鈴木 雅(すずき まさ、1858年2月9日〈安政4年12月2… 鈴木 雅(すずき まさ、1858年2月9日〈安政4年12月26日〉 - 1940年〈昭和15年〉6月11日)は、日本の看護師である。 旧姓は加藤。父は静岡県士族加藤信盛(1834年〈天保5年〉- 1902年〈明治35年〉12月22日没)、母は御留守居組田辺兵三郎の娘トヨ( - 1915年〈大正4年〉2月10日没)、妹テル(輝代子?)、弟保太郎( - 1924年〈大正13年〉5月24日没)。親類書では加藤千三郎(加藤信盛)が「倅、加藤雅太郎」と書いたものを二重線で抹消して「保太郎」と書き直してあることから、「まさ」ではなく、「雅」が正しいようだ。 加藤家の先祖代々の墓は浅草の成喜院にあったが、関東大震災と東京爆撃で墓地が倒壊して寺には記録が残っていない。
山根 正次(やまね まさつぐ、安政4年12月23日 (185… 山根 正次(やまね まさつぐ、安政4年12月23日 (1858年2月6日) - 大正14年(1925年)8月29日)は、日本の衆議院議員(中正倶楽部→大同倶楽部→立憲同志会)、医学者。 長門国阿武郡椿郷東分村(現在の山口県萩市)出身。長州藩の医学館であった好生堂で蘭学を、中学校でドイツ人教師からドイツ語を学んだ。東京大学医学部を卒業し、長崎医学校一等教諭に任じられた。1885年(明治18年)、長崎でコレラが大流行すると、検疫委員として防疫に尽力した。 1887年(明治20年)よりドイツ・オーストリアに留学し、法医学を学んだ。帰国後は、警察医長、医務局長、警視庁第三部長を歴任した。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
山縣 伊三郎(やまがた いさぶろう、1858年2月6日〈安政… 山縣 伊三郎(やまがた いさぶろう、1858年2月6日〈安政4年12月23日〉- 1927年〈昭和2年〉9月24日)は、日本の官僚。元老山縣有朋の養子で公爵を継いだ。旧姓は勝津。妻は加藤弘之の娘の隆子。息子は有道、三郎と養子の有光。 長州藩藩士勝津兼亮と山縣有朋の姉・壽子の間に次男として生まれる。明治維新の立役者の一人であった有朋には三男四女があったが、次女以外夭折して山縣家を継ぐべき子供がいなかったため、甥である伊三郎を養子とした。 ドイツ留学後、内務官僚として徳島県知事、三重県知事、内務省地方局長、内務次官などを歴任した。1906年(明治39年)に第1次西園寺内閣で逓信大臣として入閣。しかし、鉄道建設に関する予算問題をめぐって大蔵大臣の阪谷芳郎と対立した末、1908年(明治41年)1月に逓相を辞任している。
大矢 四郎兵衛(おおや しろべえ、1858年2月2日(安政4… 大矢 四郎兵衛(おおや しろべえ、1858年2月2日(安政4年12月19日) - 1930年(昭和5年)9月25日)は、日本の富山県出身の実業家、政治家。衆議院議員。 礪波郡鷹栖村(現・砺波市)の大地主の家庭に次男として生まれる。父と兄を早くに失い、14歳で家督を相続する。金沢の私塾「竹下塾」に遊学ののち、帰郷して1885年(明治18年)、富山県会議員に当選した。1892年に落選後、1894年に鷹栖村長となり、1895年に県会議員に再度当選し、議長に就任している。 1898年(明治31年)の第6回衆議院議員総選挙に憲政本党より富山県第4区から立候補して当選し、1903年まで3期務めた(選挙区は、第7回総選挙では富山県郡部第5区、第8回総選挙では富山県郡部第2区)。
百萬 梅治(ひゃくまん うめじ、1858年(安政5年)2月 … 百萬 梅治(ひゃくまん うめじ、1858年(安政5年)2月 - 1896年(明治29年)3月9日)は日本の政治家。衆議院議員(2期) 1858年(安政5年)2月に百萬九右衛門の長男として生まれる。幼名は梅乃助と称し18歳のときに改名した。百萬家は地元の旧家で、梅治は22代目であった。時国小学校を卒業後、輪島師範学校に入り1878年に卒業し東小学校訓導に就任した。1880年(明治13年)4月に金沢へ出て河波有道に漢学を学び1882年に帰郷した。帰郷した後、数々の地元の公職に就き、1885年1月6日に県会議員補欠員に当選した。その後、1886年9月、1889年1月、1891年10月にそれぞれ再選された。
伊藤 鶴吉(いとう つるきち、1858年1月31日(安政4年… 伊藤 鶴吉(いとう つるきち、1858年1月31日(安政4年12月17日) - 1913年(大正2年)1月6日)は、明治時代に活躍した日本の英語通訳者。死去時の新聞報道では「通弁の元勲」と評されている。 相模国三浦郡菊名村(現・神奈川県三浦市)の生まれ。横浜で外国人から英語を学び、1877年より横浜で通訳業を始める。 1905年、アメリカの実業家エドワード・ヘンリー・ハリマン来日の際(このとき桂・ハリマン協定が結ばれた)に通訳を務め、その働きぶりからハリマンが経営する鉄道・汽船の一等乗車券をプレゼントされた。またマイソール王国王子、バローダ王国国王、植物学者チャールズ・マリーズなどが来日した際も通訳を務めた。
