武田 満作(たけだ まんさく、1907年(明治40年)9月1… 武田 満作(たけだ まんさく、1907年(明治40年)9月17日 - 1991年(平成3年)12月22日)は、日本の経営者、銀行家。日本勧業銀行頭取を務めた。愛知県海部郡弥富町(現・弥富市)出身。 1932年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、1933年に日本勧業銀行に入行。 全国金融統制会出向。東海、北陸地方商工局事務官を経て勧銀に復帰。調査課長、調査部次長、業務部次長、審査室審議役、調査部長、人事部長を歴任。 1957年11月に取締役に選任。常務、副頭取を経て、1966年12月には頭取に昇格した。 1969年2月、4月末からの全国銀行協会連合会長の激職を控え、持病の糖尿病を心配して、横田郁副頭取に頭取の座を譲り会長に退いた。
山内 広(廣、やまうち ひろし、1907年(明治40年)9月… 山内 広(廣、やまうち ひろし、1907年(明治40年)9月16日 - 1974年(昭和49年)5月21日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。 北海道室蘭郡室蘭町(室蘭区を経て現室蘭市)で生まれる。4歳の時に函館市に転居。1925年(大正14年)北海道庁立函館商業学校(現北海道函館商業高等学校)を卒業。 鉄道省に入省し函館駅貨物掛に就任。大山郁夫の演説に感銘を受け、1929年(昭和4年)濱口内閣の官吏減俸政策への職場の反対運動を主導した。太平洋戦争中に函館駅助役館俊三らと社会主義研究グループを結成し、戦後の労働運動解禁を受けて指導者となる。1946年(昭和21年)函館地方労働組合会議議長に就任。
平岡 萬寿彦(ひらおか ますひこ、明治40年(1907年)9… 平岡 萬寿彦(ひらおか ますひこ、明治40年(1907年)9月15日 - 昭和63年(1988年)11月14日)は、日本の実業家。 父は弁護士・政治家の平岡萬次郎。叔父は内務官僚の平岡定太郎。従兄は農商務官僚の平岡梓。平岡梓の長男は作家の三島由紀夫である。 明治40年(1907年)9月15日(日曜日)、平岡萬次郎の長男として生まれた。 昭和7年(1932年)慶大政治学科卒業。三和銀行に入り昭和25年(1950年)馬喰町支店長となり日比谷中之島サンフランシスコ各支店長紐育事務所長横浜支店長を経て、昭和34年(1959年)9月東洋信託銀行設立と同時に取締役営業部長。後に常務に就任。昭和63年(1988年)11月14日死去。
河野 一郎(こうの いちろう、1907年(明治40年)9月1… 河野 一郎(こうの いちろう、1907年(明治40年)9月15日 - 1993年(平成5年)8月29日)は日本の政治家。元東京都議会議長。位階は従四位。 1907年(明治40年)9月15日に東京で生まれる。1934年(昭和9年)に法政大学法学部を卒業する。 1947年(昭和22年)に世田谷区議会議員(2期)に当選し、1952年(昭和27年)に世田谷区議会議長に就任する。 1955年(昭和30年)に東京都議会議員(8期)に当選し、1977年(昭和52年)に東京都議会議長に就任する。 1993年(平成5年)8月29日、心不全により死去、85歳。死没日付をもって従四位に叙された。 1969年(昭和44年)に藍綬褒章を、1978年(昭和53年)に勲三等瑞宝章を受章する。
浅井 博(淺井博、あさい ひろし、1907年9月13日 - … 浅井 博(淺井博、あさい ひろし、1907年9月13日 - 2008年4月3日)は、日本の実業家。ヒガシマル醬油社長。 兵庫県揖保郡龍野町(のち龍野市、現・たつの市)生まれ。名古屋の旧制第八高等学校を経て、1931年、東京帝国大学経済学部を卒業する。卒業後は浅井醤油に入る。1942年、浅井醤油は合併で龍野醤油となり、取締役に就任する。その後、専務、副社長を経て、1963年、社長に就任する。翌年、龍野醤油をヒガシマル醬油に改称する。会長、名誉会長を経て、1998年、相談役となる。また、龍野市議会議員、同議長、龍野商工会議所会頭、龍野観光協会会長、日本醤油協会会長などを務めた。 2008年4月3日、心不全のため相生市内の病院で死去した。
羽島 進(はしま/はじま すすむ、1907年9月12日 - … 羽島 進(はしま/はじま すすむ、1907年9月12日 - 1990年2月28日)は、山形県出身の鉄道技術者。息子に国鉄車両設計事務所主任技師を務めた羽島継男。 羽島金三郎の次男として生まれ、第二高等学校を経て、1932年に京都帝国大学工学部機械学科を卒業後鉄道省に入省。 1941年に札幌鉄道管理局工作課長、1947年に大阪鉄道管理局高砂工機部部長、1950年に東京鉄道管理局車両長、1952年に浜松工場長、1956年に機器製作監督事務所長、1958年に大宮工場長、1959年11月総裁室を歴任。 1959年に国鉄を退職し12月に川崎電機製造に入社、製造取締役を経て1962年常務取締役、富士電機製造への合併後は常任顧問を務めた。
