川田 栄三(榮三、かわた えいぞう、1896年 <明治29年… 川田 栄三(榮三、かわた えいぞう、1896年 <明治29年> 11月17日 - 1985年 <昭和60年> 6月14日)は、日本の経営者、銀行家。位階は従五位。 群馬県出身。1923年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に安田銀行に入行。 1943年に肥後銀行に転じ、取締役に就任し、1945年に常務を経て、1946年に頭取に就任。1971年11月に会長を経て、1976年12月には常任顧問に就任。 1958年に黄綬褒章を受章し、1967年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1985年6月14日心筋梗塞のために死去。88歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
津川 主一(つがわ しゅいち、1896年11月16日 - 1… 津川 主一(つがわ しゅいち、1896年11月16日 - 1971年5月3日)は、日本基督教団の牧師、教会音楽家。 1896年に愛知県名古屋市に生まれる。旧制名古屋中学校(現:名古屋中学校・高等学校)、関西学院神学部を卒業して、東京麻布美普教会の牧師に就任する。 牧師を辞めて、合唱運動に後半生をささげた。自由学園、恵泉女学園、青山学院神学部、東京YMCAなどの講師をつとめていた。東京オラトリオ、横浜オラトリオ、仙台オラトリオ、東京シンフォニック・コーラス、東京バッハ・ヘンデル協会などを創設して、指揮者を務めた。また、全日本合唱連盟の常任理事(1956年~66年)・名誉会員(1970年)、東京都合唱連盟の理事長(1956~57年)を務めた。
許斐 儀一郎(このみ ぎいちろう、1896年11月16日 -… 許斐 儀一郎(このみ ぎいちろう、1896年11月16日 - 1951年)は、日本戦前期の前衛写真家。 福岡市船町(現・中央区舞鶴)に生まれる。1915年福岡県立中学修猷館を経て、慶應義塾大学に学ぶが、結核療養のため中退し帰郷。療養中は古美術や絵画に親しむが、やがて写真にも興味を持つようになった。 快復後、実家の酒造業・許斐醸造所(のちの花関酒造)を手伝いながら撮影に没頭し、1934年頃に筑紫カメラクラブに入会。1939年には、高橋渡、久野久らと、前衛美術グループ「ソシエテ・イルフ」を結成し、写真雑誌などに作品を発表した。 身近のものを題材にとりながら、被写体の造形的な美を表現するのに優れ、戦前における前衛写真の代表的な作家として知られる。
坂 静雄(ばん しずお、1896年11月16日 - 1989… 坂 静雄(ばん しずお、1896年11月16日 - 1989年10月13日)は、日本の建築構造工学者、構造家。京都大学名誉教授。専門は鉄筋コンクリート工学。東京出身。 1921年東京帝国大学工科大学建築学科卒業。1922年4月京都帝国大学工学部助教授に就任。1928年工学博士。1933年教授に就任。1950年から神戸大学教授を兼任。1959年11月定年退官、名誉教授。 京大工学部の建築構造学講座を担当した。戦中や戦後すぐの時期には社寺建築や木造曲面屋根の研究報告を行っている。シェル構造の理論を広く国内に紹介した。また、建築分野で初めてプレストレストコンクリート技術の設計と施工の全領域を詳述した。
渡辺 寧(わたなべ やすし、1896年11月15日 - 19… 渡辺 寧(わたなべ やすし、1896年11月15日 - 1976年11月17日)は、日本の電子工学者。東北大学名誉教授、静岡大学名誉教授。茨城県出身。 日本における電子工学の先駆者で、日本でのトランジスタ研究の最初期の研究を統括した。他に長距離電話中継用の独自の増幅機や溶接制御用の放電管等を発明した。文化功労者。 一つの線で同時に13局と送信通話のできる電話機や水中電話等を開発した。またPINダイオードの開発でも指導的役割を担った。
大下 宇陀児(おおした うだる、1896年11月15日 - … 大下 宇陀児(おおした うだる、1896年11月15日 - 1966年8月11日)は日本の探偵小説作家。本名、木下龍夫。別名、XYZ。 1896年(明治29年)、長野県上伊那郡中箕輪村(現箕輪町)に父・甚五郎、母・やすのもとに生まれる。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)、第一高等学校へ進む。1921年(大正10年)、九州帝国大学](現在の九州大学)工学部応用化学科を卒業。農商務省臨時窒素研究所に勤務。同僚の甲賀三郎の探偵小説文壇における活躍に触発されて探偵小説を書き始めた。 1925年(大正14年)4月、博文館の探偵雑誌『新青年』誌上で、探偵小説『金口の巻煙草』でデビュー。 探偵小説だけでなくSF小説にも関心を示し、「空中国の大犯罪」や『ニッポン遺跡』といった作品を執筆し、星新一の文壇デビューに一役買った。
