金子 健二(かねこ けんじ、1880年1月13日 - 196… 金子 健二(かねこ けんじ、1880年1月13日 - 1962年1月3日)は、日本の英文学者、翻訳者。 1880年(明治13年)、新潟県中頸城郡新井町に生まれる。高田中学校から東京の郁文館中学校、第四高等学校を経て1905年に東京帝国大学英文科を卒業した。 帝大在学中、一年の前半は小泉八雲、八雲退任後の三年間は夏目漱石の講義に出席して、その様子を詳しく日記に記している。日記の内容は著書『人間漱石』(いちろ社、1948。増補版は協同出版、1956)や、孫の金子三郎が編纂した『川渡り餅やい餅やい――金子健二日記抄』(上中下巻、私家版、1998)、『記録 東京帝大一学生の聴講ノート』(リーブ企画、2002)等に紹介されており、漱石研究者にとって非常に貴重な資料となっている。
北沢 種一(きたざわ たねいち、1880年〈明治13年〉1月… 北沢 種一(きたざわ たねいち、1880年〈明治13年〉1月13日 - 1931年〈昭和6年〉12月9日)は、日本の教育者。 長野県諏訪郡四賀村(現在の諏訪市)出身。長野県師範学校を経て、1906年(明治39年)に東京高等師範学校を卒業した。福井県師範学校を経て、東京女子高等師範学校教授・同附属高等女学校教諭・同附属小学校主事を務めた。1922年(大正11年)から1924年(大正13年)までドイツに留学し、帰国後は東京女子高等師範学校附属高等女学校主事となった。ドイツから帰国後、作業教育を提唱した。
佐保 畢雄(さほ ひつお、1880年(明治13年)1月11日… 佐保 畢雄(さほ ひつお、1880年(明治13年)1月11日 - 1940年(昭和15年)9月9日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(4期)。旧姓・永江。 永江慎一の五男として長崎県に生まれ、佐保ケサの養子となり、1909年(明治42年)家督を相続する。1906年(明治39年)早稲田大学政治経済科を卒業。農業を営む傍ら、佐世保市会議員、長崎県会議員、同参事会員、鉄道大臣秘書官を歴任する。また、佐世保商工会議所議員、佐世保信託、肥薩貯金、佐世保土地、九州鉄工所各取締役、佐世保鉄工所、大和屋洋服店各取締役社長、佐世保貯蓄銀行監査役などを歴任する。南洋方面視察および派遣軍慰問のため満州、北支那に派遣された。
瀬川 直一(せがわ なおいち、1880年(明治13年)1月1… 瀬川 直一(せがわ なおいち、1880年(明治13年)1月10日 - 1968年(昭和43年)8月21日)は、日本の船長、第二代日本海事検定協会会長。位階は従五位。 牧師である父、瀬川浅と母つやの長男として佐賀県で生まれ、その後すぐ長崎市へ移り、同地で育つ。 東山学院を経て、1906年(明治39年)に東京商船学校を卒業後、日本郵船に入社。英国留学の経験や英語が得意だったことを活かして、主に欧州航路の乗組船員として乗務に就いた後、小樽丸、加賀丸、靖国丸等の船長を務める。 1933年(昭和8年)に日本郵船を退職、1935年(昭和10年)日本海事検定協会に検査員として就職し、横浜出張所所長や理事などを務めた。
河北 林吾(かわきた りんご、1880年1月5日 - 195… 河北 林吾(かわきた りんご、1880年1月5日 - 1958年3月29日)は、明治期から昭和期の実業家、時計商。河北時計店社長。旧姓、牛島。 九州福岡県八女郡出身。 東京に出て、立教大学商学部に入学。この頃、築地にあった立教大学の寄宿学生たちは、「天國は近づけり、汝等食ひあらためよ」と吟じつつ、夕方になると銀座をふらついては、木挽町にあった天丼屋の「天國」で天丼2杯ほどをペロリと平らげて群歩いていたが、林吾もそうした中の一人だった。また林吾は、学生当時、立教最初の英語劇を催した一人であった。 1911年(明治44年)、立教大学商学部を主席で卒業。立教大学第1回卒業生として、小島茂雄(立教大学元文学部長、立教中学校元校長、文学部卒)や、久保田正次(立教大学元教授、立教大学野球部元部長)と同級生。
