森山 喜由(もりやま きよし、1909年1月25日 - 19… 森山 喜由(もりやま きよし、1909年1月25日 - 1977年2月1日)は、日本の経営者。エスエス製薬社長を務めた。福岡県久留米市出身。 1932年に東京帝国大学経済学部を卒業。髙島屋、秋葉原デパート等での勤務を経て、1960年にエスエス製薬取締役に就任し、1962年に専務、1964年に副社長を経て、1970年には社長に就任。1976年12月に相談役に退いた。 1977年2月1日呼吸不全のために死去。68歳没。
宮川 武雄(みやかわ たけお、1909年1月24日 - 19… 宮川 武雄(みやかわ たけお、1909年1月24日 - 1988年6月12日)は、日本の経済学者。 1909年(明治42年)大阪市船場生まれ。1929年(昭和4年)名古屋高等商業学校卒、1932年(昭和7年)神戸商業大学卒、1934年(昭和9年)同研究科修了、浪速高等学校教授、1937年(昭和12年)大阪商工会議所調査課長、1941年(昭和16年)横浜専門学校教授、1950年(昭和25年)校名変更で神奈川大学助教授、1953年(昭和28年)教授。1969年(昭和44年)から経済学部長を二度務める。1979年(昭和54年)定年退任、名誉教授、創価大学教授。1962年 名古屋大学にて経済学博士取得。
出口 勇蔵(でぐち ゆうぞう、1909年1月23日 - 20… 出口 勇蔵(でぐち ゆうぞう、1909年1月23日 - 2003年4月2日)は、日本の経済学者。経済学博士(京都大学)。京都大学名誉教授。 京都市出身。1933年京都帝国大学経済学部卒。1938年京都大学経済学部助手、講師、助教授、1948年京都大学教授。1952年「経済学と歴史意識」で、経済学博士(京都大学)の学位を取得。1968年経済学史学会代表幹事。1972年定年退官、名誉教授、京都薬科大学教授、1984年名城大学教授。経済哲学・経済思想史を専攻した。
松木 謙治郎(まつき けんじろう、1909年1月22日 - … 松木 謙治郎(まつき けんじろう、1909年1月22日 - 1986年2月21日)は、福井県敦賀市出身のプロ野球選手(一塁手)・監督・指導者・解説者。
星野 元豊(ほしの げんぽう、1909年1月22日-2001… 星野 元豊(ほしの げんぽう、1909年1月22日-2001年5月24日)は、浄土真宗の僧侶、仏教学者。 鹿児島県生まれ。同県大口市(現・伊佐市)出身。1933年、龍谷大学宗教学科卒業。龍谷大学講師、助教授を経て、1949年文学部教授。1961年「宗教本質論」で龍谷大学より文学博士の学位を取得。1964年学長。1969年定年退職、名誉教授。浄土真宗本願寺派大嵓寺住職。 1981年、勲三等瑞宝章受勲。 昭和30年代、家永三郎らと念仏呪術論争に関わる。
須田 禎一(すだ ていいち 1909年1月21日 - 197… 須田 禎一(すだ ていいち 1909年1月21日 - 1973年9月18日)は、日本のジャーナリスト、中国文学翻訳家。 茨城県行方郡牛堀町(現、茨城県潮来市牛堀)で生まれる。須田家は代々名字帯刀を許された庄屋で、父誠太郎は牛堀町長、茨城県議を務めた地方政治家。千葉県立佐原中学(現:千葉県立佐原高等学校)、旧制弘前高校を経て東京帝国大学文学部独文科卒業。弘前高校の一級下に太宰治がいた。在学中に反戦運動(反帝同盟「シナから手を引け運動」)参加で逮捕されるが、同郷の代議士風見章の働きかけでまもなく釈放、起訴もまぬがれる。 1933年、東大卒業と同時に朝日新聞入社。浜松支局、東京本社整理部を経て、1942年10月より上海特派員、1944年10月より太原特派員、1945年1月に再び上海特派員となる。
山口 剛玄(やまぐち ごうげん、1909年1月21日 - 1… 山口 剛玄(やまぐち ごうげん、1909年1月21日 - 1989年5月20日)は、日本の空手家。全日本空手道剛柔会の創始者。本名は山口 實実。 鹿児島県鹿児島市出身。幼少時より薩摩示現流や柔術等の武道を嗜む。14歳から沖縄県出身の丸田武雄より空手を習い始める。 1928年に関西大学に入学するも翌29年に退学。同年、新選組屯所跡に「剛柔流空手道拳法道場」を開設し「昭和新選組」と称す。同年、立命館大学専門部法科に入学すると、相撲部と応援団に籍を置く傍ら、唐手術研究会(空手道部)を創設した。当時、宮城長順は空手道普及のため毎年頻繁に関西地方を訪れており、長順が入洛すると剛玄は決まってお供をして武道関係者の間を回り、武徳会の福島清三郎など満州国建国に連なる武人や軍人とも知遇を得たという。
