米田 穣(よねだ みのる、文久4年1月12日(1864年2月… 米田 穣(よねだ みのる、文久4年1月12日(1864年2月19日) - 大正10年(1921年)12月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 加賀国石川郡松任町(現在の石川県白山市)出身。加能新聞社社長や大阪新報主幹を務めた。また松任町会議員を歴任した。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で4回の当選を重ねた。 1912年(大正元年)10月、松任町長に推されたがこれを辞退した。
堀 信次(ほり しんじ、文久4年1月11日(1864年2月1… 堀 信次(ほり しんじ、文久4年1月11日(1864年2月18日) - 昭和21年(1946年)6月22日)は、日本の内務官僚、甲府市長。 富山県出身。1893年(明治26年)、東京帝国大学法科大学を卒業。北海道庁属、拓殖務省参事官、内務省事務官・参事官、島根県書記官、同事務官、東京府事務官、神奈川県事務官を歴任し、1914年(大正3年)に樺太庁内務部長に就任した。退官後、中央生命保険相互会社取締役となった。 1919年(大正8年)から1922年(大正11年)まで甲府市長を務めた。
望月 長夫(もちづき おさお、文久4年1月10日(1864年… 望月 長夫(もちづき おさお、文久4年1月10日(1864年2月17日) - 1920年(大正9年)2月10日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党)、弁護士。 近江国甲賀郡水口村(現在の滋賀県甲賀市)出身。1878年(明治11年)に大津師範学校に入学したが、家の事情で中途退学を余儀なくされた。1887年(明治20年)、東京に出て明治法律学校(現在の明治大学)に入学した。1889年(明治22年)に卒業した後、1892年(明治25年)に弁護士の資格を得た。1894年(明治27年)、大津弁護士会副会長に選出され、翌年には会長に就任した。 また1894年には、滋賀県会議員に選出された。1898年(明治31年)、第6回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
牛島 謹爾(うしじま きんじ、1864年2月13日(文久4年… 牛島 謹爾(うしじま きんじ、1864年2月13日(文久4年1月6日) - 1926年(大正15年)3月27日)は、実業家。アメリカに移民し、「馬鈴薯王」と呼ばれた。勲四等、雅号に別天。現地ではジョージ・シマの名で親しまれた。妻は同志社総長, 下村孝太郎の妹である.
藤井 幸槌(ふじい こうつち、1864年2月12日〈文久4年… 藤井 幸槌(ふじい こうつち、1864年2月12日〈文久4年1月5日〉- 1927年〈昭和2年〉4月17日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 山口県出身。藤井由助の二男として生れる。1886年(明治19年)6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、歩兵少尉に任官、歩兵第10連隊付となる。近衛歩兵第1連隊付などを経て、1892年(明治25年)12月、陸軍大学校(8期)を卒業した。 1894年(明治27年)4月、陸士教官心得となり、後備歩兵第3連隊中隊長心得、陸士教官、台湾総督府参謀、同陸軍部課員、参謀本部第3部員などを経て、1900年(明治33年)10月、陸軍少佐に進級し近衛歩兵第4連隊付となった。
鮎貝 房之進(あゆかい ふさのしん、文久4年1月4日(186… 鮎貝 房之進(あゆかい ふさのしん、文久4年1月4日(1864年2月11日) - 昭和21年(1946年)2月24日)は、日本の言語学者、歴史学者、歌人。号は槐園(かいえん)。 言語学的なアプローチからの古代朝鮮の地名・王号などの考証を行い、また民俗学的な研究にも努めた。その成果は雑攷9集としてまとめられ、今日でも優れた先行研究として扱われている。李朝時代の禁書『鄭鑑録』の収集研究を行った。 京都・秦氏の名前由来を「波旦」(ハダ)説を提起した。1986年に韓国慶尚北道で新羅古碑が発見され、それには古地名「波旦」が明らかにあり、京都大学名誉教授・上田正昭が当地を訪れ、鮎貝説を支持している。 原書は1931年5月から1938年5月にかけて京城にて出版されたものであり、国内13箇所の大学図書館において揃って所蔵される。
岡田 和一郎(おかだ わいちろう、文久4年1月3日〈1864… 岡田 和一郎(おかだ わいちろう、文久4年1月3日〈1864年2月10日〉 - 昭和13年〈1938年〉5月30日)は、明治から昭和の日本の医師・医学者。帝国大学耳鼻咽喉科学初代正教授。耳鼻咽喉学の祖と称えられる。 小学校卒業後、西條町立病院の用度課雇いをしながら苦学を続け、特待生になって帝大医学部へ進学。 明治35年(1902年)森鴎外と荒木茂子との結婚の媒酌人を務めた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
