下程 勇吉(したほど ゆうきち、1904年10月6日 - 1… 下程 勇吉(したほど ゆうきち、1904年10月6日 - 1998年3月17日)は、日本の教育学者、京都大学名誉教授。教育人間学を提唱した。 広島県安佐郡戸山村にて下程直太郎の長男として誕生。1924年3月広島県立第一中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)卒業。1927年3月広島高等学校(文科乙類)卒業。 1930年京都帝国大学文学部哲学科卒。1937年京都府立医科大学予科教授。1947年、京都大学助教授、「天道と人道 二宮尊徳の哲学」で、文学博士(京都大学)を取得。1948年京都大学教授。教育学部創設に参加し1951年から学部長。1968年定年退官、名誉教授。 松蔭女子学院大学学長 (1968.4 - 1970.3)。
鬼木 勝利(おにき かつとし、1904年〈明治37年〉10月… 鬼木 勝利(おにき かつとし、1904年〈明治37年〉10月6日 - 1984年〈昭和59年〉2月10日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)、衆議院議員(2期)。 福岡県甘木市(現朝倉市)出身。創価学会八女支部長を務める。 1959年、福岡県議会議員選挙に、福岡市早良区選挙区から無所属で立候補し、当選する。 1962年7月1日、第6回参議院議員通常選挙に、全国区から公明政治連盟公認候補として立候補し、当選する。 1964年11月17日、公明党結成に参加する。 1969年12月27日、第32回衆議院議員総選挙に福岡3区から立候補し、当選する(以降2期)。 1972年12月10日、第33回衆議院議員総選挙に立候補し、落選する。
金 鍾信(キム・ジョンシン、朝鮮語: 김종신、1904年10… 金 鍾信(キム・ジョンシン、朝鮮語: 김종신、1904年10月5日 - 1977年11月12日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の実業家、政治家。馬山市議会議員、馬山市長、第3代韓国国会議員を歴任した。仏教徒。 慶尚南道馬山府(現・昌原市)出身。中央大学政経学部2年修了。日本統治時代は新幹会の幹部を務めたが、青年運動と治安維持法違反により西大門刑務所で3年間服役した。その後は馬山昌信中学教諭を経て、醸造業を営んだ。解放後は馬山東洋酒精(または東洋酒造)社長、東洋酒類社長、馬山商工会議所会頭、大東工業社長、造船商事社長、馬山野協会長、馬山警察後援会長、司法保護協会会長、馬山府会議員・馬山市議会議員、第8代馬山市長(1952年5月5日 - 1953年5月15日)、国民会馬山支部会長、第3代国会予算決算委員長(1957年9月6日~1958年5月30日)、自由党馬山市党委員長・院内副総務、馬山日報創業者、第一生命保険社長、馬山大学学長、馬山慶南每日新聞社長、馬山文化放送代表理事、民主共和党慶尚南道第1地区党委員長・中央常任委員を務めた。
佐竹 義利(さたけ よしとし、1904年10月2日 - 19… 佐竹 義利(さたけ よしとし、1904年10月2日 - 1989年1月19日)は、日本の実業家・華族(男爵)。東洋製作所社長。 佐竹東家(旧出羽秋田藩主・佐竹氏の分家)第23代当主・佐竹義準男爵の長男として東京府(現・東京都)に生まれた。1924年、父の死に伴い家督を継ぎ、男爵を襲爵。 東京高等師範学校附属中学校、旧制水戸高等学校を経て、1930年に東京帝国大学工学部航空工学科を卒業し、三菱航空機名古屋製作所に入社した。就職先に三菱系の企業を選んだのは妹の操子が三菱財閥の創業者一族・岩崎彦弥太に嫁いでいることが関係していたと考えられている。三菱重工業、東洋機器製作所勤務を経て東洋製作所の社長に就任。
大隅 健一郎(おおすみ けんいちろう、1904年10月2日 … 大隅 健一郎(おおすみ けんいちろう、1904年10月2日 - 1998年3月19日)は、日本の法学者。専門は商法。学位は、法学博士(京都大学・論文博士・1953年)(学位論文「株式会社法変遷論」)。京都大学名誉教授。最高裁判所裁判官。1973年勲一等瑞宝章受章、1977年日本学士院会員、1985年文化功労者、1993年文化勲章受章。愛知県蒲郡市出身。竹田省門下。弟子に上柳克郎、河本一郎、龍田節、川又良也など。 旧制岡崎中学校(現愛知県立岡崎高等学校)卒業。旧制第八高等学校(現名古屋大学)卒業。大学在学中に高等文官試験の行政科と司法科に合格。1928年に京都帝国大学法学部卒業。山田正三学部長の勧められて、京都帝国大学法学部助手となる。
