有馬 頼萬(ありま よりつむ、1864年7月18日〈元治元年… 有馬 頼萬(ありま よりつむ、1864年7月18日〈元治元年6月15日〉- 1927年〈昭和2年〉3月21日)は、日本の華族(伯爵)。 旧筑後国久留米藩主・有馬家の第14代当主。昭和期の政治家で日本中央競馬会理事長を務めた有馬頼寧は子。 1864年(元治元年)、久留米藩最後の藩主・有馬頼咸の子として生まれる。母は側室・金田ミヨ。幼名は和之助といった。 1877年(明治10年)3月26日、病弱な兄の13代当主頼匡に代わり家督を継承し、4月に従五位に叙せられる。 1884年(明治17年)2月、宮内省式部職御用掛として出仕する。同年7月、華族令の公布にともない、伯爵の爵位が与えられた。1886年(明治19年)9月に宮内省を辞し、義兄にあたる小松宮彰仁親王とともに欧米諸国を歴訪した。
佐藤 虎次郎(さとう とらじろう、旧姓・茂木、1864年7月… 佐藤 虎次郎(さとう とらじろう、旧姓・茂木、1864年7月18日(元治元年6月15日) - 1928年(昭和3年)9月6日)は、日本の政治家、衆議院議員。政界進出以前に、オーストラリアの木曜島で実業家として活動していたことでも知られる。 1864年(元治元年)に武蔵国児玉郡太駄村(後の埼玉県本泉村、さらに本庄市の一部)に、庄屋であった茂木太平の次男、ないし、三男として生まれた。 横浜の実業家であった原善三郎の家に奉公し、商法と英語を学んだ後、1884年8月に渡米してミシガン大学に学び、そこで南方熊楠と親交を結んだ。1890年6月ころまでは、アナーバーにとどまった。帰国後は国民自由党系の活動家としてさまざまな動きに関わった。
安藤 厳水(あんどう いずみ、1864年7月15日(元治元年… 安藤 厳水(あんどう いずみ、1864年7月15日(元治元年6月12日)- 1935年(昭和10年)1月28日)は、現在の高知県出身の武士、陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1864年(元治元年)土佐国土佐郡小高坂村(現高知県高知市)の武士、安藤厳技の長男に生まれる。[要出典] 1883年(明治16年)12月25日、陸軍士官学校(旧6期)を卒業し、同日、歩兵少尉に任じられた。1904年(明治37年)3月、皇族附武官(守正王附)に就任し、1905年(明治38年)10月、歩兵第49連隊長に転じ、1906年(明治39年)12月、歩兵大佐に進んだ。1910年(明治43年)11月、陸軍少将となり歩兵第5旅団長に就任。
千葉 胤明(ちば たねあき、1864年7月14日(元治元年6… 千葉 胤明(ちば たねあき、1864年7月14日(元治元年6月11日) - 1953年(昭和28年)6月25日)は、東京府士族、歌人、書家、日本芸術院会員。親族:秋山虎六、天本浩義。 肥前佐賀出身。1881年佐賀中学校卒。1884年佐野常民に師事、竜地会事務職に就く。1885年高崎正風に師事、和歌を学ぶ。書を長三州に学ぶ。1888年農商務省博覧会勤務。1890年内国勧業博覧会、パリ万国博覧会事務。1892年宮内省御歌所勤務。1908年御歌所寄人。1916-1919年明治天皇御製編纂に従事。1936-1944年歌会始点者。1937年帝国芸術院会員。1946年従三位に叙せられた。墓所は青山霊園。 近衛公爵、徳川公爵、大山公爵、前田侯爵、蜂須賀侯爵、鍋島侯爵等へ伺う。
本田 親済(親濟、ほんだ ちかなり、1864年7月13日(元… 本田 親済(親濟、ほんだ ちかなり、1864年7月13日(元治元年6月10日)- 1922年(大正11年)1月14日)は、明治から大正期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。幼名・大吉。位階は正四位。勲等は勲四等。 薩摩藩士・本田親雄の二男として生まれる。1898年(明治31年)12月、親済と改名。父の死去に伴い、1909年(明治42年)3月25日、男爵を襲爵した。 札幌農学校、帝国大学法科大学を修了。イギリスに留学して、1890年(明治23年)英国ニューポート大学を卒業。 帰国後、食塩 (株) 社員、駅逓 (株) 社員、芝銀行取締役、鴻池銀行東京支店副長、宮内省式部官、逓信大臣秘書官代理などを務めた。
広瀬 鎮之(廣瀬 鎭之、ひろせ ちんし、1864年7月11日… 広瀬 鎮之(廣瀬 鎭之、ひろせ ちんし、1864年7月11日(元治元年6月8日)- 1930年(昭和5年)10月21日)は、日本の実業家、漁業経営者、政治家。衆議院議員。 越中国射水郡藪田村(のち富山県氷見郡藪田村、現:氷見市)で、素封家・広瀬義太郎の長男として生まれる。小学校を卒業し、金沢で漢学を、東京で禅学、語学を学んだ。 1885年頃、同郷の浅野総一郎が経営する秋田の鉱山で支配人に就任。日清戦争後、浅野らと台湾で事業を展開し、台北電燈取締役、台北米穀市場理事などを務めた。1910年、氷見に三漁組を設立して漁業経営を行った。その他、光針製造取締役、日本電気興業取締役、東方公司取締役、樺太炭礦取締役などを歴任した。
森 肇(もり はじめ、1864年7月10日(元治元年6月7日… 森 肇(もり はじめ、1864年7月10日(元治元年6月7日) - 1927年(昭和2年)1月23日)は、日本のジャーナリスト、政治家、衆議院議員(3期)。弁護士。族籍は愛媛県士族。
