持永 浅治(淺治、もちなが あさじ、1880年(明治13年)… 持永 浅治(淺治、もちなが あさじ、1880年(明治13年)5月8日 - 1956年(昭和31年)3月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 佐賀県出身。持永房種の三男として生まれる。佐賀中学校(現佐賀県立佐賀西高等学校)を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(16期)を卒業し、同年11月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる。 1907年(明治40年)12月、歩兵中尉に昇進し、1913年(大正2年)7月、兵科を憲兵科へ転科し憲兵中尉となる。1914年(大正3年)4月、憲兵大尉、1920年(大正9年)8月、憲兵少佐に進み東京憲兵分隊長に就任。1922年(大正11年)8月、弘前憲兵隊長に就任。
茅野 雅子(ちの まさこ、1880年5月6日 - 1946年… 茅野 雅子(ちの まさこ、1880年5月6日 - 1946年9月2日、旧姓:増田)は、大阪市出身の歌人である。夫はドイツ文学者・詩人の茅野蕭々。本名、まさ。 1880年、大阪市道修町の「増田順血湯」本舗で知られた薬種問屋の次女として生まれる。相愛高等女学校中途退学。1900年与謝野鉄幹が主宰する「新詩社」に加入、「明星」へ投稿。1904年上京して日本女子大学に入学。1905年、与謝野晶子、山川登美子と3人で歌集「恋衣」を刊行(増田雅子名義)、明星派3才媛として雅子の名を世に広めた。晶子が「しら萩」、登美子が「しら百合」と呼ばれたのに対し、雅子は「しら梅の君」という愛称で呼ばれた。鉄幹には「明星」の清怨派と評された。
磯田 長秋(いそだ ちょうしゅう、1880年(明治13年)5… 磯田 長秋(いそだ ちょうしゅう、1880年(明治13年)5月5日 - 1947年(昭和22年)10月25日、本名は磯田 孫三郎)は日本画家。歴史画に長じ、後半生は現在の船橋市に住んで多くの作品を残した。 東京市日本橋区新和泉町(現在の東京都中央区日本橋人形町に生まれ、当時の姓は「内田」。1889年(明治22年)に磯田家へ養子に入った。 若くして日本画(大和絵)を学び、当初は狩野派の芝永章につき、のちに土佐派の流れを汲む小堀鞆音に師事。1898年(明治31年)、鞆音同門の安田靫彦や小山栄達らと紫紅会を結成し、1900年(明治33年)に同会へ松本楓湖門下の今村紫紅が加わったことで紅児会に改称した後も同会に所属し、主に歴史画について研鑽を積んだ。
丸山 幹治(まるやま かんじ、1880年〈明治13年〉5月2… 丸山 幹治(まるやま かんじ、1880年〈明治13年〉5月2日 - 1955年〈昭和30年〉8月16日) は、ジャーナリスト・政治評論家。 号・侃堂。 長野県埴科郡清野村(現長野市)の農家に生まれる。1901年東京専門学校(現・早稲田大学)邦語科行政科卒業、日本新聞に入社、翌年青森新聞主筆となり、日露戦争中に日本新聞に復帰し従軍記者となる。1906年京城日報編集長を務め、1909年大阪朝日新聞社入社。「天声人語」を執筆。のちニューヨーク特派員、通信部長を歴任。1918年には白虹事件のため、長谷川如是閑らとともに退社。 1928年大阪毎日新聞社に入社し、コラム「硯滴」を担当。まもなく東京日日新聞に移り、1953年まで短評論「余録」を担当。
大石 スク(おおいし スク、1880年〈明治13年〉5月2日… 大石 スク(おおいし スク、1880年〈明治13年〉5月2日 - 1925年〈大正14年〉5月12日)は、日本の社会事業家。北海道札幌市で初めての保育所である札幌保育園(2018年〈平成30年〉に認定こども園に移行して「さっぽろこども園」と改称)の設立者。北海道の保育事業のさきがけとされる。 1880年(明治13年)、岩手県八幡村(後の花巻市)に誕生した。北海道岩内へ移転後、岩手県盛岡出身の男性と結婚し、3女1男の子宝に恵まれたが、結婚から10年後の1908年(明治41年)に、夫が35歳の若さで病死した。 スクは4人の子供の教育環境や生活環境を整えるため、1916年(大正5年)、当時繁栄していた土地として、倶知安町へ移転した。
高田 慎吾(たかだ しんご、1880年(明治13年)5月1日… 高田 慎吾(たかだ しんご、1880年(明治13年)5月1日 - 1927年(昭和2年)7月5日)は、日本の社会事業家、児童福祉研究家。 熊本の八代に生まれ、東京帝国大学(現在の東京大学)に入学後キリスト教徒となる。在学中に児童保護を中心に社会問題について専攻、研究した。卒業後に東京養育院(現在の東京都長寿健康医療センター)付巣鴨分院の主任を務め、1912年(明治45年)に社会問題を学ぶために渡米した。 翌年帰国後は内務省に勤務し、1918年(大正7年)に退職するまで国立感化院(現在の国立武蔵野学院)の創設に携わり、東洋大学の教授として日本で初の社会事業講座を開講した。退職後は関東地方のみならず関西地方でも社会事業の養成、研究に携わり、大阪の石井記念愛染園が経営する社会事業の研究を行った。
