宮川 竹馬(みやがわ たけま、1887年4月18日 - 19… 宮川 竹馬(みやがわ たけま、1887年4月18日 - 1964年8月27日)は、昭和時代に活動した日本の実業家。高知県幡多郡入野村早咲(現・幡多郡黒潮町)出身。 旧制中村中学校(現・高知県立中村高等学校)を経て、東京高等工業学校(現・東京工業大学)電気科電気機械分科を1912年(明治45年)に卒業後、九州電灯鉄道(後の東邦電力)に入社。以後電力業界を歩み、1951年電気事業再編成により発足した四国電力株式会社の初代社長となる。また、その再編成案を松永安左エ門と協力してつくったことでも知られる。孫の坂間英気は、電力業界を経て、現在はサイバーセキュリティ企業の株式会社 AppGuardに勤務する。
中野 栄三郎(なかの えいざぶろう、旧姓・茂木、1887年(… 中野 栄三郎(なかの えいざぶろう、旧姓・茂木、1887年(明治20年)4月18日 - 1988年(昭和63年)7月9日)は、日本の実業家。野田醤油(現・キッコーマン)社長。小網商店無限責任社員。 千葉県東葛飾郡野田町(現・千葉県野田市)出身。茂木七郎右衛門の二男。茂木順三郎の弟。叔父・中野長兵衛の養子となった。1912年、慶應義塾大学部法律科卒業。1936年、養父退隠により家督を相続した。 野田醤油社長、同社常務取締役、柏屋商事、銚子醤油(現・ヒゲタ醤油)、満州野田醤油、野田運輸、総武鉄道各取締役、野田商誘銀行各監査役等をつとめた。 趣味は柔道。宗教は真言宗。住所は千葉県東葛飾郡野田町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
林 弥輔(はやし やすけ、1887年(明治20年)4月17日… 林 弥輔(はやし やすけ、1887年(明治20年)4月17日 - 没年不明)は、明治時代後期から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 千葉県海上郡椎柴村字塚本(現・銚子市塚本町)に生まれる。1907年(明治40年)6月、正則英語学校を卒業後に渡台し、嘉義庁庶務課勤務を振り出しに、台南州文書課秘書係長、台南州文書課長、台北州文書課長を経て、1936年(昭和11年)10月、地方理事官に進み、台北州新荘郡守に就任した。ついで1939年(昭和14年)1月、台南州北港郡守に転じた。 この間、1927年(昭和2年)から1930年(昭和5年)に掛けて樺太庁に出向し、長官官房秘書課および文書課にて勤務した。
庄司 廉(しょうじ れん、1887年(明治27年)4月17日… 庄司 廉(しょうじ れん、1887年(明治27年)4月17日 - 1960年(昭和35年)8月10日)は、日本の豪農、実業家、政治家。世人をして“庄司の殿様”といわしめた。女優の司葉子は姪にあたる。 鳥取県西伯郡渡村(現在の境港市渡町)に生まれる。父・昇造の死により8歳で豪農「本庄司家」を継ぎ、杉山永真(のちの郡会議長)を養育係として成長した。 山陰日日新聞社、米子銀行、米子博愛病院等の取締役、渡村村長(第5代)、同村会議員・学務委員。鳥取県多額納税者。大地主にも名を連ね、奥出雲の山林大地主・23代田部長右衛門(元島根県知事)はいとこにあたる。 木下二介や門脇春翠に絵の修行をさせたり、私財を投じて山陰地方初の繭市場を開設する等、非凡にして識見高く、先見の明があって、事に臨んでは果断と実行の人だった。
君島 一郎(きみじま いちろう、1887年〈明治20年〉4月… 君島 一郎(きみじま いちろう、1887年〈明治20年〉4月16日 - 1975年〈昭和50年〉4月25日)は、日本の銀行家、野球研究者。元朝鮮銀行副総裁。叔父に九州帝国大学(現・九州大学)元教授である君島武男がいる。 1887年4月16日、栃木県生まれ。栃木県塩谷郡塩原町(現・那須塩原市)の君島五郎の長男。君島家は塩原温泉草分けの旧家で、代々「明賀屋」と称し、温泉宿業を営んでいる。 1905年3月、栃木中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)卒業。旧制第一高等学校へと進学する。第一高等学校では野球部に所属し、2年先輩であった中野武二の後継者として、1907年から1908年までの2年間二塁手を務めた。