玉置 実(實、たまき みのる、1907年(明治40年)9月1… 玉置 実(實、たまき みのる、1907年(明治40年)9月12日 – 没年不詳)は、昭和期の商工官僚、実業家、弁護士、政治家。衆議院議員。 香川県小豆郡草壁村(草壁町、内海町草壁本町を経て現小豆島町)で生まれる。1931年(昭和6年)10月、高等試験行政科試験に合格。1932年(昭和7年)東京商科大学を卒業した。 横浜専門学校(現神奈川大学)教授、大倉高等商業学校(現東京経済大学)講師を務めた。三菱商事勤務を経て、1937年(昭和12年)企画院事務官に任官。同調査官を経て、1938年(昭和13年)商工事務官に転じた。以後、物価局事務官、近畿地方総監府副参事官、内務省調査局第一課長、商工省賠償実施局第一課長などを歴任。
星 光一(ほし こういち、1907年(明治40年)9月11日… 星 光一(ほし こういち、1907年(明治40年)9月11日 - 1991年(平成3年)4月13日)は、日本の工学者。切削工学を専門とした北海道大学教授、同名誉教授である。旭川工業高等専門学校校長、精密工学会名誉会員。「金属切削における構成刃先の研究」で東京大学工学博士。 福島県会津若松市出身。会津中学などを経て1933年(昭和8年)に北海道帝国大学を卒業。基隆炭鉱、栗本鉄工所、新潟鐵工所に勤務する。北大に精密工学科が設置された1958年(昭和33年)に教授となり、1972年(昭和47年)には名誉教授の称号を授与される。この間の1970年(昭和45年)に旭川工業高等専門学校校長に就任。1979年(昭和54年)の退官までに、同校では設備の充実が図られた。
逸見 猶吉(へんみ ゆうきち、1907年9月9日 - 194… 逸見 猶吉(へんみ ゆうきち、1907年9月9日 - 1946年5月17日)は日本の詩人、童話作家。本名は大野四郎。画家としては、士路と号する。新聞記者の和田日出吉は兄、その妻の木暮実千代は兄嫁にあたる。また、弟の大野五郎は画家。 詩は寡作。没後1966年に編まれた定本詩集には初期詩篇を含めて78作。『詩と詩論』、『文藝汎論』、『歴程』などの雑誌に寄稿する。『歴程』創刊時の同人の1人である。 1907年、茨城県猿島郡古河町(現・古河市)に生まれる。祖父と父は、ともに足尾銅山鉱毒事件対策の渡良瀬遊水地用地として強制廃村になった栃木県下都賀郡谷中村で村長を務めていた。1908年、東京府北豊島郡岩渕町(現・東京都北区)に移住[要出典]。
前田 勝(まえだ まさる、1907年9月9日 - 2003年… 前田 勝(まえだ まさる、1907年9月9日 - 2003年1月1日 )は、日本の経営者。紀陽銀行頭取を務めた。 和歌山県出身。1929年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に伊那合同銀行(のちの紀陽銀行)に入行した。1948年に取締役に就任し、1959年に常務、1961年に専務を経て、1974年に副頭取に就任し、1981年4月には頭取に昇格した。1985年6月から1987年6月までに会長を務めた。 1985年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 2003年1月1日、老衰のために死去。95歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
高田修(たかた おさむ、1907年9月8日 - 2006年1… 高田修(たかた おさむ、1907年9月8日 - 2006年10月27日)は、日本の仏教学者。東北大学名誉教授。インド哲学・仏教美術専攻。 三重県生まれ。1931年東京帝国大学文学部印度哲学科卒業。副手、52年東京国立文化財研究所に入る。60年「醍醐寺五重塔の壁画」(共同研究)で日本学士院賞恩賜賞受賞。61年「仏像の起源」で東京大学文学博士。62年文化財研究所美術部長、1969年東北大学文学部教授、71年定年退官、名誉教授、成城大学教授、78年退職。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
三宅 直胖(みやけ なおひろ、1907年(明治40年)9月7… 三宅 直胖(みやけ なおひろ、1907年(明治40年)9月7日 - 没年不詳)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・鍋島。 旧小城藩主の系統で子爵の主猟官・鍋島直庸の二男として生まれ、陸軍大佐(騎兵)で子爵の三宅忠強の養子となる。養父が実兄の鳥居忠一子爵夫妻と共に京王線に衝突した自動車事故で死去したことにより、1939年(昭和14年)2月15日、子爵を襲爵した。 1932年(昭和7年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業。1934年(昭和9年)富士写真フイルムに入社。その後、飛島組などで勤務した。 1946年(昭和21年)6月28日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した