清川 来吉(きよかわ らいきち、1864年2月9日(元治元年… 清川 来吉(きよかわ らいきち、1864年2月9日(元治元年1月2日)- 1957年(昭和32年)10月26日)は、日本の医師、政治家。初代鎌倉市長。広島県出身。 1884年、広島県立医学校(現広島大学医学部)卒業。その後は帝国医科大学(現東京大学医学部)選科で学び、1888年に医師免状を授与される。同年、伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に入所し細菌学の実施研究を行うが、まもなく帰郷して広島県下に診療所を開設。また広島県医師会長を兼ねた。 1889年、栃木県足尾病院副院長に就任し、その2年後(1891年)に鎌倉町雪ノ下に養生所を開設する。これが、来吉と鎌倉との繋がりの始まりである。その後は神奈川県師範学校や鎌倉町内の小学校の嘱託医を務め、1900年には神奈川県検疫官となる。
利光 鶴松(としみつ つるまつ、1864年2月6日(文久3年… 利光 鶴松(としみつ つるまつ、1864年2月6日(文久3年12月29日) - 1945年(昭和20年)7月4日)は、日本の政治家、弁護士、実業家。衆議院議員(当選2回、東京府第五区選出)。小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)創業者。星亨の側近。 豊後国(現大分県)生まれ。1879年、家督を相続。岡山に出て漢学塾に於いて陽明学を修め、上京し、明治法律学校に入学(1900年に推薦校友となる)。代言人試験に合格し、代言人(弁護士)となる。その後、東京市会議員、衆議院議員を務めたのち実業界に転身。小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)を創業した。 1864年2月6日(文久3年12月29日)、豊後国大分郡稙田村字粟野(現・大分県大分市大字稙田)にて利光市松、シン子夫妻のもとに生まれる。
木下 学而(きのした がくし、1864年2月6日(元治元年1… 木下 学而(きのした がくし、1864年2月6日(元治元年1月10日) - 1941年(昭和16年)7月10日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 福岡県上妻郡、のちの八女郡北川内村(北川内町、上陽町を経て現八女市)で生まれた。漢籍を学ぶ。林業を営み、木材商を経営し、北川内村会議員、町村連合会議員、福岡県会議員、地方森林会議員となる。また、南筑馬車鉄道会社重役を務めた。 1903年の第8回衆議院議員総選挙において福岡県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1904年の第9回衆議院議員総選挙は不出馬。1941年に死去した。
川田 正澂(かわだ まさずみ、文久3年12月27日(1864… 川田 正澂(かわだ まさずみ、文久3年12月27日(1864年2月4日) - 1935年12月9日)は、日本の教育者。 土佐国(現・高知県)生まれの士族出身。高知中学校(現・高知追手前高校)から選抜されて、東京日本橋箱崎町の旧土佐藩侯邸内・海南学校(現・高知小津高校)に上京し進学。のち廃校となり、明治義塾(のち廃校、その跡地に英吉利法律学校、日本中学創立)に移り外国人から英語を学ぶ。1888年(明治21年)、文部省中学教育検定試験に首席合格。同年9月に、第三高等中学校(のちの旧制三高)教員となる。1898年(明治31年)に静岡県立静岡中学校(現・静岡高校)校長に着任。1904年(明治37年)8月~1909年(明治42年)4月にかけて宮城県立仙台第一中学校(現・仙台第一高校)校長を務め、1909年(明治42年)から東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)校長に任ぜられる。
国分 三亥(こくぶ さんがい、文久3年12月25日(1864… 国分 三亥(こくぶ さんがい、文久3年12月25日(1864年2月2日) - 昭和37年(1962年)5月1日)は、日本の検事、朝鮮総督府官僚。錦鶏間祗候、宮中顧問官。教育者。 備中松山藩士の国分胤之(魚水実録を編纂)の子として生まれる。1883年(明治16年)に司法省法学校に入学し、1885年(明治18年)に卒業した。検事補となり、1887年(明治20年)に判事検事登用試験に合格。岡山地方裁判所検事、横浜地方裁判所検事、甲府地方裁判所検事正、高知地方裁判所検事正、大阪控訴院検事、大阪地方裁判所検事正を歴任した。1908年(明治41年)に韓国に渡り、韓国検事総長、統監府裁判所高等法院検事長に就任した。