野田 亀喜(龜喜、のだ かめき、1880年(明治13年)4月… 野田 亀喜(龜喜、のだ かめき、1880年(明治13年)4月29日 - 1941年(昭和16年)5月29日)は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 陸軍主計将校・野田豁通の二男として生まれる。父の死去に伴い、1913年(大正2年)1月30日、男爵を襲爵した。 学習院を経て帝国大学法科大学を修了。1910年(明治43年)日本建築用紙取締役に就任。その後、台東製糖取締役、木毛取締役、八千代銀行監査役、愛国旅行社社長などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し、1932年(昭和7年)7月9日まで2期在任した。
片桐 貞央(かたぎり さだひさ / さだなか、1880年(明… 片桐 貞央(かたぎり さだひさ / さだなか、1880年(明治13年)4月28日 - 1956年(昭和31年)1月7日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・水野、幼名・央、法諱・宗昌。 旧紀伊新宮藩主・水野忠幹の六男として生まれる。先代、子爵・片桐貞健の死去に伴い家督を継承し、1892年(明治25年)8月16日、子爵を襲爵した。同年9月5日、貞央と改名した。 1911年(明治44年)9月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。狩猟調査会委員、農林審議会委員、矢作水力役員、大阪タクシー自動車役員などを務めた。 1914年(大正3年)2月28日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1939年(昭和14年)7月9日まで4期在任した。
守山 恒太郎(もりやま つねたろう、1880年4月27日 -… 守山 恒太郎(もりやま つねたろう、1880年4月27日 - 1912年2月12日)は、東京都出身の野球選手。 獨逸学協会学校を卒業し、1899年に第一高等学校へ入学。 ドロップボールを駆使して、「一高第二次黄金時代」の左投手として活躍した。 1901年5月に横浜外国人チーム(横浜アマチュアクラブ)と対戦し5対6で敗れた。その後、制球力を向上させるため、一塁側グラウンドの後方にあったレンガ塀に5寸大の穴が開くまで投げ続けたり、投球練習中に痛めた左肘を治すため、校庭の桜の木に左手一本でぶら下がり伸ばすなど、校友会雑誌に「上野の杜にカラスの鳴かぬ日はあれど、守山の姿を運動場に見ざる日はなし」と書かれるほど猛練習に明け暮れた。
豊留 アサ(とよとめ あさ、1880年(明治13年)4月25… 豊留 アサ(とよとめ あさ、1880年(明治13年)4月25日 - 1938年(昭和13年)3月4日)は、日本の女性教育家。私立新庄女学校(現在の広島新庄学園)第二代校長。 1880年(明治13年)4月25日、豊留半兵衛・ヨシ子夫妻の長女として鹿児島県姶良郡加治木町塩入(現在の姶良市加治木町)に生まれる。生来、聡明利発で周りから神童だと評判になり、遊びも男性的な遊びを好んでいたと言われている。 1887年(明治20年)4月、柁城尋常高等小学校入学(現在の姶良市立柁城小学校)幼少期から読み書きに優れ、学校では首席を通し、後に東京第一高等学校生徒監になった教育者・谷山初七郎にその才を見出され、この頃から晩年までずっと指導を仰いだ。
尾竹 国観(OTAKE Kokkan、おたけ こっかん、明治… 尾竹 国観(OTAKE Kokkan、おたけ こっかん、明治13年(1880年)4月21日 - 昭和20年(1945年)5月20日)は、明治から昭和期の浮世絵師、日本画家。尾竹越堂、尾竹竹坡の弟で、いわゆる尾竹三兄弟の末弟。 明治13年(1880年)4月21日、現在の新潟市の紺屋に生まれる。本名亀吉。父は尾竹倉松。「尾竹」の読みを「おだけ」とする資料が多いが、これは誤りで、正しくは「おたけ」である[要出典]。幼くして笹田雲石に国観の号を受ける。8歳頃から絵を描いて家計を助けており、東京学齢館の『小国民』の全国児童画コンクールに応募して一等をとり、学齢館主人の斡旋で上京、小堀鞆音に入門。漢学を高橋太華に学ぶ。
松本 生太(まつもと せいた、1880年4月19日 - 19… 松本 生太(まつもと せいた、1880年4月19日 - 1972年7月29日)は、日本の弁護士、教育者。学校法人鎌倉女子大学を設立。 岡山県上道郡浮田村(現岡山市東区)出身。京都帝国大学卒業後、1931年に日本大学教授となり、弁護士としても開業する。 1943年、後に京浜女子大学(現在の鎌倉女子大学)の前身となる京浜女子家政理学専門学校を横浜市神奈川区に設立した。日本私学短期大学協会会長、学校法人白鵬女子学院理事長、白鵬女子高等学校初代校長などを歴任した。特に、当初暫定的な制度として始まった短期大学を恒久化した1964年の学校教育法の改正(いわゆる「短大恒久化法案」)の前後には、日本私学短期大学協会会長として恒久化を進める運動を牽引した。
井本 常作(いもと じょうさ / つねさく、1880年〈明治… 井本 常作(いもと じょうさ / つねさく、1880年〈明治13年〉4月18日 - 1969年〈昭和44年〉6月1日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(当選3回)。司法参与官。 群馬県多野郡神流村岡之郷(現在の藤岡市)出身。井本孫市の二男。1902年(明治35年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。判事検事登用試験に合格し、司法官試補となった。官を辞して卜部喜太郎の事務所に入り、在野法曹界の人となって実務の練習に努めた。1908年(明治41年)、弁護士を開業した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。立憲民政党に所属。濱口内閣で司法参与官を務めた。本郷区学務委員、同委員長、本郷区教育会商議員等にも挙げられた。
