石原 藤次郎(いしはら とうじろう、1908年(明治41年)… 石原 藤次郎(いしはら とうじろう、1908年(明治41年)8月26日 - 1979年(昭和54年)10月2日)は、昭和時代の土木工学者。 京都府に生まれる。1930年(昭和5年)京都帝国大学工学部土木工学科を卒業し、同大講師、助教授を経て、1943年(昭和18年)教授となり、1973年(昭和48年)退官する。退官後は、日本大学理工学部教授となった。この間、工学部長、防災研究所長、大型計算機センター長などを歴任した。日本学術会議会員、同第五部長。ほか、国際水理学会会議組織委員長、土木学会会長などを務めた。 水理学、水文学、河川工学、海岸工学における先駆的、体系的な業績を残した。特に河床洗堀、開水路水理学、水理学統計学などの分野において功績がある。
伊部 禧作(いべ きさく、1908年8月26日 - 1993… 伊部 禧作(いべ きさく、1908年8月26日 - 1993年11月26日)は、日本の経営者。ゼリア新薬工業社長、会長を務めた。東京都出身。 1928年に明治大学政治経済学部を卒業。 1937年に共立薬品研究所を設立し、1942年には山之内製薬取締役に就任し、1946年11月に常務、1950年10月に科研薬化工業社長を経て、1958年5月にゼリア化学工業(のちのゼリア新薬工業)社長に就任。1982年4月には会長に就任。 1993年11月26日心筋梗塞のために死去。85歳没。
岸本 実、ないし、岸本 實(きしもと みのる、1908年8月… 岸本 実、ないし、岸本 實(きしもと みのる、1908年8月25日 - 1992年2月17日)は、人口地理学を専門とする日本の地理学者。徳島大学、立正大学などで教え、立正大学名誉教授となった、日本地理学会会長も務めた。 徳島県徳島市沖浜町大木に生まれた。 徳島師範学校本科第1部に学び、東京高等師範学校文科第4部(歴史地理科)に進んだ。 1939年に東京文理科大学地学科地理学専攻を卒業した。 千葉県師範学校在職中に応召し、陸軍中尉として中国大陸に従軍した。1943年11月には、千葉師範学校教授となった。 戦後は、両親の求めに応じて1946年7月に帰郷し、徳島師範学校教授となり、学制改革を経て徳島大学教育学部教授となった。
間宮 純一(まみや じゅんいち、1908年(明治41年)8月… 間宮 純一(まみや じゅんいち、1908年(明治41年)8月25日 - 1981年(昭和56年)11月19日)は、将棋棋士。溝呂木光治八段門下。間宮 久夢斎(きゅうむさい)とも称した。入玉狙いという特異な棋風と放浪癖から、将棋界きっての奇人変人として知られた。 静岡県田方郡大仁町(後の伊豆の国市大仁)出身。裕福な家系(後述)に生まれ、経済的に恵まれた環境で幼少期を過ごした。 中等学校を四年次で中退して溝呂木光治の弟子となり、1923年に初段となった。18歳のときには溝呂木の内弟子となり、それから4年ほどで三段まで昇段したが、なかなか四段に上がれず苦しんだ。23歳の時に内弟子を辞めて独立し、各地を放浪するようになる。
佐々木 盛雄(ささき もりお、1908年(明治41年)8月2… 佐々木 盛雄(ささき もりお、1908年(明治41年)8月23日 - 2001年(平成13年)8月25日)は、日本の新聞記者・編集者、政治家。 衆議院議員(4期)、内閣官房副長官を歴任した。 兵庫県出身。1932年、東京外国語学校を卒業。報知新聞社に入社し、外信部記者、政治部記者、海外特派員を務めた。戦時中は大本営海軍報道部嘱託、情報局嘱託となる。 終戦後、『自由新聞』を創刊し編集局長となる。その後、報知新聞社渉外部長に就任。1947年4月、第23回衆議院議員総選挙で兵庫県第5区に日本自由党から出馬し当選。以後、第24回、第26回、第28回総選挙で当選し、衆議院議員を通算4期務めた。この間、衆議院厚生委員長、第5次吉田内閣の労働政務次官、1960年7月から同年12月まで第1次池田内閣の内閣官房副長官、日本自由党情報部副部長、民主自由党政調会外務委員長、自由民主党総務、同国会対策副委員長などを歴任。
細川 泉一郎(ほそかわ せんいちろう 1908年8月22日 … 細川 泉一郎(ほそかわ せんいちろう 1908年8月22日 - 2000年5月1日)は、元日本国有鉄道常務、技師。元日本車輌製造副社長。
児井 英生(こい えいせい、1908年8月21日 - 199… 児井 英生(こい えいせい、1908年8月21日 - 1992年3月10日)は、日本の映画プロデューサー、映画監督、脚本家、作詞家、実業家である。日活の契約プロデューサーだった時代に石原裕次郎を売り出し、小林旭をスターにした人物として知られる。本名は兒井 英男(こい ひでお)、大都映画でのペンネームは高樹 彦九郎(たかぎ ひこくろう)である。児井プロダクション代表。 1908年(明治41年)8月21日、兵庫県神戸市に鉄道院の高級官吏(神戸運輸事務所長)だった児井英松と公卿の娘だった母の長男として出生。姉が2人の末っ子だった。父の転職により、東京の渋谷に移住し、旧制中学校の私立芝中学校を経て、早稲田大学法学部に入学するが、2年次に政経学部に、3年次に文学部に転部し卒業後、衣笠貞之助に誘われ1931年に松竹キネマ京都撮影所監督部に入社した。