小幡 豊治(おばた とよじ、1880年1月4日 - 1961… 小幡 豊治(おばた とよじ、1880年1月4日 - 1961年7月30日)は、日本の内務官僚、検察官、弁護士。政友会系県知事。 千葉県出身。小幡締次郎の三男として生まれる。1905年(明治38年)、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。司法省に入り、千葉地方裁判所・津地方裁判所・名古屋地方裁判所・浦和地方裁判所・東京地方裁判所などの検事を歴任。 1917年(大正6年)1月、内務省に転じ警視庁保安部長に就任。以後、愛知県・大阪府の各内務部長などを歴任。 1922年(大正11年)10月、高知県知事に就任し、郡道の県立移管問題や発電所の増設に尽力。さらに、鹿児島県知事、徳島県知事を務める。1926年(大正15年)9月28日に知事を休職。
石川 定辰(いしかわ ていしん、1880年〈明治13年〉1月… 石川 定辰(いしかわ ていしん、1880年〈明治13年〉1月4日 - 1947年〈昭和22年〉10月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 秋田県南秋田郡秋田町中長町(現秋田市中通)出身。新聞記者、秋田時事新聞主幹、秋田新聞社、東北拓殖、東北物産商事、能代無尽各(株)取締役、秋田木工、辛酉銀行各(株)代表取締役となる。 1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙において秋田1区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが次点で落選した。1936年(昭和11年)第19回衆議院議員総選挙で立候補したが次点落選。最下位当選者とは1票差だった。しかし、同年12月に同じ選挙区の中田儀直の当選無効により、更正決定で議員となる。
小林 順一郎(こばやし じゅんいちろう、1880年(明治13… 小林 順一郎(こばやし じゅんいちろう、1880年(明治13年)1月3日 - 1963年(昭和38年)11月20日)は、日本の陸軍砲兵大佐、実業家、右翼の黒幕、右翼団体三六倶楽部主宰者、大政翼賛会総務。戦後A級戦犯として逮捕された。新潟県長岡市出身。 旧長岡藩士・小林保四郎の長男として生まれる。長岡中学・陸軍中央幼年学校を経て、1901年、陸軍士官学校卒業(13期)。同期には志賀直方(志賀直哉の叔父、近衛篤麿の親友)・井田磐楠・林茂清・中岡弥高・建川美次らがいる。 1902年、砲兵少尉となる。1904年、日露戦争に出征し砲兵中尉となる。1908年、陸軍砲工学校高等科卒(14期)、砲兵大尉となる。
岡上 梁(おかのうえ りょう、1880年(明治13年)1月3… 岡上 梁(おかのうえ りょう、1880年(明治13年)1月3日 - 1954年(昭和29年)12月14日)は、日本の教育者。 岡上市次・竹の次男として高知県長岡郡大篠村(現・南国市)に生まれる。高知県尋常中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)、第五高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。 私立有恒学舎教授、金沢第一中学校教諭、佐沼中学校校長、第七高等学校造士館教授、第五高等学校教授、東亜同文書院副院長、徳島中学校校長、新潟高等学校校長、広島高等学校校長を歴任した。1936年(昭和11年)、浦和高等学校校長に就任し、1939年(昭和14年)に第四高等学校校長に転じた。
