林 茂(はやし しげる、1923年11月30日 - 生死不明… 林 茂(はやし しげる、1923年11月30日 - 生死不明)は、佐賀県出身の元プロ野球選手。 佐賀県立唐津中学校、横浜高等工業学校を経て1950年に西日本パイレーツに入団。1951年に松竹ロビンスに移籍。オーバースローから、内角低めの重いシュートと、外角に落ちるカーブを武器とした。翌年退団。
1923年(大正12年)生まれ:754人
林 茂(はやし しげる、1923年11月30日 - 生死不明… 林 茂(はやし しげる、1923年11月30日 - 生死不明)は、佐賀県出身の元プロ野球選手。 佐賀県立唐津中学校、横浜高等工業学校を経て1950年に西日本パイレーツに入団。1951年に松竹ロビンスに移籍。オーバースローから、内角低めの重いシュートと、外角に落ちるカーブを武器とした。翌年退団。
齊藤 喜久蔵(さいとう きくぞう、1923年11月30日 -… 齊藤 喜久蔵(さいとう きくぞう、1923年11月30日 - 2003年9月8日)は、日本の技術者・実業家。大昭和製紙社長・会長を務めた。 静岡県出身。齊藤知一郎の三男。大昭和製紙2代目社長の齊藤了英(知一郎の長男)と政治家で静岡県知事を務めた齊藤滋与史(知一郎の次男)は兄、政治家で防衛庁長官を務めた齊藤斗志二(了英の次男)と大昭和製紙監査役の齊藤知三郎(了英の三男)、ジーク証券元会長兼社長の齊藤四方司(了英の四男)は甥。トヨタ自動車名誉会長豊田章一郎は次兄・滋与史の義兄にあたる。日本大学旧工学部(現日本大学理工学部)卒。 知一郎の5人の息子の中で唯一技術者の道を歩み、大昭和製紙入社後は技術部長、白老工場長等を歴任した。
篠原 壽雄(しのはら ひさお / じゅゆう、1923年〈大正… 篠原 壽雄(しのはら ひさお / じゅゆう、1923年〈大正12年〉11月29日 - 2003年〈平成15年〉4月15日)は、日本の仏教学者・曹洞宗僧侶。駒澤大学名誉教授。群馬県伊勢崎市生まれ。 1923年(大正12年)、群馬県伊勢崎市に生まれる。 1947年(昭和22年)に駒澤大学文学部東洋学科を卒業後、1954年(昭和29年)に東方文化研究所助手に就任。翌1955年((昭和30年)に駒澤大学文学部講師となり、1966年(昭和41年)に助教授、1971年(昭和46年)に教授に昇任。1994年昭和50年1975年)から日本大学文理学部非常勤講師、1981年(昭和56年)には台湾大学・淡江大学で併任教授を務める。
矢崎 光圀(やさき みつくに、1923年(大正12年)11月… 矢崎 光圀(やさき みつくに、1923年(大正12年)11月29日 - 2004年9月13日)は、日本の法学者(法哲学)、大阪大学名誉教授。法学博士(東京大学、1968年)(学位論文「法実証主義-現代におけるその意味と機能-」)。正四位勲三等旭日中綬章。山梨県中巨摩郡(現・南アルプス市)生まれ。言語学者・翻訳家の矢崎源九郎は兄。俳優の矢崎滋は甥。 1942年9月成城高等学校文科乙類卒業、1947年9月東京帝国大学法学部政治学科卒業。同年10月東京大学大学院特別研究生。 1950年4月学習院大学講師、1951年5月大阪大学法経学部助教授。1961年5月大阪大学法学部教授。1969年9月大阪大学法学部長(11月まで)。
根岸 重一(ねぎし しげいち、1923年11月29日 - 2… 根岸 重一(ねぎし しげいち、1923年11月29日 - 2024年1月26日)は、日本の発明家。カラオケの発明者の一人とされる。 1923年11月29日、現在の東京都板橋区に生まれる。法政大学経済学部で学び、太平洋戦争で陸軍に徴兵され、敗戦により捕虜となり、シンガポールで抑留された。1947年に復員。復員後はオリンパス光学工業や電気部品メーカーに勤めた後、1956年にラジオやカーステレオの組み立てを手掛ける日電工業を設立した。 1967年夏頃、8トラックのカーステレオにマイクのミキシング回路を組み込んだ装置を考案し、試作品を社内で製作した。「世界初のカラオケ機」といえるこの試作機で根岸が最初に歌ったのは、児玉好雄の「無情の夢」であった。
小関 隆祺(こせき たかよし、1923年(大正12年)11月… 小関 隆祺(こせき たかよし、1923年(大正12年)11月29日 - 1991年(平成3年)10月17日)は、日本の農学者・環境学者。第12期日本学術会議会員。専門は、林政学・環境学。林学博士。北海道大学名誉教授。市立名寄短期大学元学長。 北海道生まれ。1946年北海道帝國大學農学部林学科卒。北海道大学農学部助手。同農学部助教授を経て、1964年同農学部教授。1987年北海道大学停年退官。同名誉教授。市立名寄短期大学学長に就任。1991年市立名寄短期大学退官。同年10月17日、肝硬変のため逝去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