福山 重一(ふくやま しげかず、1909年1月21日 - 1… 福山 重一(ふくやま しげかず、1909年1月21日 - 1992年9月21日)は、日本の経済学者(経済学博士)。教育者。芦屋大学の創設者。 大阪府立大学教育学部長を経て、1964年に芦屋大学を設立した。1968年に学校法人芦屋学園の理事長に就任。 職業指導学の研究に取り組み、芦屋大学で合計7回にわたって開催された職業指導学国際会議では、終身議長を務めた。F式選職能力テストの開発に取り組んだ。 1980年代後半にソビエト連邦のペレストロイカにおいてこの職業指導学が採用され、当時のソ連高等中等専門教育大臣、モスクワ大学総長を始めとするソ連の教育関係者と度々の会談を行い、ソ連の教育システム構築に関わった。
藤本 一郎(ふじもと いちろう、1909年1月21日 - 1… 藤本 一郎(ふじもと いちろう、1909年1月21日 - 1998年8月27日)は、日本の経営者。川崎製鉄社長、会長を務めた。 和歌山県新宮市出身。1928年に東京帝国大学工学部冶金学科を卒業し、同年に川崎造船所に入社。1950年8月に川崎製鉄に転じ、1953年10月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1964年6月に副社長に就任した。1966年7月に社長に昇格し、1977年6月には会長に就任し、1981年6月から相談役を務めた。社長在任時には、千葉製鉄所や水島製鉄所などの臨海大型製鉄所の建設と溶鉱炉の大型化を推進し、1974年にはブラジルにツバロン製鉄を設立し、川崎製鉄の基盤を築いた。 日本鉄鋼協会会長も務めた。
水原 茂(みずはら しげる、1909年〈明治42年〉1月19… 水原 茂(みずはら しげる、1909年〈明治42年〉1月19日 - 1982年〈昭和57年〉3月26日)は、香川県高松市出身のプロ野球選手(内野手)・監督、解説者・評論家。 1955年から1959年の登録名は「水原 円裕(みずはら のぶしげ)」。 現役時代は東京巨人軍(1947年より読売ジャイアンツ、以下巨人)で活躍し、引退後は巨人、東映フライヤーズ、中日ドラゴンズの監督を歴任した。巨人監督時代の在任11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝き、セ・パ両リーグでチームを日本一に導いた(セ - 巨人、パ - 東映)。 幼少時に両親が離婚、父親が入り婿になり再婚した先の「水原」姓になったという。野球を始めたのも、実家の環境からの気晴らしであったという。
坂本 政一(さかもと まさいち、1909年1月19日 - 1… 坂本 政一(さかもと まさいち、1909年1月19日 - 1995年5月2日)は、日本のバンドネオン奏者。タンゴ楽団『坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテニア』代表 1909年生まれ。大阪音楽大学卒業。 1939年以前より、バンドネオン奏者として活躍していた。桜井潔楽団のコンサートマスターを務める。 1951年より、『坂本政一楽団』を設立する。1952年『坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテニア』と改称する。1966年に、アルゼンチンなど、世界演奏旅行を果たす。日本におけるタンゴの黄金期で、タンゴ楽団代表およびバンドネオン奏者として、早川真平と人気を二分する。レパートリーでは、アルゼンチンの古典タンゴとされる曲や、コンチネンタルタンゴとされる曲の他、日本の民謡のタンゴ風アレンジの『FUJIYAMA TANGO』もある。
太田 清之助(おおた せいのすけ、1909年(明治42年)1… 太田 清之助(おおた せいのすけ、1909年(明治42年)1月19日 - 1989年(平成元年)2月26日)は、日本の実業家。元・博多大丸会長。元・大日本麦酒技師。 第一徴兵保険(後の東邦生命保険)社長、衆議院議員、貴族院議員などを務めた四代目太田清蔵の四男。東邦生命保険社長五代目太田清蔵の弟。元・自民党衆議院議員太田誠一、ホテル日航福岡社長太田輝幸の実父。妻・俊子は商工大臣、農林大臣、大蔵大臣など歴任した櫻内幸雄の三女。 福岡県福岡市出身。旧制福岡高等学校理科甲類を経て、1933年に九州帝国大学農学部農芸化学科を卒業。大日本麦酒に入り1938年、兵役。1946年香椎農園、1949年日東食品を各経営。
小野 忠重(おの ただしげ、1909年1月19日 - 199… 小野 忠重(おの ただしげ、1909年1月19日 - 1990年10月17日)は日本の版画家。版画史や古地図、浮世絵の研究者でもある。 1932年から藤牧義夫らとともに「新版画集団」(その後、造形版画協会に名称変更)を結成。失踪した藤牧が最後に会った人物としても知られる。 東京府東京市本所区(現・東京都墨田区)の向島小梅一丁目の酒屋の子として生まれる。 1924年、蒼原会に加入、白日会第2回展に出品。 1927年、早稲田実業学校卒業。在学中から卒業まで本郷絵画研究所に学ぶ。卒業後は絵描きになりたいと思いつつも、建築資材の商店で働いたり、小説家、俳優、代用教員の道を模索したりもするも叶わず、家業の酒屋を手伝う。
