西山 磐(にしやま いわお、1903年 <明治36年> 9月… 西山 磐(にしやま いわお、1903年 <明治36年> 9月7日 - 1999年 <平成11年> 9月9日)は、日本の実業家。大阪ガス元会長・社長。位階は従三位。 高知県南国市出身。東京帝国大学法学部卒業後、1928年に阪神電気鉄道へ入社。1944年に大阪ガスへ中途入社し、監査役、常務取締役、代表取締役副社長を経て、1969年に代表取締役社長に就任。その後1973年より代表取締役会長を務め、1983年に取締相談役へ退く。その他には大阪工業会会長、社団法人大阪府計量協会会長、帝塚山学院理事長、朝日放送取締役も務めた。1999年死去。死没日付をもって従三位に叙された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
平松 幹夫(ひらまつ みきお、1903年9月6日 - 199… 平松 幹夫(ひらまつ みきお、1903年9月6日 - 1996年5月8日)は、日本の英文学者、翻訳家。 東京生まれ。慶應義塾大学英文科卒。1926年より『三田文学』に小説や評論を発表。1927年より『三田文学』の編輯に当たるが病気のため、1978年に和木清三郎に交代。 藤原工業大学助教授、慶大工学部教授、1971年定年となる。岩波書店の『水上滝太郎全集』の編纂に当たる。戦後日本ペンクラブ理事。1953年、国際ペンクラブ大会に出席。日本翻訳家協会会長。東洋一の筆名を使った。
野原 四郎(のはら しろう、1903年9月5日 - 1981… 野原 四郎(のはら しろう、1903年9月5日 - 1981年1月3日)は、日本の東洋史学者。専攻は中国近現代史。 1903年、北海道札幌市で生まれた。生家は札幌市内で勧工場(現在の百貨店の前身)を営んでいた。高輪中学、浦和高校文科丙類を経て、東京帝国大学東洋史学科に進学。同級には、江上波夫、増井経夫がいた。1930年、卒業論文『高蝶(中国古代の結びの神)について』を提出して卒業した。これは、フランスの東洋学者・マルセル・グラネの説を参照しつつ論じたものであった。 卒業後は史学会委員(有給)となった(1932年まで)。1930年、『史学雑誌』に郭沫若著『中国古代社会研究』の書評を発表。史学会幹部からは良い評価が得られなかったものの、翌1931年に偶然亡命中の郭沫若に東洋文庫で会い、同書について意見交換。
棟方 志功(むなかた しこう、1903年〈明治36年〉9月5… 棟方 志功(むなかた しこう、1903年〈明治36年〉9月5日 - 1975年〈昭和50年〉9月13日)は、日本の板画家。従三位。最晩年には約半年間、棟方志昂と改名した。 青森県青森市出身。川上澄生の版画「初夏の風」を見た感激で、版画家になることを決意。1942年(昭和17年)以降、棟方は版画を「板画」と称し、一貫して木版の特性を生かした作品を作り続け、その偉業から板画家として世界的に知られる。墨書や「倭画」(やまとえ)と名付けた肉筆画も残している。 棟方は、昭和26(1951)年11月、疎開先の富山県福光町から鈴木信太郎の旧アトリエだった荻窪四丁目57番地(現・上荻一丁目)の家に移り、昭和50(1975)年9月13目、72歳で亡くなるまで杉並に住んでいた。
長谷川 保(はせがわ たもつ 、1903年9月3日 - 19… 長谷川 保(はせがわ たもつ 、1903年9月3日 - 1994年4月29日)は、日本の福祉事業家・教育者・政治家。 衆議院議員(7期)、衆議院文教委員長、社会福祉法人聖隷福祉事業団理事長、学校法人聖隷学園理事長、聖隷学園浜松衛生短期大学学長などを歴任した。 福祉事業家として、結核療養所など医療施設の設立を推進し、多くの患者を救うことに尽力した。これらの医療施設は、のちに聖隷福祉事業団や聖隷学園などで構成される聖隷グループに発展した[要出典]。また、日本で初めて特別養護老人ホームやホスピスをつくった人物としても知られている[要出典]。なお、政治家としても活動しており、衆議院議員を7期務め、社会福祉の向上に力を注いだ[要出典]。
千々和 実(ちぢわ みのる、千々和實、1903年9月2日 -… 千々和 実(ちぢわ みのる、千々和實、1903年9月2日 - 1985年9月5日)は、日本史学者。東京学芸大学名誉教授。 福岡県鞍手郡木屋瀬町(現・北九州市八幡西区)生まれ。1927年広島高等師範学校卒業。1927年から1929年まで長崎県立長崎高等女学校教諭。1932年東京文理科大学卒業。卒業論文は「中世新宗教発展の過程と遁世者の意義」。 群馬県師範学校教諭を務めたのち、1942年東京府青山師範学校教諭、1949年東京学芸大学教授。在職中の1961年から1963年には同大学附属図書館長も務めた。1967年に定年退官し、名誉教授。同年に都留文科大学教授、1968年に上武大学教授となり、1972年に退職。
