山口 保治(やまぐち やすはる、1901年10月20日 - … 山口 保治(やまぐち やすはる、1901年10月20日 - 1968年7月24日)は、愛知県豊川市出身の作曲家。 愛知県立第四中学校(現愛知県立時習館高等学校)卒業、1923年東京音楽学校甲種師範科(現東京藝術大学)入学。福井高等師範学校教員などを経て、1941年「さよなら三丁目」で童謡として初めての文部大臣賞を受賞した。1944年(昭和19年)豊川市国府町に疎開し、国府高等女学校(現愛知県立国府高等学校)教員。1961年「かかしのねがいごと」で日本レコード大賞童謡賞を受賞する。
前田 七之進(まえだ しちのしん、1901年10月20日 -… 前田 七之進(まえだ しちのしん、1901年10月20日 - 1989年1月16日)は、日本の経営者。富士電機製造社長、会長を務めた。 三重県出身。1925年に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年に富士電機製造(現在の富士電機)に入社。1947年12月に取締役に就任し、1958年11月に常務、1962年11月に専務を経て、1966年11月に副社長に就任し、1968年11月に社長に昇格。1974年11月に会長を就任し、1978年6月に取締役相談役、1981年6月に常任相談役を経て、1983年6月には相談役に就任。 1969年11月に藍綬褒章を受章し、1975年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年1月16日心筋梗塞のために死去。
初代雷門福助(かみなりもん ふくすけ、1901年(明治34年… 初代雷門福助(かみなりもん ふくすけ、1901年(明治34年)10月20日 - 1986年(昭和61年)6月11日)は、落語家。本名は川井初太郎。通称「落語界のシーラカンス」。 東京の深川の芝居道具師の家に生まれた。生年月日は口伝えでは2月3日の初午の日で、それゆえに初太郎と名付けられた。 奉公に出た後は陸軍省大臣・田中義一の運転手の助手をしたり、徳川夢声の元で活動弁士の下働きなどをしていた。 1922年(22歳)頃から幇間をしていた友人の薦めで六代目雷門助六に入門して福助を名乗る。二つ目のときに師匠が名古屋に「助六興行部」を設立したので同行した。関東大震災が起こった際は東京に戻らずそのまま名古屋に住み着いた。
宮崎 世民(みやざき せいみん、1901年10月17日 - … 宮崎 世民(みやざき せいみん、1901年10月17日 - 1985年8月19日)は、日本の政治家。日中友好協会理事長を務めた。 宮崎民蔵の子で、宮崎世龍の実兄、宮崎滔天の甥に当たる。 熊本県出身。熊本県立玉名中学校(1919年卒業)を経て、1924年に東京帝国大学法学部を卒業した。1913年に、孫文が革命成功の謝礼として、熊本県荒尾市の民蔵宅を訪問したときの記念写真に、孫文の隣にいる姿が残されている。『土地農民にかえる』などを翻訳した。 日中友好運動に貢献し、日中友好協会結成に尽力。1963年5月13日に、日中友好協会第13回全国大会で専従の理事長に就任し、17年間その職を務めた。 理事長就任時には、岸内閣・佐藤内閣の反中国政策のために、中華人民共和国との民間交流も断絶していた。
大畑 末吉(おおはた すえきち、1901年10月17日 - … 大畑 末吉(おおはた すえきち、1901年10月17日 - 1978年4月25日)は、日本のドイツ文学者・北欧文学者・翻訳家。文学博士(東京大学・論文博士・1962年)。一橋大学教授・早稲田大学教授を歴任。 アンデルセンの著作を日本でデンマーク語の原典から初めて翻訳し、長く森鷗外のドイツ語からの訳で読まれていた『即興詩人』を原典から訳した。 指導学生に宮野悦義(一橋大学名誉教授)がいる。一対一の指導になったという。 1978年4月25日、動脈りゅう破裂により東京都立養育院附属病院にて死去。76歳。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
高崎 正秀(たかさき まさひで、1901年10月16日 - … 高崎 正秀(たかさき まさひで、1901年10月16日 - 1982年3月2日)は、富山県生まれの国文学者、万葉学者、歌人。國學院大學名誉教授。國學院大學栃木短期大学名誉学長。文学博士。 折口信夫に師事(著書『折口学への招待』(桜楓社)がある)、折口信夫の五博士のうちの一人である。著作は『高崎正秀著作集』(桜楓社、全8巻、1971年)にまとめられている。