森 肇(もり はじめ、1864年7月10日〈元治元年6月7日… 森 肇(もり はじめ、1864年7月10日〈元治元年6月7日〉 - 1927年〈昭和2年〉1月23日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(中央倶楽部、当選3回)。族籍は愛媛県士族。 現在の愛媛県松山市柳井町で生まれた(原籍は同県温泉郡朝美村)。伊予国松山藩士である。小学校を卒業して松山中学校に通学したが1881年、同校を中退して大阪、東京に出て法律学を専攻した。英吉利法律学校(のち東京法学院、現・中央大学)で学び、法政二科を修めた。 1884年、代言人試験に合格した。いったん帰国したが、ふたたび東京に出て代言事務を開業した。また、自由党員になった。後「感ずる所」あって同党を退き、内地雑居尚早会を起し、更に大日本協会が起ると共にその党員に列し拡張に尽瘁する所があった。
高橋 庄之助(たかはし しょうのすけ、1864年7月3日(元… 高橋 庄之助(たかはし しょうのすけ、1864年7月3日(元治元年5月30日)- 1930年(昭和5年))は、明治から昭和初期の弁護士、政治家。衆議院議員。 上野国甘楽郡野上村(群馬県北甘楽郡額部村野上を経て現富岡市野上)で、高橋曽米吉の末子として生まれた。高橋玄硯、新井又右衛門から漢学を学び、1887年(明治20年)に上京して明治法律学校に入学し、1889年(明治22年)同校を卒業。 同年、代言人試験に合格して代言人(弁護士)となる。東京市下谷区西町(現東京都台東区東上野)に住み、弁護士会常議員会長となり、下谷区会議員、東京市会議員なども務めた。1897年(明治30年)専売特許製瓦 (株) を設立して社長に就任し、その他、日本漁獵監査役、海産貿易監査役などに在任。
杉田 盛(すぎた さかり、元治元年5月27日(1864年6月… 杉田 盛(すぎた さかり、元治元年5月27日(1864年6月30日) - 1934年(昭和9年)3月6日)は、戦前日本の開業医。幼少期を沼津で過ごし、上京して医学を修め、神戸・丹後・隠岐島・盛岡で病院院長を歴任し、横浜、大森に医院を構えた。号は東江・峯州医生・梅所・槑翁。杉田玄白4世孫。 元治元年(1864年)5月27日江戸浜町山伏井戸に杉田玄端の五男として生まれた。幼名は鶴五郎。明治元年(1868年)10月、徳川宗家の転封に従い、両親・兄杉田武と共に沼津八幡町柳下知之旧宅に移った。明治2年(1869年)沼津で親戚杉田廉卿が病没すると、祖父の命でその跡を継いだ。 父に『三字経』『大統歌』『大学』『孝経』『論語』で漢学、『ウイルソン・リーダー』『ミッチェル(ロシア語版)地理書』で英学、母に習字を学んだ。
榊田清兵衛(さかきだ せいべえ、元治元年5月26日(1864… 榊田清兵衛(さかきだ せいべえ、元治元年5月26日(1864年6月29日) - 昭和4年(1929年)10月10日)は、明治時代から昭和時代の政治家。仙北郡会議員、秋田県会議員を経て元衆議院議員(当選7回)。地方問題の解決と床次竹二郎内閣実現のために奔走した。 出羽国仙北郡大曲村(現秋田県大仙市大曲地区)に大地主・四世榊田清兵衛(長蔵)と由利町出身のさだの長男として誕生。幼名は清蔵。女ばかりの後の待望の男子となる。1874年(明治7年)に大曲小学校に入学後、まもなく父長蔵が亡くなり、家督相続し、家名の清兵衛をついだ。わんぱく少年だったが学問を好み、神沢繁(素堂)、黒沢利吉、高垣重明、岡田好成らに師事し、自宅向かいに講習義塾を設立した。
井上 仁郎(いのうえ にろう、1864年6月27日(元治元年… 井上 仁郎(いのうえ にろう、1864年6月27日(元治元年5月24日) - 1920年(大正9年)1月11日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 伊予国喜多郡新谷(現・愛媛県大洲市)の新谷藩士の家に生まれる。小学校時代の友人に井上要(のちの実業家、衆議院議員)がいた。陸軍士官学校(旧7期)に入り、1885年(明治18年)6月、陸軍工兵少尉任官。同期には宇都宮太郎・島川文八郎両大将や柴勝三郎中将らがいた。1887年(明治20年)に陸士を卒業。軍用鉄道研究のためドイツに派遣された。 日清戦争時には寺内正毅少将の副官を務めた。1904年(明治37年)3月、鉄道大隊長に就任し、日露戦争では大本営臨時軍用鉄道監督部長となった。
稲本 陽州(いなもと ようしゅう、本名:稲本治太郎、1864… 稲本 陽州(いなもと ようしゅう、本名:稲本治太郎、1864年(元治元年)6月25日 - 1947年(昭和23年)9月20日)は、教育者であり詩文作家である。特に漢文詩の世界では、関西に稲本陽洲ありと評判であった。現在の岡山県井原市出身。 1864年(元治元年)備中国後月郡山野上村(現在の岡山県井原市)の稲本重五郎の長男として生れる。幼い頃から岡山県議会議員の三村政太郎に漢学を学ぶ。地元の精徳尋常小学校を卒業し、教師証明書を受け15歳で精徳小学校の助教となった。1882年(明治15年)、19歳で岡山県小田郡星田小学校長となる。1886年(明治19年)には、日本の詩文作家における青年大家に挙げられ、全国でも名が知られていた。