田畑 修一郎(たばた しゅういちろう、本名:田畑 修蔵(たば… 田畑 修一郎(たばた しゅういちろう、本名:田畑 修蔵(たばた しゅうぞう)、1903年(明治36年)9月2日 - 1943年(昭和18年)7月23日)は、島根県出身の作家。代表作は1933年に発表し、芥川賞候補にもなった『鳥羽家の子供』。 島根県美濃郡益田町(現益田市)に生まれる。3歳の時に母が病死、9歳の時に銀行支店長だった父も自殺し、旅館を営む田畑キクの養子になる。早稲田大学英文科に入学するも中退。その後、宇野浩二に師事する。また、火野葦平・寺崎浩・丹羽文雄らと「街の会」を作り、同人雑誌『街』を創刊する。 1933年に自伝的創作『鳥羽家の子供』を発表。『鳥羽家の子供』は、芥川賞の候補作となり、同じく候補作であった中山義秀の『厚物咲』と競うも落選する。
張 基永(チャン・ギヨン、朝鮮語: 장기영、1903年9月1… 張 基永(チャン・ギヨン、朝鮮語: 장기영、1903年9月1日または10月20日 - 1981年5月17日)は、大韓民国の独立運動家、政治家、実業家。制憲韓国国会議員、逓信部長官、ソウル特別市長を歴任した。 江原道寧越郡出身。寧越公立普通学校、春川農業学校、中東中学校高等科を経て、1924年に中央大学政治経済科卒、1930年にバトラー大学またはバークレー大学政治学部卒。インディアナ大学研究院国際法専攻。ロシア自由市にある全韓軍事委員会委員を経て、1932年より大韓民国臨時政府駐在ワシントン欧米委員部委員を務め、独立資金の募金や在外朝鮮人への独立思想の喚起などを行った。第二次世界大戦中に戦略情報局での情報・通信に関する特殊教育を受けた後、米軍の空軍中領として参戦しながら、重慶臨時政府の連絡員を務めた。
平林 彪吾(ひらばやし ひょうご、1903年9月1日 - 1… 平林 彪吾(ひらばやし ひょうご、1903年9月1日 - 1939年4月28日)は、日本の小説家。 長男の松元眞はジャーナリストでテレビ朝日元報道局長を務め、現在文筆家。著書に 『父、平林彪吾とその妻のこと』『父 平林彪吾とその仲間たち 私抄 文学・昭和十年前後』などがある。
三原 スヱ(みはら スヱ、1903年〈明治36年〉9月1日 … 三原 スヱ(みはら スヱ、1903年〈明治36年〉9月1日 - 1986年〈昭和61年〉7月8日)は、日本の社会事業家。四国唯一の女子専門少年院「丸亀少女の家」(香川県丸亀市)の創設者にして初代院長である。終戦直後に戦災孤児の少女を引き取ったことを皮切りとして、私費を投じて更生施設として「少女の家」を開設、約800人の少女の保護と更生に尽くした。更生保護施設「和光園」により、出院後の少女たちのアフターケアにも努めた。晩年は研修宿泊施設「瀬戸青少年会館」を設立して、青少年育成のために尽力した。別表記は三原スエ、三原すゑ、三原寿恵など。 島根県益田町(現・益田市)で誕生した。幼少時に両親が離別して、母子家庭に育った。
後藤 はつの(ごとう はつの、1903年〈明治36年〉9月1… 後藤 はつの(ごとう はつの、1903年〈明治36年〉9月1日 - 2017年〈平成29年〉5月15日)は、日本の画家。 1903年(明治36年)、新潟県中頸城郡名香山村の赤倉温泉で出生。14歳の時に上京し、20歳で結婚。2人の子供を育てた。 73歳の時に孫からの一言をきっかけにカルチャースクールで絵を習い始め、99歳までに19枚の絵を描いた。82歳で現代童画展新人賞を受賞し、96歳で同文部大臣奨励賞を受賞した。100歳を超えてからはかるたにも挑戦し、112歳の時に全国かるた協会より初段を授与された。生前は東京都墨田区在住で且つ同区の最高齢だった。 2017年5月15日午前1時36分、自宅で誤嚥性肺炎のため死去。
小山田 政弘(こやまだ まさひろ、1903年〈明治36年〉8… 小山田 政弘(こやまだ まさひろ、1903年〈明治36年〉8月30日 - 1990年〈平成2年〉1月23日)は、日本の政治家。鹿児島県姶良郡蒲生町長(第10代、3期)。元は旧制鹿児島二中教諭を長く務めた教育者。 鹿児島県姶良郡蒲生村(後の蒲生町、姶良市の一部)生まれ。1922年3月鹿児島県立加治木中学校(現鹿児島県立加治木高等学校)卒業。1926年3月東洋大学国文科卒業。鹿児島実業学校(現鹿児島実業高等学校)、鹿児島和洋裁縫女学校(現鹿児島城西高等学校)勤務を経て、鹿児島県立第二鹿児島中学校(鹿児島二中、現鹿児島県立甲南高等学校)で国語・漢文の教諭を1927年8月31日から約20年間務める。1947年4月重富村立重富中学校初代校長に就任。
照山 岩男(てるやま いわお、1903年8月30日 - 没年… 照山 岩男(てるやま いわお、1903年8月30日 - 没年不詳)は、日本のゴルフ選手、ゴルフコース設計者、ゴルフ場支配人。九州初のプロゴルファー、学士プロゴルファー第2号(村上伝二に次ぐ)である。 福岡市出身。父が筑豊の炭鉱王伊藤伝右衛門の会社の支配人をしていた関係で、伝右衛門の妻・伊藤白蓮(燁子)とともに、別府市の伊藤別荘(伝右衛門が白蓮のために建設したとされる)に一時滞在していたが、その間に、のちに白蓮事件を起こす宮崎龍介と白蓮が、1920年1月31日に初めて別府の楠港で出会った場に、ただ一人白蓮に連れられて立ち会っている。地域情報誌「月刊アドバンス大分」の1974年の記事において「その朝、別府桟橋まで宮崎を迎えに行く燁子(あきこ)に同行したが、黄八丈の袷に縫紋の羽織を着た燁子の姿をまぶしいまでに覚えている」と語っている。