林 敬次郎(はやし けいじろう、1923年11月28日 - … 林 敬次郎(はやし けいじろう、1923年11月28日 - 2018年9月2日)は、美津濃株式会社(現ミズノ株式会社)元常務取締役技術開発本部長。 炭素繊維を用いたゴルフクラブ(ブラックシャフト)の開発などで、1970年代、1980年代にスポーツ用品への新素材活用を世界に先駆けておこなった技術者。CFRPを世界で初めてゴルフクラブに採用。1989年、通商産業大臣表彰(安全性認定制度普及功労者表彰)受賞。薬学博士。旧バット工業会会長。 1923年(大正12年)大阪市北区で美津濃株式会社(現ミズノ株式会社)創業者水野利八と内縁の妻林つゆとの間に生まれる。大阪薬学専門学校(旧制)(現大阪大学薬学部)卒業後、第二次世界大戦では海軍にて薬剤官として従事。
関 晴正(せき はれまさ、1923年11月26日 - 200… 関 晴正(せき はれまさ、1923年11月26日 - 2008年10月26日)は、日本の政治家。元日本社会党衆議院議員(4期)。 青森県五所川原市出身。旧制青森中学校(現青森県立青森高等学校)を経て1945年青森師範学校を卒業。小学校教師となり、日教組中央委員。1951年青森市議に初当選。のちに青森県議を経て、1977年の参院選に青森県選挙区から出馬するが、3位で落選。 1979年の総選挙で青森県第1区から立候補して初当選。当選3回を数えたが、1986年の総選挙で落選。1990年の総選挙で復帰、1993年に引退。地盤を今村修に譲った。 2008年10月26日、脳梗塞後遺症のため青森市内の病院で死去。
江木 信敬(えき のぶたか、1923年11月26日 - 20… 江木 信敬(えき のぶたか、1923年11月26日 - 2012年11月27日)は、日本の経営者。三菱倉庫会長を務めた。東京都出身。 1948年に京都大学法学部政治学科を卒業し、同年に三菱倉庫に入社。 1976年6月に取締役に就任し、1980年6月に常務、1984年6月に専務を経て、1987年6月には会長に就任。1992年6月に相談役に就任。 1996年4月に藍綬褒章を受章。。 2012年11月27日肺炎のために死去。89歳没。
大谷 晃一(おおたに こういち、1923年11月25日 - … 大谷 晃一(おおたに こういち、1923年11月25日 - 2014年5月25日)は、日本の作家、時事評論家、帝塚山学院大学名誉教授・元学長。 大阪府生まれ。関西学院大学法文学部卒業後、朝日新聞社入社。大阪本社学芸部次長、編集委員を歴任。その間の1971年、「続関西名作の風土」で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。 1979年、帝塚山学院大学教授就任。1997年には、同大学の学長に就任。2001年に退任後、同大学名誉教授。 大阪を中心とした伝記文学、歴史小説、近代日本文学研究で著書多数。 「大阪学」シリーズはロングセラーで、個別都市学もののさきがけとなった。また、沖積舎から『大谷晃一著作集』全6巻を刊行。
山本 忠司(やまもと ただし、1923年11月25日 – 1… 山本 忠司(やまもと ただし、1923年11月25日 – 1998年7月28日)は、日本の運動選手そして建築家。1952年の夏季オリンピックで男子三段跳びに出場。公務員(香川県庁職員)として香川県庁舎の建設に携わり、後に建築家として香川県の現代建築文化の基礎を築いた。 山本は香川県建築課を率いて地元香川に根づく建築の姿を模索。日本を代表する建築家の丹下健三、芸術家では猪熊弦一郎、イサム・ノグチ、流政之、インテリアデザイナーのジョージ・ナカシマらと協働したほか、大江宏、芦原義信、大高正人、浅田孝ら著名な建築家とも交流し、香川県の公共建築の水準の向上にも努めたことが知られる。一方で自己研鑽にも努め、建築家としての才能を発揮していった。
小林 桂樹(、1923年〈大正12年〉11月23日 - 20… 小林 桂樹(、1923年〈大正12年〉11月23日 - 2010年〈平成22年〉9月16日)は、日本の俳優。サラリーマン喜劇から社会派ドラマまで幅広く活躍し、その生涯において253本の映画に出演した。 『裸の大将』の山下清の演技で1958年第13回毎日映画コンクール主演男優賞を受賞。『黒い画集 あるサラリーマンの証言』の石野貞一郎の演技では1960年の第15回毎日映画コンクール主演男優賞およびキネマ旬報男優賞およびブルーリボン大衆賞(つまり3つの賞)を受賞。『白と黒』の落合克巳(東京地検捜査検事)の演技および『江分利満氏の優雅な生活』の江分利満の演技により1963年第18回毎日映画コンクール主演男優賞を、『われ一粒の麦なれど』の坂田昌義(農政省官吏)の演技で1964年第15回ブルーリボン賞主演男優賞を受賞。
