 1939年(昭和14年)に日本初の合成繊維であるポリビニルアルコール系合成繊維(ビニロン)を李升基、川上博(大日本紡績)らと共同開発した。このほか、桜田の粘度式をはじめとして高分子に関する様々な研究を展開し、日本の高分子化学の基礎を築いた。高分子という日本語を定着させたのも彼である。 エスペランティストでもあった。 京都府生まれ。京都一中を卒業。三高時代にエスペラントを学ぶ。三高を卒業。 1924年ルドヴィコ・ザメンホフの演説集をエスペラントから日本語訳して、カニヤ書店から『夜の空の星の如くに』として出版した。
森谷 克己(もりたに かつみ、1904年(明治37年)1月1… 森谷 克己(もりたに かつみ、1904年(明治37年)1月1日 - 1964年(昭和39年)11月17日)は、日本の経済学者。専門は経済史。 1904年、岡山県上房郡上水田村(現:真庭市北房地域)生まれ。岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、関西電力取締役になる板野道夫がいた。1921年3月に同校を卒業、板野と同じく同年4月第六高等学校文科乙類に進学。1924年3月六高卒業、同年4月東京帝国大学法学部に入学。1927年3月東大法学部卒業した。 1927年6月、京城帝国大学法文学部助手に任ぜられる。1929年京城帝大助教授に就任。1945年11月敗戦により引き上げ。1946年5月名目のみ教授となるが自然退官。
進藤 一馬(しんとう かずま、1904年(明治37年)1月1… 進藤 一馬(しんとう かずま、1904年(明治37年)1月1日 - 1992年(平成4年)11月28日)は、日本の政治家、実業家。 早稲田大学政治経済学部卒業後、中野正剛秘書、西日本新聞社の前身の九州日報社取締役を経て、玄洋社社長となる。戦後に自由民主党に加わり、衆議院議員を経て、福岡市市長を4期務めた。 福岡市西職人町(現中央区舞鶴)出身。旧福岡藩士・進藤喜平太(玄洋社の創立者の一人)の四男。 旧制福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)、早稲田大学政治経済学部卒業。1929年(昭和4年)、中野正剛の秘書となり、1933年(昭和8年)に中野が結成した東方会に入会し総務部長となる。その後、九州日報社(現・西日本新聞社)取締役を経て、1944年(昭和19年)10月、第10代玄洋社社長に就任し、1946年(昭和21年)にGHQにより解散させられるまで社長を務めた。
増本 甲吉(ますもと こうきち、1904年(明治37年)1月… 増本 甲吉(ますもと こうきち、1904年(明治37年)1月1日 - 1991年(平成3年)3月14日)は、日本の拓務・内務官僚、国会職員。最後の官選岐阜県知事。 現在の大阪府羽曳野市出身。増本有吉の五男として生まれる。第三高等学校を卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、日本電力株式会社に入社。1929年、拓務省に入省し、拓殖局属となる。 以後、台湾総督府事務官、拓務書記官、樺太庁内務部長、石川県内務部長などを歴任。 1947年3月、前任の桃井直美が知事選に出馬のため辞任したことに伴い岐阜県知事に就任。県議会議員選挙、知事選挙などを執行して同年4月に知事を退任。
土州山 好一郎(としゅうざん こういちろう、1904年1月1… 土州山 好一郎(としゅうざん こういちろう、1904年1月1日 - 1977年5月4日)は、高知県香美郡赤岡町(現香南市)出身で二子山部屋に所属した大相撲力士。本名は武内 好春。最高位は東前頭4枚目(1934年5月場所)。 現役時代の体格は179cm、112kg。得意手は上突っ張り、出し投げ。 同郷の土州山役太郎の経営していた二子山部屋に入門、1922年5月場所に初土俵を踏む。三段目から幕下で苦労していたが、土佐ノ海から師名の土州山に四股名を改めた直後の1932年1月に起きた春秋園事件で大量の脱退者が出たので、繰り上がって同年2月の改正番付で新十両を果たした。その機会を生かして1933年1月場所に入幕、以後6年にわたって幕内中堅力士として活躍した。