君島 一郎(きみじま いちろう、1887年(明治20年)4月… 君島 一郎(きみじま いちろう、1887年(明治20年)4月16日 - 1975年(昭和50年)4月25日)は、日本の銀行家、野球研究者。元朝鮮銀行副総裁。
浅田 長平(あさだ ちょうへい、1887年4月15日 - 1… 浅田 長平(あさだ ちょうへい、1887年4月15日 - 1970年10月21日)は、日本の実業家。神戸製鋼所社長を務め、「神鋼中興の祖」と呼ばれた。 大阪府堺市出身。1911年に京都帝国大学理工科大学採鉱冶金科を卒業し、神戸製鋼所に入社した。取締役、製鉄部長、常務、専務を経て、1945年9月に社長に就任した。しかし、1946年12月に公職追放により辞任。1952年11月に社長として復帰し、1958年1月から1965年3月までに会長を務めた。 神戸商工会議所会頭、関西経済連合会副会長なども歴任した。1964年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 1970年10月21日急性心不全のために神戸市の自宅で死去。
勝田 重太朗(かつた じゅうたろう、1887年4月15日 -… 勝田 重太朗(かつた じゅうたろう、1887年4月15日 - 1967年11月16日)は、日本の経営者。産業経済新聞社社長、信越放送社長を務めた。 長野県長野市出身。1913年に日本大学法学部を卒業。 京城日報社、新愛知新聞社、中部日本新聞社などを経て、1950年1月に信濃毎日新聞社副社長に就任し、1951年に信越放送社長に就任。1955年2月に産業経済新聞東京本社社長に就任。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1967年11月16日、心不全のために死去。80歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
森本 一雄(もりもと かずお、1887年〈明治20年〉4月1… 森本 一雄(もりもと かずお、1887年〈明治20年〉4月15日 - 1938年〈昭和13年〉11月7日)は、日本の衆議院議員(国民同志会)。初代敦賀市長。 兵庫県で森本高太郎の長男として生まれる。1915年(大正4年)、早稲田大学政治経済科を卒業。翌年より衆議院議員尾崎行雄の秘書となった。1923年(大正12年)、鐘淵紡績社長武藤山治が実業同志会を結成すると、理事兼会長秘書役を務めた。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に実業同志会の後身の国民同志会から出馬し、当選を果たした。 その後、福井県敦賀郡敦賀町の町長を務め、1937年(昭和12年)に敦賀町が市制を施行すると、初代敦賀市長に就任した。
灰野 庄平(はいの しょうへい、1887年4月14日 - 1… 灰野 庄平(はいの しょうへい、1887年4月14日 - 1931年4月26日)は、日本の劇作家、演劇研究家。 新潟県刈羽郡中通村生まれ。1908年第二高等学校卒業、1912年東京帝国大学文学部哲学科卒業。在学中から演劇・詩・翻訳を発表。小山内薫の自由劇場に参加、卒業後丸見屋商店に入社、演劇研究を行う。1914年三木露風・増野三良・柳沢健と雑誌『未來』を創刊。1931年、急性肺炎のため死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
伴 東(ばん あずま、1887年(明治20年)4月14日 -… 伴 東(ばん あずま、1887年(明治20年)4月14日 - 没年不明)は、日本の内務官僚。関東州官僚。 島根県海士郡海士村(現在の隠岐郡海士町)出身。大阪府立農学校獣医学科を経て、1910年(明治43年)に盛岡高等農林学校獣医学科を卒業した。のち法科に転じ法政大学に学んで1916年(大正5年)に高等文官試験に合格した。警視庁警視、愛知県額田郡長、同知多郡長、長崎県商工課長、同水産課長、同農林課長、福井県学務部長、岩手県警察部長、滋賀県警察部長、愛知県警察部長、大分県内務部長、関東局旅順民政署長を歴任した。 退官後、興中公司嘱託、天津電業公司総務科長、大連機械製作株式会社支配人・総務部長を経て、東亜生果株式会社社長を務めた。