利光 松男(としみつ まつお、1923年11月23日 - 2… 利光 松男(としみつ まつお、1923年11月23日 - 2004年11月8日)は、日本の実業家。東京都出身。日本航空株式会社元名誉顧問・相談役・代表取締役社長。一般社団法人日本航空協会元会長。公益財団法人日本棋院元理事長。勲二等旭日重光章受章。日本国際ツーリズム殿堂入り。 遠藤周作との深く長い親交で知られる。貧乏時代の遠藤が住む家を無くしていた際、利光が遠藤の生活を世話した。 1999年、自宅に銃弾が打ち込まれる。以降、総会屋・暴力団などの反社会的勢力とJALの決別の推進への報復を警戒し、2004年10月まで利光家は24時間体制で警察の警備を受けた。 2004年、警察の警備が解除されて約1か月後、利光は首をつった状態で発見された。
川喜多 雄二(かわきた ゆうじ、本名:脇 猷二、1923年 … 川喜多 雄二(かわきた ゆうじ、本名:脇 猷二、1923年 11月23日- 2011年5月9日)は日本の俳優、歯科医師。初期の芸名は川喜多小六。 父が満州鉄道病院の歯科医をしていた関係で、中国の奉天に生まれる。 東京歯科大学卒業後、父の後を継いで歯科医をしていたが、画家の岩田専太郎の知遇を得て、青柳プロに入社。市川崑監督の映画『夜来香』でデビュー。当時の芸名は川喜多小六。1952年(昭和27年)、松竹に移籍し、「川喜多雄二」に改名。 1950年代である昭和20年代後半から昭和30年代前半にかけて多くの松竹映画に出演し、佐田啓二(中井貴一の父)・高橋貞二らとともに『新・松竹三羽烏』と称された。昭和40年代前半(1960年代後半)に俳優を引退。
上口 利男(かみぐち としお、1923年(大正12年)11月… 上口 利男(かみぐち としお、1923年(大正12年)11月23日 - 2018年(平成30年)7月18日)は、日本の弁護士・元地方公務員。上口利男法律事務所所長。北海学園大学出身の生え抜き法曹の一人。札幌弁護士会所属。専門は民事全般。 北海道石狩郡当別町出身。旧制中学校卒業後、1941年(昭和16年)札幌地方裁判所に入所。1943年(昭和18年)札幌地方裁判所書記官に就任。1956年(昭和31年)北海学園大学経済学部2部中退。1959年(昭和34年)司法試験に合格。1962年(昭和37年)弁護士登録。1977年(昭和52年)北海道収用委員会委員。1981年(昭和56年)同委員長。1982年(昭和57年)札幌弁護士会会長に就任。
白井 義男(しらい よしお、1923年〈大正12年〉11月2… 白井 義男(しらい よしお、1923年〈大正12年〉11月23日 - 2003年〈平成15年〉12月26日)は、日本の元プロボクサー。東京市(現東京都)荒川区出身。元世界フライ級王者で、日本人として初めての世界王者となった。現代とは違い、世界王座までの距離が比べ物にならないほど遠かった時代のチャンピオンとして高い評価を得ている。最優秀選手賞に5度選ばれた記録を持つ。 小学6年生時の夜祭りの余興で行ったカンガルーとのボクシングに負けて以後、ボクシングにのめり込んだという。プロデビューは戦時下の1943年。8戦全勝の成績を残すが招集されて海軍に従軍し、整備士として終戦を迎える。復員後、ボクシング界へ復帰したものの海軍時代に特攻機を整備した際の労災により腰痛となり、引退寸前の危機に追い込まれた。
岸 朝子(きし あさこ、1923年11月22日 - 2015… 岸 朝子(きし あさこ、1923年11月22日 - 2015年9月22日)は、日本の料理記者、食生活ジャーナリスト。旧姓は宮城(みやぎ)。 沖縄出身の両親のもと、東京で生まれる。父親はアメリカで苦学して養殖業を学び、カナダと日本で牡蠣養殖を成功させた人物。女子栄養学園卒の友人がつくったロールサンドの味に魅了され料理に興味を持つ。永田町小学校(現:麹町小学校)から東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)に転入し卒業。東京府立第三高等女学校(現:東京都立駒場高等学校)を経て、1942年、女子栄養学園(現:日本栄養大学)卒業。東大農学部勤務後、21歳で軍人と見合い結婚し、1947年から夫婦で千葉県でカキの養殖業を手がける。
乗富 一雄(のりとみ かずお、1923年(大正12年)11月… 乗富 一雄(のりとみ かずお、1923年(大正12年)11月22日 - 2011年(平成23年)6月27日)は、日本の地震学の研究者・教育者。元日本地震学会・物理探査学会会長、九州大学・秋田大学・東北大学・東京大学地震研究所・工業技術院地質調査所(現・産業技術総合研究所)教授等を歴任。 1923年(大正12年)11月22日、福岡県に生まれ。福岡縣中學傳習館(現・福岡県立伝習館高等学校)を経て、興亜工業大学(現・千葉工業大学)に進学し、その後、東北大学で地球物理学について学ぶ。1949年(昭和24年)には同大助手となり、1956年(昭和31年)には秋田大学鉱山学部助教授に任官。1968年(昭和43年)の十勝沖地震や1983年(昭和58年)の日本海中部地震の時には地震調査を主導した。
