勝亦 干城(かつまた たてき、1892年〈明治25年〉5月2… 勝亦 干城(かつまた たてき、1892年〈明治25年〉5月26日 - 1953年〈昭和28年〉6月12日)は、昭和時代の政治家。漁業家。実業家。静岡県沼津市長。 静岡県出身。県立沼津中学校を経て、1916年(大正5年)明治大学商科卒業。 歩兵第18連隊へ一年志願兵として入隊し、陸軍三等主計に進んだ。千本浜で定置網漁を営む傍ら、1939年(昭和14年)9月に沼津市会議員に当選。1943年(昭和18年)9月には同議長に推挙された。ほか、駿東地方事務所参与、沼津漁業会長、静岡県水産業会副会長を歴任した。 1945年(昭和20年)11月、沼津市の最後の官選市長に就任。戦後の混乱期にあって復興部を設け庶務・土木・都市計画・建設・水道の5課を置き戦災復興を進めた。
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小西 作太郎(こにし さくたろう、1892年5月25日 - … 小西 作太郎(こにし さくたろう、1892年5月25日 - 1985年2月5日)は、日本の実業家。朝日新聞社元常務。全国高校野球の生みの親でもある。京都府京都市出身。 京都第二中学、旧制三高を経て、1918年に京都帝国大学工学部卒業。1921年に朝日新聞社に入社。印刷部長、印刷局長、常務などを歴任し、特に印刷部門でアメリカから高速度輪転機を導入したり、他社よりも先駆けて扁平活字を考案し採用した。 京都二中時代は捕手を務め、のちに京都市長となる高山義三とバッテリーを組んだ。第三高校では主将となり、高山と相談した上で、大阪朝日京都通信部主催で、中等野球の京津大会の開催を実現させた。これが契機となり、全国中等学校優勝野球大会が始まった。
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梅津 芳三(うめづ よしぞう、1892年(明治25年)5月2… 梅津 芳三(うめづ よしぞう、1892年(明治25年)5月25日 - 1977年(昭和52年)5月17日)は、日本の内務官僚。神奈川県横須賀市長。 岩手県稗貫郡花巻町(現在の花巻市)出身、盛岡中学卒業。東京帝国大学法科大学英法科在学中の1916年(大正5年)に高等文官試験に合格し、翌年に卒業した。大分県属、高知県警視、同理事官、兵庫県理事官、群馬県書記官・警察部長、山梨県書記官・警察部長、静岡県書記官・警察部長を歴任した。 1930年(昭和5年)、神戸市助役となり、神戸市中央卸売市場長事務、神戸海港博覧会事務を執った。さらに1934年(昭和9年)には横浜市助役に就任した。その後、京浜地区魚類配給統制協会専務理事を務めていたが、1943年(昭和18年)に横須賀市長に選出され、1947年(昭和22年)まで務めた。
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綾錦 由之丞(あやにしき よしのじょう、1892年5月25日… 綾錦 由之丞(あやにしき よしのじょう、1892年5月25日 - 1963年2月21日)は、青森県南津軽郡尾上町(現在の平川市)出身で追手風部屋所属の元大相撲力士。本名は斎藤 由之丞(さいとう よしのじょう)。身長173cm、体重90kg。最高位は張出前頭筆頭格。得意手は右四つ、吊り、投げ。 1913年1月に追手風部屋に入門して、同年1月場所に前相撲で初土俵を踏んだ。1916年1月場所には部屋付き親方であった湊川親方(関脇・綾浪源逸)の独立に伴い湊川部屋に移籍した。1919年1月場所に新十両、1922年1月場所で新入幕を果たした。右四つからの吊りや投げを得意とした相撲巧者だったが、取り口は地味だった。
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山口 久吉(やまぐち ひさきち、1892年5月24日 - 1… 山口 久吉(やまぐち ひさきち、1892年5月24日 - 1968年5月20日)は、日本の医師、弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。 東京都出身。日本医学校(現・日本医科大学)に学び、1920年、明治大学法律科を卒業する。医師となり、警視庁検疫医員、長谷川病院勤務、仁寿生命保険(株)審査医となる。精工塗料(資)代表社員、東洋青果市場(株)取締役、東京都指圧師会長を務める。弁護士の業務に従事し、東京市議、東京都議となった。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において東京7区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが落選。1936年の第19回衆議院議員総選挙で当選した。1937年の第20回衆議院議員総選挙では昭和会から立候補したが落選した。
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佐藤 一男(さとう かずお、1892年5月23日 - 195… 佐藤 一男(さとう かずお、1892年5月23日 - 1959年10月29日)は、日本の鉄道技術者、実業家。 広島県福山市出身。1918年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、京阪電気鉄道に入社。 車両技術部門で活躍し、全鋼製ロマンスカー京阪1550型電車の設計、製作に携わり、欧米での留学で得た知識を生かして、日本最初の連接車である京阪60型電車(びわこ号)を立案、建造した。 取締役、常務、専務を経て、1943年に陸上交通事業調整法による阪神急行電鉄との統合により、京阪神急行電鉄副社長に就任した。 1946年11月に公職追放を受け、副社長を辞任し、相談役に就任した。 1959年10月29日死去。