笹山 茂太郎(ささやま しげたろう、1901年10月15日 … 笹山 茂太郎(ささやま しげたろう、1901年10月15日 - 1982年5月15日)は、日本の政治家。秋田県横手市出身。位階は従三位、勲等は勲一等。衆議院議員(9期)などを務めた。 秋田県立横手中学校、第一高等学校を経て、1926年東京帝国大学英法科卒業。農林省入省。販売改善課長、埼玉県経済部長、米穀課長、本省会計課長などを経たが、その後、山林局長のときに、戦時中の政府・軍部の方針であった里山伐採・平地林伐採運動について『行き過ぎのないように』との局長通達を全国の林務課長あてに出したことが、全国知事会で問題となり、熊本の営林局長に左遷させられる事態となった。本省の局長が営林局長に降格されることは、いまだかつてないことであった。
井上 金太郎(いのうえ きんたろう、1901年10月15日 … 井上 金太郎(いのうえ きんたろう、1901年10月15日 - 1954年1月29日)は、日本の映画監督、脚本家である。最初のキャリアは映画俳優であり、芸名は栗井 饒太郎(くりい じょうたろう)であった。脚本家としての名は秋篠 珊次郎(あきしの さんじろう)である。
山下 栄二(山下 榮二やました えいじ、1901年(明治34… 山下 栄二(山下 榮二やました えいじ、1901年(明治34年)10月14日 - 1990年(平成2年)1月9日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員。 鹿児島県姶良郡西襲山村(現・霧島市)で生まれる。肥料問屋に奉公後、1920年(大正9年)、久保田鉄工所の尼崎工場に鋳物臨時工として入り、同鉄工所に1956年(昭和31年)の定年まで務め、その後、同顧問、同社友となる。 1921年(大正10年)の争議を機に労働運動に加わる。1923年(大正12年)に関西商工学校(現・関西大倉高等学校)を卒業した。1928年(昭和3年)、三・一五事件で検挙されたが不起訴となる。同年、社会民衆党所属で尼崎市会議員に当選し、その後、兵庫県会議員を務めた。
西山 善次(にしやま ぜんじ、1901年10月14日 - 1… 西山 善次(にしやま ぜんじ、1901年10月14日 - 1991年3月12日) は、日本の物理学者。大阪大学名誉教授。日本学士院賞受賞。マルテンサイト変態で世界的に有名で「Mr. Martensite」と称された。 佐賀県西松浦郡有田町生まれ。1927年東北帝国大学理学部物理学科卒業、東北帝国大学金属材料研究所助手。1934年理学博士。1936年東北帝国大学助教授。1939年大阪大学産業科学研究所助教授、1941年同教授。1965年退官、大阪大学名誉教授。1973年日本学士院賞受賞。全米工学アカデミー外国会員、日本工学アカデミー会員。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
小川 マリ(おがわ まり、1901年10月13日 - 200… 小川 マリ(おがわ まり、1901年10月13日 - 2006年5月8日)は、日本の洋画家。日本の女性洋画家の草分け。本名は三雲 マリ。夫は三雲祥之助。 北海道札幌市出身。父は北海道で最初の百貨店である五番館を設立した小川二郎。兄は北海道開発局2代目局長を務めた小川譲二。庁立札幌高等女学校(現北海道札幌北高等学校)、東京女子大学卒業。大学職員として勤務しながら、武蔵野の風景に魅せられ、独学で洋画を始める。1932年に独立美術協会展に初入選し、1938年頃から画業に専念。 太平洋戦争中は札幌に疎開し、1945年に三雲祥之助と結婚。夫婦で全道美術協会(全道展)創立に参画。札幌洋画研究所の講師も夫婦で務めた。
布川 角左衛門(ぬのかわ かくざえもん、1901年10月13… 布川 角左衛門(ぬのかわ かくざえもん、1901年10月13日 - 1996年1月29日)は日本の編集者、実業家。栗田出版販売会長、筑摩書房代表取締役、普連土学園理事長。 新潟県長岡市生まれ。父母の離婚後、父に引き取られ、小学校1年から静岡県沼津市にて義母に育てられる。 旧制沼津中学校(静岡県立沼津東高等学校)を経て法政大学文学部哲学科に進み、野上豊一郎や安倍能成に師事する。 1928年、岩波書店編集部に入社し、岩波文庫、岩波全書などの編集にあたる。1945年、終戦後、東京拘置所から三木清の遺体を東畑精一と引き取り、荷車を借りて東畑邸まで運ぶ。1956年、編集部長を最後に55歳で定年退職した後、63歳で栗田出版販売の社長に就任。
濱 徳太郎(はま とくたろう、1901年(明治34年)10月… 濱 徳太郎(はま とくたろう、1901年(明治34年)10月13日 - 1975年(昭和50年)5月29日)は、日本の美学者、作曲家。 長野県諏訪郡湊村(現岡谷市)の素封家の出身。長野県諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、慶應義塾普通部卒業後、松本高等学校 (旧制)理科乙類に入学。在学中にオーケストラを結成、同校初期の寮歌である「春寂寥」「夕暮るる」「血は燃えさかる(雲にうそぶく)」を作曲し、6年間在籍した。東京帝国大学文学部で美学を専攻し、オートバイや自動車に強く惹かれる。1928年に卒業、大学院に進み、建築史を研究する。1931年、帝国美術学校(武蔵野美術大学の前身)教授。1932年5月から1935年11月までヨーロッパ留学。
