尾崎久彌(おざき きゅうや、1890年6月28日 - 197… 尾崎久彌(おざき きゅうや、1890年6月28日 - 1972年6月2日)は、国文学者。近世文学、浮世絵、書誌学が専門。死後、江戸文学関係書など、約一万点の蔵書が名古屋市の蓬左文庫に寄贈された。 1890(明治23)年6月28日に愛知県名古屋市に生まれる。愛知一中(現在の旭丘高校)に通ったのち、國學院大學へと進学する。このときから文章を書き始める。卒業後は愛知県へと戻り、愛知一中、豊橋中学(現在の時習館高校)などで教鞭をとる。のちに国学院大の講師、東邦高校の教師を勤め、1953年からは名古屋商科大学教授となるなど教育者としても幅広く活動した。晩年は名古屋市文化財調査委員会の委員長も務めている。 教育に尽力した傍ら、創作活動や浮世絵の収集、江戸軟派文学の研究を行っており、特に収集家としての評価は現在でも高い。
郡 虎彦(こおり とらひこ 1890年(明治23年)6月28… 郡 虎彦(こおり とらひこ 1890年(明治23年)6月28日 - 1924年(大正13年)10月6日)は、東京府出身の日本の劇作家。萱野二十一(かやの はたかず)の筆名でも知られる。虎彦はまた、ダンヌンツィオの『秋夕夢』を日本に翻訳紹介し、三島由紀夫に大きな影響を与えた。 東京府東京市京橋区南八丁堀(現在の東京都中央区湊)にて、鈴木耕水(私塾経営者)・錫(すず、旧姓石渡)夫妻の六男として誕生。生後まもなく母方の叔母夫婦の養嗣子となる(ただし入籍は5歳の時)。養父の郡寛四郎は幕末の会津藩家老・萱野長修の三男で日本郵船の最古参の船長。実母と養母が石渡家出身の姉妹で、石渡荘太郎は郡の従弟である。 3歳から養父の勤務地である神戸市に育ち、神戸幼稚園から神戸尋常小学校に進む。
間宮 不二雄(まみや ふじお、1890年(明治23年)6月2… 間宮 不二雄(まみや ふじお、1890年(明治23年)6月26日 - 1970年(昭和45年)10月24日)は、日本の実業家。日本で最初の図書館用具商社を開く。図書館用品製造販売業者である間宮商店を創業した。 東京市本郷区(現在の東京都文京区)の旧旗本の家に生まれる。生母はいわゆる「未婚の母」であったために、戸籍上は実の祖父母の5男として記録されている。 東京高等師範学校付属小学校(現在の筑波大学附属小学校)高等科卒業後、家運が傾いたために書籍販売業の丸善に丁稚として入社する。24歳の時、担当していたタイプライターの構造を学ぶために東京府立工芸学校(現在の東京都立工芸高等学校)の夜学に通う。だが、会社側は丁稚上がりの間宮の能力を正当に評価しなかった。
高田 博愛(たかた ひろちか、1890年〈明治23年〉6月2… 高田 博愛(たかた ひろちか、1890年〈明治23年〉6月25日 - 没年不明)は、日本の実業家、鳥取県多額納税者、地主。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡県村大字福万(のち伯仙町、現・米子市)出身。高田繁太郎の二男。1918年、家督を相続、12代の主となる。農業、金融業、不動産業を営む。マルタ商会代表取締役、雲陽実業銀行、山陰土地各取締役などをつとめる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。高額所得者である。 村内に28町歩の土地を66人に小作させた。村外には約64町歩の土地があった。年の小作米も3000俵といわれ、広大な邸内に米蔵が棟を並べた。別に山林原野が村内に70町歩、村外にも同じ位あった。
三上 英夫(みかみ ひでお、1890年6月24日 - 198… 三上 英夫(みかみ ひでお、1890年6月24日 - 1982年11月6日)は、青森県出身の官僚、実業家。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
鈴木 三郎助(すずき さぶろうすけ、1890年6月23日 -… 鈴木 三郎助(すずき さぶろうすけ、1890年6月23日 - 1973年6月19日)は、日本の実業家。鈴木商店(現味の素)創業者二代目鈴木三郎助の長男で、同社代表取締役社長や、京浜急行電鉄代表取締役社長を務めた。 神奈川県三浦郡葉山町出身。1907年(明治40年)に京華商業学校(現京華商業高等学校)卒業後、東京高等商業学校(現一橋大学)に進学。第一ホテル創業者の土屋計左右は、同郷かつ東京高等商業学校の同窓で親しく、のちに鈴木家持株会社鈴木三栄の常務理事に就任した。 1908年(明治41年)、父親が池田菊苗が発明した化学調味料の製造権を取得。家族でネーミングを考えた結果、三郎(当時3代目襲名前)が提案した「味の元」が選ばれた。