坂田 勝郎(さかた かつろう、1904年(明治37年)10月… 坂田 勝郎(さかた かつろう、1904年(明治37年)10月1日 - 1990年(平成2年)1月16日)は、毎日新聞社元常務取締役(大阪本社代表)、毎日放送(MBS)元社長・会長、テレビ東京(TX)元取締役、宮崎放送(MRT)元取締役。 宮崎県延岡市出身。旧制第五高等学校(現・熊本大学)を経て、京都帝国大学卒業後、1932年(昭和7年)に大阪毎日新聞社へ入社。1943年(昭和18年)に大阪毎日新聞と東京日日新聞は新聞統制で東西で異なっていた題号を「毎日新聞」に統一し、両紙の発行元であった大阪毎日新聞社は社名を「毎日新聞社」に改めてから、バンコク特派員、広島支局長、郷里である宮崎支局長、宮崎放送取締役を務め、毎日新聞社常務取締役(大阪本社代表)に就任した。
岡崎 忠(おかざき ちゅう、1904年10月1日 - 199… 岡崎 忠(おかざき ちゅう、1904年10月1日 - 1990年2月10日)は、昭和後期から平成期の実業家。岡崎財閥の2代目総帥で、神戸商工会議所会頭等を務めた岡崎忠雄の婿養子。元海軍中将川島令次郎の四男。東京都出身。 旧制静岡高校を経て、1929年東京帝国大学を卒業後、三菱倉庫に勤務していたが、1931年岡崎忠雄の婿養子となり、1933年神戸岡崎銀行(後の神戸銀行、現在の三井住友銀行)に入行した。 1936年に神戸銀行が誕生して以降は、支店次長、支店長、本店営業部長などを歴任、1945年に常務、1947年1月に当時の経営陣が公職追放を受けて銀行を去ると、その翌月に頭取に就任。戦後の混乱の中、都市銀行としての確固たる地位を築き上げた。
深海 善次(ふかみ ぜんじ、1904年10月 - 1997年… 深海 善次(ふかみ ぜんじ、1904年10月 - 1997年)は、昭和時代日本の作曲家。新潟県出身。 1904年(明治37年)10月、新潟県に生まれる。1924年(大正13年)6月に海軍へ入隊、横須賀鎮守府海兵団軍楽隊へ配属されブラス奏法を修学、首席で卒業した。その後、軍楽隊東京派遣所へ出向し海軍省委託生として東京音楽学校でコントラバス、ピアノ、音楽理論を学び首席で修了する。軍楽隊在籍中は「日本海々戦の想ひ出」「海軍記念日の歌」「精鋭なる我が海軍」他多数の軍歌を作曲・編曲し、1936年(昭和11年)に除隊。 東京音楽学校嘱託を経て1937年(昭和12年)にビクターレコード専属作曲家となり「還らぬ戦友」、描写曲「神風」などを手掛ける。
福永 兵蔵(ふくなが ひょうぞう、1904年10月〈明治37… 福永 兵蔵(ふくなが ひょうぞう、1904年10月〈明治37年〉 - 2005年〈平成17年〉)は、日本の実業家。株式会社フクナガ創業者。リプトンの喫茶店を経営し、日本に紅茶を広めた人物とされ、「京都の紅茶王」として知られる[出典無効]。 滋賀県近江八幡市出身。地元の小学校から商業実習学校に入学。卒業後は五条の瀬戸物屋「萬珠堂」の貿易部で働き始める。 取引先であったイギリスのウォーカー商会からリプトン紅茶の喫茶店経営を薦められ、1930年に「リプトン本社直轄喫茶部 極東支店」(現:サー・トーマス・リプトン ティハウス)をオープン。日本で初めてのロイヤルミルクティーの提供や、ラジオ出演などで京都にリプトンの名を広める。
穂積 七郎(ほづみ しちろう、1904年9月30日 - 19… 穂積 七郎(ほづみ しちろう、1904年9月30日 - 1995年12月10日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(7期)。 父は帝国議会議員を1期務めた鈴木麟三。兄は「アジア学生文化協会」などの設立者で社会教育家の穂積五一。義父は愛知県知事を1期務めた小畑忠良。新城市長の穂積亮次は子。 愛知県八名郡七郷村(現・新城市)出身。旧姓は鈴木。生まれる前の1904年6月27日に父を亡くした。 旧制愛知県豊橋中学校を経て、旧制第七高等学校造士館を1926年に卒業。同年東京帝国大学に入学。共に入学した兄の穂積五一は国家主義者らからなる「帝大七生社」に所属していたが、左翼の「新人会」とも交流し、両者の仲介も行った。
松井 達夫(まつい たつお、1904年 <明治37年> 9月… 松井 達夫(まつい たつお、1904年 <明治37年> 9月29日 - 1997年 <平成9年> 3月25日)は、日本の都市計画家、都市計画研究者。土木技術官僚。位階は正四位。 早稲田大学教授を務めた。このほか、帯広市市計画立案委員会委員長(帯広の団地のうち柏林台団地は昭和38年マスタープランを担当)、土木学会関東支部長、島根県庁周辺整備委員会委員、八王子土地利用計画研究委員会委員・幹事長、川崎市都市計画審議委員長、 南多摩地方計画策定委員会委員、 帝都高速度交通営団管理委員会委員、庵原地区総合開発調査委員会委員長、 港北ニュータウン計画に関して日本都市計画学会検討委員会委員長、 双葉原子力地区調査委員会委員長、 原子力委員会地帯整備専門部会都市計画小委員会主査 など、要職を多数歴任した。