大緑 仁吉(おおみどり にきち、1880年1月3日 - 19… 大緑 仁吉(おおみどり にきち、1880年1月3日 - 1954年7月19日)は、現在の福井県福井市出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は帰山 仁吉。8代大山。179cm、94kg。最高位は東前頭3枚目。 1901年1月初土俵、1907年1月十両昇進。1908年1月、6勝2分2休で、現在なら十両優勝にあたる成績をあげ、翌5月場所で新入幕。3場所連続の好成績で3枚目まで躍進するが、以後は下降線を辿り、十両に陥落。1912年5月に引退して大山を襲名した。1938年5月に廃業し、瀬戸物業を営んだ。 エコノミーホテルほていやブログ~ 両店のルーツと山谷の宿の変遷 ~ - 帰山仁吉とその一族の足跡について書かれた記事 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。
杉山 元(すぎやま げん/はじめ、1880年〈明治13年〉1… 杉山 元(すぎやま げん/はじめ、1880年〈明治13年〉1月2日 - 1945年〈昭和20年〉9月12日)は、大日本帝国陸軍軍人。元帥陸軍大将従二位勲一等功一級。 福岡県出身。陸軍士官学校卒業(12期)、陸軍大学校卒業(22期)。陸軍大臣、教育総監、太平洋戦争開戦時の参謀総長。 陸軍大臣、参謀総長、教育総監の陸軍三長官を全て経験し元帥にまでなったのは二人しかいない(もう一人は上原勇作)。また、軍要職にあった際の記録を『杉山メモ』として遺したことで知られる。 1880年(明治13年)1月2日、福岡県企救郡横代村(後の小倉市を経て現:北九州市小倉南区横代)に杉山貞の長男として生まれる。 父は天保14年(1843年)8月、豊前国企救郡横代村の農家に生まれ、慶応2年(1866年)の丙寅御変動で農兵として従軍した後、教育者として活躍しており、広寿山福聚寺(現:北九州市小倉北区)に事績が記録される。
長谷 外余男(はせ とよお、1880年〈明治13年〉1月2日… 長谷 外余男(はせ とよお、1880年〈明治13年〉1月2日 - 1973年〈昭和48年〉8月15日)は、日本の神職。熱田神宮名誉宮司。 1880年、石川県の社家に生れる。1911年に神宮皇學館を卒業、1912年に駒形神社宮司となって以降、1913年から大鳥神社、1920年から松尾大社、1923年から多賀神社、1934年から橿原神宮の宮司をつとめ、1936年から熱田神宮宮司、その後同名誉宮司。1946年の神社本庁設立などに尽力した。皇學館大学の初代理事長も務めている。
斎藤 真澂(さいとう しんちょう、1880年〈明治13年〉1… 斎藤 真澂(さいとう しんちょう、1880年〈明治13年〉1月2日 - 没年不明)は、昭和時代前期の日本の政治家。鉄道官僚。三重県宇治山田市長。 国井清廉の三男として岐阜県、のちの羽島郡笠松町に生まれ、斎藤光の入夫となる。1906年(明治39年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。更に大学院に学んだ。帝国鉄道院に出仕し、同書記、同参事、鉄道局参事、札幌、仙台、各鉄道局運輸課長、鉄道監察官を経て、札幌鉄道局長および鉄道省監察局長に進んだのち退官する。その後、参宮急行電鉄専務取締役を経て、1935年(昭和10年)11月、宇治山田市長に就任した。1940年(昭和15年)1月、再選した。3期務め1946年(昭和21年)3月に退任。
松村 真一郎(まつむら しんいちろう、1880年〈明治13年… 松村 真一郎(まつむら しんいちろう、1880年〈明治13年〉1月2日 - 1963年〈昭和38年〉6月2日)は日本の農林官僚であり、退官後に貴族院議員及び参議院議員を務めた。 松村眞平とヒサの間に長男として生まれる。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学を首席で卒業し、農商務属兼農商務大臣秘書官となる。同年、高等文官試験に合格し、特許局審査官と農商務参事官を兼任した。さらに農商務書記官に昇進し、大臣秘書官を兼ねた。1910年(明治43年)、法制局参事官に転じ、行政裁判所評定官を兼ね、1918年(大正7年)には法制局第一部長に就いた。その後、農商務省に戻って、畜産局長、商務局長、農林省水産局長、農林局長を歴任し、1929年(昭和4年)には農林次官に就任した。