城島 高次(じょうじま たかつぐ、1890年(明治23年)6… 城島 高次(じょうじま たかつぐ、1890年(明治23年)6月20日 - 1967年(昭和42年)10月9日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 佐賀県出身。佐賀中学校を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第24期)を受験し、双方に合格している。1912年(明治45年)7月、 海軍兵学校(40期)を卒業し、海軍大学校航海科で学んだ。 「満州」分隊長、運送艦「高崎」・敷設艦「勝力」・「若宮」・給油艦「尻矢」・「龍田」の各航海長、第1遣外艦隊付、「名取」「阿武隈」「羽黒」「加賀」の各航海長などを歴任。 さらに、「能登呂」「長良」「青葉」「霧島」の各副長、給油艦「鶴見」・「鳳翔」の各艦長、呉海軍航空隊司令、「翔鶴」艤装員長・初代艦長として真珠湾攻撃、ラバウル攻略、インド洋作戦、珊瑚海海戦に参加。
角倉 邦彦(すみのくら くにひこ、1890年〈明治23年〉6… 角倉 邦彦(すみのくら くにひこ、1890年〈明治23年〉6月19日 - 1981年〈昭和56年〉12月18日)は、日本の医化学者、農学博士(北海道帝国大学)。 専門は有機微量分析。蛋白質研究の権威。 東京出身。1915年東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)農芸化学科卒業。1915年東北帝国大学農科大学助手。その後、鳥取高等農業学校農芸化学科教授、東京農業大学予科専任講師、東京農業大学予科教授を経て、1925年東京農業大学農学部専任講師。1927年鳥取高等農業学校教授。1929年5月論題「日本産漆の酸化酵素ラクセーゼに就て」で北海道帝国大学にて農学博士受く。1942年鳥取高等農林学校教授。1944年から1949年まで鳥取農林専門学校の3代校長を務めた。
江川 為信(えがわ ためのぶ、1890年6月18日 - 19… 江川 為信(えがわ ためのぶ、1890年6月18日 - 1969年10月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、石川県議会議員(5期)、石川県農業会長。 1890年、石川県石川郡額村に生まれる。野々市小学校を卒業。1927年県議選に当選し、1944年に辞職するまでつとめる。その間、石川県名誉職参事会員に5回も選出され、政友会石川支部の幹事長にもなった。また、多年に渡って農政に尽くし、1935年に石川郡農会長に、1943年から1947年までは石川県農業会長も歴任した。
長 基連(ちょう もとつら、1890年(明治23年)6月16… 長 基連(ちょう もとつら、1890年(明治23年)6月16日 - 1954年(昭和29年)6月6日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧名・本多恭。 旧加賀藩家老・本多政以の二男として生まれる。男爵・本多政樹の弟。従兄の男爵・長克連の死去に伴い家督を継承し、1901年(明治34年)6月7日、男爵を襲爵した。その後、前名・恭を基連と改名した。 1915年(大正4年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1917年(大正6年)三井銀行に入行する。以後、龍王山金山取締役、第一機罐保険社長、東邦物産会頭などを務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、1939年(昭和14年)7月9日まで2期在任した。
永田 昌綽(ながた まさのぶ、1890年6月15日 - 19… 永田 昌綽(ながた まさのぶ、1890年6月15日 - 1975年7月25日)は、日本の実業家。北海道拓殖銀行頭取を生え抜きとして初めて務めた。 島根県出身。1917年に東京帝国大学を卒業し、北海道拓殖銀行に入行。取締役を経て、1941年から1947年までに頭取を務めた。 北海道曹達会長、北海道商工会議所顧問、北海道クラブ相談役などを歴任した。 1960年に藍綬褒章を受章し、1971年4月に勲二等瑞宝章を受章した。 1975年7月25日、腎不全のために死去。85歳没。
宇都宮 新八郎(うつのみや しんぱちろう、1890年6月15… 宇都宮 新八郎(うつのみや しんぱちろう、1890年6月15日 - 1952年1月7日)は、現在の栃木県鹿沼市出身で出羽海部屋(当時は出羽ノ海部屋)に所属した大相撲力士。本名は上沢 新七郎。現役時代の体格は182cm、98kg。最高位は前頭2枚目。話のうまさで知られ、明治 - 大正期の相撲界の語り部として代表的な存在であった。 常陸山の出羽ノ海に入門、1907年1月初土俵を踏む。1912年5月新十両。1913年5月新入幕。立ち合いのさまは実に精悍で、長身を生かした突っ張り、吊りで責める取り口は豪快だが粗雑で、幕内下位で2度の8勝2敗がある以外は2 - 6勝の成績に終始した。現役時代を通して上の名前の改名はなかったが、下の名前については現役前期には本名と同じ「新七郎」を名乗っていたが、1916年1月「新八郎」、同年5月「新七郎」とし、1917年1月からの現役後期には引退まで「新八郎」を名乗った。
