藤田 明(ふじた あきら、1908年1月1日 - 2001年… 藤田 明(ふじた あきら、1908年1月1日 - 2001年5月29日)は、日本の水泳・水球選手。ロサンゼルス五輪(1932年)水球日本代表選手主将兼コーチ。元日本水泳連盟会長。実業家、元日本ゼオン専務、関東ゴム社長。早稲田大学商学部卒業。広島県広島市出身。 後年、広島平和記念公園となる広島市中島町の生まれ。中島小学校の先生に水泳にも堪能だった多田徳雄がいて正しい泳法を習う。広島一中(現広島県立国泰寺高校)で水泳部を創部し水泳・水球の名選手として鳴らした。尊敬する中学の先輩・沖田芳夫、織田幹雄を追い早稲田高等学院、早稲田大学と進学する。その全てで主将を務めた。全国から水の英才が集結し、第一次黄金時代を誇った早稲田大学水泳部で活躍する。
前田 敏男(まえだ としお、1908年(明治41年)1月1日… 前田 敏男(まえだ としお、1908年(明治41年)1月1日 - 1991年(平成3年)7月24日)は、日本の建築学者。建築環境工学の開拓者でかつ熱環境工学の確立者。京都大学総長、日本建築学会会長などを歴任した。日本建築学会賞、日本建築学会大賞などを受賞。勲一等瑞宝章。京都大学名誉教授。 1908年(明治41年)1月1日、高知県吾川郡春野町弘中(現高知市)において、農家の三男として誕生。当時の農家の次・三男は農業を継ぐことはできなかったため、高等小学校卒業後の1923年(大正12年)、教員になるべく高知師範学校に進学した。4年生の時、運動会のアーチの設計を命じられて、参考書として手にした『大建築学』(三橋四郎著)によって建築を志すようになる。
川口 四郎(かわぐち しろう、1908年(明治41年)1月1… 川口 四郎(かわぐち しろう、1908年(明治41年)1月1日 - 2004年(平成16年)12月15日)は、日本の海洋生物学者。理学博士。岡山大学名誉教授。 愛知県生まれ。1930年(昭和5年)、東京帝国大学理学部動物学科卒業後、台北帝国大学副手、同大学講師、同大学助教授、岡山大学講師を経て、岡山大学教授に在任した(1949年 - 1973年)。岡山大学付属玉野臨海実験所(現牛窓臨海実験所)所長を併任。1957年(昭和32年)には、各大学の臨海実験所長が集まる会議に参加した後、皇居に招かれ、昭和天皇に対して座談会形式の合同進講を行った。 岡山大学を退職後、同大学名誉教授を経て、川崎学院教授に在任した(1973年 - 1978年)。
与良 ヱ (よら あいち、旧字体: 與良 ヱ、1908年1月… 与良 ヱ (よら あいち、旧字体: 與良 ヱ、1908年1月1日 – 1968年4月11日)は、日本の実業家。中部日本新聞社社長、共同通信社理事。 愛知県出身。父は名古屋新聞社社長を務めた与良松三郎。一風変わった名前は父・松三郎による命名である。元は出生の地にちなみ「愛知」と名づけようとしたが、画数の多さを感じ「アイチ」となり、更に考えを巡らせていくうちに「ア一」となり、最後には漢字のように見せようと一字に直し「ヱ」と名付けられた。 愛知一中を経て、1928年に名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)を卒業し、名古屋新聞社に入社した。1942年の新愛知新聞社との合併で誕生した中部日本新聞社発足の際には監査役に就任した。
石黒 四郎(いしぐろ しろう、1908年1月1日 - 196… 石黒 四郎(いしぐろ しろう、1908年1月1日 - 1968年7月24日)は、日本の外交官。位階は正三位。 外務省特殊財産局長や、賠償庁次長、駐ニュージーランド特命全権大使等を経て、駐メキシコ特命全権大使在任中病死した。 愛知県知多郡河和町(現・美浜町)出身。1930年(昭和5年)高等試験外交科合格。1931年(昭和6年)に東京商科大学(現一橋大学)を卒業して、外務省に入省し、在英国大使館や外務省東亜局第一課で勤務した。 1938年(昭和13年)から在中華民国大使館三等書記官及び在上海領事を務め、上海ユダヤ避難民に関し、犬塚惟重海軍大佐、安江仙弘陸軍大佐と現地調査会で調査を行い、上海ゲットーの整備などを進めた。
