南部 利淳(なんぶ としあつ、明治17年(1884年)6月2… 南部 利淳(なんぶ としあつ、明治17年(1884年)6月25日 - 昭和5年(1930年)1月1日)は、戦前日本の華族。南部家第43代当主で、最後の盛岡藩主南部利恭の次男、先代当主南部利祥の弟。爵位は伯爵。 明治38年(1905年)、日露戦争で戦死した兄利祥の跡を継ぎ、南部家第43代当主となる。東京帝国大学在学中の明治40年(1907年)に旧鳥取藩主池田輝知侯爵の三女嚴子と結婚し、一男一女をもうける。 利淳夫妻は芸術に造詣が深く、利淳は彫刻や書道、嚴子は日本画や竹細工などをたしなんだ。また、夫婦で黒田清輝、五味清吉、石川寅治などの画家から洋画を習っている。大正3年(1914年)には盛岡に「南部鋳金研究所」を設置し、東京美術学校鋳金科出身の松橋宗明を所長として迎えるなど、南部鉄器の改良発展に貢献した。
井野 英一(いの えいいち、1884年(明治17年)6月24… 井野 英一(いの えいいち、1884年(明治17年)6月24日 – 1944年(昭和19年)1月3日)は、日本の裁判官、満州国最高法院院長・満州国参議府参議。井野碩哉の兄。 東京府豊多摩郡代々幡町(現在の東京都渋谷区)出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法官試補として東京地方裁判所に勤務した。1911年(明治44年)に東京地方裁判所判事となり、翌年よりヨーロッパに留学した。帰国後は東京区裁判所検事、同判事、東京地方裁判所部長、大審院判事を歴任した。 1935年(昭和10年)に退官した後は満州国に招かれて、審判官、最高法院次長、特任審判官、最高法院院長を歴任した。
笠井 新也(かさい しんや、1884年(明治17年)6月22… 笠井 新也(かさい しんや、1884年(明治17年)6月22日 - 1956年(昭和31年)1月10日)は、日本の教育家・古代史家・郷土史家・考古学者。号は無何有郷人、神也。内藤湖南・高橋健自に続いて邪馬台国大和説を提唱し、他に倭迹迹日百襲姫命を卑弥呼とする説や、箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説を提唱した。叙正六位、勲六等瑞宝章受章。 1884年6月22日、徳島県美馬郡脇町に笠井量平・アイ夫妻の長男として生まれる。 脇町尋常小学校、脇町高等小学校、徳島県立脇町中学校を経て、1902年9月に國學院大學に入学する。1905年に特待生に選ばれ、1906年7月、國學院大學高等師範部国語漢文歴史科を首席で卒業する。
大島 正満 (おおしま まさみつ、1884年6月21日 - … 大島 正満 (おおしま まさみつ、1884年6月21日 - 1965年6月26日) は 日本の生物学者 (動物学)。理学博士、農学博士。 シロアリの研究を行ったが、台湾勤務時代にスタンフォード大学に留学し、D.S.ジョーダンのもとで魚類研究を行った。特にサケ科の淡水魚類を中心に動物学の研究を行い、「サラマオマス」(サクラマスの亜種、現在はタイワンマスと呼ぶ) を命名した。2001年より台湾の2000元札にタイワンマスが印刷されている。台湾では、20数種類の淡水魚の新種を命名し、台湾淡水魚の父と呼ばれている。 妻・今子との間に8男2女に恵まれ、長男の大島正隆(1909年3月5日-1944年1月12日)は歴史学者として将来を嘱望されたが、1944年に34歳の若さで病死している。
大妻 コタカ(おおつま こたか、1884年〈明治17年〉6月… 大妻 コタカ(おおつま こたか、1884年〈明治17年〉6月21日 - 1970年〈昭和45年〉1月3日)は、日本の教育者。大妻学院創立者。広島県世羅郡甲山町(現在の世羅町)出身。旧姓は熊田。世羅町名誉町民。その功績から日本における女子教育の草分けとも言われている。 名前の由来は、6月の農繁期に6人兄弟の末っ子として生まれた女児であったため、「忙しい時に『困った子』」が訛ったものである。しかも農繁期であったため、出生届の提出が遅れ、入籍されたのは11月20日となった。生前「私には年に2回の誕生日がある」と話していた。現在、この11月20日が大妻学院の学校記念日とされている。3歳で父を、14歳で母を亡くす。
伊地知 純正(いじち すみまさ、1884年〈明治17年〉6月… 伊地知 純正(いじち すみまさ、1884年〈明治17年〉6月17日 - 1964年〈昭和39年〉8月11日)は、日本の英語学者、早稲田大学商学部教授・理事・名誉教授、日本商業英語学会理事。ペンネーム(略号)はE.D.T.。 1884年(明治17年)6月17日、宮崎県西諸県郡加久藤村(現在の宮崎県えびの市)にて、伊地知章平・たつ夫妻の間に生まれる。宮崎県立宮崎中学校3年の時、英文によって自分の意見を発表することを決意する。 1902年(明治35年)7月にあった旧制高等学校の入学試験を病気のために諦め、1903年(明治36年)9月の早稲田大学の編入試験を受けて早稲田大学商科高等予科に入学する。1904年(明治37年)、早稲田大学大学部商科に第一回生として入る。
荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい、1884年(明治17年… 荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい、1884年(明治17年)6月16日 - 1976年(昭和51年)5月20日)は、日本の自由律俳句の俳人、俳論家。位階は従四位。 「層雲」を主宰、尾崎放哉や種田山頭火らを育てた。本名・幾太郎のち藤吉。日本芸術院会員。 東大言語学科卒。河東碧梧桐の新傾向運動に親しみ、機関誌「層雲」を発刊、季題無用論を説き、自由律を主張した。また俳句は宗教的芸術であるとして「道」の句を説いた。句集に『原泉』(1960年)、作家研究に『芭蕉と一茶』(1925年)など。 東京市芝区神明町(現:東京都港区浜松町)で雑貨商・「新田屋」の次男として生まれる。荻原家は越後国高田(現:新潟県上越市)出身で祖父・藤吉が家庭の事情で若いとき家を出奔して江戸に出てきたという。
古河 力作(ふるかわ りきさく、1884年6月14日 - 1… 古河 力作(ふるかわ りきさく、1884年6月14日 - 1911年1月24日)は、明治時代の無政府主義者。幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人。冤罪として名誉回復の運動がある。
バチェラー 八重子(バチェラー やえこ、1884年〈明治17… バチェラー 八重子(バチェラー やえこ、1884年〈明治17年〉6月13日 - 1962年〈昭和37年〉4月29日)は、アイヌの歌人・キリスト教伝道者。「バチラー八重子」とも表記される。 1884年(明治17年)6月13日、北海道伊達町有珠に戸籍名は「向井八重子」、幼名は「フチ」として生まれる。父は、アイヌ豪族の向井富蔵で、アイヌ名はモコッチャロであった。母は、フッチセであった。なお、弟に向井山雄がいる。父の向井富蔵は、イギリス人の聖公会宣教師のジョン・バチェラーを信頼し、娘の八重子の受洗を承認するまでになる。八重子が11歳の時、父の富蔵が亡くなる。13歳の時、ジョン・バチェラーを頼り、札幌に出て、バチェラーが運営する「アイヌ・ガールズ・スクール」に通う。
牛山 充(うしやま みつる、1884年6月12日 - 196… 牛山 充(うしやま みつる、1884年6月12日 - 1963年11月9日)は、日本の音楽学者、舞踊・浮世絵評論家、翻訳家。旧姓は百瀬。 長野県諏訪郡四賀村(諏訪市四賀)生まれ。高島小学校卒業後、1913年東京音楽学校甲種師範科卒。高野辰之、田村寛貞に師事し、在学中、学友会誌「音楽」の主筆・編集長を務めた。1912年には学友会主宰の「土曜演奏会」を始めた。また東京外国語学校や正則英語学校に通い、英語を習得し、海外音楽理論の翻訳に着手した。東京音楽学校講師を経て、教授。1922年から「東京朝日新聞」の音楽・舞踊欄を担当した。 1934年8月から「月刊楽譜」主筆を務めた。1938年4月に行われた第6回日本音楽コンクールではバイオリン部門の審査員を務める。
宮地 嘉六(みやち(みやじ) かろく、1884年(明治17年… 宮地 嘉六(みやち(みやじ) かろく、1884年(明治17年)6月11日 - 1958年(昭和33年)4月10日)は佐賀県出身の小説家。戦前は無産派文学の旗手として知られた。 佐賀市生まれ。貧困のため小学校を中退して仕立て屋の丁稚となるが、1896年に佐世保へ移り、12歳で海軍造船廠(佐世保海軍工廠)の見習工となる。このとき尾崎紅葉や徳冨蘆花を読んで文学に目覚めた。その後16歳から31歳までは兵役を挟み旋盤工から旋盤師として約10年間を呉海軍工廠で、その他神戸、長崎、東京の工場を転々とした。労働争議が続いた呉海軍工廠時代にはストライキの首謀者として広島監獄に拘禁もされた。代表作『煤煙の匂ひ』(『中外』1918年7月)、『或る職工の手記』(『改造』1919年9月)などはこの時代の経験を母胎としたもの。
田中館 秀三(たなかだて ひでぞう、1884年(明治17年)… 田中館 秀三(たなかだて ひでぞう、1884年(明治17年)6月11日 - 1951年(昭和26年)1月29日)は、日本の地質学者・火山学者。理学博士。 岩手県二戸市出身。出生名は下斗米秀三。東京帝大を卒業した後に、血縁上は従兄(4親等)である田中舘愛橘(秀三は、愛橘の父稲蔵の弟である下斗米与八郎の三男)の婿養子となって田中館秀三を名乗り、愛橘の一人娘である美稲(血縁上は従姪〈5親等〉)を娶った。 第三高等学校(京都)を経て、1908年(明治41年)、東京帝国大学理科大学(現:東京大学大学院理学系研究科・理学部)地質学科を首席で卒業し、恩賜の銀時計を拝受した。翌年の1909年(明治42年)9月、満25歳の若さで、東北帝国大学農科大学水産学科(現:北海道大学大学院水産科学研究院・大学院水産科学院・水産学部)教授 兼 東北帝国大学農科大学(現: 東北大学大学院農学研究科・農学部)助教授に任じられ、高等官7等に叙された。