松林 久吉(まつばやし ひさきち、1907年(明治40年)9… 松林 久吉(まつばやし ひさきち、1907年(明治40年)9月7日 - 1978年(昭和53年)7月11日)は、日本の医師、医学博士、寄生虫学者。 慶應義塾大学医学部長(第7代)、初代琉球大学保健学部長、防衛医科大学校初代校長等を歴任。従四位。 山口県萩市の旧家真鍋家に生まれ、少年時代に東京に出て、のちに同じ萩出身の高名な日本画家・松林桂月の家に入って松林と姓を改めている。
杉村 惇 (すぎむら じゅん、1907年9月7日 - 200… 杉村 惇 (すぎむら じゅん、1907年9月7日 - 2001年8月13日) は、東京都出身の日本の洋画家である。 東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科卒。岡田三郎助(帝国美術院会員・第1回文化勲章受章)に学ぶ。本郷洋画研究所に通い、在学中の1930年(昭和5年)に第11回帝展(帝国美術院展覧会)に初入選するなどのあと、1933年(昭和8年)に第1回東北美術展(現河北美術展)で最高賞の河北賞を受賞。その後、戦後の1946年(昭和21年) - 1964年(昭和39年)塩竈で暮らし、数多くの油彩画を描く。 兄は歌人の杉村顕道(宮城県芸術協会理事長・宮城県教育文化功労者・国見台病院理事長)、甥は杉村隆(国立がんセンター名誉総長・日本学士院長・東邦大学名誉学長・鶴岡市名誉市民・武蔵野市名誉市民)
内海 巌(うつみ いわお、1907年〈明治40年〉9月7日 … 内海 巌(うつみ いわお、1907年〈明治40年〉9月7日 - 1987年〈昭和62年〉8月22日)は、日本の教育学者(社会科)。教育学博士。広島大学名誉教授。比治山女子短大教授。広島市立中央図書館長。日本ユネスコ協会連盟副会長。 大阪市北区樋之上町に生まれる。父・内海岩五郎、母・ツネの長男。1920年、大阪府三島郡高槻町立高槻尋常小学校卒業。1925年、京都府立京都第一中学校卒業。 1930年、広島高等師範学校卒業。1942年、広島文理科大学哲学科卒業。1945年、広島高等師範学校教授。1951年、広島大学教育学部教授。 1953年、全日本社会科教育学会を創設し初代理事長を務めた。1956年、文部省初等中等教育局視学官となる。
立野 正一(たての しょういち、1907年(明治40年)9月… 立野 正一(たての しょういち、1907年(明治40年)9月7日 - 1995年(平成7年)6月6日)は、日本の社会主義者。京都市下京区の喫茶店「フランソア喫茶室」の創業者として知られる。 山口県伊佐村(現在の美祢市伊佐町)の楮(こうぞ)卸の商家に生まれる。1915年(大正4年)京都に移住。京都市立美術工芸学校(現在の京都市立銅駝美術工芸高等学校)に入学し、フランソワ・ミレー、フィンセント・ファン・ゴッホの絵画や、志賀直哉、武者小路実篤などの自然主義文学の影響を受ける。また同校在学中の1924年(大正13年)、同じ敷地内にある市立絵画専門学校で教育管理強化に反発する争議(絵専騒動)に出遭う。これが後に立野が社会主義活動に向かう伏線となった。
中村 盛太郎(なかむら もりたろう、1907年9月6日 - … 中村 盛太郎(なかむら もりたろう、1907年9月6日 - 没年不明)は、日本の経営者。山之内製薬社長、会長を務めた。 東京都出身。1928年に東京商科大学商学専門部を卒業し、同年4月に住友銀行に入行。1962年5月に山之内製薬に転じ、同年8月に常務に就任し、1968年8月に副社長を経て、1974年8月には社長に就任した。1977年3月に会長を経て、1980年3月には相談役に就任。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
田部 文一郎(たなべ ぶんいちろう、1907年(明治40年)… 田部 文一郎(たなべ ぶんいちろう、1907年(明治40年)9月5日 - 2002年(平成14年)2月7日)は、日本の実業家。三菱商事社長・会長、日本商工会議所副会頭。 広島県広島市出身。名前は文一郎だが男女9人兄弟姉妹の四番目。一郎・二郎・三郎の繰り返しで文一郎となった。実家は中級の燃料商で、当時から広島ガスや三菱商事などとも石炭で取引があった。両親はサラリーマンが嫌いで息子はみな商売人となるよう教育した。父親はさほど仕事に熱心でなく、よく仕事を休んでいたという。広島市立本川小学校6年の頃から集金をやらされたが子供の集金に取引先はお金を払わず。子供ながら絶対商売人にはなりたくないと強く願い、他の男兄弟はみな商業学校に行った中で一人だけ広島県立一中(現・広島国泰寺高校)へ進学した。