長島 又男(ながしま またお、1904年1月 - 没年不明)… 長島 又男(ながしま またお、1904年1月 - 没年不明)は、日本のジャーナリスト。機関紙連合通信社設立者、日本機関紙通信社元理事長 埼玉県北足立郡小谷村(現・鴻巣市)に生まれる。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、早稲田大学政治経済学部に進学した。しかし、大山郁夫に絡んで、在学中の1927年に大学を中退する。 1929年、新聞連合に加入する。1936年、同盟通信社に入社し、南方部長を務める。 1945年の日本の敗戦後、同盟通信社はGHQの指令により解散となる。長島は、解体に伴って設立された共同通信社に移り、解説委員長となる。同年、民報社を設立して取締役となり、東京都で第二次世界大戦後最初に創刊された夕刊紙である『民報』を創刊して主筆を務めた。
金巻 賢字(かなまき けんじ、1904年(明治37年) - … 金巻 賢字(かなまき けんじ、1904年(明治37年) - 1984年(昭和59年))は、日本の経済学者・経営学者・教育者。専門は社会思想史・簿記論。元・札幌商業高等学校校長。北海道生まれ。 この他、1949年(昭和24年)北海学院兼任教授や、1949年(昭和24年)~1956年(昭和31年)まで学校法人北海学園理事。また、1948年(昭和23年)~1984年(昭和59年)まで学校法人北海学園評議員。
三友 國五郎(みとも くにごろう、1904年 <明治37年>… 三友 國五郎(みとも くにごろう、1904年 <明治37年> - 1983年 <昭和58年> 3月1日)は、日本の地理学者、考古学者。吉野ヶ里遺跡の発見者。位階は正四位。 埼玉県大里郡久下村(現・熊谷市)に生まれる。 旧制埼玉県立熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校)、旧制浦和高等学校(現・埼玉大学)を経て、1931年に京都帝国大学文学部史学科を卒業した。 卒業後は旧制福岡県立東筑中学校(現・福岡県立東筑高等学校)の教諭となる。当地では北九州郷土史研究会に参加した。1934年に吉野ヶ里遺跡を学会に報告し、七田忠七とともに発見者となった。 1938年に日本統治下の朝鮮にあった旧制平壌第三中学校に転任、1940年に旧制平壌第一中学校に移る。
佐野 喜智平(さの きちへい、1904年(明治37年) - … 佐野 喜智平(さの きちへい、1904年(明治37年) - 1979年(昭和54年))は、日本の実業家。粕壁宿で慶長年間創業15代400年の老舗伊勢屋当主。 佐野喜智平は1904年(明治37年)、埼玉縣南埼玉郡粕壁町に生まれる。旧制縣立粕壁中學校を1922年(大正11年)に卒業後、老舗伊勢屋に勤務。1934年(昭和9年)に伊勢屋代表取締役社長を継承した。 戦後の高度成長時代には、スーパーマーケット・プラスを立ち上げた。1968年(昭和43年)に伊勢屋代表取締役会長に就任した。 氏は、1970年代に将来移転予定の春日部薬草園の跡地に、文化施設を提案。および、粕壁三枚橋の薬草園の隣接地に商業施設を誘致した。