石川 義一(いしかわ よしかず、1887年4月13日 - 1… 石川 義一(いしかわ よしかず、1887年4月13日 - 1962年1月17日)は、日本の作曲家。日本にレオ・オーンスタインのピアノ曲を紹介した。 福島県相馬郡長塚村(現在の双葉町)出身。1906年、19歳のとき相馬中学を卒業後、半年ほど代用教員を勤めた。その年の9月にアメリカに渡った。カリフォルニア州サクラメントで女性音楽家のベリングスにピアノと英語を学び、サンノゼ市のパシフィック大学音楽部に入学、ピアノと作曲を学んで1918年卒業。 1920年帰国後、朝鮮総督府社会課長として平安南道に赴任。この時李王家から依頼されて朝鮮雅楽の研究も行い、15年をかけて五線譜に書き写し、計283曲、五千ページに及ぶ業績を遺す。
伊藤 孝一(いとう こういち、1887年4月12日 - 19… 伊藤 孝一(いとう こういち、1887年4月12日 - 1954年4月17日)は、日本の実業家、登山家、映画監督もしくはドキュメンタリー映像作家。 人生の前半は、豊富な私財を背景に多彩な趣味を昇華させた一方、実績は素封家の道楽として見做されることが多く、生前に業績に見合った評価を受けることは少なかった。 長野県大町市に拠点を構えていた百瀬慎太郎(歌人、大町山案内人組合設立者)、赤沼千尋(燕山荘経営者)らと親交を深め、1923年(大正12年)から翌年にかけて積雪期の北アルプス行を次々と成功させた。しかしながら、その登山は、後述する映画を撮影しつつ行われたこと。単一峰を目指す登山スタイルが主流であった当時、複数の峰を縦走するスタイルを採ったこと、さらには事前準備の段階で3軒の山小屋を多額の費用で建設し、多くの有名案内人を雇用して登山隊を編成していたことなど当時の登山の常識を覆すものばかりであり、多くの人達から反感を買う余地は多分にあった。
板野 新夫(いたの あらお、1887年(明治20年)4月11… 板野 新夫(いたの あらお、1887年(明治20年)4月11日 - 1972年(昭和47年)4月12日)は、日本の農業研究者・教育者であり、日本の農業研究の第一人者である。岡山県総社市出身。 1887年(明治20年)に岡山県下道郡秦村(現・総社市)の農家の家庭に生まれる。その後、1900年(明治33年)旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学した。 高梁中在学中に米国に留学した新島襄に憧れ、また、新渡戸稲造の農業経営の理念に感化され、卒業後、1905年(明治38年)すぐに単身で渡米し農学の専攻を志した。 渡米後の板野は、最初に飲食店やホテルで働いて、学費を稼ぎながらドイツ語とラテン語を勉強した。
岸本 彦衛(きしもと ひこえ、1887年(明治20年)4月1… 岸本 彦衛(きしもと ひこえ、1887年(明治20年)4月11日 - 1977年(昭和52年)1月1日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。貴族院勅選議員。旧姓・岡村。 山口県で岡村米吉の六男として生まれる。1907年(明治40年)大阪市立高等商業学校を卒業した。鉄鋼問屋岸本商店店主・4代岸本吉右衛門の養子となり、1929年(昭和4年)に分家した。 1918年(大正7年)岸本商店常務取締役に就任。以後、岸本商店副社長、大建産業副社長、日印通商取締役、函館船渠(現函館どつく)取締役、日本曹達監査役、大阪鋼材監査役、呉羽紡績監査役、日本繊維工業社長、大阪ロータリー倶楽部会長などを務めた。 1946年(昭和21年)3月22日、貴族院勅選議員に任じられ、同和会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
橋元 正輝(はしもと まさてる、1887年(明治20年)4月… 橋元 正輝(はしもと まさてる、1887年(明治20年)4月11日 - 1939年(昭和14年)4月17日)は、大正から昭和期の政治家・華族。貴族院男爵議員。 海軍士官・橋元正明の二男として生まれる。父の死去に伴い、1929年(昭和4年)5月2日、男爵を襲爵した。 1911年(明治44年)慶應義塾大学部理財科を卒業し、さらに、1920年(大正9年)早稲田大学政治経済科を卒業した。1911年、三菱合資会社に入社し、さらに同信託社員となる。 1932年(昭和7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出された。公正会に所属して活動し1期在任した。 1939年4月17日、千葉で魚釣り中に心臓麻痺のため、議員在職中のまま死去した。