大江戸 勇二(おおえど ゆうじ、1923年11月22日 - … 大江戸 勇二(おおえど ゆうじ、1923年11月22日 - 1996年1月4日)は、東京都江東区出身で春日野部屋に所属した大相撲力士。本名は小林 勇(こばやし いさむ)。身長173cm、体重81kg。得意手は左四つ、上手投げ。最高位は西前頭16枚目(1949年10月場所)。 1939年5月場所初土俵。同部屋の栃錦とは共に小柄ということで仲がよく、2人で出世を競い合った。栃錦や常ノ山と2人で初っ切りをしたこともある。ある時に栃錦に「お前が一流の力士になったら東京中を逆立ちして歩いてやる」と賭けをして、横綱へ昇進した栃錦から当時の賭けの話を言われて苦笑したことがある。1948年5月場所新十両、十両は3場所で突破し、1949年5月場所で新入幕を果たした。
小西 秋雄(こにし あきお、1923年11月21日 - 20… 小西 秋雄(こにし あきお、1923年11月21日 - 2011年6月4日)は、日本の経営者。新キャタピラー三菱社長、会長を務めた。大阪府大阪市出身。 1948年に京都大学法学部を卒業し、同年に三菱重工業に入社。1982年に取締役に就任し、1985年6月に常務を経て、1987年4月には新キャタピラー三菱社長に就任。1993年6月に相談役に就任。 2011年6月4日肺炎のために死去。88歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
越智 武臣(おち たけおみ、1923年(大正12年)11月2… 越智 武臣(おち たけおみ、1923年(大正12年)11月20日 - 2006年(平成18年)1月10日)は、日本の西洋史学者。京都大学名誉教授。専門は近代イギリス史。 1923年、愛媛県で生まれた。第三高等学校を卒業後、兵役についた。戦後京都大学文学部に進学し、1948年に卒業。英国ハル大学に留学して学んだ。 1952年、京大文学部助教授に就任。1969年、学位論文『近代英国の起源』を京都大学に提出して文学博士号を取得。1970年に教授昇格。1987年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は京都橘女子大学教授として教鞭をとり、1989年に同大学学長に就いた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
金 在植(キム・ジェシク、朝鮮語: 김재식、1923年11月… 金 在植(キム・ジェシク、朝鮮語: 김재식、1923年11月20日 - 2016年3月1日)は、大韓民国の政治家、陸軍軍人(陸軍大領)、実業家。元水産庁長、第16代全羅南道知事、第10代韓国国会議員。 本貫は金海金氏、号は老農(ノノン、노농)。円仏教徒。 日本統治時代の全羅南道の長城郡に生まれた。1944年に拓殖大学を卒業後、1955年に工兵基地廠長を務め、1960年に陸軍大学校を卒業した。1963年に農林部水産局長を務め、1964年に水産業協同組合中央会長、1968年に水産庁長を歴任した。1969年10月25日から1973年9月25日まで第16代全羅南道知事を務め、1972年に全南大学校行政大学院を修了し、1973年より東立産業振興公社株式会社の社長を務めた。
馬渡 一真(まわたり かずまさ、1923年11月17日 - … 馬渡 一真(まわたり かずまさ、1923年11月17日 - 2007年4月18日)は、日本の経営者。日本国有鉄道副総裁、日本テレコム初代社長を務めた。 東京都出身(一部の文献や報道では、長崎県出身または長崎県出生と記されている場合もある)。 1949年に東京大学法学部法律学科を卒業し、同年に日本国有鉄道に入社した。営業課長在任時にはディスカバー・ジャパン・キャンペーンを実施し、成功させた。1972年6月に大阪鉄道管理局長に就任し、1974年8月に広報部長、1975年3月に旅客部長、1976年3月に常務理事を歴任した。1980年3月から1984年3月までに副総裁を務めた。1984年10月に日本テレコム社長に就任し、1989年10月から1997年までに会長を務めた。
衞藤 瀋吉(えとう しんきち、1923年(大正12年)11月… 衞藤 瀋吉(えとう しんきち、1923年(大正12年)11月16日 - 2007年(平成19年)12月12日)は、日本の国際政治学者。専門は、中国を中心とする東アジア政治史、国際関係論。東京大学名誉教授、亜細亜大学名誉教授。亜細亜大学学長、東洋英和女学院院長を歴任。 1923年、旧満州奉天(現・瀋陽)で生まれた。「エリート教育、特殊教育を実践したユニークな学校」として知られていた満洲教育専門学校附属奉天千代田小学校を卒業。1941年に奉天第一中学校、1943年に第一高等学校文科甲類を卒業。同年、東京帝国大学法学部政治学科に入学。 しかし、同1943年の学徒出陣により陸軍に入隊。広島市の大本営第2通信隊に所属した1945年8月、広島駅近くの松本商業(現・瀬戸内高校)内にあった建物内で被爆。
池田 善蔵(いけだ ぜんぞう、1923年11月15日- )は… 池田 善蔵(いけだ ぜんぞう、1923年11月15日- )は、広島県出身の元プロ野球選手(投手)。