岡田 家武(おかだ いえたけ、1904年 - 1970年)は… 岡田 家武(おかだ いえたけ、1904年 - 1970年)は、中国語名を馬謝民、後には馬植夫といい、華西大学(四川大学の前身の一つ)教授を務めるなど、主に中国で活動した日本の地球化学者。 逓信省鉄道局の官吏だった父・岡田甲子之助と、母・與志の間の長男として、東京府東京市麹町区(後の千代田区の一部)に生まれる。弟に、後に物理学者となる岡小天がおり、ほかに弟がもう一人と、妹が二人いた。 当時は内幸町にあった東京府青山師範学校附属小学校(後の東京学芸大学附属世田谷小学校の前身)から、市ヶ谷加賀町にあった東京府立第四中学校(後の東京都立戸山高等学校の前身)に進んだが、幼少時から鉱物に関心をもっていた岡田は、この頃から各地を旅して鉱物採集を行ない、東京帝国大学理学部教授の神保小虎(鉱物学)の研究室にも出入りしたといわれる。
田中 均一郎(たなか きんいちろう、1904年 - 1979… 田中 均一郎(たなか きんいちろう、1904年 - 1979年)は、愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)出身の実業家。名古屋市南区の機械製造会社である太平製作所社長。1963年(昭和38年)に名古屋市に土地と建物を寄付し、同施設は翌年に名古屋市南図書館として開館した。「蛇々子」の俳号をもつ俳人としても知られる。 1904年(明治37年)に印刷工の息子として愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)に生まれた。父親は刈谷町にある太田商事の印刷部主任を務めた人物である。 享栄貿易学校(現・享栄高等学校)を卒業し、名古屋市西区の木工所に勤めた。やがて名古屋市南区戸部町の機械製造会社である太平製作所に転職し、1943年(昭和18年)に39歳で社長となった。
深沢 要(ふかざわ かなめ、1904年 - 1947年)は、… 深沢 要(ふかざわ かなめ、1904年 - 1947年)は、日本のこけし研究家・版画家・童話作家。本字での表記は深澤要。 東京市下谷区池之端七軒町に生まれる。少年期は、医師である父に従って九州で育った。1917年、福岡県嘉穂中学校に入学するが病気のため退学。1921年、大阪泰西学館に入学するも病気のため退学。 1925年、大阪市立工業学校(現大阪市立都島工業高等学校、翌年、大阪市立都島工業学校と改称)に勤務。かたわら童話研究を志す。1929年、都島工業学校を退職。行人社書店を設立するが病気のため閉店。『古本屋の棚』『子供考』を出版。1933年、東京に移る。1934年、このころより、こけしの収集研究が始まり産地訪問が始まる。
北村 謹次郎(きたむら きんじろう、1904年(明治37年)… 北村 謹次郎(きたむら きんじろう、1904年(明治37年) - 1991年(平成3年))は、日本の実業家・茶人。北村林業取締役、北村文華財団理事長。 奈良県吉野郡上市町(現・吉野町)出身。林業を営む北村又左衛門の二男。衆議院議員の北村又左衛門は実兄。1928年、京都帝国大学経済学部を卒業した。 文化人として40歳の時に建設が終了した四君子苑で多くの文化人や茶人をもてなした。 謹次郎が収集した茶道具・古美術品を保存するため、1975年に財団法人北村文華財団が設立、1977年に北村美術館が開館した。1991年に死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
金 憲植(キム・ホンシク、朝鮮語: 김헌식、1904年 - … 金 憲植(キム・ホンシク、朝鮮語: 김헌식、1904年 - 没年不詳)は、大韓民国の医師、政治家。第2代韓国国会議員。 京都帝国大学(現・京都大学)研究科卒。医師であったほか、論山邑消防署長などを務めた。1950年の第2代総選挙では論山甲選挙区から無所属で出馬し当選したが、朝鮮戦争時に北朝鮮に拉致された。