塩野 季彦(しおの すえひこ、明治13年(1880年)1月1… 塩野 季彦(しおの すえひこ、明治13年(1880年)1月1日 - 昭和24年(1949年)1月7日)は、日本の司法官僚、政治家。司法大臣である。思想検事の主流として活動し、「塩野閥」などと言われた派閥を形作っていたことで知られている。(特捜検察と公安検察の対立参照。)
牧田 孫太郎(まきた まごたろう、1880年(明治13年)1… 牧田 孫太郎(まきた まごたろう、1880年(明治13年)1月 - 没年不明)は、日本の実業家。 福岡県・牧田嘉三郎の長男。山口高等学校を経て、1907年、京都帝国大学経済科を卒業。大阪合同紡績に入社。成宗電鉄創立と共に入社、支配人に就任。1910年、鞍手軽便鉄道に転じる。1913年、日之出生命(現住友生命)に勤務する。 1918年、分家する。1921年、瀬戸内海横断電力創立に当たる。同社常務取締役をつとめる。1925年、広島電気に入り、取締役兼総務部長に進む。1933年、同社監査役。1938年、同社常務取締役に選ばれる。 常務になってからも総務部長を兼務し、技術関係の仕事を除いた一切の社務を切り回す。
野依 辰治(のより たつじ、1880年〈明治13年〉1月 -… 野依 辰治(のより たつじ、1880年〈明治13年〉1月 - 1940年〈昭和15年〉3月2日)は、日本の実業家。三井生命保険取締役会長。生命保険会社協会理事。族籍は福岡県平民。養子・金城の長男はノーベル化学賞を受賞した野依良治である。 福岡県人・野依範治の長男。1901年、第五高等学校大学予科第一部(法科)を卒業。1905年、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。1917年、家督を相続する。 三井物産東京本店に入る。1910年、選ばれてドイツに出張を命ぜられ、未取引地方の開拓に努力する。同社金物部長、営業部長、大阪支店長、専務取締役を経て三井生命保険取締役会長兼常務取締役である。 宗教は真宗。趣味は読書、散歩。
葛原 運次郎(くずはら うんじろう、1880年〈明治13年〉… 葛原 運次郎(くずはら うんじろう、1880年〈明治13年〉 - 1945年〈昭和20年〉12月)は、大正から昭和時代前期の政治家。青森県南津軽郡田舎館村長、弘前市長。 青森県南津軽郡豊蒔村(現在の田舎館村豊蒔)出身。東奥義塾から第二高等学校を経て、東京帝国大学文学部に進む。1905年(明治38年)文学部講師嘱託となり、市村瓚次郎の助手として満州へ渡る。帰朝後は、東奥義塾教師、千葉県成田中学校長など全国各地の校長を歴任し、1926年(大正15年)大館中学校から弘前中学校の第14代校長となる。 1931年(昭和6年)同校生徒の「嶽温泉籠城ストライキ」の責任を取り、翌春校長を辞職。1940年(昭和15年)田舎館村長となり、1942年(昭和17年)7月には弘前市長に就任した。
大多和 與四郎(おおたわ よしろう、1880年(明治13年)… 大多和 與四郎(おおたわ よしろう、1880年(明治13年) - 1938年(昭和13年))は、伝染性紅斑(通称:リンゴ病)を日本で初めて発見したとして知られる千葉県白子町(旧 関村)の医学者。 相模国三浦一族の流れをくむ大多和忠右衛門(旧関村初代村長)の四男。関小学校、旧制千葉中学校、旧制第七高等学校、九州帝国大学医学部(旧 京都帝国大学福岡医科大学)を卒業し、同大学附属病院で内科医、小児科医として勤務した。 1912年(大正元年)に、当時小学校低学年の子供に流行していた頬が赤くなる奇病「りんごほっぺ病(伝染性紅斑)」はウイルス性疾患であることを日本で初めて発見し、医学雑誌(第5病の2例. 児科雑誌, 149: 721-730, 1912)に報告した。