菅村 太事(すがむら ふとじ、1864年2月2日(文久3年1… 菅村 太事(すがむら ふとじ、1864年2月2日(文久3年12月25日)- 1934年(昭和9年)3月6日)は、明治から昭和初期の日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、福島県会議長、福島県田村郡美山村長。旧姓・佐久間。 陸奥国田村郡北鹿又村(福島県田村郡美山村大字北鹿又村、船引町を経て現田村市船引町北鹿又)で、鹿股神社神職、農業・菅村嗣江の8人兄妹の第3子として生まれる。父は国学者で佐久間姓を明治維新後に鹿股神社の祭神・船大明神にちなんで菅村に改姓した。 自由民権運動に加わり田村郡の青年壮士として活動した。1882年(明治15年)11月、会津地方の応援に10人ほどの青年と駆け付けたが、同月29日、耶麻郡新合村(現喜多方市熊倉町新合)の会津自由党本部で逮捕され、2ヶ月間若松監獄に収容され、1883年(明治16年)2月、国事犯、凶徒聚衆教唆者として東京に護送されたが、同年4月13日に免訴釈放となった。
重岡 薫五郎(しげおか くんごろう、元治元年1月3日(186… 重岡 薫五郎(しげおか くんごろう、元治元年1月3日(1864年2月1日) - 明治39年(1906年)6月21日)は、日本の衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会)、弁護士。 伊予国喜多郡内ノ子村(現愛媛県内子町)にある呉服商兼雑貨屋の次男に生まれる。東京大学法学部を経て、司法省法学校速成科を卒業後、判事登用試験に合格するも、10日間で辞職。1887年(明治20年)からフランス・エクス大学(現エクス=マルセイユ大学)に留学し法学博士号を取得。帰国後、1892年(明治25年)に第2回衆議院議員総選挙に年齢を2歳ごまかして出馬するも、改進党系の有友正親に敗れる。第三高等中学校法学部教授や関西法律学校教授嘱託をつとめたほか、1893年(明治26年)に弁護士業を開業している。
小沢 愛次郎(おざわ あいじろう、1864年1月28日(文久… 小沢 愛次郎(おざわ あいじろう、1864年1月28日(文久3年12月20日) - 1950年(昭和25年)6月19日)は、日本の政治家、剣道家。 埼玉県会議員(4期)、衆議院議員(5期)を務め、剣道の中学校正科編入への請願運動に尽力した。流派は小野派一刀流。称号は大日本武徳会剣道範士。 武蔵国埼玉郡小針村(埼玉県北埼玉郡小針村、太田村を経て現行田市)で、小鹿原安次郎の弟、地主・田島竹之助の従兄弟として生まれ、桑崎村(岩瀬村を経て現羽生市)の素封家・小沢丈右衛門の養子となる。佐倉藩士・倉田幽谷から盈進義塾で漢学を学んだ。 1877年(明治10年)4月、14歳から忍町佐間(現行田市)の講武場道場で旧忍藩剣術指南役松田十五郎に小野派一刀流を学ぶ。
石川 喜三郎(いしかわ きさぶろう、文久3年12月16日(1… 石川 喜三郎(いしかわ きさぶろう、文久3年12月16日(1864年1月24日) - 昭和7年(1932年)2月5日)は、正教会の神学者。陸奥国仙台(現宮城県仙台市)出身。聖名はペートル(ペトル)。 生涯で活発に著述活動を行った。 1892年、日本ハリストス正教会の機関誌『正教新報』の編集人となる。亜使徒聖ニコライ大主教からセルギイ・チホミーロフ主教(肩書当時、のち府主教)に日本正教会の長が代わった際に『正教新報』は『正教時報』となるが、その編集人・発行人であり主筆であった。 1917年のロシア革命により母教会からの日本正教会への財政的援助が途絶え教会財政が逼迫する中、1923年の関東大震災により編集場所もなくなり、『正教時報』も縮小を余儀なくされ主筆の石川以外の人員が全て解雇され、石川の仮住居がそのまま正教時報社となるといった多大な困難にあって、石川は編集、発送、会計など全ての事務を担い続け『正教時報』発行継続に全力を尽くした。
田附 政次郎(たづけ まさじろう、文久3年12月15日(18… 田附 政次郎(たづけ まさじろう、文久3年12月15日(1864年1月23日) - 昭和8年(1933年)4月26日)は、日本の近江商人、実業家。大阪紡績取締役。東洋紡・日清紡ホールディングス・江商(現・兼松)の設立に関与した。また、綿糸相場師として活躍し『田附将軍』と呼ばれた。「売りの田附」として有名。ニュース・キャスターの国谷裕子の曾祖父。 文久3年(1864年)に近江国佐生村(後の滋賀県神崎郡五峰村佐生、神崎郡能登川町佐生を経て現・東近江市佐生町)に産まれる。船場八社の一つの田附商店を開業し、綿花取引や、綿業界をリードする存在であった。また、社会貢献として、京都大学に財団法人田附興風会、郷里の神崎郡五峰村に公益財団法人五峰興風会、帝塚山学院、大阪市に北野病院などを開設している。
塩谷 眞康(しおのや しんこう、文久3年12月14日〈186… 塩谷 眞康(しおのや しんこう、文久3年12月14日〈1864年1月22日〉 - 大正7年〈1918年〉3月24日)は、日本の政治家、教育家。衆議院議員(1期)、群馬県会議員(2期)。前名は塩谷 五十足(しおのや いそく)。 上野国吾妻郡小泉村(太田村を経て現・群馬県吾妻郡東吾妻町)出身。父は塩谷真雄。群馬師範学校(現・群馬大学教育学部)卒業後、郷里で教員となる。その後上京し1887年(明治20年)に慶應義塾を卒業。自宅の近くに春山館という私塾を開いて多くの若者を育成し、図書を多く収蔵して図書館の先駆となった。 1890年(明治23年)、群馬県会議員に当選。1894年(明治27年)に再選され常置委員となる。