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齋藤 悠輔(さいとう ゆうすけ、1892年〈明治25年〉5月… 齋藤 悠輔(さいとう ゆうすけ、1892年〈明治25年〉5月21日 - 1981年〈昭和56年〉3月26日)は、日本の最高裁判所判事。 栄典・称号は、正三位・勲一等瑞宝章・温海町名誉町民(後の鶴岡市名誉市民)。山形県西田川郡温海町(後の鶴岡市)出身。 山形県西田川郡温海町湯温海の刀工・齋藤清人の息子として生まれる。1910年、荘内中学校(後の山形県立鶴岡南高等学校)卒業(同窓生に石黒岩太がいた。)。第一高等学校卒業。 1917年、東京帝国大学法学部卒業。大阪地方裁判所司法官試補 任官。1918年、同裁判所判事 任官。1926年、大阪控訴院判事 任官。1935年、東京地方裁判所検事 任官。1937年、司法制度を調査するため欧米諸国を歴訪する。
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黒川 渉(くろかわ わたる、1892年(明治25年)5月21… 黒川 渉(くろかわ わたる、1892年(明治25年)5月21日 - 1950年(昭和25年)12月25日)は、司法官僚、検事。 東京市出身。1910年(明治43年)、東京府立四中卒業。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学独法科卒業。同年、司法官試補となり、東京地方裁判所に勤務した。 翌年、検事となり、神戸地方裁判所、東京地方裁判所を歴任した。1926年(大正15年)より書記官として司法省刑事局に勤務し、1932年(昭和7年)には大臣官房会計課長となる。1935年(昭和10年)、大審院検事に転じる。1939年(昭和14年)には司法省刑事局長となり、東京控訴院検事を経て、1941年(昭和16年)に大審院検事となった。
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小早川 博(こばやかわ ひろし、1892年〈明治25年〉5月… 小早川 博(こばやかわ ひろし、1892年〈明治25年〉5月21日 - 1980年〈昭和55年〉10月)は、愛知県額田郡本宿村(現・岡崎市上衣文町)出身の地方自治功労者。本宿村会議員、本宿村長、岡崎市議会議員、岡崎市議会議長。 1892年(明治25年)5月21日、愛知県額田郡本宿村上衣文森下35(現・岡崎市上衣文町森下)に生まれた。「知多郡内海町に生まれ、1911年(明治44年)に小早川家に養子に入った」とする文献もある。父の小早川九七も農業の傍らで本宿村会議員を務めた人物である。 1906年(明治39年)には東海高等小学校を卒業し、家業である農業に従事していた。江戸時代の本宿村は赤坂宿と藤川宿の間にある東海道の間の宿であり、松平家所縁の寺である法蔵寺は大名や旅人などの参拝者が絶えなかったとされるが、近代になると官設鉄道(現・JR東海道本線)の経路から外れたことで往来が減っていた。
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三枝 博音(さいぐさ ひろと、1892年〈明治25年〉5月2… 三枝 博音(さいぐさ ひろと、1892年〈明治25年〉5月20日 - 1963年〈昭和38年〉11月9日)は、日本の哲学者。 思想史・科学史・技術史についての研究も多い。 広島県山県郡本地村(現・北広島町)出身。生家は浄土真宗の寺院・浄専坊。第四仏教中学(現・崇徳高等学校)を経て、東京帝国大学文学部哲学科に進む。在学中1年間の兵役体験から、社会的なものへ傾倒しマルクス主義に没頭した。 1922年大学卒業後は同郷で、医学史の大家・富士川游に師事。東洋大学、立正大学、法政大学などで教職に就いた。1928年、無神論運動を起こす。1931年半年間ドイツに留学、世界観の変革に多大な影響を受けた。1932年に戸坂潤らとともに唯物論研究会の創立に参加。
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柳 兼子(やなぎ かねこ、1892年(明治25年)5月18日… 柳 兼子(やなぎ かねこ、1892年(明治25年)5月18日 - 1984年(昭和59年)6月1日)は、日本の声楽家(アルト歌手)。白樺派の柳宗悦の妻である。長男の柳宗理は工業デザイナー、次男の柳宗玄は美術史家、三男の柳宗民は園芸家として知られている。
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山本 作兵衛(やまもと さくべえ / さくべい、1892年〈… 山本 作兵衛(やまもと さくべえ / さくべい、1892年〈明治25年〉5月17日 - 1984年〈昭和59年)12月19日〉)は、福岡県出身の炭鉱労働者、炭鉱記録画家。 日本で初めてユネスコ記憶遺産(世界の記憶)の登録を受けた炭鉱画で知られる。 1892年(明治25年)、福岡県嘉麻郡笠松村鶴三緒(現・飯塚市)で、石炭を輸送する川舟の船頭をしていた山本福太郎の次男として産まれる。1899年(明治32年)、1893年(明治26年)に開通した筑豊本線によって石炭輸送の代替が進んだため、福太郎は川舟を廃業して一家で上三緒炭坑(現・飯塚市)に移住し、炭鉱夫に転職した。作兵衛も7歳で兄とともに炭鉱に入り、父の仕事を手伝うようになる。