四代目 尾上 菊次郎(よだいめ おのえきくじろう、1904年… 四代目 尾上 菊次郎(よだいめ おのえきくじろう、1904年(明治37年)9月29日 - 1981年(昭和56年)7月24日)は、主に関西歌舞伎で活躍した歌舞伎役者。屋号は音羽屋、定紋は向い菊、替紋は裏菊菱。俳名に幸菊がある。本名は渡辺 良雄(わたなべ よしお)。 二代目坂東彦十郎の次男。東京・築地出身。1910年(明治43年)4月帝国劇場『心中天網島』「紙治」の勘太郎で坂東子鶴を名のって初舞台。1919年(大正8年)6月帝劇『一谷嫩軍記』の熊谷の遠見で四代目坂東竹三郎を襲名する。その後も帝国劇場で活躍するも大正12年から市村座に入り六代目尾上菊五郎に弟子入りして活躍するうち才能を認められ、1924年(大正13年)5月、市村座での『義経千本桜』の小金吾と『娘道成寺』所化で名題昇進。
佐野 広(廣、さの ひろし、1904年(明治37年)9月28… 佐野 広(廣、さの ひろし、1904年(明治37年)9月28日 - 1980年(昭和55年)1月19日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員。旧姓は永井。 島根県大原郡春殖村(大東町を経て現雲南市)で、永井伊太郎の三男として生まれる。1925年(大正14年)弁護士佐野正雄の養子となった。旧制山口高等学校を経て、1932年(昭和7年)京都帝国大学法学部法律学科を卒業した。 1933年(昭和8年)出雲電気に入社。その後、代議士櫻内幸雄の秘書となる。戦後、中国電力島根支店次長、同東京支社長を歴任。その他、島根県農村電化協会会長、同体育協会理事長、日本バレーボール協会参与、ラジオ山陰(現山陰放送)相談役、民主党島根支部連幹事長、自由民主党島根支部連会長などを務めた。
中田 清兵衛(なかた せいべえ、1904年9月28日 - 1… 中田 清兵衛(なかた せいべえ、1904年9月28日 - 1989年12月16日)は、日本の銀行家。北陸銀行頭取を務めた。富山県出身。幼名・勇吉。 1925年に富山薬学専門学校を経て、1928年に明治大学政治経済学科を卒業。日本銀行での勤務を経て、金沢貯蓄銀行頭取、北陸配電監事、北陸銀行取締役などを歴任し、1949年4月には北陸銀行頭取に就任。1957年1月から1958年5月までに会長を務め、北陸電力と北日本放送で監査役も務めた。 1989年12月16日急性心不全のために死去。85歳没。
田村 雄一(たむら ゆういち、1904年(明治37年)9月2… 田村 雄一(たむら ゆういち、1904年(明治37年)9月27日 - 1981年(昭和56年)8月15日 )は、日本の教育者・大気電気学者。京都大学名誉教授、岡山県高梁市出身。 1904年(明治37年)に岡山県川上郡吹屋町(現:高梁市成羽町吹屋)で生まれる。その後は地元に近い旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学し、1922年(大正11年)に卒業。旧制第六高等学校を経て、1925年(大正14年)京都帝国大学へ入学。同大学工学部電気工学科を1928年(昭和3年)に卒業した。卒業論文は「電光と避雷」であり、これが田村の将来を決めた。 田村は、京大卒業後、発電所か鉄道関係への就職を考えていたが、同大学理学部物理学教室から大気電気の研究助手の話があり、長谷川万吉教授の研究室に入った。
浅見 隆三(あさみ りゅうぞう、1904年9月26日 - 1… 浅見 隆三(あさみ りゅうぞう、1904年9月26日 - 1987年7月23日)は、日本の陶芸家。日展参事。中国宋代の青白磁を基調に現代的感覚を加えた作風で知られた。第9回日展出品作「暢」により日本芸術院賞を受賞した。 京都市東山に、三代浅見五良助の次男として生まれる。本名は柳三。1923年に京都市立美術工芸学校図案科を卒業し、翌年関西美術院で洋画を学んだ。陶技は主として祖父の二代五良助に学び、1929年の第10回帝展で「三葉紋花瓶」が初入選した。 戦後は1945年から象嵌の手法を主体とした作品を制作し、1947年の第2回日展「象嵌 干柿の図皿」で特選、1951年の第7回日展「鶏頭ノ図花瓶」で再び特選を受け、翌年無鑑査となった。
牧野 吉晴(まきの よしはる、1904年9月25日 - 19… 牧野 吉晴(まきの よしはる、1904年9月25日 - 1957年12月21日)は、日本の美術評論家・小説家。 愛知県名古屋市生まれ。本名・勝彦。父は軍人。東海中学校(現∶東海中学校・高等学校)卒。冨澤有爲男が中学の先輩にいた。さらに東京植民貿易語学校、川端画学校に学ぶ。 金子光晴、赤松月船に師事して詩作、ついで小茂田清樹に師事して日本画を描く。1930年「猿猴図」が聖徳太子奉賛展で入選。また、正岡容と浪曲の巡業をし、吉井勇に師事してともに関西北陸を放浪。 1936年に放浪生活をやめ、中西悟堂の推薦で美術雑誌『東陽』を編集、美術評論を書く。同誌の創作欄に掲載された冨澤有爲男「地中海」が同1936年、芥川賞を受賞。
相原 信作(あいはら しんさく、1904年9月24日 - 1… 相原 信作(あいはら しんさく、1904年9月24日 - 1996年7月6日)は、日本の哲学研究者。