西田 隆男(にしだ たかお、1901年〈明治34年〉10月1… 西田 隆男(にしだ たかお、1901年〈明治34年〉10月13日 - 1967年〈昭和42年〉9月21日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)、労働大臣(第10代)。 福岡県嘉穂郡稲築町(現嘉麻市)に生まれる。1924年早稲田大学専門部法科を卒業。炭鉱夫から身を起こし、やがて筑前炭鉱・第二筑前炭鉱の経営者となる。1947年、第23回衆議院議員総選挙に旧福岡2区より立候補し当選。民主党に所属する。炭鉱国管疑獄では、1948年衆議院不当財産取引調査委員会に証人喚問されている。その後、参議院福岡県選挙区に転じ2回当選。国民民主党解党後の改進党結党には参加せず、院内会派民主クラブに参加した。
酒井 三郎(さかい さぶろう、1901年10月12日 - 1… 酒井 三郎(さかい さぶろう、1901年10月12日 - 1982年10月22日)は、日本の西洋史学者、熊本大学名誉教授。 高知県安芸郡生まれ。畠中家に生まれ酒井家養子となる。中学校卒業後、小学校代用教員、1923年准教員、1925年日本大学高等師範部入学、卒業ののち東北帝国大学法文学部卒業。助手をへて、1935-1940年東京帝国大学大学院に在籍。1943-1944年日本女子大学校教授、1951年熊本大学教授、教養部長をへて1968年定年退官、名誉教授、立正大学教授、1976年退職。1959年「J.-J.Rousseauの史学史上の地位」で広島大学文学博士。西洋史専攻。 中学校(旧制)卒から、検定試験をへて東大大学院まで進んだ異色の学究である。
藤原 守胤(ふじわら もりたね、1901年10月11日 - … 藤原 守胤(ふじわら もりたね、1901年10月11日 - 1977年12月14日)は、日本のアメリカ史学者。慶應義塾大学名誉教授。日本初の女性弁護士の一人である久米愛は実妹。 福岡県福岡市生まれ。1925年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。翌年からイギリス、フランスに留学し、1927-1930年ハーバード大学大学院に在籍。1942年立教大学アメリカ研究所常務理事、1945年所長。1949年立教大学教授。1950年「アメリカ建国史論」で東京大学法学博士。1951年慶應義塾大学法学部教授。1958年同大学理事を務め、1964年義塾賞受賞。1970年退職、名誉教授。その後は京都外国語大学教授を務めた。
鶴丸 睦彦(つるまる むつひこ、1901年10月10日 - … 鶴丸 睦彦(つるまる むつひこ、1901年10月10日 - 1989年7月5日)は、日本の俳優。本名は松井 睦彦。 1901年(明治34年)10月10日、鹿児島県鹿児島市に医師の父・文蔵の6人兄妹の長男として生まれる。早稲田高等学院卒業後の1923年(大正12年)に渡米し、その後エル・グレコの絵を見たさに旅費をためてスペインに渡る。1927年(昭和2年)に帰国。左翼系劇団の美術部員から俳優に転じ、同年に佐々木孝丸、村山知義らの前衛劇場に入り、1928年(昭和3年)には東京左翼劇場、1934年(昭和9年)には新協劇団に参加する。1938年(昭和13年)、木村荘十二監督の『牧場物語』で映画に初出演する。
篁 牛人(たかむら ぎゅうじん、明治34年(1901年)10… 篁 牛人(たかむら ぎゅうじん、明治34年(1901年)10月10日 - 昭和59年(1984年)2月25日)は、昭和時代の日本画家。幼名は光磨。本名は浄信。 1901年、富山県婦負郡桜谷村大字石坂村(現:富山県富山市石坂)に生まれる。1921年、富山県立工芸学校(現:富山県立高岡工芸高等学校)を卒業、同校卒業生で組織する富山工芸会に参加。工芸作品の図案を制作し商工省工芸展などで中島杢堂、安川慶一らと受賞を重ねるが、1934年頃からパブロ・ピカソ、藤田嗣治、小杉放庵などの感化を受け、1940年頃より絵画に専念し始める。太平洋戦争末期の1944年、応召して東南アジアに赴き転戦。復員後の1947年頃から、独自の渇筆技法で制作を行い、主題を東洋思想に求めた。