斎藤 玉男(さいとう たまお、1880年〈明治13年〉4月1… 斎藤 玉男(さいとう たまお、1880年〈明治13年〉4月14日 - 1972年〈昭和47年〉10月13日)は日本の医師、精神医学者。高村智恵子の晩年の主治医であった。 1880年(明治13年)、群馬県南勢多郡苗ヶ島村(勢多郡宮城村を経て現・前橋市苗ヶ島町)に生まれる。祖父は幕末から明治時代にかけて活躍した国学者・医師であった斎藤多須久(たすく)。群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)、旧制第二高等学校を経て、1906年(明治39年)東京帝国大学医科大学を卒業した。その後、ドイツやアメリカに留学。 東京府巣鴨病院医員として勤務。巣鴨病院の後輩には斎藤茂吉がおり親交を結んだ。1916年(大正5年)日本医学専門学校教授に就任し、1944年(昭和19年)まで務める。
11代奥野 小四郎(おくの こしろう、1880年(明治13年… 11代奥野 小四郎(おくの こしろう、1880年(明治13年)4月14日 - 1958年(昭和33年)7月23日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員、官選帯広市長。旧姓・武田、初名・雄次。 兵庫県三原郡広田村(のち緑村、緑町を経て、現・南あわじ市)で武田泰三の三男として生まれる。1898年、郁文館中学校を卒業し、同年、第三高等学校第一部に入学したが、家事の都合により一年で退学した。その後、洲本町の先代奥野小四郎の婿養子となり家業に従事。 1904年5月に来道して先代が拓いた上川郡士別村の農場の経営を担当。1906年から2年間、北海道庁真駒内種畜場で畜産獣医の講習を受け、1908年、十勝国中川郡居辺原野で先代と共に牧場を経営し、産馬の改良繁殖に尽力した。
大槻 快尊(おおつき かいそん、1880年4月13日 - 1… 大槻 快尊(おおつき かいそん、1880年4月13日 - 1936年6月2日)は、日本の心理学者。かつ真言宗智山派の僧である。 愛知県海部郡甚目寺村(現:あま市)生まれ。幼年の時期に長久寺・鈴木快秀の下に出家し真言宗智山派の僧籍を持つ。日本において最も早い時期に、欧米の実験心理学を紹介した人物の一人である。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、心理学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ 心理学)。 この項目は、社会科学に関連した書きかけの項目です。
高須 梅渓(たかす ばいけい、1880年4月13日 - 19… 高須 梅渓(たかす ばいけい、1880年4月13日 - 1948年2月2日)は、明治期から昭和期の日本の文芸評論家、評論家。 大阪府出身。本名は芳次郎(よしじろう)。為替貯金管理所勤務から1898年に上京して、早稲田大学文学部英文科卒。中村吉蔵らと雑誌『よしあし草』を発行、また佐藤義亮が創刊した『新声』の編集に加わり、文芸時評で活躍。当時の同僚に金子薫園や千葉亀雄など。その後、「国民新聞」「東京毎日新聞」「二六新報」などの記者を務める。1901年、『文壇照魔鏡』で与謝野鉄幹を攻撃したとされ、鉄幹から訴えられた。のち明治文学史、水戸学の研究に専念、昭和期には国粋主義・軍国主義に走った。1940年「大日本史に現はれた尊皇精神」で日本大学文学博士。
佐野 利器(さの としかた、1880年(明治13年)4月11… 佐野 利器(さの としかた、1880年(明治13年)4月11日 - 1956年(昭和31年)12月5日)は、日本の建築家、建築構造学者。東京帝国大学名誉教授、日本大学教授、清水組副社長を歴任。宮内省工務課長、明治神宮造営局参与、帝都復興院理事、東京都建築局長、日本建築学会会長なども務めた。1950年日本学士院会員。芸術としての建築より、工学としての建築、とくに耐震工学に重きを置き、日本の構造学の発展に貢献した。 山形県西置賜郡荒砥村(現:白鷹町)の旧家の四男、山口安平として生まれた。生家(山口家)は大地主であったが次第に没落し、また実父の山口三郎兵衛が早くに病死したため、米沢中学在籍時に天童織田家の藩士だった佐野誠一郎の養嗣子となった。
石原 栄三郎(石原 榮三郎、いしはら えいざぶろう、1880… 石原 栄三郎(石原 榮三郎、いしはら えいざぶろう、1880年〈明治13年〉4月10日 - 没年不明)は、日本の商人(かぢ平、金物商)、愛知県多額納税者。石原商店金物部代表。 愛知県人、鍛冶平、金物商・石原平左衛門の弟。1915年、分家して一家を創立し、金物卸商を営む。名古屋商工会議所議員に選ばれる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。趣味は石灯籠、庭石、茶器、書画。宗教は浄土宗。住所は愛知県名古屋市西区江川端町、店舗は中区広小路西通。 石原家は名古屋に於ける一流金物店である。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