高橋 広江(たかはし ひろえ、男性、1896年11月15日 … 高橋 広江(たかはし ひろえ、男性、1896年11月15日 - 1952年8月20日)は、昭和期のフランス文学者。 岐阜県生まれ。1926年慶應義塾大学仏文科卒。慶大予科教授を経てフランス領インドシナに渡る。戦後は岐阜大学教授などを歴任。1930年(昭和5年)より『三田文学』に小説、フランス文学に関する評論などを発表した。シャルル・ボードレールやポール・ヴァレリーの翻訳を手がけた。
高ノ山 三郎(たかのやま さぶろう、1896年11月15日 … 高ノ山 三郎(たかのやま さぶろう、1896年11月15日 - 没年不明)は、和歌山県和歌山市出身で出羽海部屋に所属した力士。本名は宮尾 三郎。176cm、94kg。最高位は西前頭6枚目。得意技は右四つ、寄り、投げ。 早稲田実業高校に在学中、自ら角界に飛び込んだインテリ力士。 1912年5月初土俵、1919年5月十両昇進。1922年1月入幕を果たす。病気療養中に家族とともに関東大震災に遭遇し、本人以外の家族は全員死亡したため、悲嘆に暮れてしまい、1924年1月場所前に27歳の若さで廃業した。被災当時、義両親、二人の義姉、妻と二人の子供がいたが、妻は翌月に第三子の出産を控えていたという。 廃業後は家族の冥福を祈るため、高野山で出家得度を受け、満州にいる兄の元に身を寄せ、その後、四国巡礼のお遍路さんになったというが、その後の消息は不明。
岸 信介(きし のぶすけ、1896年〈明治29年〉11月13… 岸 信介(きし のぶすけ、1896年〈明治29年〉11月13日 - 1987年〈昭和62年〉8月7日)は、日本の政治家、農商務・商工官僚。1957年から1960年まで内閣総理大臣(第56・57代)を務めた。位階勲等は正二位大勲位。出生名は佐藤 信介(さとう のぶすけ)。 他満洲国総務庁次長、商工大臣(第24代)、衆議院議員(10期)、自由民主党幹事長(初代)、自由民主党総裁 (第3代) 、外務大臣(第86・87代)、内閣総理大臣臨時代理、皇學館大学総長(第2代)を歴任した。東洋パルプ、日本再建連盟の会長も務めた。A級戦犯被疑者として収監されるが、不起訴となったのち米国CIA(中央情報局)の協力者として活動し、戦後にも権力を得た。
牧野 信一(まきの しんいち、1896年〈明治29年〉11月… 牧野 信一(まきの しんいち、1896年〈明治29年〉11月12日 - 1936年〈昭和11年〉3月24日)は、日本の小説家。神奈川県足柄下郡小田原町(現・小田原市)出身。 自然主義的な私小説の傍流としてみなされることが多く、17年間の作家生活の中で珠玉の短編十数編を残して早逝した「マイナー・ポエット」といわれている。「ギリシャ牧野」とも呼ばれた中期の幻想的な作品で新境地を拓いたが、小田原の生家で悲劇的な最期(縊死自殺)を遂げた。享年39歳。 牧野信一は、決して大作家とはいえない一詩人的な作家ではあるが、その「内発的な自我破り、想像力の開放、分裂に処するパロディの方法の発見」などは文学史的には重要な意味があると磯貝英夫は考察し、その後継者的な作家として、井伏鱒二、坂口安吾、石川淳、太宰治らの名を挙げている。
後藤 勇吉(ごとう ゆうきち、1896年〈明治29年〉11月… 後藤 勇吉(ごとう ゆうきち、1896年〈明治29年〉11月12日 - 1928年〈昭和3年〉2月29日)は、日本の航空黎明期の民間パイロット。一等操縦士・一等飛行士免許の取得、航空機による旅客輸送、日本一周飛行などにおいて日本初を記録したが、太平洋横断無着陸飛行計画の訓練中に墜落死している。 1896年(明治29年)、宮崎県延岡市南町で裕福な商家の四男に生まれる。幼少期より機械に関心を持ち、宮崎県立延岡中学校(現:宮崎県立延岡高等学校)に入るころには蒸気機関つきの精米機や、水上自転車を製作した。航空機に関心を持つようになったのもこの頃という。 1914年(大正3年)、延岡中学校卒業後に上京、三井物産の自動車部門(ヤナセの前身)で無給の工員として働くが、飛行士白戸栄之助に出会ってその助手となり、複葉水上飛行機・白戸式「巌号」を完成させる。
浅香 末起(あさか すえき、1896年11月10日 - 19… 浅香 末起(あさか すえき、1896年11月10日 - 1971年)は、日本の植民政策学者。 福岡藩士族徳島徳の四男として福岡県に生まれる。1914年福岡県立中学修猷館、1917年第二高等学校を経て、1921年3月京都帝国大学経済学部を卒業。京大在学中に浅香家に迎えられ結婚し、浅香に改姓した。 1921年4月日本銀行に入行するが、研究者を志し、1923年2月台北高等商業学校(現・国立台湾大学管理学院)講師に就任、1924年5月同教授に昇任する。1931年2月大阪商科大学(現・大阪市立大学)助教授に転じ、1933年3月同教授に昇任する。1935年10月から1年間、植民政策研究のため欧米に留学し、1941年7月より1944年9月まで、大阪商科大学に在籍したまま外務省事務嘱託を務める。