大邱山 高祥(たいきゅうざん たかよし、1907年9月5日 … 大邱山 高祥(たいきゅうざん たかよし、1907年9月5日 - 1983年6月14日)は、岡山県児島郡粒江村(現:岡山県玉野市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は臼井 悧(うすい さとし)。最高位は東関脇。 1907年9月5日に岡山県児島郡で陸軍御用商人の家に生まれる。角界で活躍している同郷の常ノ花寛市に憧れて、1924年秋に出羽海部屋へ入門、1925年1月場所で初土俵を踏んだ。四股名の「大邱山」は現在の大韓民国・大邱市に由来しており、このことから朝鮮半島出身のようにも見えるが、陸軍の御用商人であった父親の仕事の関係で一家で同地に居住していたことに因んだものである。初土俵からは順調に出世していき、1932年に勃発した春秋園事件による繰り上げ措置で十両へ昇進、同年5月場所には新入幕を果たした。
田村 純一(たむら じゅんいち、1907年〈明治40年〉9月… 田村 純一(たむら じゅんいち、1907年〈明治40年〉9月4日 - 2000年〈平成12年〉)は、日本の政治家、実業家。久米桜酒造会長。鳥取県公安委員会委員長。 鳥取県米子市糀町出身。父・田村源太郎、母・あさの長男。家業は肥料商、酒造業。米子中学校を経て1929年、神戸高商を卒業、同年に田村源太郎商店に入り、酒造肥料商に従事する。1939年に米子市会議員に当選、1943年に再選する。米子市翼賛壮年団長をつとめる。 企業整備により家業を転廃業、米子境商業統制組合、米子市総合配給所の各専務理事に就任する。1947年、公職追放を受け、同年に久米桜酒造を創立し社長に就任。1952年、米子市教育委員に当選する。
山嵜 義三郎 (やまさき よしさぶろう、1907年 <明治4… 山嵜 義三郎 (やまさき よしさぶろう、1907年 <明治40年> 9月3日 - 2007年 <平成19年> 6月28日)は、日本の社会政策学者。神戸大学名誉教授。 京都市生まれ。1925年京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校)卒業。1915年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。八木助市に師事し、ヘンリー・ジョージなどの土地制度論の研究を行った。 1932年神戸商業大学(現神戸大学)卒業。1936年同大学研究科修了。1937年大連高等商業学校教授。1948年神戸経済大学附属経営学専門部教授。1951年神戸大学経済学部助教授。1953年神戸大学経済学部教授。1962年経済学博士。1965年神戸大学経済学部長。
桔梗 利一(ききょう りいち、1907年〈明治40年〉9月2… 桔梗 利一(ききょう りいち、1907年〈明治40年〉9月2日 - 1975年〈昭和50年〉9月23日)は、文藝春秋社編集者(1929年〈昭和4年〉7月 - 1943年〈昭和18年〉9月、1953年〈昭和28年〉12月21日 - 1972年〈昭和47年〉9月2日)。
飯塚 朗(いいづか あきら、1907年9月2日 - 1989… 飯塚 朗(いいづか あきら、1907年9月2日 - 1989年2月23日)は、日本の中国文学者、作家。北海道大学名誉教授。 1907年、神奈川県横浜生まれ。第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部支那哲学文学科に進んだ。在学中、同人誌『東大派』を刊行し、中国文学研究会で竹内好、武田泰淳、松枝茂夫らを知る。1937年、高見順、武田麟太郎らの『日暦』同人となる。1936年、東京帝国大学を卒業。 1938年北京に渡り、中華民国新民会調査部に勤務。1943年からは華北映画公司に勤務。しかし、憲兵隊に逮捕され勾留されることとなり、帰国した。1944年に応召、中国戦線に出た。1945年の太平洋戦争敗戦後、蘇州で捕虜生活を送った。
小野 浩(おの ひろし、1907年9月1日 - 1997年)… 小野 浩(おの ひろし、1907年9月1日 - 1997年)は、日本の哲学研究者。 仙台第一中学校、第二高等学校、1933年東北帝国大学哲学科卒業、同副手、高橋里美に師事、1938年仙台陸軍幼年学校教授、1942年二高教授、戦後1947年公職追放、1953年明治大学講師、助教授、1959年教授、1974年定年退職、城西大学教授。1982年定年退職。同11月勲四等旭日小綬章叙勲。 ドイツ哲学・文学を専門とし、日本美術、文学も論じた。