綿貫 六助(わたぬき ろくすけ、1880年〈明治13年〉4月… 綿貫 六助(わたぬき ろくすけ、1880年〈明治13年〉4月8日 - 1946年〈昭和21年〉12月19日)は、日本の陸軍軍人・小説家。 1880年(明治13年)、群馬県北勢多郡森下村(現・利根郡昭和村)の中層の農家に生まれた。1896年(明治29年)、17歳の時に陸軍教導団に合格した。1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校(15期)を卒業した後、歩兵第29連隊に入隊した。1904年(明治37年)2月に陸軍歩兵少尉に任官して日露戦争に参戦し、1906年(明治36年)に帰国し、勲五等双光旭日章を授与された。同年3月に福島県出身の女性と結婚し、4男1女をもうけた。 1912年(明治45年)5月、歩兵大尉に昇進し、歩兵第65連隊中隊長を務めていたが、1914年(大正3年)に軍旗祭で不適切な行為を起こしたため除隊された。
岡野 栄(おかの さかえ、1880年〈明治13年〉4月7日 … 岡野 栄(おかの さかえ、1880年〈明治13年〉4月7日 - 1942年〈昭和17年〉3月21日)は、日本の洋画家、版画家、口絵画家。従四位勲四等。 1880年(明治13年)東京の赤坂に生まれた。 白馬会洋画研究所で黒田清輝に学び、東京美術学校洋画科選科(現東京芸術大学)にて引き続き黒田の指導を受け1902年に卒業している。1908年に女子学習院で助教授として奉職のち教授となり、亡くなるまで34年間にわたって教鞭をとり続けた。 1912年、旧白馬会の主力メンバーであった、中沢弘光、岡野栄、山本森之助、三宅克己、小林鐘吉、跡見泰、杉浦非水の7名が発起人となり光風会を創立。 1912年6月の「第一回光風会展」では会員の他に黒田清輝、藤島武二、岡田三郎助、藤田嗣二ら旧白馬会の会員ら多くの人が出品した。
阿波 研造(あわ けんぞう、1880年4月4日 - 1939… 阿波 研造(あわ けんぞう、1880年4月4日 - 1939年3月1日)は、日本の弓術家。弓聖と称えられる。 宮城県桃生郡大川村(現在の石巻市)に、麹屋を営む佐藤家の長男として生まれる。小学校卒業後、18歳で漢学の私塾を開き、20歳で石巻の麹屋・阿波家の入り婿となり、家督を継ぐ。21歳で石巻の旧藩士で堂射系の日置流雪荷派の木村辰五郎時隆に師事して弓術を始める。2年ほどで木村に免許皆伝を受け、23歳で自宅近くに自身の道場を開設、30歳のとき、仙台に出て道場を開く。1910年、木村時隆に代わり、第二高等学校の弓道師範を勤める。このころは的中を重視した弓を指導していた。 1913年、東大弓術部師範の本多利實に師事し、日置流尾州竹林派弓術を伝授される(竹林派の流祖は僧侶であったことから、この派の教えには仏教の影響が色濃い)。
芝 葛盛(しば かずもり、1880年4月3日 - 1955年… 芝 葛盛(しば かずもり、1880年4月3日 - 1955年7月13日)は、日本の歴史学者、教育者。宮内庁調査員、帝国学士院帝室制度史編纂室主任、立教大学文学部教授。 東京府牛込(現・東京都新宿区)に雅楽師の芝葛鎮の長男として生まれる。1903年に東京帝国大学文科大学国史科を卒業。 東京帝国大学文学部史料編纂掛の嘱託を務めたのち、1914年に宮内省図書寮編修官に任じられ、1926年に編修課長を命じらる。この間に「天皇皇族実録」286巻を編修したほか、1916年8月には「長慶天皇ヲ皇代ニ列シ奉ル議」を起草・上申し、同天皇の皇代登列の端を開くなど、皇室史全般の研究調査を行った。1946年(昭和21年)に退官するまで、編修課長として長月にわたって歴代天皇の実録編集を担任した。
熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年〈明治13年〉4月… 熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年〈明治13年〉4月2日 - 1977年〈昭和52年〉8月1日)は、日本の画家。日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられている。しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。富裕層の出身であるが極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、「二科展」に出品を続け「画壇の仙人」と呼ばれた。勲三等(辞退)、文化勲章(辞退)。 1880年(明治13年)4月2日、機械紡績を営む事業家で地主の父熊谷孫六郎と母タイの三男(7人兄弟の末っ子)として岐阜県恵那郡付知(現・中津川市付知町)に生まれた。子供時代から絵を好んだ。父親の孫六郎は学も財もない中から製糸業で成功し、岐阜県会議員となり、1885年(明治18年)には同議長を務め、人口不足のため市制が布されなかった岐阜の将来のため有力者に働きかけて市制実施運動を興し、近隣町村を合併して人口を増やし、私財を投じるなどして市制を実現し、1889年に初代岐阜市長に就任、1892年には衆議院議員に選出され、岐阜の名士となった人物。