杉戸 清(すぎと きよし、1901年(明治34年)10月10… 杉戸 清(すぎと きよし、1901年(明治34年)10月10日 - 2002年(平成14年)4月24日)は、日本の政治家。元名古屋市長(3期)。 愛知郡則武村字香箱(現・名古屋市中村区)出身。名古屋中学校、第八高等学校を経て、東京帝国大学工学部土木工学科を卒業。1926年(大正15年)4月に名古屋市役所に入り、水道局長、名古屋市助役などを歴任する。 1961年(昭和36年)3月16日、名古屋市長の小林橘川が任期中に死去。職務代理者を務める。同年4月28日に行われた市長選に自民党の推薦を受けて立候補。元参議院議員の栗山良夫(社会党推薦)、元市議の横井亀吉(民社党推薦)らを破り初当選した。 名古屋市長として地下鉄の整備等に尽力した。
羅門 光三郎(らもん みつさぶろう、1901年10月10日 … 羅門 光三郎(らもん みつさぶろう、1901年10月10日 - 1976年5月6日)は、日本の俳優[4]。本名は岩井 憲次(いわい けんじ)[4]。旧芸名は岩井 健夫(いわい たけお)、芳澤 一郎(よしざわ いちろう)[4]。剣戟映画を得意とする映画会社を渡り歩いた剣戟スターである。
金 相舜(キム・サンスン、朝鮮語: 김상순、1901年10月… 金 相舜(キム・サンスン、朝鮮語: 김상순、1901年10月10日 - 没年不詳)は、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。 全羅南道長城郡北二面出身。中東学校高等科、中央大学専門部・経済学科卒。中央大学在学中に在日湖南留学生会代表を務めた。帰国後は合資会社三養社に入社し、大韓独立促成国民会宣伝部、韓国民主党、大同青年団、民族青年団で活動したほか、長城中学校理事長、制憲国会議員を務めた。 1979年5月29日付の東亜日報に掲載されたコラムによれば、すでに故人とされている。
田中 栄一(田中 榮一、たなか えいいち、1901年10月8… 田中 栄一(田中 榮一、たなか えいいち、1901年10月8日 - 1980年2月1日)は、昭和期の日本の政治家、官僚。位階は従三位。 第61代警視総監(在任期間:1948年3月7日 - 1954年6月29日)。東京中学から第八高等学校を経て東京帝国大学法学部出身。 東京府東京市浅草区(現・東京都台東区浅草)生まれ。薩摩士族の血を引く。祖父は西南戦争で西郷隆盛側に立って戦い討ち死にした。幼少期に父と死別、母とは生別、兄弟は離散して親戚に預けられ、小学校を出ると別府のホテルで給仕として働いた。たまたま訪れた客の海軍士官から「偉くなりたいなら上京して勉強せよ」と激励され、苦学の末に東京帝大法学部に入学する。
村野 四郎(むらの しろう、1901年〈明治34年〉10月7… 村野 四郎(むらの しろう、1901年〈明治34年〉10月7日 - 1975年〈昭和50年〉3月2日)は、日本の詩人。日本現代詩人会会長。理研コンツェルン役員。長男はセイコー株式会社代表取締役社長を務めた村野晃一。 東京北多摩郡多磨村に生まれた。父、兄たちが、それぞれ俳句や短歌を作るという文学的環境に育った。慶大理財科を卒業したが、詩への情熱は強く、1926年に第1詩集『罠』を刊行。ドイツ近代詩の影響を受け、モダニストの立場を鮮明にした。 頭で考えるのではなく、実際の物に即して考えるという新即物主義にもとづいた『体操詩集』は、人間存在と社会と宇宙の関係をとらえた画期的な詩集。戦後は独自の歩みをつづけ、「不在の神への近接」という実存的な詩境に達した。
曽我部 静雄(そがべ しずお、1901年10月7日 - 19… 曽我部 静雄(そがべ しずお、1901年10月7日 - 1991年1月2日)は、日本の東洋史学者。 徳島県美馬郡美馬町(現美馬市)出身。1927年京都帝国大学文学部史学科卒、1947年「宋代財政史」で文学博士。 京都帝大副手、東北帝国大学法文学部助教授を経て、1940年教授。東北大学教授、1965年定年退官し名誉教授。1966年国士舘大学教授。1973年退職。
安西 浩(あんざい ひろし、明治34年(1901年)10月6… 安西 浩(あんざい ひろし、明治34年(1901年)10月6日 - 平成2年(1990年)4月12日)は、日本の実業家。東京瓦斯の最高実力者として20年以上も君臨。日本瓦斯協会会長も務めた。 安西直一の長男として千葉県夷隅郡清海村(現・勝浦市)に生まれる。。米沢高等工業学校応用科学科を経て1928年(昭和3年)に東北帝国大学法文学部卒業、東京瓦斯に入社。 入社後の1938年(昭和13年)から3度にわたって応召、陸軍主計将校として軍務につく。1946年(昭和21年)に東京瓦斯取締役に就任。以後、1947年(昭和22年)同社常務、1953年(昭和28年)副社長、1967年(昭和42年)社長、1972年(昭和47年)会長、1989年(平成元年)相談役。
西野 綱三(にしの こうぞう、1901年10月6日 - 19… 西野 綱三(にしの こうぞう、1901年10月6日 - 1984年6月15日)は、日本の元ラグビー選手及び同監督。