西大條 覚(にしおおえだ さとる、1880年(明治13年)-… 西大條 覚(にしおおえだ さとる、1880年(明治13年)- 没年不詳)は、日本の水道技師、都市計画家。工学博士。 宮城県士族(仙台藩家臣)西大條規の長男として生まれる。 1905年(明治38年)、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。卒業後東京市に入り同市技手、同技師を歴任。水道課、水道浄水場などに勤務した後、1913年(大正2年)から1年間、水道施設の調査と実況視察のため欧米各国へ出張した。 1918年に臨時水道拡張課長。その後、内務省都市計画地方委員会および都市計画中央委員会に移籍。内務技師と、後宮内省兼任。内務技師兼宮内技師並びに鉄道省鉄道技師兼任。 その後内務省都市計画第一技術課長などを歴任。
山田博愛(やまだ ひろよし(はくあい)、1880年 - 19… 山田博愛(やまだ ひろよし(はくあい)、1880年 - 1958年)は、日本の内務官僚・都市計画家・土木技術者。旧都市計画法、関東大震災後の帝都復興計画を立案した。新潟県出身。 新潟県高田で長男として生まれる。高田中から第四高等学校 (旧制)を経て、1905年、東京帝国大学工科大学土木工学科を7月卒業。同年9月、東京市に入る。1906年12月に技師、1908年には土木局道路課長となる。 1908年7月からの埼玉県の、1915年3月からの滋賀県の土木課長を経て、1918年に内務省大臣官房局に都市計画課が創設されると、土木分野の主任技師に抜擢され、都市計画課長池田宏や建築主任技師の笠原敏郎らと協力して都市計画法と市街地建築物法の立案と制定に関し中心的役割を果たす。
相沢 熙(旧字体: 相澤 凞、あいざわ ひろし、1880年〈… 相沢 熙(旧字体: 相澤 凞、あいざわ ひろし、1880年〈明治13年〉 - 1956年〈昭和31年〉)は、大正から昭和にかけて活動した日本のジャーナリスト、新聞記者、教育記者、小説家。国民新聞社(後の東京新聞社、現・東京新聞/中日新聞)のほか、平民新聞社、読売新聞社、大阪毎日新聞社、東京日日新聞社などでも活動した。徳富蘇峰の側近として秘書も務め、蘇峰会の本部常任幹事を務めた。ほかに国民教育奨励会専務理事も務めている。号は、如楓、蓬莱子、景楠、景楠外史、蓬村など。 埼玉県鷲宮町葛梅(現・久喜市)にて生まれる。 東京に出て、築地の立教学校(現・立教大学)に学んで卒業。東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)にも修学した。
関谷 雲崖(せきや うんがい、1880年(明治 13年)- … 関谷 雲崖(せきや うんがい、1880年(明治 13年)- 1968年(昭和43年))は、大正-昭和時代の日本画家。 1880年(明治 13年)栃木県那須郡黒羽町河原(現:栃木県大田原市河原)に生まれる。日本南画界の大家である小室翠雲に師事。文展入選3回、帝展入選4回など活躍し、1929年(昭和4年)には日本南画院院友となった。同じく日本画家の横山大観と交流があった。息子は画家の関谷陽(1902-1988)。
片山 春帆(かたやま しゅんぱん、1880年(明治13年) … 片山 春帆(かたやま しゅんぱん、1880年(明治13年) - 没年不詳)は、明治時代から大正時代の挿絵画家。 1880年、東京の築地に生まれる。俗称は片山春雄。武内桂舟、大出東皐、河合玉堂に師事した。明治期に『中外商業新報』において挿絵を描いていたといわれ、1897年(明治30年)には春陽堂から出版された村井弦斎の『日出島 曙の巻(上)』の口絵も描いている。また、博文館の社中にその名が見られ、『中学世界』、『文芸倶楽部』、『女学世界』などで専属の挿絵画家として活動した。1910年(明治43年)頃には東京市牛込区新小川町に在住しており、1926年(大正15年)発行の『大正震災画集』第5輯(日本版画社刊)には、春帆の関東大震災のスケッチを基とした木版画2作品も収められている。