高橋 成人(たかはし のりんど、1923年11月14日 - … 高橋 成人(たかはし のりんど、1923年11月14日 - 2014年3月16日)は、日本の植物学者。位階は従四位。東北大学名誉教授。農学博士。専門は植物遺伝育種学。 神奈川県生まれ。1950年(昭和25年)、東北大学農学部農産学科卒業。同年、同大学農学研究所勤務。1961年、農学博士。1968年、同研究所講師、1971年、助教授、1977年、教授、1984年、所長、1987年、同大学名誉教授。この間、同大学評議員を併任。主な研究分野は、栽培植物の生理遺伝と環境適応性。1972年、「稲の発芽性に関する生理遺伝学的研究」で日本育種学会賞受賞。 父は歌人の髙橋俊人、次女は同じく歌人の髙橋みずほ、その夫・吉野裕之も歌人。
小林 太三郎(こばやし たさぶろう、1923年(大正12年)… 小林 太三郎(こばやし たさぶろう、1923年(大正12年)11月13日 - 2012年(平成24年)9月20日は、日本の経営学者。欧米やアジアの大学には日本と違って広告学部や広告学科があり、多くの研究者がいるが、広告研究においては日本の第一人者。商学博士、早稲田大学名誉教授(大学院商学研究科、商学部)。広告研究で博士号を取り、大学院で広告研究の講義をし、広告研究のゼミナールを持った日本最初の人物。著書である『広告管理の理論と実際』同文舘(1968)は669ページに及ぶ大著。露出、認知、態度といった消費者行動の段階を明確に定義づけ、学会業界で使用する広告関連用語の標準化に貢献した。また、多くの広告研究者を世に送り出した(亀井昭宏、小林保彦、嶋村和恵、中山勝己、清水公一、松井陽通、石崎徹、小泉眞人)。日本広告学会設立に尽力し、長年会長を務め、日本学術会議会員として活躍した。アメリカ広告学会、アメリカ・マーケティング協会、アメリカ・ダイレクトメール/マーケティング協会(AMA)、アメリカ広告調査財団(ARF)会員。ミシガン州立大学ゴードン・E・ミラクルは友人。IAA世界広告会議が東京で開催された折、司会を務め、慰労のため東宮御所に招かれる。
桂田 鎮男(かつらだ しずお、1923年11月12日 - 2… 桂田 鎮男(かつらだ しずお、1923年11月12日 - 2014年10月21日)は、日本の経営者。住友ゴム工業社長を務めた。滋賀県出身。 1949年に京都大学法学部政治学科を卒業し、同年に住友電気工業に入社。1976年6月に取締役に就任し、1978年6月に常務、1981年6月に専務を経て、1982年6月に顧問に就任。1982年3月に住友ゴム工業副社長に就任し、1984年3月には社長に昇格。1990年3月に副会長に就任。 1987年11月に藍綬褒章を受章。 2014年10月21日心不全のために死去。90歳没。
阿部 桂一(あべ けいいち、1923年11月11日 - 19… 阿部 桂一(あべ けいいち、1923年11月11日 - 1991年8月15日)は、日本の脚本家である。 筆名は別に新井 啓(あらい けい)がある。日本シナリオ作家協会会員・功労賞受賞者、日本放送作家協会会員、日本脚本家連盟信託者。フジテレビジョン映画部の五社英雄が手がけたテレビ映画『トップ屋』、『刑事』で頭角を現し『三匹の侍』の成功で知られる。テレビの代表作はほかに『SFドラマ 猿の軍団』、『佐武と市捕物控』等、劇場用映画の代表作には『花と怒濤』等がある。 1923年(大正12年)11月11日、宮城県に生まれる。『放送作家年鑑 1966』の阿部の項には東京府(現在の東京都)に生まれた旨の記述がある。
乾 死乃生(いぬい しのぶ、1923年(大正12年)11月1… 乾 死乃生(いぬい しのぶ、1923年(大正12年)11月11日 - 2004年(平成16年)11月19日)は、日本の保健婦。大阪府富田林市伏山出身。大坂の同和地区(被差別部落)の保健対策や難病対策に尽力した人物。名前の「死乃生」は、帝国劇場のファンだった父親が、帝劇女優の1人が私生児に「死生」と名付けたことをヒントとしたものだが、「死」の字が人に与える印象を配慮して平仮名で「しのぶ」と表記することもある。 戦時中に国に尽くしたいとの思いをきっかけに、看護婦を志した。日本赤十字社和歌山支部看護婦養成所を卒業し、1945年(昭和20年)、石川県の山中海軍病院に従軍看護婦として勤務。終戦後に帰郷し、1946年(昭和21年)に南河内郡狭山村立三都小学校の教員となったが、医療の道を捨てきれず、1948年(昭和23年)に退職。
藤田 富雄(ふじた とみお、1923年11月10日 - 20… 藤田 富雄(ふじた とみお、1923年11月10日 - 2010年2月2日)は、日本の宗教学者、宗教哲学者。立教大学名誉教授。 1923年、山口県光市生まれ。1949年に東京大学文学部宗教学科を卒業し、1954年に東京大学大学院を修了した。立教高校で教諭を務め、1957年に『現代の意識 ヘーゲルを超えるもの』を村山書店から出版した。翌1958年、この作品によって日本宗教学会の姉崎記念賞を受賞した。 1959年から立教大学講師、1961年から助教授、1968年から教授を務めた。1976年から1986年まで立教大学ラテン・アメリカ研究所長を務めた。その後、神奈川大学教授を務めた。日本宗教学会、日本ラテンアメリカ学会、比較思想学会に所属した。