芦部 啓太郎(あしべ けいたろう、1896年(明治29年)1… 芦部 啓太郎(あしべ けいたろう、1896年(明治29年)11月9日 - 1986年(昭和61年)2月25日)は、大正末から昭和期の政治家、教育者。長野県駒ヶ根市長(初代)。長男は芦部信喜(憲法学者)。 長野県上伊那郡赤穂村(現駒ヶ根市)で、芦部喜一郎、きくよ の四男として生まれた。1919年(大正8年)北海道帝国大学附属水産専門部(現水産学部)卒業後、三菱商事に入社。後に帰郷し、1923年(大正12年)赤穂公民実業学校(現長野県赤穂高等学校)の教諭に転じ、1938年(昭和13年)同校長に就任し1948年(昭和23年)まで在任。1948年(昭和23年)赤穂信用組合(現アルプス中央信用金庫)を設立して専務理事に就任し、1951年(昭和26年)同理事長となり1979年(昭和54年)まで在任した。
小山田 義孝(おやまだ よしたか、1896年(明治29年)1… 小山田 義孝(おやまだ よしたか、1896年(明治29年)11月9日 - 1963年(昭和38年)1月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)、陸軍参与官、秋田県会議員、秋田県仙北郡西仙北町長、強首村長。 秋田県仙北郡強首村(のち西仙北町を経て、現在の大仙市)出身。早稲田大学専門部政治経済科卒業。陸軍に入り、主計少尉となる。除隊後、帰郷し、強首村議、同村長、同農会長を経て、秋田県議、同参事会員となる。1932年(昭和7年)秋田2区(当時)から立憲政友会公認で立候補し、初当選する。以後、4期連続当選。この間、阿部内閣で陸軍参与官を務めた。太平洋戦争により1943年(昭和18年)に応召されたが、終戦後の1945年(昭和20年)9月に復職した。
東條 猛(とうじょう たけし、1896年11月9日 - 没年… 東條 猛(とうじょう たけし、1896年11月9日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。新漢字表記東条 猛、本名竹内 節(たけうち たかし)。新派出身であったが、時代劇にも現代劇にも出演、マキノ・プロダクション、大都映画の作品の脇を固めた助演俳優として知られる。 1896年(明治29年)11月9日、兵庫県印南郡志方村(現在の同県加古川市志方町)に生まれる。 旧制小学校卒業後の満13歳のころ、1910年(明治43年)、壮士芝居出身の縣妻吉(県妻吉)の一座に参加、大阪・道頓堀の朝日座で新派俳優としてデビューする。その後、満19歳となった1926年(大正15年)、京都の日活大将軍撮影所に入社、同年10月に各社競作した『鳴門秘帖』等に出演し、やがて同社を退社して、松竹下加茂撮影所に移籍する。
今田 敬一(こんだ けいいち、1896年11月8日 - 19… 今田 敬一(こんだ けいいち、1896年11月8日 - 1981年5月5日)は、日本の画家、童話作家、美術史家、林学者。北海道大学名誉教授。北海道大学では森林気象学関連の研究の他、新島善直の森林美学を継承したと評されている。 画家としては「道展」に創立当時から関わり、1974年には北海道美術協会会長もつとめ、北海道美術界の発展に寄与した。 秋田市で第二子(上に姉があり、長男)として生まれる。父の今田佐吉は養蚕指導者で、父の仕事の都合により1900年から札幌に定住した。北海道師範学校付属小学校(現・北海道教育大学附属札幌小学校)に入学し、水彩画好きな教員の影響を受けて、4-5年生の頃には父に買ってもらった画材により絵を描き始めた。
白根 清香(しらね きよか、1896年11月6日 - 198… 白根 清香(しらね きよか、1896年11月6日 - 1985年12月30日)は、日本の経営者、銀行家。中央信託銀行初代社長を務めた。山口県出身。 1923年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。 1946年6月に理事に就任し、1947年に大阪支店長、1950年に日本証券金融社長を経て、1962年5月には中央信託銀行社長に就任。1965年12月から1970年12月までに会長を務めた。京阪電気鉄道相談役を務めた。 1967年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1985年12月30日肺炎のために死去。89歳没。
粟野 頼之祐(あわの らいのすけ、1896年11月3日 - … 粟野 頼之祐(あわの らいのすけ、1896年11月3日 - 1970年8月23日)は、ボストン美術館東洋部員、歴史学者、関西学院大学教授。 兵庫県川辺郡六瀬村出身。1896年、川辺郡猪名川町島に生まれる。猪名川町六瀬第二小学校、大阪府立北野中学校、青山学院高等学部卒業後、1927年米国オハイオ州ウェスリアン大学でB.A.、コロンビア大学大学院史学科でM.Aを取得。その後1939年までハーバード大学にて碑文およびパピルス文書などの史料にもとづくヘレニズム史の研究を継続し、一時期ボストン美術館東洋部にも勤務。1939年に帰国後、神戸女学院講師を経て、1951年に招かれて関西学院大学文学部教授に就任し史学科を開設し1967年の定年まで、その充実・発展のために尽力。