白波瀬 米吉(しらはせ よねきち、1887年(明治20年)4… 白波瀬 米吉(しらはせ よねきち、1887年(明治20年)4月11日 - 1986年(昭和61年)11月13日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 京都府出身。京都法政大学(現立命館大学)を修了した。 1914年(大正3年)京都府農業技手となる。以後、郡是製糸(現グンゼ)取締役、日本蚕糸統制常務理事、日本中央蚕糸会議員、日本蚕糸製造取締役、蚕糸調査会臨時委員、農林省生糸問屋審査会委員、日本セルローズ工業取締役、日本殖産興業取締役、岐阜紡績社長などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で全国区に自由党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
土屋 竹雨(つちや ちくう、1887年(明治20年)4月10… 土屋 竹雨(つちや ちくう、1887年(明治20年)4月10日 - 1958年(昭和33年)11月5日)は、日本の漢詩人。本名・久泰。字は子健。大東文化大学学長(初代)などを歴任。山形県鶴岡市出身。 1914年、東京帝国大学法学部卒。1928年、芸文社を興し『東華』を創刊、1931年、大東文化学院講師、のち教授、東京文政大学・文政大学・大東文化大学学長(初代)を務める。国分青崖のあと漢詩壇の第一人者となり、1949年、日本芸術院会員。余香吟社などの詩社を指導した。『日本百人一詩』(砂子屋書房、1943)の著作がある。
趙 素昻(チョ・ソアン、1887年旧暦4月10日 - 195… 趙 素昻(チョ・ソアン、1887年旧暦4月10日 - 1958年9月10日)は、朝鮮の独立運動家、政治家、法学者、政治思想家。第2代韓国国会議員。京畿道坡州出身。本貫は咸安趙氏。本名は趙 鏞殷(チョ・ヨンウン)。字は敬仲、素昻は号である。 生六臣(朝鮮語版)の趙旅の17世孫で、共に独立運動家である趙鏞夏は兄、趙鏞周、趙鏞漢、趙時元(元国会議員、本名・趙鏞元)は弟、趙鏞済は妹。独立運動家の趙時済と趙仁済は息子。 両班の家系に生まれる。1902年に成均館に入学し、同年に申采浩などと声討文を作って李夏栄などに抗議した。1904年に成均館を修了後、大韓帝国皇室派遣留学生として来日し、東京府立第一中学校に入学した。
小船井 敬吉(おぶない けいきち、1887年〈明治20年〉4… 小船井 敬吉(おぶない けいきち、1887年〈明治20年〉4月8日 - 1971年〈昭和46年〉9月17日)は、日本の逓信官僚、通信技術者、通信工学者。電気通信工学校初代校長、東海大学短期大学部初代学長。 新潟県北魚沼郡小千谷町(現 小千谷市)の測量師・小船井理吉の次男として出生。 1905年(明治38年)3月に新潟中学校を卒業、1908年(明治41年)7月に第一高等学校を卒業、1911年(明治44年)7月に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。 1911年(明治44年)7月に逓信省に技手として入省、通信局工務課に勤務、逓信官吏練習所教官を兼任、1913年(大正2年)7月に技師に任官、引き続いて通信局工務課に勤務、逓信官吏練習所教官を兼任、1914年(大正3年)9月から西部逓信局に勤務、名古屋郵便局電話課長に就任、1918年(大正7年)1月に北部逓信局工務部線路課長および電力課長に就任、1919年(大正8年)5月に仙台逓信局電気課長に就任、1920年(大正9年)5月から大阪逓信局に勤務、大阪中央電話局交換課長に就任、10月に大阪中央電話局監査課長に就任、1921年(大正10年)9月から臨時電信電話建設局大阪出張所に勤務、1922年(大正11年)8月に臨時電信電話建設局大阪出張所機械課長に就任、1923年(大正12年)7月に京都帝国大学工学部講師に就任、1924年(大正13年)11月に熊本逓信局工務課長および臨時電信電話建設局熊本出張所技術長に就任、1926年(大正15年)5月からアメリカおよびイギリスに出張、1927年(昭和2年)3月に名古屋逓信局工務課長に就任、1930年(昭和5年)5月に大阪逓信局工務課長に就任、1933年(昭和8年)9月に逓信省工務局電話課長に就任、1934年(昭和9年)6月に逓信省工務局線路課長に就任、1936年(昭和11年)2月に逓信省を依願退官。