沢田 実(さわだ みのる、1923年(大正12年)11月10… 沢田 実(さわだ みのる、1923年(大正12年)11月10日 - 1976年(昭和51年)7月6日)は、日本の政治家。参議院議員(1期、公明党)。 岐阜県出身。法政大学修了。川崎航空機、昭和電工などに勤めた後、岐阜市で繊維製品卸業を営む。その後、岐阜県議会議員を経て、1968年の第8回参議院議員通常選挙において公明党公認で全国区から立候補して当選する。1974年の第12回参議院議員通常選挙には出馬しなかった。この他、公明党中央委員、公明党岐阜県本部長などを歴任した。1976年死去。死没日をもって勲三等旭日中綬章追贈、正五位に叙される。
山田 勝久(やまだ かつひさ、1923年〈大正12年〉11月… 山田 勝久(やまだ かつひさ、1923年〈大正12年〉11月9日 - 1984年〈昭和59年〉1月9日 )は、昭和期の政治家。長野県中野市長。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 長野県下高井郡平野村(現中野市)生まれ。1941年(昭和16年)3月、下高井農学校(のち長野県中野実業高等学校)卒業後、農業に従事した後、海軍水路部修技所普通科を経て、1945年(昭和20年)6月、仙台陸軍飛行学校を卒業し、終戦時には陸軍中尉。 戦後は中野市農業委員会委員から1966年(昭和41年)11月に同市議会議員に選出され、副議長を経て、1977年(昭和52年)8月、中野市長選挙に当選した。北信地域広域行政事務組合長も兼任し、在任中は工業団地や住宅団地の造成、公共下水道終末処理場の建設、商店街近代化整備事業などに尽力した。
石井 公一郎(いしい こういちろう、1923年(大正12年)… 石井 公一郎(いしい こういちろう、1923年(大正12年)11月6日 - 2022年 (令和4年) 2月16日)は、日本の教育者、実業家。ブリヂストンサイクル会長。日本会議副会長、日本会議の関連団体「『日本の教育改革』有識者懇談会」(民間教育臨調)副会長、同関連団体「教科書改善連絡協議会」副会長、明成社初代社長などを歴任した。 小田村四郎(拓殖大学元総長ほか)とは学徒出陣以来の盟友であった。 父石井光次郎は台湾総督府参事官や衆議院議長等を歴任した。立憲政友会正統派総裁等を務めた久原房之助は母方の祖父。1923年(大正12年)東京府東京市(現・東京都)に生まれる。慶應義塾幼稚舎を経て慶應義塾普通部、慶應義塾大学経済学部に進む。
粕谷 甲一(かすや こういち、1923年11月6日 - 20… 粕谷 甲一(かすや こういち、1923年11月6日 - 2011年2月9日)は、日本のカトリック司祭、社会運動家。 インド・カルカッタ生まれ。アフリカ、中国で幼少期を過ごす。1944年受洗。1947年東京帝国大学工学部卒。河合栄治郎の影響を受ける。日本発送電入社、1950年東京カトリック神学院入学。1951年オーストリア・インスブルック大学神学校でカール・ラーナーに師事。1957年スイス・バールにて叙階。哲学博士号取得ののち59年帰国。浅草教会、アリの町教会で司牧。真生会館学生指導司祭、1961年館長、カトリック学生連盟指導司祭。67-82年青年海外協力隊勤務。1983年国際救援センターの設立に参加。
佐藤 愛子(さとう あいこ、1923年〈大正12年〉11月5… 佐藤 愛子(さとう あいこ、1923年〈大正12年〉11月5日 - )は、日本の小説家。大阪市生まれ、西宮市育ち。小説家・佐藤紅緑と女優・三笠万里子の次女として出生。異母兄に詩人・サトウハチローと脚本家・劇作家の大垣肇。甲南高等女学校卒業。 父親と同様「憤怒の作家」と言われ、社会を鋭く批判する姿勢から「男性評論家」と呼ばれていた。 1923年11月5日(戸籍上は11月25日)、佐藤洽六(筆名 ・佐藤紅緑)とシナ(元女優の三笠万里子)の次女として、大阪市住吉区帝塚山で出生した。父親は先妻のはるを棄て、シナと再婚していた。1925年に「私の故郷」と呼ぶ兵庫県武庫郡鳴尾村(現西宮市)に転居。小学校時代は大衆小説の大家である父親に送られてくる雑誌の恋愛小説を読みふけっており、算術は苦手であったという[要出典]。
福田 平(ふくだ たいら、1923年11月4日 - 2019… 福田 平(ふくだ たいら、1923年11月4日 - 2019年1月8日)は、日本の法学者。 専門は刑法学。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1962年)(学位論文「違法性の錯誤」)。一橋大学名誉教授。2000年 勲二等瑞宝章受章。東京市麹町区(のち千代田区)出身。 その刑法学説は、師である団藤と同じく後期旧派に属するが、戦後ドイツの刑法学者ハンス・ヴェルツェルの刑法理論を日本に紹介し、行為論において、目的的行為論をとり、行為を主観客観の全体的構造をもつとした上で、違法性論において、行為無価値論にたった。 違法性の錯誤については、違法性の意識は故意とは無関係であるが、違法であると思わなかったことに相当の理由があれば責任を阻却するという厳格責任説をとる。