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石川 興二(いしかわ こうじ 1892年5月16日 - 19… 石川 興二(いしかわ こうじ 1892年5月16日 - 1976年3月25日)は、昭和時代に活動した日本の経済学者、教育者。経済学博士(京都帝国大学)。京都大学名誉教授。 第六高等学校を経て、1917年に京都帝国大学法科大学政治経済科を卒業。在学時には西田幾多郎の指導を受け、日本では先例のない経済哲学を研究した。経済学は河上肇を師として慕った。1920年より京都帝国大学経済学部講師、彦根高等商業学校教授を務め、1926年から京都帝国大学経済学部助教授、次いで1930年には教授となった。同年、同大学経済学博士。1937年から評議員として大学運営に参画、1939年に経済学部長に就任。1943年には著書『新体制の指導原理』(1940年)の記述内容が帝国議会に於いて問題視され休職処分を受けている(いわゆる石川事件)。
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中村 正雄(なかむら まさお、1892年(明治25年)5月1… 中村 正雄(なかむら まさお、1892年(明治25年)5月15日 - 1939年(昭和14年)12月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。岳父は陸軍砲兵大佐 藤室松次郎(陸士旧8期)。功二級。 石川県出身。中村三雄の息子として生まれる。金沢第一中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年5月、陸軍士官学校(25期)を卒業、同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第35連隊付となる。1920年11月、陸軍大学校(32期)を卒業。 参謀本部付勤務、参謀本部部員、フランス大使館付武官補佐官、陸大教官、参謀本部部員、歩兵第18連隊大隊長、陸軍歩兵学校教官、イタリア大使館付武官、参謀本部部員兼軍令部部員、第12師団参謀長、参謀本部通信課長などを歴任し、1939年3月、陸軍少将に進級。
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大塚 金之助(おおつか きんのすけ、1892年5月15日 -… 大塚 金之助(おおつか きんのすけ、1892年5月15日 - 1977年5月9日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。 近代経済学から始め、ベルリン大学留学後、マルクス経済学者となり、治安維持法で検挙された。日本の降伏後復帰し、日本学士院会員、日本ドイツ民主共和国友好協会会長等を務めた。フンボルト大学名誉哲学博士。 1892年、東京府神田で生まれた。旧制神戸第一中学校(現兵庫県立神戸高等学校)を経て、神戸高等商業学校(現・神戸大学)に進学。在学中は授業料免除特待生であり、坂西由蔵ゼミで学んだ。その後東京高等商業学校(現・一橋大学)専攻部に進み、坂西の師にあたる福田徳三ゼミで指導を受けた。1916年に卒業。
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三輪 茂義(みわ しげよし、1892年5月15日 - 195… 三輪 茂義(みわ しげよし、1892年5月15日 - 1959年2月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
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東屋 三郎(あずまや さぶろう、1892年5月15日 - 1… 東屋 三郎(あずまや さぶろう、1892年5月15日 - 1935年7月3日)は、日本の俳優である。本名は油屋 三三郎(あぶらや さんざぶろう)。 1892年(明治25年)5月15日、東京市神田区駿河台南甲賀町(現在の東京都千代田区神田駿河台三丁目)に「油屋 三三郎」として生まれる。父親は代議士の光妙寺三郎、母親は柳橋の芸者・お六。1893年の父の死後は、父の親友であった西園寺公望が引き取って養育した。 慶應義塾大学に入学、在学中に青山杉作らと出会い、1917年(大正6年)2月17日、新劇の劇団「踏路社」を結成する。『画家とその弟子』で初舞台を踏む。 1920年代には、舞台協会に参加し、1923年(大正11年)、舞台協会が日活向島撮影所と出演提携を結び、サイレント映画に出演する。
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宮沢 才吉(みやざわ さいきち、1892年(明治25年)5月… 宮沢 才吉(みやざわ さいきち、1892年(明治25年)5月15日 - 1956年(昭和31年)5月11日)は、日本の政治家。衆議院議員。 長野県小県郡祢津村(現東御市)生まれ。大正8年(1919年)村収入役となり、学校移転問題で村政が紛糾する中、同14年(1925年)村長に推挙されて解決し、昭和10年(1935年)長野県会議員を戦時特例で村長と兼任した。昭和21年(1946年)第22回衆議院議員総選挙に当選、翌年(1947年)公職追放された。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
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玉田 昇次郎(たまだ しょうじろう、1892年(明治25年)… 玉田 昇次郎(たまだ しょうじろう、1892年(明治25年)5月13日 - 1938年(昭和13年)2月16日)は、日本の内務・警察官僚。官選香川県知事。 愛知県中島郡稲沢村(現稲沢市)出身。第一高等学校を卒業。1919年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し京都府属となる。同年10月、高等試験行政科試験に合格。 以後、京都府警視、北海道庁理事官、同事務官、都市計画地方委員会事務官兼地方事務官、大阪府勤務、山梨県書記官・学務部長、同県書記官・警察部長、千葉県書記官・警察部長、埼玉県書記官・総務部長などを歴任。 1937年12月、香川県知事に就任。着任以来、体調が優れず、登庁したのは一日だけで、在任中に死去した。