池田 幸甚(いけだ こうじん、1880年(明治13年)4月 … 池田 幸甚(いけだ こうじん、1880年(明治13年)4月 - 1924年(大正13年)8月23日)は、台湾総督府官僚。位階および勲等は従四位、勲四等。 新潟県新潟市出身。1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、台湾総督府属となる。民政部総務局勤務、同内務局勤務、台湾総督府法院書記長・台湾総督府事務官、内務局法務課勤務、法務部民刑課・監獄課勤務、参事官、専売局事務官、庶務課長・脳務課長を歴任。1921年(大正10年)、専売課長に就任した。墓所は青山霊園。
宮崎 又治郎(みやざき またじろう、1880年(明治13年)… 宮崎 又治郎(みやざき またじろう、1880年(明治13年)4月 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 三重県出身。1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。大韓帝国郡主事、朝鮮総督府属、同試補、同事務官、江原道財務部長、釜山税関長などを歴任。1929年(昭和4年)、釜山府尹に就任した。
林 幸平(はやし こうへい、1880年(明治13年)4月 -… 林 幸平(はやし こうへい、1880年(明治13年)4月 - 1934年(昭和9年)10月26日)は、明治時代から昭和時代前期の実業家。三越の取締役を務めた。 群馬県桐生市で林伊太郎の次男として生まれる。12歳で、当時の越後屋呉服店(後の三越)に入社。室内装飾研究のため、イギリスやアメリカに留学した。帰国後、三越加工部主任兼営業部長として和洋折衷の室内装飾を手がけた。またパリの日本大使館の室内装飾なども手がけている。経理部長、参事を経て常務となり、二幸商会の監査役を兼任した。享年55歳。戒名は清徳院誉彰顕達道居士。墓所は多磨霊園13区1種5側。
綿貫 栄(榮、わたぬき さかえ、1880年〈明治13年〉4月… 綿貫 栄(榮、わたぬき さかえ、1880年〈明治13年〉4月 - 1965年〈昭和40年〉3月7日)は、日本の実業家、富山県東砺波郡井波町(現在の南砺市)長。勲五等瑞宝章。元衆議院議員の綿貫民輔の祖父。 1880年、富山県礪波郡井波町の井波八幡宮の神官の家に生まれる。地元井波小学校の代用教員や裁判所、富山県庁に勤める。30歳で富山県庁を退職し、砺波地方の鉄道事業に着手する。この後石川県に進出、事業を拡大し、新聞社や映画館などを経営した。 栄の長男が交通事故で死去したため、日本電力の社員であった南佐民を長女和子と結婚させ婿に迎えた。事業の傍ら、1931年から井波町長を務めた。 1947年、娘婿の佐民とともに公職追放となった。
山田 昌作(やまだ しょうさく、1880年3月29日 - 1… 山田 昌作(やまだ しょうさく、1880年3月29日 - 1963年2月25日)は、日本の経営者。北陸電力初代社長を務めた。 富山県出身。1914年に東京帝国大学法科を卒業し、同年に富山電気に入社。常務、専務を経て、1929年には社長に就任。1942年から1946年12月までに北陸配電社長を務め、1951年5月から1959年9月までに北陸電力社長を務めた。 1955年に藍綬褒章を受章。 1963年2月25日、腸ガンのために死去。82歳没。 北陸電力社長を務めた山田圭蔵の父
高見 之通(たかみ ゆきみち、1880年〈明治13年〉3月2… 高見 之通(たかみ ゆきみち、1880年〈明治13年〉3月27日 - 1962年〈昭和37年〉10月30日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(当選7回)。族籍は富山県士族。 富山県富山市生まれ。富山県士族・高見之貫の長男。1908年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。弁護士の業務に従事する。 富山県東岩瀬町長(1926年1月15日から同年11月27日まで)、富山県売薬同業組合長を務め、1917年の第13回衆議院議員総選挙で初当選した。はじめ立憲政友会に所属し、1920年の第14回衆議院議員総選挙では政友会公認で立候補し当選している。その後政友会を離党して政友本党の結党に参加し、1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補し当選している。
河野 喜蔵(こうの きぞう、1880年(明治13年)3月26… 河野 喜蔵(こうの きぞう、1880年(明治13年)3月26日 - 1942年(昭和17年)4月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 岩手県西閉伊郡宮守村(現在の遠野市)出身。第四高等学校を経て、1913年(大正2年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、翌年に弁護士試験に合格した。盛岡市に弁護士事務所を開業し、盛岡弁護士会副会長を務めた。1919年(大正8年)からは岩手県会議員に選出され、さらに同参事会員にも選出された。 1922年(大正11年)、衆議院補欠選挙で当選を果たした。