坂口 淳(さかぐち じゅん、1908年〈明治41年〉1月1日… 坂口 淳(さかぐち じゅん、1908年〈明治41年〉1月1日 - 1974年〈昭和49年〉8月18日)は昭和期の作詞家。本名は淳太郎。 長野県埴科郡松代町(現長野市)出身。上京後、写真館に勤めながら、西條八十の門下となる。1949年キングレコード専属、のちにヴィクターに移籍。1956年詩誌『熊ん蜂』を創刊し、1974年に脳卒中で死去するまで発行を続けた。随筆集に『石神井だより』、童謡集に『光と風と花と』がある。 「マロニエの木陰」、「子鹿のバンビ」などの童謡を作詞した。松代町の真田公園には、「子鹿のバンビ」の歌碑がある。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。
時任 巌(ときと いわお、1908年(明治40年)- 没年不… 時任 巌(ときと いわお、1908年(明治40年)- 没年不明)は、日本の水球選手で1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した。 1908年、北海道函館区(現在の函館市)に生まれる。北海道庁立函館中学校(現在の北海道函館中部高等学校)で水球に励み、早稲田大学を卒業した後は中華民国大連市の南満洲鉄道本社に勤務し、地方部地方課に所属した。1932年のロサンゼルスオリンピックでは水球の日本代表として出場した。フルバックのポジションでハンガリー戦、アメリカ戦、ドイツ戦の全てに出場したが、他の全ての日本選手と同じく、ゴール数は全て0に終わった。戦後は東京都北多摩郡保谷町(現在の西東京市)に暮らし、日本水泳連盟理事を務めた。
小川 登喜男(おがわ ときお、1908年 - 1949年)は… 小川 登喜男(おがわ ときお、1908年 - 1949年)は、日本の登山家。東京都出身。 東京高等学校 (旧制)、東北帝国大学、東京帝国大学で、山岳部に属し、スキー登山により、蔵王、八幡平で活躍し、東大では、谷川岳一之倉沢、穂高岳屏風岩、剣岳雪稜などを初登攀した。肺結核で若死にし、長く、その登山の偉業が知られることがなかったが、東北帝国大学時代に残した日記の精査により、近年、伝記が上梓され、昭和の天才登山家と評されるまでになっている。
下津 清太郎(しもづ せいたろう、1908年 - 1996年… 下津 清太郎(しもづ せいたろう、1908年 - 1996年)は、日本の歴史家、官僚。 三重県津市出身。三重県立津中学校(現三重県立津高等学校)、第八高等学校卒、1931年東京帝国大学法学部卒。東京市、名古屋市で自治行政に携わる。のち京都地方裁判所司法委員。本務のかたわら西洋史を研究した。
西川 久壽男 (にしかわ くすお、1908年 - 2008年… 西川 久壽男 (にしかわ くすお、1908年 - 2008年)は、長野県の教育者、書家。雅号は秋象(しゅうしょう)。 長野県生まれ。生家の西川豊後守藤原社家は「家学(かがく)」として、代々有職故実、太鼓・鼓・笛・和歌・書などに嗜んできた。 三重県伊勢市の旧制神宮皇學館附属中学(現皇學館中学校・高等学校)在学中から、書を尾上柴舟(書家・歌人、女子学習院《現学習院女子大学》教授)に師事し、18歳で院展入選、書家活動を開始。官立神宮皇学館大学歴史科卒業後、同政教学部卒業。 その間、尾上柴舟の紹介で京都大学・吉澤義則教授の研究室(国文学)に足繁く通い、教えを受ける。北京大学、台北大学などの講師を務める。
池尻 愼一(いけじり しんいち、1908年 - 1945年)… 池尻 愼一(いけじり しんいち、1908年 - 1945年)はハンセン病を専門とした医師、作家。ハンセン病、ハンセン病患者と真剣に向かいあい、作品『傷める葦』は1年未満で30版を数えた。太平洋戦争で応召し、1945年1月ジャワで戦死した。ペンネームは邑楽 愼一(おおら しんいち)。陸軍軍医の最終階級は軍医中尉。 1908年、福岡県浮羽郡水縄村大字益生田(現・久留米市)生まれ。父・池尻久四郎は郡医師会長を務めた人物であったが、愼一の生母とは正式の結婚でなかったので、彼は一時ぐれた。福岡県中学明善校(福岡県立明善高等学校の前身)に入学していたが、2年後叔父を頼って熊本にいき、熊本の鎮西中学校(後の鎮西高等学校)を卒業した。