野田 稲吉(のだ とうきち、明治36年(1903年)8月29… 野田 稲吉(のだ とうきち、明治36年(1903年)8月29日 - 平成9年(1997年)9月29日)は、日本の応用化学者。名古屋大学名誉教授、三重大学名誉教授(元学長)。 山梨県出身。1927年東京帝国大学応用化学科卒業。1929年東京工業大学講師、1930年助教授を経て、1941年名古屋帝国大学教授、1961年年名古屋大学工学部長、1967年三重大学学長。1953年年フルブライト・プログラム交換教授として渡米した。天然雲母の不足から合成雲母の研究と試作をおこない、透明大型の結晶の製造に成功し、その特性を解明した。1973年勲二等旭日重光章受章。 妻のうめは甲野棐の二女。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
岩本 常次(いわもと つねじ、1903年 <明治36年> 8… 岩本 常次(いわもと つねじ、1903年 <明治36年> 8月28日 - 1993年 <平成5年> 10月8日)は、日本の経営者。北海道電力社長を務めた。位階は従三位。 兵庫県出身。開成中学校や第一高等学校を経て、1927年に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、同年に上毛電力に入社。片品川水系の丸沼発電所などの水力発電所の建設に携わる。 日本発送電への統合後は藤波収建設局長の下で九州や北海道での土木部長を務め、戦後は藤波の推薦を得て1951年9月に北海道電力に転じ理事・土木部長となり、1952年11月に取締役に就任。常務、副社長を経て、1966年5月に社長に就任した。1974年5月に会長に就任し、1983年6月に取締役相談役を経て、1985年6月から相談役を務めた。
八木 佐吉(やぎ さきち、1903年(明治36年)8月28日… 八木 佐吉(やぎ さきち、1903年(明治36年)8月28日 - 1983年(昭和58年)12月15日)は、昭和期の出版人、作家。丸善の歴史を代表する大番頭。 1903年(明治36年)東京府生まれ。1916年(大正5年)、麹町小学校を卒業し丸善に入社。洋書ストック係、出版企画課長、取締役洋書管理部長、丸善「本の図書館」館長などを歴任し、同社の“生き字引”と呼ばれた。また、自然科学書協会の目録や「学鐙」の編集のほか、和洋書籍の目録・編集を広く手掛け、洋古書の第一人者といわれる。
横田 豊秋(よこた とよあき、1903年8月27日 - 19… 横田 豊秋(よこた とよあき、1903年8月27日 - 1936年8月28日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優である。本名同じ。撮影助手、撮影技師、助監督、監督、脚本家を経て、映画スターになった稀有な人材である。脚本家・俳優としての名は宇留木 浩(うるき ひろし)である。 1903年(明治36年)8月27日、東京市麹町区内幸町1-5(現在の千代田区内幸町1-5、現在の千代田区立内幸町ホールのあたり)に生まれる。父は弁護士、2歳下の妹は新劇から映画女優となった細川ちか子(本名・横田冬)である。 当時の私立エリート校・芝区芝公園の正則中学校(現在の正則高等学校)在学中、不良仲間の江川宇礼雄と知り合い、1920年(大正9年)に横浜の大正活動映画(大活)の俳優となった江川の影響で、映画界に入るべく、同校卒業後、進学せずに1921年(大正10年)、17歳のときに日活向島撮影所に入社、撮影助手となる。
中内 正利(なかうち まさとし、1903年8月25日 - 1… 中内 正利(なかうち まさとし、1903年8月25日 - 1985年10月15日)は、英語学者。 大阪市生まれ。1925年大阪市立高等商業学校(現大阪公立大学)卒業、横浜正金銀行入行、大阪支店勤務。36-45年マニラ、ニューヨーク、リオデジャネイロ、青島の各支店に勤務。39年ニューヨーク市立大学で英語学を学ぶ。46年横浜正金銀行大阪支店、47年東京銀行に移行し、48年東京本店勤務。58年定年退職、60年早稲田大学専任講師、66年教授、74年定年退職。75―84年日本実用英語学会会長。84年名誉会長。墓所は小平霊園(13区2側)。