小柳 冨太郎(こやなぎ とみたろう、1904年(明治37年)… 小柳 冨太郎(こやなぎ とみたろう、1904年(明治37年)9月24日 - 1983年(昭和59年)10月25日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 長崎県北高来郡諫早村原口名(現諫早市)で生まれる。1918年、諫早高等小学校を卒業後西南学院で学ぶが、1922年6月で中退した。 1940年、上海で江南工業 (株) 社長に就任。1951年4月、富陽建設 (株) を設立して社長に就任。1977年に引退した。 政界では、1937年3月に長崎市会議員に当選。1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に長崎県から出馬して当選し衆議院議員を一期務めた。1951年4月、長崎県議会議員に諫早市選挙区から民主党公認で立候補して当選し、一期在任した。
村田 正志(むらた まさし、1904年9月23日 - 200… 村田 正志(むらた まさし、1904年9月23日 - 2009年6月26日)は、日本の歴史学者。専門は、日本南北朝史。三重県出身。 1904年、父の任地茨城県下妻で生れた。三重県富田中学校(現・三重県立四日市高等学校)で学び、1924年3月に卒業。同年4月、國學院大學予科に入学した。 1929年3月に國學院大學史学科を卒業後、同年4月に東京帝国大学史料編纂所嘱託として入所。史料編纂所では『大日本史料』第6編・第7編の編纂に従事した。1942年に史料編纂官補に昇任。1951年、学位論文『南朝歴代天皇御事蹟の研究』を國學院大學に提出して文学博士の学位を取得。 1930年代に南北両朝の取扱について、史学界内外から圧力が起こり、『大日本史料』第6編29は、1939年以降から1951年まで刊行が中断された。
渋谷 昇(澁谷昇、しぶや のぼる、1904年〈明治37年〉9… 渋谷 昇(澁谷昇、しぶや のぼる、1904年〈明治37年〉9月23日 - 1994年〈平成6年〉6月6日)は、日本の実業家・政治家・慈善家。広島県福山市出身。福山市市議会議員。福山通運、ベッセルを創業し、しぶや美術館、福山通運渋谷長寿健康財団、財団法人渋谷育英会を創設した。1956年に紺綬褒章受章、以後、延べ15回受章。 広島県芦品郡有磨村下有地山村(現在の福山市芦田町下有地)に5人兄弟(2男3女)の男(4番目)として、かつて庄屋を務めた旧家に生まれる。父・新太郎は土建業を営み、比較的裕福な家であった。芦田川の治水事業を多く手がけ、地区の中心的な名家であったが、1919年(大正8年)7月に備後地方を襲った未曾有の大水害によって、手がけていた芦田川堤防工事、県道の補修工事、城山 の砂防工事のすべてが跡形も無く崩壊し、大損害をこうむった。
百合山 羽公(ゆりやま うこう 、1904年9月21日 - … 百合山 羽公(ゆりやま うこう 、1904年9月21日 - 1991年10月22日)は、俳人。本名・又三郎。静岡県浜松生。県立浜松商業学校卒業。在学中、高浜虚子に会い、その紹介で池内たけしに師事。1923年、上京し「ホトトギス」の句座に参加、同時に池内が選者を務めていた「破魔弓」(「馬酔木」の前身)に入会。1929年、24歳で「ホトトギス」巻頭。1933年、水原秋桜子の「ホトトギス」離反に従い「馬酔木」に拠り、「馬酔木」第一期同人となる。1945年、浜松の住居を戦災で失い、同県引佐郡細江町の父の生家に疎開。1946年「あやめ」創刊。1950年「あやめ」を「海坂」(うなさか)に改題、20年来の句友である相生垣瓜人と共宰する。
鍋島 能弘(なべしま のりひろ、1904年9月21日 - 1… 鍋島 能弘(なべしま のりひろ、1904年9月21日 - 1979年12月22日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。お茶の水女子大学名誉教授。 佐賀県出身。1927年東京帝国大学英文科卒。第二次世界大戦後、東京大学教養学部教授、お茶の水女子大教授、立正大学教授、昭和女子大学教授を歴任。ウォルト・ホイットマンなどを研究、翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
岩尾 精一(いわお せいいち、1904年(明治37年)9月2… 岩尾 精一(いわお せいいち、1904年(明治37年)9月20日 - 1981年(昭和56年)10月15日)は、日本の政治家。日田市長を務めた。 大分県日田郡日田町(現・日田市)に生まれる。1922年福岡県立中学修猷館、1929年3月第七高等学校造士館理科甲類を経て、1932年3月東京帝国大学農学部農業経済学科を卒業。さらに満洲国の大同学院に学び、同年10月に卒業。 卒業後、満洲国において、奉天省洮南県属官となり、同県参事官に進み、1935年9月浜江省綏梭県参事官に転じ、同省庶務科長、総務庁人事課長、牡丹江省開拓庁長を歴任した。 戦後、日田漆器社長を経て、1952年10月日田市長に当選。以後1968年10月まで4期16年を務め、日田市発展の基礎を築いた。