高木 顕明(たかぎ けんみょう、1864年6月24日(元治元… 高木 顕明(たかぎ けんみょう、1864年6月24日(元治元年5月21日) - 1914年(大正3年)6月24日)は、真宗大谷派の僧侶。幸徳事件(大逆事件)の被告の一人である。 尾張国西春日井郡下小田井村(現・愛知県清須市)生まれ。尾張小教校(のちの旧制尾張中学、現在の名古屋大谷高等学校)修了。和歌山県新宮市浄泉寺12代住職。旧姓は山田、幼名は妻二郎。 日露戦争では日本でも数少ない非戦論者の一人であり、公娼制度にも反対し、次第に社会主義に接近していった。 1910年(明治43年)、幸徳秋水の談話会を浄泉寺で開催したことから幸徳事件(大逆事件)の関与を疑われ逮捕される。当初、死刑判決に処されたが、後に無期懲役に減刑された。
樋戸 次右衛門(ひわたし じうえもん、1864年6月22日(… 樋戸 次右衛門(ひわたし じうえもん、1864年6月22日(元治元年5月19日) - 1934年(昭和9年)10月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県出身。後の揖宿郡頴娃町(現南九州市)生まれ。攻玉社、三田英学塾で学び、アメリカへ留学する。小学校教員、英語教師となり、頴娃村会議員、同助役、同学務委員、同農会長、鹿児島県会議員、同参事員を務める。また、農業を営み、鹿児島県茶葉組合連合会議所会頭、福徳生命保険(株)鹿児島出張所長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において鹿児島3区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党から立候補したが落選した。
粟野 健次郎(あわの けんじろう、元治元年5月18日(186… 粟野 健次郎(あわの けんじろう、元治元年5月18日(1864年6月21日) - 昭和11年(1936年)8月23日)は、日本の教育者。 陸奥国一関(現在の岩手県一関市)出身。新潟英語学校、新潟中学校を経て、文検に合格し1886年(明治19年)に中学師範各学校英語科教員免許状を受け、東京府中学校一等助教諭となった。翌年から第一高等中学校英語教員嘱託、1889年(明治22年)から第一高等学校教諭、1890年(明治23年)から第一高等学校教授を歴任した。東京時代の教え子に、夏目漱石、若槻禮次郎、本多光太郎らがいる。1892年(明治25年)、仙台の第二高等学校教授に転じ、土井晩翠、作家高山樗牛らを教導。
西川 太治郎(にしかわ たいじろう、元治元年5月17日(18… 西川 太治郎(にしかわ たいじろう、元治元年5月17日(1864年6月20日) - 昭和17年(1942年)6月15日)は、衆議院議員(立憲同志会→憲政会)、大津市長。 近江国浅井郡南浜村(現在の滋賀県長浜市)出身。同人社で学んだ後、1888年(明治21年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業した。卒業後、山梨日日新聞の記者となり、3年後に近江新報に主筆として招かれ、1896年(明治29年)には社長に就任した。その一方で、前田正名の地方産業振興運動に加わって全国を奔走。さらに農商務省の嘱託として、1898年(明治31年)に清の商工業を視察、1903年(明治36年)には北清やシベリアでの日本製品販売の調査を行った。
大石 熊吉(おおいし くまきち、元治元年5月13日(1864… 大石 熊吉(おおいし くまきち、元治元年5月13日(1864年6月16日) - 昭和20年(1945年)5月11日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)。 佐賀藩士大石良英の二男として生まれる。藩校弘道館で学ぶが、東京に出て神田共立学校、大学予備門で学んだ。その後大隈重信の知遇を得、1884年(明治17年)に大隈の勧めでアメリカ合衆国のラトガース大学に留学した。ラトガーズ大学で学位を得た後、1889年(明治22年)にニューヨーク大学に入り、1892年(明治25年)に哲学博士号を得た。 帰国後は『報知新聞』記者や東京専門学校(現在の早稲田大学)講師を務めた。1897年(明治30年)、大隈が農商務大臣に就任するとその秘書官となり、翌年に大隈が内閣総理大臣に就任にすると秘書官となった。
佐竹 音次郎(さたけ おとじろう、1864年6月13日〈元治… 佐竹 音次郎(さたけ おとじろう、1864年6月13日〈元治元年5月10日〉 - 1940年〈昭和15年〉8月16日)は、明治・大正・昭和時代に日本・中国(当時の関東州を含む)・朝鮮・台湾で、主に児童の養育・救援に尽力した、日本の社会福祉活動家。藍綬褒章受章者。 1864年、土佐国幡多郡下田竹島(現在の高知県四万十市竹島)に、父宮村源左衛門、母佐雄の4男として生まれる。7歳のときに親戚の佐竹家に養子にやられたので名字は佐竹となるが、13歳のときに養父母の離婚により生家に戻って育つ。 1881年に村の小学校の助手となり、1886年に東京府下巣鴨尋常小学校長に就任するも1年後には校長を辞し、神田の明治法律学校(明治大学の前身)を経て、1890年に本郷湯島の医学専門学校済生学舎(日本医科大学の前身)に学んだ。