留岡 彬(とめおか あきら、旧姓・池畑、1908年-2002… 留岡 彬(とめおか あきら、旧姓・池畑、1908年-2002年)は、日本の洋画家。光風会会員、鹿児島市立美術館顧問。戦後光風会展や日展で活動し、京都画壇で活躍。重厚で色彩豊かな風景作品を発表した。 鹿児島県日置郡伊集院町(現日置市)生まれ。大牟礼南島が指導する鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、1928年に東京美術学校 (旧制)西洋画科へ進学し藤島武二に師事。1933年に同校を卒業。教員となり滋賀県立大津高等女学校に赴任。1941年京都市へ移る。京都市立美術工芸学校の後身京都市立日吉ヶ丘高等学校西洋画科(後の京都市立銅駝美術工芸高等学校)で教諭を務める。 1954年第40回光風会展でK氏賞を受賞。
家本 秀太郎(いえもと ひでたろう 1908年 - 1979… 家本 秀太郎(いえもと ひでたろう 1908年 - 1979年)は経済学者。神戸大学経済学部名誉教授。正四位勲三等瑞宝章。産業連関表で有名な米国経済学者のワシリー・レオンチェフの主著「アメリカ経済の構造」を訳した。クララオンラインの創業者である家本賢太郎は孫。
石田 英二(いしだ えいじ、1908年 - 1980年)は、… 石田 英二(いしだ えいじ、1908年 - 1980年)は、日本の英文学者、翻訳家。 1932年京都帝国大学文学部卒業。西京大学教授、1960年頃京都府立大学教授、1970年頃ノートルダム女子大学教授。英米文学の翻訳を多く行った。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
藤田 信勝(ふじた のぶかつ、1908年 - 1980年)は… 藤田 信勝(ふじた のぶかつ、1908年 - 1980年)は、日本の新聞記者。 米国カリフォルニア州生まれ。京都帝国大学法学部卒業後、大阪毎日新聞に入社。1947年に『敗戦以後』出版。ロンドン支局長となり『不思議な国イギリス』で56年日本エッセイストクラブ賞受賞。毎日新聞論説副委員長、ラッセル協会会員、日本BCL連盟理事。毎日新聞論説委員。夕刊コラム「余録」を執筆した。
吉谷 仁士(よしたに ひとし、1908年(明治41年) - … 吉谷 仁士(よしたに ひとし、1908年(明治41年) - 1959年(昭和34年))は、日本の政治家。長野県中野市長。 長野県下高井郡中野町(現中野市)生まれ。旧制第四高等学校を経て、京都帝国大学経済学部卒業。南満州鉄道に入社し、敗戦により1947年(昭和22年)に引き揚げた。同年、新制の町立中野中学校教諭となった。長野県教員組合書記長、長野県総合開発局勤務、農村研究所専務などを務めた。 1954年(昭和29年)8月、中野市長選挙に当選し、初代市長となり1958年(昭和33年)8月まで1期務めた。在任中は市役所の各審議会の設置や都市基盤整備、山林農業や商工業の振興を図り、民主的な市政運営の実現に努めた。
石田 英勝(いしだ ひでかつ、1908年 - 1945年)は… 石田 英勝(いしだ ひでかつ、1908年 - 1945年)は、大分出身の飛込競技選手であり飛行家。日本代表として1932年のロサンゼルスオリンピックに出場した。 1908年(明治41年)、大分県臼杵に生まれる。この地で伝統ある山内流遊泳クラブに在籍して志村弘の指導を受け、1925年(大正14年)にクラブを卒業。身長162㎝。慶應義塾大学の出身。相羽有が主催する日本飛行学校に入学して二等飛行士となり、深川区洲崎にあった亜細亜航空学校に勤めた。そのかたわらで飛込競技に励み、1929年(昭和4年)度は高飛び込み第6位、1930年(昭和5年)度は高飛び込み第3位、1931年(昭和6年)度の全日本選手権ではついに優勝を果たす。