中村 京太郎(なかむら きょうたろう、1880年3月25日 … 中村 京太郎(なかむら きょうたろう、1880年3月25日 - 1964年12月24日)は、日本の週刊点字新聞『点字毎日』の初代編集長、日本初の普通科盲人教員。 1880年に静岡県浜名郡和地村(現・浜松市中央区)で生まれた。生来の弱視で、小学校に入ることもできなかった。13歳になって、東京盲唖学校の存在を知る。反対する両親を説得して、1894年に14歳で同校に入学する。卒業と同時に東京盲唖学校の普通科教員になったが、これは、視覚障害者が同校の普通科教員になったケースとしては第1号であった。台湾慈恵院盲部の主任教諭などを務めて、1922年に『点字毎日』の編集主任になり、同紙の刊行に尽くすとともに、視覚障害者のための数々の事業をも始めた。
伊東 祐弘(いとう すけひろ、1880年(明治13年)3月2… 伊東 祐弘(いとう すけひろ、1880年(明治13年)3月23日 - 1931年(昭和6年)12月19日)は、日本の政治家、華族。貴族院子爵議員。 東京府出身。子爵・伊東祐帰の長男として生まれる。父・祐帰の死去に伴い、1894年(明治27年)5月15日、家督を相続し子爵を襲爵した。1907年(明治40年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 父は飫肥藩(宮崎県)最後の藩主であったが、祐弘は父の旧領地ではなく伊東氏発祥の地である静岡県伊東市に進出。現地に別荘を建てたり、伊東水力電気の第二代会長に収まるなどの活動を見せた。祐弘の資産形成は手堅く成功を収め、1912年(大正元年)には東京府の多額納税者となっている。
森丘 正唯(もりおか まさただ、1880年〈明治13年〉3月… 森丘 正唯(もりおか まさただ、1880年〈明治13年〉3月23日 - 1967年〈昭和42年〉9月10日)は、日本の政治家・農村指導者。 富山県下新川郡大布施村(現・黒部市)に、地主の森丘彦の長男として生まれる。1900年(明治33年)7月30日、20歳で大布施村の村長となり、同年12月10日まで村長を務めた(1901年〔明治34年〕1月18日に阿原平左衛門に交代。1903年(明治36年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語政治科卒業。1906年(明治39年)10月24日に再び大布施村長に就任し、同村が桜井町発足により消滅するまで村長を勤め上げた。 1940年(昭和15年)、町村合併によって発足した桜井町の初代町長となり、同年3月14日の就任から1946年(昭和21年)4月22日まで町長を務めた。
小磯 國昭(こいそ くにあき、1880年〈明治13年〉3月2… 小磯 國昭(こいそ くにあき、1880年〈明治13年〉3月22日 - 1950年〈昭和25年〉11月3日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。山形県士族。山形県新庄市出身。 陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官を歴任後、予備役に編入された。その後平沼内閣と米内内閣で拓務大臣、朝鮮総督(第8代)を務め、太平洋戦争中にサイパン失陥を受け辞職した東條英機の後継として1944年(昭和19年)に内閣総理大臣に就任した(小磯内閣)。悪化の一途をたどる戦局を挽回できず、中華民国との単独和平交渉も頓挫し、1945年(昭和20年)4月に総理を辞任し鈴木貫太郎に後を譲った。
藍澤 彌八(あいざわ やはち、1880年(明治13年)3月2… 藍澤 彌八(あいざわ やはち、1880年(明治13年)3月22日 - 1969年(昭和44年)1月29日)は、日本の実業家。アイザワ証券グループ創業者。 新潟県生まれ。1905年(明治38年)日本法律学校(現在の日本大学)卒業。出版会社・金港堂などを経て、1908年(明治41年)に証券業の港屋商店代表者となる。 1933年(昭和8年)10月に藍澤商店(のちの藍澤證券)を設立。1940年(昭和15年)に株価対策の国策を担うため、日本証券投資を設立し社長に就任する。 1947年(昭和22年)7月に日本証券取引所の解散を受け、証券会社の出資で平和不動産を設立されると初代社長に就き、1957年から61年まで東京証券取引所理事長を務める。
石井 太吉(いしい たきち、1880年3月21日 - 196… 石井 太吉(いしい たきち、1880年3月21日 - 1966年2月16日)は、日本の発明家、実業家。旧姓は内田。 神奈川県横浜市出身。内田峰吉の長男として生まれる。その後、石井長吉の養子となる。 1900年(明治33年)に東京・月島に石井鐵工所を創業した。1902年に工手学校(現・工学院大学)を卒業。1908年に石井家の家督を相続した。 1919年(大正8年)に株式会社石井鐵工所を設立した。 起重機製造株式会社取締役、高岡瓦斯株式会社社長、東洋酸素(現・日本酸素ホールディングス)取締役、箱根水田取締役、月島衛生取締役、伊東瓦斯取締役などを務めた。 1936年に紺綬褒章、1944年に緑綬褒章、1958年に紫綬褒章を受章。
横山 一格(よこやま いちかく、1880年(明治13年)3月… 横山 一格(よこやま いちかく、1880年(明治13年)3月19日 - 1933年(昭和8年)1月23日)は、衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、医師。 三重県三重郡菰野村(現在の菰野町)出身。京都帝国大学医科大学を卒業後、同大学付属医院に勤務し、さらに大阪胃腸病院副院長となった。1908年(明治41年)、名古屋市に医院を開業し、愛知県医師会長にも選出された。 1921年(大正10年)に名古屋市会議員に選ばれ、さらに1924年(大正13年)には第15回衆議院議員総選挙に郷里の三重5区から出馬して当選した。その後も引き続き名古屋市会議員に当選し、1932年(昭和7年)の第18回衆議院議員総選挙では愛知1区から出馬し、再選を果たした。