平岡 昇(ひらおか のぼる、1904年9月19日 - 198… 平岡 昇(ひらおか のぼる、1904年9月19日 - 1985年12月3日)は、日本のフランス文学者。東京大学教養学部名誉教授。
栗沢 勇治(栗澤、くりさわ ゆうじ、1904年〈明治37年〉… 栗沢 勇治(栗澤、くりさわ ゆうじ、1904年〈明治37年〉9月19日 - 1976年〈昭和51年〉1月31日)は、日本の政治家。釜石市長(2期)。位階は従五位。 岩手県上閉伊郡栗橋村(現・釜石市)に生まれる。栗橋尋常高等小学校卒。炭焼きから身を興し、土木作業員を経て、1928年(昭和3年)釜石製鉄所に入る。1942年(昭和17年)釜石市の隣の甲子村会議員となる。戦後、釜石製鉄所の労働組合結成に参加し、副組合長から組合長になる。1955年(昭和30年)、上閉伊選挙区から日本社会党公認で岩手県議会議員選挙に立候補し、当選する。1963年(昭和38年)の選挙では釜石選挙区から立候補して当選した。県議は3期務める。
新田 潤(にった じゅん、1904年9月18日 - 1978… 新田 潤(にった じゅん、1904年9月18日 - 1978年5月14日)は、小説家。本名・半田 祐一。 長野県上田市生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、東京帝国大学英文科卒。1936年に高見順らと『人民文庫』を創刊、プロレタリア・リアリズムの作家として活動した。1943年から海軍報道班員として徴用され、復員後は風俗小説を書いた。1968年から東京電機大学講師。 1978年5月14日、肝硬変の末期症状である食道静脈瘤破裂のため東京都杉並区高円寺北の自宅で死去。戒名は無得豊潤居士。
藤野 義雄(ふじの よしお、1904年9月18日 - 199… 藤野 義雄(ふじの よしお、1904年9月18日 - 1998年11月2日)は、歌舞伎研究者。 岐阜県恵那郡上村(現・恵那市)出身。東洋大学文学部卒。1961年「近松の世話悲劇の研究」で東洋大学文学博士。金城学院大学教授、中京大学教授、御園座図書館長を務めた。
本間 祥白(ほんましょうはく、1904年9月18日 - 19… 本間 祥白(ほんましょうはく、1904年9月18日 - 1962年8月5日)は、日本の鍼灸師であり、また経絡治療家である。柳谷素霊、井上恵理の弟子。バネ式鍉鍼考案者のひとり。 1904年(明治37年)9月18日、山形県東村山郡に生まれる。山形県立農学校を卒業後、2年ほど家業の農業に従事した後に上京して東洋大学文学部哲学科に入学。 卒業後、巣鴨にてパン屋「ホンマベーカリー」を開業した後に電気治療に携わるようになる。 1939年に柳谷素霊の紹介で井上恵理に弟子入りを懇願。一度断られるものの、鍼灸の研究をともに進むことを誓い、弟子入りを許される。以後毎日井上恵理の治療を見学しに行き、1943年9月に独立開業。
三浦 芳聖(みうら よしまさ、1904年〈明治37年〉9月1… 三浦 芳聖(みうら よしまさ、1904年〈明治37年〉9月17日 - 1971年〈昭和46年〉3月30日)は、第二次世界大戦で日本が降伏した後に、南朝正統の皇胤であることを主張した「自称天皇」の一人。三浦天皇、または芳聖天皇、号神龍。[要出典] 南朝には、1336年(延元元年)10月に後醍醐天皇から皇位を継承して北陸に落ちた内伝の皇統(北陸朝廷)と、後醍醐天皇が陽動作戦のために吉野に設けた偽装朝廷である副統の「正副二統」が存在した。擬天皇である後亀山天皇(熙成王)が、足利義満の謀略による南北一統で上洛後、最後の内伝の天皇(美良親王)は愛知県岡崎市牧平町大門に於て三種の神器を封印して地下深く埋蔵し、天之岩戸籠りとし、皇后三浦佐久姫の姓「三浦」を名乗って三浦藤太夫と称し農民となった。
塚本 憲甫(つかもと けんぽ、1904年9月16日 - 19… 塚本 憲甫(つかもと けんぽ、1904年9月16日 - 1974年6月7日)は日本の医学者。専門は放射線医学。国立がんセンター総長を務めた。 東京府で塚本道遠、塚本ハマの三男として生まれる。旧制静岡高校卒業。静岡高校時代以来の親友に長沼弘毅がいる。1927年東京帝国大学医学部に入学。1928年憲甫は年子(旧姓小林)と結婚。1929年10月29日長女ルリ子が生まれる。1931年4月、憲甫、東大臨床医学修了。稲田龍吉の内科医局に在籍した後、癌研究会附属病院の放射線科に入りがんの放射線治療にあたる。戦後茅誠司らの薦めで放射線医学総合研究所の二代目所長となる。1967年、久留勝の引きで国立がんセンター病院長となり、久留の後任として国立がんセンター総長となるが、自身ががんに罹り1974年6月7日総長在職のまま死去。