矢田貝 猶治(やたがい ゆうじ、1880年〈明治13年〉 -… 矢田貝 猶治(やたがい ゆうじ、1880年〈明治13年〉 - 1921年〈大正10年〉)は、日本の会社役員、政治家、醸造家、素封家、鳥取県の大地主。矢田貝家3代目。中国貯蓄銀行取締役。米子信託監査役。鳥取県西伯郡会議員。大幡村会議員。大幡信用購買組合監事。 鳥取県会見郡大幡村大字上細見(のち西伯郡岸本町大字上細見、現・西伯郡伯耆町大字上細見)出身。酒、醤油醸造業を営む。連合国傷病兵罹災者慰問会寄付者である。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
本城 藤造(ほんじょう とうぞう、明治13年(1880年) … 本城 藤造(ほんじょう とうぞう、明治13年(1880年) - 昭和7年(1932年))は、日本の政治家。第34代鳥取県会議長。元鳥取県気高郡大和村長。農業。 鳥取県気高郡大和村横枕(現・鳥取市横枕)に生まれる。大和村長を務めた本城竹次郎の長男。 1895年、鳥取県立農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)卒業。 1901年から農業技術員として鳥取・大分・群馬・新潟県下に勤務。 1919年に大和村長、1923年から鳥取県会議員となり、1932年に第34代鳥取県会議長に就任したが、2ヵ月足らずで任期中に死去。 民政党鳥取県支部幹事長、鳥取県一心会評議員も務めた。
清水 藤左衛門(しみず とうざえもん、1880年 - 195… 清水 藤左衛門(しみず とうざえもん、1880年 - 1952年)は、日本の実業家、政治家。埼玉無尽株式会社(現・三井住友銀行)創業者。 中山道熊谷宿の宿屋「清水屋」(現・大盛商店)で生まれる。第15代当主。1900年、旧制埼玉県第二中学卒業。1907年、熊谷駅前に客待ちの茶店を出し、駅売り弁当や熊谷五家宝の駅売りを初めて行った。1915年、熊谷町選出で、大里郡会議員となる。1933年、熊谷市市政施行後議員に当選し2期務め、初代市会議長に就任する。1936年、熊谷市第一土地区画整理組合が設立されると、同組合長に就任。東京諸新聞販売、埼玉無尽株式会社(現・三井住友銀行)を創業する。
森 安三郎(もり やすさぶろう、1880年 - 1952年9… 森 安三郎(もり やすさぶろう、1880年 - 1952年9月25日)は、日本の外交官。
平野 正雄(ひらの まさお、1880年 - 1951年)は、… 平野 正雄(ひらの まさお、1880年 - 1951年)は、日本の土木工学者。京都帝国大学工学部教授・学部長、大阪市立都島工業専門学校初代校長を務めた。京都大学名誉教授。 和歌山県出身。京都帝国大学理工科大学(後の工学部)を卒業後、1908年に同大学助教授に就任。1922年に工学部教授(土木工学第五講座)に昇任した。 1937年(昭和12年)9月9日から1939年(昭和14年)9月9日まで、京都帝国大学工学部長を務めた。 戦時中から戦後にかけ、1943年3月より大阪市立都島高等工業学校校長事務取扱・校長を務め、1945年4月の学校改組により大阪市立都島工業専門学校初代校長に就任。1951年3月31日まで在任した。
神保 如天(じんぼ にょてん、1880年月日 - 1946年… 神保 如天(じんぼ にょてん、1880年月日 - 1946年8月22日)は、日本の仏教学者。駒澤大学教授。別名、櫟堂。 明治13年富山県生れ。1910年(明治43年)曹洞宗大学(現: 駒澤大学)卒業。愛知中学校教頭、駒澤大学教授を歴任。 著書に「禅学辞典」「従容録通解」「無門関講話」「正法眼蔵経典解説」など。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