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高田 富與(たかだ とみよ、1892年5月11日 - 197… 高田 富與(たかだ とみよ、1892年5月11日 - 1976年10月17日)は、日本の弁護士、政治家。札幌市議、第5代札幌市長(在任1947年 - 1959年。3期。初代公選市長)、自由民主党所属の衆議院議員(2期)。 福島県石城郡大野村(現・いわき市)生まれ。従兄の子に鯨岡兵輔がいる。11歳で渡道し、豊平村(現・札幌市豊平区)の知人宅に身を寄せる。100日余で野幌兵村(現・江別市野幌)の親戚を頼って転居。江西尋常高等小学校(現・江別第二小学校)高等科卒業までの3年半を過ごす。卒業後、札幌郵便局通信伝習生養成所で学び、電信の取り扱いを習得。修了後は郵便局職員として岩見沢に赴任。1908年7月から江別郵便局勤務。
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山口 青邨(やまぐち せいそん、1892年〈明治25年〉5月… 山口 青邨(やまぐち せいそん、1892年〈明治25年〉5月10日 - 1988年〈昭和63年〉12月15日)は、日本の俳人・鉱山学者。岩手県出身。東京大学名誉教授。 本名は吉郎(きちろう)。初号は泥邨。高浜虚子に俳句を師事、工学博士として東京大学に勤めながら俳誌「夏草」を主宰した。 岩手県盛岡市出身。父は士族の家柄。5歳のときに母が死去し、母方の叔父笹間夫妻の元で育った。岩手県立盛岡中学校卒業、1910年、第二高等学校入学。野球部でキャプテンを務めた。1916年、東京帝国大学工科大学採鉱科卒業。古河鉱業に入社。1918年、退社し農商務省技師として鉱山省に勤務。19年にはシベリア炭鉱を調査した。
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山本 募(やまもと つのる、1892年(明治25年)5月10… 山本 募(やまもと つのる、1892年(明治25年)5月10日 - 1963年(昭和38年)10月27日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福岡県出身。農業・山本勘四郎の三男として1892年(明治25年)に生まれた。旧制東筑中学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校第26期卒業。同年12月歩兵少尉に任官し、歩兵第7連隊附となる。1922年(大正11年)陸軍大学校第34期卒業。1923年(大正12年)より歩兵第7連隊中隊長心得、陸軍兵器本廠附、陸軍省整備局課員、歩兵第1連隊附(日大附属中学校配属)、津軽要塞参謀、陸軍省整備局課員などを歴任。 1936年(昭和11年)に台湾軍司令部附を経て、1937年(昭和12年)に台湾軍参謀に就任。
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丸山 敏雄(まるやま としお、1892年5月5日 - 195… 丸山 敏雄(まるやま としお、1892年5月5日 - 1951年12月14日)は、日本の教育者、社会教育家、書家。倫理研究所、秋津書道院、しきなみ短歌会の創立者。戦後の日本において、倫理運動と呼ばれる生活改善運動を創始した。 1892年(明治25年)5月5日、福岡県上毛郡合河村字天和(現在の福岡県豊前市天和)に、半三郎・ギン夫妻の四男として生まれる。 父親は浄土真宗の熱心な信徒で、神仏礼拝を重んじた。家の跡継ぎではない敏雄を僧侶にしたいとの願いから、父親は「信を取れ!」と言い続け、敏雄に厳格な信仰教育を施した。 10歳の時、敏雄は従兄と家の近所の池で遊んでいた際に溺れてしまったが、近くに住む青年に助けられた。
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榎本 芝水(えのもと しすい、1892年〈明治25年〉5月5… 榎本 芝水(えのもと しすい、1892年〈明治25年〉5月5日 - 1978年〈昭和53年〉8月19日)は日本の琵琶奏者。本名榎本 弁之助。 1892年(明治25年)東京市日本橋区檜物町に生まれる。1909年(明治42年)1月に永田錦心の一水会に入り同氏に師事。1936年(昭和11年)5月に独立して芝水流宗家を創立する。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
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松下 芳男(まつした よしお、1892年〈明治25年〉5月4… 松下 芳男(まつした よしお、1892年〈明治25年〉5月4日 - 1983年〈昭和58年〉4月9日)は、日本陸軍の軍人(陸軍中尉)・軍事評論家・軍事史家。「明治軍制史論」で法学博士(東京大学)。新潟県新発田町(新発田市)出身。 祖父は越後長岡藩藩士、父は陸軍少佐松下亀蔵である。松下はその長男として生まれる。松下の長男は東京大学教授。小学校時代の友人の兄に大杉栄がおり、大杉の死の直前まで交友があった。新発田中学、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、大正2年(1913年)に陸軍士官学校を卒業(25期)。士官学校の同期には武藤章・富永恭次・田中新一らがいる。 同年、陸軍歩兵少尉となり、弘前の歩兵第52連隊に配属される。