桝井 光次郎(ますい みつじろう、1880年3月19日 - … 桝井 光次郎(ますい みつじろう、1880年3月19日 - 1950年12月1日)は、実業家、種苗業者。現在日本で栽培されるイチジク(無花果)の主品種「桝井ドーフィン」創始者。広島県佐伯郡宮内村(現・廿日市市)出身。 1887年、宮内村から初めてハワイへの海外移民が始まり、幼少のころから海外雄飛への夢をふくらませた光次郎は尋常小学校卒業後、家業の農業に従事していたが1902年、好きだったバラの苗木の育て方を習うため単身アメリカに渡る。カリフォルニアの農場で6年の間、果樹、花木類の繁殖、育成の最新技術を学ぶ。しかし肺病と誤診され1908年帰国し、桝井農場を設立。渡米の当初の目的だったバラ作りは日本では早過ぎて成功せず。
矢鍋 永三郎(やなべ えいざぶろう、1880年(明治13年)… 矢鍋 永三郎(やなべ えいざぶろう、1880年(明治13年)3月15日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。実業家。 岡山県出身。第一高等学校を経て、1907年(明治40年)に東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。統監府書記官となり、日韓併合後、財務部長、税関長として各地に勤務した。1917年(大正6年)より朝鮮総督府事務官、財務局関税局長、同理財課長、参事官、黄海道知事を歴任した。 1925年(大正14年)に退官した後は、朝鮮殖産銀行理事、漢城銀行取締役、朝鮮金融組合聯合会長、朝鮮土地改良株式会社監査役、中川鉱業株式会社社長、国民総力朝鮮聯盟理事、不二興業株式会社社長などを務めた。 戦後、公職追放となった。
川島 信太郎(かわしま のぶたろう、1880年(明治13年)… 川島 信太郎(かわしま のぶたろう、1880年(明治13年)3月14日 - 1957年(昭和32年)8月7日)は、日本の外交官。駐ギリシャ公使。 京都府出身。1907年(明治40年)に東京高等商業学校専攻部(現在の一橋大学)を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。諸井六郎領事や、阿部守太郎参事官の下で、日米通商航海条約(小村条約)の改正に向けた調査にあたったのち、1912年(大正元年)からアメリカ合衆国在勤。 領事官補、外交官補、大使館三等書記官、同二等書記官、外務事務官・書記官、同参事官を歴任。1924年(大正13年)、ハンブルク総領事に就任した。1927年(昭和2年)、駐ギリシャ公使に任命され、駐アルバニア公使も兼ねた。
秋月 種英(あきづき たねひで、1880年(明治13年)3月… 秋月 種英(あきづき たねひで、1880年(明治13年)3月9日 - 1961年(昭和36年)10月29日)は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧高鍋藩主家当主、子爵・秋月種樹の二男として生まれる。兄秋月種繁の死去に伴い家督を相続し、1890年(明治23年)10月2日、子爵を襲爵した。 第四高等学校を経て、1910年(明治43年)7月、京都帝国大学法科大学を卒業。同年、司法省に入省し司法属となる。以後、輸出水産取締役、明治漁業監査役、カルピス製造監査役などを務めた。 1914年(大正3年)7月11日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで5期在任した。
白勢 友彌(しろせ ともや、1880年〈明治13年〉3月9日… 白勢 友彌(しろせ ともや、1880年〈明治13年〉3月9日 - 1916年〈大正5年〉)は、日本の農民、大地主、新潟県多額納税者。族籍は新潟県平民。 新潟県北蒲原郡金塚村(現・新発田市金塚)出身。白勢長衛の弟。1911年(明治44年)、家督を相続した。1914年(大正3年)、早稲田大学推薦校友となる。農業を営み、大地主であった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
橋本 定五郎(はしもと さだごろう、1880年〈明治13年〉… 橋本 定五郎(はしもと さだごろう、1880年〈明治13年〉3月7日 - 1947年〈昭和22年〉12月13日)は、日本の医師(外科医)、政治家・第6代埼玉県川越市長、実業家。川越同仁社長。 青森県八戸市十三日町生まれ。長助の五男。東京帝国大学医科大学卒業。医師開業。1923年、川越市医師会長就任。1926年、川越産婆看護婦学校長就任。川越産院長就任。 1930年、埼玉県医学会頭就任。1933年、川越脳病院管理者就任。1935年、川越市長就任。1936年、武州瓦斯監査役就任。 宗教は浄土宗。趣味は書画、盆栽。住所は川越市大字小仙波。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