坂野 兼通(ばんの かねみち、文久3年12月12日〈1864… 坂野 兼通(ばんの かねみち、文久3年12月12日〈1864年1月20日〉 - 昭和6年〈1931年〉8月12日)は、日本の銀行家。元山口合資会社理事長。 尾張国名古屋出身。1888年高等商業学校(現一橋大学)卒業、三菱合資会社銀行部入行。三菱合資会社銀行部大阪支店長を経て、1910年に町田忠治の後任として山口銀行上席理事に就任。1914年日本生命保険監査役。1918年大阪貯蓄銀行取締役。山口銀行の近代化を進めた。1924年には山口銀行筆頭常務を退任し、以降山口合資会社理事に専念し、山口合資会社理事長も務めた。1929年共同火災海上保険取締役会長。 ファミリア創業者の坂野惇子は、七男通夫の妻。長女の芳子は、衆議院議員横井時雄四男柳瀨存の妻。
小山 作之助(こやま さくのすけ、文久3年12月11日(18… 小山 作之助(こやま さくのすけ、文久3年12月11日(1864年1月19日) - 昭和2年(1927年)6月27日)は、日本の教育者・作曲家。日本教育音楽協会初代会長。 文久3年12月11日(1864年1月19日)越後国頸城郡潟町村(現在の上越市大潟区潟町)に生まれる。16歳で小学校を卒業した後、石油事業をしていた父の仕事を手伝うため高田町(のちの高田市、現在の上越市)へ移り住み、夜は漢学塾に通う生活をしていた。 1880年(明治13年)家人に無断で上京、大学予備門を経て築地大学(現在の明治学院大学)へ入学する。英語と数学を学び1883年(明治16年)2月、文部省音楽取調所に入学し、伊沢修二に師事。
清岡 等(きよおか ひとし、1864年1月16日(文久3年1… 清岡 等(きよおか ひとし、1864年1月16日(文久3年12月8日) - 1923年(大正12年)12月31日)は、日本の政治家、実業家。 陸奥国盛岡(現岩手県盛岡市)生まれ。父親行三の関係で秋田で過ごし太平学校(旧制秋田中学校、現秋田県立秋田高等学校)を卒業。1882年(明治15年)から1894年(明治27年)まで岩手県庁に勤務。1894年から1901年(明治34年)まで盛岡市長を務めた。1902年の第7回衆議院議員総選挙に出馬して原敬に敗れる。その後、盛岡電気社長、巖手日報の主筆、同社長などの事業を手がけた。
柴田 忠次郎(しばた ちゅうじろう、1864年1月16日 -… 柴田 忠次郎(しばた ちゅうじろう、1864年1月16日 - 1909年9月27日)は、明治時代の貿易商。日本における活動写真(映画)の導入に貢献した人物である。 愛知県豊田市出身。父は挙母藩の郡奉行を務めた柴田順平。弟に柴田鏡三郎。 東京・京橋の貿易商、新居商会に勤め、興行師の櫛引弓人や新居三郎と関わりを持つ。1893年(明治26年)のシカゴ万国博覧会に日本庭園を出品するため渡米。その後もアメリカ各地の催しに参加した。 1896年(明治29年)、友人の勧めで「ヴァイタスコープ」の上映を観賞。日本での上映を思い立ち、直ちに映写装置と16本のフィルムを3,500円で購入したが、代金が不足していたため、残額を日本で支払うこととなった。
盛田 善平(もりた ぜんぺい、1864年1月15日(文久3年… 盛田 善平(もりた ぜんぺい、1864年1月15日(文久3年12月7日) - 1937年(昭和12年)2月24日)は、日本の実業家。敷島製パンの創業者で初代社長。 尾張国知多郡小鈴谷村(現・愛知県常滑市)で造り酒屋を営んでいた盛田太助の五男で、敷島製パンの現社長盛田淳夫はひ孫。中埜酢店(現・ミツカン)の4代中埜又左衛門は叔父に当たる。 1864年1月15日(文久3年12月7日)、造り酒屋の五男として生まれた善平は家業を継ぐも酒税法の改正により廃業。当時ミツカンの創業家である中埜家の養子となっていた叔父の4代中埜又左衛門から「ビールづくりを手伝って欲しい」と頼まれたのを期に独学でビール造りを学び、1887年(明治20年)に又左衛門と共に丸三麦酒醸造所を創業する。
中田 錦吉(なかた きんきち、元治元年12月9日(1864年… 中田 錦吉(なかた きんきち、元治元年12月9日(1864年1月6日) - 大正15年(1926年)2月20日)は、第四代住友総理事である。 出羽国秋田郡大館町(現在の秋田県大館市)出身。1890年(明治23年)東京帝国大学卒業。同年横浜始審裁判所判事に任官。東京控訴院判事、横浜地方裁判所部長、水戸地方裁判所所長を経て、1899年(明治32年)東京控訴院部長に就任。1900年(明治33年)大学の3年先輩である鈴木馬左也の推挽によって住友に入り、1902年(明治35年)別子鉱業所支配人となる。1903年(明治36年)本店理事となり、1909年(明治42年)商工視察のため欧米へ出張し、1910年(明治43年)からは銀行支配人を兼務した。