天野 修一(あまの しゅういち、1890年(明治23年)6月… 天野 修一(あまの しゅういち、1890年(明治23年)6月15日 - 1976年(昭和51年)12月1日)は、日本の発明家・実業家。アマノ株式会社の創設者。子息に立命館大学名誉教授・学校法人立命館元総長の天野和夫。 三重県鈴鹿郡石薬師村(現在の三重県鈴鹿市石薬師町)出身。1911年(大正元年)、23歳の時に「A式綴紙器」を発明して特許を取得。1931年(昭和6年)、東京蒲田に天野製作所を設立してタイムレコーダー・気象用計器の製造を開始した。1938年(昭和13年)に海軍から雷道計の開発・製造を請け負い横浜菊名に新工場を建設し、1942年(昭和17年)には海軍管理工場に指定されて本社を菊名工場に移転したが、敗戦により工場閉鎖。
田村 廿三郎(たむら はたさぶろう、1890年〈明治23年〉… 田村 廿三郎(たむら はたさぶろう、1890年〈明治23年〉6月13日 - 1961年〈昭和36年〉1月6日)は、日本の内科医、実業家、政治家。イチジク製薬創業者・初代社長。「イチジク浣腸」の考案者。 新潟県中蒲原郡鷲巻村大字西笠巻(現 新潟県新潟市南区西笠巻)の医師・田村篤司の三男として出生。 1909年(明治42年)3月に新潟中学校を卒業、1914年(大正3年)9月に千葉医学専門学校医学科に入学、1918年(大正7年)5月に同校を卒業。 千葉県東葛飾郡市川町大字市川字上出口(現 千葉県市川市市川)の吉岡医院に勤務したのち、1920年(大正9年)に東京府南葛飾郡瑞江村大字上今井(現 東京都江戸川区江戸川)に田村医院を開業。
山内 得立(やまうち とくりゅう、1890年〈明治23年〉6… 山内 得立(やまうち とくりゅう、1890年〈明治23年〉6月12日 - 1982年〈昭和57年〉9月19日)は、日本の哲学者。京都学派の哲学者。文化功労者。京都大学名誉教授。元京都学芸大学学長。西田幾多郎の弟子の一人。形而上学者として比較哲学の著しい貢献。主書は『ロゴスとレンマ』(1974)である。 奈良県生まれ。旧姓中川。京都帝国大学で西田幾多郎に師事した後、ドイツのフライブルク大学に留学しエトムント・フッサールとマルティン・ハイデッガーに師事。留学中に左右田喜一郎の推薦により東京商科大学(後の一橋大学)助教授に就任。後に京都大学教授等を歴任。蔵書や自筆ノートは山内文庫として一橋大学附属図書館に収められている。
辻村 太郎(つじむら たろう、1890年6月12日 - 19… 辻村 太郎(つじむら たろう、1890年6月12日 - 1983年7月15日)は、日本の地理学者・地形学者。地形学を中心とした日本における地理学の確立に努め、長く日本の地理学をリードしてきた人物として知られ、日本の地理学の歴史には欠かせない人物である。 神奈川県小田原市の生まれ。13歳で神奈川県立第二中学校に入学。三年後に東京開成中学校に転校。18歳の時同校を卒業し、1908年(明治41年)19歳で第一高等学校理科に入学する。この頃、従兄の辻村伊助の影響もあって早くから山や登山に興味をもち、中学4年の頃山岳会に入会し会員となった。1911年(明治44年)、飛騨山脈の高峯で多数のカール(圏谷)や堆石(モレーン)を見つけ、それらが氷河作用によるものと考え、論文を発表した。
鏑木 外岐雄(かぶらぎ ときお、1890年(明治23年)6月… 鏑木 外岐雄(かぶらぎ ときお、1890年(明治23年)6月10日 - 1968年(昭和43年)2月21日)は、日本の動物学者である。 石川県に生まれ、東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)に入学する。1915年(大正4年)に卒業後は母校に戻り、1917年(大正6年)には同大学の助手として活動した。1924年(大正13年)には農学部で講師として教鞭を執り理学博士を取得し、1926年(大正15年)には教授に昇格する。 その後は徳川生物学研究所の研究員としても活動しナミウズムシ等の渦虫類やヒモムシ研究に携わり、日本の応用生物学や応用昆虫学の研究や、植物防疫事業等にも携わった。第二次世界大戦後の1949年(昭和24年)から1967年(昭和42年)まで國學院大學の教授も務め、1951年(昭和26年)に東京大学を定年退職する。
行吉 角治(ゆきよし かくじ、1890年(明治23年)6月1… 行吉 角治(ゆきよし かくじ、1890年(明治23年)6月10日 - 1945年(昭和20年)3月5日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県和気郡香登村香登西(香登町香登西、備前町を経て現備前市香登西)で、行吉百三郎の息子として生れた。行吉家は屋号「戎屋」として瓦製造を家業としていたが、百三郎はかけごとが好きなことなどから事業に失敗し、角治が3、4歳ころに岡山市に移り食べ物屋「三子屋ぜんざい」を開いた。角治は関西中学校(現関西高等学校)で学んだが、素行不良で中退した。その後、遊び人の仲間となった。 岡山で土木請負業「山崎組」を営む。1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙で横山泰造の選挙運動に加わったことが契機で政治家に関心を持つようになった。