浅野均一(あさの きんいち、1901年〈明治34年〉10月5… 浅野均一(あさの きんいち、1901年〈明治34年〉10月5日 - 1984年〈昭和59年〉12月13日)は、日本の医師、陸上競技指導者、スポーツ行政官。昭和期の日本陸上界を牽引し、国際復帰にも尽力した。荻窪病院理事長、日本陸上競技連盟名誉会長、日本オリンピック委員会(JOC)委員を歴任。医学博士。 1901年、東京市四谷区(現・東京都新宿区)に生まれる。慶應義塾大学医学部を1926年(大正15年)に卒業し、同大学にて医学博士号を取得。後に慶應義塾大学体育研究所教授を務め、退任後は名誉教授に就任した。 大学在学中から陸上競技(短距離)選手としても活動し、1923年(大正12年)の第6回極東選手権競技大会(マニラ)にて1600メートルリレー優勝メンバーとして国際大会で活躍した。
桂田 利吉(かつらだ りきち、1901年(明治34年)10月… 桂田 利吉(かつらだ りきち、1901年(明治34年)10月5日 - 1992年(平成4年)2月6日)は、日本の英文学者。法政大学教授、実践女子大学第6代学長。コールリッジ研究の第一人者。 宮城県柴田郡村田町生まれ。1929年東北帝国大学法文学部卒。1930年高等学校英語科教員免許取得。 1930年、宮城県立女子専門学校教授、1941年同校依願退職。同年横浜専門学校教授、1945年同校依願退職。 1945年、法政大学専門部教授、1946年同大文学部講師、1959年同教授、1960年「コウルリッヂ研究」で文学博士。 1969年実践女子大学教授。1972年、勲三等瑞宝章。1974年から78年まで学長。
北 通文(きた みちぶみ、1901年10月4日- 1987年… 北 通文(きた みちぶみ、1901年10月4日- 1987年4月23日)は、日本のドイツ文学者。 大分県生まれ。1926年東京帝国大学文学部独文科卒。旧制東京高等学校教授、戦後東京大学教養学部教授、1962年定年、早稲田大学商学部教授。1972年退職。
大木 正夫(おおき まさお、1901年〈明治34年〉10月3… 大木 正夫(おおき まさお、1901年〈明治34年〉10月3日 - 1971年〈昭和46年〉4月18日)は、日本の作曲家。 静岡県磐田郡中泉町(現磐田市)に生まれる。幼少期より尺八をたしなみ、県立静岡中学校(現・静岡県立静岡高等学校)から大阪高等工業学校(現・大阪大学)応用化学科を卒業。丸善工場に勤務するが、まもなく退職して長野県上田高女(現・長野県上田染谷丘高等学校)で教鞭をとる。やがて退職して上京し、石川義一に師事していたこともあったが、大半が独学で作曲を学んでいる。帝国音楽学校作曲科主任教授、作曲家連盟委員音楽文化協会常任理事、日本現代音楽協会の委員等に就いた。1962年、ソビエト連邦作曲家同盟の招きで間宮芳生と共に訪ソ。
西田 税(にしだ みつぎ、1901年(明治34年)10月3日… 西田 税(にしだ みつぎ、1901年(明治34年)10月3日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、日本の陸軍軍人、思想家。 日本改造法案大綱を著し国家改造論者として知られる北一輝と親交を持つようになったことから、国家革新の志をさらに大きくするようになったという。西田の思想は革新的な青年将校から絶大に信奉されたが、1936年(昭和11年)の二・二六事件で国家転覆を図った首謀者の一人として逮捕され、翌1937年(昭和12年)、北とともに刑死した。 鳥取県西伯郡米子町大字博労町(現在の米子市博労町)に仏具店を営む父・西田久米造、母・つねの次男として生まれた。 1914年(大正3年)3月、啓成尋常小学校(現・米子市立啓成小学校)を卒業。
熊谷 登久平(くまがい とくへい、本名:熊谷 徳兵衛、190… 熊谷 登久平(くまがい とくへい、本名:熊谷 徳兵衛、1901年10月2日 - 1968年11月24日)は、日本の洋画家、歌人。岩手県出身。 愛称は「とくさん」「熊公」「十九平/とくべえ」。 1901年(明治34年)10月2日、岩手県東磐井郡千厩町(現・一関市)出身。 1925年(大正14年)、中央大学商学部を卒業。学生時代に川端画学校に入り、藤島武二、富永勝重の指導を受ける。1924年(大正13年)修了。 1926年(大正15年)ごろ、長谷川利行を識り、親交を結ぶ。 1927年(昭和2年)、長谷川利行と二人展(反調和会展)を上野の山、言問通り沿いの額縁屋彩美堂と大地堂(木秋社)を会場として開催(企画段階では松尾恒夫(詳細不明、戦前の白日会展と1930年協会入選者に名がある)を含む三人展)。