伊藤 隼三(いとう はやぞう、1864年6月12日(元治元年… 伊藤 隼三(いとう はやぞう、1864年6月12日(元治元年5月9日) - 1929年(昭和4年)5月14日)は鳥取県出身の医師。因幡病院(現:鳥取県立中央病院)初代院長。京都帝国大学名誉教授。 京都帝国大学医科大学外科学第二講座初代教授、京大付属病院長などを歴任した。特に外科医術を発展させ、数千の門下を育て、日本の医学に多大な貢献をする。さらに鳥取県の医療に多大な貢献をする。 伊藤隼三は、1864年に因幡国邑美郡御弓町(現:鳥取市御弓町)の鳥取藩士小林辰蔵の三男として生まれた。「鳥取藩史」第二巻に「御武器預并製造掛 小林辰三」と出てくるのが父である。1874年鳥取変則中学(鳥取県立鳥取西高等学校の前身)に遊学し頭脳明晰で、この頃から伊藤健蔵に認められ援助を受け、1878年中学4年生(15歳)で、東京大学予備門に入学するほどの秀才であった。
後藤 快五郎(ごとう かいごろう、元治元年5月9日(1864… 後藤 快五郎(ごとう かいごろう、元治元年5月9日(1864年6月12日) - 昭和2年(1927年)1月11日)は、日本の実業家、政治家。町会議員、郡会議員、県会議員。旧姓小林。山陰鉄道敷設最大の功労者である。 出雲国能義郡布部村宇波(現・島根県安来市)出身。広瀬の山村塾・県立松江中に学び、小学校教師を勤めた。 明治20年(1887年)鳥取・米子の名門商家後藤家の養子となる。養子のため当主が代々襲名する市右衛門を名乗ることはなかった。当時後藤家の経済はやや苦しかったが、為替倉庫業・質業などで次第に業績をあげた。刻煙草製造業も経営していたが、煙草専売法施行後、松江との競争に勝って岡山専売局の出張所誘致に成功し、その働きによって山陰の煙草元売捌権を得た。
降旗 元太郎(ふるはた もとたろう、元治元年5月7日(186… 降旗 元太郎(ふるはた もとたろう、元治元年5月7日(1864年6月10日) - 昭和6年(1931年)9月15日)は、日本の衆議院議員(憲政党→憲政本党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党)。 信濃国筑摩郡本郷村(現在の長野県松本市)出身。郷里で漢学を学んだ後、慶應義塾に入学した。1882年、東京専門学校(現在の早稲田大学)に転入学し、1885年に同校邦語政治科を卒業した。卒業後は帰郷し、1886年に信陽日報(のち信濃日報)の社長となった。さらに本郷蚕種業組合組長・信濃蚕業伝習所長などの役職を歴任して、養蚕業の発展に貢献した。その他、出獄人保護院も設立している。 1888年、長野県会議員に選出され、1891年には信濃民党を組織した。
富安 保太郎(とみやす やすたろう、1864年6月9日(元治… 富安 保太郎(とみやす やすたろう、1864年6月9日(元治元年5月6日)- 1931年(昭和6年)10月26日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。 筑後国山門郡吉開村(現・福岡県柳川市三橋町吉開)で、柳河藩士・富安昌太郎の長男として生まれる。東京法学院を卒業。 博多商業会議所特別議員、福岡県教育会副会長、瀬高銀行頭取、九州製油社長、博多築港社長、博多電気軌道取締役、九州電気軌道取締役、日本毛織取締役、九州土地信託取締役、九州林業取締役、日本電報通信社取締役、福岡日日新聞社社長(昭和3年8月25日~4年11月22日)などを務めた。 政界では、福岡県会議員、同参事会員、同副議長、同議長を歴任。
山田 鬼斎(やまだ きさい、1864年6月9日(元治元年5月… 山田 鬼斎(やまだ きさい、1864年6月9日(元治元年5月6日) - 1901年(明治34年)2月20日)は、日本の彫刻家である。鬼斎は号で本名は常吉。 越前の坂井郡(現在の福井県坂井市)に生まれる。実父は仏師であった事より、幼少の頃から彫刻を学んだ。明治維新後の1886年(明治19年)に同郷であった岡倉天心に同行して上京し、その後は天心と共に奈良にて寺院や神社に祀られている古仏の研究や宝物の調査に携わる。 後に高村光雲の助手となり、1890年(明治23年)には東京美術学校(現在の東京芸術大学)に雇われ1896年(明治29年)には同校の教授となり、彫刻の教鞭を執る。この頃に『平治物語』等、日本の歴史的な出来事をテーマにした同国の伝統彫刻の技を用いた西洋風の彫刻作品を制作し、1893年(明治26年)に開催されたシカゴ万国博覧会では鬼斎の作品が出品された。
岡田 良平(おかだ りょうへい、1864年6月7日〈元治元年… 岡田 良平(おかだ りょうへい、1864年6月7日〈元治元年5月4日〉- 1934年〈昭和9年〉3月23日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の文部官僚、政治家。号は恭堂。 旧制山口高等学校(山口大学の前身の一つ)校長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、文部次官・大臣、東洋大学学長、大日本報徳社社長、産業組合中央会会頭、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。 遠江国佐野郡倉真村(現:掛川市)出身。東京府第一中学では、澤柳政太郎、狩野亨吉、松崎蔵之助、幸田露伴などが同期に当たる。大学予備門を経て、1887年(明治20年)7月、帝国大学文科大学哲学科(のちの東大文学部)卒業、大学院へ。 第二高等中学校教授を経て、1893年(明治26年)に文部省視学官。