橋本 二郎(はしもと じろう、1904年(明治37年)9月1… 橋本 二郎(はしもと じろう、1904年(明治37年)9月16日 - 1977年(昭和52年)3月14日)は、昭和期の農業指導者、政治家。衆議院議員、熊本県玉名郡滑石村長、玉名市長、玉名市名誉市民。 熊本県玉名郡滑石村(現玉名市滑石)で、橋本静太の二男として生まれる。1926年(大正15年)早稲田大学専門部政治経済学科を卒業。 1933年(昭和8年)滑石村会議員に選出された。その後、滑石村長、熊本県会議員に在任した。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に熊本県全県区から無所属で出馬して当選し、国民協同党に所属して衆議院議員に1期在任した。この間、協同民主党常任中央委員などを務めた。
西川 正身(にしかわ まさみ、1904年9月15日 - 19… 西川 正身(にしかわ まさみ、1904年9月15日 - 1988年1月25日)は、日本のアメリカ文学者。 東京生まれ。父は大審院判事となった西川一男。府立四中、第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部英文科を1929年に卒業。母校の府立四中勤務ののち、1935年、東京商科大学予科教授、1951年、東京大学文学部英文科教授、62年、アメリカ文学講座初代教授となる。1963年退官後は教授職には就かず、非常勤講師をしながら研究に専念。勤続年数が少なかったが、1987年、東京大学より名誉教授の称号を与えられる。ドイツ現代史研究者の西川正雄は息子。 当初は、ウィリアム・シェイクスピア、サマセット・モームなど英国作家も視野に入れて広く英語文学を研究し、のちアンブローズ・ビアスを生涯の研究対象とした。
橋本 國彦(はしもと くにひこ、Qunihico Hashi… 橋本 國彦(はしもと くにひこ、Qunihico Hashimoto、1904年9月14日 - 1949年5月6日)は、日本の作曲家、ヴァイオリニスト、指揮者、音楽教育者。 東京都本郷生まれ。ヴァイオリンを辻吉之助に師事。北野中学校(現:大阪府立北野高等学校)を経て、1923年(大正12年)東京音楽学校(現:東京芸術大学)入学。安藤幸とヨゼフ・ケーニヒにヴァイオリンを、チャーレス・ラウトロプに指揮法を学ぶ。作曲は信時潔に指導を受けるもほとんど独学であったが、同校研究科で作曲を学ぶ。歌曲『お菓子と娘』『黴』などで作曲家としての名声を獲得。斬新な曲を作る一方ではポピュラーなCM曲や歌謡曲にも手を染めた。
海老原 喜之助(えびはら きのすけ 1904年9月13日 -… 海老原 喜之助(えびはら きのすけ 1904年9月13日 - 1970年9月19日)は、日本の洋画家。鹿児島県出身。大正末期から昭和にかけてフランスと日本で活躍。「エビハラ・ブルー」と呼ばれた鮮やかな青の色彩を多用し、馬をモチーフとした作品を数多く制作した。1970年にパリで客死。今では郷里の鹿児島市立美術館、児玉美術館をはじめとする各地の美術館に作品が収蔵されている。 鹿児島県鹿児島市に生まれる。県立志布志中を卒業後、上京してアテネ・フランセでフランス語を学びながら有島生馬に師事するかたわら川端画学校でも絵画を学び『自画像』を制作した。1923年(大正12年)に19歳で単身渡仏し、パリで活動をしていた藤田嗣治に師事。
永沢 富士雄(ながさわ ふじお、1904年9月13日 - 1… 永沢 富士雄(ながさわ ふじお、1904年9月13日 - 1985年3月19日)は、北海道函館市出身のプロ野球選手(内野手)。読売ジャイアンツ(旧・東京巨人軍)の初代4番打者として知られる。
赤尾 稔(あかお みのる、1904年9月13日 - 1988… 赤尾 稔(あかお みのる、1904年9月13日 - 1988年5月2日)は、日本の経営者。東京出版販売(現在のトーハン)社長、会長を務めた。福井県福井市出身。 1931年に東京帝国大学経済学部を卒業。東京堂、日本出版配給で取締役を務め、東京出版販売で常務、専務を務めた。1964年5月に副社長に就任し、1969年には社長に昇格。1977年に会長に就任し、1981年6月には顧問に就任。 1976年11月に勲四等瑞宝章を受章。 1988年5月2日肺炎のために死去。83歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
松尾 義人(まつお よしと、1904年9月12日 - 196… 松尾 義人(まつお よしと、1904年9月12日 - 1966年10月31日)は、日本の経営者。日本特殊陶業社長を務めた。 長崎県出身。1926年に東京高等工業学校窯業科を卒業。日本碍子での勤務を経て、1937年に日本特殊陶業に転じ、1944年に取締役、1951年8月に常務、1956年11月に専務を経て、1961年11月には社長に就任。 1966年10月31日、狭心症のために在任中に死去。62歳没。