中谷 孝雄(なかたに たかお、1901年(明治34年)10月… 中谷 孝雄(なかたに たかお、1901年(明治34年)10月1日 - 1995年(平成7年)9月7日)は、日本の小説家。妻は小説家の平林英子。 三重県一志郡七栗村(現・津市)出身。三重県立第一中学校(現・三重県立津高等学校)卒業後、旧制第三高等学校に進学し、梶井基次郎、飯島正、浅野晃らと出会う。平林英子とは三高在学中に出会い、2人が既に同棲をしていた下宿へ友人であった梶井基次郎や大宅壮一が遊びに訪れた。 1924年(大正13年)に東京帝国大学文学部独文科に進み、一旦離れていた平林英子と10月から同棲を再開し結婚。翌1925年(大正14年)1月に、同校の梶井基次郎、外村茂らと同人誌『青空』を創刊した。
浦松 佐美太郎(うらまつ さみたろう、1901年10月1日 … 浦松 佐美太郎(うらまつ さみたろう、1901年10月1日 - 1981年12月23日)は、日本のジャーナリスト・登山家。 今日では本業のジャーナリストとしてよりも、登山家・山岳作家としての仕事で知られている。 1919年、旧制芝中学校卒業後、東京商科大学(現・一橋大学)卒業。ロンドンに留学して近代登山に出会い、帰国後『たった一人の山』((1941年刊)など、山岳紀行の分野を開拓する。 ジャーナリストとしては日本太平洋問題調査会に参加し、1929年京都で開かれた「太平洋会議」(太平洋問題調査会の国際会議)の後、その争点を検討する「東京政治経済研究所」を蠟山政道・松本重治・牛場友彦らとともに設立し、近衛文麿の外交問題ブレインを形成した。
五十嵐 吉蔵(吉藏、いがらし きちぞう、1901年〈明治34… 五十嵐 吉蔵(吉藏、いがらし きちぞう、1901年〈明治34年〉10月1日 - 1959年〈昭和34年〉6月24日)は、大正・昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(5期)。蚕糸の第一人者。 群馬県佐波郡豊受村大字上蓮沼(現・伊勢崎市上蓮町)で、農業・五十嵐栄三郎の長男として生まれる。1918年(大正7年)群馬県立安中蚕糸学校(現・群馬県立安中総合学園高等学校)を卒業し、明治大学に進んだが中退。 組合製糸群馬社副社長、同代表理事、全国共栄蚕糸組合副理事長、日本蚕糸業会理事、刀洋織物社長、群馬県蚕種協同組合長などを務め、蚕糸行政に尽くした。 政界では、1933年(昭和8年)群馬県会議員に当選し3期在任。
梅本 正倫(うめもと まさとも、1901年(明治34年)10… 梅本 正倫(うめもと まさとも、1901年(明治34年)10月 - 1951年(昭和26年))は、満州の会社役員。撫順セメント取締役。南満州鉄道参事。お笑いタレントの渡部建は孫。 奈良県吉野郡下市町出身。梅本馨とヒデの息子。旧制奈良県立畝傍中学校、旧制第三高等学校を経て、1926年に京都帝国大学経済学部を卒業。南満州鉄道に入社する。東郷採炭所庶務係主任庶務課労務係同人事係主任、古城子採炭所副長等を経て同社参事に任じ撫順炭鉱庶務課長となる。 1943年5月、新京に移転し、満鉄調査部から改組された満鉄調査局次長に就任する。 職場近くで妻とねと出会い、結婚する。終戦2年後に日本へと帰還し、妻とねの実家のある福岡で暮らす。
岡本 三郎助(おかもと さぶろうすけ、1901年(明治34年… 岡本 三郎助(おかもと さぶろうすけ、1901年(明治34年)9月30日 - 1951年(昭和26年)5月29日)は、日本の内務・警察官僚。最後の官選滋賀県知事。 広島県沼隈郡鞆町(現・福山市)出身。岡本龍太郎の二男として生まれる。1925年、東京帝国大学法学部英法科を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1928年、東京高等工業学校建築科を卒業。内務省に入省し、鹿児島県属となる。 以後、鹿児島県警部、同学務部社会課長、新潟県警視、愛知県警察部保安警務課長、京都府警察部警務課長、興亜院書記官、秋田県書記官・警察部長、栃木県経済部長などを歴任。 1942年1月、滋賀県内務部長に就任。柴野和喜夫知事が石川県知事選挙に立候補のため辞任し、1947年3月、滋賀県知事に昇格。
岡松 成太郎(おかまつ せいたろう、1901年 <明治34年… 岡松 成太郎(おかまつ せいたろう、1901年 <明治34年> 9月29日 - 1991年 <平成3年> 7月18日)は、日本の官僚、経営者。商工次官、北海道電力社長を歴任。位階は従三位。勲二等旭日重光章。 東京府出身。父は京大法科教授・岡松参太郎。東京府立第四中学校、第一高等学校を経て、1925年に東京帝国大学法学部卒業。1928年、商工省入省。特許局属。1940年、総力戦研究所員、以後、東北地方鉱山局長、軍需省管理局長、商工省商務局長、燃料局長などを経て、石炭庁次長兼総務局長に。1947年に商工次官に就任。 退任後は、日本商工会議所専務理事、北海道電力社長を3期6年務め、江別火力発電所や送電・変電の整備に尽くした。