高橋 義信(たかはし よしのぶ、1864年6月4日(元治元年… 高橋 義信(たかはし よしのぶ、1864年6月4日(元治元年5月1日) - 1929年(昭和4年)12月23日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員。 高橋敬吾の弟として、美濃国安八郡、のちの岐阜県安八郡川並村(現大垣市)に生まれる。1902年(明治35年)10月、分家する。漢学を修めた。また、日清戦争に従軍した。 上京し、下谷区会議員、同議長、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員を務めた。ほか、揖斐川電力監査役となった。 1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から選出された大熊三之助の刑確定に伴い実施された補欠選挙に出馬して当選。つづく第11回総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選した。
森本 清蔵(もりもと せいぞう、元治元年4月28日(1864… 森本 清蔵(もりもと せいぞう、元治元年4月28日(1864年6月2日) - 昭和8年(1933年)1月12日)は、日本の教育者。 兵庫県出身。1885年(明治18年)、神戸師範学校を卒業し、ついで1889年(明治22年)に東京高等師範学校を卒業した。愛知県師範学校教諭、同校長、徳島県師範学校教諭、福岡県師範学校校長、東京高等師範学校教授、大阪府師範学校校長を歴任。1904年(明治37年)、大阪府視学官に任じられた。1906年(明治39年)、文部省視学官となり、さらに奉天省教育顧問として清に招聘された。1908年(明治41年)に帰国後は愛知県の明倫中学校校長を務めた。その後、宮崎県立宮崎中学校校長に就任した。
唐辛 多喜弥(とうがらし たきや、1864年6月2日 - 1… 唐辛 多喜弥(とうがらし たきや、1864年6月2日 - 1944年6月27日)は、福岡県行橋市出身で雷部屋に所属した大相撲力士。本名は奥村 多喜弥(旧姓:宮原)。最高位は西前頭11枚目(1896年1月場所)。現役時代の体格は164cm、81kg。 唐辛という非常に珍しい四股名の持ち主だが、これは「小粒でもピリリと辛い」という意味が込められていたという。名付け親は彼を贔屓にしていた伊藤博文とも、黒田清隆とも伝わる。 当初は大坂相撲で取っていたが上京し、15代横綱梅ヶ谷に入門、1883年(明治16年)1月場所序二段付出で東京相撲の初土俵を踏んだ。十両には1889年(明治22年)1月場所に昇進、入幕は1894年(明治27年)5月場所のことだった。
萩 亮(はぎ りょう、元治元年4月27日(1864年6月1日… 萩 亮(はぎ りょう、元治元年4月27日(1864年6月1日) - 大正12年(1923年)12月19日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党)、内務官僚、検事。 薩摩国薩摩郡樋脇村(現在の薩摩川内市)出身。明治法律学校(現在の明治大学)卒業後、1895年(明治28年)に司法官試補となり、1897年(明治30年)より鹿児島、久留米、佐賀、宮崎、熊本などの裁判所で検事として勤務した。1907年(明治40年)に内務省に転じ、山形県事務官・警察部長、青森県内務部長、和歌山県内務部長を歴任し、1914年(大正3年)に休職となった。 その後、1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
高橋 秀臣(たかはし ひでおみ、1864年5月31日(元治元… 高橋 秀臣(たかはし ひでおみ、1864年5月31日(元治元年4月26日) - 1935年(昭和10年)11月14日)は、衆議院議員(立憲民政党)、ジャーナリスト。 西条藩士高橋村三郎の長男として、伊予国新居郡西条(現在の愛媛県西条市)に生まれた。明治法律学校(現在の明治大学)で法学・政治学を学んだ。卒業後、伊予市之川鉱山会社取締役を経て、「進歩党党報」記者、「憲政党党報」記者、北陸タイムス社社長兼主筆を歴任した。 神田区会議員、東京市会議員、同参事会員を務めた後、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。墓所は多磨霊園(18-1-35)。
村松 恒一郎(むらまつ こういちろう、元治元年4月24日(1… 村松 恒一郎(むらまつ こういちろう、元治元年4月24日(1864年5月29日) - 昭和15年(1940年)6月5日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→純正国民党→立憲民政党)、ジャーナリスト。 伊予国宇和島出身。宇和島藩士村松喜久造の長男。1884年(明治17年)に同人社を卒業後、高野山大学林で英学講師を務めた。その後、関西日報、国会新聞、中央新聞、東京朝日新聞、大阪朝日新聞などで記者を務めた。やがて雑誌「大国民」を創刊し、また日刊大東通信社の社長を務めた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。当選回数は5回(第10回、第11回、第13回、第16回、第17回にて当選)を数えた。