山本 利寿(山本 利壽、やまもと としなが、1896年〈明治… 山本 利寿(山本 利壽、やまもと としなが、1896年〈明治29年〉11月3日 - 1991年〈平成3年〉12月28日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)、衆議院議員(2期)。参議院功労議員表彰。 1896年島根県生まれ。1923年に関西学院大学文学部社会学科卒業後、コロンビア大学に留学し、1929年大学院修了。 関西学院大学で講師を務めた後、1943年マライ半島において陸軍司政官。戦後はシンガポール戦犯裁判所通訳、日本で浜田進駐軍首席通訳、1947年島根県議会議員。 1949年には第24回衆議院議員総選挙島根県全県区で民主党から出馬し、初当選。以後通算2期務める。 1958年には、第4回参議院議員通常選挙島根県選挙区補欠選挙で自由民主党から立候補し、初当選。
岩崎 隆弥(いわさき たかや、1896年11月2日 - 19… 岩崎 隆弥(いわさき たかや、1896年11月2日 - 1983年6月2日)は、日本の実業家。三菱財閥のオーナー・岩崎家の一員で、三菱合資会社社長を務めた岩崎久弥の次男。 東京府(現:東京都)出身。 1909年に東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)、1915年に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。1921年に東京帝国大学工学部を卒業。1922年英国グラスゴー大学に留学。 1926年の帰国後三菱製紙に入社。1943年三菱瓦斯(現在の三菱瓦斯化学とは別会社)の会長、1944年三菱製紙の会長に就任。 太平洋戦争後の1947年、財閥解体政策により、父久弥、兄彦弥太、弟恒弥と共に財閥家族に指定され、三菱傘下企業の全役職を辞任。
手島 伝(てじま つたえ、1896年(明治29年)11月2日… 手島 伝(てじま つたえ、1896年(明治29年)11月2日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。福岡県門司市助役。 福岡県浮羽郡田主丸町(現在の久留米市)出身。1920年(大正9年)、早稲田大学専門部政治経済科を卒業し、1922年(大正11年)11月に高等試験に合格した。1923年(大正12年)宮城県属となり、以後、同柴田郡長、青森県商工水産課長を歴任。1928年(昭和3年)に退官するが、1930年(昭和5年)に宮崎県学務課長・社会課長として復帰。その後、香川県農林課長・官房主事、茨城県農林課長、静岡県農務課長、同教育課長・社会課長、青森県書記官・経済部長を経て、1939年(昭和14年)に愛媛県経済部長に就任した。
座間 美都治(ざま みつじ、1896年〈明治29年〉11月2… 座間 美都治(ざま みつじ、1896年〈明治29年〉11月2日 - ?)は、日本の歴史学者。神奈川県相模原市地域の郷土史家として知られる。神奈川県師範学校本科卒業。神奈川県商工実商学校教諭、相模原市立旭中学校校長、相模原市史編纂委員等を歴任。 現在の神奈川県相模原市南区に出生。1974年(昭和49年)の『相模原の歴史』を初めとして複数の郷土史書を著し、『相模原市史第7巻』を著述した。 1980年(昭和55年11月2日)の84歳の折、教え子や有志により相模原市麻溝台字はの原1894番地に肖像が建設された。敷地提供者は座間末治嗣子及び座間功。同像は1989年(平成元年)道路拡幅のため相模原市南区下溝3256-9に移された。
中野 銀郎(なかの ぎんろう、1896年11月1日 - ?)… 中野 銀郎(なかの ぎんろう、1896年11月1日 - ?)は、日本の郷土史家、柔術家である。号は剣堂。 1896年11月1日(明治29年)に三重県花野木村大字下之庄に生まれる。 15歳の春に眼病に罹り一年ほど半盲人同様の身となる。失明は免れたが極端な乱視となり右耳も聞こえなくなった。また後年の柔道修行の際に左耳を負傷したことにより聴力を失った。 1917年(大正6年)に帝國尚武會に入り野口潜龍軒より神道六合流を学ぶ。 帝國尚武會の神道六合流における段位は1920年5月(大正9年)に初段、1921年9月(大正10年)に二段、1923年1月(大正12年)に三段となっている。 1922年(大正11年)4月に上京し早稲田大学政治経済科に入学するが、1923年(大正12年)帰省中に関東大震災が起きる。