水久保 甚作(みずくぼ じんさく、1884年(明治17年)6… 水久保 甚作(みずくぼ じんさく、1884年(明治17年)6月11日 - 1973年(昭和48年)3月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 宮崎県北諸県郡五十市村(現・都城市)出身。水久保源助の長男。明治大学法学部卒業。1907年裁判所書記登用試験を通り同職を経て岩川郡、都城税務署庶務課長となる。税務代理士を始め1907年、都城市会議員となり、同市農会総代、同所得調査委員、1928年に衆議院議員に当選(立憲政友会、当選2回)。1947年、第1回参議院議員通常選挙で当選して参議院議員(全国区、3年議員)になり、参院郵政委員長となった。また、都城市農会総代、都市計画委員、都城新聞社副社長なども務めた。
中瀬 拙夫(なかせ せつお、1884年(明治17年)6月10… 中瀬 拙夫(なかせ せつお、1884年(明治17年)6月10日 – 1969年(昭和44年)3月19日)は、衆議院議員。台湾総督府官僚。 長崎県出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格。台湾総督府属、同事務官、林務課長心得、庶務課長、糖務課長、商工課長、特産課長を歴任し、台中陳列館館長、茶検査所所長、台湾茶共同販売所理事長を兼ねた。その後、専売局長、台北州知事、殖産局長を務めた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し、当選を果たした。戦後、公職追放となり、1951年(昭和26年)追放解除となった。 アルコール輸送株式会社取締役、日本糖業連合会常務理事、全国産業団体連合会理事、食用糖蜜需給調整協議会会長、東亜経済懇談会参与を務め、さらに日研化工株式会社会長、第一醸造株式会社会長、知床鉱業株式会社社長となった。
寺田 利吉(てらだ りきち、前名・信三、1884年〈明治17… 寺田 利吉(てらだ りきち、前名・信三、1884年〈明治17年〉6月8日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。岸和田名誉職市長。寺田銀行頭取。大阪紡績、寺田紡績工廠各社長。 大阪府・先代利吉の長男。1901年、大阪府立第二中学校を卒業する。1903年、岸和田紡績に入社する。1918年、家督を相続し信三を改め襲名する。 公共慈善に対しては深甚な理解を持ち、常に私財を投じる。趣味は書画、茶道。住所は大阪府岸和田市岸城町、同市堺町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
渡辺 伍(わたなべ あつむ、1884年(明治17年)6月5日… 渡辺 伍(わたなべ あつむ、1884年(明治17年)6月5日 - 1960年(昭和35年)7月25日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会、昭和会)。呉市長。弁護士。 広島県呉市出身。渡辺秀四郎の長男として生まれる。1916年(大正5年)7月、京都帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業し、弁護士を開業した。呉市会議員、同参事会員、広島県会議員、同参事会員に選出された。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙で再選され、また呉市長にも選出された。 その後、上海居留民団助役を務めた。
厚東 常吉(ことう/こうとう つねきち、1884年(明治17… 厚東 常吉(ことう/こうとう つねきち、1884年(明治17年)6月4日 - 1968年(昭和43年)9月12日)は、大正から昭和時代の政治家。実業家。衆議院議員。山口県会議長。旧姓は竹中。号は沐雨、暴雷。 竹中乕吉の三男として、山口県熊毛郡八代村(熊毛町を経て現周南市)に生まれる。幼くして阿武郡椿東村船津(現萩市椿東船津)の叔父厚東武勝の養子となる。萩中学校中退。 椿東村会議員、萩町会議員、阿武郡会議員、1939年(昭和14年)9月、山口県会議員、同参事会員、1941年(昭和16年)11月、同議長を歴任した。 ほか、財界では萩実業会会長、萩商工会、山口県商工経済会、同国民健康保険組合連合会各顧問、同司法保護委員会参与、萩竹材、萩土地建物、長門峡自動車、萩グランド、萩興業建物各取締役社長、常茂恵ホテル社長を務めた。
羽志 主水(はし もんど、1884年〈明治17年〉6月3日 … 羽志 主水(はし もんど、1884年〈明治17年〉6月3日 - 1957年〈昭和32年〉2月26日)は、日本の小説家、外科医。 本名は松橋 紋三(まつはし もんぞう)で、「羽志主水」の名は本名から「松」を除いた「橋紋三」をもじった筆名である。 小説家としての活動期間は短いが、雑誌「新青年」に掲載した、戦前の北海道の過酷な労働環境を題材とした作品『監獄部屋』で、高い評価を得た。 長野県長野町(後の長野市)出身。旧制第四高等学校(後の金沢大学)を経て、東京帝国大学(後の東京大学)医学部へ進学し、1908年(明治45年)に卒業した。医師として山形の済生病院を経て、妻の父が東京の日本橋に土地を持っていた縁で、1916年(大正4年)か1917年(大正6年)頃に、日本橋本石町で開業した。