金湊 仁三郎 (かねみなと にさぶろう、 1908年8月18… 金湊 仁三郎 (かねみなと にさぶろう、 1908年8月18日 - 1979年11月23日)は、現在の千葉県船橋市金杉町出身で湊川部屋に所属した大相撲力士。本名は石井 仁三郎。身長164cm、体重86kg。最高位は東前頭5枚目。1940年1月場所のみ金湊利三郎を名乗った[信頼性要検証]。 1927年1月場所に初土俵を踏む。1931年5月、双葉山定次とともに新十両を果たし、2場所連続して双葉山を破る。春秋園事件で一度は脱退するが、1933年1月に十両格別席で復帰、1934年5月場所に新入幕を果たした。 小兵ながら動きの早い相撲で、若手をいじめることが多く、「追いはぎ」とあだ名されている。大きな出羽ヶ嶽文治郎に初顔から連勝したり、新入幕の羽黒山政司に初日に土をつけたり、1939年1月には双葉山の連勝を止めた安藝ノ海節男を終盤に破って負け越しを味わわせたりと、大物食いで名をはせた。
池田 誠一郎(いけだ せいいちろう、 1908年8月17日 … 池田 誠一郎(いけだ せいいちろう、 1908年8月17日 - 2001年4月10日)は、日本の編集者、作詞家。作詞家としてのペンネームに池田 真琴(いけだ まこと)や椿 三平(つばき さんぺい)、川柳作家としてのペンネームに池田 秋の月(いけだ あきのつき)がある。 東京府北豊島郡岩淵町(現在の東京都北区)出身。都内の出版社に編集者として勤務する傍ら作詞の投稿を趣味とし、50点近くの歌詞が採用された。代表作は「椿三平」名義で入選した読売ジャイアンツの3代目球団歌「巨人軍の歌 -闘魂こめて-」(1968年)であるが、これ以前に「池田真琴」名義で応募した広島カープの2代目球団歌「広島カープの歌」が採用されている。
尾鍋 輝彦(おなべ てるひこ、1908年(明治41年)8月1… 尾鍋 輝彦(おなべ てるひこ、1908年(明治41年)8月15日 - 1997年(平成9年)3月21日)は、日本の西洋史学者。お茶の水女子大学名誉教授。1980年勲三等旭日中綬章受章、没後正四位。 1908年、愛知県名古屋市で生まれた。東京帝国大学文学部西洋史学科で学び、1933年に卒業。 1950年、成城大学助教授に就いた。1951年にお茶の水女子大学助教授に転じ、1953年に教授昇格。1973年にお茶の水女子大学を定年退官し、名誉教授となった。1997年死去。没後叙正四位。
富井 一雄(とみい かずお、1908年8月14日 - 199… 富井 一雄(とみい かずお、1908年8月14日 - 1998年2月8日)は、日本の経営者。ユニチカ社長を務めた。奈良県出身。 1930年に高岡高等商業学校(現富山大学)を卒業し、翌年に日本レイヨンに入社した。1959年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1970年に社長に就任し、1972年から相談役、顧問、名誉顧問を歴任した。 1981年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1998年2月8日慢性呼吸不全のために死去。89歳没。
玉井 力三(たまい りきぞう、1908年(明治41年)8月1… 玉井 力三(たまい りきぞう、1908年(明治41年)8月14日 - 1982年(昭和57年)7月23日)は、昭和期に活動した日本の洋画家、表紙画家。 1928年(昭和3年)より「太平洋画会研究所」で中村不折に師事する。その後は「太平洋美術学校」講師、「新京美術院」助教授を歴任するとともに、多くの洋画作品を制作した。 戦後は、洋画団体「示現会」の会員として活動しつつ、雑誌や絵本の表紙画家としても活動した。特に複数の出版社から発行された学年別学習雑誌、いわゆる「学年誌」における表紙画を長年担当し、少年少女の表情を大きく豊かに描いた作品を多く制作した。小学館の学年誌(『小学一年生』他)で20年以上にわたって表紙画を担当したほか、講談社、学習研究社など、学年誌市場で競合する各社の表紙画を同時期に担当したこともある。
井田 誠一(いだ せいいち、1908年(明治41年)8月13… 井田 誠一(いだ せいいち、1908年(明治41年)8月13日 - 1993年(平成5年)10月12日)は、昭和期の作詞家。 東京都八王子市出身。早稲田大学文学部卒業。 戦後、ビクター専属作詞家として活躍し、「東京シューシャンボーイ」、「水色のスーツケース」、「若いお巡りさん」などを作詞。明るい内容の歌詞が特徴的だった。その他、外国曲の訳詞を行った。 1993年(平成5年)10月12日死去。享年85。墓所は八王子市の富士見台霊園。 1999年、高尾山薬王院の境内に「若いお巡りさん」の歌詞を刻んだ歌碑が建立された。