川崎 芳隆(かわさき よしたか、1908年 - 1971年)… 川崎 芳隆(かわさき よしたか、1908年 - 1971年)は、日本のドイツ文学者。東京帝国大学独文科卒。群馬大学教授を務めた。多くのドイツ文学を翻訳した。
木下 秀夫(きのした ひでお、1908年 - 1989年)は… 木下 秀夫(きのした ひでお、1908年 - 1989年)は、日本の翻訳家。 東京外国語学校英語科卒業。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
勝田 千利(かつた ちとし、1908年 - 1981年)は、… 勝田 千利(かつた ちとし、1908年 - 1981年)は、昭和期の建築学者である。1959年(昭和34年)に被害を齎した伊勢湾台風により補強コンクリートブロック造による「伊勢湾台風復興住宅」の設計、また関東大震災後の「柔剛論争」後の研究停滞期に免震構造の研究等で知られる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
金 午星(キム・オソン、김오성、1908年 - 1953年?… 金 午星(キム・オソン、김오성、1908年 - 1953年?)は、日本統治時代の朝鮮の共産主義理論家、文学評論家。本名は金亨俊(キム・ヒョンジュン、김형준)。 日本大学哲学科を卒業し、東京で雑誌『大衆之光』を発行した。1926年ころ、故郷の平安北道龍川で小作争議を指導し、1927年には東京学生読書会事件(동경학생 독서회사건)で検挙された。日本から帰ってきた1932年、天道教青年党機関誌『농민(農民)』を編集しながら、農村啓蒙運動に取り組み、朝鮮農民社(조선농민사)常任理事も務めた。 日本統治時代末期の1943年には、朝鮮文人報国会の隨筆評論部会評議員に選出され、親日派に変節した。この時期、金午星は朝鮮総督府の御用機関紙であった『毎日新報』に親日的論説を掲載した。
池田 勉(いけだ つとむ、1908年 - 2002年)は、日… 池田 勉(いけだ つとむ、1908年 - 2002年)は、日本の国文学者。学位は、文学博士(東洋大学・論文博士・1962年)(学位論文「源氏物語の制作過程に関する研究」)。成城大学名誉教授。 1934年広島文理科大学卒。1938年同窓の蓮田善明・清水文雄・栗山理一とともに『文藝文化』を創刊、1944年まで続け、日本浪曼派の一翼を担い、三島由紀夫を育てた。1962年「源氏物語の制作過程に関する研究」で東洋大学より文学博士の学位を取得。成城大学教授、1979年定年退任。
千賀 恒夫(せんが つねお、1908年(明治42年) - … 千賀 恒夫(せんが つねお、1908年(明治42年) - 没年不明)は、日本の建築家。 1932年(昭和7年)に横浜高等工業学校(現・横浜国立大学)を卒業後、宮内省入省。 1933年(昭和8年)内匠寮匠生に採用され、1937年(昭和12年)に宮内技手となる。二代目宮内省庁舎(現・宮内庁庁舎)、楽部庁舎などの設計に携わった。1945年(昭和20年)に退官。
曺 寧柱(そう ねいちゅう、朝: 최배달、1908年 - 1… 曺 寧柱(そう ねいちゅう、朝: 최배달、1908年 - 1996年)は、朝鮮の民族運動家、空手家。初代全日本空手道剛柔会副会長。剛柔流空手の大家で、日本本土における剛柔流の祖の一人。 山口剛玄と本土最古の剛柔流道場である立命館大学空手道部を創設。大山倍達の師としても著名である。 慶尚北道醴泉にて裕福な地主の家系に生まれる。大邱の嶠南学校在学中に学生運動に関わり検挙された。日本に留学し、立命館大学法学部に入学。京都朝鮮留学生学友会の会長に推挙された。また学生時代に空手を習得している。1939年、石原莞爾の知遇を得て、東亜連盟論に共鳴し、朝鮮の処遇改善を求めて、立命館大学や同志社大学の留学生を東亜連盟運動に勧誘し、1939年には釜山で講演を行っており、この講演会で大山倍達(崔永宣)に出会う。