辰巳 佐太郎(たつみ さたろう、1903年〈明治36年〉8月… 辰巳 佐太郎(たつみ さたろう、1903年〈明治36年〉8月25日 - 1990年〈平成2年〉1月25日)は、日本の政治家。大阪府東大阪市の初代の市長(1期)。合併前の布施市の最後の市長(第8代、1期)。大阪府議会議長(第52代、第55代) 大阪府出身。1931年(昭和6年)、中央大学卒業。1937年(昭和12年)、布施市の発足により、市会議員となる。太平洋戦争後の1951年、大阪府議会議員に転じる。以後、連続3期。1963年、布施市長に就任した。この間、布施商業会議所会頭、自由民主党布施支部長や、自民党大阪府連選対副委員長も務めた。 1967年、布施市は河内市と枚岡市と合併し、東大阪市が発足。
青木 秀夫(あおき ひでお、1903年(明治36年)8月25… 青木 秀夫(あおき ひでお、1903年(明治36年)8月25日 - 2001年(平成13年)1月27日)は、日本の内務・厚生官僚。最後の官選新潟県知事。 栃木県出身。水戸高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し山口県属兼社会局属、地方事務官となる。 以後、内務省社会局勤務、鹿児島県社会課長、三重県教育課長、同工場課長、地方警視、岡山県警察部保安課長兼工場課長、神奈川県警察部保安課長、奈良県書記官・警察部長、厚生省傷兵保護院補導課長、同省生活課長、同母子課長、軍事保護院総務課長、東北総監府官房主幹、内務省調査官、同大臣官房調査課長などを歴任。
芳川 周二(よしかわ しゅうじ、1903年8月25日 - 1… 芳川 周二(よしかわ しゅうじ、1903年8月25日 - 1992年3月3日)は、日本の銀行家。関西相互銀行(現在の関西アーバン銀行)社長を務めた。広島県広島市出身。 1926年に山口高等商業学校を卒業し、同年に住友銀行に入行。1958年10月に関西相互銀行専務に就任し、1968年4月には社長に就任。1973年11月に取締役相談役と明光証券社長に就任し、1978年12月に会長を経て、1982年3月から取締役相談役を務めた。 1970年10月に藍綬褒章を受章し、1976年4月に勲五等双光旭日章を受章した。 1992年3月3日急性心筋梗塞のために死去。88歳没。
矢野 登(やの のぼる、1903年8月25日 - 1993年… 矢野 登(やの のぼる、1903年8月25日 - 1993年4月17日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(2期、自由民主党)。 栃木県那須郡烏山町(現那須烏山市)出身。1921年栃木県立小瀬農学校卒。1938年三共日産自動車(株)を創立。ほか三共物産(株)、(株)東武宇都宮百貨店、日産プリンス栃木販売(株)を創立。代表取締役などに就任した。この他宇都宮商工会議所副会頭や栃木県石油協同組合理事長を歴任。1968年の第8回参議院議員通常選挙に栃木県選挙区から自由民主党公認で立候補して初当選。第2次田中内閣で通商産業政務次官を務めた。1974年7月の第10回参議院議員通常選挙で落選。同年秋の叙勲で勲三等旭日中綬章受章。
金 晋燮(キム・ジンソプ、朝鮮語: 김진섭/金晉燮、1903… 金 晋燮(キム・ジンソプ、朝鮮語: 김진섭/金晉燮、1903年8月24日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮及び大韓民国の評論家、随筆家、詩人、作家、ドイツ文学者、アナウンサー。 号は聴川(チョンチョン、청천/聽川)。 全羅南道木浦に生まれ。幼少期いっとき慶尚南道安東で過ごす。1927年に法政大学文学部独文科卒。1925年に文学評論家として登壇、以後随筆の大家として名を鳴らした。 解放後は京城放送局員、ソウル大学校中央図書館長、ソウル大学校・成均館大学校教授を歴任したが、自宅にいた際に北朝鮮に拉致され、以後消息不明。
久保田 円次(くぼた えんじ、1903年〈明治36年〉8月2… 久保田 円次(くぼた えんじ、1903年〈明治36年〉8月23日 - 1998年〈平成10年〉2月1日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(8期)、防衛庁長官、群馬県議会議員、伊勢崎市議会議員・同議長を務めた。群馬県出身。伊勢崎市名誉市民。 1903年(明治36年)、群馬県新田郡笠懸村大字阿左美(現・みどり市笠懸町阿左美)に、和三郎・ひでの三男として生まれる。生家は果樹の栽培などを行う農家だった。兄・茂一郎は後に伊勢崎商工会議所会頭を務めた。 笠懸村尋常高等小学校を経て、1923年(大正12年)栃木県立足利工業学校(現・栃木県立足利工業高等学校)を卒業。同年兄・茂一郎とともに久保田兄弟鉄工所を設立し、副社長に就任。