岡 烈(おか れつ、元治元年4月23日(1864年5月28日… 岡 烈(おか れつ、元治元年4月23日(1864年5月28日) - 大正6年(1917年)5月14日)は、日本の実業家。 長門国厚狭郡(現在の山口県)出身。 吉田松陰の松下村塾に学んだ後、上京して、明治法律学校(現明治大学)に学ぶ。卒業後、大蔵省税務官に任官。実業界に転向し、当時の大財閥であった鈴木商店に入り、支配人に就任(1906年)。更に、東京瓦斯(現東京ガス)の創立に携わり、設立と共に常務取締役に就任。1912年には帝国麦酒(現サッポロビール)を設立し、社長に就任。後に大正生命保険設立にも関与し、同社専務に就任。他にも、京王電鉄など数社の取締役、監査役を務めた。 1917年、死去。52歳没。
杉浦 義道(すぎうら よしみち、1864年5月20日〈元治元… 杉浦 義道(すぎうら よしみち、1864年5月20日〈元治元年4月15日〉 - 1930年11月7日)は、日本の聖職者、医療従事者、翻訳家。日本聖公会の聖職者として、労働者への伝道に力を注ぎ、労働者矯風会を興して貧者の更生に尽力したほか、サマリタン医院を創設して医療活動に従事した。旧名は悦太郎。 1864年、若狭国小浜(現・福井県小浜市)生まれ。父親は、米国聖公会の宣教師ヘンリー・D・ペイジから洗礼を受けた聖公会信徒。弟は立教大学元学長の杉浦貞二郎。 築地の立教学校(現・立教大学)に入学する。同校在学中の1881年(明治14年)にチャニング・ウィリアムズ主教(立教大学創設者)より感化を受けて洗礼を受ける。
吉田 東伍(よしだ とうご、元治元年4月14日〈1864年5… 吉田 東伍(よしだ とうご、元治元年4月14日〈1864年5月19日〉 - 大正7年〈1918年〉1月22日)は、日本の歴史学者、地理学者(歴史地理学)。新潟県出身。「大日本地名辞書」の編纂者として知られる。日本歴史地理学会(日本歴史地理研究会)の創設者の一人。 元治元年(1864年)4月14日(4月10日とする資料もある)、越後国蒲原郡保田村(現:阿賀野市安田)の豪農旗野家の子(三男)としてに生まれる。吉田姓は養子先であり、1884年(明治17年)12月から名乗った。1874年(明治7年)に小学校を出たのち、近所の英国人について英語を4年間学び、村で英学者ともてはやされる。1875年(明治8年)、11歳の時から新潟学校(後の新潟英語学校)中学部を3年ほどで中退後、学校教育を受けずに独学で小学校教員となる。
五十野 譲(讓、いその ゆずる、1864年5月15日(元治元… 五十野 譲(讓、いその ゆずる、1864年5月15日(元治元年4月10日)- 1912年(明治45年)1月1日)は、明治期の酒造家・政治家。衆議院議員。 常陸国行方郡次木村(新治県行方郡次木村、茨城県行方郡次木村、武田村次木、北浦村次木、北浦町を経て現行方市次木)で酒造家の家に生まれた。漢学を修めた。幼くして父を失い家業を継承した。 武田村会議員に就任。1892年(明治25年)自由党に所属して茨城県会議員に選出され、1895年(明治28年)まで在任した。 1898年(明治31年)8月、第6回衆議院議員総選挙(茨城県第1区、憲政党)で当選し、衆議院議員に1期在任。1904年(明治37年)3月、第9回総選挙(茨城県郡部、立憲政友会)では落選した
越 寿三郎(こし じゅさぶろう、元治元年4月8日〈1864年… 越 寿三郎(こし じゅさぶろう、元治元年4月8日〈1864年5月13日〉 - 1932年〈昭和7年〉3月11日)は、明治から昭和戦前期にかけて活動した日本の実業家である。長野県上高井郡須坂町(現・須坂市)の人物で、「山丸組」の名で製糸業を経営したほか、同地の電力会社信濃電気や同社から派生した信越窒素肥料(現・信越化学工業)の社長を務めた。 越寿三郎は、元治元年4月8日(新暦:1864年5月13日)、信濃国高井郡須坂村(後の長野県上高井郡須坂町、現・須坂市)に豪農・小田切新蔵(3代目)の三男として生まれた。実家小田切家は曽祖父にあたる初代新蔵が宗家から分かれ起こした家で、屋号は「東糀屋」。父新造は1875年(明治8年)から製糸業(山三製糸所)を営み、1889年(明治22年)からは須坂町会議員を務めた。
竜野 周一郎(たつの しゅういちろう、元治元年4月7日(18… 竜野 周一郎(たつの しゅういちろう、元治元年4月7日(1864年5月12日) - 昭和3年(1928年)4月11日)は、日本の衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会)、実業家。 信濃国小県郡石神村(現長野県上田市)出身。旧制上田中学などで学んだ。明治14年(1881年)、小県郡の教育家の知識交換のために集義社を設立。同年、益友社という政社をおこし、自由党に加入した。自由党の遊説員として北信地方を回ったが、政府から演説を禁止されてしまった。 そこで軍談師の免許を取得して先憂亭後楽と称し、政治講談によって自由民権思想を広めた。明治17年(1884年)の飯田事件に関係したとして検挙されたが証拠不十分として免訴となった。
田口 米作(たぐち べいさく、元治元年4月6日 (1864年… 田口 米作(たぐち べいさく、元治元年4月6日 (1864年5月11日) - 明治36年(1903年)1月18日)は、明治時代の版画家、浮世絵師。 小林清親の門人。姓は田口、名は米作。桜川と号す。元治元年(1864年)4月6日、下野国(現・栃木県)都賀郡野田村(現・足利市)に生まれる。明治6年(1873年)上京し、初めは中村晩山に師事、後に明治14年(1881年)頃小林清親に入門する。父親は芝西久保で米屋を営んだ。明治24年(1891年)、清親が赤坂桧町に開設になった東京絵画学校の教授となって絵手本を提供した際、米作自身は井上委山とともに助教授を務めている。明治28年(1895年)に芝桜川町に移転している。