金 正晧(キム・ジョンホ、朝鮮語: 김정호、1909年1月1… 金 正晧(キム・ジョンホ、朝鮮語: 김정호、1909年1月19日 - 1970年3月9日)は、満州国および大韓民国の陸軍軍人、警察官僚、政治家。陸軍准将、第3代韓国国会議員。 1909年1月19日、全羅南道光陽郡(現・光陽市)出身。 普成中学校(朝鮮語版)、法政大学卒業。満州国中央陸軍訓練処(奉天軍官学校)3期卒業。 国立警察専門学校(現・警察人材開発院)校長、慶北警察庁長、慶北鉄道警察庁長、忠南鉄道警察庁長、公安局長、陸軍護国軍第105旅団長、全南地区兵事区司令官、全北戒厳民事部長、全北地区兵事区司令官、陸軍106師団長、陸軍本部兵務監、国防部第3局長、合同参謀本部第1部長・第3部長、韓米合経国防部代表を務めた後、陸軍准将として予備役に編入。
小谷 心太郎(こたに しんたろう、1909年(明治42年)1… 小谷 心太郎(こたに しんたろう、1909年(明治42年)1月18日 - 1985年(昭和60年)6月18日)は、昭和期の歌人。 岡山県出身(大阪市北区出身とも)。福岡中学(現・福岡県立福岡高等学校)卒業後、東京帝国大学へ進み、東大在学中の1932年(昭和7年)に「アララギ」に入会、斎藤茂吉に師事。1936年、サイパンに赴任。戦時中は海軍に従軍し戦場詠を詠んだ。 終戦の後は「新泉」、「アザミ」に入り活動する。1958年、「童牛」創刊。1977年に「宝珠」で第4回日本歌人クラブ賞を受賞。1985年死去、享年76。
布井 良助(ぬのい りょうすけ, 1909年(明治42年)1… 布井 良助(ぬのい りょうすけ, 1909年(明治42年)1月18日 - 1945年(昭和20年)7月21日)は、兵庫県神戸市出身の男子テニス選手。神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。1933年(昭和8年)のウィンブルドン選手権男子ダブルス部門で佐藤次郎とペアを組んで準優勝し、日本人のテニス選手として初めて4大大会決勝に挑戦した選手である。 大阪、西道頓堀の米穀商で資産家の長男として生まれる。布井は1932年(昭和7年)の全日本テニス選手権男子シングルス決勝で佐藤次郎を 5-7, 6-2, 2-6, 6-4, 6-1 で破って優勝したことがあり、早くから佐藤にとって最大の親友であった。布井は同年の全豪選手権から1933年(昭和8年)の全米選手権まで、4大大会に1度ずつ出場した。
番神山 政三郎(ばんしんざん せいざぶろう、1909年1月1… 番神山 政三郎(ばんしんざん せいざぶろう、1909年1月17日 - 1982年1月7日)は、新潟県刈羽郡(現:新潟県柏崎市)出身の元大相撲力士。本名は長谷川 政三郎(はせがわ せいざぶろう)。 1909年1月17日に新潟県刈羽郡(現:新潟県柏崎市)で生まれる。尋常高等小学校を卒業後に前橋の作り酒屋へ奉公に出たが、周囲から勧められて出場した宮相撲で優勝したところを雷部屋の元力士・群馬ヶ嶽に見出されて雷部屋に入門、1927年1月場所で初土俵を踏んだ。入門から僅か半年後に雷が死去すると、所属していた力士全員が白玉部屋へ転属、ところが白玉もまもなく没したことから八角部屋へ再転属するなど、いくつかの部屋を転々とする生活が続いた。
小西 茂也(こにし しげや、1909年1月16日 - 195… 小西 茂也(こにし しげや、1909年1月16日 - 1955年4月21日)は、フランス文学者、翻訳家。 栃木県生まれ。東大文学部仏文科卒。19世紀フランス文学を中心に多くの翻訳書がある。 河出書房、逓信省嘱託、外務省にも勤務後に、オノレ・ド・バルザック、ギ・ド・モーパッサンや、ピエール・ブラントームなどのフランス艶笑譚を翻訳。戦後1946年には、かねて敬愛する永井荷風を市川の自宅に約2年間住まわせたことでも知られている。その間、我儘で奇行の多い荷風に大変悩まされたことを「同居人荷風」(1952年発行『新潮』掲載)などに書いている。 近年刊の秋山征夫『荷風と市川』(慶應義塾大学出版会、2012年)で、両者の関係が明かされた。
大岩 正仲(おおいわ まさなか、1909年1月16日 - 1… 大岩 正仲(おおいわ まさなか、1909年1月16日 - 1972年6月19日)は、日本の言語学者・国語学者。千葉大学元教授。 専門は方言学、文法学。 東京市芝区(現:港区)生まれ。東京外国語学校ドイツ語学科を経て京城帝国大学文学科卒。外国語学校卒業後にはすでに東条操のアシスタントとして平凡社『大辞典』(1933年)の方言の項目を担当。それを皮切りに『全国方言辞典』(1951年)、『分類方言辞典』(1954年)の刊行の際実質的な作業に力を注いだ。 その後、いよいよ大岩の名前で『日本方言大辞典』を編集・刊行すべく作業を進めていたが、1972年、その完成を見ずに死去。享年64。 その後徳川宗賢が大岩の遺志を受け継ぎ『日本方言大辞典』を刊行した。