玉山 勇(たまやま いさむ、1908年8月12日 - 198… 玉山 勇(たまやま いさむ、1908年8月12日 - 1989年4月28日)は、福島大学学長、元・経済史・経営史専攻の教授。岩手県紫波郡紫波町出身。 明治学院から神戸商業大学に進み1936年に卒業し関西学院高等部の教師となる。1940年東北学院大学教授、1950年福島大学経済学部教授、1958年福島大学経済学部部長を経て、1973年10月15日学長に就任。翌1974年12月4日退任。 日本生産性東北地方本部理事、東北経済開発センター(現在の東北活性化研究センター)理事、福島県中小企業診断協会会長なども歴任した。 1989年4月28日午後5時に内臓疾患の為、福島県立医科大学附属病院で死去。享年80歳。
大智 浩(おおち ひろし、1908年〈明治41年〉8月10日… 大智 浩(おおち ひろし、1908年〈明治41年〉8月10日 - 1974年〈昭和49年〉7月18日)は、日本のグラフィックデザイナーである。岡山県出身。 旧制新潟県立村上中(現:新潟県立村上高等学校)、長岡高等工業学校を経て、東京美術大学(現在の東京芸術大学)卒業後、当時第二次世界大戦下で情報及び宣伝要員として活動した。戦後に独立し自身のデザイン事務所を設立し、多くの企業のCIマークの制作に携わる。1954年(昭和29年)にはニューヨークで開催された個展で大智の作品が出品され、デザイナー団体の日本代表に選出される等外でも有名となった。 その後は誠文堂新光社のデザイン雑誌『アイデア』のアートディレクターや東京教育大学や金沢美術工芸大学、実践女子大学の教授、国際デザイン交流協会会長を務めるなど、学生や海外のデザイナー対しての交流を深めた。
植草 甚一(うえくさ じんいち、1908年〈明治41年〉8月… 植草 甚一(うえくさ じんいち、1908年〈明治41年〉8月8日 - 1979年〈昭和54年〉12月2日)は、ジャズ、ミステリー、映画評論家で1970年代・サブカルチャーの旗手だった、通称“J・J氏”。 植草は東京市日本橋区小網町(現・東京都中央区日本橋小網町)にて、木綿問屋の一人息子として生まれた。1915年東華小学校に入学。10歳あたりから、姉に連れられ地元の映画館「水天館」に通った。1921年渋谷鉢山町の東京府立第一商業学校に入学、ここでは首席を通した。1923年9月1日の関東大震災で被災し、これをきっかけに植草家は没落した。 1926年、旧制第一高等学校を受験するが失敗。このため、東京府立第五中学校の補習科に通学。
玉置 明善(たまき あきよし、1908年〈明治41年〉8月8… 玉置 明善(たまき あきよし、1908年〈明治41年〉8月8日 - 1981年〈昭和56年〉6月2日)は、昭和時代の実業家。 清の大連にて玉置準三の長男として生まれる。本籍は佐賀県。旧制佐賀高等学校、1930年に九州帝国大学工学部応用化学科を卒業。同年、三菱合資会社に入社。翌年1931年、三菱石油(現 JXTGエネルギー)に移る。1946年に工事部長、1948年に同社工事部が分離独立して千代田化工建設が発足すると常務取締役となる。1957年11月、初代社長の大久保繁雄に代わり社長に就任。1970年会長兼務。 安全工学協会(現: 特定非営利活動法人安全工学会)の第2代会長(1967年-1978年)や、化学工学協会(現: 公益社団法人化学工学会)の第16代会長(1967年-1969年)、日本プラントメンテナンス協会の初代会長(1981年)を務めた。
重松 鷹泰(しげまつ たかやす、1908年〈明治41年〉8月… 重松 鷹泰(しげまつ たかやす、1908年〈明治41年〉8月7日 - 1995年〈平成7年〉8月7日)は、日本の教育学者。名古屋大学名誉教授。専攻は教育方法論。授業分析を行った。 東京生まれ。旧制第一高等学校理科卒後、1928年徳島県大津東小学校の代用教員となる。1932年東京文理科大学教育学科教育学専攻卒、東京府豊島師範学校講師。1937年教育科学研究会生活教育研究部会に参加し、教育指導部幹事に就任した。1941年東京府学務部勤務。1944年応召、中支に出征。1946年文部省教科書局小学校社会科担当となり、小学校社会科創設及び学習指導要領に関与する。1947年奈良女子高等師範学校附属小学校主事、1952年名古屋大学教育学部教授、1972年定年退官、のちに名誉教授。
清宮 博(せいみや ひろし、1908年8月6日 - 1976… 清宮 博(せいみや ひろし、1908年8月6日 - 1976年4月27日)は電気工学者、実業家。元富士通社長、会長。日本のコンピューターパイオニアの一人。旧姓根岸。 広島県広島市大手町(現在の同市中区)出身。広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属高校)から第一高等学校をへて東京帝国大学電気工学科卒(1932年)。逓信省電気試験所第4部に入り、光通信、電子管(マグネトロン、速度変調管)などの研究を担当。1936年、関杜夫とともにグラスファイバーを光通信に使うアイデアを発明した。 終戦後の1947年12月23日、アメリカベル電話研究所でトランジスタが発明され、翌1948年6月30日公表された。