塚本 素山(つかもと そざん、1907年(明治40年)9月1… 塚本 素山(つかもと そざん、1907年(明治40年)9月1日 - 1982年(昭和57年)4月4日)は、日本の陸軍軍人、実業家。千葉県出身。陸軍士官学校卒業(少候19期)。本名は、塚本清。最終階級は陸軍少佐。戦前からの日蓮正宗の法華講員で、戦後、政財界の顔役として活躍した。 1907年(明治40年)9月1日、千葉県に生まれる。本籍は佐倉市裏新町。 旧制千葉県立佐倉中学校を卒業後、佐倉歩兵第57連隊に入隊。1935年(昭和10年)4月時点で陸軍軍曹であり、陸軍士官学校予科の生徒隊第1中隊第1区隊(区隊長:近藤伝八中尉)助教として51期生の教育を担当。1939年(昭和14年)、陸軍士官学校(少尉候補者第19期)を卒業する。
石神 啓吾(いしがみ けいご、1907年(明治40年)8月3… 石神 啓吾(いしがみ けいご、1907年(明治40年)8月31日‐ 2001年(平成13年)8月21日) は、昭和期の政治家。衆議院議員(1期)、宮崎県東諸県郡高岡町長。 宮崎県東諸県郡高岡村(高岡町を経て現宮崎市)で、教育者・石神徳蔵の息子として生まれた。旧制宮崎県立都城中学校を経て、第七高等学校造士館で学んだ。 宮崎県会議員に選出され、同参事会員も務めた。 戦後、1946(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に宮崎県全県区から日本社会党所属で立候補して落選。1947(昭和22年)4月の第23回総選挙で旧宮崎県第2区から立候補して当選し、衆議院議員に1期在任した。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙に立候補したが落選した。
西 貞一(にし ていいち、1907年8月31日 - 2001… 西 貞一(にし ていいち、1907年8月31日 - 2001年2月3日)は、日本の陸上競技選手(短距離走)、実業家。同志社大学在学中の1932年、ロサンゼルスオリンピックに200m走と4×400mリレーで出場。日本陸上競技選手権大会の400m走で優勝3回。第二次世界大戦後に、陸上競技用具等のメーカーであるニシ・スポーツを創業した。 京都市生まれ。京都市立第二商業学校卒業後、同志社大学に進学。 同志社大学在学中、1929年(昭和4年)に日本陸上競技選手権大会の400m走で優勝(51秒4)。1931年(昭和6年)には日本陸上競技選手権大会400m走で2度目の優勝(50秒2)。 1932年ロサンゼルスオリンピックの日本代表に選ばれ、男子200メートル走と男子4×400mリレーに出場した。
若林 竹雄(わかばやし たけお、1907年8月29日 - 1… 若林 竹雄(わかばやし たけお、1907年8月29日 - 1937年8月7日)は、兵庫県出身のサッカー選手。ポジションはFW(ウイング)。1930年に日本代表初のハットトリック達成選手となった。
寺本 広作(てらもと こうさく、1907年〈明治40年〉8月… 寺本 広作(てらもと こうさく、1907年〈明治40年〉8月29日 - 1992年〈平成4年〉4月7日)は日本の政治家、官僚。熊本県知事(公選第4-6代)、参議院議員(2期)、労働事務次官。 熊本県宇土郡不知火町(現宇城市)出身。旧制熊本県立宇土中学校(現熊本県立宇土中学校・高等学校)、旧制第五高等学校を経て、1932年に東京帝国大学法学部を卒業し、内務省に入省。高知県属。内務大臣(兼任)東條英機の秘書官や、情報局の新聞課長などを務め、終戦後は1950年8月1日に労働事務次官に就任した。次官時代の1952年2月、女子及び年少者の人身売買に関する件で衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された。情報局時代に上司だった緒方竹虎との交流もあり、1953年に官僚を辞して改進党より参議院議員選挙に出馬、熊本県地方区で初当選。
吉川 静夫(よしかわ しずお、1907年〈明治40年〉8月2… 吉川 静夫(よしかわ しずお、1907年〈明治40年〉8月28日 - 1999年〈平成11年〉4月10日)は、日本の作詞家、詩人。 北海道札幌市生まれ、帯広市出身。北海中学(現:北海高等学校)、駒澤大学卒業。小学校の校長を経て、1936年(昭和11年)にキングレコードの「追分月夜」で作詞家デビュー。戦時中はヒット作に恵まれなかったが、戦後の1946年(昭和11年)に岡晴夫「青春のパラダイス」で復活。その後はビクター専属となり、津村謙「流れの旅路」、三浦洸一「落葉しぐれ」、三沢あけみ「島のブルース」、青江三奈「長崎ブルース」「池袋の夜」、森進一「女のためいき」、竹山逸郎「熱き泪を」などのヒット作を生んだ。