浜田 隼雄(はまだ はやお、旧字体:濱田 隼雄、1909年1… 浜田 隼雄(はまだ はやお、旧字体:濱田 隼雄、1909年1月16日 - 1973年3月26日)は日本統治時代の台湾で活躍した日本の小説家。代表作は『南方移民村』。 宮城県仙台市生まれ。旧制台北高等学校を経て、東北帝国大学卒業後、台湾で教員となる。小説を西川満が主宰する『文芸台湾』に発表。1943年(昭和18年)、『南方移民村』で台湾文学賞を受賞。戦後は郷土を題材とした作品を執筆した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
千葉 元江(ちば もとえ、1909年(明治42年)1月15日… 千葉 元江(ちば もとえ、1909年(明治42年)1月15日 - 1992年(平成4年)11月5日)は日本の政治家。青森県青森市長(1期)。 青森県青森市出身。青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)、官立弘前高等学校を経て、1933年、東京帝国大学法学部を卒業する。卒業後は陸軍に入り、翌年満期除隊。1937年に高等文官試験行政科に合格、翌年台湾総督府に入り、台中妙農林課長などを歴任した。太平洋戦争中の1942年に陸軍司政官となり、ビルマに派遣され、終戦を迎えた。1946年に復員した。 1947年、青森県庁に入り、人事課長、総務、商工水産の各部長などを経て、1949年に副知事に就任した。副知事は1952年まで務め、その後は青森県北洋漁業協同組合理事、同副組合長、鮭鱒漁業協同組合理事などを務めた。
打田 峻一(うちだ しゅんいち、1909年1月15日 - 1… 打田 峻一(うちだ しゅんいち、1909年1月15日 - 1992年6月19日)は、日本の法学者・弁護士・元国家公務員。 専修大学名誉教授。多数の門下生(研究者)を育てる。 「打田畯一」とも表記される。 1909年1月15日、東京市麹町区三番町に生まれる。東京府立第一中学校・第一高等学校を経て、1932年に東北帝国大学法文学部卒業、1934年には同大学院(旧制)修了。 その後、東京で弁護士として活動し、1945年東京大空襲の戦災に遭遇。再び東北大学の勝本正晃の下で助手を務め、1948年に衆議院法制局入局。1957年から1979年に定年退職するまで専修大学法学部教授にあった。1992年、脳梗塞のため死去。
木村 俊夫(きむら としお、1909年(明治42年)1月15… 木村 俊夫(きむら としお、1909年(明治42年)1月15日 - 1983年(昭和58年)12月1日)は、日本の政治家。元衆議院議員。 1909年(明治42年)三重県東員町生まれ。後に東員町名誉町民となる。祖父・木村誓太郎、父・木村秀興はいずれも衆議院議員。津中学校、第三高等学校 (旧制)文科丙類を経て、1938年(昭和13年)東京帝国大学法学部法律学科と政治学科を卒業。高等文官試験に合格して逓信省に入省。戦時下、逓信省と鉄道省が統合した運輸通信省を経て、運輸省に移る。戦後佐藤栄作に口説かれ、運輸省海運総局総務課長から政界に転身、1949年(昭和24年)の第24回衆議院議員総選挙で旧三重1区から保守系無所属で当選。
高橋 勇治(たかはし ゆうじ、1909年(明治42年)1月1… 高橋 勇治(たかはし ゆうじ、1909年(明治42年)1月15日 - 1992年(平成4年)2月6日)は、日本の外国法学者、東京大学社会科学研究所名誉教授。 高知県出身。旧制高知県立城北中学校、旧制高知高等学校、東京帝国大学法学部卒業。北京大学教授、敗戦で法政大学教授、1947年東京大学社会科学研究所助教授、1952年教授、1969年定年退官、名誉教授。千葉大学教授、1974年定年。没後正四位叙勲。中国憲法が専門で、戦後は中華人民共和国、北朝鮮の支持者となった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
栗山 理一(くりやま りいち、1909年1月14日 - 19… 栗山 理一(くりやま りいち、1909年1月14日 - 1989年8月19日)は、日本の国文学者・俳句評論家。成城大学名誉教授。 1909年、佐賀県鹿島で生まれた。広島文理科大学で学び、1933年に卒業。 卒業後は教諭となり、大阪府立堺中学校に勤務。1938年、大学の同窓生蓮田善明・池田勉・清水文雄と雑誌『文藝文化』を創刊し、日本浪曼派の一派をなした。同雑誌は1944年まで続いた[要出典]。1942年、興亜工業大学教授に転じ、1944年に立華高等女学校校長となった。 1954年、成城大学文芸学部教授に就いた。1962年、学位論文『中興俳諧の研究』を広島大学に提出して文学博士の学位を取得。1979年に成城大学を定年退職し、名誉教授となった。