稲沼 瑞穂(いなぬま みづほ、1908年(明治41年)8月3… 稲沼 瑞穂(いなぬま みづほ、1908年(明治41年)8月3日 - 1965年(昭和40年)7月29日)は、日本の翻訳家、元岩波書店編集部長。科学史研究の先達とされる。 1908年8月3日、東京都文京区高田豊川町に生まれる。東京府立第五中学校、第一高等学校理科甲類を経て、1929年に東京帝国大学理学部物理学科に入学する。 1933年に卒業し、4月に岩波書店編集部に入る。1937年11月、病気療養のため退職する。1938年4月、神奈川県立厚木中学校の嘱託に、同年6月から教諭になる。1941年、陸軍予科士官学校の教授となる。同年に日本科学史学会が発足し、その幹事の一員として会務を処理する。 1942年、文部省図書監修官となり、図書局第二編修課に勤務する。
6代目 三升家 小勝(みますや こかつ、1908年8月3日 … 6代目 三升家 小勝(みますや こかつ、1908年8月3日 - 1971年12月29日)は、東京都出身の落語家。本名は吉田 邦重。生前は落語協会所属。出囃子は『井出の山吹』。 通称「右女助の小勝」「糀谷の師匠」。妻は日本舞踊の花柳一衛。 東京の本所太平町に生まれる。神田錦町の電機学校(現在の東京電機大学)卒業後、東京市水道局(現在の東京都水道局)に勤務。金町浄水場の技師を務める。 1931年3月、曲芸の春本助次郎を通じて8代目桂文楽に入門。一番弟子となる。文楽の「文」と中村の「中」から一字ずつ取って「桂文中」と名乗り、常磐亭で初高座。1932年、「桂文七」で二つ目に昇進する。1936年5月にキングレコード専属となり、最初の吹き込みレコードを発売。
重岡 曻(しげおか のぼる、1908年(明治41年)8月3日… 重岡 曻(しげおか のぼる、1908年(明治41年)8月3日 - 1991年(平成3年)7月7日)は、日本の剣道家。段位称号は範士九段。 鹿児島県日置郡日置村日置(現日置市日吉町日置)生まれ。父は剣道家の重岡栄之丞だが、9歳の時に死別。小学校高学年から剣道を始め、鹿児島県第二師範学校を卒業。 短期間の兵役及び教員を務めた後、大日本武徳会武道専門学校に入学し、小川金之助、宮崎茂三郎、津崎兼敬、佐藤忠三らの指導を受ける。 1937年(昭和12年)、大阪府警察部に奉職。日満対抗剣道試合出場、明治神宮体育大会剣道競技優勝。 戦後は鹿児島に帰郷し教員を務める。1965年(昭和40年)、近畿管区警察学校教授となる(後に名誉教授)。
窪田 章一郎(くぼた しょういちろう、1908年8月1日 -… 窪田 章一郎(くぼた しょういちろう、1908年8月1日 - 2001年4月15日)は、日本の歌人・国文学者。早稲田大学名誉教授。 窪田空穂の長男として、東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)南榎町に生まれる。旧制私立豊山中学校(現在の日本大学豊山高等学校)4年修了後、早稲田大学文学部国文科卒。1943年、武川忠一らが創設した早稲田大学短歌会に指導役として参加。そこから発展した歌誌『まひる野』を創刊主宰した。早稲田大学講師・教授を歴任、名誉教授の称号を受く。国文学者としては西行研究の第一人者であった。 1980年、「素心臘梅」で第14回迢空賞受賞。1988年、「窪田章一郎全歌集」で第11回現代短歌大賞受賞。
井上 誠一(いのうえ せいいち、1908年(明治41年)8月… 井上 誠一(いのうえ せいいち、1908年(明治41年)8月1日 - 1981年(昭和56年)11月26日)は、東京府(現・東京都)出身のゴルファー、ゴルフ場設計者。 1908年(明治41年)8月11日、東京府東京市赤坂区(現・東京都港区)に、眼科医の長男として生まれる。母は御茶ノ水にあった井上眼科医院創始者の長女で、父は養子として母と結婚した。 少年時代はカメラなどが趣味で、映画やメークアップへの興味も相まってハリウッドへの憧れを抱いた。しかし、成蹊高等学校在学中に、嗜眠性脳炎を患い、叔父の井上達四郎に、治療にはゴルフが最適と言われゴルフを始めた。1930年(昭和5年)、「川奈ホテルゴルフコース・富士コース」(静岡県)にいた時、「東京ゴルフ倶楽部・朝霞コース」(埼玉県)の設計のためにイギリスから来日していたチャールズ・ヒュー・アリソンに出会い、彼の仕事を見て「面白そうだ、僕もやってみよう」と思い立つ。
西田 善一(にしだ ぜんいち、1908年(明治41年)8月1… 西田 善一(にしだ ぜんいち、1908年(明治41年)8月1日 - 1981年(昭和56年)4月25日)は、日本の政治家・実業家。大津市長(2期)、滋賀県議会議員、大津市議会議員などを歴任。大津市長として総合開発計画、市庁舎の移転建設、町村合併、びわこ大博覧会などの大事業を行った。位階は従五位。 1908年8月1日に、大津市下堅田町(現・島の関)で、油屋「西利商店」の子に生まれる。旧制膳所中学校(現滋賀県立膳所高等学校)を経て、1929年3月に彦根高等商業学校(現滋賀大学経済学部)を卒業。学生時代は、「名ピッチャー」でならしたといい、当時バッテリーを組んでいたのは後に近江八幡市長となる井狩貞之だった。