山岡 光太郎(やまおか みつたろう、1880年(明治13年)… 山岡 光太郎(やまおか みつたろう、1880年(明治13年)3月7日 - 1959年(昭和34年)9月23日)は、日本のイスラーム・ユダヤ研究家。日本人としては記録上初めてメッカ巡礼を果たし、昭和期の日本においてイスラームを紹介する著作を多く発表した。ムスリム名はオマル。 1904年、東京外国語学校ロシア語科を一期生として卒業。日露戦争には陸軍通訳官として従軍。戦後は大原武慶中佐隷下の昌図軍政署に勤務。 1909年、参謀本部の福島安正の命令でイスラーム世界の情報収集のためメッカ巡礼の旅へと出発する。離日していたアブデュルレシト・イブラヒムとボンベイで合流し、クルアーンの講義を受けた後に、同年12月にはメッカを巡礼した。
小杉 武司(こすぎ たけし、1880年(明治13年)3月6日… 小杉 武司(こすぎ たけし、1880年(明治13年)3月6日 - 1937年(昭和12年)8月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。実弟である櫻井忠記陸軍大佐の親戚に山本五十六元帥や山下源太郎海軍大将がいる。 山形県米沢市代官町出身。1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業し、翌年6月、歩兵少尉に任官。1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を卒業し、陸士に配属された。 1922年(大正11年)8月、歩兵大佐に昇進し、陸軍兵器本廠付となる。1923年(大正12年)8月、歩兵第25連隊長に就任。1924年(大正13年)12月、第1師団参謀長に転じた。 1928年(昭和3年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第19旅団長に就任。
佐竹 三吾(さたけ さんご、1880年(明治13年)3月5日… 佐竹 三吾(さたけ さんご、1880年(明治13年)3月5日 - 1976年(昭和51年)5月24日)は、明治末から昭和期の鉄道官僚、政治家、実業家。貴族院議員(勅選)、法制局長官。 岐阜県養老町出身。米穀商・佐竹柳三郎の三男として生まれ、佐竹鉄治郎の養子となる。岐阜中学、城北中学を経て第一高等学校に入学。1905年(明治38年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を優等で卒業し銀時計を授与された。卒業後農商務省嘱託となり、同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務属・商工局勤務、法制局参事官、満鉄理事を経て、1908年(明治41年)6月から1910年(明治43年)5月まで欧米に留学した。
桜井 賢三(櫻井賢三、さくらい けんぞう、1880年(明治1… 桜井 賢三(櫻井賢三、さくらい けんぞう、1880年(明治13年)3月5日 - 1950年(昭和25年)12月29日)は、日本の教育者。 岐阜県安八郡墨俣町(現在の大垣市)出身。1906年(明治39年)、東京高等師範学校英語科を卒業した後、1910年(明治43年)に京都帝国大学文学部哲学科を卒業した。福島県立相馬中学校校長、山口県室積師範学校校長、静岡県師範学校校長、東京府豊島師範学校校長、京都府立女子専門学校校長を歴任。1935年(昭和10年)、東京府立第一高等女学校校長に就任し、東京府立第十四高等女学校校長も兼ねた。 東京高師時代(明治35年、1902年)、日本で初めてサッカーのチームができた際の選手の一員として、1904年には初めての外国人チーム(横浜のYCAC)との試合を現在の横浜スタジアム(当時の横浜公園)でやったことでも知られる。
石黒 大次郎(いしぐろ だいじろう、1880年〈明治13年〉… 石黒 大次郎(いしぐろ だいじろう、1880年〈明治13年〉3月5日 - 1973年〈昭和48年〉12月30日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 新潟県刈羽郡、のちの中通村出身。1902年(明治35年)東京専門学校邦語行政科卒。農業を営み、刈羽郡会議員、新潟県議、同参事会員、刈羽郡農会長、新潟県農会長、百三十九銀行支配人、同取締役頭取、柏崎米穀取引所理事となる。 1924年(大正13年)第15回衆議院議員総選挙において新潟9区から憲政会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1973年死去。
牛場 清次郎(うしば せいじろう、1880年(明治13年)3… 牛場 清次郎(うしば せいじろう、1880年(明治13年)3月5日 - 1938年(昭和13年)11月21日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。ジャーナリスト。 三重県度会郡、のちの浜郷村(宇治山田市を経て現伊勢市)出身。牛場林造の二男として生まれた。1901年(明治34年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語政治科を卒業。『神戸又新日報』記者、『柏崎日報』主筆を経て、雑誌『実業倶楽部』を発刊・経営した。 三重県会議員を務めた後、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に三重県第2区から出馬し、当選を果たした。