岡野 喜太郎(おかの きたろう、1864年5月9日(元治元年… 岡野 喜太郎(おかの きたろう、1864年5月9日(元治元年4月4日) - 1965年(昭和40年)6月6日)は、日本の銀行家。 駿河国駿東郡青野村(現・静岡県沼津市青野)出身。静岡県多額納税者。スルガ銀行創設者。沼津市名誉市民。静岡県屈指の実業家であった。 駿河国駿東郡青野村(現・静岡県沼津市青野)に名主の長男として生まれた。岡野弥平太の長男。1879年(明治12年)に集成舎(後の静岡県立沼津中学校、現在の静岡県立沼津東高等学校)に入学。1885年(明治18年)には静岡県立豆陽中学校(現・静岡県立下田高等学校)に入学したが、故郷は1884年(明治17年)9月の暴風による飢饉にあえいでおり、結局師範科を中退して故郷で農業に専念した。
石本 鏆太郎(いしもと かんたろう、1864年5月9日(元治… 石本 鏆太郎(いしもと かんたろう、1864年5月9日(元治元年4月4日) - 1933年(昭和8年)12月30日)は、大正から昭和時代初期の政治家、実業家。衆議院議員。大連市長。台湾から関東州へアヘン専売制を持ち込み巨万の富を築き大連のアヘン王と呼ばれた。 土佐国長岡郡八幡村(高知県長岡郡岡豊村八幡を経て、現在の南国市)に生まれる。東京大学予備門に学ぶ。渡清し、上海でフランス語、中国語を学ぶ。北京にも留学した。西郷隆盛大使附通訳官を経て、日清、日露両戦役に陸軍通訳として従軍する。ついで台湾総督府専売局翻訳官、関東州民政署満州利源調査委員、関東都督府事務嘱託を経て、大連市長に就任する。ほか、大連高等女学校や奉天日々新聞を経営する傍ら、アヘン製造販売業に従事し巨万の富を得た。
池田 寅治郎(いけだ とらじろう、1864年5月8日(元治元… 池田 寅治郎(いけだ とらじろう、1864年5月8日(元治元年4月3日)- 1925年(大正14年)10月23日)は、明治後期から大正期の実業家、教育者、政治家。衆議院議員。 備中国後月郡井原村猪原(岡山県後月郡井原村、井原町を経て現井原市井原町)で、宮六の二男として生れた。興譲館長・坂田警軒に師事し、同志社英学校を経て、1890年(明治23年)慶應義塾を卒業した。 岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、慶應義塾で教師を務め、自由新聞記者となる。山陽鉄道を経て、村井兄弟商会に入り上海支店長、工業部長を歴任。1900年(明治33年)渡米してタバコ事情を視察。1901年(明治34年)に帰国し、煙草専売局技師、東京第二煙草製造所長に就任。
大塚 惟明(おおつか これあき、1864年5月7日(元治元年… 大塚 惟明(おおつか これあき、1864年5月7日(元治元年4月2日) - 1928年(昭和3年)12月28日)は、日本の実業家、政治家。南海電気鉄道株式会社元社長、讃岐電気軌道株式会社元取締役、大阪電球株式会社元取締役、阪神土地建物株式会社元取締役、元大阪市議。斬新な旅客サービスと電化推進で日本初の純民間鉄道を育てた。 1864年5月7日(元治元年4月2日)、肥後国(熊本県)の士族、大塚磨の長男として生まれる。父・大塚磨は、大阪に出て大阪商船社長、山陽鉄道取締役を務めた人物。惟明は北里柴三郎とは同郷で従兄弟関係にある。 1878年(明治11年)14歳で上京し東京府立第一中学校から大学予備門に進むが、キリスト教の影響を受け、大阪の英和学舎(立教大学の前身の一つ)、立教学校(立教大学の前身の一つ)、東京三一神学校(現・聖公会神学院)で学ぶ。
野澤 源次郎(のざわ げんじろう、(1864年(元治元年)5… 野澤 源次郎(のざわ げんじろう、(1864年(元治元年)5月6日 - 1955年(昭和30年))は、日本の実業家。貿易商社・野澤組の2代目。 長野県北佐久郡軽井沢町で大規模な別荘地開墾事業を行い、現在の旧軽井沢の風景を創り上げた人物として知られる。 1864年(元治元年)5月6日、東京府士族・野澤卯之吉の長男として生まれる。1882年(明治15年)、慶應義塾大学を卒業。父が設立した会社・野澤組に加わり、貿易商として本格化させる。 1883年(明治16年)、後に日本初の洋式国産リボンの製造を行うことになる実業家・岩橋謹次郎の妹・貞子と結婚する。 1895年(明治28年)、海外視察から帰国したのを機に、父・卯之吉とともに製帽会社「初音合資会社」を谷中初音町に設立。
白鳥 鴻彰(しらとり こうしょう、1864年4月30日 - … 白鳥 鴻彰(しらとり こうしょう、1864年4月30日 - 1915年4月11日)は、日本の政治家 、教育者。 白鳥家は、代々庄屋を務め、弘前藩主津軽家から苗字帯刀を許された家柄であった。2代藩主津軽信枚の生母・栄源院(津軽為信の側室。白鳥長久の娘とも。堀越城代・白取伊右衛門の妹。弘前藩家老職・白取瀬兵衛信次は甥にあたる)の生家の分家で、白鳥長久の末裔 という。白鳥氏は津軽家に仕えた後、「白鳥」を「白取」と改め、明治維新後に再び「白鳥」と改めた。 白鳥鴻彰は元治元年3月25日に津軽郡荒川村(現:青森市荒川)に、 白鳥慶一・いそ夫妻の長男として生まれる。幼名は初太郎または八太郎。 父・慶一は明治11年(1878年)に府県会規則が公布され、明治12年(1879年)3月県会の開催が決まると第1回の青森県会議員選挙に立候補、当選。