国松 福禄(くにまつ ふくろく、1890年〈明治23年〉6月… 国松 福禄(くにまつ ふくろく、1890年〈明治23年〉6月9日 – 1958年〈昭和33年〉2月15日)は、日本の弁護士。愛媛県宇和島市長。 愛媛県北宇和郡高近村(現在の宇和島市)に愛媛県会議員・参事会員を務めた国松磊奇智の長男として生まれた。宇和島中学校を卒業後、中央大学に学んだが、第三高等学校に転じた。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学法律科を卒業。大阪市で弁護士を開業したが、翌1918年(大正7年)に宇和島市に移り、民事・商事事件を扱い、破産管財人にも選出された。1928年(昭和3年)、宇和島新聞社社長となり、『南予毎日新聞』と改題した。また宇和島市会議員、同議長、愛媛県会議員などを歴任した。
岩城 隆徳(いわき たかのり、1890年(明治23年)6月8… 岩城 隆徳(いわき たかのり、1890年(明治23年)6月8日 - 1979年(昭和54年)9月21日)は、大正から昭和期の政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・青山、旧名・幸徳。 子爵・青山幸宜の五男として生まれ、子爵・岩城隆邦の養子となる。養父の死去に伴い、1911年(明治44年)4月21日、子爵を襲爵し、同月、隆徳と改名した。 学習院を経て、1914年、東京帝国大学理科大学植物学科を卒業。さらに同大学院で学び、同大経済学部を修了した。 1916年(大正5年)帝室林野局技手に就任。以後、内務省社会局嘱託、日東印刷取締役、興亜産業取締役などを務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動し、1939年(昭和14年)7月9日まで2期在任した。
中村 直勝(なかむら なおかつ、1890年6月7日 - 19… 中村 直勝(なかむら なおかつ、1890年6月7日 - 1976年2月23日)は、大正・昭和期の日本の歴史学者。 滋賀県滋賀郡大津町(現在の大津市)にある長等神社の社家の家に生まれる。膳所中学校・第三高等学校 を経て京都帝国大学に入る。三浦周行の門下で古文書学などを研究する。卒業論文「皇室制度」をまとめ、1915年7月に京都帝国大学文科大学卒業。さらに、古文書学の研究のため、大学院に進む。1919年9月より第三高等学校で歴史学を講じ、1920年に同校教授となる。1927年7月からは京都帝国大学助教授として古文書学を担当した他、南朝や荘園・皇室領・座・供御人などの研究を行った。1946年に「荘園の研究」を提出して京都大学から文学博士の学位を授与される。
石田 憲次(いしだ けんじ、1890年〈明治23年〉6月7日… 石田 憲次(いしだ けんじ、1890年〈明治23年〉6月7日 - 1979年〈昭和54年〉6月30日)は、日本の英米文学者。 山口県出身。東京外国語学校英語科を経て、1916年京都帝国大学英文科卒。同志社大学教授、1924年京都帝大文学部助教授、1934年教授、京都大学教授、1951年定年退官、大阪市立大学教授、1958年京都女子大学教授を務めた。18世紀およびヴィクトリア朝の英文学研究、またフランクリンなど初期アメリカ文学の研究を行い多数の著作を著した。特にキリスト教的傾向が強い。 1979年6月30日、脳溢血のため京都市北区の鞍馬口病院で死去。89歳。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
杉浦 兼松(すぎうら かねまつ、1890年(明治23年)6月… 杉浦 兼松(すぎうら かねまつ、1890年(明治23年)6月5日 - 1979年(昭和54年)10月21日)は、日本の生化学者である。 アメリカ合衆国のスローン・ケタリングがんセンターで癌の化学療法の分野で働いた。 愛知県津島市禰宜町の染物屋に生まれ、父から剣道を学んだ。父を癌で失い、徒弟奉公にでるが、1903年(明治36年)アメリカの鉄道王、エドワード・ヘンリー・ハリマンが、すでに渡米していた兼松の兄を通訳にともなって来日し、武道の得意な少年を渡米させることになり、最年少のメンバーとして渡米した。アメリカで高校に通い、ハリマンも癌で没すると、未亡人が寄付した資金で設立された研究所でアルバイトしながらコロンビア大学で生化学を学んだ。
橋本 循(はしもと じゅん、1890年(明治23年)6月2日… 橋本 循(はしもと じゅん、1890年(明治23年)6月2日 - 1988年(昭和63年)5月27日)は、日本の中国文学者。 現在の福井県越前市生まれ。雅号・蘆北。京都帝国大学文科大学文学科修了。1928年立命館大学予科教授。1946年立大法文学部文学科部長。1949年「漢魏六朝文学思想論」で京大文学博士。立大文学部長・文学研究科長を数次務める。立命館理事。1959年特別任用教授。1969年名誉教授。白川静の師匠。記念して蘆北賞が設けられた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