木村 文俊(きむら ふみとし、1908年 - 1984年)は… 木村 文俊(きむら ふみとし、1908年 - 1984年)は、日本の駒師。第十四世名人木村義雄の実弟。 この項目は、将棋に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:ボードゲーム)。 この項目は、ゲーム関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝)。
木村 久(きむら きゅう、1908年 - 1937年)は、日… 木村 久(きむら きゅう、1908年 - 1937年)は、日本の元プロボクサー。本名は木村久五郎で、「木村久」はリングネーム。アメリカでも活躍し、"ノックアウトQ"の異名で知られ、絵物語『ノックアウトQ』のモデルにもなった。岩手県花巻市出身。 岩手から上京し浅草で働いていたが、近くのジムを覗き込んだのが縁でボクシングを始める。その後、木村の草試合を見た当時の名選手、荻野貞行と佐藤東洋のスカウトを受け、両者の帝国拳闘協会(帝拳プロモーション)設立に合流。 1926年7月、帝拳創立記念試合に登場、佐藤東洋との模範試合でデビュー。翌月の佐藤との6回戦で引分ける。そして同年9月に帝拳はアメリカ遠征を敢行、木村もその一員として渡米した。
瀬野 修(せの おさむ、1908年 - 1995年)は、日本… 瀬野 修(せの おさむ、1908年 - 1995年)は、日本の教師、兵士、歌人、作家。択捉島に出征後、敗戦後シベリアにて抑留中に和歌集『白樺日誌』を書き、日本に持ち帰ったことで知られる。基本的に名前は「修」表記であるが、国立情報学研究所では「脩」表記である。 1908年、京都府舞鶴市に生まれる。その後、旧制舞鶴中学校(現・京都府立西舞鶴高等学校)の教師として働いたのち、太平洋戦争において択捉島に兵士として出征後、終戦を迎え抑留される。ソ連コムソモリスク近郊の収容所を転々としながらシラカバの木の皮を使い、ガラスをとがらせペンに、煙突のすすをインク代わりにし全200-300首の和歌を書いた。 1947年に引き揚げされた時に白樺日誌を持ち帰り、1988年に舞鶴引揚記念館に『白樺日誌』を寄贈した。
藤井 滋司(ふじい しげじ、1908年 - 1970年)は、… 藤井 滋司(ふじい しげじ、1908年 - 1970年)は、日本の脚本家。松竹下加茂撮影所の脚本部に所属しながら、トーキー黎明期の京都にかつて存在した会社組織を超えた脚本家集団「鳴滝組」に参加、映画史に名を残す。 1908年(明治42年)に生まれる。1922年(大正11年)、旧制京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)に入学、当時の同級生、のちの映画監督の山中貞雄とは親しく、映画好きの仲間であった。1学年上に当時すでに映画俳優だったのちの映画監督マキノ正博がいた。 1933年(昭和8年)頃、松竹下加茂撮影所脚本部に入社、同年、劇作家木村錦花の歌舞伎台本を木村富士夫と共同で脚色した井上金太郎監督の『弥次喜多』で脚本家としてデビュー、同作は正月映画として同年末12月31日に公開された。
土井 忠雄(どい ただお、1908年 - 1994年)は、日… 土井 忠雄(どい ただお、1908年 - 1994年)は、日本の仏教学者、真宗学者。京都女子大学名誉教授。浄土真宗本願寺派勧学。広島県生まれ。 長年の蔵書を中央仏教学院に寄贈し、土井文庫となる。現在入手不可能な本も多数あり。
米山 弘(よねやま ひろし、1908年(明治41年) - 1… 米山 弘(よねやま ひろし、1908年(明治41年) - 1987年(昭和62年)1月24日)は、茨城県出身の競泳選手。旧制茨城県立水戸中学校、第一早稲田高等学院、早稲田大学商学部卒業。1928年アムステルダムオリンピック男子800m自由形リレー銀メダリスト。 1928年のアムステルダムオリンピック競泳男子800m自由形リレーで佐田徳平、新井信男、高石勝男とともに銀メダルを獲得。