関口 鍈太郎(せきぐち えいたろう、1896年10月30日 … 関口 鍈太郎(せきぐち えいたろう、1896年10月30日 - 1981年7月21日)は、日本の造園家。造園研究者、林学者。名古屋市生まれ。 1925年(大正14年)、京都帝国大学農学部林学科に助教授として赴任。日本で初めて造園学を名乗る講座が誕生する。戦後も京都大学農学部林学科で造園研究室を主宰。多くの人材を育成した。 1955年以降は本務の京都大学のほか、西京大学時代の京都府立大学や農科大学時代の島根大学農学部、高知大学農学部など、他大学でも講義を行っている。 第八高等学校を経て東京帝国大学林学科に入学。1912年4月 東京帝国大学農学部林学科卒業。1924年東京帝国大学農学部講師となる。1923年4月京都帝国大学農学部助教授。
石丸 敬次(いしまる けいじ、1896年〈明治29年〉10月… 石丸 敬次(いしまる けいじ、1896年〈明治29年〉10月30日 - 1980年〈昭和55年〉3月27日)は、日本の内務官僚、国会職員。官選第34代富山県知事。 福岡県出身。1916年3月、小倉師範学校本科第一部を卒業し、福岡県遠賀郡内平小学校訓導、小倉師範学校訓導、東京市小石川高等小学校訓導を歴任。1925年3月、日本大学法文学部政治学科英語部を卒業。愛媛県吉田町立吉田中学校教諭となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1926年、内務省に入省し長崎県属となる。 以後、長崎県学務部社会課長、沖縄県課長、長野県農商課長、大阪府地方課長、同議事課長、文部省普通学務局庶務課長、同国民教育局中等教育課長、岐阜県経済部長、宮崎県警察部長、同内政部長、内閣参事官などを経て、東北地方行政事務局長となる。
南 亮三郎(みなみ りょうざぶろう、明治29年(1896年)… 南 亮三郎(みなみ りょうざぶろう、明治29年(1896年)10月28日 – 昭和60年(1985年)5月24日)は、日本の人口学者。小樽高等商業学校(現小樽商科大学)教授、北海道立労働科学研究所(現北海道立総合研究機構)初代所長、中央大学教授、日本人口学会会長等を歴任した。藍綬褒章受章。 小樽高等商業学校(現小樽商科大学)入学、大西猪之介に師事、1918年(大正7)9月20日『小樽毎夕新聞』に「社会主義者を検挙する前に」と題する米騒動に関する意見を発表し、筆禍事件に発展、1920年(大正9)同大学卒業卒業。東京植民貿易語学校(現保善高等学校)教諭を経て、1923年(大正12)東京商科大学(現一橋大学)卒業。
遠藤 寿子(えんどう ひさこ、1896年10月28日 - 1… 遠藤 寿子(えんどう ひさこ、1896年10月28日 - 1971年9月24日)は、日本の翻訳家。 北海道函館出身。衆議院議員を務めたことのある政治家の家に育った。津田英学塾卒業後、ウェブスター『あしながおじさん』などの翻訳を手がけた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
飯田 莫哀(いいだ ばくあい、1896年〈明治29年〉10月… 飯田 莫哀(いいだ ばくあい、1896年〈明治29年〉10月27日 - 1981年〈昭和56年〉6月2日)は日本の歌人。本名、飯田 昇。 1896年(明治29年)、神奈川県高座郡海老名村に生まれる。日本大学社会課中退後、法政大学、水難救済会、八雲書店等に勤務したのちに天弦社の代表となる。童謡歌手、女優の飯田ふさ江は娘。 作歌を始めたのは厚木中学校在学中であり、莫哀の雅号は旧制中学3年の頃に漢文を担当していた教師がつけたものである。1915年(大正4年)に前田夕暮の『詩歌』に参加した。詩歌の廃刊後は活動を休止するが、1922年(大正11年)『覇王樹』に参加し橋田東声に師事する。東声の死後は森園天涙の『珊瑚礁』に転じたが再び覇王樹に戻っている。
武居 三吉(たけい さんきち、1896年10月26日 - 1… 武居 三吉(たけい さんきち、1896年10月26日 - 1952年6月25日)は、日本の農芸化学者。 長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)生まれ。旧制長野県立諏訪中学校(長野県諏訪清陵高等学校)、旧制第二高等学校を経て、1920年東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業。 1922年から理化学研究所勤務。ハイデルベルク大学留学を経て、1928年京都帝国大学教授となる。1931年京都大学化学研究所所長に就任。1940年から1946年まで京都教育大学学長を務め、戦後は京都市の教育委員も務めたことがある。 主な研究内容としてはデリス根の有効成分ロテノンの化学構造を決定した。 祖父は製糸家の武居代次郎。
南 喜市郎(みなみ きいちろう、明治29年(1896年)10… 南 喜市郎(みなみ きいちろう、明治29年(1896年)10月23日 - 昭和46年(1971年)2月20日)は、ホタルの研究者。家業の醸造業を営む傍ら守山ゲンジボタル生態調査を行い、人工飼育に取り組み羽化に成功した。ほたる保護思想の普及啓発と増殖に努めた。 南喜市郎は、明治29年(1896年)10月23日滋賀県野洲郡守山町(現滋賀県守山市)に生まれ、本名は喜右衛門と称した。旧滋賀県立八幡商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)を卒業後、家業の醤油醸造業を手伝い町の青年団長を務めていた大正8年(1919年)、本山彦一(元大阪毎日新聞社社長)が守山を訪れ、南にゲンジボタルの研究を勧めた。 その後、岐阜の昆虫学者名和靖の依頼から守山ゲンジボタル生態調査の案内役をし調査研究に協力した。