井上 公二(いのうえ こうじ、1864年1月3日(文久3年1… 井上 公二(いのうえ こうじ、1864年1月3日(文久3年11月24日) - 1925年(大正14年)1月18日)は、明治期の実業家。古河鉱業会社に入り、足尾鉱業所長、古河合名会社理事を経て帝国生命保険(現・朝日生命保険)社長。古河財閥で大業を成し、昆田文次郎と並んで二大巨頭といわれた。 備中国(岡山県)上房郡高梁町(現・高梁市)生まれ。旧庭瀬藩士・井上公一の長男。漢学塾有終館に学び、岡山中学を中退。 16歳で単身上京し、有終館学頭だった三島中洲が開いた二松学舎、同人社に学び1883年(明治16年)慶應義塾入学、明治18年に卒業。1885年卒業と同時に米国に留学し、1888年帰国。時事新報を経て留学生支援を行う。
小松 謙次郎(こまつ けんじろう、1864年1月2日〈文久3… 小松 謙次郎(こまつ けんじろう、1864年1月2日〈文久3年11月23日〉- 1932年〈昭和7年〉10月15日)は、明治・大正期の官僚、政治家、貴族院議員。正三位勲一等。 信濃国埴科郡松代(現:長野県長野市松代町松代)に松代藩士横田数馬の次男として生まれる。和田英・横田秀雄の実弟。同藩士小松政昭の養子となる。藩校文武学校を経て、上京後、慶應義塾から帝国大学法科大学に転じ1888年(明治21年)に卒業。 司法省参事官、試験委員から逓信省に入り書記官となる。日露戦争中には韓国へ派遣され電信電話の普及に努める。逓信局長を経て次官で退官。同じくして1912年(大正元年)12月28日に貴族院議員に勅選された。
内田 恒太郎(うちだ つねたろう、1864年(慶應2年)1月… 内田 恒太郎(うちだ つねたろう、1864年(慶應2年)1月1日 - 1936年(昭和11年)2月10日)は、日本の会社役員。大日本麦酒(現サッポロビール)監査役。岡山県岡山市出身であり、族籍は岡山県平民。 岡山県上道郡富山村(現:岡山市)の内田武壽の長男として出生する。。1873年、家督を相続する。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制横浜商業学校(現:横浜市立大学)を経て、三井物産へ入社する。三井物産横浜支店、山陽倉庫銀行、岡山銀行等に勤務して同郷の先輩馬越恭平の知遇を得て大日本麦酒に入り、以来累進して商務課長、名古屋出張所長及び東京出張所長、取締役、監査役等を歴任する。 妻は赤龍丸事件を起こした鹿児島士族江田(ごうだ)兼親の娘雪(俗名幾子)。
伊藤 為吉(いとう ためきち、1864年1月 - 1943年… 伊藤 為吉(いとう ためきち、1864年1月 - 1943年5月)は、日本の建築家・発明家。伊勢国松坂(現三重県松阪市)出身。
鹿島 平堂(かしま へいどう、元治元年(1864年) - 昭… 鹿島 平堂(かしま へいどう、元治元年(1864年) - 昭和19年(1944年))は日本の教育者、俳人。旧姓佐賀、本名昊(ひろし)。 上道村(現鳥取県境港市上道町)の農家佐賀家に生まれる。 明治17年(1884年)鳥取県師範学校米子支校卒業、同年境小学校訓導となる。上京して東京物理学校(現在の東京理科大学)に学ぶ。卒業後、東京の私立数学専門学校長として赴任、横須賀海軍鎮守府の艦内学校教授に転任し、以来在京、私立井上小、芝区桜井小、京橋泰明小と歴任し、文部省に入り学校衛生顧問会議の書記となる。 明治41年(1908年)宮沢玉淵、宮尾杜子たちと「半蔵会」を設立し活躍。 明治30年(1897年)より大正6年(1917年)まで東京市に奉職する。
中野 二郎(なかの じろう、元治元年(1864年) - 昭和… 中野 二郎(なかの じろう、元治元年(1864年) - 昭和3年(1928年)2月9日)は、大陸浪人。東邦協会創立会員、東亜同文会会員。天門と号した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
中井 養三郎(なかい ようざぶろう、1864年 - 1934… 中井 養三郎(なかい ようざぶろう、1864年 - 1934年)は、現在の鳥取県倉吉市出身で、島根県周吉郡西郷町(現在の隠岐の島町)を拠点とした漁業者。 1864年、伯耆国久米郡中河原村(鳥取県東伯郡小鴨村大字中河原を経て、現:倉吉市中河原)にて、醸造業者の家に生まれる。 竹島で、潜水器を使ってナマコやアワビをとる漁業に携わったが、自著『事業経営概要』の中で、「本島は鬱陵島に付属して韓国の所領なりと思はるるを以って、将に韓国統監府に就て為す所あらん」と記述し、中井から直接話を聞いた奥原碧雲も、『竹島及鬱陵島』(1907年)において「リャンコ島を以って朝鮮の領土と信じ、同国政府に貸下請願の決心を起こし」と記述している。
井上 安治(いのうえ やすじ、文久4年 / 元治元年〈186… 井上 安治(いのうえ やすじ、文久4年 / 元治元年〈1864年〉 - 明治22年〈1889年〉9月14日)は、明治時代前期の浮世絵師、版画家。名前はやすはると読むとする説もある。本名は安次郎。作品によっては安次、安二、安二郎、安はると署名し、探景とも号した。 小林清親の一番弟子とされ、短命であったが光線画に優品を残した。 井上清七の長男として浅草並木町(今の雷門二丁目)で生まる。父は川越鍛冶町(現・幸町)にあった高麗屋という錦織問屋(太物仲買商)に生まれたが、江戸に出て浅草駒形町にあった丸屋呉服店に勤め、のちに一番番頭となっている。兄弟は姉と弟がおり、13歳の時父が亡くなってからは母の手ひとつで育てられたようだ。