山東 茂一郎(さんどう もいちろう、1904年 - 1985… 山東 茂一郎(さんどう もいちろう、1904年 - 1985年)は、日本の商学者。和歌山大学教授、甲南大学教授を歴任した。甲南大学名誉教授。専門はマーケティング論、販売政策。 日本の高度経済成長期において、販売政策やブランド論(有標品)の研究で先駆的な業績を残した。日本商業学会賞を2度受賞している。 1904年(明治37年)、大阪府大阪市に生まれ、その後和歌山県和歌山市で育つ。実家は和歌山市内で文房具商を営む家であった。父は商売人としての矜持を持ち、家業が繁盛していたため、長男である茂一郎に家業を継ぐことを望んでいた。一方で、士族出身の母は商売よりも学問や精神性を重んじる気風を持っていた。 小学校卒業時、成績優秀であったが、父は「商売を継ぐのに学問はいらない」として、進学予備校的な役割も果たしていた旧制和歌山中学校(現・桐蔭高校)への進学を認めなかった。
城 憲三(じょう けんぞう、1904年 - 1982年)は、… 城 憲三(じょう けんぞう、1904年 - 1982年)は、数学者、コンピュータ技術者。日本のコンピュータパイオニアで、ほぼ最初期にコンピュータに取り組んだ一人。大阪府大阪市生まれ。 日本の初期のコンピュータ開発は、電子式では、城によるもの以外に、1949年に開発着手し1956年に完成動作した岡崎文次のFUJIC、1952年にプロジェクトが開始され1959年完成動作した東大TACがある。城の「阪大真空管計算機」 は、1953年のまとまった科学試験研究費により本格的に始まっている。しかし、予備実験的な段階までを含めると、1948年にはじまる三田繁による東芝TAC もあるが、城はENIACについての1946年のニューズウィークの記事を見て電子式の計算機械に取り組み、1950年にはENIACの1桁分のブロック線図にもとづいた10進4桁の演算装置を完成させている。
森下辰夫(もりした たつお、1904年 - 1970年)は、… 森下辰夫(もりした たつお、1904年 - 1970年)は、日本のフランス文学の言語学者である。 大阪府に生まれる。1928年京都帝国大学文学部仏文科卒業。外資系会社オデオン、天理外国語学校、関西日仏協会勤務、1938年満州建国大学教授。1941年霊能力を得たと信じる。敗戦後公職追放。1949年京都工芸繊維大学教授。1967年京都産業大学教授。没後勲三等遺贈。英文で書き未発表だった『心霊問題と人間』が没後邦訳された。 失職した森下が大阪の帝塚山学院で開いていた仏独語の塾で、谷沢永一と開高健が出会った(谷沢『回想開高健』)。日東蓄音機ツバメ印ニットーレコード社長、森下辰之助の長男として生まれる。「皇国史観」の代表的歴史家の平泉澄の義弟である。
小幡 功(おばた いさお、1904年 – 1976年) は、… 小幡 功(おばた いさお、1904年 – 1976年) は、日本の松濤館 空手師範の先駆 。 松濤館流空手道拳心会初代師範。彼は船越義珍古参の弟子で、現代の空手の創設者として広く認識され、1949年船越の下での小幡は日本空手協会(JKA)設立の重要人物となった。また、米国空軍へのデモンストレーションを、そして彼の弟子たち、特に大島劼らを通して、空手をアメリカ合衆国に紹介し広めた。
堤 徳三(つつみ とくぞう、1904年〈明治37年〉 - 没… 堤 徳三(つつみ とくぞう、1904年〈明治37年〉 - 没年不明)は、日本の音楽家、実業家。堤商店会長。 東京府士族・堤徳蔵の長男。1926年、慶應義塾大学卒業。江南産業、堤不動産、新橋興業各社長、堤商事代表取締役。堤商店取締役・同社長・同会長、結核予防会評議員、東京砂糖取引所理事などをつとめる。 族籍は東京府士族、会社重役であった。住所は東京市大森区南千束、東京都千代田区一番町で東京都港区在籍。別宅は神奈川県三浦郡逗子町小坪。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
小野 祖教(おの もとのり、1904年 - 1990年)は、… 小野 祖教(おの もとのり、1904年 - 1990年)は、神道学者。 静岡県出身。旧姓木村、幼名政次。前名木村祖教。1930年国学院大学卒。大倉精神文化研究所所員、国民精神文化研究所嘱託、神社本庁教学部長・同常任講師、母校教授歴任。