筑土 鈴寛(つくど れいかん、1901年9月28日 - 19… 筑土 鈴寛(つくど れいかん、1901年9月28日 - 1947年2月12日)は、日本の僧侶、民俗学者。東京府北多摩郡神代村(現東京都調布市)生まれ。初名を寛也。 私立天台宗中学校(現駒込高校)、國學院大學予科に学び、1924年(大正13年)東漸院住職となる。1926年國學院大學文学部国文学科卒業、東京帝国大学文学部副手、1928年(昭和3年)大正大学予科講師、同予科・専門部教授を経て1944年大正大学教授。 折口信夫より唱導文芸の研究を受け継ぎ、中世の宗教芸文に関する研究を確立した。 1947年に宗教芸文学会を設立したが、まもなく若くして亡くなった。 国文学の業績が多く、折口の後継者の一人と目されていた。
矢尾 喜三郎(やお きさぶろう、1901年9月28日 - 1… 矢尾 喜三郎(やお きさぶろう、1901年9月28日 - 1975年6月21日)は日本の政治家、労働運動家。位階は従三位。 滋賀県大津市出身。日本社会党所属の元衆議院議員(9期)。日本労働総同盟滋賀県連合会会長を務めた。矢尾喜の愛称で親しまれた。 1901年(明治34年)9月、大津市高見町に生まれる。1927年、 立命館大学法律科卒業。同年、社会民衆党滋賀支部設立の中心メンバーとなる。1928年、滋賀合同労働組合の結成に参加、旭絹織膳所工場の労働争議など、主に繊維関係の労働運動を主導する。1929年の大津市議会議員選挙で次点で落選するも、1931年に繰り上げ当選。大津市議会で初の無産党議員となって、失業問題などに取り組む。
秋山 逸生(あきやま いっせい、1901年9月27日 - 1… 秋山 逸生(あきやま いっせい、1901年9月27日 - 1988年5月22日)は、日本の木工芸家。 重要無形文化財「木象嵌」保持者。大坂弘道など木象嵌に優れた木工芸家はいるが、2006年現在では「木工芸」ではなく「木象嵌」で人間国宝に認定されたのは秋山のみである。 旧東京府隅田村(現 東京都墨田区)に生まれる。師に供して千葉県市川市に移り住み、生涯を市川で過ごす。 1918年、芝山象嵌師の島田逸山に師事。その後、兄の秋山聴古(本名秋山鉄次郎)に木画技法、彫金師桂光春らにも学ぶ。木象嵌は木地に色や木目の違う木材や金属などのさまざまな素材を加工して嵌め込み木地にさまざまな文様を表す。とくに複雑な文様を示すものは木画といい、下総国芝山の芝山専蔵が起こした象嵌法を芝山象嵌といい秋山逸生の師島田逸山や兄秋山聴古は芝山象嵌師である。
5代式守勘太夫(ごだい しきもりかんだゆう、1901年(明治… 5代式守勘太夫(ごだい しきもりかんだゆう、1901年(明治34年)9月27日 - 1984年(昭和59年)5月18日)は大相撲の元三役格行司。所属は伊勢ノ海部屋→鏡山部屋→伊勢ヶ濱部屋。青森県八戸市出身。本名は岡村熊太郎。 初め伊勢ノ海部屋に入門するが、のち5代鏡山(元幕下金木山)の養子となる。しかし、鏡山部屋は1944年11月場所限りで伊勢ヶ濱部屋へ吸収合併された。 1913年(大正2年)1月、「式守熊太郎」の名で初土俵。1926年1月、4代式守与之吉襲名。1933年1月十両格、1938年1月に5代式守勘太夫を襲名。1940年5月幕内格、1951年5月に年寄・6代鏡山を襲名し二枚鑑札。三役格の定員増加により1956年5月、三役格行司に昇格。
大江 良太郎(おおえ りょうたろう、1901年9月26日 -… 大江 良太郎(おおえ りょうたろう、1901年9月26日 - 1974年4月14日)は、日本の演劇評論家、演出家。 秋田県出身。慶応義塾大学在学中に劇作家や演出活動を行っていた小山内薫の指導を受けて演劇研究会を結成。1926年(大正15年)に卒業した後は松坂屋宣伝部に勤めながら演劇評論を発表。新派、新劇、文学座などの演出を行っていた久保田万太郎に師事し、1932年(昭和7年)には築地座結成に参加して文芸部に入った。 1939年(昭和14年)、築地小劇場が株式組織化した際には、新協劇団、新築地劇団関係者らとともに発起人となった。一方、同年からは新派との関りを深め、戦後の一時期には新国劇の文芸部に籍をおいたものの、長きにわたり新派を中心に演出活動を行った。
北沢 直吉 (きたざわ なおきち、1901年9月25日 - … 北沢 直吉 (きたざわ なおきち、1901年9月25日 - 1981年7月19日)は、日本の外交官、政治家。衆議院議員、外務省参与、内閣官房副長官を務めた。 茨城県筑波郡大穂村大字長高野(現在のつくば市長高野)生まれ。茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)から東京商科大学(現在の一橋大学)に進学し、1925年に卒業すると外務省に入る。入省して直ぐアメリカに赴任しプリンストン大学でM.A.の学位を取得(1927年)、斎藤博大使の下で対米交渉の一員として加わるが斎藤大使の死去に伴い帰国する。その後は香港で中華民国との和平工作に従事するが、1941年に在中華民国(汪兆銘政権)大使館一等書記官兼北京総領事となり、1943年にはビルマ大使館に参事官として赴任し、ビルマ首相のバー・モウが日本軍の敗走と共に亡命する際に案内役となった。