伊藤 武雄(いとう たけお、1909年(明治42年)1月11… 伊藤 武雄(いとう たけお、1909年(明治42年)1月11日 - 1977年(昭和52年)9月16日)は、日本のドイツ文学者。 大阪府大阪市生まれ。1921年大阪市浪速区難波立葉尋常小学校卒業、1925年大阪府立市岡中学校4年修了、1928年第三高等学校文科乙類卒業、1931年東京帝国大学文学部独文科卒業。 1933年に宇都宮高等農林学校非常勤講師に就いたのを皮切りに、1934年に第八高等学校専任講師、1935年教授に就任し、1948年に名古屋大学に転じて文学部助教授、1958年教授に就任した。 1959年「ケラー叙事文学の研究」で名大文学博士。同著で中日文化賞受賞。1972年に定年で退官した後は名誉教授となった。
矢本貞幹(やもと ただよし、1909年1月11日 - 199… 矢本貞幹(やもと ただよし、1909年1月11日 - 1990年11月25日)は、日本の英文学・比較文学者。 岐阜県出身。1933年東北帝国大学文学部英文科卒。1949年大阪大学文学部助教授、1956年関西学院大学助教授、教授、70年「エリザベス朝文学論」で関西学院大文学博士。77年定年、名誉教授、梅光女学院大学教授。85年退任。 専門は英文学(エリザベス朝、批評)だが、夏目漱石などの比較文学研究もおこなった。
加藤 進(かとう すすむ、1909年1月10日 - 1996… 加藤 進(かとう すすむ、1909年1月10日 - 1996年3月27日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員、参議院議員を各1期務めた(いずれも日本共産党公認)。日本共産党中央委員会顧問や同党愛知県委員会、日ソ協会愛知県連合会副会長などを歴任した。 愛知県名古屋市千種区出身。1945年、名古屋帝国大学理学部数学科を卒業後、第八高等学校哲学科講師や名古屋大学数学科教官に就任。この間初代愛知県教員組合副委員長を務めたほか、同県労働学校開設にも尽力した。 1963年の第30回衆議院議員総選挙で旧愛知1区から出馬し初当選。その後1971年の第9回参議院議員通常選挙で全国区から出馬し当選。1977年の第11回参議院議員通常選挙で落選した。
山田 忠義(やまだ ただよし、1909年1月10日 - 19… 山田 忠義(やまだ ただよし、1909年1月10日 - 1999年12月31日)は、日本の実業家。ワールド・トレード・センター連合会長、日加協会会長、日米協会副会長。 鳥取県出身。明治大学法学部卒業。コロンビア大学大学院修了。 大学卒業後は、渋沢敬三(日本銀行総裁、大蔵大臣、渋沢栄一の孫)の秘書などを経て、1952年に八幡製鉄に入社。財界トップである日本経済団体連合会の歴代の会長・副会長を輩出する、当時の日本を代表する名門企業に40歳を過ぎてから迎えられ、以降は本社渉外部長を経て1957年に本社外務部長、1961年参与、1962年に取締役に就任。1965年のマレーシアの現地資本との合弁によるマラヤワタ・スチールの発足に際しては、世界銀行グループの国際金融公社で副会長を務めていた旧友とのパイプなどをいかして、設立に向け大きな貢献を果し、創立理事を務めた。
伊藤 四十二(いとう よそじ、1909年1月9日 - 197… 伊藤 四十二(いとう よそじ、1909年1月9日 - 1976年6月9日)は、日本の薬学者(臓器薬品化学・生理化学)。学位は薬学博士(東京帝国大学・1945年)。静岡薬科大学名誉教授、社団法人日本薬学会名誉会員。 東京帝国大学医学部助教授、岐阜薬学専門学校教授、東京大学医学部教授、東京大学薬学部教授、東京大学薬学部学部長、東京大学附属図書館館長、東京大学総長代理、静岡薬科大学学長(第3代)などを歴任した。 兵庫県出身の薬学者である。唾液腺ホルモンに関する研究で知られるとともに、ヒト胎盤性ラクトゲンを世界で初めて発見したことで知られている。日本の生理化学が発展する基礎を作った一人とされており、生物系薬学を確立したことで知られている。
山田 勝美(やまだ かつみ、1909年1月9日 - 1989… 山田 勝美(やまだ かつみ、1909年1月9日 - 1989年4月10日)は、日本の漢文学者。 千葉県出身。広島文理科大学漢文学科卒業後、東京帝国大学文学部支那哲学科研究生として加藤常賢に契金文を学ぶ。1957年「塩鉄論の基礎的研究」で広島文理科大学文学博士。上智大学文学部教授を務め、79年定年、名誉教授。71年中華学術院から名誉哲士号を贈られる。