亀永 吾郎(かめなが ごろう、1890年(明治23年)6月1… 亀永 吾郎(かめなが ごろう、1890年(明治23年)6月1日 - 1955年(昭和30年)2月9日[要出典])は、日本画家(美人画)。山口県下関市出身。[要出典]鏑木清方門下。[要出典]本名五郎。[要出典] 帝展入選、聖徳太子奉賛美術展覧会、ベルリン日本画展覧会(外務省)に出品。鏑木清方門下らによる郷土会、目黒雅叙園、梨本宮家、浅草柳橋料亭二葉などで多くの絵画を手がけた。独特の、美人と所作と構図、滲み出る人物の精神性や内面性、繊細な色彩と形の組み合わせの自在さ、に特徴がある。画号は、寒雷楼吾郎、寝石、八千房、亀永霊泉。 度重なる戦災に遭い帰郷するも、その後も東京と郷里を往復しつつ、制作に取り組んだ。
今井 邦子(いまい くにこ、1890年〈明治23年〉5月31… 今井 邦子(いまい くにこ、1890年〈明治23年〉5月31日 - 1948年〈昭和23年〉7月15日、旧姓山田、本名くにえ)は、徳島市出身の「アララギ」の歌人、小説家。後に短歌誌「明日香」を創刊した。山田邦子名で新聞記者もしていた。夫は立憲政友会衆議院議員の今井健彦。通産省事務次官を務めた両角良彦は甥にあたる。 明治23年(1890年)、徳島市に生まれる。父山田邦彦(1857年 - 1909年)は官吏であり、また和歌も詠んだ。当時は徳島県学務課長の任にあった。明治25年、2歳(1892年)のとき父母と離れ、父の郷里である長野県下諏訪町の祖父母のもとに預けられた。少女期より、文才に長け、当時、文学少女の憧れの的であった「女子文壇」にしばしば詩を投稿し、度重なる入賞をし、文才の閃きを見せていた。
杉田 久女(すぎた ひさじょ、1890年(明治23年)5月3… 杉田 久女(すぎた ひさじょ、1890年(明治23年)5月30日 - 1946年(昭和21年)1月21日)は、鹿児島県出身の日本の俳人。本名は杉田 久(すぎた ひさ)。高浜虚子に師事。長谷川かな女、竹下しづの女とともに、近代俳句における最初期の女性俳人で、男性に劣らぬ格調の高さと華やかさのある句で知られた。家庭内の不和、師である虚子との確執など、その悲劇的な人生はたびたび小説の素材になった。 大蔵省書記官・赤堀廉蔵と妻・さよの三女として鹿児島県鹿児島市で生まれる。父の転勤に伴い、12歳になるまで沖縄県那覇市、台湾嘉義県、ついで台北市と移住して過ごす。1908年(明治41年)、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校)を卒業。
西岡 竹次郎(にしおか たけじろう、Takejiro Nis… 西岡 竹次郎(にしおか たけじろう、Takejiro Nishioka、1890年〈明治23年〉5月28日 - 1958年〈昭和33年〉1月14日)は、日本の政治家、実業家。西岡伊三次の養子。長崎県知事や戦前から戦後にかけ長崎民友新聞社長を務めた。位階は正四位。勲二等瑞宝章。 長崎市出身。1916年(大正5年)に早稲田大学法学部を卒業すると、普通選挙運動に関わり1921年(大正10年)からヨーロッパへ外遊。1924年(大正13年)に帰国すると同年5月の総選挙に中立候補として出馬し水産大学の誘致・総合大学の設置・国立博物館の建設等の6大政策を掲げたが、憲政会の対立候補だった本田恒之がそれを利益誘導として西岡を告訴したものの、結果的に本田・則元卯太郎(政友本党)と激戦の末に2,385票の最高点で初当選した。
多賀 秀敏(たが ひでとし、1890年(明治23年)5月28… 多賀 秀敏(たが ひでとし、1890年(明治23年)5月28日 - 1934年(昭和15年)7月14日)は、朝鮮総督府官僚。正五位勲六等。 大阪府大阪市出身。1918年(大正7年)、東京外国語学校英語学科を卒業。1921年(大正10年)には京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、翌年に高等試験行政科に合格した。朝鮮総督府属、道警視、咸鏡南道商工課長・審査課長、同水産課試験場長、忠清南道学務課長・土木課長、京畿道学務課長、忠清南道財務部長、慶尚北道財務部長、大邱府尹、光州税務監督局長などを歴任した。 1934年(昭和15年)7月14日、病気療養中に大阪市の大阪帝国大学医学部附属医院で死去、44歳。同年5月中旬より入院していた。
木下一雄(きのした かずお、1890年5月27日 - 198… 木下一雄(きのした かずお、1890年5月27日 - 1989年5月26日)は、日本の教育学者。儒教風道徳教育を是とし、日教組と対立した。