家永 英吉(いえなが えいきち、1907年 <明治40年> … 家永 英吉(いえなが えいきち、1907年 <明治40年> 8月28日 - 1978年 <昭和53年> 6月28日)は、日本の経営者。山陽特殊製鋼社長を務めた。 佐賀県出身。1935年に東京帝国大学文学部言語学科を卒業し、1942年4月に日本製鐵に入社。 1959年8月に富士製鐵に転じ、1968年5月に大鉄工業社長を経て、1970年12月から1973年7月までに山陽特殊製鋼社長を務めた。 1978年6月28日、気管支肺炎のために死去。70歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
堀 啓三(ほり けいぞう、明治40年(1907年)8月27日… 堀 啓三(ほり けいぞう、明治40年(1907年)8月27日 - 昭和59年(1984年))は日本の実業家。元小西六写真工業(現コニカミノルタ)取締役。 妻・幸代は岡田商店の元代表取締役会長岡田洲二の妹、岡田汽船の元社長岡田庄作の三女。 鳥取県境港市相生町出身。了吉の三男。 昭和7年(1932年)東大経済学部卒業。小西六入社、輸出、業務各課長、小田原工場長歴任。昭和22年(1947年)営業部長 昭和24年(1949年)取締役に選ばれ、販売部長、東京営業所長、業務部長の後販売本部長、日本色彩映画監査役。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
藤林 益三(ふじばやし えきぞう、1907年〈明治40年〉8… 藤林 益三(ふじばやし えきぞう、1907年〈明治40年〉8月26日 - 2007年〈平成19年〉4月24日)は、日本の弁護士(第一東京弁護士会所属)、裁判官。第7代最高裁判所長官。夫人は明治の文豪、巖谷小波の末娘。 企業法務の弁護士として活躍した後に最高裁判事となり、その後最高裁長官となる。現在に至るも、唯一の「弁護士出身の最高裁長官」であり、68歳9ヶ月での最高裁長官就任は歴代最高齢である。熱心な「無教会主義キリスト教」の信徒であり、毎週日曜に聖書研究会を続けていた。その信仰は、いわゆる「津地鎮祭訴訟」判決における、異例の「長官の反対意見・補足反対意見」(津市による地鎮祭主催は政教分離を定める憲法違反との立場。
田中 実(たなか みのる、1907年8月26日 - 1978… 田中 実(たなか みのる、1907年8月26日 - 1978年9月14日)は、日本の科学史家・理科教育学者。 愛知県出身。1930年東京帝国大学理学部化学科卒、1961年「近代原子観の成立に於て化学研究が果した役割の科学史的考察 :原子観史への一寄与」で東京教育大学・文学博士。1936年から1942年ドイツ染料合名会社技師、1943年野口研究所研究員を経て、1946年東京工業大学講師、助教授、1959年教授、1968年定年退官、名誉教授、和光大学人文学部教授を務めた。科学史研究の草分け的存在。
翁長 助静(おなが すけしず / じょせい、1907年(明治… 翁長 助静(おなが すけしず / じょせい、1907年(明治40年)8月25日 - 1983年(昭和58年)2月6日)は、日本の教育者。政治家。沖縄県真和志市(現・那覇市)長。 沖縄県真和志間切(のち島尻郡真和志村→真和志市、現・那覇市)に生まれる。沖縄県立沖縄第一中学校(現・沖縄県立首里高等学校)を経て、1926年、沖縄県師範学校本科第二部卒。 沖縄県内の小学校の訓導を経て、1944年、南風原青年学校校長となるが、太平洋戦争は激化する一方で、翁長は妻子を台湾に疎開させた。翌年、米軍上陸による沖縄戦に遭遇し、実父が目の前で被弾し、死亡した。 戦後は小学校校長に復帰し、1948年、真和志村長に当選、1950年に再選したが、選挙の結果更正により、対立候補が当選者となり、村長を失職した。
雨宮 綾夫(あめみや あやお、1907年8月25日 - 19… 雨宮 綾夫(あめみや あやお、1907年8月25日 - 1977年6月9日)は日本の物理学者。東京大学教授。
谷口 武雄(やぐち たけお、1907年(明治40年)8月25… 谷口 武雄(やぐち たけお、1907年(明治40年)8月25日 - 1988年(昭和63年)10月24日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 茨城県真壁郡河間村(下館市を経て現筑西市)で、谷口健吉の三男として生まれた。1934年(昭和9年)中央大学法学部を卒業した。 1938年(昭和13年)8月、昭和機械工業社長に就任。その他、帝都高速度交通営団参与、昭和鉄工顧問、谷口ビルヂィング社長などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で茨城県全県区に日本協同党公認で出馬して落選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で茨城県第3区に国民協同党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