藤野 辰次郎(ふじの たつじろう、1858年1月23日(安政… 藤野 辰次郎(ふじの たつじろう、1858年1月23日(安政4年12月9日)- 1909年(明治42年)7月29日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 近江国愛知郡下枝村(滋賀県愛知郡下枝村、日枝村大字下枝、犬上郡豊郷村を経て現豊郷町)で、豪農・7代藤野四郎兵衛良久の二男として生まれた。神戸高等商業学校、東京高等商業学校専攻部を卒業した。他店で経験を積み、その後、藤野店を担当した。 1876年(明治9年)6月、大阪第三区大区二等戸長兼学区取締に就任。その後、大阪府会議員に選出された。1885年(明治18年)滋賀県会議員にも選ばれた。その他、破産管財人、神崎愛知郡所得税調査委員、愛知郡所得税取調委員なども務めた。
2代 若尾 幾造(わかお いくぞう、1858年1月22日(安… 2代 若尾 幾造(わかお いくぞう、1858年1月22日(安政4年12月8日)- 1928年(昭和3年)4月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。幼名は隣之助、旧名・林平。 甲斐国巨摩郡在家塚村(のち山梨県中巨摩郡、現南アルプス市在家塚)で、初代若尾幾造の長男として生まれる。 家業の生糸貿易業に従事し、1896年(明治29年)に家督を相続し幾造(2代)と改名した。神奈川県高座郡藤沢町(現藤沢市)と埼玉県児玉郡本庄町(現本庄市)に生繭乾燥所を、また、高座郡鵠沼村(現:藤沢市)に製糸機械場、同郡明治村(現:藤沢市)に第二製糸場を設置して良質の生糸を製造し、海外に本邦蚕糸の優秀性を示して輸出の拡大に貢献した。
井上 精一郎(いのうえ せいいちろう、1858年1月17日(… 井上 精一郎(いのうえ せいいちろう、1858年1月17日(安政4年12月3日)- 1922年(大正11年)2月28日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員。旧姓・白石。 武蔵国埼玉郡生出村(のち埼玉県北埼玉郡豊野村、現:加須市)で、白石家の二男として生まれ、北葛飾郡高野村(現:杉戸町)の豪農・井上家の婿養子となる。東京専門学校で学び、農場を経営した。 北葛飾郡書記、高野村会議員、北葛飾郡農会参事、埼玉県農会代表、埼玉県会議員などを務めた。 1904年3月、第9回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から憲政本党所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。 農業の改良に尽力し、模範農場の設立、苗代の改良、害虫の防除、耕地整理整理などを推進した。
日匹 信亮(ひびき のぶすけ、安政4年12月1日(1858年… 日匹 信亮(ひびき のぶすけ、安政4年12月1日(1858年1月15日) - 昭和15年(1940年)11月22日)は旧日本陸軍の主計監(のちの主計少将)で、富士見町教会教会員。 妻は川本鶴吉の姉カヨ、日疋養鶏養豚場経営日疋道夫は子、日疋食品代表日疋文爾は孫、ひびき(旧社、後のHM管財)代表取締役日疋好春は曾孫。 安政4年(1857年)12月1日、日疋文七の三男として紀伊国(現和歌山県)に生まれる。幼名常吉である。1880年1月に陸軍士官学校(旧5期)に入校し、1882年12月25日に卒業し、陸軍歩兵少尉に任命される。歩兵中尉の時に主計科に転ずる。1904年8月14日、満洲軍倉庫長になり、日露戦争を迎える。
野呂 景義(のろ かげよし、1858年 - 1923年)は愛… 野呂 景義(のろ かげよし、1858年 - 1923年)は愛知県出身の冶金学者。東京帝国大学の教授として多くの後進を育て、日本近代製鉄の礎を築いた田中製鉄所や八幡製鉄所に技術指導を行う。日本鉄鋼協会の初代会長も務め「日本の冶金学の父」と呼ばれる。 旧尾張藩士、野呂伊三郎の二男。1858年(安政5年)に後の名古屋市橦木町で生まれる。1874年(明治7年)に愛知英語学校へ入り、1877年(明治10年)上京し開成学校予科を経て1882年(明治15年)帝国大学理学部採鉱冶金学科を卒業。卒業後直ちに母校の助教授に任ぜられ、ドイツ人の採鉱冶金教授のクルト・ネットーの下で学生を指導する傍ら冶金学の研究を続けた。
清田 海一郎(せいた うみいちろう、1858年 - 1904… 清田 海一郎(せいた うみいちろう、1858年 - 1904年)は、日本の聖職者、浅草聖ヨハネ教会の初代牧師。日本聖公会の聖職者・司祭。 大阪・英和学舎(現・立教大学)での修学を経て、大阪・聖三一神学校(聖公会神学院の前身の一つ)を卒業。 上京したのち、1891年(明治24年)に、東京市浅草区黒船町(現・台東区駒形)で浅草聖ヨハネ教会の初代礼拝堂が聖別されると、同教会の初代牧師として活躍した。この時、宮崎敬介も同教会で司牧していた。この教会は、1876年(明治9年)にチャニング・ウィリアムズ(江戸監督)のもとで、クーパー(William B. Cooper)宣教師らによって東京府第五大区浅草広小路(東京都台東区雷門)で講義所として開設されたことに始まり、その後浅草界隈で何度も移転をしたのち、上述の初代礼拝堂が1891年(明治24年)に建てられ、浅草聖ヨハネ教会と称するようになった教会である。
細田 謙蔵(ほそだ けんぞう、1858年〈安政5年〉 - 1… 細田 謙蔵(ほそだ けんぞう、1858年〈安政5年〉 - 1945年〈昭和20年〉)は、日本の漢学者、書家、大学教授。号は剣堂。 鳥取県倉吉市出身。巻菱湖書を学び、東京の二松學舍で漢学を学んだ。その後、中国に渡り、漢学と書道を研鑽した。 二松學舍大学、中央大学、大東文化学院、東京高等師範学校、東京女子高等師範学校などの諸学校で教授を務めた。 根岸信五郎の道場・有信館に入門し、神道無念流剣道も学んだ。富山県の旅館を定宿としており、当時そこで丁稚をしていた中山博道に有信館を紹介した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