石川 貞治(いしかわ ていじ、1864年 - 1932年)は… 石川 貞治(いしかわ ていじ、1864年 - 1932年)は、日本の教育者・文化人類学者・技師・実業家・技官。 島根県浜田市生まれ。1884年札幌農学校入学。1888年同校卒業(7期)。卒業後、考古学や文化人類学の研究者として札幌農学校助教授に就任。1896年拓殖務省技師に就任。その後、北海道庁にて鉱山・測量の技術者となる。同庁を退官後、北海道における金山・炭坑・油田の開発や経営を手掛ける。特に、鉱床開発では、手稲山が有名で、鉱業権を取得し、手稲鉱山と命名。その後、大津和多理、大町信、岡元輔、浅羽靖と共に、札幌農学校予科入学を目指す中等教育機関として北海英語学校中等部を創立。また、北海中学校・北海高等学校の創立にも大きく寄与した。
宮川 勇(みやかわ いさみ、1864年〈元治元年〉 - 19… 宮川 勇(みやかわ いさみ、1864年〈元治元年〉 - 1940年〈昭和15年〉)は、北海道・大沼公園の観光地化に尽力した日本の実業家。明治時代から昭和初期にかけて活動し、鉄道や宿泊施設の経営、観光資源の開発を通じて地域経済に大きな影響を与えた。 岩手県宮古市金浜(旧下閉伊郡磯鶏村大字金浜第四地割七拾番地)に生まれる。祖父勝弥の次男多次郎(天保十四年十月二日生)が父である。ー 北海道へ出稼ぎに行った父を追って、16歳(明治十三年三月十四日)の時、船で函館へ渡るが多次郎には会えぬまま、土工現場に従事した。 17歳の時、森田常吉率いる博徒団体マルモ一家(マルモは○の内側にモ)の創設に参加。- 明治20年(1887)から、函館を本拠に、全盛期には北海道、樺太、東京、青森、宮城、山形、秋田、岩手、新潟の1府2丁6県下に勢力を持ち、2万余の子分を擁した一大組織マルモ一家のナンバー2だったが、38歳で脱退。
熊田 鉄次郎(旧字体: 熊田 鐵次郎、くまた てつじろう、1… 熊田 鉄次郎(旧字体: 熊田 鐵次郎、くまた てつじろう、1864年〈元治元年〉 - 1907年〈明治40年〉5月28日)は、明治期の漢文学者、国文学者、教育者。立教学校(現・立教大学)教授や大阪陸軍地方幼年学校教授を務めたほか、各地の旧制中学で教えた。字は黒金、号は彬斉(ひんさい)。弟は二松学舎学長を務めた山田準/済斎。 1864年(元治元年)、備中松山藩士で山田方谷門の木村豊(藩校・有終館の会頭)の次男として生まれる。岡山県高梁市甲賀町(のちの柿木町)出身。兄は木村信行/水洞、弟は山田準/済斎(二松学舎専門学校初代校長・学長)。 14歳の時に、家老・熊田恰の一族・熊田矩光(大輔)の養子となる。
天川 恵三郎(あまかわ けいさぶろう、1864年〈元治元年〉… 天川 恵三郎(あまかわ けいさぶろう、1864年〈元治元年〉 - 1934年〈昭和9年〉4月5日)は、アイヌの民族活動家。旭川の近文で、第7師団の移転に伴うアイヌの土地の詐取的な取り上げに対する返還要求運動に関わり注目され、金田一京助らから「アイヌの佐倉惣五郎」と呼ばれる。アイヌ名はイサラ。 現在の北海道小樽市の領域にあたるオタルナイにて生まれ、1873年(明治6年)、量徳小学校に第1期生として入学する。勉学に秀でていた天川は、小学校を視察した大隈重信、西郷従道、白仁武らの目に留まる。特に大隈は、「成長して東京へ出たら必ず寄れ」と言うほどであった。のち石狩支庁の浜益村に移住し、農業を営んだ。 旭川の近文には、アイヌへの給与地が存在した。
上野 富左右(うえの とみぞう、元治元年(1864年) - … 上野 富左右(うえの とみぞう、元治元年(1864年) - 1889年(明治22年)2月10日)は明治時代の自由民権運動家。現栃木県小山市出身。一時期小口姓。地元で自由民権運動に参加し、自由党急進派として大阪事件に関与、『西哲夢物語』を秘密出版して検挙され、獄中で病死した。 元治元年(1864年)下野国都賀郡高椅村に上野八五郎の二男として生まれた。1874年(明治7年)延島村下等小学第六級を修了し、茨城県小塙町に移り増田慈教に漢籍を学んだ。1878年(明治11年)高椅村小口音治養子となった。 1880年(明治13年)4月栃木県四等巡査となるが、11月辞職し、高椅村役場に勤めた。 1881年(明治14年)頃自由民権運動に参加し、3月13日下都賀中節社副会長小林枡吉の呼びかけで延島村学校での集会に参加した。
中田 弥平(彌平、なかだ やへい、1864年(元治元年2月)… 中田 弥平(彌平、なかだ やへい、1864年(元治元年2月) - 1928年(昭和3年)5月25日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 加賀国能美郡浅井村(のち石川県能美郡苗代村、現・小松市)出身。農業を営む。1883年、自由党に加入し、石川県会議員、同参事会員となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において石川2区から自由党公認で立候補して当選する。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党公認で立候補して当選した。衆議院議員を2期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1928年に死去した。