米村 嘉一郎(よねむら かいちろう、1884年(明治17年)… 米村 嘉一郎(よねむら かいちろう、1884年(明治17年)6月1日 - 1976年(昭和51年)10月26日)は、日本で最初の無線通信士。関東大震災の際、被害状況を速やかに無線通信により海外に発信し、国際的な救援活動が行われるきっかけを作った。 石川県金沢市野町で生まれた。父 又二郎(旧姓佐々木)は富山県東砺波郡野原の出身で、祖父の越中屋又次郎は金沢で米穀商を営んでいたが、養子である又二郎の時、金沢市野町1丁目6番地に移り筆墨商をわずかに営んでいた。店は今の犀川大橋のたもとにあり、近くに住んでいた室生犀星とも一緒に遊んでいたという。子供の頃から優秀で字も上手だったので金沢野田山にあった米村家墓石の字は子供の嘉一郎が書き上げたという事で残っていた。
瀬田 吉之助(せた きちのすけ、1884年〈明治17年〉6月… 瀬田 吉之助(せた きちのすけ、1884年〈明治17年〉6月1日 - 1937年〈昭和12年〉11月14日)は、日本の実業家、政治家、資産家、地主。瀬田不動産合資会社代表社員。鍋屋合資会社代表社員。板橋町大山出身。 東京市板橋区板橋町九丁目、瀬田吉兵衛の息子。東大林学科卒業。農業を営む。1915年に板橋町会議員に当選、以来1919年に至る1期間板橋町政に参画し、町利民福の為に大いに尽瘁したが、1919年に至って考える所があり政界を断念し、土地管理等の家業に努力する。 傍ら事業界に進出し、東洋計器会社、斎藤レンズ製作所、浦和商業銀行等に投資する。1926年、成子内親王に神代雛(上田直次作木彫)一対を献上する。
加藤 久米四郎(かとう くめしろう、1884年(明治17年)… 加藤 久米四郎(かとう くめしろう、1884年(明治17年)6月1日 - 1939年(昭和14年)1月7日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲政友会)。 三重県桑名郡大山田村(現在の桑名市)出身。加藤久米治の四男。1907年(明治40年)、日本大学を卒業。卒業後、日本大学の幹事として経営に参加した。 水野錬太郎の知遇を得、寺内内閣で水野が内務大臣に就いたとき、大臣秘書官を務めた。1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に政友会から出馬し、当選。議員就任後も加藤友三郎内閣と清浦内閣で内務大臣になった水野の秘書官を務めた。 その後、田中義一内閣で内務参与官、犬養内閣で拓務政務次官、第1次近衛内閣で陸軍政務次官を歴任した。
坪上 貞二(つぼかみ ていじ、1884年6月1日 - 197… 坪上 貞二(つぼかみ ていじ、1884年6月1日 - 1979年5月28日)は、日本の外交官。拓務次官、満洲拓殖公社総裁を経て、太平洋戦争中に初代駐タイ特命全権大使として日泰攻守同盟条約に調印した。戦後公職追放され、追放解除後に日本海外協会連合会(現 国際協力機構)会長を務めた。 佐賀県出身。1909年東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業。外務省入省。1912年ウラジオストク外交官補。外務省アジア局第2課長や、外務大臣官房会計課長、文化事業部長、拓務次官を経て、1935年に満洲国、南満洲鉄道、三井合名会社、三菱合資会社の出資で設立された満洲拓殖株式会社総裁に就任。1937年満洲拓殖公社総裁、1940年満洲国参議府参議。
宮坂 健次郎(みやさか けんじろう、1884年(明治17年)… 宮坂 健次郎(みやさか けんじろう、1884年(明治17年)6月1日 - 1966年(昭和41年)11月6日)は、明治後期から昭和期の実業家、政治家。長野県岡谷市長。幼名・健吉。号・本郷子。 長野県諏訪郡小井川村(平野村を経て現岡谷市)で生まれた。後に健次郎を襲名。諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を2年で中退し、家業の宮坂製糸所を承継。1933年(昭和8年)味噌醸造業に転換し、1948年(昭和23年)宮坂味噌 (有) を設立して社長となる。岡谷商工会会頭、岡谷商工会議所会頭、諏訪信用金庫理事長、新松沢工業社長、岡谷冷蔵製氷会長、岡谷ライオンズクラブ会長などを務めた。 1925年(大正14年)4月から1936年(昭和11年)3月まで平野村会議員に在任し、同年4月、市制施行後は岡谷市会議員に選出され、1947年(昭和22年)4月まで務め、同議長にも在任した。
三木 寛治(みき かんじ、1884年5月30日 - 1961… 三木 寛治(みき かんじ、1884年5月30日 - 1961年11月19日)は、日本の経営者。阿波商業銀行(現在の阿波銀行)頭取を務めた。 徳島県出身。1909年に東京帝国大学政治学科を卒業。藤本ビルブローカー証券での勤務を経て、1934年に阿波商業銀行常務、1940年に専務、1948年に副頭取を経て、1949年10月には頭取に就任。 1961年11月19日、急性心不全のために在任時に死去。77歳没。