原崎 源作(はらさき げんさく、1858年〈安政5年〉 - … 原崎 源作(はらさき げんさく、1858年〈安政5年〉 - 1946年〈昭和21年〉)は、日本の実業家、茶業家、製茶技術者。富士合資会社総支配人。静岡茶を中心とする日本茶の輸出事業に関わり、製茶再製機械の改良に取り組んだ人物として知られる。 1858年(安政5年)、駿河国榛原郡地頭方村(現在の静岡県牧之原市)に生まれた。のちに小笠郡西方村堀之内(現在の菊川市堀之内)を経て、静岡市に移った。 明治期、原崎は横浜の茶売込問屋に関わり、輸出茶の再製工程に携わった。当時、輸出向けの茶は品質を整えるために再製工程を経る必要があり、静岡県内には再製茶工場が発達していった。原崎はこの工程の効率化と品質向上を目指し、製茶再製機械の改良に取り組んだ。
矢野 才治郎(やの さいじろう、1858年(安政5年12月)… 矢野 才治郎(やの さいじろう、1858年(安政5年12月) - 1899年(明治32年)5月21日)は、明治時代の政治家。教育者。衆議院議員(1期)。 美濃国大野郡唐栗村(岐阜県本巣郡唐栗村、本巣郡川崎村、巣南村、巣南町を経て現瑞穂市)に生まれる。1873年(明治6年)旧大垣藩儒の野村藤陰の門に入り漢学を修め、1875年(明治8年)岐阜県師範研修学校(岐阜大学教育学部の前身)を経て、小学校教員となる。学務委員を経て、1882年(明治15年)12月、大野・池田郡書記となり、1884年(明治17年)2月、岐阜県会議員に当選。のち県議を辞し、唐栗村外6箇村戸長などを経て再び県議となり同常置委員などを歴任した。
大谷木 備一郎(おおやぎ びいちろう、1858年(安政5年6… 大谷木 備一郎(おおやぎ びいちろう、1858年(安政5年6月)- 1892年(明治25年)2月7日)は、明治時代の政治家、弁護士。衆議院議員(1期)。 幕臣・大谷木吉之丞(のちに一と称す)、と母の下田氏の子として江戸牛込若宮町(東京府牛込区若宮町、東京市牛込区若宮町を経て現東京都新宿区若宮町)に生まれる。11歳にして聖堂に入り漢学を修める。ついで北門社で英学を学び、外国語学校に入り、大学南校に学び、大学予備門を経て1879年(明治12年)東京大学法律科を卒業した。 代言人となり同期の高橋一勝らと攻法館(専修大学の前身)を設立し、1886年(明治19年)には代言事務所を日本橋区本町(現東京都中央区日本橋本町)に開業した。
尾澤 主一(おざわ しゅいち、1858年 - 1889年6月… 尾澤 主一(おざわ しゅいち、1858年 - 1889年6月21日)は、日本の医師、医学者(小児科学)。学位は医学士(東京大学・1883年)。姓の「澤」は「沢」の旧字体のため、新字体で尾沢 主一(おざわ しゅいち)とも表記される。旧姓は陣ノ內(じんのうち)。旧姓の「內」は「内」の旧字体のため、新字体で陣ノ内(じんのうち)とも表記される。 帝国大学医科大学助手などを歴任した。 武蔵国出身の医師である。東京大学医学部で学び、帝国大学医科大学にて小児科を担当した。また、ドイツ国の医学者であるカール・シュローダーの著作の翻訳を手掛けるなど、西洋の進んだ医療を紹介し、大日本帝国の医学の発展に尽力した。ドイツ国に留学したものの病にかかり、帰国途上に清で客死した。
若原 観瑞(觀瑞、わかはら かんずい、1858年(安政5年8… 若原 観瑞(觀瑞、わかはら かんずい、1858年(安政5年8月) - 1937年(昭和12年)12月24日)は、日本の僧・政治家。衆議院議員(1期)。 伯耆国河村郡(のち鳥取県東伯郡長瀬村→羽合町、現・湯梨浜町)生まれ。漢学、政治経済学を学び、本派本願寺大教校(現・龍谷大学)で仏教学を学ぶ。宗規により僧籍に入り、仏教連合会組織のため力を尽くした。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において鳥取2区から保守党所属で立候補するが落選した。1892年の第2回衆議院議員総選挙で独立倶楽部から立候補して当選した。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では国民協会から立候補して落選した。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では保守党から立候補して落選した。
伊藤 春太郎(いとう はるたろう、1858年(安政5年3月)… 伊藤 春太郎(いとう はるたろう、1858年(安政5年3月)- 1913年(大正2年)3月11日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員、愛知県中島郡稲沢町長。 尾張国中島郡平野村(愛知県中島郡平野村、五郷村、大江村、稲沢町を経て現稲沢市平野町)で生まれた。江間錦江に師事し漢学を修めた。農業を営む。 宮田用水普通水利組合委員、同土功会議員、中島郡徴兵参事員、地租編纂委員、愛知県勧業諮問会員などを務めた。1884年(明治17年)愛知県会議員に選出され、中島郡会議員も務めた。 1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(愛知県第5区、国民協会)で当選し、その後、公同会に所属し衆議院議員に1期在任した。