白浜 仁吉(白濱 仁吉、しらはま にきち、1908年8月1日… 白浜 仁吉(白濱 仁吉、しらはま にきち、1908年8月1日 - 1985年1月4日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲章は勲一等瑞宝章。 長崎県南松浦郡若松村(のち若松町、現在の新上五島町)に生まれる。旧制海星中学校を経て、東京慈恵会医科大学を卒業。 陸軍軍医として長崎勤務中に長崎市への原子爆弾投下により被爆し、妻と2人の子供を失う。終戦後は実家の五島に戻り漁業に従事する。 1947年より長崎県議会議員を2期務めたのち、1952年の衆議院議員選挙に改進党から立候補し当選、以後当選12回(当選同期に大平正芳・黒金泰美・内田常雄・植木庚子郎・丹羽喬四郎・宇都宮徳馬・灘尾弘吉・加藤精三・山崎巌・今松治郎・重政誠之・町村金五・古井喜実など)。
高木 広一(たかぎ ひろいち、1908年〈明治41年〉8月 … 高木 広一(たかぎ ひろいち、1908年〈明治41年〉8月 - 1980年〈昭和55年〉3月10日)は、日本の外交官。初代外務省賠償部長、外務省移住局長、駐デンマーク特命全権大使、駐ギリシャ特命全権大使。 京都出身。大阪の伴野商店店員、京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校)を経て、1932年に名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)を卒業し、東京商科大学(現一橋大学)に進学した。1933年に高等試験外交科に合格し、1934年に大学を中退して外務省に入省した。 1949年通商産業省通商局輸入第三課長。1950年通商産業省通商局輸入第二課長。同年通商産業省通商局輸出課長。1952年在ブエノスアイレス日本政府在外事務所所長。
今泉 隆平(いまいずみ りゅうへい、1908年8月 - 19… 今泉 隆平(いまいずみ りゅうへい、1908年8月 - 1997年3月)は、日本の政治家。新潟県南魚沼郡石打村長。塩沢町名誉町民第1号。 1908年8月、(明治41年)新潟県南魚沼郡石打村(現 南魚沼市)君沢で長男として生まれる。1924年塩沢町立尋常高等小学校高等科を卒業。1927年石打村役場勤務。1945年8月27日、薬照寺でバー・モウを匿う仲間になる 。1947年石打村議会議員・副議長。1952年薬照寺檀家総代(1975年5月迄の23年間)。1955年石打村長となり、町村合併を推進。1955年埼玉県所沢市に転住、有限会社今泉牧場を経営。1957年塩沢町参与。 1986年3月、紺綬褒章を受章。
青木 太郎(あおき たろう、1908年〈明治41年〉7月31… 青木 太郎(あおき たろう、1908年〈明治41年〉7月31日 - 1977年〈昭和52年〉)は、昭和期の歯科医師、政治家。中野市長。元中野市長の青木一は長男。 長野県下高井郡延徳村大字三ツ和(現・中野市三ツ和)で、元長野県議会議員の青木賢一郎と千代の長男として生まれた。青木家は代々松代藩の庄屋を勤役した旧家。 旧制長野中学(現・長野県長野高等学校)を経て、日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)卒業後、東京帝国大学医学部修了(選科生)。帰郷し、中野で歯科医院を開業した。1937年(昭和12年)に応召し、1946年(昭和21年)陸軍大尉で復員した。 1947年(昭和22年)長野県議会議員に選出され2期在任。
戸田 繁子(とだ しげこ、1908年7月31日 - 2019… 戸田 繁子(とだ しげこ、1908年7月31日 - 2019年3月31日)は、日本の音楽教師。広島市で音楽教室「杉の子会」主宰。作曲家糀場富美子、指揮者大植英次らを育てた。 島根県飯南町出身。1923年に高等小学校を卒業、島根県女子高等師範学校に入学した。1927年に卒業後、島根県飯石郡吉田村小学校に赴任するが、さらに学ぶために松江市の飯田忠義の元に通いレッスンを受ける。1929年4月、東京音楽学校に設置された教員養成所の試験に合格。翌1930年5月から1932年3月まで、同校でピアノを遠山つや、声楽を田中伸江(ピアニスト田中希代子の母)に学ぶ。 1932年に卒業後は故郷に帰り、島根県立今市高等女学校(現・出雲高等学校)に勤務。
藤岡 通夫(ふじおか みちお、1908年7月31日 - 19… 藤岡 通夫(ふじおか みちお、1908年7月31日 - 1988年11月19日)は、日本の建築史家。東南アジア諸国の王宮や日本の城郭などを研究した。東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)出身。父は藤岡作太郎、兄は藤岡由夫。 近世建築史(城郭・住宅建築)研究に業績を残すほか、東洋建築史研究では戦前にアンコールワットを調査し、近年はネパール王宮の建築研究と保存実施への道を拓いた。 関野克は本郷の誠之小学校で同級。太田博太郎は同小学校で4年後輩。1929年に松本高等学校理科甲類を卒業し、東京工業大学建築学科に入学。1932年卒業したのちは同大学助手、同講師を経て1939年助教授。 1938年「天守閣建築概説」を発表。