仙頭 武央(せんとう たけなか/たけてる、1864年4月30… 仙頭 武央(せんとう たけなか/たけてる、1864年4月30日(元治元年3月25日) - 1919年(大正8年)12月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。幼名、外太郎。 1864年(元治元年)、土佐国安芸郡穴内村(現在の高知県安芸市)に生まれた。父、武英は旧藩時代の安芸町寄役。申議学舎で船本楠吉に学び、1883年(明治16年)10月、海軍兵学校(10期)を卒業し海軍少尉補となる。1886年(明治19年)4月、海軍少尉任官。 日清戦争には「千代田」分隊長として出征。1896年(明治29年)7月、「鎮遠」砲術長となり、「平遠」副長を経て、1897年(明治30年)12月、海軍少佐に昇進し「浅間」回航委員に発令されイギリスに出張。
亀井 英三郎(かめい えいざぶろう、1864年4月29日(元… 亀井 英三郎(かめい えいざぶろう、1864年4月29日(元治元年3月24日) - 1913年(大正2年)2月26日)は、日本の法制・内務官僚、政治家。貴族院議員。肥後国(現熊本県)出身。 熊本藩士・亀井忠左衛門の三男として生まれる。1888年(明治21年)、帝国大学法科大学(現東京大学法学部)卒業。同年12月、高等試験に合格し法制局試補となる。1890年(明治23年)、法制局参事官に就任。 1902年(明治35年)2月、徳島県知事に就任。その後、1904年(明治37年)1月に静岡県知事、1905年(明治38年)12月、宮城県知事に就任。 1908年(明治41年)の第2次桂内閣の際に警視総監に就任。
奥村 三策(おくむら さんさく、1864年4月27日(元治元… 奥村 三策(おくむら さんさく、1864年4月27日(元治元年3月22日) - 1912年(明治45年)1月2日)は、日本の盲目の盲学校教師。盲学校の職業教育に理療を確立させた。 1864年、加賀国(現在の石川県金沢市)で生まれる。3歳のときに失明した。8歳から加賀藩医久保三柳について鍼灸・按摩術を学んだ。研究意欲が旺盛で、西洋医学を学ぶことの必要を感じ、金沢医学専門学校の教師や学生について解剖・生理・病理などを学び、鍼灸・按摩術の研究をする。上京してさらに研鑽を積みたいという志を持つが、父親は盲人の一人旅に強く反対していた。その父親が亡くなったことから、1886年(明治19年)に上京し、築地の訓盲唖院に入学する。
三浦 謹之助(みうら きんのすけ、1864年4月26日(元治… 三浦 謹之助(みうら きんのすけ、1864年4月26日(元治元年3月21日) - 1950年(昭和25年)10月11日)は、日本の医学者(内科学)。東京帝国大学名誉教授。外人教師依存から独立した日本人による内科学を確立した。仏医学を日本に紹介した。神経学を主に、生化学、寄生虫学、脚気など多彩な研究を行った。日本神経学会(1903年)、日本内科学会(1904年)の創立に寄与した。1906年学士院会員、1949年文化勲章。 陸奥国伊達郡高成田村(現・福島県伊達市)生まれ。1877年に上京外国語学校ドイツ語科を経て、1878年東京帝国大学医科大学予科入学。1883年本科に進学。1887年に東京大学医学部本科を卒業し、エルヴィン・フォン・ベルツの助手となる。
田中 延次郎 (たなか のぶじろう、旧姓 市川、1864年4… 田中 延次郎 (たなか のぶじろう、旧姓 市川、1864年4月21日(元治元年3月16日) - 1905年(明治38年)6月21日)は、日本の菌類学者である。日本における最初の近代菌類学書、『日本菌類図説』を執筆した。植物病理学の分野でも桑樹萎縮病の対策に貢献した。 江戸・千住南組の酒問屋の長男に生まれた。 東京帝国大学理科大学植物学科を1889年に卒業した。高等菌類、植物寄生菌など、広い分野に関心を持った。在学中に『植物学雑誌』の発行を提唱し、自らもハツタケなどキノコの2新種の記載論文を発表し、日本人による菌類の新種の初記載論文とされ、イギリスの雑誌に転載された。後に田中の与えた学名、Lactarius hatsudake はイギリスのマイルズ・ジョセフ・バークリーによって命名された種、Lactarius lividatusのシノニムとなった。
中村 静興(なかむら せいこう、1864年4月21日(元治元… 中村 静興(なかむら せいこう、1864年4月21日(元治元年3月16日) - 1927年(昭和2年)4月22日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県出水郡阿久根村(後の阿久根町、阿久根市)。1890年、第五高等中学校医学部(のち長崎医学専門学校→長崎医科大学、現・長崎大学医学部)、1893年、東京帝国大学専科、1900年、伝染病研究所(のち東京大学医科学研究所)研究科卒。医師を開業する。阿久根村で温泉を経営し、阿久根村会議員、出水郡会議員、出水郡医師会長、鹿児島県医師会代議員、日本医師会代議員となる。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において鹿児島県郡部から無所属で立候補して当選した。