広岡 知男(旧字体:廣岡 知男、ひろおか ともお、1907年… 広岡 知男(旧字体:廣岡 知男、ひろおか ともお、1907年8月24日 - 2002年1月5日)は、日本のアマチュア野球選手、新聞社経営者。朝日新聞社社長、日本学生野球協会会長、全日本アマチュア野球連盟会長。
笹岡 了一(ささおか りょういち、1907年8月23日 - … 笹岡 了一(ささおか りょういち、1907年8月23日 - 1987年6月8日)は、日本の洋画家。本名は秋元 了一(あきもと りょういち)で、結婚後も旧姓で活動していた。妻は画家・詩人の秋元松子、長女(養女)は画家の秋元由美子。
山崎 文男(やまさき ふみお、1907年8月23日 ‐ 19… 山崎 文男(やまさき ふみお、1907年8月23日 ‐ 1981年11月17日)は、日本の原子核物理学者。昭和期の放射線測定の第一人者。日本アイソトープ協会の創設者。理化学研究所において研究に勤めた。 総理府放射線審議会委員、原子力委員会専門委員、原子力安全委員会専門委員、放射線安全技術センター理事長などを歴任した。 1907年(明治40年)8月23日、地理学者の父山崎直方、童話作家の母水田光子の二男として東京に生まれる。 1931年(昭和6年)、東京帝国大学理学部物理学科を卒業する。北海道大学理学部の中谷教室に勤務。 1935年(昭和10年)、理化学研究所で放射線研究を行った仁科研究室に研究生として入室。
山田 肇(やまだ はじめ、1907年8月23日 - 1993… 山田 肇(やまだ はじめ、1907年8月23日 - 1993年8月17日)は、日本の演劇学者、舞台演出家。明治大学名誉教授。 スタニスラフスキーの翻訳で知られ、岸田国士戯曲賞選考委員を発足時から務めた。 東京府東京市牛込区(現:東京都新宿区)に医師の長男として生まれる。1929年に第一高等学校を卒業して、東京帝国大学に進み、1932年に東京帝国大学文学部美学科を卒業した。 大学在学中から心座に関わり、新興劇団協議会書記局員、鏑木清方の長女と結婚、杉山誠と親交を結んだ。1938年から明治大学で西洋演劇を教え、1945年に文芸科兼任教授に就任する。 1946年に新演劇人協会事務局長となる。1947年に木下順二らの「ぶどうの会」に参加。
落合 義雄(おちあい よしお、1907年〈明治40年〉8月2… 落合 義雄(おちあい よしお、1907年〈明治40年〉8月23日 - 1992年〈平成4年〉8月20日)は、日本の俳優、劇作家、演出家。本名同じ 群馬県高崎市出身。1920年(大正9年)高崎中央尋常高等小学校を卒業後、横浜興信銀行高崎支店に勤務。 1923年(大正12年)/1924年(大正13年)、高崎市郷土芸術社の結成に参加。1932年(昭和7年)、児童演劇運動を開始。1946年(昭和21年)、群馬演劇文化集団を結成。同年、劇団ポポロ座を設立。 1956年(昭和31年)、松竹大船撮影所入社。研究グループ、船の会を設立し、永井秀明、里見孝二とともに幹事役を務める。 映画の制作本数の減少を受けてテレビへの進出を考え、『ここに泉あり』で共演した椎原邦彦の紹介で彼が所属しているグループ・てえぶらにテレビ関係のマネジメントを委託。
川本 忠雄(かわもと ただお、1907年〈明治40年〉8月2… 川本 忠雄(かわもと ただお、1907年〈明治40年〉8月22日 - 没年不明)は、日本の実業家。フジ運動具店社長。華道衡山流三世家元。 奈良県大和郡山市出身。1927年、郡山中学校を卒業する。1932年、立教大学経済学部を卒業する。1937年、応召。1943年、除隊後日本国際航空工業に入社する。1946年、退職する。 1947年、ノダ運動具店に勤務する。1948年、有限に改組、取締役に就任する。1962年、フジ運動具店を設立、社長に就任する。行政相談委員、大和郡山市監査委員を兼任する。郡山信用金庫監事をつとめる。 江戸時代栄えた遊廓の跡、洞泉寺町に木造三階の川本忠雄宅がある。「旧川本家住宅」は2014年10月7日に国の登録有形文化財に登録され、2018年1月10日に「町家物語館」として生まれ変わり、一般公開が開始される。
長尾 雅人(ながお がじん、1907年8月22日 - 200… 長尾 雅人(ながお がじん、1907年8月22日 - 2005年3月13日)は、日本の仏教学者・チベット学者。京都大学名誉教授。日本学士院会員。仏典に対する文献学的な研究を推し進め、また、チベット学の樹立に対しても貢献した。 1907年、宮城県仙台市生まれ。父雲龍は広島の寺院住職であった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