田中 哲郎(たなか てつろう、1908年〈明治41年〉 - … 田中 哲郎(たなか てつろう、1908年〈明治41年〉 - 1974年〈昭和49年〉2月19日)は、日本の大蔵技官、酒類鑑定官、酒造技術指導者。元関東信越国税局鑑定官。「新潟銘酒の父」と呼ばれる。 新潟県新潟市出身。1924年(大正13年)3月に新潟中学校を卒業、1928年(昭和3年)3月に長岡高等工業学校応用化学科を卒業、長岡市の加藤製油所に勤務したのち、新井町の田中酒造場(現 君の井酒造)で、2年間、酒造りを修行。 1930年(昭和5年)に新潟県商工技手に任官、新潟県醸造試験場に着任、1938年(昭和13年)に名古屋税務監督局技手に任官、1941年(昭和16年)に名古屋財務局技手に任官、1943年(昭和18年)に新潟財務局技手に任官。
二木 秀雄(ふたき ひでお、1908年 - 1992年9月1… 二木 秀雄(ふたき ひでお、1908年 - 1992年9月18日)は、日本の細菌学者、医師、実業家、宗教家。 石川県立金沢第一中学校(現石川県立金沢泉丘高等学校)卒業(34期)。 1936年3月から1937年12月まで、金沢医科大学 (旧制)(現金沢大学医学部)細菌学教室講師を務めた。1938年11月18日、金沢医科大学 (旧制)より医学博士号を取得。 のち大日本帝国陸軍技師となり、731部隊(関東軍防疫給水部本部)に所属、第一部第十一課結核班(二木班)班長。 1945年頃、金沢市で与論社を創設し、雑誌『パブリックオピニオン』を発行。1946年上京し、雑誌『日本与論』を発行した。同年、ジープ社社長として、右翼系政界誌『政界ジープ』を創刊。
奥田 久司(おくだ ひさし、1908年(明治41年) - 1… 奥田 久司(おくだ ひさし、1908年(明治41年) - 1987年(昭和62年)9月10日)は日本の映画プロデューサー、映画史研究家。 1908年(大正15年)生まれ。旧制京都一中を卒業後、映画界か小説家か進路に迷った末に、早稲田大学ロシア文学科に入学。 1934年(昭和9年)、早大を病気で中退し、銀座にあった映画の通信社の「日本演芸通信社」に入社。デスクを務め、7年間在籍する。 1941年(昭和16年)、映画界への夢をあきらめられず、友人の紹介で北京の国策映画撮影所「華化映画」に入所。 1944年(昭和19年)、「大日本映画製作株式会社」に入社。監督志望だったが、企画部に配属となる。 1945年(昭和20年)、日本敗戦。
梅林 孝次(うめばやし たかつぐ、 1908年〈明治41年〉… 梅林 孝次(うめばやし たかつぐ、 1908年〈明治41年〉 - 1937年〈昭和12年〉8月16日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍大尉(殉職により一階級死後進級)。海軍陸攻搭乗員。 揚州への渡洋爆撃に指揮官代理として参加し、中華民国空軍戦闘機との戦闘で乗機が撃墜された際、黒煙の中から僚機に白いハンカチを振って別れを告げて自爆したことから、その散り際の見事さが戦場美談として伝えられた。 兵庫県神戸市にて卸売業・梅林行運とさきの次男として生まれる。神戸市・楠尋常小学校に入学、翌年、武庫郡(現・芦屋市)の精道小学校に転校。1920年(大正9年)、第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)に進学するが、父が徳島県の那賀郡桑野村阿瀬比(現阿南市阿瀬比町)にて大理石の採掘を始めたため、1922年(大正11年)、一家で徳島市富浦町東富田に移り住み、徳島中学校(現:徳島県立城南高等学校)に転校。
佐伯 喜三郎(さえき きさぶろう 1908年 - 1939年… 佐伯 喜三郎(さえき きさぶろう 1908年 - 1939年8月1日)は、日本の元アマチュア野球選手。兵庫県出身。 姫路中学(現・兵庫県立姫路西高等学校)から1927年に早稲田大学専門部に進み、野球をプレーした。ポジションは三塁手だった。大学野球で俊足の打者として頭角を現し、1931年には日米野球の全日本選抜メンバーに選出された。1932年度のリーグ戦では2番打者として活躍し、1番打者だった三原脩と並んで早大野球部史上最高の快脚コンビと謳われた。 早大卒業後応召され中国へ従軍。1939年8月1日に北支大名県竜王廟鎮で戦死した。享年30。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、彼の名が刻まれている。