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大村 清一(おおむら せいいち、旧字体: 大村淸一、1892… 大村 清一(おおむら せいいち、旧字体: 大村淸一、1892年(明治25年)5月4日 - 1968年(昭和43年)5月24日)は、日本の内務官僚、弁護士、政治家。衆議院議員(6期、自由民主党)。貴族院議員(勅選)、防衛庁長官(第2代)、内務大臣(第65代)。日本林業協会長、相模女子大学長。 防衛庁長官を務めた大村襄治は子。岳父は東大名誉教授本多静六。 岡山県津山市に生まれる。大村吉五郎の長男。 鹿児島高等農林学校卒業の後、1917年(大正6年)京都帝国大学法科大学独法科卒業。同大学院修了。内務省に入省。土木局属。鹿児島県揖宿郡長、東京市主事、地方、復興局、内務、鉄道各事務官、内務書記官、長野、神奈川県知事となり、長野県知事を2度務め話題になった。
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簗瀬 真琴(やなせ まこと/やなせ まさこと、1892年(明… 簗瀬 真琴(やなせ まこと/やなせ まさこと、1892年(明治25年)5月2日 - 1978年(昭和53年)10月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 福島県出身。簗瀬家は旧会津藩士で北原家、内藤家と会津三家と称された家である。幕末の当主で家老を務めた簗瀬三左衛門は簗瀬の祖父にあたる。三左衛門は西郷頼母、田中玄清以上の高禄(2200石)を食んだ。白虎隊士として自刃した簗瀬勝三郎、簗瀬武治は簗瀬の血族である。 会津中学を経て陸軍士官学校26期。1914年(大正3年)12月歩兵少尉に任官。少佐時代に近衛歩兵第1連隊附として麻布中学配属将校、中佐時代は近衛歩兵第3連隊附を務めている。 支那派遣軍高級副官を経て、橘連隊の異名を持つ歩兵第34連隊の連隊長として日中戦争に出征。
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田口運蔵(たぐち うんぞう、1892年(明治25年)5月1日… 田口運蔵(たぐち うんぞう、1892年(明治25年)5月1日 - 1933年(昭和8年)10月26日)は、日本の社会主義運動家。コミンテルン初期の日本人代表として知られる。
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須田 皖次(すだ かんじ、1892年〈明治25年〉5月1日 … 須田 皖次(すだ かんじ、1892年〈明治25年〉5月1日 - 1976年〈昭和51年〉2月19日)は、日本の海洋学者(理学博士)。東海大学名誉教授、初代海上保安庁水路部長をつとめた。 群馬県勢多郡横野村樽(赤城村を経て現・渋川市)生まれ。1913年(大正2年)群馬県師範学校本科第一部卒業、1917年(大正6年)東京高等工業学校教員養成所卒業。同年逓信省技手となる。 1921年(大正10年)東北帝国大学理学部物理学科を卒業。同年神戸海洋気象台入所。イギリス・アメリカ・ノルウェーへの留学を経て、1932年(昭和7年)中央気象台福岡支台長となった。1938年(昭和13年)、“On the dissipations of energy in the density current” (密度流内のエネルギーの損失に就いて)により理学博士(東北帝国大学)。
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伊藤 茂八郎(いとう もはちろう、1892年(明治25年)5… 伊藤 茂八郎(いとう もはちろう、1892年(明治25年)5月 - 1985年(昭和60年))は、日本の実業家。初代三興線材工業社長。第2代伊藤忠兵衛基金理事長。 滋賀県犬上郡豊郷町生まれ。1911年滋賀県立彦根中学校(滋賀県立彦根東高等学校)卒業。1915年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。1916年伊藤家に入籍。1917年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部卒業。 1920年の欧米への視察出張中設立された大同貿易の取締役に就任。1928年伊藤忠商事取締役。1934年伊藤忠商事取締役支店事務管掌。1937年伊藤忠商事取締役為替管理部長兼輸入部監督兼羊毛雑品部長。1939年伊藤忠商事取締役総務部長。
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牧 健二(まき けんじ、1892年5月(戸籍上は11月14日… 牧 健二(まき けんじ、1892年5月(戸籍上は11月14日) - 1989年7月24日)は、日本の法制史家。京都大学名誉教授。 京都府天田郡下川口村(現福知山市)出身。京都府立第三中学校・広島高等師範学校を経て、1918年7月に京都帝国大学文科大学史学科、また1921年に京都帝国大学法学部卒業。1923年に同大学法学部助教授となり、2年間訪欧し在外研究。帰国して後、1930年に教授となり、1933年の瀧川事件に際しては、大学当局の措置に対して辞表を撤回し残留。1935年「鎌倉時代ノ封建制度ノ研究、殊ニ封建的恩地私領ノ成立ニ就テ」により京都帝国大学法学博士。1941年からは法学部長を務め、1945年に退職する。
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永井 四郎(ながい しろう、1892年(明治25年)5月 -… 永井 四郎(ながい しろう、1892年(明治25年)5月 - 没年不詳)は、日本の拓務官僚、関東州官僚。 富山県出身。1916年(大正5年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。税務監督局属・大蔵省臨時調査局属、副司税官・長崎税務署長、司税官・神戸税務署長、税務監督局事務官・広島税務監督局経理部長、熊本税務監督局経理部長、仙台税務監督局間税部長、名古屋税務監督局直税部長、東京税務監督局直税部長を歴任。1929年(昭和4年)、拓務書記官・外務書記官・朝鮮部第二課長に転じ、さらに大臣官房文書課長を務めた。1932年(昭和7年)からは関東庁勅任事務官・大連民政署長・関東庁専売局長を務めた。