宮田 幸一(みやた こういち、1904年 - 1989年)は… 宮田 幸一(みやた こういち、1904年 - 1989年)は、日本の英文学者、博士。鶴見大学教授。 鶴見大学文学部教授。 1974年、論文「英語文法における単語種の歴史的および分析的研究」で博士号(文学、駒澤大学)取得。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
淀川 郁子(よどがわ いくこ、1904年 - 没年不明)は、… 淀川 郁子(よどがわ いくこ、1904年 - 没年不明)は、英文学者。翻訳家。 長野県長野市生まれ。1925年女子英学塾(現津田塾大学)卒業。長野県立女学校に勤め、工藤好美と知り合い、妹が工藤と結婚する。昭和のはじめに結婚するが、1951年夫が死去し、長野女子短期大学教授を十年間務め、その間工藤との共訳を出し、89歳でジョージ・エリオットの『ダニエル・デロンダ』を完訳した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
大畠 清(おおはた きよし、1904年 - 1983年)は、… 大畠 清(おおはた きよし、1904年 - 1983年)は、日本の宗教学者、東京大学名誉教授。 1928年、東京帝国大学宗教学科卒。1936年、東京帝国大学講師、1947年助教授、1953年教授。1965年定年退官、名誉教授。 古代ユダヤ教、ヘブライ史を専門とした。
田治六郎(たじ ろくろう、1904年 - 1978年)は、日… 田治六郎(たじ ろくろう、1904年 - 1978年)は、日本の造園家。内務技師、地方技師として当該府県の都市計画の策定、とくに都市公園計画に参画して各市を指導。特に西日本や旧満洲の公園緑地の行政と計画設計にあたった。また大阪万博に出展する日本庭園(万博記念公園内に現存)の設計及び施工指導にあたった人物。 1904年(明治37年)、石川県七尾市に生まれる。旧制第四高等学校を経て、1930年に東京帝国大学農学部農学科を卒業。1932年に大学院修了後は内務省都市計画大阪地方委員会技手となり、いくつかの各都市計画地方委員会技手を兼務した。 1937年から2年間は工兵部隊将校として渡満、解除後の1941年から都市計画愛知地方委員会兼愛知県技師。
村田 喜一(むらた きいち、1904年(明治37年) - 1… 村田 喜一(むらた きいち、1904年(明治37年) - 1987年(昭和62年))は、日本の農学者・水産学者・栄養学者。農学博士(北海道帝國大学)。医学博士(大阪帝國大学)。北海道大学名誉教授。元函館大学学長。石川県河北郡津幡町出身。 専門は食品衛生学。また、畜産学や水産食品化学の第一人者として知られ、各種ミルクの成分分析と水産皮革の実用化に貢献、特に急速皮革なめし法の研究は高く評価されている。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
李 亨雨(이형우、イ・ヒョンウ、Lee Hyeong Woo… 李 亨雨(이형우、イ・ヒョンウ、Lee Hyeong Woo、1904年? - 没年不詳)は、大韓民国の教育者。普成専門学校(現・高麗大学校)教授、国学学校副校長、朝鮮大学既成会理事長、朝鮮法学専門学館学長、同徳女子中学校(現・同徳女子大学校)教諭。 大韓民国忠清北道鎮川郡出身。仏教徒。日本へ留学し、1927年3月、立教大学文学部英文学科卒業。立教では金尚鎔(朝鮮語版)(後の梨花女子大学校教授・英文学者、江原道知事)、花房満三郎(後の文藝春秋編集長)の同級生。 帰国した後、ソウルの同徳女子中学校(現・同徳女子大学校)教諭を経て、普成専門学校(現・高麗大学校)教授に就任。 その後、日立工務店に取締役として勤務。