小室 重弘(こむろ しげひろ、1858年(安政5年9月)- … 小室 重弘(こむろ しげひろ、1858年(安政5年9月)- 1908年(明治41年)6月13日)は、明治期のジャーナリスト、政治家、詩人。衆議院議員。号・屈山。 武蔵国江戸、のちの東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町(東京市渋谷区を経て現東京都渋谷区)の宇都宮藩江戸藩邸で同藩士の家に生まれる。漢籍を修めた。 佐久山で自由民権運動を進めた。田中正造の要請で栃木新聞(現下野新聞)幹事に就任し、栃木県会書記となる。国会開設運動に加わる。1881年(明治14年)自由新聞に転じ、新中新報に移った。その後、長野県で活動。1889年(明治22年)新愛知新聞主筆に就任した。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(愛知県第2区、自由党)で初当選し、その後、第5回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
浅田 次郎(淺田、あさだ じろう、1858年(安政5年8月)… 浅田 次郎(淺田、あさだ じろう、1858年(安政5年8月)- 1899年(明治32年)11月14日)は、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 肥前国彼杵郡、のちの長崎県東彼杵郡大村(現大村市)で生まれた。漢籍を修めた。 活版印刷業、貿易商を営む。また、長崎米穀石油取引所理事長、長崎新報社監査役、遠洋捕鯨取締役、長崎商業会議所議員などを務めた。 政界では、長崎市会議員、長崎市参事会員、徴兵参事員などを務めた。1898年(明治31年)8月の第6回衆議院議員総選挙(長崎県第1区、憲政党)で当選し、衆議院議員に1期在任した。議員在任中の1899年11月に死去した。
久保田 右作(くぼた うさく、1858年(安政5年1月) -… 久保田 右作(くぼた うさく、1858年(安政5年1月) - 1923年(大正12年)6月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 越後国魚沼郡小千谷町(のち新潟県北魚沼郡小千谷町、現・小千谷市)生まれ。漢学と英語を学ぶ。学務委員、小千谷町会議員、同助役、町村組合会議員、新潟県会議員となる。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において新潟7区から立憲改進党所属で立候補して初当選する。同年9月の第4回衆議院議員総選挙で再選した。衆議院議員を2期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。1923年に死去した。
厚地 政敏(あつち まさとし、1858年(安政5年1月)- … 厚地 政敏(あつち まさとし、1858年(安政5年1月)- 1921年(大正10年)2月11日)は、明治から大正期の政治家、実業家。衆議院議員、鹿児島県会議長。 薩摩国谿山郡谷山郷、のちの鹿児島県谿山郡谷山村(鹿児島郡谷山村、谷山町、谷山市を経て現鹿児島市)で生まれた。15歳で上京しバラ塾で英語を学んだ後に大学予備門に入学。病のため帰郷し、九州改進党鹿児島部の結成に参画し、政治活動と共に青年の指導を行う。谷山小学校(現鹿児島市立谷山小学校)の初代校長を務めた。 1883年(明治16年)1月、鹿児島県会議員に当選し、鹿児島同志会が発足し理事に就任して自由民権運動を進めた。第7代県会議長に就任。その後、吏党派の独立クラブに転じた。
植田 理太郎(うえだ りたろう、1858年(安政5年9月) … 植田 理太郎(うえだ りたろう、1858年(安政5年9月) - 1919年(大正8年)1月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 大和国葛下郡、のちの奈良県北葛城郡磐城村(當麻村、當麻町を経て現葛城市)生まれ。漢学と法律学を学ぶ。農業と林業を営む。奈良県会議員となる。 1892年(明治25年)第2回衆議院議員総選挙において奈良2区から独立倶楽部所属で立候補して初当選した。1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙では政務調査所所属で立候補して再選した。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では大手倶楽部所属で立候補して三選。衆議院議員を3期務め、1898年(明治29年)3月の第5回衆議院議員総選挙では国民協会から立候補したが次点で落選した。
渋江 公寧(澁江、しぶえ きみやす、1858年(安政5年11… 渋江 公寧(澁江、しぶえ きみやす、1858年(安政5年11月)- 1896年(明治29年)11月30日)は、明治期の教育者、政治家。衆議院議員。字・子静、号・龍伏。 肥後国菊池郡、のちの熊本県菊池郡隈府町(菊池町を経て現菊池市)で、儒学者渋江公木の息子として生まれた。父から学び、1876年(明治9年)熊本県師範学校を卒業。漢学塾・遜志堂を開き子弟の教育を行った。 政界では熊本県会議員に就任。1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(熊本県第3区、国民協会)で当選し、衆議院議員に1期在任した。議員在任中の1896年11月に死去した。