梅澤 實(うめざわ みのる、1904年〈明治37年〉9月11… 梅澤 實(うめざわ みのる、1904年〈明治37年〉9月11日 - 1994年〈平成6年〉5月13日)は、日本の産婦人科医。横浜市立大学学長。 埼玉県比企郡小川町出身。1923年に旧制埼玉県立熊谷中学校を卒業。旧制浦和高校を経て、1930年東京帝国大学医学科を卒業。東京大学医学部付属病院産婦人科教室に入り医学博士を取得。 1939年に新潟医科大学助教授に新任。前橋医科大学教授を経て、1950年、群馬大学医学部産婦人科教室教授。1951年、群馬大学医学部附属病院長となる。1957年、附属病院長を辞任。 1958年、群馬大学教授を退官後、横浜市立大学医学部教授となる。1970年退官し、横浜市立大学学長を1974年まで務めた。
小堀 憲(こぼり あきら 1904年9月10日 - 1992… 小堀 憲(こぼり あきら 1904年9月10日 - 1992年12月8日)は、日本の数学者、科学史家、教育者。専門分野は複素解析学。 1904年(明治37年)、福井県三方町に生まれる。1929年(昭和4年)に京都帝国大学理学部数学科を卒業後、同大理学部副手講師、新潟高等学校 (旧制)教授、第三高等学校 (旧制)教授を務めた後、1945年(昭和20年)京都大学助教授、1949年(昭和24年)同大教授に就任。 1956年(昭和31年)イタリアのフィレンツェで開催された第8回国際科学史会議に日本代表として出席。1967年(昭和42年)京都府立大学学長、1971年(昭和46年)京都産業大学教授、後に同大副総長。
生野 祥雲斎(しょうの しょううんさい、1904年(明治37… 生野 祥雲斎(しょうの しょううんさい、1904年(明治37年)9月10日 - 1974年(昭和49年)1月10日)は、竹工芸家。人間国宝。本名は秋平。 1904年(明治37年)、大分県大分郡石城川村(現別府市)内成に生まれる。石城尋常高等小学校を卒業後、1923年(大正12年)、19歳で佐藤竹邑斎に師事して竹工芸を学ぶ。1925年(大正14年)、21歳の時に独立し夢雀斎楽雲と称したが、後に妙心寺管長の神月徹宗に名付けられた生野祥雲斎を用いるようになる。1927年(昭和2年)から大分市に居を構える。1938年(昭和13年)から1946年(昭和21年)まで大分県工業試験場別府工芸指導所で商工技手として後進の指導にあたった。
植田 捷雄(うえだ としお、1904年9月9日 - 1975… 植田 捷雄(うえだ としお、1904年9月9日 - 1975年8月13日)は、東洋外交史を専門とする学者。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1945年)(学位論文「支那に於ける租界の研究」)。東京大学名誉教授。 1904年、東京生まれ。1928年、東京帝国大学法学部を卒業。 卒業後は、大阪毎日新聞社に入社した。1930年、東亜同文書院教授に着任。1937年より東方文化学院研究員。1939年外務省嘱託、1942年東京大学東洋文化研究所嘱託。1945年に学位論文『支那に於ける租界の研究』を東京大学に提出して法学博士の学位を取得した。 太平洋戦争後は、1948年より東文研研究員、1949年東大東文研教授。
桂 鎔黙(けいようもく、ケ・ヨンムク、1904年9月8日 -… 桂 鎔黙(けいようもく、ケ・ヨンムク、1904年9月8日 - 1961年8月9日)は、朝鮮の小説家。本貫は遂安桂氏。短篇小説を多く執筆した。なかでも「白痴アダダ (백치 아다다)」は桂の代表作となっている。 1904年9月8日、平安北道宣川郡南面三省洞群賢里706番地に生まれる。父は桂恒教、母は竹山朴氏、1男3女の長男。祖父の桂昌琠は参奉(官職従九位)を勤め、詩文にも優れた人であった。桂の教育は祖父により行われ、幼い頃より漢文を学んだ。10歳になると、新教育を受ける許しを得て、三峰公立普通学校に入学する。また、この頃、順興安氏の安静鈺と結婚する。 厳しい祖父の古い教育としきたりに反発するように、1921年、桂は祖父に無断で上京する。
木島 公之(きしま きみゆき、1904年〈明治37年〉9月8… 木島 公之(きしま きみゆき、1904年〈明治37年〉9月8日 - 2001年〈平成13年〉)は、日本の実業家、政治家。鳥取県八頭郡若桜町長。鳥取県議会議長(45代、48代、54代)。日本海新聞社長。自民党鳥取県連顧問。 鳥取県八頭郡若桜村(現・若桜町)出身。木島岩太郎の長男。1929年(昭和4年)、慶應義塾大学経済学部を卒業する。林業を営む。27歳で若桜運送取締役、ついで大同木材、若桜林材などの経営に参画する。 1944年(昭和19年)、若桜町長に選ばれる。終戦後の最初の衆議院選に進歩党(のちの民主党)公認として出馬したが、次点に終わる。1951年(昭和26年)、県議選に出馬して当選する。 1952年(昭和27年)6月24日、県議会議長に就任する。