安居院 経市(あごいん きょういち、1890年(明治23年)… 安居院 経市(あごいん きょういち、1890年(明治23年)5月25日 - 1978年(昭和53年)10月6日)は、大正から昭和時代の銀行家。実業家。 安居院栄三郎の三男として兵庫県に生まれ、1914年(大正3年)叔父・音吉の家督を継ぐ。1917年(大正6年)京都帝国大学法科政治科を卒業し、三菱銀行に入社する。その後、日本橋支店副長、本店内国課副長、四谷・小樽・大森・横浜各支店長を経て参事となった。1944年(昭和19年)退職。後に興亜石油常務取締役を務め、1978年(昭和53年)に老衰により東京都大田区北千束の自宅にて死去した。 ほか、淡路産業相談役、東京銀座ライオンズクラブ会長、東興商会社長、同相談役などを歴任した。
森田 重次郎(もりた じゅうじろう、1890年5月25日 -… 森田 重次郎(もりた じゅうじろう、1890年5月25日 - 1988年5月12日)は、日本の政治家。位階は従三位。衆議院議員(7期)。 青森県上北郡上北町(現東北町)出身。幸次郎の長男。1911年、青森師範卒業。1937年、衆議院議員に当選。戦後、公職追放されたが、1952年の総選挙で当選して国政に復帰し、衆議院議員を通算7期務めた。 1973年4月の春の叙勲で勲四等から勲一等に叙され、瑞宝章を受章する。 1988年5月12日、死去。97歳没。同月17日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で従三位に叙された。
諏訪 熊太郎(すわ くまたろう、1890年(明治23年)5月… 諏訪 熊太郎(すわ くまたろう、1890年(明治23年)5月23日 - 1975年(昭和50年)1月26日)は、日本のキリスト教宣教家。
佐成 謙太郎(さなり けんたろう、1890年5月23日 - … 佐成 謙太郎(さなり けんたろう、1890年5月23日 - 1966年3月4日)は、国文学者。 滋賀県出身。京都帝国大学文学部を卒業した。1924年、女子学習院教授に就任した。戦後は大東文化大学教授、学校法人鎌倉女学院理事長を務めた。中古・中世文学を専門とし『謡曲大観』全7巻、『対訳源氏物語』の業績がある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
中原 延平(なかはら のぶへい、1890年 <明治23年> … 中原 延平(なかはら のぶへい、1890年 <明治23年> 5月23日 - 1977年 <昭和52年> 2月25日)は、日本の経営者。兵庫県三原郡神代村(現在の南あわじ市)出身。長男は日本銀行政策委員会審議委員の中原伸之。 1916年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業。富士製紙、小倉石油などでの勤務を経て、1939年に東亜燃料工業常務に就任し、1944年1月には社長に昇格。1962年2月には相談役に就任。 1959年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等瑞宝章を受章。 19772月25日呼吸不全のために死去。86歳没。
三木 森彦(みき もりひこ、 1890年(明治23年)5月2… 三木 森彦(みき もりひこ、 1890年(明治23年)5月21日 - 1973年(昭和48年)7月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。東京都目黒区出身。
名取 堯(なとり たかし、1890年5月21日 - 1975… 名取 堯(なとり たかし、1890年5月21日 - 1975年)は、日本の思想史学者、芸術学者。 長野県諏訪郡落合村(現・富士見町)生まれ。旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、長野師範学校を卒業後、小学校に2年勤務後、1918年早稲田大学文学部卒業。 日本美術学校(後の日本美術専門学校)講師。1929年帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)教授。1934年同校校長 北昤吉に学校二分案を提示し、翌1935年、同盟休校事件が発生し、帝国美術学校より多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)が分離独立。1948年1月造型美術学園(現・武蔵野美術大学)経営顧問。1948年11月武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)校長。
杉浦 武雄(すぎうら たけお、1890年(明治23年)5月2… 杉浦 武雄(すぎうら たけお、1890年(明治23年)5月20日 - 1963年(昭和38年)9月12日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(6期)、参議院議員(1期)。位階は正四位、勲等は勲二等。