渡辺 一夫(渡邊 一夫、わたなべ かずお、1901年(明治3… 渡辺 一夫(渡邊 一夫、わたなべ かずお、1901年(明治34年)9月25日 - 1975年(昭和50年)5月10日)は、日本のフランス文学者・評論家。東京大学名誉教授、日本学士院会員。ルネサンス期フランスのフランソワ・ラブレーやエラスムスなどの研究、及び『ガルガンチュワとパンタグリュエル』の日本語訳で知られる。 1901年、銀行家の長男として東京府で生まれた。暁星中学校でフランス語を始め、少年時代は巖谷小波や夏目漱石、芥川龍之介、十返舎一九、式亭三馬、『三国志』『西遊記』などを愛読し、詩や和歌も読む文学少年だった。第一高等学校文科丙類を経て、東京帝国大学文学部仏文学科に進学。辰野隆に師事し、鈴木信太郎、山田珠樹、豊島與志雄らの薫陶を受ける。
服部 之総(はっとり しそう、1901年(明治34年)9月2… 服部 之総(はっとり しそう、1901年(明治34年)9月24日 - 1956年(昭和31年)3月4日)は、日本の歴史学者(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)。島根県浜田市金城町出身。
細川 一(ほそかわ はじめ、1901年9月23日 - 197… 細川 一(ほそかわ はじめ、1901年9月23日 - 1970年10月13日)は、日本の医師、医学者。新日本窒素肥料株式会社(後のチッソ株式会社)水俣工場附属病院長であり、水俣工場が引き起こした水俣病の症状を公式に発見した医師である。 愛媛県西宇和郡三瓶村(現・西予市)生まれ。岡金太郎の長男として生まれる。 旧制愛媛県立宇和島中学校、旧制佐賀高等学校を経て、1927年、東京帝国大学医学部を卒業。 1936年、日本窒素肥料株式会社に入社。朝鮮咸鏡北道慶興郡(現在の北朝鮮)にある阿吾地工場の附属病院長に就いた。1941年、水俣工場附属病院長に就任。その後軍医としてビルマに赴任した。1947年に復員し、水俣工場附属病院長の職に戻る。
高村 弘平(たかむら こうへい、1901年9月21日 - 1… 高村 弘平(たかむら こうへい、1901年9月21日 - 1989年9月28日)は、日本の造園家。山形県上山市出身。 造園会社の高村造園(1971年から東急グループ傘下、1992年に社名を現在の東急グリーンシステムに商号変更)を設立し、近代造園草創期の造園家として活躍。財界人では五島慶太や藤山雷太などとのかかわりをもつ。また当時の民間鉄道会社が積極策の一つして展開していたレクリエーション施設の建設にかかわり、具体に係わった仕事でも全作品の四割は民間のアミューズメント商業関係の造園空間が多く、それらについての論述もいくつか発表している。 五島美術館庭園、聖蹟桜ヶ丘多摩聖蹟地計画、碑文谷公園、円山動物園、須磨海浜公園、二子玉川園などの造園作品を残す。
樫山 純三(かしやま じゅんぞう、1901年9月21日 - … 樫山 純三(かしやま じゅんぞう、1901年9月21日 - 1986年6月1日)は、日本の実業家でオンワード樫山の創業者。また、競走馬の生産者や馬主としても知られる。 純三は競走馬のオーナー(馬主)としても有名でありみずからオンワード牧場を創設し、オーナーブリーダーとして数々の名馬を世に送り出した。また、ハードツービートで日本人で初めてフランスダービー(ジョッケクルブ賞)を勝利した国際的ホースマンでもあった。勝負服の服色は日本国内・国外ともに「黒、青袖」を使用。 純三の死後、夫人の樫山ハルが競馬事業を引き継いだ。牧場は2012年まで運営された。 樫山奨学財団30周年記念事業の一環として創設された学術賞。
長島恭助(ながしま きょうすけ、1901年(明治34年)9月… 長島恭助(ながしま きょうすけ、1901年(明治34年)9月17日 - 1992年(平成4年)9月22日)は、日本の銀行家、社会福祉活動家、古美術品愛好家。さいたま市名誉市民。 埼玉県大里郡吉見村(のちの大里村、現・熊谷市)小八ッ林の豪農で、のちに吉見村長を務めた長島甚助、せい夫妻の長男として生まれる。 吉見尋常小学校(現・熊谷市立吉見小学校)、吹上尋常小学校高等科、旧制熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校)、山口高等商業学校(現・山口大学)を経て、1923年(大正12年)に渋沢栄一が設立に深く関与し、その甥が頭取を務める武州銀行に入行。 1943年(昭和18年)7月の八十五銀行、忍商業銀行、飯能銀行との合併による埼玉銀行の発足と同時に本店営業部長に就任した。