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伊藤 範治(いとう のりはる、1892年(明治25年)4月3… 伊藤 範治(いとう のりはる、1892年(明治25年)4月30日 - 1985年(昭和60年)10月31日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1892年(明治25年)に福井県福井市にて伊藤恒右エ門の四男として生まれた。陸軍士官学校第25期卒業。1938年(昭和13年)5月30日に高射砲第16連隊長に就任し、7月15日に陸軍砲兵大佐に進級した。1940年(昭和15年)8月に陸軍防空学校幹事に転じ、1941年(昭和16年)7月に第2高射砲隊長に着任。 1942年(昭和17年)8月1日に陸軍少将に進級し、11月9日に中部防空旅団長(中部軍)に着任。1944年(昭和19年)4月27日に砲兵監部附となり、8月22日に千葉陸軍高射学校長を経て、1945年(昭和20年)4月1日に西部高射砲集団長に着任。
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貫井 清憲(ぬくい きよのり、1892年〈明治25年〉4月2… 貫井 清憲(ぬくい きよのり、1892年〈明治25年〉4月28日 - 1984年〈昭和59年〉8月3日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、埼玉県児玉郡若泉村長、同阿久原村長、同神泉村長。 埼玉県児玉郡若泉村(のち阿久原村を経て神泉村、現:児玉郡神川町)で生まれる。1910年(明治43年)、群馬県立富岡中学校を卒業。 実業家としては1920年(大正9年)から9年間鬼石銀行(現・群馬銀行)取締役を、1922年(大正11年)から18年間上武自動車社長を、1933年(昭和8年)から8年間児玉郡乾繭組合長をそれぞれ務めた。また、1943年(昭和18年)に上信電鉄取締役に、1951年(昭和26年)に武蔵野銀行取締役にそれぞれ就任した。
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鷲尾 雨工(わしお うこう、本名:鷲尾 浩、1892年4月2… 鷲尾 雨工(わしお うこう、本名:鷲尾 浩、1892年4月27日 - 1951年2月9日)は日本の小説家。 新潟県西蒲原郡黒鳥村(現・新潟市西区黒鳥)生まれ。新潟県立小千谷中学校、早稲田大学英文科卒業。 作家を志し、学生時代にはダヌンツィオの『フランチェスカ・ダ・リミニ』を翻訳出版。卒業後、直木三十五と冬夏社を立ち上げ経営するも関東大震災により半年で倒産。 『吉野朝太平記』で第二回直木賞受賞。代表作に『明智光秀』『甲越軍記』などの歴史小説がある。 ペンネームは夫人が『南総里見八犬伝』から得たもの。
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田中 頼三(たなか らいぞう、1892年(明治25年)4月2… 田中 頼三(たなか らいぞう、1892年(明治25年)4月27日 - 1969年(昭和44年)7月9日)は、日本の海軍軍人。海兵41期。最終階級は海軍中将。 山口県山口市嘉川(旧嘉川村)の本間家の三男に生まれる。 旧制山口中学校を卒業。1913年(大正2年)12月海軍兵学校41期卒。生粋の駆逐艦乗りで、水雷屋としてキャリアを重ねた。 第一次世界大戦では第二特務艦隊に属し、地中海で連合国艦船の護衛任務に従事している。 第一次世界大戦後の1920年11月、山口県の田中家へ入籍し姓が田中となる。 太平洋戦争直前の1941年(昭和16年)9月15日、五藤存知少将の後任として第二水雷戦隊司令官となる。そのまま日米開戦を迎え、南方作戦・蘭印作戦に従事。
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成瀬 正一(なるせ せいいち、1892年4月26日 - 19… 成瀬 正一(なるせ せいいち、1892年4月26日 - 1936年4月13日)は、日本のフランス文学者。ロマン・ロランの翻訳・紹介を行った。大学卒業後まもなく創作から研究の道に転じ、九州帝国大学法文学部教授として仏蘭西浪漫主義思想を専門とした。43歳で病死したが、この時代の良き知識人として、後世の文学や美術研究に大いに寄与した。パリ留学中の1921年、松方幸次郎のアドバイザーとして松方コレクション(国立西洋美術館)の絵画彫刻の蒐集購入に協力した。 成瀬正恭(十五銀行頭取)の長男として、神奈川県横浜市に生まれる。 麻布中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学文科大学英文科卒業。大学在学中に芥川龍之介、久米正雄、菊池寛、松岡譲と第4次『新思潮』を創刊する。