堤 隆(つつみ のぼる、1890年(明治23年)5月20日 … 堤 隆(つつみ のぼる、1890年(明治23年)5月20日 - 1947年(昭和22年)2月22日)は、大正から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・黒川。 滋賀県神崎郡、のちの永源寺町甲津畑(現・東近江市甲津畑町)で、浄土真宗大谷派浄源寺住職・黒川霊瑞、マサノの三男(兄2人妹2人)として生まれた。甲津畑尋常高等小学校、滋賀師範学校を経て、1914年(大正3年)広島高等師範学校を卒業し、さらに1917年(大正6年)京都帝国大学文科大学哲学科を卒業した。京大入学の際に、滋賀県長浜の医師・堤泰造、コトの末娘(兄2人姉2人)千代と結婚し婿養子となる。養母コトは父方の伯母で、千代は従姉妹である。 小学校訓導を務めた後、1918年(大正7年)2月、新洋丸でハワイに渡航し在ヒロ市日本人ハイスクール校長に就任した。
2代 瀧井 治三郎(滝井、たきい じさぶろう、1890年(明… 2代 瀧井 治三郎(滝井、たきい じさぶろう、1890年(明治23年)5月19日 - 1973年(昭和48年)12月11日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。位階は正五位。 参議院議員(1期)。幼名は虎三。タキイ種苗社長。(同社の会社概要では3代目瀧井治三郎) 京都府京都市下京区猪熊通梅小路上ル南夷町で、農業、種苗業「大森屋」を営む先代・瀧井治三郎の三男として生まれる。梅逕尋常小学校を経て、1908年(明治41年)京都府商業学校予科1年在学中に父が死去し、種苗業を廃業することを決めたが取引先の懇請により営業継続となり、商業学校を中退して2代・治三郎を襲名した(タキイ種苗の会社概要では1906年に3代目治三郎を襲名、『人事興信録』でも家督相続と襲名は1906年としている)。
亀山 直人(かめやま なおと、1890年5月19日 - 19… 亀山 直人(かめやま なおと、1890年5月19日 - 1963年3月28日)は、日本の応用化学者。写真の色素増減や二次電池理論の研究等、日本の電気化学工業の発展に尽力した。
向井 山雄(むかい やまお、1890年(明治23年)5月19… 向井 山雄(むかい やまお、1890年(明治23年)5月19日 - 1961年(昭和36年)2月24日)は、アイヌ民族出身で正式の聖公会の司祭になった人物である。バチェラー八重子の弟である。長く聖職者として奉仕するとともに、アイヌの地位と教育の向上に尽力し、北海道アイヌ協会初代理事長を務めた。伊達町(現・伊達市)会議員も務め、地域の発展に大きく貢献した。 1890年(明治23年)に北海道の有珠(現・伊達市)に生まれた。姉のバチェラー八重子の養父となる英国聖公会宣教協会(CMS)の宣教師ジョン・バチェラーから感化を受けてキリスト教に入信する。 1905年(明治38年)函館区谷地頭のアイヌ小学校から創成高等小学校に編入して2年間で修了し、1906年(明治39年)4月には東京へ出て、築地の旧制立教中学校に入学する。
坂田 昌亮(さかた まさあき、1890年5月17日 - 19… 坂田 昌亮(さかた まさあき、1890年5月17日 - 1960年12月24日)は、日本の技術者、政治家。内務省技師、満州国交通部技監などを務めて土木行政に携わったのち、八代市長、荒尾市長を歴任、2つの地方工業都市の首長を務め、戦後の復興に尽力した。 熊本県八代郡八代町(現在の八代市)出身。1913年(大正2年)、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。 大学卒業後、内務省土木局の技師となり、1917年(大正6年)、最上川改修、酒田築港の任に当たった。 1937年(昭和12年)より、満州国へ赴任、道路司長、技監として哈大道路の建設など、道路行政に携わった。1943年(昭和18年)に本土に引き上げ、神戸市技監兼港湾局長を務めた。
押川 定秋(おしかわ さだあき、1890年(明治23年)5月… 押川 定秋(おしかわ さだあき、1890年(明治23年)5月17日 – 1951年(昭和26年)5月10日)は、日本の弁護士、衆議院議員(民主党)。 宮崎県児湯郡高鍋町出身。定澄の三男。独習にて普通学を修め、1914年、郷里高鍋を出て上京して苦学力行しつつ1917年(大正6年)、明治大学法科を卒業、同年弁護士を開業した。 東京府会議員、同市部会議長に選出された。また神奈川県農機具工業組合理事長、同農機具工業統制組合理事長、同農機具工業協同組合理事長を務めた。 1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。その他、細王舎工場合資会社代表社員を務めた。 宗教は神道。趣味は政治。 宮崎県児湯郡高鍋町、東京市小石川区同心町