岩崎 忠雄(いわさき ただお、1909年(明治42年)1月8… 岩崎 忠雄(いわさき ただお、1909年(明治42年)1月8日 - 1990年(平成2年)3月30日)は、日本の実業家。三菱モンサント化成(現・三菱ケミカル)の元社長。 林雅之助の長男として東京府(現・東京都)に生まれ、三菱財閥の岩崎小弥太の婿養子となった。父・雅之助は外交官・林董の長男。 淑子夫人は岩崎俊弥の次女で小弥太の養女。なお淑子の母・八穂は盧高朗の六女にあたる(盧家は元々明帰化族の出であり、代々長崎で唐通事を任じられていた)。俊弥は小弥太の弟なので淑子は伯父の養女になり忠雄を婿養子として迎えたことになる。また順天堂大学の基礎を作った医師・佐藤泰然は忠雄の曾祖父にあたる。実姉の義弟(夫の弟)に潮田江次。
新郷 重夫(しんごう しげお、Shigeo Shingo、1… 新郷 重夫(しんごう しげお、Shigeo Shingo、1909年(明治42年)1月8日 - 1990年(平成2年)11月14日)は、日本の技術者。特に品質工学分野において功績を残している。日本国内よりも海外、特にアメリカで高い評価を受けている。今日でも、新郷の著作はアメリカを中心に多数出版されている。 ポカヨケや金型のシングル段取り変え(SMED)などの基本コンセプトを残していることでも知られ、今日でもそれらの著作が出版されている。 彼の功績を称え、ユタ州立大学(Utah State University)を中心に設立された新郷賞(The Shingo Prize)は、「製造業のノーベル賞」とも称される。
坂村真民(さかむら しんみん、1909年1月6日 - 200… 坂村真民(さかむら しんみん、1909年1月6日 - 2006年12月11日)は、日本の仏教詩人。本名昂(たかし)。一遍の生き方に共感し、「癒やしの詩人」と言われる。 熊本県玉名郡府本村(現 荒尾市)生まれ。熊本県立玉名中学校を経て、1931年に神宮皇學館を卒業。1934年朝鮮に教員として渡り、1945年に引き揚げ。1946年、愛媛県三瓶町の私立第二山下高等女学校教諭に着任。1950年、個人雑誌「ペルソナ」を創刊して、従来創作していた短歌から離れる。1953年、尼僧・杉村春苔に出会い、大きな影響を受ける。1962年、森信三の教示を受けて、自らの詩をつづった月刊詩誌「詩国」を創刊。1,200部を無料で配布した。
古屋 亨(ふるや とおる、1909年1月6日 - 1991年… 古屋 亨(ふるや とおる、1909年1月6日 - 1991年6月20日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士、政治家。衆議院議員、自治大臣兼国家公安委員会委員長。正三位勲一等旭日大綬章。
藤原 与一(ふじわら よいち、1909年1月6日 - 200… 藤原 与一(ふじわら よいち、1909年1月6日 - 2007年10月23日)は、日本の言語学者・方言学者。広島大学名誉教授。愛媛県大三島(現・今治市)出身。 愛媛県越智郡大三島町肥海に生まれる。15歳で松山の愛媛県師範学校に入学、広島高等師範学校(広島文理科大学)に進学し、2年時に赴任してきた方言研究者の東条操に師事して方言学に進む。そのころより全国の方言調査を行った。東条を通して柳田国男とも交流を持った。在学中の1933年に、生家の隣にある金剛寺の梵鐘についての著作「梵鐘を鋳る」を発表、井伏鱒二はこれをなぞって連作エッセイ『釣鐘の音に関する研究』を執筆。 広島大学教授定年退官後は広島方言研究所を設立し、多数の著書を出版した。
十一代目 市川 團十郎(いちかわ だんじゅうろう、1909年… 十一代目 市川 團十郎(いちかわ だんじゅうろう、1909年(明治42年)1月6日 - 1965年(昭和40年)11月10日)は、日本の歌舞伎役者。本名は堀越 治雄(ほりこし はるお)。位階は従四位。屋号は成田屋。定紋は三升、替紋は杏葉牡丹。俳名は五粒。 海老蔵時代、「花の海老さま」として空前のブームを巻き起こした美貌で知られ、品格ある風姿、華のある芸風、高低問わずよく響く美声などを売り物とした、戦後歌舞伎を代表する花形役者の一人。 東京府東京市日本橋区(現中央区日本橋)に、七代目松本幸四郎の長男として生まれる。誕生時の本名は藤間治雄。次弟の順次郎は後に八代目松本幸四郎を、末弟の豊は後に二代目尾上松緑を襲名して、いずれも戦後昭和の東京大歌舞伎の屋台骨を支える名優に成長した。
津村 信夫(つむら のぶお、1909年〈明治42年〉1月5日… 津村 信夫(つむら のぶお、1909年〈明治42年〉1月5日 - 1944年〈昭和19年〉6月27日)は、日本の詩人。兄は映画評論家の津村秀夫。 法学博士・津村秀松を父として、兵庫県神戸市葺合区に生まれる。官僚・小山健三は祖父。神戸一中を卒業して慶應義塾大学経済学部に入学し以後は東京に住む。慶大予科に在学中に肋膜炎にかかり、1927年(昭和2年)10月、鎌倉・坂ノ下の旅館海月楼に滞在して予後を養う。翌年3月にかけてしばしば訪れる。療養期間中に文学への素養を深めた。1930年(昭和5年)に白鳥省吾が主宰する文芸誌『地上楽園』の同人に加わり、それに詩作を発表するようになる。室生犀星に師事し、生涯にわたってその指導と愛顧を受ける。