和田 一次(わだ かずつぐ、1884年(明治17年)5月27… 和田 一次(わだ かずつぐ、1884年(明治17年)5月27日 - 1949年(昭和24年)3月19日)は、宮崎市長。判事。 宮崎県宮崎郡清武町(現在の宮崎市)に吉田格太郎の二男として生まれ、和田重明の養子となった。1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、司法官試補となった。1913年(大正2年)、判事となり、水戸区裁判所判事、水戸地方裁判所判事、東京地方裁判所判事を歴任した。 1917年(大正6年)、台湾総督府法院判官となり、台北地方法院判官、覆審法院判官、高等法院覆審部判官を歴任した。1920年(大正9年)、台湾総督府事務官に転じ、法務部民刑課長・監獄課長、法務部長、総督官房文書課長・調査課長、台湾総督秘書官を務めた。
金沢 正雄(かなざわ まさお、1884年〈明治17年〉5月2… 金沢 正雄(かなざわ まさお、1884年〈明治17年〉5月26日 - 1945年〈昭和20年〉4月27日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。政友会系官選県知事、衆議院議員。 大阪府交野郡倉治村(北河内郡交野村、交野町を経て現交野市倉治)で、金沢楢松の長男として生まれる。第三高等学校を卒業。1910年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し栃木県属となる。 以後、栃木県警視、同事務官、熊本県理事官、長崎県理事官、愛媛県警察部長、群馬県警察部長、沖縄県内務部長、岐阜県内務部長、長崎県書記官・内務部長、新潟県書記官・内務部長、神奈川県書記官・内務部長などを歴任。
跡見 泰(あとみ ゆたか、1884年〈明治17年〉5月23日… 跡見 泰(あとみ ゆたか、1884年〈明治17年〉5月23日 - 1953年〈昭和28年〉10月22日)は、東京府(現・東京都)出身の洋画家。浦和画家のひとり。 日本画家で跡見女学校(現・跡見学園女子大学)創設者の跡見花蹊の甥にあたる。東京美術学校卒業後は黒田清輝の指導を受ける。文展、帝展、日展と官展に出品し、無鑑査から委嘱へと次第に重きをなしていった。関東大震災後、浦和町(1934年に浦和市、現さいたま市浦和区)に移住し、浦和画家の一人として名を連ねる。高田誠を指導した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
岡崎 忠雄(おかざき ただお、1884年(明治17年)5月2… 岡崎 忠雄(おかざき ただお、1884年(明治17年)5月20日 - 1963年(昭和38年)5月1日)は、大正、昭和期の実業家、企業経営者。岡崎財閥の創業者で、神戸財界の雄と呼ばれた岡崎藤吉の婿養子。佐賀県出身。慶應義塾大学部理財科卒業。 岡崎財閥の創業者岡崎藤吉には男子がいなかったため、岡崎藤吉の兄である石丸忠英の息子・石丸忠雄を婿養子に迎えた。これが後の岡崎忠雄である。忠雄は大学卒業後、養父岡崎藤吉が設立した岡崎汽船で海運業に従事したが、一方で1913年(大正2年)7月、神戸財界の有力者によって内外ゴムが創業された際、出資者の一人として名を連ね、更には1917年(大正6年)5月、養父が神戸岡崎銀行を設立した際は、常務に就任するなど、若いうちから後継者として育てられた。
藤原 鉄太郎(ふじわら てつたろう、1884年(明治17年)… 藤原 鉄太郎(ふじわら てつたろう、1884年(明治17年)5月19日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。関東州官僚。 長崎県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。警視庁警部となり、府中警察署長、太平警察署長、原庭警察署長を務めた。その後、関東都督府(のち関東庁)に転じ、警視、警務局衛生課長、奉天警察署長、警察講習所教官、旅順民政署長を歴任した。1929年(昭和4年)、退官。
小川 金之助(おがわ きんのすけ、1884年〈明治17年〉5… 小川 金之助(おがわ きんのすけ、1884年〈明治17年〉5月18日 - 1962年〈昭和37年〉3月30日)は、日本の剣道家。段位称号は範士十段。 愛知県丹羽郡岩倉村(現・岩倉市)に生まれる。名古屋へ出て北辰一刀流 加藤貫一(加藤七左衛門の養父)に入門。 愛知県警察部に勧誘されたが、小川は警察官になる気はなく、一旦断った。「制服は着なくてもよい、試験だけは形式的に受けろ」と説得され、1903年(明治36年)、愛知県警察部に奉職。京都の大日本武徳会出張修行を命じられ、3年半修行した。 愛知県巡査教習所剣道教師を経て、1914年(大正3年)に内藤高治の要請で武道専門学校助手に就任。 1919年(大正8年)、道場「弘道館」を開く。
宮原 庄助(みやはら しょうすけ、1884年(明治17年)5… 宮原 庄助(みやはら しょうすけ、1884年(明治17年)5月18日 - 1963年(昭和38年)5月8日)は、明治末から昭和期の漁業家、政治家。衆議院議員、茨城県会議長、茨城県那珂郡那珂湊町長、初代那珂湊市長。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。幼名・長松。 茨城県那珂郡湊村牛久保(湊町牛久保、那珂湊町、那珂湊市を経て現ひたちなか市牛久保)で、漁業家・宮原卯之松の長男として生まれる。湊尋常高等小学校を卒業。横須賀海兵団に入団し日露戦争に従軍して除隊した。 1908年(明治41年)12月に家業を継承した。漁業の全般の改良に務め、1920年(大正9年)2月、茨城製網常務取締役に就任。その他、湊漁業組合長、湊水難救済会長、那珂郡水産会長、茨城県漁業組合連合会長、同漁船保険組合長、同水産業会長、同信用漁業協同組合連合会長、水戸魚市場取締役、日本油脂販売監査役、宮庄漁業社長などを務めた。