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井上 起久子(いのうえ きくこ、1892年(明治25年)4月… 井上 起久子(いのうえ きくこ、1892年(明治25年)4月25日 - 不明)は日本の歌手、音楽指導者。歌手としては大正期から昭和戦前期にかけて、オペラ、歌謡曲、ジャズ、童謡など、幅広いジャンルで活動した。戦後は長らく音楽教室を主宰し後進の育成に努めた。 1892年(明治25年)4月25日に愛媛県新居郡西条町(現在の西条市)で生まれる。 西条高等女学校を経て、1914年(大正3年)に女子音楽学校卒業。小学校などでの音楽教師を経て帝国劇場洋劇部の第一期生としてイタリア人舞踏家ジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーに師事した。同年夏に帝国劇場にてオペラ歌手として初舞台を踏み、帝劇が財政難のためオペラから撤退した後は、ローシーに従って彼の設立したローヤル館で演じた。
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小室 孝雄(こむろ たかお、1892年(明治25年)4月23… 小室 孝雄(こむろ たかお、1892年(明治25年)4月23日 - 1955年(昭和30年)9月29日)は、日本の洋画家。 長野県南安曇郡東穂高村(現・安曇野市)に生まれる。東穂高農業補習学校(現長野県穂高商業高等学校)を卒業後、農業に従事するが、大正3年(1914年)に上京。本郷洋画研究所で岡田三郎助に師事して、油絵制作に精進し、大正15年(1926年)西荻窪にアトリエを構えた。大正5年(1916年)第10回文部省美術展(文展)に「静物」が初入選すると、以後入選を重ねる。昭和12年(1937年)に従軍画家として中国大陸に渡り、戦場や戦時下の都市の風景を描いた。「大日本陸軍従軍画家協会」の名簿には、石井柏亭、小磯良平、川端龍子、向井潤吉らとともに名を連ねている。
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赤石 二郎(あかし じろう、1892年4月22日 - 197… 赤石 二郎(あかし じろう、1892年4月22日 - 1977年3月27日)は、日本の経営者、銀行家。群馬県前橋市出身。 1919年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に加島銀行に入行。1929年に野村銀行に転じ、1938年に庶民金庫理事を経て、1948年に近畿無尽社長に就任。1963年に会長を経て、1967年4月には相談役に退いた。 1958年に黄綬褒章を受章し、1965年に勲四等瑞宝章を受章。 1977年3月27日心不全のために死去。84歳没。
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長口 宮吉(おさぐち みやきち、1892年4月22日 - 1… 長口 宮吉(おさぐち みやきち、1892年4月22日 - 1962年4月10日)は、日本の写真化学技術者。 1892年(明治25年)4月22日、現在の静岡県伊豆市小下田[要出典]に生まれる。東京薬学校(東京薬科大学の前身の一つ)を1914年に卒業した。その後、東京美術学校(現在の東京芸術大学)助手を経て[要出典]、東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部)教授を務めた。1933年(昭和8年)、日本最初の色彩写真を完成する。この方式は長口式天然写真として特許となり現代カラー写真の礎を築く。[要出典] 1939年(昭和14年)、富士写真フイルムに入社する。同社では技師を務め、カラーフィルム(フジカラー)の開発に成功した。
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2代 浜口 吉兵衛(はまぐち きちべえ、1892年4月22日… 2代 浜口 吉兵衛(はまぐち きちべえ、1892年4月22日 - 1975年6月26日)は、日本の経営者。第一生命保険社長を務めた。和歌山県出身。幼名・麟蔵。 1914年に早稲田大学商学科を卒業し、1944年6月に第一生命保険に入社し、監査役に就任。1950年7月に取締役、1954年5月に副社長を経て、1959年5月には社長に就任。1964年5月に取締役に就任し、1969年5月に顧問に退いた。その他、銚子醤油(現ヒゲタ醤油)社長を務めた。 1975年6月26日腸間膜血栓症のために死去。83歳没。
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原 善一郎(はら ぜんいちろう、1892年4月21日 - 1… 原 善一郎(はら ぜんいちろう、1892年4月21日 - 1937年8月6日)は大正、昭和の実業家。 横浜の大生糸商の原富太郎(原三渓)の長男として生まれた。東京府立第三中学校を経て早稲田大学卒業。1921年アメリカ留学。 祖父の原善三郎の養子となり、原合名会社の副社長となる。横浜興信銀行、帝国蚕糸の重役を務める。 芥川龍之介とは東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)における同級生で友人であった。他にも美術、文学の後援者として知られ、岸田劉生、阿部次郎、矢代幸雄、和辻哲郎、安倍能成との親交が知られる。
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羽鳥 又男(はとり またお、1892年(明治25年)4月20… 羽鳥 又男(はとり またお、1892年(明治25年)4月20日 - 1975年(昭和50年)9月30日)は、日本統治時代の台湾の官吏。群馬県勢多郡富士見村大字石井(現・前橋市富士見町石井)出身。台湾総督府中央研究所職員を経て、日本人最後の台南市長を務めた。台南市長在任中、第二次世界大戦中という時勢の中、赤崁楼の修復作業を進めたことで知られる。 羽鳥又男は1892年(明治25年)4月20日に富士見村の村長・羽鳥多三の四男として生まれた。1906年(明治39年)4月に石井尋常高等小学校(現・前橋市立石井小学校)を卒業、同年12月、東京私立正則予備学校(現・正則高等学校)にて中学校第二学年の修了証を得る。