長谷 長次(はせ ちょうじ、1903年(明治36年)8月23… 長谷 長次(はせ ちょうじ、1903年(明治36年)8月23日 - 1977年(昭和52年)12月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。弁護士。 石川県出身。1926年東京高等工業学校電気化学科卒。司法官試補となり、検察官となる。 1937年の第20回衆議院議員総選挙で石川1区から立候補して当選する。1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)では非推薦で立候補して落選した。戦後第1回の1946年の第22回衆議院議員総選挙で石川県(全県1区)から立候補したが、次点で落選。翌1947年の第1回北海道知事選挙(1947年北海道庁長官選挙)で無所属で立候補したが落選した。1949年の総選挙と1950年の参院選に北海道から立候補したが、いずれも落選。
楠田 匡介(くすだ きょうすけ、1903年8月23日 - 1… 楠田 匡介(くすだ きょうすけ、1903年8月23日 - 1966年9月23日)は、日本の推理作家、時代小説家。 1903年8月23日、北海道厚田郡厚田村(現・石狩市)に生まれる。本名は小松保爾(こまつ やすじ)。 高等小学校卒業後、中学校の代用教員や札幌郵便局の電信係を経て、1924年に樺太の恵須取町(現・ウグレゴルスク)に渡り、パルプ工場に勤務。1927年、北海道に戻る。1934年に上京し、さまざまな職業を転々とする。職も30件以上変えた経験があるという。 1938年に結婚し、能率研究所につとめ、明治大学などの講師をつとめる。1943年、千葉県市川市に転居(1941年頃から市川市真間に住んだとする文献もある)。
本多 嘉一郎(ほんだ かいちろう、1903年(明治36年)8… 本多 嘉一郎(ほんだ かいちろう、1903年(明治36年)8月23日 - 1980年(昭和55年)5月15日)は、日本の映画人、地方政治家。第4代調布市長を1962年(昭和37年)から1978年(昭和53年)までの4期16年にわたり務めた。 1903年(明治36年)、大分県(現在の杵築市)に生まれる。 20代の頃の本多は、東亜キネマ京都撮影所(等持院撮影所)の撮影部に在籍し、1930年(昭和5年)久保義郎監督、岡田静江主演の無声映画『一度はすべての女に』の撮影技師などを務めた。 1931年、東亜キネマの経営不振から同社の業務を代行するために発足した東活映画社に移籍した。京都の映画会社である東活映画社が、1932年(昭和7年)に東京地区に撮影所を新設しようとした際、東京へ調査に派遣したのが本多であった。
歌川 八重子(うたがわ やえこ、1903年8月22日 - 1… 歌川 八重子(うたがわ やえこ、1903年8月22日 - 1943年9月13日)は、日本の女優。本名、深川 政江[5]。
安里 積千代(あさと つみちよ、1903年8月22日 - 1… 安里 積千代(あさと つみちよ、1903年8月22日 - 1986年9月30日)は、八重山群島政府及び琉球政府の政治家。元衆議院議員(沖縄社会大衆党→民社党)。
大河内信敬 (おおこうち のぶひろ、1903年 (明治36年… 大河内信敬 (おおこうち のぶひろ、1903年 (明治36年) 8月21日 - 1967年 (昭和42年) 12月1日) は、日本の画家。東京府東京市下谷区(現東京都台東区下谷)出身。物理学者・子爵の大河内正敏の次男。母は大河内信古の娘・一子。娘に女優の河内桃子がいる。号は清水丁三。 明治大学商科卒業。水彩画を板倉賛治、版画を小泉癸巳男、その他岡田三郎助や寺内萬治郎に師事。1933年、「画室の一隅」で第14回帝展に入選。1937年より1年間ヨーロッパに渡り、各地の美術を視察した。1940年、光風会会員となる。1947年、朝井閑右衛門らと新樹会を結成。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
久保 信(くぼ まこと、1903年8月19日 - 1991年… 久保 信(くぼ まこと、1903年8月19日 - 1991年6月29日)は、日本の男性フィギュアスケート選手(男子シングル)。北海道出身。明治大学政治経済学部卒。 第1回全日本選手権(1929年度)の優勝者である。 札幌商工会議所会頭を務めた久保兵太郎の三男として北海道に生まれる。札幌商業学校時代の1923年、日本スケート会(日本スケート連盟の前身の一つ)主催のフィギュアスケート選手権に出場。明治大学に入学し、1926年から1930年(1927年は中止)まで日本学生氷上競技選手権(インカレ)で4大会連続2位となる。同大会の1928年から1930年までの優勝者は、金子諭吉(慶大)であった。 1929年のフィギュアスケート選手権(日本スケート会主催)では、金子を抑えて優勝する。
菊池 栄一(きくち えいいち、1903年8月17日 - 19… 菊池 栄一(きくち えいいち、1903年8月17日 - 1986年8月25日)は、日本のドイツ文学者。東京大学名誉教授。 1903年、秋田県生まれ。秋田中学を経て、東京帝国大学ドイツ文学科を卒業。卒業後は第一高等学校教授となった。 太平洋戦争後の1949年、東京大学教養学部教授に着任。1955~57年ハンブルク大学客員教授。1962年、『イタリアに於けるゲーテの世界』を提出して文学博士号を取得。1963年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は日本大学教授として教鞭をとった。学界では、1980年より日本ゲーテ協会会長をつとめた。