江戸 千太郎(えど せんたろう、1884年5月17日 – 1… 江戸 千太郎(えど せんたろう、1884年5月17日 – 1938年4月7日)は、日本の外交官。 福井県三方郡三方町横渡、江戸勘四郎家の長男として出生。 1904年(明治37年)3月、旧制小浜中学校卒業、明治40年度に早稲田大学高等師範部歴史地理科を卒業し、さらにその翌年に東京帝国大学選科(国史)を卒業し、旧制志布志中学校、旧制水戸中学校に教諭として勤務する。 1918年(大正7年)、外交官補試験に合格、外務省入省。1919年(大正8年)領事館補。1925年(大正14年)より領事として青島、漢口(中国)、リバプール(イギリス)、バンクーバー(カナダ)等に勤務。1931年(昭和6年)より外務省文化事業部第二課長、第一課長兼文部書記官歴任。
岡村 寧次(おかむら やすじ、1884年〈明治17年〉5月1… 岡村 寧次(おかむら やすじ、1884年〈明治17年〉5月15日 - 1966年〈昭和41年〉9月2日)は、日本の陸軍軍人。官位は陸軍大将勲一等功一級に昇る。支那派遣軍総司令官、北支那方面軍司令官、第11軍司令官等を歴任。 父は江戸幕府に仕えた岡村寧永。元妻の星野理枝と死別した後、貴族院議員・加藤宇兵衛の娘と再婚する。陸軍三羽烏の一人。 1884年(明治17年)5月15日、岡村寧永の子として生まれる。早稲田中学校、東京陸軍地方幼年学校を経て1903年(明治36年)、陸軍中央幼年学校を卒業する。 1904年(明治37年)10月に陸軍士官学校を16期生として卒業し11月に歩兵少尉に任官、歩兵第1連隊補充隊付を命ぜられる。
片岡 弓八(かたおか ゆみはち、1884年(明治17年)5月… 片岡 弓八(かたおか ゆみはち、1884年(明治17年)5月15日 - 1958年(昭和33年)10月2日)は、日本の船員。船員から潜水業に転じ、海洋サルベージで名を成した。香川県綾歌郡陶村九十原(現・綾川町陶)出身。 細谷鈴吉を父として生まれる。1900年(明治33年)12月に上京し、1907年(明治40年)9月に東京高等商船学校を卒業。卒業後は東洋汽船に就職し、天洋丸に乗務した。4年後に東洋汽船を退社すると、トロール船による漁業を手がけた。 1913年(大正2年)、東京高等水産講習所の教官に招聘され、練習船の船長となる。同年、片岡家を相続し、片岡弓八となる。1914年(大正4年)、第一次世界大戦勃発に際してフランスの傭船となった帝国丸に船長として乗務。
水野 利八(みずの りはち 1884年(明治17年)5月15… 水野 利八(みずの りはち 1884年(明治17年)5月15日 - 1970年(昭和45年)3月9日)は、日本の実業家。ミズノ創業者。紺綬褒章、勲四等瑞宝章受章。二男は水野健次郎。水野正人、水野明人は孫。 岐阜県大垣市に生まれる。興文小高等科中退。9歳の時に棟梁をしていた父が死去したため、大阪・京都へ丁稚奉公へ出た。 1903年(明治36年)に京都・三高野球クラブの試合を見て、野球の魅力に惹かれ運動用品の商売を志す。1906年(明治39年)に弟の水野利三と大阪市北区で水野兄弟商会を創業。当初は運動服を扱っていたが、1913年(大正2年)からは野球用のグラブ、ボールの製造を始めた。 1916年(大正5年)に全国統一の標準球を完成。
西尾 忠方(にしお ただみち、1884年(明治17年)5月1… 西尾 忠方(にしお ただみち、1884年(明治17年)5月14日 - 1958年(昭和33年)6月17日)は、大正から昭和期の政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・加藤、旧名・泰吉。 旧大洲藩主・加藤泰秋の四男として生まれ、1909年(明治42年)12月、子爵・西尾忠篤の養子となり、同年同月、忠方と改名。養父の死去に伴い、1910年(明治43年)11月29日、子爵を襲爵した。 1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学を卒業。馬政調査会委員、軍用保護馬鍛錬中央会副会頭、日本競馬会評議員、十五銀行監査役、蓬莱殖産監査役などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
平井 晩村(ひらい ばんそん、1884年(明治17年)5月1… 平井 晩村(ひらい ばんそん、1884年(明治17年)5月13日 - 1919年(大正8年)9月2日)は、明治・大正時代の日本の詩人・小説家・新聞記者。民謡詩人として多くの作品を残した。群馬県前橋市出身。本名は駒次郎。 1884年(明治17年)5月13日/15日/17日、群馬県前橋本町(現在の前橋市本町2丁目)に生まれる。実家は酒造業を営んでいた。祖父・與吉は近江国蒲生郡(現在の滋賀県東近江市)の出身で、武蔵国の造り酒屋「中村屋」に奉公した後前橋にのれん分けをした。與吉は現在の新潟県柏崎市出身のゆきを妻としたが夫婦には子がなかったため、晩村の父となる仙太郎を養子に迎え、とを(ゆきの妹)と結婚させた。