横山 治助(よこやま じすけ、1909年 <明治42年> 1… 横山 治助(よこやま じすけ、1909年 <明治42年> 1月5日 - 1992年 <平成4年> 8月17日 )は、日本の経営者。肥後銀行頭取を務めた。位階は正五位。 熊本県出身。1930年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、高文行政科にも合格し、同年に朝鮮総督府に入庁した。1950年に鹿本製糸社長、1953年に熊本県教育長、1963年6月に同県出納長を経て、1965年5月に肥後銀行に転じ、常任監査役に就任し、1967年4月に常務、1968年10月に専務を経て、1971年5月に副頭取に就任し、同年11月には頭取に昇格した。1984年4月に会長に就任し、1990年6月には顧問に就任。 1979年4月に勲三等瑞宝章を受章。
高橋 亘(たかはし わたる、1909年1月4日 - 2005… 高橋 亘(たかはし わたる、1909年1月4日 - 2005年8月19日)は、日本の哲学・宗教学者。 東京出身。1923年京都帝国大学文学部独文科入学、転じて1934年哲学科卒。のち静岡大学教授を務め、1972年定年退官、名誉教授。
高城 元(たかぎ はじめ、1909年 <明治42年> 1月4… 高城 元(たかぎ はじめ、1909年 <明治42年> 1月4日 - 1989年 <平成元年> 11月15日)は、日本の官僚、経営者。商工組合中央金庫理事長を務めた。 東京都出身。1932年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、高文行政科にも合格。通商産業省東京通産局長、日本商工会議所、東京商工会議所各専務理事を経て、1967年11月から1975年11月までに商工組合中央金庫理事長を務めた。1976年には日刊工業新聞社社長に就任し、1978年12月に会長を経て、1980年には相談役に退いた。 1972年9月に藍綬褒章を受章し、1979年5月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年11月15日老衰のために死去。
戸川 敬一(とがわ けいいち、1909年1月2日 - 200… 戸川 敬一(とがわ けいいち、1909年1月2日 - 2002年4月9日)は、日本のドイツ文学者。専門はドイツ思想史。上智大学名誉教授。 愛知県豊橋市生まれ。東京市立市谷尋常小学校卒業。早稲田中学校卒業。1932年上智大学文学部ドイツ文学科卒業。1932-1936年ドイツのミュンヘン大学、ベルリン大学、およびスイスのフリブール大学に留学、哲学博士。 帰国後、1936年上智大学文学部講師、助教授、教授、文学部長、上智学園理事を務め、1979年定年、名誉教授。1979‐2000年中村学園監事。日独協会、OAG(ドイツ文化研究所)、アイヒェンドルフ協会などに所属した。
柴谷 貞雄(しばたに さだお、1909年1月2日 - 200… 柴谷 貞雄(しばたに さだお、1909年1月2日 - 2001年9月24日)は、日本の実業家。阪急電鉄の社長、会長を務めた。大阪府堺市出身。 東京大学法学部を卒業し、阪急電鉄に入社した。1978年、前任の森薫に続く「生え抜き」の社長に就任した。5期10年の在任期間中、1983年に日本の鉄道会社として初めて全駅に自動改札機を導入するなど革新的な経営を進め、「関西私鉄の雄」の基盤を強化した。社長在任中は阪急ブレーブスのオーナーでもあった(1980年夏から1988年)。 球団オーナー代行は山口興一(当時の阪急電鉄副社長で後に関西テレビ放送社長)、球団代表は岡田栄。阪急黄金期からの世代交代や年間観客動員の増加に向けてレディースデー、球場近辺の市民に対し感謝デーを設けるなどファンサービスを良くしてきた。
吾郷 清彦(あごう きよひこ、1909年1月2日 - 200… 吾郷 清彦(あごう きよひこ、1909年1月2日 - 2003年6月5日)は、超古代文献研究家、古神道研究家。島根県大田市出身。本名は吾郷哲夫(あごう てつお)。旧姓は三谷。吾郷家には養子として入った。 島根県邇摩郡宅野村立宅野小学校、旧制大田中学、旧満州の旅順工科大学電気工学科卒業後、満州電業の電気技師として、奉天市(現在は瀋陽市)などの火力発電所に勤務。日本の敗戦により帰国し、島根県および三重県にて新制中学・新制高校の教員を数年勤めた後、1952(昭和27)年から島根県営の水力発電所の建設と稼動に中心的役割を果たす。本職は電気技師であったが、定年退職後、在職中より取り組んでいた「日本の超古代史」「日本の神代文字」「古神道」の研究に専念した。