外山 滋比古(とやま しげひこ、1923年〈大正12年〉11… 外山 滋比古(とやま しげひこ、1923年〈大正12年〉11月3日 - 2020年〈令和2年〉7月30日)は、日本の英文学者、言語学者、評論家、エッセイスト。文学博士。お茶の水女子大学名誉教授。全日本家庭教育研究会元総裁。 東京文理大英文科卒。専門の英文学にとどまらず、言語学・修辞学・教育学などを広範に研究。言葉のまとまった意味は、視覚に認められる現象と同じような作用によると考えた『修辞的残像』(1961年)を出発点として、日本語の論理、読者論などに新説を出し続けた。『シェイクスピアと近代』(1977年)では、読者論を実践的に示した。また、『異本論』(1978年)、『古典論』(2001年)などでは、従来否定的に扱われてきた異本の積極的な機能を再評価した。
岩城之徳(いわき ゆきのり、1923年11月3日 - 19… 岩城之徳(いわき ゆきのり、1923年11月3日 - 1995年8月3日)は、日本近代文学研究者、日本大学名誉教授。文学博士。石川啄木の実証的研究の基礎を築いた。 愛媛県松山市に生まれる。父は今治商業銀行(伊予銀行の前身の一つ)勤務から独立して商社を起こしたが失敗、伊予合同銀行(伊予銀行の前身)に復職後1947年に死去した。母は河東碧梧桐の縁者の出身であった。 日本大学法文学部文学科在学中の1943年11月に学徒出陣により従軍し、最終的に中国南部から1946年3月に復員、復学した。在学中の1947年には、開校したばかりの墨田区立隅田第二中学校で、日大OBの校長からの依頼により学生の身分で国語の専任授業嘱託となる。
田丸謙二(たまる けんじ、1923年11月2日 - )は、日… 田丸謙二(たまる けんじ、1923年11月2日 - )は、日本の化学者、理学博士。専門は触媒化学および表面化学。父はフリッツ・ハーバーに師事し、東京工業大学や学術振興会の設立にも携わった田丸節郎。教え子に環境工学を専門とし文化功労者に選ばれた中西準子がいる。
青木 宗也(あおき そうや、1923年11月2日 - 199… 青木 宗也(あおき そうや、1923年11月2日 - 1995年11月18日)は、日本の法学者(労働法)。法学博士(法政大学・論文博士・1960年)(学位論文「労働条件の労働法学的研究」)。法政大学名誉教授。法政大学元総長。正四位勲二等旭日重光章。 1923年11月2日、愛知県生まれ。1947年、法政大学法学部法律学科を卒業。法政大学大学院社会科学研究科修士課程修了、同博士課程単位取得満期退学。1960年、「労働条件の労働法学的研究」で法政大学より法学博士の学位を取得。同法学部助教授、教授を務めた。 1979年4月の東京都知事選挙では、社会党・共産党推薦の太田薫の確認母体「明るい革新都政をつくる会」の代表を務めた。
勘米良 亀齢(かんめら かめとし、1923年(大正12年)1… 勘米良 亀齢(かんめら かめとし、1923年(大正12年)11月1日 - 2009年(平成21年)4月6日)は、昭和から平成時代の地質学者、古生物学者。 熊本県球磨郡湯前町で生まれる。旧制人吉中学校(現・熊本県立人吉高等学校)を卒業後、熊本県立工業高等学校(現・熊本県立熊本工業高等学校)を経て、1943年(昭和18年)10月九州帝国大学理学部地質学科に入学する。戦時中の当時、資源調査要員として新潟・長野県境の富倉(現・長野県飯山市富倉)へ学徒動員される。終戦後の1946年(昭和21年)9月、同校卒業後、同年10月に同校理学部助手となり、のち教授となった。球磨川下流域の調査を中心とした中生界の層序および火成岩・変成岩に付随する古生層の関係の研究に端を発した紡錘虫の化石帯区分に関する研究は日本地質学会研究奨励賞を受賞した。
谷口 巳三郎(たにぐち みさぶろう、1923年 <大正12年… 谷口 巳三郎(たにぐち みさぶろう、1923年 <大正12年> 11月1日 -2011年 <平成23年> 12月31日 )は、農業・環境・人材指導者、循環式有機農法農業家、妻は谷口恭子(タイとの交流の会で活動)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
扇田博元(おうぎだ ひろもと、1923年11月1日 - )は… 扇田博元(おうぎだ ひろもと、1923年11月1日 - )は、日本の教育学者。 奈良県生まれ。本名・常博。関西学院大学文学部教育学科卒、同大学院教育心理学修士課程修了、大伴教育研究所員、大阪府教育研究所員、大阪府科学教育センター主事、奈良文化女子短期大学教授、兵庫女子短期大学教授、近畿大学教養学部教授、ニューポート大学教授。日本個性教育研究会会長。