竹嶋 清治(たけしま きよじ、1904年(明治37年)9月7… 竹嶋 清治(たけしま きよじ、1904年(明治37年)9月7日 - 1993年(平成5年)5月24日)は、日本の現代文学者。愛知教育大学名誉教授。 1904年(明治37年)9月7日に愛知県西尾市に生まれる。1929年(昭和4年)に法政大学法文学部国文科を卒業する。 愛知県立青年学校教員養成所教諭を経て、1949年(昭和24年)に愛知学芸大学教授に就任し、1966年(昭和41年)から愛知教育大学教授を務める。 1993年(平成5年)5月24日に死去、88歳。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
靱 勉(うつぼ つとむ、1904年9月5日 - 1970年1… 靱 勉(うつぼ つとむ、1904年9月5日 - 1970年12月15日)は、日本の官僚、実業家。次女はバレリーナのゆうきみほ(本名:靭啓子)。 東京出身。1929年(昭和4年)、東京帝国大学卒業後、逓信省入省。電気通信省次官となり、1952年(昭和27年)8月から1958年(昭和33年)9月まで日本電信電話公社初代副総裁を務める。その後国際電信電話株式会社(KDDIの前身の1つ)代表取締役社長となり、電気通信の発展に貢献した。1965年(昭和40年)12月から1967年(昭和42年)6月まで、NHK経営委員長を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
石塚 喜久三(いしづか きくぞう、1904年9月5日 - 1… 石塚 喜久三(いしづか きくぞう、1904年9月5日 - 1987年10月1日)は、日本の昭和期の小説家。 北海道小樽市花園出身。函館師範学校(現・北海道教育大学函館校)卒業。小樽市の国民学校の教員を務めた後中国大陸に渡り、華北交通張家口鉄路局に勤務した。蒙疆文芸懇話会幹事にも就任。 1943年、『蒙疆文學』1月号に寄せた「纏足の頃」で第17回芥川賞受賞。 1949年、後藤杜三らと「北海道文学者の会」結成。戦後は官能小説を書いた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
北上 四郎(きたかみ しろう、1904年(明治37年)9月3… 北上 四郎(きたかみ しろう、1904年(明治37年)9月3日 - 1953年7月25日)は、兵庫県出身の昆虫学者、登山家。男性。特にアミカ科昆虫の分類学的研究で知られる。日本でアミカの幼虫を初めて発見したのも北上である。 1904年、兵庫県武庫郡山田村 上谷上(現在の神戸市北区山田町上谷上)において、北上倉太良・りつの四男として生まれた。旧制第四高等学校(現在の金沢大学)を卒業し、1924年に京都帝国大学(現:京都大学)理学部動物学科に進学。 登山の愛好家でもあった北上は、大学在学中に早月川(富山県)へ出かけてイワナ釣りをしていた所、イワナの胃の中から当時日本未発見であったアミカの幼虫を発見した。
生島 遼一(いくしま りょういち、1904年9月2日 - 1… 生島 遼一(いくしま りょういち、1904年9月2日 - 1991年8月23日)は、日本のフランス文学者、文芸評論家、翻訳家。京都大学名誉教授。 大阪市生まれ。旧制松江高等学校を経て1929年京都帝国大学文学部仏文科卒、神戸商業大学予科講師、教授、戦後1947年第三高等学校教授、1949年京都大学教養部教授、1964年京都大学文学部教授を務め、1968年定年退官。 若くしてスタンダールの『赤と黒』を翻訳。以後バルザック、フローベール、プルーストら19世紀フランス文学の作家を紹介し、ラファイエット夫人の「クレーブの奥方」、フローベールの「感情教育」では文章の美しさで翻訳の世界に新境地を開いた。また、1953年に日本国内で出版されたボーヴォワール『第二の性』の訳でも知られ、桑原武夫、伊吹武彦とともに京大フランス学を形成した。
宮口 しづえ(みやぐち しずえ、1904年9月2日 - 19… 宮口 しづえ(みやぐち しずえ、1904年9月2日 - 1994年7月5日)は、日本の児童文学作家。 長野県小諸市生まれ。松本女子師範学校卒業。1927年から1934年まで木曽・馬籠の神坂小学校教師を務め、その後は臨時教員となる。戦後は島崎藤村全集の編纂を行う。1955年から童話を執筆し、1957年に信州児童文学会の前身である「とうげの旗の会」に入会。同人誌「とうげの旗」に作品を発表する傍ら、同会の整備と拡大に尽力し、1971年には発展組織である信州児童文学会の会長に就任、同年、少年少女向け雑誌である文学誌「とうげの旗」を創刊した。 1957年に『ミノスケのスキー帽』で児童文学者協会新人賞、1958年『ゲンと不動明王』で未明文学賞、1974年『箱火ばちのおじいさん』で野間児童文芸推奨作品賞、1980年「宮口しづえ童話全集」全8巻で赤い鳥文学賞受賞。