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前田 健二郎(まえだ けんじろう、1892年〈明治25年〉4… 前田 健二郎(まえだ けんじろう、1892年〈明治25年〉4月19日 - 1975年〈昭和50年〉3月14日)は、日本の建築家。位階は正五位。 逓信省・第一銀行勤務を経て独立。戦前から戦後にかけてモダニズムとは一線を画した作品を多く残す。「コンペの前健さん」の異名を取り、戦前の数々のコンペティションに入選したが、実施実現できたものは少ない。 加賀藩出身(士族)の父前田信兆は裁判官。父の赴任地福島で生まれる。 正則中学校(現・正則高等学校)から東京美術学校図案科第2部(東京芸術大学建築科の前身)に進学する。在校中、商工省輸出工芸図案展に出品し2等受賞。1916年(大正5年)東京美術学校卒業。 1917年(大正6年)逓信省経理課(のち逓信省営繕課)に勤務。
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倉成 庄八郎(くらなり しょうはちろう、1892年4月19日… 倉成 庄八郎(くらなり しょうはちろう、1892年4月19日 - 1938年4月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 長崎県出身。1924年、日本大学法科専門部卒。税務属、長崎県属、会計検査院書記を経て、長崎市議、同議長、長崎県議、同参事会員、となる。また、万朝報記者、長崎民友新聞副社長となる。 1936年の第19回衆議院議員総選挙において長崎1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選した。第20回総選挙でも再選され衆議院議員を2期務め、1938年、現職のまま死去した。
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野﨑 丹斐太郎(のざき にいたろう、明治25年(1892年)… 野﨑 丹斐太郎(のざき にいたろう、明治25年(1892年)4月18日 - 昭和51年(1976年)9月8日)は、昭和時代の製塩業を営んだ実業家。野﨑続太郎の子(母は祖父野﨑武吉郎の娘)。妻は板倉勝憲の娘(長女)。姉に階(佐谷有吉妻)、妹に正(舟橋清賢妻)。子女は、保子(三女、大塚斌妻)ら。 京都帝国大学卒業。大正14年に祖父武吉郎が没した為、家業(製塩業)を継ぐ。昭和9年(1934年)株式会社野﨑事務所カナワ式、真空式、流下式と新しい製塩法を次々と取り入れ近代化をはかった。昭和21年(1946年)に内海塩業株式会社に社名変更し、昭和44年(1969年)にはイオン交換樹脂膜法を採用した。昭和49年(1974年)にはナイカイ塩業株式会社と社名を変更した。
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佐野 文夫(さの ふみお、1892年(明治25年)4月18日… 佐野 文夫(さの ふみお、1892年(明治25年)4月18日 - 1931年(昭和6年)3月1日)は、日本の共産主義者で戦前の日本共産党(第二次共産党)幹部。 山形県米沢市生まれ。父は山口県立山口図書館長を務めた図書館学者・佐野友三郎。父の転勤に伴い、少年期を台湾、大分、山口で過ごす。第一高等学校に無試験で入り、菊池寛、井川(後の恒藤)恭、芥川龍之介と同級生となる。高校生時代、特にドイツ語に長け、在学中から西欧の哲学書を翻訳するほどの天才ぶりだった。この在学中に菊池寛との間でマント事件が起きた。事件の影響でいったん休学して山口県に帰り、キリスト教信徒伝道者・本間俊平の「感化」を促す施設で謹慎生活(秋吉台での大理石採掘)を送り、通常よりも遅れて1913年9月に第一高等学校を卒業した。
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宮崎 勝太郎(みやざき かつたろう、1892年〈明治25年〉… 宮崎 勝太郎(みやざき かつたろう、1892年〈明治25年〉4月16日 - 1946年〈昭和21年〉7月12日)は、日本の外交官。駐ルーマニア公使。 愛媛県松山市出身。1916年(大正5年)、高等文官試験と外交官及領事官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学法律科を卒業した。農商務省商工局、同臨時産業調査局に勤務した後、外務事務官に転じ、政務局第三課に勤務。さらにイギリス大使館三等書記官、同二等書記官、外務書記官・欧米局第一課長、フランス大使館一等書記官、イギリス大使館一等書記官、トルコ大使館参事官を歴任した。1939年(昭和14年)、駐ルーマニア公使に就任し、翌年に退官した。
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佐々木 すぐる(ささき すぐる、本名:佐々木 英、1892年… 佐々木 すぐる(ささき すぐる、本名:佐々木 英、1892年〈明治25年〉4月16日 - 1966年〈昭和41年〉1月13日)は、日本の作曲家。兵庫県高砂市出身。童謡をはじめとする2000曲もの楽曲を作曲し、中でも「月の沙漠」「お山の杉の子」が有名。三男の佐々木行綱は元童謡歌手、声楽家(バス)、音楽評論家、元山形大学教授。 兵庫県印南郡阿弥陀村魚橋(現・高砂市阿弥陀町魚橋)出身。元は士族であり、父親が郡役所に勤務する家庭に育つ。幼い頃に近所の住人から笛を貸してもらったことで、音楽に興味を抱く。しかし、家庭が貧しかったことから学費のことを考え、音楽学校ではなく姫路師範学校(現在の神戸大学の前身の一つ)へと進学。
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