内藤 雄(ないとう たけし、1903年(明治36年)8月17… 内藤 雄(ないとう たけし、1903年(明治36年)8月17日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の海軍軍人(海兵52期、海大36期卒)。太平洋戦争において艦隊参謀職を歴任した後、海軍乙事件で殉職。殉職による一階級昇進で最終階級は海軍大佐。 山形県出身。山形中学卒。海軍兵学校52期。席次は236名中6番。高松宮宣仁親王、入佐俊家、淵田美津雄らは同期生である。海軍大学校甲種36期。内藤は戦闘機の源田實と並び、爆撃機の内藤雄として知られ、樋端久利雄らとともに海軍爆撃術の体系化に功績があった。1939年(昭和16年)1月から10月まで独出張。第二次世界大戦勃発直後の独空軍は目覚しい活躍を見せていたが(電撃戦)、内藤は海上攻撃における問題点を指摘した。
千野 純次(ちの じゅんじ、1903年(明治36年)8月17… 千野 純次(ちの じゅんじ、1903年(明治36年)8月17日 - 1985年(昭和60年)1月21日)は、日本のヨットマン、歯科医師である。 神奈川県生まれ、東京歯科医専卒。横浜にて歯科医として活動し、その傍らで1932年(昭和7年)にヨットクラブの創立に携わった。 第二次世界大戦後は神奈川県ヨット協会および横浜ヨット協会の会長に就任し、ヨットマンの人材育成や操艇技術の向上に貢献する。この業績により1975年(昭和50年)に横浜市から体育部門における横浜文化賞を受賞した。 この項目は、医療関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:医学と医療、PJ:医学、PJ:歯学)。
辛島 驍(からしま たけし、1903年8月16日 - 196… 辛島 驍(からしま たけし、1903年8月16日 - 1967年4月27日)は、日本の中国文学研究者。 1903年、福岡県博多市で生まれた。1921年に福岡県立中学修猷館を卒業し、山口高等学校を卒業した。1928年、東京帝国大学文学部支那文学科を卒業。同年、京城帝国大学に赴任し、支那語学・支那文学講座を担当した。その後、助教授を経て、1939年に教授昇格。同年、博士論文『支那現代文学の研究』を東京大学に提出したが、太平洋戦争下の混乱の中で文学博士号授与は1946年となった。朝鮮半島赴任時には、延禧専門学校(現・延世大学校)校長も務めた。 戦後は昭和女子大学、相模女子大学教授などをつとめた。また、鎌倉文士とのつきあいもあり、鎌倉市図書館館長を務めた。
崎山 正毅(さきやま せいき、1903年8月16日 - 19… 崎山 正毅(さきやま せいき、1903年8月16日 - 1995年)は、日本の翻訳家。 大阪生まれ。東京帝国大学英文科卒。NHK国際局長など。キャサリン・マンスフィールドなど英文学を翻訳した。
梁 柱東(ヤン・ジュドン、1903年8月16日〈太陰暦: 6… 梁 柱東(ヤン・ジュドン、1903年8月16日〈太陰暦: 6月24日〉 - 1977年2月4日)は、大韓民国の詩人、評論家、国文学者、英文学者、翻訳家、随筆家、教授。本貫は南海梁氏(済州梁氏)。号は无涯(ムエ、무애)。 京畿道開城に生まれた。幼児期をいっとき平壌で過ごし、長淵で育った。京城中東高等普通学校を経て渡日し、1928年に早稲田大学英語英文学科卒業。1919年に廉想渉と共同で『文芸公論』を発刊し、崇実専門学校(現・崇実大学校)教授を務め、1923年同人誌『金星』で文壇に登場した。1930年には詩集『朝鮮の脈拍』を出版した。その後、郷歌の研究をし、1942年に郷歌25首の解読を行った『朝鮮古歌研究』を出版した。
葉上 照澄(はがみ しょうちょう、1903年8月15日 - … 葉上 照澄(はがみ しょうちょう、1903年8月15日 - 1989年3月7日)は、哲学者、天台宗の僧侶、千日回峰行大行満大阿闍梨、大僧正。比叡山延暦寺長﨟で初代印度山日本寺竺主および世界連邦日本宗教委員会会長を務めた。世界平和のためには宗派を超えた宗教者の連帯が必要との持論から、世界宗教サミットを発起・開催した。 岡山県赤磐郡石生村原(現在の岡山県和気郡和気町原)の天台宗・元恩寺住職の葉上慈照の長男として生まれる。小学校一年の時、備前岡山藩主の池田家の寺である金剛山常住寺の弟子となる。1916年(大正5年)9月、岡山県立岡山中学校に進学、1920年(大正9年)第六高等学校 (旧制)の入学試験では数学で満点を取り、首席入学した。