西村 淳蔵(淳藏、にしむら じゅんぞう、1864年(元治元年… 西村 淳蔵(淳藏、にしむら じゅんぞう、1864年(元治元年3月) - 1939年(昭和14年)2月14日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。勲7等 但馬国養父郡八鹿村(のち兵庫県養父郡八鹿村→八鹿町、現・養父市)に生まれる。普通学を修め、上京し、慶應義塾に入り、1888年に卒業する。農業を営み、八鹿村長、同町長を長年にわたって歴任する。 1898年8月の第6回衆議院議員総選挙において兵庫9区から憲政党公認で立候補して当選する。1902年の第7回衆議院議員総選挙では兵庫県郡部から憲政本党公認で立候補したが落選した。1939年に死去した。 妻、小静は、但馬国歌詞柏原町の名家、田艇吉の長女、内助の功多く婦人会長として活躍した。
狩野 雄一(かのう ゆういち、文久3年11月21日(1863… 狩野 雄一(かのう ゆういち、文久3年11月21日(1863年12月31日) - 大正12年(1923年)4月29日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会)。 肥前国佐賀郡赤松(現在の佐賀県佐賀市)出身。狩野玄介、タキ夫妻の長男として生まれる。西肥日報社の経営にあたった。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙で当選を果たした。
長瀬 富郎(ながせ とみろう、文久3年11月21日(1863… 長瀬 富郎(ながせ とみろう、文久3年11月21日(1863年12月31日) - 明治44年(1911年)10月26日)は実業家。花王の創業者。 美濃国恵那郡福岡村(現在の岐阜県中津川市福岡)の造り酒屋に生まれる。12歳の時に、母親の実家である加茂郡神土村(後の加茂郡東白川村神土)へ奉公に出る。17歳のとき奉公先の店主の弟が独立したのに従い店を移る。 23歳の時に、店を辞め上京する。150円の資金で米相場を張っても失敗し、無一文になる。この時の挫折を教訓とし、「堅実に生きる」事を終生の誓いとする。 出直すべく日本橋馬喰町の小物問屋に入店、経営を任されるまでになる。その後1887年、23歳で独立を果たし「長瀬商店」(のちの花王)を馬喰町2丁目に創業する。
大槻 龍治(おおつき りゅうじ、1863年12月27日(文久… 大槻 龍治(おおつき りゅうじ、1863年12月27日(文久3年11月17日) - 1927年(昭和2年)6月25日)は、日本の官僚、鉄道実業家である。陸軍中将の白石通則は義理の兄弟。 宮城県出身。仙台藩士の大槻武治の次男だったが、兄の大槻栄行の養子となり家督を継ぐ。1890年に帝国大学法科を卒業した後に農商務省に入省し、1902年には参事官に任じられた。神奈川、京都、鳥取の各参事官、大蔵省主税官、長崎税関長などを歴任し、1905年に大阪税関長に就任し、1913年6月に熊本税務監督局長に就任した。 1915年から1927年までに大阪電気軌道社長を務め、債務の整理を行い、建設費の高騰で苦しんでいた大軌を再建した。
志賀 重昂(しが しげたか、文久3年11月15日(1863年… 志賀 重昂(しが しげたか、文久3年11月15日(1863年12月25日) - 昭和2年(1927年)4月6日)は、日本の地理学者、評論家、教育者、衆議院議員。誕生日は9月15日(1863年10月27日)ともいう。矧川(しんせん)・矧川漁長を号した。
黒田 定治(くろだ さだはる、文久3年11月12日(1863… 黒田 定治(くろだ さだはる、文久3年11月12日(1863年12月22日) - 大正3年(1914年)4月13日)は、日本の教育者。 越後国高田城下(現在の新潟県上越市)出身。1884年(明治17年)、東京師範学校(のち東京高等師範学校)中学師範学科を卒業し、附属小学校訓導、本校訓導、同助教諭を歴任した。1890年(明治23年)より3年間、イギリス・フランス・ドイツに留学した。帰国後、東京高等師範学校教授となり、1896年(明治29年)に附属小学校主事を兼ねた。1897年(明治30年)からは東京女子高等師範学校教授を兼ね、1900年(明治33年)から東京女子師範学校専任となった。1913年(大正2年)に東京府豊島師範学校校長に転じた。