図師 嘉彦(ずし よしひこ、1904年 - 1981年)は、… 図師 嘉彦(ずし よしひこ、1904年 - 1981年)は、日本の建築家。日本建築学会・日本演劇学会共同委員会「劇場小委員会」に属し、劇場建築への造詣が深かった人物。東京出身。 鉄道官僚図師民嘉の次男として東京に生まれ、1929年に早稲田大学理工学部建築学科卒業後、大蔵省営繕課勤務を経てドイツに留学。1934年(昭和9年)帰国、直後に日本共産党に資金提供したとして治安維持法違反で逮捕。釈放後、1935年(昭和10年)に独立。1937年(昭和11年)、自らの建築設計事務所・株式会社図師設計事務所を設立。市浦健・土浦亀城らと新興建築家聯盟を結成。このころ日本共産党の地下印刷所などを設計。 1946年(昭和21年)、今泉善一、梅田穣、海老原一郎ら旧創宇社系メンバーで日本民主建築会結成。
西条 皎(さいじょう あきら、1904年 - 1972年)は… 西条 皎(さいじょう あきら、1904年 - 1972年)は、日本の詩人、俳人。また、居住地で村長を務めた。 滋賀郡滋賀郡真野村(現・大津市真野)に生まれる[要出典]。1927年に東海詩人協会に加わり、『東海詩集』に「軍艦」、「大佛」、「飛行船」、「仁王」等を発表。井口蕉花、高木斐瑳雄、野々部逸二、中西悟堂らの詩誌『青騎士』に「草屋詩情」等を発表。東京で佐藤惣之助と同人誌をつくる。また、岐阜市の詩魔詩人会とも交流があった。[要出典] 戦後、真野村最後の村長を務め、1964年には堅田町立真野小学校(現・大津市立真野小学校)の校歌を作詞した[要出典]。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
小沢 兵輔(おざわ ひょうすけ、1904年〈明治37年〉 -… 小沢 兵輔(おざわ ひょうすけ、1904年〈明治37年〉 - 1984年〈昭和59年〉)は、昭和時代の鉄道実業家。 長野県上伊那郡小野村(現・辰野町小野)に生まれる。松本教育実業学校を卒業し、三菱日東生糸に入社し、横浜日東製糸原料部次長となる。兵役を経て、1947年(昭和22年)郷里に丸善石灰を創業。ついで塩尻陸運常務、信州急送社長を経て、名鉄運輸の提案を受け、1962年(昭和37年)信州急送と南信定期を名鉄運輸に合併して信州名鉄運輸を創立し、同社社長に就任した。ほか、信州名鉄タクシー社長を兼務し、1976年(昭和51年)信州名鉄運輸の会長に就任した。この間、日本トラック協会理事、長野県トラック協会長を務めた。
高橋 一智(たかはし かずとも、1904年(明治37年) -… 高橋 一智(たかはし かずとも、1904年(明治37年) - 1983年(昭和58年))は、日本の陶芸家。弘前中学時代から絵画、彫刻に取り組んでいたが、バーナード・リーチの作品に感銘を受けて陶芸の道へ。帰郷後は、故郷の素材による陶芸の道を歩み、土探しに心血を注いだ。また、こぎん刺しの図案を収集し、その研究も行った。
土方 辰三(ひじかた たつぞう、1904年 -1999年)は… 土方 辰三(ひじかた たつぞう、1904年 -1999年)は、日本の英文学者。成蹊大学名誉教授。 旧制・千葉県立佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)、旧制浦和高等学校(現在の埼玉大学教養部)を経て、東京帝国大学文学部英文科卒業。第五高校(現在の熊本大学教養部)教授、浦和高校教授、東京大学教養学部教授、1965年定年退官。成蹊大学教授、名誉教授。 1975年、イギリスの詩人、A. E. Housmanの熱心な研究者、愛読者により、日本ハウスマン協会(The Housman Society of Japan)が設立された際、会長を務めた。 妻の幸は、浦和高校時代の恩師・乙骨五郎(のち成蹊大学学長)の姪。