川上 源一(かわかみ げんいち、1858年〈安政5年1月〉 … 川上 源一(かわかみ げんいち、1858年〈安政5年1月〉 - 1926年〈大正15年〉4月13日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 信濃国筑摩郡苅谷原村(現長野県松本市)生まれ。中山道塩尻宿(同県塩尻市)の脇本陣川上家の養子となる。慶應義塾で学んだ。1885年(明治18年)に塩尻町ほか11ヶ村の戸長に任命され、1891年(明治24年)長野県会議員となった。同年12月に発足した鉄道期成同盟会では評議員となり、篠ノ井線、中央本線敷設問題に尽力した。1892年(明治25年)の第2回衆議院議員総選挙に長野第4区から立候補したが、この時は落選している。1894年(明治27年)の第3回総選挙に再び長野第4区から立候補して当選した。
河野 岩吉(こうの / かわの いわきち、1858年(安政5… 河野 岩吉(こうの / かわの いわきち、1858年(安政5年1月) - 1930年(昭和5年)6月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 播磨国印南郡曽根村(のち兵庫県印南郡曽根村→曽根町、現・高砂市)生まれ。漢学を学ぶ。曽根村会議員、同村長、曽根町長、印南郡会議員、同議長、兵庫県会議員、学務委員、所得税調査委員、宅地賃貸価格調査委員、土地賃貸価格調査委員、小作調停委員となる。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において兵庫5区から自由党所属で立候補したが次点で落選。1892年の第2回衆議院議員総選挙でも次点で落選。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では立憲改進党から立候補したが次点で落選。
北川 武(きたがわ たけし、1858年(安政5年) - 19… 北川 武(きたがわ たけし、1858年(安政5年) - 1913年(大正2年)1月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は、従四位・勲三等・功四級。陸軍電信部隊の創設者。
堀内 賢郎(ほりうち かしくろう、安政5年10月(1858年… 堀内 賢郎(ほりうち かしくろう、安政5年10月(1858年)- 大正8年(1919年)8月25日)は、衆議院議員(自由党)。号は如風。 信濃国埴科郡粟佐村(現長野県千曲市)生まれ。明治維新後、上京して 中江兆民の仏学塾に学ぶ。明治17年(1884年)自由党に入党し、同21年(1888年)長野県会議員となり、翌22年(1889年)第1回衆議院議員総選挙で初当選した。条約改正中止の建白書を政府に提出したほか、地元で埴科郡自由党を結成した。自由党中央委員となり、同31年(1898年)、党合同により憲政党が発足すると、北海道庁事務官に就任し、高等官二等、正五位に叙せられた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
川本 達(かわもと とおる、1858年(安政5年2月) - … 川本 達(かわもと とおる、1858年(安政5年2月) - 1940年(昭和15年)1月24日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 対馬国下県郡府中今屋敷町(のち長崎県下県郡厳原町、現・対馬市)生まれ。漢学を学ぶ。厳原町会議員、下県郡会議員、長崎県会議員、上県郡仁田村(のち上県町、現・対馬市)、下県郡雞知村(のち雞知町→美津島町、現・対馬市)各村長、第百二国立銀行頭取、対馬漁業組合頭取、対馬汽船会社社長となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において長崎6区から中央交渉会で立候補して当選、対立候補とは1票差の11票だった。衆議院議員を1期務め、1894年3月の第3回衆議院議員総選挙は不出馬。
臼井 幾蔵(うすい いくぞう、安政4年(1857年) - 昭… 臼井 幾蔵(うすい いくぞう、安政4年(1857年) - 昭和10年(1935年)1月)は、日本の医師。旧姓田淵。 二男・宗の妻は元鳥取県知事石破二朗(政治家石破茂の父)の姉。 鳥取県八上郡本角村(現鳥取市河原町)の医師・田淵養玄の二男。 幼時より学問もよく出来、佐貫の円浄寺の住職に漢書を学び、長じて鳥取川端一丁目で外科を開業していた黒川樹平について医学を学んだ。 明治17年(1884年)医師開業試験に合格。はじめ小畑で開業していたが臼井宗順の家を継いでからは市場で開業した。幾蔵は性格は厳格であったが常に西洋医学を学び新しい医療器具や技術を取入れて診療していたという。 外科が得意で、開業して間もない頃壊疽の患者の大腿切断術を施して村人達を驚服させたと伝えられている。