3代 小林 万次郎(こばやし まんじろう、1863年12月1… 3代 小林 万次郎(こばやし まんじろう、1863年12月15日(文久3年11月5日)- 1919年(大正8年)9月27日)は、日本の地主、実業家、政治家。衆議院議員、長野県下高井郡中野町長。旧名・清水直。 信濃国水内郡温井村(長野県下水内郡岡山村を経て現飯山市)の清水家で生まれ、高井郡松川村(下高井郡中野町松川を経て現中野市)の素封家・2代小林万次郎の養子となる。3代小林万次郎を襲名した。生糸商を営んだ。 1901年(明治34年)中野町長に就任。1903年(明治36年)長野県会議員に選出され1期在任した。1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙で長野県郡部から選出された石塚重平の死去に伴い、1907年(明治40年)9月に行われた補欠選挙で当選し、立憲政友会所属で衆議院議員を1期務めた。
稲垣 乙丙(いながき いっぺい、文久3年11月4日(1863… 稲垣 乙丙(いながき いっぺい、文久3年11月4日(1863年12月14日) - 昭和3年(1928年)3月27日)は、日本の農学者。 信濃国諏訪郡上諏訪村(現長野県諏訪市)出身。諏訪藩士・柴田家に生まれ、1885年(明治18年)旧小諸藩士の稲垣重為の養子となった。 1878年(明治11年)、松本師範学校に入学。卒業後、小学校訓導となった。1883年(明治16年)、東京師範学校に入学し、1886年(明治19年)に卒業。長野県師範学校附属小学校訓導・助教試補となった。1887年(明治20年)、東京農林学校に入学し、さらに1891年(明治24年)に帝国大学農科大学に入学した。1894年(明治27年)に卒業後は、大学院に入った。
川島 純幹(かわしま すみもと / じゅんかん、1863年1… 川島 純幹(かわしま すみもと / じゅんかん、1863年12月12日(文久3年11月2日)- 1920年(大正9年)10月25日)は、日本の教育者、内務官僚。師範学校長、県知事。玄洋社社員。旧名・甚太郎。 筑前国出身。川島計の長男として生まれる。1886年(明治19年)、帝国大学法学部を卒業。1892年(明治25年)2月、鹿児島高等中学造士館教授に就任し、同年12月、同舎監を兼任。1893年8月、佐賀県尋常師範学校長となり、さらに奈良県尋常師範学校長を務めた。 1897年(明治30年)5月、内務省に転じ滋賀県参事官に就任。以後、三重県警察部長、佐賀県・大分県・千葉県・鳥取県の各書記官、和歌山県事務官・第一部長兼第三部長などを歴任。
森 直哉(もり なおや、文久3年11月1日(1863年12月… 森 直哉(もり なおや、文久3年11月1日(1863年12月11日) - ?)は戦前日本の医師。旧姓は姫野、後に赤星。東京大学医学部別課卒。宮城県古川病院初代院長。赤星研造養子だったが、離縁し故郷大在村竹下で森医院を営んだ。 文久3年(1863年)11月1日豊後国海部郡竹下村の農家姫野平治郎と綱子の三男として生まれた。14歳の時海部郡儒学者阿部一行に入門した。16歳の春、父不在のため、母の許しを得て豊前国中津に留学して白石照山に学び、同年暮大分県師範学校に入学した。 1881年(明治14年)5月師範学校を退学し、上京して東京大学医学部別課に入学したが、1年後実家が災難に遭い、学資の仕送りを受けられなくなった、群馬県、山梨県の医師等の家に身を寄せた後、再び上京して知人宅に滞在中、友人の紹介で元東京大学医学部教授赤星研造に学資を得られることとなり、養子となった。
堀谷 左治郎(ほりや / ほりたに さじろう、1863年12… 堀谷 左治郎(ほりや / ほりたに さじろう、1863年12月7日(文久3年10月27日) - 1925年(大正14年)8月30日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・岸田。左次郎と表記される場合がある。 松代藩士・岸田鉄治の二男として生まれる。1876年(明治9年)に上京し、1879年(明治12年)同人社を卒業。さらに、商業学校、早稲田中学校で学んだ。1880年(明治13年)ころ横浜の叔父・堀谷真治の養子となる。 養家の質商・米穀仲買業に従事。日本絹綿紡績社長に就任し、1892年(明治25年)東京移民会社を創設して数千人の移民を送り出した。その他、横浜実業銀行重役、横浜実業貯蓄銀行重役、安全石油監査役、横浜商業会議所議員などを務めた。
石田 真二(いしだ しんじ、旧姓:椎野、1863年12月7日… 石田 真二(いしだ しんじ、旧姓:椎野、1863年12月7日(文久3年10月27日) - 1927年(昭和2年)9月10日)は、日本の政治家、新聞記者。徳島県徳島市出身。 椎野家の息子として名東郡上八万村(現在の徳島市上八万町)で生まれる。園坡漁夫、晴耕雨読楼主人、侃々子と号した。後に石田家を継いだ。 1881年(明治14年)、徳島県立徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)卒業。卒業後、普通新聞社(現在の徳島新聞社)の客員となった。後に名東郡会議員を経て徳島県会議員に当選した。 1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙に出馬し当選したが、間もなく同年内に解散となり、第6回総選挙に再出馬したが落選した。