12代 佐藤 助九郎(さとう すけくろう、1896年(明治2… 12代 佐藤 助九郎(さとう すけくろう、1896年(明治29年)10月22日 - 1979年(昭和54年)12月5日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。富山県東礪波郡柳瀬村長(1931年11月11日 - 1946年12月12日、1951年5月13日 - 1954年1月14日)。 富山県東礪波郡柳瀬村(砺波町を経て現砺波市)出身。先代佐藤助九郎の二男・健太郎として生まれ、1931年(昭和6年)家督を相続する。1918年(大正7年)早稲田大学専門部政治経済学科卒業。 1919年(大正8年)以降、中越銀行勤務、富山県スキー連盟会長、富山鉄道、佐藤工業各社長、高岡新聞社、高岡劇場各取締役、中越無尽監査役、北日本新聞社長のほか、柳瀬村長、同村産業組合長、同村農会長を務めた。
吉田 正(よしだ ただし、1896年10月20日 - 196… 吉田 正(よしだ ただし、1896年10月20日 - 1969年8月19日)は、日本の政治家。実業家。
福田 千里(ふくだ ちさと、1896年 <明治29年> 10… 福田 千里(ふくだ ちさと、1896年 <明治29年> 10月20日 - 1992年 <平成4年> 12月26日)は、日本の経営者。大和証券社長、会長を務めた。東京都出身。位階は従四位。 1921年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に藤本ビルブローカー銀行(のちの大和証券)に入社した。台北支配人、取締役、常務、専務を経て、1954年11月に副社長に就任し、1957年11月に社長に昇格。1963年4月には会長に就任した。 1963年から1968年までに日本証券業協会連合会会長を務め、日本教育テレビ取締役、日本経営者団体連盟・経済団体連合会各常任理事も務めた。 1964年に藍綬褒章を受章し、1968年に勲三等旭日中綬章を受章した。
吉田 正(よしだ ただし、1896年〈明治29年〉10月20… 吉田 正(よしだ ただし、1896年〈明治29年〉10月20日 - 1969年〈昭和44年〉8月19日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。 長野県北安曇郡池田町村(現池田町)生まれ。旧制大町中学(現・長野県大町高等学校)卒業。1918年(大正7年)、上海東亜同文書院商務課卒業。一旦は岩井産業(現日商岩井)に入社するが、すぐに帰郷し、1925年(大正14年)、旧制池田実科中学(現・長野県池田工業高等学校)教諭となる。 その後、農業界に転身し、全国農業会の常務理事として活躍する。同時に「協同党」を結成した。1942年(昭和17年)、長野県第4区から第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会推薦候補で立候補して、当選する。
保阪 嘉内(ほさか かない、1896年〈明治29年〉10月1… 保阪 嘉内(ほさか かない、1896年〈明治29年〉10月18日 - 1937年〈昭和12年〉2月8日)は、日本の詩人。宮沢賢治の親友として知られ、賢治の代表作とされる『銀河鉄道の夜』のカムパネルラのモデルとも言われる。 山梨県北巨摩郡駒井村(現:韮崎市)出身。父は郡役所書記であった。韮崎高等小学校から1910年に山梨県立甲府中学校(現:山梨県立甲府第一高等学校)に進む。星の和名に詳しい野尻抱影に英語を教わり、また文芸同人誌に作品を発表していた。中学入学の年にハレー彗星の最接近を観察しスケッチをつけた。 1915年に甲府中学を卒業すると、東北帝国大学札幌農科大学(現:北海道大学)を受験するが不合格となり、翌1916年に盛岡高等農林学校農学科第二部に入学する。
白川 久雄(しらかわ ひさお、1896年(明治29年)10月… 白川 久雄(しらかわ ひさお、1896年(明治29年)10月18日 - 1984年(昭和59年)1月1日)は、大正末から昭和期の弁護士、実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県津名郡洲本町長。 兵庫県三原郡神代村(三原町を経て現南あわじ市神代)で、白川五平、まつ の長男として生まれる。旧制洲本中学校卒業。1921年(大正10年)京都帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業した。陸軍法務官試補に任官し、法務官に昇進。1925年(大正14年)から弁護士の業務に従事した。 実業界では、洲本瓦斯社長、全淡自動車取締役、洲本鉄工所取締役、淡路交通取締役、淡路タクシー取締役、淡路産業監査役、淡路商工会議所会頭などを務めた。