伊藤 英三(いとう えいぞう、1903年(明治36年)8月1… 伊藤 英三(いとう えいぞう、1903年(明治36年)8月15日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、警察官僚。嘉義市尹。 広島県広島市稲荷町に生まれる。第六高等学校を経て、1927年(昭和2年)3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。同年12月、高等試験行政科に合格し、翌年5月、台北州巡査部長に任ぜられる。ついで台北州警部補、司獄官練習所教官、新竹州警務課長、台中州警務課長兼理蕃課長、同保安課長、高等警察課長を経て、台南州教育課長に転じ、高雄州地方課長を経て、1936年(昭和11年)10月、嘉義市尹に就任した。 翌年、台中州警務部長に転じた。その後、帰朝し、秋田県書記官・学務部長を経て、滋賀県警察部長に就任し、1943年(昭和18年)7月まで務めた。
富田 真雄(とみた まさお、1903年8月15日-1989年… 富田 真雄(とみた まさお、1903年8月15日-1989年9月25日)は、日本の薬学者。京都大学名誉教授、薬学博士。 東京府出身。東京帝国大学薬学科卒業。乙卯研究所主任研究員を経て、1940年京都帝国大学教授となり、有機薬化学講座を創設。塩基性天然有機化合物の研究を進めた。ビスコクラウリン型塩基の全合成を完成、欧米に先んじて必須の開裂反応を開発した。京都大学初代薬学部長に就任し、京都大学微量元素分析総合施設を創始した。日本学術会議会員、第30代日本薬学会会頭、京都薬科大学学長などを歴任した。著作に「製薬化学」がある。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
吉田洞介(よしだ どうすけ、1903年8月15日 - 198… 吉田洞介(よしだ どうすけ、1903年8月15日 - 1988年3月1日)は日本の大蔵官僚。神戸税関長、大阪財務局長、大阪証券金融社長、大阪証券代行社長、大阪証券代行会長などを歴任。 京都府京都市。東京帝国大学法学部法律学科在学中に高等試験行政科に合格。東京帝国大学法学部法律学科卒業。1926年4月 大蔵省入省。営繕管財局総務部兼主計局属。1928年7月 高松税務署長。1930年9月 静岡税務署長。1932年7月 淀橋税務署長。1933年6月 神田橋税務署長。1942年10月から1946年11月まで陸軍司政長官第25軍。1947年1月27日 神戸税関長。1947年5月20日 大阪財務局長。1949年6月1日 退官。
井上 一男(いのうえ かずお、1903年〈明治36年〉8月1… 井上 一男(いのうえ かずお、1903年〈明治36年〉8月15日 - 1974年〈昭和49年〉2月1日)は、日本の医師。 台湾台南市の鉄道省官舎で生まれる。父は鉄道省技官。台北第一中学校(現・台北市立建国高級中学)を経て大正13年早稲田大学理工学部を卒業後、昭和3年日本医科大学卒業。千葉医科大学(現千葉大)で衛生学を研究。戦前本郷にて井上耳鼻咽喉科病院を経営。その傍ら、福島女子医専(現福島県立医大)で「女医育成」に尽くした。厚生省技官。日本医科大学武蔵小杉病院(別称丸子病院)の設立に尽くした。 敗戦後荒廃した国土(米国の占領下)で国際交流しようにも国民の気力も国家の財政的な余力もなかった時代に、戦前から知己関係にあったドイツ人のミッヘル神父(後に上智大学教授)等と協力して戦争ですさんだ日本とアジア各国(中国、インドネシア、フイリッピン他)の民間交流の芽を育て多くの留学生の世話をした(当時のジャパンタイムズやNHKラジオ放送などでとりあげられ海外に紹介された)。
古川 ロッパ(ふるかわ ろっぱ、古川 緑波とも、1903年〈… 古川 ロッパ(ふるかわ ろっぱ、古川 緑波とも、1903年〈明治36年〉8月13日 - 1961年〈昭和36年〉1月16日)は、1930年代の日本の代表的コメディアン。本名は古川 郁郎(ふるかわ いくろう)。編集者、エッセイストとしても活動した。 古川郁郎は東京帝国大学総長を務めた加藤弘之男爵の長男である加藤照麿男爵の六男として東京市麹町区に生まれた。嫡男以外は養子に出すという家訓により、生後間もなく義理の叔父(父の妹婿)で満鉄役員の古川武太郎(元陸軍中将の古川宣誉の長男)の養子となる。幼少期より文才に優れ、のちに芸名として用いた「緑波」の号は尋常小学校3年生の頃、童話作家の巖谷小波にちなんで自らつけた筆名である。
古川 ロッパ(ふるかわ ろっぱ 、古川 緑波とも、1903年… 古川 ロッパ(ふるかわ ろっぱ 、古川 緑波とも、1903年(明治36年)8月13日 - 1961年(昭和36年) 1月16日)は、1930年代の日本の代表的コメディアン。編集者、エッセイストとしても活動した。