田村 秀治(たむら ひでじ、1904年 – 1988年10月… 田村 秀治(たむら ひでじ、1904年 – 1988年10月2日)は、日本の外交官。アラブに長く勤務し、日本とアラブ諸国の友好関係樹立に貢献したとされる。 福井県大飯郡高浜村(現・高浜町)和田で生まれる。 旧制小浜中学校を経て、1927年3月に、大阪外国語学校(後の大阪外国語大学、現・大阪大学外国語学部)を卒業した。外務省留学生試験に合格し、エジプトへ派遣され、エジプト大学(現・カイロ大学)でアラビア語を学んだ。そのまま現地にとどまり、1930年4月よりアレキサンドリア総領事館に勤務した。ギリシャ人の女性と結婚。エジプトで田村は、日本とは大きく異なる気候・風土の中で土地を愛し、現地人になり切って友好関係の樹立を図った。
三木 義雄(みき よしお、1904年または1905年6月6日… 三木 義雄(みき よしお、1904年または1905年6月6日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手。1920年代にハードル競走で活躍して日本記録を更新、1928年アムステルダムオリンピックに出場した。 兵庫県揖保郡揖西村構(現在のたつの市揖西町構)に生まれる。旧制龍野中学校(現在の兵庫県立龍野高等学校)に入学し、1923年の日本陸上競技選手権大会では走高跳に1メートル (m)65の記録で優勝する。この年の第6回極東選手権競技大会予選では走高跳で4位となり、代表選手に選出された。しかし「大会参加選手」に名前が載っているものの、大会本番での記録は残っておらず、実際に出場したかどうかは不明である。 慶應義塾大学に進学し、1925年には明治神宮競技大会の200mハードル種目で24秒6の記録を出した(当時の日本記録・世界記録という)。
村瀬 清(むらせ きよし、1904年 - 1966年4月27… 村瀬 清(むらせ きよし、1904年 - 1966年4月27日)は日本の政治家。初代東京都千代田区長。
永井 武雄(ながい たけお、1904年 - 1938年4月1… 永井 武雄(ながい たけお、1904年 - 1938年4月19日)は、日本の野球選手・監督。兵庫県出身。
成田 勝四郎(なりた かつしろう、1904年(明治37年) … 成田 勝四郎(なりた かつしろう、1904年(明治37年) - 1982年(昭和57年)10月26日)は、日本の外交官。在ドイツ日本大使や終戦連絡中央事務局第一部長、国連政府代表団代表などを歴任。東京府出身。
八田 秋(はった おさむ、1904年 - 1986年)は、日… 八田 秋(はった おさむ、1904年 - 1986年)は、日本の外科学者。九州大学名誉教授。専門は温泉治療学。
平山 重勝(ひらやま しげかつ、1904年(明治37年) -… 平山 重勝(ひらやま しげかつ、1904年(明治37年) - 1994年(平成6年)4月5日)は、日本の植物病理学者。タバコモザイク病などの研究を行った。 三重高等農林学校を卒業後、京都帝国大学農学部に入学、1928年卒業、大学院に進学し、1930年、徳川生物学研究所の嘱託研究員となった。徳川生物学研究所でタバコモザイク病の研究をはじめ、1935年に「煙草・モザイク病の細胞学的研究1」を発表した。1939年に徳川生物学研究所を退職、厚生省衛生試験所技師となり、1947年に厚生省衛生試験所植物部長などを務め、病変米菌の代謝生物に関する研究などを行った。1949年、「タバコモザイク病に関する研究」にて農学博士(京都大学)。
小松 義雄(こまつ よしお、1904年 - 1999年12月… 小松 義雄(こまつ よしお、1904年 - 1999年12月22日)は、日本の昭和期の洋画家・抽象画家である。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