吉岡 繁(よしおか しげる、1923年11月1日 - 201… 吉岡 繁(よしおか しげる、1923年11月1日 - 2017年1月26日)は、日本の牧師、実践神学者。日本キリスト改革派仙台教会牧師と日本キリスト改革派神学校校長を務める。 日本キリスト教団牧師・松尾造酒蔵は実父。双恵学園の創設者・松尾武は叔父にあたる。 神奈川県横浜市に生まれる。松尾造酒蔵と、妻・きくの次男だった。旧制静岡高等学校(1940年入学)を経て、1943年に東京帝国大学文学部に入学した。しかし、その年に学徒出陣の対象となり、10月21日の「出陣学徒壮行会」では明治神宮外苑競技場を行進した。同年、吉岡家(千代)の養子となる。吉岡千代の夫・愛(めぐむ)の父は吉岡弘毅で、三男が信時潔であった。
本郷 次雄(ほんごう つぐお、1923年11月1日 - 20… 本郷 次雄(ほんごう つぐお、1923年11月1日 - 2007年4月2日)は、日本の菌類学者。滋賀大学名誉教授。理学博士(京都大学)。専門は菌類分類学。 滋賀県出身。1946年、広島文理科大学生物学科卒業。大学では、堀川芳雄の指導を受ける。 1951年、滋賀大学学芸学部助手。講師、助教授を経て、1968年、滋賀大学教育学部教授。1989年、名誉教授。この間、滋賀大学教育学部附属小学校長や同附属幼稚園長事務取扱併任。元日本菌学会会長(1987年~1989年)。アメリカ菌学会名誉会員。 ハラタケ目を中心に、日本の多くのキノコを分類し学名をつけた。その功績により、2003年に第13回南方熊楠賞(自然科学の部)を受賞した。
武田 専(たけだ まこと、1923年11月 - 2013年6… 武田 専(たけだ まこと、1923年11月 - 2013年6月10日)は日本の精神科医、精神分析家。医学博士。 日本における精神分析の黎明期に活躍した人物であり、古沢平作、土居健郎、西園昌久、前田重治らと共に日本精神分析学会の設立に尽力した。また境界例研究の先駆者としても知られる。 1923年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部中退後、1953年慶應義塾大学医学部卒業。1959年医学博士(慶応義塾大学)。精神科医局勤務を経て、医療法人社団慶神会武田病院理事長。株式会社大崎グループ代表取締役名誉会長。 この項目は、医学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:医学/Portal:医学と医療)。
森永 正比古(もりなが まさひこ、1923年(大正12年)1… 森永 正比古(もりなが まさひこ、1923年(大正12年)11月 - 没年不明)は、日本の警察官僚。内閣調査室長(現・内閣情報官)、北海道警察本部長などをつとめた。 佐賀県出身。明治大学法学部卒業。 1949年(昭和24年)に入省後、政府委員、兵庫県警察本部警務部長、警察庁刑事局参事官などを経て、1975年(昭和50年)北海道警察本部長、1977年(昭和52年)警察庁刑事局保安部長、1979年(昭和54年)には、日本政府の情報機関を代表し統括する、第11代内閣官房内閣調査室長(現・内閣情報官)に就任。同職は現在では、官僚機構のトップである事務次官級の役職とされており、公安畑の経歴がない中で異例の抜擢とされた。
日下部 悦二(くさかべ えつじ、1923年 <大正12年> … 日下部 悦二(くさかべ えつじ、1923年 <大正12年> 10月31日 - 2021年 <令和3年> 3月11日)は、日本の経営者。古河電気工業社長、会長を務めた。位階は正四位。 兵庫県豊岡市出身。1946年に京都帝国大学工学部電気化学科を卒業し、同年に古河電気工業に入社した。1972年11月に取締役に就任し、1975年5月に常務、1977年6月に専務、1982年6月に副社長を経て、1983年6月に社長に就任。1989年6月に会長に就任し、1995年6月から相談役を務めた。 1985年4月に藍綬褒章を受章し、1993年11月に勲二等旭日重光章を受章。 2021年3月11日、心不全のために死去。
唯是 震一(ゆいぜ しんいち、1923年10月30日 - 2… 唯是 震一(ゆいぜ しんいち、1923年10月30日 - 2015年1月5日)は、日本の邦楽作曲家、筝曲家(生田流)。妻は筝曲家の中島靖子。 北海道深川市生まれ。父親は尺八奏者、母親は筝曲家。農業経済学者の唯是康彦は従弟。3歳から生田流筝曲を学ぶ。小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)卒業後、一度就職するが、間もなく退職し、東京音楽学校邦楽科に入学。宮城道雄に師事する。その後、後身の東京藝術大学に楽理科が設置されると転科し、在学中の1952年、邦楽コンクール(東京新聞社主催)で第1位・文部大臣賞を受賞。 卒業後の1953年から2年間、コロンビア大学でヘンリー・カウエルに師事。この間クックレーベルからレコード『日本の琴』をリリース。