吉村 信吉(よしむら しんきち、1907年(明治40年)8月… 吉村 信吉(よしむら しんきち、1907年(明治40年)8月21日 - 1947年(昭和22年)1月21日)は、日本の湖沼学者。 1907年8月21日、吉村信二、千代の子として東京市牛込区(現・新宿区)に生まれる。東京府立第五中学校(現・東京都立小石川高等学校)、浦和高等学校、東京帝国大学理学部地理学科卒業。中学時代に五中の同窓会誌に千葉県東金の雄蛇ヶ池における湖沼観測の結果を発表している。卒業論文は「鳥取県多鯰ケ池の湖沼学的研究」であった。1937年、東京帝国大学にて学位を受け、学位論文は「日本の湖沼の溶解性酸素」であった。東京文理科大学講師、東北帝国大学講師、九州帝国大学講師、陸軍予科士官学校教官、資源科学研究所員を務めた後、1945年3月に中央気象台(現・気象庁)海洋課陸水掛長となる。
水野 高明(みずの たかあき、1907年 <明治40年> 8… 水野 高明(みずの たかあき、1907年 <明治40年> 8月21日 - 1996年 <平成8年> 2月12日)は、日本の土木工学者。九州大学総長や、日本コンクリート工学協会会長を務めた。位階は正三位。 福岡県出身。1930年九州帝国大学工学部土木工学科卒業。1935年内務省技師。1938年九州帝国大学助教授。1943年九州帝国大学教授。1948年九州大学工学博士。1967年九州大学総長。1969年九州大学名誉教授。1978年から1993年まで攻玉社工科短期大学学長。1984年日本コンクリート工学協会会長。間組顧問なども務めた。昭和52年度土木学会功績賞受賞。1981年、勲二等旭日重光章を受章。
太田 利雄(おおた としお、1907年(明治40年)8月21… 太田 利雄(おおた としお、1907年(明治40年)8月21日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。陸軍司政官。 愛知県名古屋市に生まれる。名古屋商業学校、東京外国語学校専修科英語科に入学する。その後、同校を退学し中央大学専門部法律科に入学し、1937年(昭和12年)3月、卒業した。同年10月、高等試験行政科に合格し、1938年(昭和13年)4月、台湾総督府文教局社会課に奉職した。1939年(昭和14年)5月、台南州北門郡守に就任し、台南州警務部警務課長同社会教育官、文教局勤務などを経て、1942年(昭和17年)8月、陸軍司政官に任じた。
坂口 精(さかぐち せい、1907年〈明治40年〉8月21日… 坂口 精(さかぐち せい、1907年〈明治40年〉8月21日 - 1989年〈平成元年〉3月14日)は、三井物産の技術顧問、日本専売公社理事・生産部長。旧姓・岩田。 島根県・岩田助太郎の五男。鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)、坂口惣五郎の養子となる。1928年、鳥取高農を卒業。専売局秦野たばこ試験場に勤務する。 1933年に退職、北海道帝国大学農学部農業生物学科に入学する。1936年に北海道帝国大学農学部農業生物学科を卒業する。専売局に入り本局、鹿児島、水戸各局、たばこ試験場、高松、東京、宇都宮各地方局等を経て1949年に専売公社本社生産課長に就任する。 技術課長より1958年に郡山地方局長に転じ、1959年に理事本社生産部長となり1962年に退任、三井物産技術顧問に就く。
吉村 静枝(よしむら しずえ、1907年〈明治40年〉8月2… 吉村 静枝(よしむら しずえ、1907年〈明治40年〉8月21日 - 1996年〈平成8年〉10月10日)は、日本の福祉事業家。香川県で唯一の乳児院である「豊島神愛館」の創立者。香川県綾歌郡坂出町(現在の坂出市)の坂出育愛館や香川県小豆郡土庄町の豊島神愛館で、40年以上にわたり主として児童福祉分野の事業に挺身し、豊島神愛館では700名以上の戦災孤児をはじめとした子供たちを養育した。別表記は吉村シヅヱ、吉村シヅエ。 坂出町(現在の香川県坂出市横津町)で誕生した。大阪炭屋町産婦会に学び、1921年(大正10年)に香川県丸亀市で看護婦となった。この頃にキリスト教に入信した。1935年(昭和10年)に大阪府乳幼児保護協会保健婦の経緯を経て保育を学び、1938年(昭和13年)には大阪府立社会衛生学院専攻科を卒業した。
安藤 貞重(あんどう さだしげ、1907年〈明治40年〉8月… 安藤 貞重(あんどう さだしげ、1907年〈明治40年〉8月19日 - 1997年〈平成9年〉1月20日)は、日本の神職。安積国造神社第62代宮司。 1907年(明治40年)8月19日、福島県に生まれる。父は安藤國重、母トシは福島稲荷神社社家の丹治家出身。 旧制安積中学校(のちの福島県立安積高等学校)出身。1930年(昭和5年)12月までに文部省から歴史科の教員免許状を取得した。1931年(昭和6年)、國學院大學国史学科卒業。同年、累代社家を務めている実家の安積国造神社の社掌に就任。 1933年(昭和8年)、福島稲荷神社社司の丹治経也が帰幽すると、その子経幸がまだ幼かったため代わりに同社社司に就任。