金 正実(キム・ジョンシル、朝鮮語: 김정실/金正實、190… 金 正実(キム・ジョンシル、朝鮮語: 김정실/金正實、1904年 - 1969年10月27日または11月26日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、放送関係者、法学者、教授、政治家。第2代檀国大学(現・檀国大学校)学長、第2代韓国国会議員。 慶南固城郡固城邑生まれ、ソウル出身。普成専門学校(現・高麗大学校)、中央大学法学部卒。東亜日報記者、中央放送局職員として長年勤務した後、解放後に大韓民国臨時政府傘下政治工作隊総務、金九が設立した建国実践員養成所の講師、木材会社重役、金剛山工芸会社専務、朝鮮政治学館(現・建国大学校)教授・教務局長・教務主任、放送協会会員、世宗大学教授、檀国大学副学長・第2代学長、建国大学校畜産大学学長・憲法学教授、高等考試委員、国会法制司法委員長、自由党議員代表幹事、刑事訴訟法草案公聴会委員長を務めた。
呉 龍国(オ・ヨングク、朝鮮語: 오용국/吳龍國、1904年… 呉 龍国(オ・ヨングク、朝鮮語: 오용국/吳龍國、1904年または1905年10月28日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の政治家。安徳面長、西帰面長、制憲韓国国会議員などを歴任した。 済州島南済州郡出身。済州公立農業学校、東京帝国大学法科卒。1924年に西帰面で養源私塾を設立したほか、西帰面会計、済州農会書記、安徳面長、西帰面長、蚕糸業経営者を歴任した。光復後は西帰面建国準備委員会委員長、西帰面孝敦水利組合長、南朝鮮過渡立法議院議員、制憲国会議員を務めた。無所属で国会議員当選後は民主国民党に入党し、憲法制定委員・交逓委員、反民族行為処罰法起草特別委員会委員を務めた。朝鮮戦争中の1950年7月18日、ソウルで北朝鮮に拉致された。
黒川 純一(くろかわ じゅんいち、1904年 - 1985年… 黒川 純一(くろかわ じゅんいち、1904年 - 1985年3月7日)は、日本の社会学者。 1927年東京帝国大学文学部社会学科卒、東京大学教養学部教授、1963年定年退官、名誉教授、明治学院大学教授。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
皆藤 幸蔵(かいとう こうぞう、1904年 - 1983年2… 皆藤 幸蔵(かいとう こうぞう、1904年 - 1983年2月5日)は、日本の翻訳家、国際ジャーナリスト。東京外国語学校英語科卒業。 茨城県出身。同盟通信ロンドン特派員、時事通信外信部長、リーダーズ・ダイジェスト編集総務などを歴任。戦後は『アンネの日記』の翻訳のほか、国際問題、推理小説などを翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
幸田 清喜(こうだ きよき、1904年(明治37年) - 1… 幸田 清喜(こうだ きよき、1904年(明治37年) - 1992年(平成4年)12月2日)は、日本の地理学者。東京文理科大学卒、第四高等学校教授、1953年「北陸工業地域の実証的研究」で東京教育大学より理学博士の学位を取得。東京教育大学教授、1967年定年退官、名誉教授、千葉敬愛経済大学教授。
手代木 啞々子(てしろぎ ああし、1904年 - 1982年… 手代木 啞々子(てしろぎ ああし、1904年 - 1982年12月5日)は、現代俳句の俳人。農民俳句の実践者と評される。本名は、手代木茂守(てしろぎ しげもり)。「合歓」主宰。金子兜太の「海程」同人。妻は、手代木かよ(俳号: 胆振かよ)[出典無効]。 父・円治郎 (志賀家)、母・ミスの長男として北海道有珠郡伊達村大字紋鼈村(現在の伊達市)で誕生した。1918年(大正7年) 函館區立寶小学校高等科を卒業し、同年4月函館商業学校に入学した(旧24回生)。後に「この頃から新聞や雑誌に投稿していて、よく俳句が採用されのめり込んでいった。」と語っている。 1923年(大正12年)、大倉高等商業学校(現在の東京経済大学)へ入学した。