石破 二朗(いしば じろう、1908年〈明治41年〉7月29… 石破 二朗(いしば じろう、1908年〈明治41年〉7月29日 - 1981年〈昭和56年〉9月16日)は、日本の内務・建設官僚、政治家。位階は正三位。勲章は勲一等瑞宝章。 参議院議員(2期)、鳥取県知事(第39代)。鈴木善幸内閣において、自治大臣(第28代)兼国家公安委員会委員長(第38代)を務めた。 第102-103代内閣総理大臣、第28代自由民主党総裁である石破茂の父。 太宰治、永井荷風の著作物を好む。 田中角栄元首相は友人である。安田貞栄境港市長(第3代)が石破に「あなたは元気である限り、本県県政を担当願うことが県民のためになると思う。それほどあなたを高くかっておるが東京では(自民党の)田中派に属しておることが釈然としませんね」と言った時「君は田中という人を知らんからだ。
伊部 恭之助(いべ きょうのすけ、1908年7月28日 - … 伊部 恭之助(いべ きょうのすけ、1908年7月28日 - 2001年4月16日)は、日本の実業家。住友銀行頭取・会長。関西経済同友会代表幹事、日仏クラブ世話人。 現在の東京都新宿区出身。東京開成中学(旧制)、東京高校(旧制)を経て、1933年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年住友合資会社入社。のちに住友銀行に移り有楽町支店長、東京事務所長などを経て、1957年取締役。常務、専務、副頭取等を歴任し、浅井孝二の後を受けて、1973年頭取に就任した。 頭取在任中、磯田一郎副頭取と共に経営危機に陥った安宅産業を伊藤忠商事に救済合併させたり、マツダやアサヒビールの再建に取り組んだ。1977年会長、のち相談役、1983年最高顧問。
吉井 忠(よしい ただし、1908年7月25日 - 1999… 吉井 忠(よしい ただし、1908年7月25日 - 1999年8月5日)は、日本の洋画家。 福島県出身。1928年帝展で「祠」が初入選。 1938年美術文化協会創立会員。1946年、日本美術会創立会員。1964年主体美術協会創立会員。 太平洋美術研究所に入り、靉光、麻生三郎、井上長三郎、鶴岡政男、寺田政明、松本俊介らを知る。 熊谷守一、峯孝、寺田政明、高山良策らと池袋モンパルナスと称される美術家の地域コミュニティを形成。 戦後、「アトリエ」などを中心に美術評論分野でも活躍。児童書などに挿絵を書く。「土民派」を自認した。 福島県立美術館、宮城県美術館などに作品が所蔵されている。 娘の吉井爽子も画家(女子美術大学洋画科出身)である。
永野 鎮雄(ながの ちんゆう/しずお、1908年7月25日 … 永野 鎮雄(ながの ちんゆう/しずお、1908年7月25日 - 1982年12月7日)は、日本の僧侶、政治家、参議院議員(1期)。戦後、政財界で活躍した永野一族の一人。 広島県下蒲刈島にある浄土真宗本願寺派弘願寺の生まれ。旧制広島一中、旧制広島高校を経て東北帝国大学卒業後、1939年龍谷大学文学部卒業、1941年に龍谷大学研究科を卒業。自坊の弘願寺住職を継承した後に西本願寺宗務所に勤務し、総務や親鸞聖人大遠忌常務理事などを歴任。1957年には全日本仏教会の代表として当時正式な国交のなかった中華人民共和国を訪問している。 1968年、第8回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区から立候補し当選。
秋野 不矩(あきの ふく、1908年(明治41年)7月25日… 秋野 不矩(あきの ふく、1908年(明治41年)7月25日 - 2001年(平成13年)10月11日)は、静岡県出身の女流日本画家。本名はひらがなでふく。日本画家沢宏靱との間に6人の子を儲けた。絵本画家の秋野亥左牟は次男。 昭和初期より西山翠嶂門下で官展の入選・特選などを重ねた。戦後は画塾を出て「創造美術」(現創画会)の結成に参画する一方、美術学校(現京都市立芸術大学)にて後進を指導。50代で赴任したインドの風景に魅せられ、以後インドを主題にした作品で新しい境地を開拓する。 神主の父惣吉と母かつの五女として静岡県に生まれる。貧乏な田舎暮らしで玩具も絵本もなかったため、好きな絵を描いて育った。小学六年の時、東京の美術学校出身の教師と親しく接し、ゴッホやゴーギャンの絵画を知る。
野地 紀一(のじ きいち、1908年7月24日 - 1988… 野地 紀一(のじ きいち、1908年7月24日 - 1988年12月7日)は、日本の経営者。清水建設社長、会長を務めた。福島県出身。 1931年に東京帝国大学工学部建築学科を卒業し、同年に清水組(のちの清水建設)に入社。1961年5月に取締役に就任し、1964年11月に常務、1966年9月に専務を経て、1967年11月に副社長に就任し、1972年5月には社長に昇格。1981年6月に会長に就任。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1978年4月に勲二等瑞宝章を受章し、1986年11月には勲一等瑞宝章を受章。 1988年12月7日呼吸不全のために死去。80歳没。
田中一村(たなか いっそん、1908年7月22日 - 197… 田中一村(たなか いっそん、1908年7月22日 - 1977年9月11日)は、日本画家である。奄美大島の自然を愛し、その植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描いた。本名は田中孝。