坂本 文子(さかもと ふみこ、1908年〈明治41年〉 - … 坂本 文子(さかもと ふみこ、1908年〈明治41年〉 - 1988年〈昭和63年〉6月26日)は、日本の平和運動家。広島県広島市中区の千田保育園初代園長。広島市への原子爆弾投下による被爆者の1人。広島県広島市天神町(後の中区中島町)出身、広島市立第一高等女学校(以下、市女と略。後の広島市立舟入高等学校)卒業。 天神町の酒屋の長女として誕生。市女を卒業した後、19歳で結婚し、1男1女に恵まれた。 広島市舟入本町在住であった1945年(昭和20年)8月6日、広島市に原子爆弾が投下された。当時13歳の長女は爆心地からわずか500メートルの場所で建物疎開に動員されていために重傷を負い、その日の内に母の目の前で死去した。
佐藤 源治(さとう げんじ、1908年(明治41年) - 1… 佐藤 源治(さとう げんじ、1908年(明治41年) - 1995年(平成7年)6月9日)は、日本の教育者、民俗学者。朝日村名誉村民(現・鶴岡市名誉市民)。栄典は従四位・勲四等・旭日小綬章。
水原 義明(みずはら よしあき 1908年 - 1945年1… 水原 義明(みずはら よしあき 1908年 - 1945年10月31日)は、日本の元アマチュア野球選手。香川県出身。
大森 寛(おおもり かん、1908年(明治41年) - 20… 大森 寛(おおもり かん、1908年(明治41年) - 2002年(平成14年)6月18日)は、青森県出身の旧内務省官僚及び陸上自衛官。東京帝国大学昭和5年度卒業。第4代陸上幕僚長。息子に大森義夫(内閣情報調査室長)、大森敬治(防衛施設庁長官、内閣官房副長官補、駐オマーン大使)。旧姓・石岡。
軽部弥生一(かるべ やよいち、1908年 - 1989年7月… 軽部弥生一(かるべ やよいち、1908年 - 1989年7月2日)は、日本の官僚。福井県出身。
筧 泰彦(かけひ やすひこ、1908年 - 2000年1月1… 筧 泰彦(かけひ やすひこ、1908年 - 2000年1月11日)は、日本の思想史学者・倫理学者・国体学者・神道思想家。
高橋 外喜雄(たかはし ときお 1908年 - 1944年1… 高橋 外喜雄(たかはし ときお 1908年 - 1944年11月18日)は、日本の元アマチュア野球選手。東京都出身。
高野 国本(こうの くにもと、1908年 - 1987年12… 高野 国本(こうの くにもと、1908年 - 1987年12月11日)は、元NHKのアナウンサーで、昭和初期のスポーツ中継放送黎明期におけるスポーツアナウンサー。特に1933年の中京商対明石中延長25回試合の実況中継を担当した事で知られる。 青山学院大学卒業、大学では子供好きだったため童話部に所属し、毎週土曜日の午後、大学の近所の子供達を集めて童話を語って聞かせていた。時々童話作家の久留島武彦や安倍季雄が姿を見せて指導を受けた。 毎年2回、大学の講堂で二千人の子供達を集め、マイク無しで話して声を鍛える。 1931年5月、JOBK(現:NHK大阪放送局)に入局、同年のJOBKの新人アナウンサーは高野を含めて6名。
安田 二郎(やすだ じろう、1908年(明治41年) - 1… 安田 二郎(やすだ じろう、1908年(明治41年) - 1945年(昭和20年)2月27日)は、日本の中国哲学研究者。宋明理学や戴震『孟子字義疏証(中国語版)』の研究で業績を残した。吉川幸次郎らに将来を嘱望されたが、37歳の若さで病没した。 岐阜県養老郡笠郷村船附出身。名古屋の八高に入学後左翼とみなされ中退するが、京都帝国大学文学部長の濱田耕作の許可により進学。1935年(昭和10年)同哲学科(通称「純哲」)卒業。純哲では田辺元に武内義範らと師事する。卒業論文は『中庸について』。 純哲の大学院に進学し朱子学を専攻。吉川幸次郎の講読に出席した際、中国哲学科の学生よりも優秀だったため吉川に注目される。