佐竹 金次(さたけ きんじ、1903年〈明治36年〉8月13… 佐竹 金次(さたけ きんじ、1903年〈明治36年〉8月13日 - 1964年〈昭和39年〉10月18日)は大日本帝国陸軍の軍人・工学者。 陸軍科学研究所、ドイツ任官を経て日本陸軍のレーダー開発に貢献した。 1903年(明治36年)、愛知県豊川市森町にて、父幹方、母ときの4男(8人兄弟)として生まれる。幼少期から学業に優れ、名古屋陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校本科を経て、1924年(大正13年)7月18日に陸軍士官学校(36期)を卒業し、同年10月25日に工兵少尉に任官、工兵第1大隊付となる。1927年(昭和2年)12月22日に陸軍砲工学校(33期)高等科を首席卒業後、更に員外学生として京都帝国大学電気工学科に在学。
矢田 恒久(やだ つねひさ、1903年8月13日 - 199… 矢田 恒久(やだ つねひさ、1903年8月13日 - 1991年12月27日)は、日本の経営者。第一生命保険社長、会長を務めた。 島根県出雲市出身。1928年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に第一生命保険に入社した。1946年7月に総務部長に就任し、取締役、常務、専務を経て、1959年5月に副社長に就任し、1964年5月に社長に昇格した。1970年5月に会長に就任し、京王帝都電鉄監査役も務めた。 1968年10月に藍綬褒章を受章し、1974年4月に勲二等瑞宝章を受章した。 1991年12月27日、呼吸不全のために死去。87歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田井 真孫(たい しんそん、1903年8月12日 - 197… 田井 真孫(たい しんそん、1903年8月12日 - 1973年2月19日)は、日本のジャーナリスト、コラムニスト。 東京生まれ。法政大学経済学部卒。報知新聞などの記者を七年務める。1941年法政大学教授になるが、大日本言論報国会などで活動し、戦後公職追放となる。野村胡堂に師事し捕物作家クラブ幹事長を7年、「日本教育新聞」編集局長を一年務めた。「日本海事新聞」にコラム「うきぶくろ」を連載。大衆文学研究会会員。劇作家、脚本家の田井洋子は妹。時代考証家の田井友季子は妻。
柴野 安三郎 (しばの やすさぶろう、1903年 <明治36… 柴野 安三郎 (しばの やすさぶろう、1903年 <明治36年> 8月12日 - 1995年 <平成7年> 1月5日)は、北海道の実業家。北海道交通株式会社代表取締役社長。位階は正五位。 1903年、新潟県刈羽郡荒浜村(現・柏崎市)の漁民安二郎の三男として生まれる。荒浜尋常高等小学校を卒業後、1917年に柏崎の西川鉄工所に就職する。1923年、舞鶴海兵団に徴兵となる。その後、横須賀の海軍機関学校に学び、戦艦「長門」の乗組員となる。1926年、北海道の小樽の佐藤鉄工所に旋盤工として就職する。そこでは工場長に抜擢されるが労働争議に参加し、拘留される経験も持つ。1929年、阿部自動車の運転手となる。 1931年、小樽でタクシー会社の「稲穂タクシー」を自ら創業する。
佐藤 通吉(さとう つうきち、1903年〈明治36年〉8月1… 佐藤 通吉(さとう つうきち、1903年〈明治36年〉8月10日 - 1995年〈平成7年〉6月3日)は、昭和期の弁護士、警察官、政治家。衆議院議員。 鹿児島県囎唹郡東志布志村(現志布志市)で生まれる。1939年(昭和14年)中央大学専門部法律科を卒業した。 小学校訓導を経て、台湾総督府巡査に転じ、高雄州巡査部長、同警部補を歴任。のち高等試験司法科に合格し弁護士となり、郷里で開業した。鹿児島弁護士会長、日本弁護士連合会理事などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で鹿児島県全県区から日本進歩党公認で立候補して落選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で鹿児島県第3区から民主党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
町田 保(まちだ たもつ、1903年8月8日 - 1967年… 町田 保(まちだ たもつ、1903年8月8日 - 1967年10月12日)は、日本の都市計画家、土木技師。第二次世界大戦後の戦災復興都市計画事業や首都建設委員会事務局長として一時期、東京の首都高の計画にも関わる。山口県旧徳山市出身。 旧制山口高等学校理科甲類をへて、1926年東京帝国大学工学部土木工学科卒業。東京市を経て、1928年(昭和3年)、内務省に入省。大臣官房都市計画課技手から都市計画地方委員会福岡地方委員会技師。その後新設の都市計画局から防空総本部技師を経て、1945年から戦災復興院土地局工務課長。戦災復興都市計画では出身の徳山市に派遣され、指導助言。後1963年にも市長から依頼で、周南団地建設のための「周南住宅地区開発基本計画」作成調査委員会委員長就任している。