竹内 京子(たけうち きょうこ、1908年7月22日 - 1… 竹内 京子(たけうち きょうこ、1908年7月22日 - 1995年11月13日)は日本の女優。本名・外松百合子。旧芸名・白瀬喬子。父親は男爵の外松亀太郎、実兄は俳優の竹内良一、義姉は女優の岡田嘉子。劇団新派所属。 東京出身。男爵外松亀太郎(外松孫太郎長男)と日本女子大教師大山たま子(混血の声楽教師)の娘として生まれ、1925年に女子学習院卒業。岡田嘉子一座(1927年結成)に弟子入りし、1928年の東京劇場『フィガロの結婚』にて初舞台を踏む。1952年には劇団新派へ入団し、脇役として活躍する。1987年第12回菊田一夫演劇賞特別賞、芸団協芸能功労者表彰をそれぞれ受賞。 1990年の舞台『大つごもり』を最後に芸能活動から遠ざかっていたが、1995年11月13日、老衰のため東京都内の病院で死去。
大脇 英夫(おおわき ひでお、1908年(明治41年)7月2… 大脇 英夫(おおわき ひでお、1908年(明治41年)7月22日 - 没年不明)は、日本の検事、弁護士。島根県弁護士会副会長。松江市公安委員会長。 鳥取県米子市西町出身。弁護士・大脇熊雄二男。 1933年3月東京帝国大学法学部卒業。1934年11月高等試験司法科合格。検事となり神戸、仙台、広島地検等に勤務し1945年退職。 趣味は読書。宗教は禅宗。住所は島根県松江市北田町。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
三熊山 美夫(みくまやま よしお、1908年7月20日 - … 三熊山 美夫(みくまやま よしお、1908年7月20日 - 没年不明)は、現在の兵庫県洲本市出身で中川部屋、武蔵川部屋、鏡山部屋に所属した元大相撲力士。本名は小泉 美夫。167cm、102kg。最高位は西前頭12枚目。 1923年1月初土俵、1932年5月十両昇進。1936年1月新入幕。非力と評されながらも、ずんぐりとした体相当の相撲を見せ、評判はよかった。しかし幕内在位は3場所に終わり、1938年1月に廃業。廃業してからは消息が全く不明になっている。 四股名は故郷の山から。 大変器用な力士で、初っ切り・相撲甚句・弓取りと何でも務められたので巡業で重宝がられた。
上村 健太郎(うえむら けんたろう、1908年(明治41年)… 上村 健太郎(うえむら けんたろう、1908年(明治41年)7月18日 - 1981年(昭和56年)8月4日)は、兵庫県出身の内務官僚、航空自衛官、実業家である。初代航空幕僚長。位階は従三位。 1908年(明治41年)7月18日、兵庫県で陸軍中将・上村良助の長男として生まれる。東京府立四中、旧制一高卒業。府立四中、一高同期に河野一之、佐々木直がいる。1930年(昭和5年)、東京帝国大学法学部政治学科卒業し、内務省に入省。秋田県属。1944年(昭和19年)8月、警視庁官房主事。1945年(昭和20年)4月、警視庁特別高等警察部長に就任。 1952年(昭和27年)9月、保安庁長官官房長。1954年(昭和29年)7月、初代航空幕僚長に就任。
泊 宝徳(とまり ほうとく、1908年7月18日 - 198… 泊 宝徳(とまり ほうとく、1908年7月18日 - 1986年2月10日)は日本の政治家。鹿児島県加世田市長(6期)。 鹿児島県生まれ、加世田市(現南さつま市)出身。1926年鹿児島県立川辺中学校(旧制、現鹿児島県立川辺高等学校)四年修了。1933年から加世田町役場に勤務し、書記を務め、1945年より税務主任。1947年8月加世田町助役に就任し、1954年7月に加世田町と万世町が合併して加世田市となるまでに2期務める。合併後の新市長就任までの間、市長職務執行の代理者を務める。1954年9月から1962年7月まで加世田市収入役(初代、2期)。1962年8月の市長選挙に立候補をして松山賢太郎初代市長と争って当選し、1962年8月10日、第2代加世田市長に就任。
高木 俊朗(たかぎ としろう、1908年(明治41年)7月1… 高木 俊朗(たかぎ としろう、1908年(明治41年)7月18日 - 1998年(平成10年)6月25日)は、日本の映画監督、脚本家、ノンフィクション小説家である。 東京生まれ。1933年早稲田大学政治経済学部卒業後、松竹蒲田撮影所に入社し、清水宏に師事した。 その後、富士スタジオ、日本映画社に勤務した。1939年から陸軍映画報道班員として、日中戦争に従軍し、記録映画を製作した。 太平洋戦争中、1942年に陸軍航空本部映画報道班員として、マレーシア、インドネシア、タイ、仏印などに従軍。映画報道班員としての体験をもとに、新聞や放送の発表と現実の戦況の違い、戦場の苛酷なありさまの見聞等々、インパール作戦の悲惨さを明らかにして陸軍指導部の無謀さを告発することを決意した。