葛野 壮一郎(かどの そういちろう、1880年 - 1944… 葛野 壮一郎(かどの そういちろう、1880年 - 1944年1月18日)は、関西を中心に多くの建築物の設計を手がけた建築家。建築にとどまらず、音楽、絵画などにも造詣が深く、また、女子教育にも熱心に関わるなど、多方面で活躍した。
平田 知夫(ひらた ともお、1880年(明治13年) - 1… 平田 知夫(ひらた ともお、1880年(明治13年) - 1918年(大正7年)3月15日)は、日本の外交官。在カルカッタ領事を経て、在モスクワ領事を務めた。 福岡県宗像郡池野村(現宗像市)に、平田道見の長男として生まれる。福岡県立尋常中学修猷館(現福岡県立修猷館高等学校)、第一高等学校を経て、1905年(明治38年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 在学中、1903年(明治36年)にはロシア帝国領浦潮から単身徒歩で朝鮮に向い、翌1904年(明治37年)には揚子江を遡って漢口から北京を訪れた。広田弘毅とは修猷館以来の同窓で親友であった。 1906年(明治39年)、第15回外交官及領事官試験に合格。
久保田 正次(くぼた まさつぐ、1880年 - 1949年7… 久保田 正次(くぼた まさつぐ、1880年 - 1949年7月26日)は、日本の英語学者、教育者。立教大学元教授、立教大学野球部元部長。 1880年(明治13年)、東京・佃島出身。1911年(明治44年)、立教大学商学部を卒業。立教大学第1回の卒業生で、同大学文学部出身の小島茂雄(立教大学元文学部長、立教中学校元校長)や高松孝治(立教大学元教授、大学チャプレン)と同級生。 昭和初期に立教大学教授として、経済学部及び予科で英語を教える。1923年から1935年まで雑誌『英語研究』の主筆を務め、英文学を紹介した。 1930年(昭和5年)11月に、立教大学野球部で主力選手による野田健吉監督の排斥運動が起こり、主将の山本貞夫を始め、投手の縄岡修三、2塁手の大内又三郎など、20余名の選手が袖を連ねて脱退したことから、野球部は休止状態となる。
泉 重千代(いずみ しげちよ、定説では1880年頃 〈戸籍上… 泉 重千代(いずみ しげちよ、定説では1880年頃 〈戸籍上は1865年6月29日〉 - 1986年2月21日)は、奄美群島徳之島(当時は薩摩藩領内、現在の鹿児島県大島郡伊仙町阿三)出身の男性。1995年までギネスブック公認の世界最長寿、2010年まで男性としての世界最長寿とされていた人物。1865年(慶応元年)6月29日生まれの120歳とされてきたが、後述のように生年月日への疑問が呈され、現在120歳説は否定されている。 1972年に男性の日本最高齢、1976年に存命の日本最高齢という扱いになり、1979年にはギネスブックで世界最高齢と認定された。その後世界歴代最高齢記録はフランス人の女性ジャンヌ・カルマンによって更新されたが、男性としての世界最高齢記録は保持していた。
藤木 吉松(ふじき きちまつ、1880年(明治13年)- 1… 藤木 吉松(ふじき きちまつ、1880年(明治13年)- 1965年(昭和40年)8月10日)は、日本の技術者である。 兵庫県小野に生まれる。後に大阪市内で島根県で製造されている雲州そろばんの技術を学んだり、製造にも携わった。 これによって、1903年(明治36年)に故郷の小野で雲州そろばんの改良したそろばんの製造を始める。後にこのそろばんは「播州そろばん」呼ばれ、知名度の上昇及び普及に貢献した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、兵庫県に関連した書きかけの項目です。