道家 忠道(どうけ ただみち、1909年1月2日 - 198… 道家 忠道(どうけ ただみち、1909年1月2日 - 1984年1月15日 )は、日本のドイツ文学者、翻訳家。東京大学名誉教授。 東京市本郷区湯島生まれ。九州門司で育ち、中学校時代より東京で生活する。1928年東京高等学校卒、1931年東京帝国大学独文科卒。1933年山形高等学校教授、1941年静岡高等学校教授、1947年東京高等学校教授、1950年東京大学教養学部助教授、1952年教授。1969年定年退官、名誉教授。1971年京都工芸繊維大学講師、1973年関西大学教授。1979年、退職。
壬生 基泰(みぶ もとやす、1909年〈明治42年〉1月2日… 壬生 基泰(みぶ もとやす、1909年〈明治42年〉1月2日 - 1979年〈昭和54年〉5月14日)は、日本の政治家、華族。貴族院伯爵議員。位階は従四位。勲等は勲六等。 陸軍軍人・壬生基義の長男として生まれる。父の死去に伴い1936年(昭和11年)12月15日、伯爵を襲爵した。 1932年(昭和7年)東京帝国大学文学部を卒業。1935年(昭和10年)陸軍騎兵少尉に任官。騎兵第1連隊留守隊付、陸軍兵器本部付兼陸軍省整備局付、軍需省軍需官、商工省嘱託などを歴任。陸軍騎兵大尉に昇進して退官した。その後、大建産業嘱託、鉄鋼統制会勤務などを務めた。 1946年(昭和21年)6月27日、貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
星野 慎一(ほしの しんいち、1909年1月1日 - 199… 星野 慎一(ほしの しんいち、1909年1月1日 - 1998年12月17日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。 新潟県長岡市生まれ。旧制新潟県立長岡中学校、旧制新潟高等学校を経て、1932年東京帝国大学文学部独逸文学科卒業。旧制成城高等学校教授、埼玉大学文学部教授、東京教育大学教授。1961年「ライナー・マリア・リルケの伝記的研究」により東京大学文学博士。1971年頃教育大を定年後、南山大学教授を務め、1991年長岡市史編集委員長。1998年、89歳で没。1999年、星野の蔵書が長岡市立中央図書館に寄贈され、星野慎一文庫と名付けられた。 リルケなどドイツの詩を翻訳研究するほか、短歌、俳句にも関心が深かった。
伊達 秋雄(だて あきお、1909年(明治42年)1月1日 … 伊達 秋雄(だて あきお、1909年(明治42年)1月1日 - 1994年(平成6年)12月25日)は、日本の裁判官、弁護士、法学者。法政大学名誉教授。砂川事件一審において、日米安全保障条約によるアメリカ軍の駐留は日本国憲法違反とする判断を示したことで知られる。長男の伊達寛は東京メトロポリタンテレビジョン社長[要出典]。 大分県出身。旧制静岡県立掛川中学校を経て旧制静岡高等学校に進んだ。高校時代、軍事教練に反対して安倍川渡河演習を拒否したり、銃掃除の命令に従わなかったことがあったという。 京都帝国大学卒業。1933年(昭和8年)判事となる。1942年(昭和17年)、満州国司法部刑事司参事官となったが、この時期、不当に拘束され強制労働をさせられた中国人らを次々と釈放していた、との逸話がある。
樋口 清之(ひぐち きよゆき、1909年1月1日 - 199… 樋口 清之(ひぐち きよゆき、1909年1月1日 - 1997年2月21日)は、日本の考古学者・歴史作家。國學院大學名誉教授、國學院大學考古学資料館名誉館長、國學院大學栃木短期大学名誉学長、全日本博物館学会名誉会長。文学博士。専門は考古学・民俗学。紫綬褒章、勲三等旭日中綬章受章。 奈良県桜井市生まれ。先祖は、織田長益(有楽斎)に発する旧家である。旧制奈良県立畝傍中学校在学中に、学術誌に十数篇の論考を投稿していた。1927年、鳥居龍蔵を慕って國學院大學に入学。1932年(昭和7年)國學院大學文学部国史学科卒業。在学中の1928年(昭和3年)4月には、自身の収集品をもとに博物館の必要性を訴えたことで、國學院大學内に考古学標本室が創設された。
亀井 光(かめい ひかる、1909年(明治42年)1月1日 … 亀井 光(かめい ひかる、1909年(明治42年)1月1日 - 1986年(昭和61年)9月26日)は、日本の内務・労働官僚、政治家。参議院議員(1期、自由民主党)、福岡県知事(第6代-第9代)。陸軍司政官。 自由民主党元衆議院議員の太田誠一は女婿。 福岡県小倉市(現在の北九州市小倉北区)古船場町出身。藤吉の三男。 旧制小倉中学、旧制福岡高等学校を経て、1935年(昭和10年)東京帝国大学法学部卒業。内務省に入省。社会局属。労働省労働基準局長、労政局長などを歴任し、1960年(昭和35年)労働事務次官。1962年(昭和37年)参議院議員に当選、大蔵政務次官をつとめた。 1967年(昭和42年)4月、保守・中道統一候補として福岡県知事選挙に出馬し当選。