高杉 一郎(たかすぎ いちろう、1908年7月17日 - 2… 高杉 一郎(たかすぎ いちろう、1908年7月17日 - 2008年1月9日)は、日本の評論家・小説家・翻訳家・エスペランティスト。和光大学名誉教授。本名は小川 五郎(おがわ ごろう)で、大学教授としてはこの名前で教えた。 静岡県田方郡中伊豆町(現・伊豆市)生まれ。東京文理科大学教育学科中退。1933年より改造社に勤務、雑誌『文藝』編集主任となり、1942年東京文理科大学英文科卒業。1944年徴兵され、ハルピンで敗戦を迎え、シベリア抑留を体験。1949年復員。帰国後書いた抑留体験記『極光のかげに』『人間』(1950年8月 - 12月)が第24回芥川龍之介賞候補にあがり、ベストセラーとなる。 1950年静岡大学教育学部講師、1957年同文理学部助教授、1965年教授、1967年 - 1972年評議員、1972年定年退官。
小西 喜蔵(こにし きぞう、1908年7月17日 - 198… 小西 喜蔵(こにし きぞう、1908年7月17日 - 1989年7月28日)は、日本の騎手(新潟競馬倶楽部、東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬)、調教師。(国営競馬、日本中央競馬会)。 岩手県岩手郡米内村上田(現在の盛岡市高松)出身。日本競馬史上初のクラシック三冠達成騎手。 仁王小学校卒業、盛岡高等小学校(現・下橋中学校)卒業。 子息は1男4女であり、帝京大学元教授の小西厚子は長女。元調教助手と厩務員であった小西聖一は長男(厚子の弟で5人兄妹の4番目)であり、1943年9月1日生まれである。 1908年7月17日、岩手県岩手郡米内村の農家に11人兄弟の次男として生まれた。1923年に高等小学校を卒業した後岩手種馬所の牧夫になった小西は、種馬所に近い小岩井農場に繋養されていたサラブレッドを目にするうちにその美しさに魅せられ、騎手を志すようになった。
小林 勇(こばやし いさむ、1908年〈明治41年〉7月16… 小林 勇(こばやし いさむ、1908年〈明治41年〉7月16日 - 没年不明)は、日本の経営者。興国化学工業(現・アキレス)社長を務めた。 群馬県出身。小林鉄蔵・ふさの五男。興国化学工業株式会社を設立した殿岡利男とは太田中学校の同級生であった。1931年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 帝国生命での勤務を経て、1947年5月に双葉商会を設立し、社長に就任し、同年6月に興国化学工業常務、1962年6月に副社長を経て、1967年には社長に就任。1977年1月には会長に就任。 1970年10月に藍綬褒章を受章。
小林 孝平(こばやし こうへい、1908年(明治41年)7月… 小林 孝平(こばやし こうへい、1908年(明治41年)7月15日 - 1991年(平成3年)4月13日)は、日本の政治家、官僚。参議院議員(2期)、長岡市長(5期18年)。 新潟県長岡市出身。新潟県立長岡中学校、旧制第四高等学校を経て、東京帝国大学農学部卒業。農林省官僚となるが、同省の先輩に当たる和田博雄の勧めにより辞職。1950年6月に行われた第2回参議院議員通常選挙に全国区から日本社会党公認で立候補し初当選を果たした。議員在職中は安保条約やベトナム賠償問題などで、政府の姿勢を厳しく質したことから「マムシの孝平」と渾名される。1956年、再選。 その後社会党を離党し、革新系無所属として1961年の新潟県知事選挙に挑み落選(当選は自民党推薦の塚田十一郎)。
野田 英夫(のだ ひでお、1908年7月15日 - 1939… 野田 英夫(のだ ひでお、1908年7月15日 - 1939年1月12日)は、洋画家。アメリカ合衆国生まれの日系人。 1908年(明治41年)、カリフォルニア州サンタクララ郡アグニュー村(Agnew, 現・サンタクララ市)で、熊本県出身の日本人移民・野田英太郎とセキの二男(第二子長男?)として生まれる。英語名はベンジャミン・ノダ。当時、アグニューや近隣のアルビソなどサンノゼ郊外は、ベリーなどの農産物耕作に携わる日本人移民の中心地だった。 3歳のときに父の郷里熊本の叔父・羽島徳次に預けられ、熊本師範付属小学校、旧制熊本県立熊本中学校卒業後に帰国し、1929年にアラメダ郡のビードモント高校を卒業、アメリカ人家庭のスクールボーイとして働きながら絵を学び、カリフォルニア・ファイン・アーツを中退、1931年にニューヨークに出てウッドストック芸術村で開かれていたアート・ステューデンツ・リーグの夏季講座に参加し、同校教授アーノルド・ブランチ(英語版)や国吉康雄の支援を受け、壁画・テンペラ画を研究した。
柳 致環(りゅう ちかん、1908年陰暦7月14日‐1967… 柳 致環(りゅう ちかん、1908年陰暦7月14日‐1967年2月13日)は、朝鮮の詩人。号は青馬。柳は死と虚無を前にして人間の存在と意味を探し求めた。「詩人になった動機はなんだと問われたら、ためらうことなく恋愛であると答える」と述べた柳の詩は、恋愛の末に結婚した妻、権在順に宛てた恋文であった。 1908年陰暦7月14日、慶尚南道忠武市太平洞に生まれる。父は晋州柳氏の柳煖秀、母は密陽朴氏の朴又守。八人兄妹の次男。父の柳煖秀は巨済の屯徳面芳下里の儒学者であり、母の実家は裕福な密陽朴氏であったため、柳は幼い頃から私塾で漢学を学ぶことができた。1918年、柳が10歳のとき、統営普通学校に入学する。この頃、後に妻となる権在順と親しくなる。