鄭 永慶(てい えいけい、1858年〈安政5年〉 - 189… 鄭 永慶(てい えいけい、1858年〈安政5年〉 - 1894年〈明治27年〉7月17日)は、明治時代の日本の実業家。日本で最初の本格的な喫茶店「可否茶館」(かひさかん)を開いたことで知られる。父(養父)は唐通事・外交官の鄭永寧。兄弟に外交官の鄭永昌・鄭永邦がいる。 1858年(安政5年)、肥前国長崎に鄭幹輔の庶子として生まれる。家は代々唐通事を務めた鄭氏の一族で、養父は外交官の鄭永寧(唐通事呉家出身)。同じく外交官の鄭永昌や鄭永邦は兄弟。義弟の楊龍太郎は内閣書記官長などを務めた伊東巳代治の従兄弟。幼少期に漢学・書道を学び、1869年(明治2年)からは父・永寧に伴い清へ渡り、永昌とともに北京に滞在して中国語を学ぶ。
深山 聳峮(ふかやま たかつら、1858年(安政5年2月)-… 深山 聳峮(ふかやま たかつら、1858年(安政5年2月)- 1912年(大正元年)9月9日)は、明治期の政治家。衆議院議員。 伊賀国名張郡、のちの三重県名張郡箕曲村(一次)(名賀郡箕曲村、名張町、箕曲村(二次)を経て現名張市)で生まれる。漢学を修めた。 三重県会議員に選出され、同常置委員も務めた。1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(三重県第6区、自由党)で初当選し、以後、第5回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
中村 信夫(なかむら のぶお、1858年(安政5年10月) … 中村 信夫(なかむら のぶお、1858年(安政5年10月) - 1933年(昭和8年)4月6日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(1期)。岐阜県吉城郡古川町長。幼名は三喜造。 酒造業・中村善右衛門の長子として飛騨国吉城郡、のちの古川町(現岐阜県飛騨市)に生まれる。秋月橘門や岡田呉陽などの門で漢学を修めた。1882年(明治15年)4月、帰郷し1883年(明治16年)古川銀行取締役となり、ついで桐山孫兵衛らとともに癸未義塾を創立し幹事として後進の教育に努めた。1883年(明治16年)4月、父の病没を受け母と共に上京し慶應義塾に学んだ。のち、東京市本所区にて織物工場を興し社長を務めたほか、古川町長、飛州木材会社相談役などを歴任した。
畠中 三太郎(はたなか さんたろう、安政5年(1858年) … 畠中 三太郎(はたなか さんたろう、安政5年(1858年) - 昭和7年(1932年)7月)は、明治時代から昭和時代にかけての農業指導者。通称、畠中三左衛門。 安政5年(1858年)薩摩国川辺郡川辺郷田部田村(現在の鹿児島県南九州市川辺町田部田)の農家の次男として生まれる。 明治22年(1889年)各郡役所に農業技手の配置が始まり、これを契機に農業技術指導員として奄美大島に赴任。当初は、短期間の予定だったが茶畑づくりや木炭製造等の技術が優れていたため住用戸長役場に雇われる事となり西仲間集落(現在の奄美市住用町大字西仲間)に移り住む。三太郎は奄美大島のサトウキビ作り一色の農業を打開するため三太郎峠周辺に農園を開くことを思いつき、明治32年(1899年)住用周辺にあった峠(現在の三太郎峠)の山林を入手し妻のシゲと共に開墾を始めた。
須田 万右衛門(萬右衛門、すだ まんえもん、1858年(安政… 須田 万右衛門(萬右衛門、すだ まんえもん、1858年(安政5年9月) - 1901年(明治34年)8月21日)は、明治時代の政治家。実業家。銀行家。大地主。衆議院議員。 美濃国武儀郡上有知村(岐阜県武儀郡上有知町、美濃町を経て現美濃市)出身。先代万右衛門(清信)の二男として生まれ、須田万右衛門(清堅)を襲名。漢学を修める。 村会議員、上有知町会議員、武儀郡会議員、岐阜県会議員、製紙改良組合副会頭、美濃紙輸出、美濃鉄道会社各取締役、上有知銀行頭取を歴任した。 1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙では岐阜県第5区から無所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
佐藤 三吉(さとう さんきち、1857年12月30日(安政4… 佐藤 三吉(さとう さんきち、1857年12月30日(安政4年11月15日) - 1943年(昭和18年)6月17日)は明治〜昭和期の外科医、医学博士、貴族院議員。美濃国大垣藩(現岐阜県大垣市)出身。 東京帝国大学教授、東京帝国大学医科大付属医院長、東京帝国大学医科大学長として、同じ岐阜県出身の青山胤通とともに、日本近代医学の創生期に活躍した。 佐藤三吉は1857年(安政4年)に大垣藩士佐藤只五郎の三男として生まれた。1870年(明治3年)父が死去し、義兄安藤就高の援助を受け上京し勉学の場を与えられた。 妻の滋子(1871年生)は小崎利準の長女。 実弟に東京興信所所長の佐藤正美、興業主の米山米吉がいる。
岩崎 行親(いわさき ゆきちか、安政4年11月13日(185… 岩崎 行親(いわさき ゆきちか、安政4年11月13日(1857年12月28日) - 昭和3年(1928年)4月24日)は、日本の教育者。号は岳東。 讃岐国(現在の香川県)丸亀出身。1881年(明治14年)、札幌農学校を第2期生として、新渡戸稲造、宮部金吾、内村鑑三、広井勇、南鷹次郎らとともに卒業した。農学士の称号を得て、開拓使御用掛、札幌県属、大阪府属を歴任。1894年(明治27年)より鹿児島県で教職につき、1901年(明治34年)に鹿児島県立鹿児島中学校校長から第七高等学校造士館校長に転じた。1912年(大正元年)に退官。 1918年(大正7年)から1924年(大正13年)まで福山中学校校長を務めた。