山内 直元(やまうち なおもと、1896年(明治29年)10… 山内 直元(やまうち なおもと、1896年(明治29年)10月18日 - 1970年(昭和45年)3月9日)は、日本の実業家。住友銀行常務取締役、日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)社長を務めた。 愛知県尾西市出身。1920年(大正9年)東京帝国大学法学部を卒業後、住友銀行に入行。 ニューヨーク支店長、常務・東京支店長を経て、1947年(昭和22年)2月から統括常務に就任し、事実上のトップとなるが、8月に公職追放となる。1958年(昭和33年)5月に復帰し監査役を務める。 NETにおける大川・赤尾紛争のあと、社長から退陣した大川博に代わる体制を、旺文社、東映、日本経済新聞社、そして首尾よく経営の一角に食い込むことになった朝日新聞社の四社で協議をしたがまとまらなかった。
10代 深川 栄左衛門(榮左エ門、ふかがわ えいざえもん、1… 10代 深川 栄左衛門(榮左エ門、ふかがわ えいざえもん、1896年(明治29年)10月18日 - 1960年(昭和35年)3月2日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。初名は隆。 佐賀県西松浦郡有田町で9代・深川栄左衛門(与太郎)の四男として生まれる。1920年(大正9年)早稲田大学商科を卒業した。 有田合同運送社長、有田信用無尽社長、香蘭碍子販売社長、香蘭合名会社代表社員、香蘭社社長、西松浦通運社長、佐賀興業銀行取締役、有田陶磁器工業組合連合会理事、佐賀県工芸協会評議員、九州貿易振興会常任委員、佐賀県陶磁器工業協同組合相談役、窯業協会常議員などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に民主党公認で出馬して当選し、その後、改進党に所属して参議院議員に1期在任した。
槇山 次郎(まきやま じろう、1896年10月16日 - 1… 槇山 次郎(まきやま じろう、1896年10月16日 - 1986年12月5日)は、日本の古生物学者、地質学者、貝類学者。日本貝類学会名誉会長。日本古生物学会元会長、日本地質学会元会長。
平井 泰太郎(ひらい やすたろう、1896年10月15日 -… 平井 泰太郎(ひらい やすたろう、1896年10月15日 - 1970年7月2日)は、日本の経営学者。神戸大学名誉教授。第2代日本経営学会理事長。 兵庫県神戸市出身。1918年神戸高等商業学校(現神戸大学)を卒業し、東京高等商業学校(現一橋大学)商工経営科に進学。1920年に卒業して、商学士の学位を取得した。同期に福田敬太郎第3代神戸大学学長がいる。上田貞次郎門下。神戸高等商業学校講師となり、1921-1925年欧米に留学し、ベルリンでハインリヒ・ニックリッシュ(ドイツ語版)に、ライプツィヒでバルドウィン・ペンドルフ(ドイツ語版)に、フランクフルトでフリッツ・シュミットに師事。留学中1923年に教授となる。
本田 喜代治(ほんだ きよじ、1896年10月15日 - 1… 本田 喜代治(ほんだ きよじ、1896年10月15日 - 1972年10月22日)は、日本の社会学者。
山本 親雄(やまもと ちかお、1896年(明治29年)10月… 山本 親雄(やまもと ちかお、1896年(明治29年)10月13日 - 1980年(昭和55年)11月4日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。
木村 清司(きむら せいじ、1896年〈明治29年〉10月1… 木村 清司(きむら せいじ、1896年〈明治29年〉10月12日 - 1980年〈昭和55年〉10月18日)は、日本の内務・厚生官僚、弁護士。官選福井県知事。 新潟県出身。長岡市長・木村清三郎の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1920年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1921年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。農商務省に入省し工務局属となる。 以後、工場監督官、鉱務監督官、国際労働会議政府代表顧問(1926年)、秋田県書記官・総務部長、内務省地方局財務課長などを歴任。 1939年4月、福井県知事に就任。戦時体制の整備に尽力。1940年12月、厚生省保険院社会保険局長に転任し、1942年4月まで在任。