桑原安治(くわばら やすはる、1908年 - 1985年12… 桑原安治(くわばら やすはる、1908年 - 1985年12月26日)は、日本の眼科医。 埼玉県出身。1932年慶應義塾大学医学部卒、37年「色神の時間刺戟閾價に関する研究」で医学博士。東京医科大学眼科教授。1962年慶応義塾大学医学部眼科教授となる。74年定年、東海大学医学部教授、白内障研究所所長、桑原眼科クリニック院長を務めた。
武田 三一(たけだ さんいち、1908年 - 1986年12… 武田 三一(たけだ さんいち、1908年 - 1986年12月1日)は、日本の医師・医学博士。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
李 判烈(イ・パニョル、朝鮮語: 이판열/李判烈、1908年… 李 判烈(イ・パニョル、朝鮮語: 이판열/李判烈、1908年 - 1950年12月9日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の中学校長、政治家。第2代韓国国会議員(任期中に死去)。 イ・パルリョル(漢字同、이판렬)とも表記される。 本籍は全羅南道光山郡。中央大学法学部卒。政界入り前は中学校長、精米業などを営んだ。政界では民主国民党求礼郡党委員長を務め、1950年の第2代総選挙に民主国民党の公認で求礼郡選挙区から出馬して当選し、国会議員を務めた。しかし、1950年12月に実地調査中に昇州郡(現・順天市)付近で北朝鮮側の敗残兵による奇襲を受け、同行していた警官11名とともに殺害された。任期中であったため1952年2月5日に補欠選挙が行われ、自由党所属の李漢昌が当選した。
葉 秋木(よう しゅうぼく、1908年 - 1947年3月8… 葉 秋木(よう しゅうぼく、1908年 - 1947年3月8日)は台湾の政治家。 日本の中央大学に留学、東京における台湾留学生の左翼運動に参加し台湾文化同好会を設立している。卒業後はコンクリートや原木の輸入事業を行っている。終戦後に台湾が国民政府により接収されると、三民主義青年団屏東分団により屏東に派遣され、1946年3月に屏東市参議会参議員に当選、副議長に推薦された。 1947年、二・二八事件が台北市で発生すると、混乱は屏東市に及び市民による暴動が発生した。市長の龔履端が逃亡すると3月初に屏東市に二・二八事件処理委員会屏東分会が成立し。参議会議長の張吉甫は病気を理由に事態収拾に参加することを拒否したことで葉秋木が臨時市長に推薦された。
的場 徳造(まとば とくぞう、1908年 - 1985年4月… 的場 徳造(まとば とくぞう、1908年 - 1985年4月26日)は、日本の農業経済学者。専門は、主にソビエト連邦の農業経済学。 1936年、東京帝国大学文学部西洋史学科を卒業後、同大学院に進む。1937年、外務省調査部嘱託としてソ連、特にその農業を研究。1947年農林省農業経済研究所に入所し、海外部長、九州支所長を歴任する。1975年日本大学経済学部教授に就任し、1979年に退職した。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
井上 正忠(いのうえ まさただ、1908年(明治41年)- … 井上 正忠(いのうえ まさただ、1908年(明治41年)- 1982年(昭和57年)12月11日)は、昭和時代の鉄道官僚・実業家。陸軍司政官。京王帝都電鉄(現・京王電鉄)第4代代表取締役社長。同社の事実上の創業者である井上篤太郎の孫にあたる。 神奈川県出身。旧制・姫路高等学校を経て東北帝国大学法学部を卒業し、高等文官試験合格により、鉄道省に入省。仙台鉄道局副参事、同総務部人事課長、本省鉄道調査部事務官、東京鉄道局上野運輸事務所長等を歴任し、戦時中の1943年、陸軍司政官として占領地行政に従事した。 戦後は、運輸省を経て、日本国有鉄道常務理事西部支社長をつとめ、父の井上正幹が京王帝都電鉄の監査役を退任するに及び、同社常務取締役として入社。