奥宮 健之(おくのみや けんし、1857年(安政4年)12月… 奥宮 健之(おくのみや けんし、1857年(安政4年)12月27日(旧暦11月12日) - 1911年(明治44年)1月24日)は、日本の社会運動家。 自由民権運動で活躍し、幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人だった。 1857年(安政4年)12月27日(旧暦11月12日)に土佐国土佐郡布師田村(現:高知県高知市布師田)で生まれる。父親の奥宮慥斎(1811 - 1877)は土佐藩のなかでも一流の陽明学者で、山内容堂の侍講だった。健之は11~12歳で東京へ向かい、三菱へ入社したが自由党が結党されると間もなく退職して入党した。党内では馬場辰猪と共に「土佐の二俊秀」と称された。 1882年(明治15年)に嚶鳴会と対決するものとして、馬場・大石正巳・西村玄道らと「国友会」を結成した。
内田 周平(うちだ しゅうへい、1857年12月26日〈安政… 内田 周平(うちだ しゅうへい、1857年12月26日〈安政4年11月7日〉 - 1944年〈昭和19年〉12月23日)は、日本の漢学者・哲学者。朱子学崎門派の末裔、中国哲学研究の開拓者、西洋哲学の紹介者、国体論者。哲学館・慶應義塾・大東文化学院など東京の大学や、熊本の第五高等学校で講義した。 字は仲準。号は遠湖(内田遠湖)・遠湖釣者・帆影子。堂号は谷門精舍。 1857年(安政4年)、遠江国浜松にて、漢学者兼蘭法医の父のもとに生まれる。生年を1854年(安政元年)とする文献もあるが誤りとされる。 1875年(明治8年)、上京し本郷壬申義塾でドイツ語を学ぶ。1876年外国語学校入学。1877年東京大学医学部予科入学、1881年本科進学。
児嶋 幸吉(こじま こうきち、安政4年11月1日(1857年… 児嶋 幸吉(こじま こうきち、安政4年11月1日(1857年12月16日) - 昭和4年(1929年)12月1日)は日本の実業家。鳥取ガス株式会社の創業者。昭和44年(1969年)9月24日、鳥取市名誉市民に選ばれた。 商家に育ったからさしたる教育は受けていなかったが、心が至って敏く、物事に綿密で早くからなかなか商才に富んでいた。 明治9年(1876年)19歳で酒造業を開設、明治21年(1888年)因幡酒造組合を設立し、組合長として業界の指導に当たり、明治23年(1890年)市会議員に当選して4期11年間市政に参画し、都市計画、発電計画案を作るなど市政の発展と経済の振興に尽力された。明治25年(1892年)鳥取汽船会社を設立して阪神地方へ農産物の移出を行う。
白石 直治(しらいし なおじ、安政4年10月29日(1857… 白石 直治(しらいし なおじ、安政4年10月29日(1857年12月15日) - 1919年(大正8年)2月17日)は、明治から大正時代の土木技術者、土木工学者、東京帝国大学教授、衆議院議員、実業家。旧姓は久家。 土佐藩儒で漢学者の久家種平(忘斎)、峰の長男として土佐国長岡郡十市村(現・高知県南国市十市)に生まれ、1874年(明治7年)白石栄の養嗣子となる。13歳の時、土佐藩校・致道館に学ぶ。母の弟・中島信行の影響により勤王論に刺激され、長州に走ったこともあったが、維新後上京し後藤象二郎家に寄寓する。 1881年(明治14年)東京帝国大学工科大学土木学科卒業。農商務省を経て、東京府勤務となる。1882年(明治15年)竹内綱の二女・菊と結婚。
宮内 治三郎(みやうち じさぶろう、1857年12月12日(… 宮内 治三郎(みやうち じさぶろう、1857年12月12日(安政4年10月26日)- 1906年(明治39年)2月13日)は、明治期の酒造家、実業家、政治家。衆議院議員。 伊予国伊予郡郡中灘町(愛知県伊予郡郡中灘町、郡中町を経て現伊予市灘町)で、酒造家の家に生まれた。酒造業を営む。 1886年(明治19年)町の有志と郡中銀行を設立し、のち頭取を務めた。1889年(明治22年)1月、愛媛県会議員に選出され、同副議長を務め、1894年(明治27年)4月まで在任した。 1894年9月、第4回衆議院議員総選挙(愛媛県第1区、自由党)で当選し、衆議院議員に1期在任した。 実業界では、1894年1月に南予鉄道会社の設立に参画して社長に就任し、1896年(明治29年)7月、郡中-藤原間が開業。
十一代目 片岡 仁左衛門(かたおか にざえもん、安政4年10… 十一代目 片岡 仁左衛門(かたおか にざえもん、安政4年10月18日(1857年12月4日) - 昭和9年(1934年)10月16日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した歌舞伎役者。主に立役。屋号は松嶋屋。定紋は七ツ割丸に二引。俳名に我當、萬麿。本名は片岡 秀太郎(かたおか ひでたろう) 養子に十三代目片岡仁左衛門。 安政4年(1857年)、八代目片岡仁左衛門の四男として江戸猿若町に生まれる。文久元年(1861年)、本名の片岡秀太郎で初舞台。翌年父と兄・三代目片岡我童とともに大坂へ移るが、翌文久3年(1863年)父が死去。後ろ盾を失いながらも子供芝居で修業を続ける。 明治5年(1872年)ごろから大阪竹田の芝居などに出演、その才能が認められはじめる。