清見 陸郎(きよみ ろくろう、1896年10月11日 - 没… 清見 陸郎(きよみ ろくろう、1896年10月11日 - 没年不明)は、日本の作家、編集者、劇作家。東京市神田区猿楽町生まれ。東京中学校卒、東京美術学校中退、早稲田大学英文科中退。『美術新報』『秀才文壇』の編輯に当たり、根岸興行部脚本部員だったこともある。
辻 二郎(つじ じろう、1896年10月11日 - 1968… 辻 二郎(つじ じろう、1896年10月11日 - 1968年10月4日)は、日本の機械工学者(専門分野は「光弾性実験のフリンジ法」など)、国家公安委員会委員長(初代)。筆名は富士前 研二。 東京出身。東京帝国大学工学博士(1930年)。論文の題は「新シキ材料ト方法トニヨレル光弾性学ニ関スル研究(英)」。 理化学研究所に入り、主任研究員時代には、オイルタンカーでの爆発事故を防ぐため、世界初となる光学式ガス検定器を開発した。1945年(昭和20年)には副所長に就任。のち東京理科大学教授となる。理研計器社長を務めていた時期もあった(#主な役職を参照)。 公安委員時代(1948年3月7日 - 1952年3月6日[要出典]まで委員長)には、1950年に設立に至った日本交通安全協会(現・全日本交通安全協会)の発起人を務めた。
庄司 彦男(しょうじ ひこお、1896年〈明治29年〉10月… 庄司 彦男(しょうじ ひこお、1896年〈明治29年〉10月9日 - 1960年〈昭和35年〉5月18日)は、昭和期の漁業関係者、政治家。衆議院議員。八田一朗と共に日本へアマチュアレスリングの導入に貢献した。彦雄と表記される場合がある。 鳥取県西伯郡渡村(境港町を経て現境港市渡町)で生まれる。1920年(大正9年)に早稲田大学大学部商科を卒業。東京電気に入社する。小学校専科教員を務めた。 1921年(大正10年)にアメリカ合衆国のプロレスラーアド・サンテルが来日し、講道館の柔道家との異種格闘技戦を望んだ。しかし、館長嘉納治五郎が他流試合を許さず戦ったものは破門とすることを表明した。当時、早稲田大学柔道部に所属し柔道三段であった庄司と永田礼次郎がこれに応じて、同年3月、靖国神社相撲場でサンデルと試合を行い、試合は引き分けとなった。
椎名 六郎(しいな ろくろう、1896年10月7日 - 19… 椎名 六郎(しいな ろくろう、1896年10月7日 - 1976年11月30日)は、図書館学者。 香川県出身。大谷大学卒業。明善高等女学校(現英明高等学校)教諭を経て、1943年香川県立図書館長となる。のち国立国会図書館調査員、奥州大学(現富士大学)教授。日本図書館学会の創立に参加した。
河村 参郎(かわむら さぶろう、1896年(明治29年)10… 河村 参郎(かわむら さぶろう、1896年(明治29年)10月7日 - 1947年(昭和22年)6月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。 1924年陸大(36期)卒後、東京帝国大学で学び、陸軍省軍務局付として1934年までフランスに駐在。1936年には二・二六事件の軍法会議判士を務めた。1937年北支那方面軍参謀として日中戦争に出征。1941年歩兵第9旅団長としてマレー作戦に参加。1942年昭南警備司令官としてシンガポール市内の掃討作戦を指揮。同年12月、印度支那駐屯軍参謀長。終戦後、シンガポール華僑粛清事件の戦犯容疑で逮捕され、1947年4月に死刑判決を受け、同年6月、シンガポールで刑死。
尹 日善(ユン・イルソン、いん にちぜん、1896年10月5… 尹 日善(ユン・イルソン、いん にちぜん、1896年10月5日 - 1987年6月22日)は、大韓民国の医師、教育者、医学者、大学教授。大韓民国学術院会長、ソウル大学校総長などを歴任した韓国医学界の泰斗。本貫は海平尹氏(朝鮮語版)、号は東湖(동호、ドンホ、とうこ)。日本姓、日本名は伊東 日善(いとう にちぜん)。 1896年10月5日、日本の東京府東京市にて、教育者の尹致旿(ko:윤치오)と李淑卿(이숙경、李敬淑とも)夫妻の長男として生まれる。 父の致旿は1884年の甲申政変で日本に避難した後一旦帰国、その後日本留学生監督に任命されるなど日本との往来が多い人物だった。1906年に大韓帝国に帰国し、父の職場近くにあった漢城府鋳洞(日本名日出町)の京城日出小学校に通った。
山本 義章(やまもと よしあき、1896年10月5日 - 1… 山本 義章(やまもと よしあき、1896年10月5日 - 1961年9月26日)は、日本の内務官僚、弁護士。第32代京都府知事(最後の官選知事)、陸軍司政長官。 鳥取県鳥取市出身。山本吉太郎の長男。東京帝国大学法科卒業。 大阪市警察署長、北海道庁・兵庫県・警視庁各特高課長、大阪府工場課長、長野県書記官・警察部長、千葉県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、熊本県経済部長、秋田県書記官・総務部長、ジャカルタ州長官、京都府知事を歴任。その後、公職追放となる。 1946年弁護士を開業。追放解除後の1953年の第3回参議院議員通常選挙において出身地の鳥取地方区から緑風会公認で立候補したが落選した。