越川 彰(こしかわ あきら、1884年(明治17年)5月13… 越川 彰(こしかわ あきら、1884年(明治17年)5月13日 - 1970年(昭和45年)1月14日)は、大日本帝国陸軍軍人、医師。最終階級は陸軍軍医中将。位階勲等は正四位勲三等。 千葉県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学医学部を卒業し、6月29日に陸軍二等軍医に任官された。1915年(大正4年)6月、陸軍一等軍医に進み、1919年(大正9年)9月時点で陸軍軍医学校副官の任にあった。1921年(大正10年)4月、陸軍三等軍医正に進級し、1923年(大正12年)9月時点で鉄道第2連隊附であり、1924年(大正13年)9月時点で善通寺衛戍病院附に転じた。1925年(大正14年)3月に陸軍二等軍医正に進級し、9月時点で佐倉衛戍病院長兼歩兵第57連隊附に就任し、1926年(大正15年)12月に龍山衛戍病院附に転じた。
細川 長平(ほそかわ ちょうへい、1884年(明治17年)5… 細川 長平(ほそかわ ちょうへい、1884年(明治17年)5月13日 - 1967年(昭和42年)1月13日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 愛媛県三木郡鹿伏村(香川県木田郡平井村大字鹿伏、平井町を経て現三木町鹿伏)出身。細川林造の三男として生まれる。第五高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し京都府属となる。 以後、岐阜県事務官、同理事官、徳島県警察部長、熊本県警察部長、長野県書記官・内務部長、宮城県書記官・内務部長、北海道庁部長・内務部長などを歴任。 1928年12月、沖縄県知事に就任。1929年2月、沖縄の社会科学研究会の関係者を検挙した。
上林 敬吉(かんばやし けいきち、1884年5月12日 - … 上林 敬吉(かんばやし けいきち、1884年5月12日 - 1960年3月9日)は、日本の建築家。米国聖公会の宣教建築家(Mission Architect)のもとで教会の建設に携わるとともに、設計事務所を立ち上げて独自の設計も行ったほか、聖路加国際病院の施設増改築や管理を行った。 1884年(明治17年)5月12日、京都市上京区で生まれる。京都の高等小学校を中退した7年後の1903年(明治36年)に茨城県土木課に務める。敬吉は、京都での少年時代に既にジェームズ・ガーディナーと出会ってその影響を受け、その後関東へ転じたものと考えられる。 1904年(明治37年)、横浜で下田菊太郎が営む下田建築合資会社に移り、2年間勤務する。
篠原 誠一郎(しのはら せいいちろう、1884年〈明治17年… 篠原 誠一郎(しのはら せいいちろう、1884年〈明治17年〉5月11日 - 1972年〈昭和47年〉7月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功二級。 1884年(明治17年)に群馬県碓氷郡松井田町松井田(現・安中市松井田町松井田)で生まれた。旧制高崎中学校、大阪陸軍地方幼年学校を経て、陸軍士官学校第17期卒業。 1931年(昭和6年)に陸軍歩兵大佐に進級。第16師団司令部附となり、大谷大学に配属された。1933年(昭和8年)に歩兵第40連隊長に就任し、満州事変に出動。討伐戦に当たった。 1936年(昭和11年)に陸軍少将に進級し、歩兵第15旅団長に転じる。1938年(昭和13年)に第1国境守備隊長を経て、1939年(昭和14年)3月に陸軍中将に進級し、関東軍司令部附となる。
鹿村 美久(しかむら よしひさ、1884年(明治17年)5月… 鹿村 美久(しかむら よしひさ、1884年(明治17年)5月11日 - 1939年(昭和14年)1月21日)は、日本の実業家。第2代富士瓦斯紡績社長。在任中死去した。 現在の愛媛県宇和島市に生まれる。1901年に東京府城北中学校(現・都立戸山高校)を卒業。1905年に東京高等商業学校(現・一橋大学)本科を首席総代で卒業し、岩崎久弥の知遇を得て三菱の海外研究生として、3年間欧米に遊学した。帰国後、三菱合資銀行部に入行した。豊川良平初代銀行部長の娘婿となった。 1909年に富士瓦斯紡績に入社。同社小山工場庶務主任、営業部次長を経て、1913年に川崎工場が設立されると、工場長に就任する。営業部長(1919年)。
前田 多門(まえだ たもん、1884年(明治17年)5月11… 前田 多門(まえだ たもん、1884年(明治17年)5月11日 - 1962年(昭和37年)6月4日)は、日本の政治家・実業家・文筆家。位階は正三位。 大阪府出身。喜兵衛の長男。立教中学、一高、東京帝国大学卒業後、内務省入省。1916年(大正5年)、後藤新平内務大臣の秘書官に起用され、後藤系の有力官僚となり、1920年(大正9年)、池田宏の後を継いで第2代の内務大臣官房都市計画課長となった。後藤新平が東京市長に就任すると第1助役は永田秀次郎、第2助役は池田、第3助役は前田という後藤のいわゆる「畳」であり、後藤自身および電気局長の長尾半平と合わせて「三田二平」と称された。 1925年(大正14年)3月、外務省の守屋栄夫とともに第7回国際労働会議の政府代表に選出。