佐竹 哲雄(さたけ てつお、1890年5月16日 - 198… 佐竹 哲雄(さたけ てつお、1890年5月16日 - 1981年3月26日)は、広島県出身の哲学者。主な専門は現象学。勲四等瑞宝章受賞。 広島県出身。第四仏教中学卒業後。1916年、東京帝国大学文学部哲学学科卒業。1919年、第八高等学校教授に就任。1945年、同職を退職。1949年、熊本大学教授に就任。1951年、東京都立大学教授に就任。1957年、東洋大学教授に就任。 1981年3月26日、逝去。享年90歳。墓所は青山霊園。
竹内 克巳(たけうち かつみ、1890年(明治23年)5月1… 竹内 克巳(たけうち かつみ、1890年(明治23年)5月16日 - 1973年(昭和48年)2月22日)は、大正から昭和期のジャーナリスト、出版業者、政治家。衆議院議員。号・夏積。鳥居素川の愛弟子として知られた。「克己」と表記される場合がある。 福井県福井市出身。京都で成長した。京都帝国大学文科大学文学科で学んだ。 大阪朝日新聞社に入社し、記者として務め、その後、海外特派員となった。鳥居に抜擢され1919年(大正8年)大正日日新聞社販売部長となるが、販売不振のため退職。その後、満州日報社取締役主筆を務めた。戦時下、外務省の外郭団体(文化団体)「聞人会」を主宰し理事長となり銀座のビルに事務所を置いていた。
石井 平雄(いしい ひらお、1890年5月15日 - 没年不… 石井 平雄(いしい ひらお、1890年5月15日 - 没年不詳)は、日本の裁判官、弁護士。 白石儀七の四男として大阪府に生まれる。1909年福岡県立中学修猷館を経て、1917年東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1923年石井家の養子となる。 1917年司法官試補となり、大阪地方裁判所、和歌山地方裁判所、高知地方裁判所、再び大阪地方裁判所の判事を経て、大阪控訴院(現・大阪高等裁判所)判事に就任。その後、1934年12月大阪地方裁判所部長判事、再び大阪控訴院判事を経て、1940年12月京都地方裁判所部長判事となる。退官後に弁護士となった。
野村 嘉久馬(のむら かくま、1890年(明治23年)5月1… 野村 嘉久馬(のむら かくま、1890年(明治23年)5月15日 - 1959年(昭和34年)3月4日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、宮崎県会議長、宮崎県西諸県郡高原町長。 宮崎県西諸県郡高原村大字西麓(現高原町西麓)で、野村嘉太郎の二男として生まれる。1912年(明治45年)東京農業大学高等科を卒業した。帰郷して農業を営む。1928年(昭和3年)家督を相続した。 高原村会議員、高原町長、宮崎県会議員、同参事会員、宮崎県養蚕組合連合会長などを務め、1939年(昭和14年)県会議長に就任した。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙で宮崎県全県区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選。
下出 義雄(しもいで よしお、1890年(明治23年)5月1… 下出 義雄(しもいで よしお、1890年(明治23年)5月12日 - 1958年(昭和33年)1月20日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の実業家・教育者・政治家。実業家で貴族院議員も務めた下出民義の長男。父の事業を継ぎ名古屋財界にて活動し、大同製鋼(現・大同特殊鋼)社長や名古屋証券取引所理事長などを務める。事業界での活動の傍ら学校経営にも携わったほか、1942年(昭和17年)から1期のみ衆議院議員も務めた。 下出義雄は1890年(明治23年)5月12日、下出民義の長男として大阪市に生まれた。母あいは、父民義とともに大阪市の石炭商社に参加していた大阪安治川の石炭商西井直次郎の妹である。父民義は1889年に大阪から愛知県へと移り、名古屋市近郊の熱田町にて石炭商として開業していたが、母は郷里の大阪へと帰って義雄を出産した。
野辺地 慶三(のべち けいぞう、1890年(明治23年)5月… 野辺地 慶三(のべち けいぞう、1890年(明治23年)5月11日 - 1978年(昭和53年)6月25日)は、昭和時代の細菌学者、公衆衛生学者。 岩手県盛岡市新築地(現・大通三丁目)にて野辺地慶治・せんの三男として生まれる。盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)、第一高等学校(現・東京大学教養学部)を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学医学部を卒業した。卒業後、伝染病研究所に入り、血清学的にコレラ菌を3つに分類できることを提唱した。また、1923年(大正12年)から米国に留学し、ハーバード大学公衆衛生学部を首席で卒業し、公衆衛生学博士となり、1927年(昭和2年)に帰国した。帰国後は国立公衆衛生院の創設と運営に尽くし、日本の保健所制度の礎を築いた。