陸 羯南(くが かつなん、安政4年丁巳10月14日(1857… 陸 羯南(くが かつなん、安政4年丁巳10月14日(1857年11月30日) - 明治40年(1907年)9月2日)は、日本の国民主義の政治評論家。日本新聞社長。正岡子規を育て、池辺三山、徳富蘇峰とともに明治の三大記者と称された。幼名は巳之太郎、のち実、号は羯南。 弘前藩の御茶坊主頭・中田謙斎と妻・なほ(旧姓、種市)の子として、陸奥国弘前(現・弘前市)在府町に生まれた。長男・次男 の両説がある。謙斎は微禄であった。 明治4年(1871年)頃から、藩校の教官・工藤他山の私塾・思斉堂に学び、明治6年(1873年)、旧藩校の後身・東奥義塾へ進み、明治7年(1874年)に宮城師範学校に転じたが、明治9年(1876年)に校長・松林義規(旧大村藩士)に逆らい退校処分を受けた。
清水 郁太郎(しみず いくたろう、安政4年10月13日〈18… 清水 郁太郎(しみず いくたろう、安政4年10月13日〈1857年11月29日〉 - 明治18年2月26日〈1885年〉)は、日本の医学者、産婦人科医。医学博士第1号。初代の東京大学医学部産婦人科学教授。広島県吉津村(現・福山市)生まれ。 慶応元年(1865年)、藩校誠之館(現・広島県立福山誠之館高等学校)に入学、早くからその穎才を認められ明治2年(1869年)には、全国各藩の俊才数十名が選抜された東京遊学に、16歳から20歳という年齢制限が有るにもかかわらず12歳にして選ばれる。 明治4年(1871年)、大学南校(現・東京大学)入学、独学を専攻。翌明治5年(1872年)、大学東校(現・東京大学医学部)に転入。
加藤 勇次郎(かとう ゆうじろう、1857年11月26日(安… 加藤 勇次郎(かとう ゆうじろう、1857年11月26日(安政4年10月10日) - 1934年(昭和9年)1月16日)は、熊本バンドの一人である。 1857年肥後国菊池郡広瀬村(現・菊池市)に生まれる。1872年熊本洋学校に入学し、1876年(明治9年)1月30日に花岡山で奉教趣意書に署名する。L.L.ジェーンズから洗礼を受ける。 1876年9月に同志社英学校に入学する。海老名弾正、小崎弘道、森田久万人らと西京第三公会に転入会する。 1879年(明治12年)、同志社英学校を第1期生として卒業する。同志社の同志社女学校、予備学校、普通学校の教員になり、英語、数学、物理を教えた。 1883年(明治16年)熊本バンドの海老名弾正、宮川経輝、横井時雄、金森通倫、上原方立らと一緒に、東京の新栄教会で開催された、第三回全国基督教信徒大親睦会に幹部として出席する。
大西 善太郎(おおにし ぜんたろう、1857年11月26日(… 大西 善太郎(おおにし ぜんたろう、1857年11月26日(安政4年10月10日)- 1918年(大正7年)5月7日)は、明治から大正前期の農業指導者、実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県有馬郡三輪村長、同郡道場村長。 摂津国有馬郡田中村(下田中村、兵庫県有馬郡三輪村下田中、三輪町、三田町を経て現三田市下田中)で、農業・大西利右衛門の息子として生まれる。普通学、和算学を修めた。農業を営む。 1880年(明治13年)有馬郡西組選挙郡農会員に就任。以後、全国米麦外三品共進会審査員、下田中村会議員、有馬郡連合会議員、摂津5郡連合農談会員、同会長、摂津5郡連合勧業会員、有馬郡連合町村会議員、同郡全町村勧業委員などを歴任。
高津 仲次郎(たかつ なかじろう、1857年11月24日(安… 高津 仲次郎(たかつ なかじろう、1857年11月24日(安政4年10月8日) - 1928年(昭和3年)12月19日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。衆議院議員(4期)、群馬県会議員(7期)、従六位。 上野国緑野郡中島村(群馬県緑野郡小野村、多野郡小野村を経て現藤岡市)の高津類蔵(のち安蔵に改名)の次男として生まれる。母くめ、兄佐市は仲次郎の幼少時に死去した。生家は養蚕業を生業とした。幼くして渋川の藍園義塾に入り、漢学を修めたのち、1882年(明治15年)上京し専修学校に入り、法学および経済学を学んだ。さらに1883年(明治16年)埼玉県の発陽学舎に入り英学を修めた。1885年(明治18年)再び上京し旧制東京専門学校に入り英学および政治学を学んだ。
佐藤 源蔵(さとう げんぞう、1857年11月20日(安政4… 佐藤 源蔵(さとう げんぞう、1857年11月20日(安政4年10月4日)- 1937年(昭和12年)1月16日)は、明治から昭和時代前期の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 陸奥国津軽郡畑中村(現在の南津軽郡田舎館村)に生まれる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を持つ大地主 佐藤治郎左衛門の長男。 その後、1889年(明治22年)の 町村制施行とともに田舎館村収入役に就任し、2期務める。1905年(明治38年)佐藤、田沢周助(田沢吉郎の父)、宮舘貞吉の提唱により信用組合を創立し、組合長に就任。衆議院議員の加藤宇兵衛や宇野清左衛門と共に、黒石銀行取締役や津軽銀行取締役などを歴任し、県内での銀行の普及に努めた。