何 盛三(が もりぞう、1884年5月8日 - 1948年1… 何 盛三(が もりぞう、1884年5月8日 - 1948年10月10日)は、日本の中国語学者、アジア主義者、社会活動家、エスペランティスト。 東京大学新聞研究所の所長であった何初彦は長男。 苗字の「何」をもじって、エスペラントで"S-ro Kio"、フランス語で"Monsieur Que"(いずれも英語でいえば"Mr. What"、後者は日本語の「無宿」にも掛けている)と名乗った。 東京府出身。日本の造船学の発展に寄与した海軍軍人の赤松則良の三男として生まれ、後に唐通詞の出身であった何礼之の養孫になっている。1930年には「財政整理ノタメ」何家を離れ、赤松家に復籍した。 学習院中等科・高等科で学ぶ。
丸山 芳良(まるやま よしまさ、 1884年(明治17年)5… 丸山 芳良(まるやま よしまさ、 1884年(明治17年)5月5日 - 1932年(昭和7年)3月23日)は、日本の歌人。 栃木県足利市通六丁目出身。足利の小学校高等科を経て、中学校時代に石川角次郎から洗礼を受け、1902年商工中学校(現日本大学第三高等学校)卒業。同年東京高等商業学校(現一橋大学)に進学するも、病気と実家の倒産のため2年で中退した。 中退後は日清製粉横浜工場主任や、日本統治時代の台湾の台北市の会社への勤務、名古屋市の製陶会社・旭陶器主事なども務めた。この間、1914年から窪田空穂に師事し、歌誌『国民文学』に参加。 1920年に喘息のため足利に帰郷し、1921年に足利印刷社を設立し、同社無限責任社員となった。
椎久年蔵(しいく としぞう、明治17年(1884年)5月5日… 椎久年蔵(しいく としぞう、明治17年(1884年)5月5日 - 昭和33年(1958年)3月27日)は、八雲のアイヌ、アイヌ文化伝承者。アイヌ語八雲方言の最後の話者。 北海道山越郡八雲町字遊楽部に生まれ、終生そこに住む。椎久家は首長(コタンコㇿクㇽ)の家系であり、年蔵は次男であった。父母ともに遊楽部(ゆうらっぷ)の人。姓は、先祖に弓の名人がいたことからsíku「大きな弓」の当て字である。「シク」と読まれることもある。アイヌ名はTóytareki、トイタレキ、トイタレケ、トヨタリケ。名前はアイヌ語でtóyta「畑仕事」、 rek「叫ぶ」で、母が畑仕事の最中に産気付き、家に戻る途中に畑野中の道で産み落としたことに由来する。
遠藤 所六(読み不明、1884年(明治17年)5月4日生)は… 遠藤 所六(読み不明、1884年(明治17年)5月4日生)は、日本統治下時代の台湾で台中市長などを歴任した。福井県坂井郡金津町(現あわら市)出身。 臺北州州協議会会員、基隆郡郡守を経た後、1925年~1928年に台中市長(臺中市尹)を、1928年からは台南市長を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
加藤 紋右衛門(かとう もんうえもん、1884年5月2日 -… 加藤 紋右衛門(かとう もんうえもん、1884年5月2日 - 1958年10月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県出身。明倫中学校(現・愛知県立明和高等学校)卒。瀬戸町(現・瀬戸市)会議員、東春日井郡会議員、同議長、愛知県会議員を歴任する。また、瀬戸薪炭(株)取締役社長、権現土地(株)取締役となる。 1922年7月、愛知5区の補欠選挙において立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1958年に死去した。
池田 亀三郎(いけだ かめさぶろう、1884年(明治17年)… 池田 亀三郎(いけだ かめさぶろう、1884年(明治17年)5月2日 - 1977年(昭和52年)4月2日)は、日本の技術者、実業家。旭硝子(現AGC)社長や、石油化学工業協会会長を務めた。従三位勲一等瑞宝章。 山形県酒田市出身。荘内中学校、第三高等学校を経て、1909年東京帝国大学工科大学採鉱冶金科卒業、三菱合資入社。三菱鉱業技師長や、三菱鉱業取締役を経て、1939年に山田三次郎が死去すると後任の日本化成工業社長に就任。1943年からは旭硝子社長も務め、1944年には旭硝子と日本化成工業の合併による三菱化成工業の設立にあたった。1944年旭化学工業奨励会理事長。第二次世界大戦後は公職追放対象者となるが、1950年10月に解除。
田辺 加多丸(たなべ かたまる、1884年5月2日 - 19… 田辺 加多丸(たなべ かたまる、1884年5月2日 - 1951年3月13日)は、日本の経営者。東宝社長を務めた。 山梨県出身。1911年に東京帝国大学独法科を卒業し、日本勧業銀行に入行。1939年6月に理事、1941年に東京宝塚劇場(のちの東宝)取締役を経て、1947年に社長に就任し、1949年から1950年までに会長を務めた。 1951年3月13日、肝臓癌のために死去。66歳没。