小原 國芳(おばら くによし、1887年〈明治20年〉4月8… 小原 國芳(おばら くによし、1887年〈明治20年〉4月8日 - 1977年〈昭和52年〉12月13日)は、日本の教育学者。学校法人玉川学園の創立者。永野修身海軍大臣直属海軍教育顧問なども務めた。日本基督教団のクリスチャン。また、小原は日本だけでなく、朝鮮半島や満洲、中国大陸、そして台湾などのアジアの各地を広範に歩き回って「新教育」の重要性を説き、伝える役割を果たした。一時期「鯵坂」姓を名乗った。 1887年、鹿児島県川辺郡南方郷久志村(現:南さつま市坊津町久志)に生まれる。早くに母を亡くす。祖父は寺子屋の師匠だったが、家が没落したため進学ならず、13歳で通信技術養成所に入所し、鹿児島大浜海底電信所(現在の鹿児島県肝属郡南大隅町に所在)の技手となった。
高田 六郎(たかた ろくろう、1887年(明治20年)4月7… 高田 六郎(たかた ろくろう、1887年(明治20年)4月7日 - 1943年(昭和18年)4月18日)は、日本の海軍軍人、医師。最終階級は海軍軍医中将。 1887年(明治20年)、茨城県に生まれる。旧制水戸中学を経て、1912年(大正元年)9月、千葉医学専門学校に入る。在学中海軍軍医学生になる。1916年(大正5年)5月、卒業。海軍少軍医となり、海軍軍医学校で乙種学生として学ぶ。 横須賀工廠医務部員、大井、球磨の各軍医長となり、呉病院、呉工廠勤務、1937年(昭和12年)海軍軍医大佐に進み、海軍兵学校軍医長兼教官となる。翌年支那方面艦隊兼第三艦隊軍医長に就任。広工廠医務部長、1940年(昭和15年)には呉病院第二部長兼消毒部長兼教官となり、1942年(昭和17年)10月には第一部長も兼務した。
夏堀 源三郎(なつぼり げんざぶろう、1887年4月6日 ‐… 夏堀 源三郎(なつぼり げんざぶろう、1887年4月6日 ‐ 1962年7月20日) は、日本の政治家。位階は従四位。自由民主党衆議院議員(6期)。自由民主党副総裁、自由民主党幹事長、衆議院議長などを務めた大島理森は甥に当たる。 1887年、青森県三戸郡地引村(現南部町)出身。生家は豪農であったが13歳のとき破産し、一家は八戸に移住した。八戸中(現・青森県立八戸高等学校)に学ぶ。卒業後、漁師となり、水産加工業を始める。1929年、八戸で湊川魚市場組合長に就任。1932年に株式会社化し、社長に就任した。その後、東北振興水産(1937年)、大洋冷凍母船、日南興産、東北冷蔵の各社長となり、八戸商工会議所会頭、青森県水産業会長、東北漁業出漁組合連合会長なども務めた。
渋谷 隆太郎(しぶや りゅうたろう、1887年4月5日 - … 渋谷 隆太郎(しぶや りゅうたろう、1887年4月5日 - 1973年4月8日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。最後の海軍艦政本部長を勤める。杉政人、上田宗重らと同様に機関科出身者として最初の海軍大将候補であった。 福井県出身。渋谷徳蔵の長男として生まれる。1910年4月、海軍機関学校(18期)を卒業。同年12月、海軍機関少尉任官。1916年12月、海軍大学校機関学生となり、1918年12月、戦艦「比叡」分隊長に着任。1919年12月から海軍大学校選科学生として学び、翌年12月、海軍艦政本部部員(第5部)となる。 1925年8月、横須賀海軍工廠造機部員となり、造兵監督官(米国出張)、舞鶴要港部部員などを経て、1930年12月、機関大佐に昇進し海軍艦政本部第4部部員となった。
鈴鹿 野風呂(すずか のぶろ、1887年(明治20年)4月5… 鈴鹿 野風呂(すずか のぶろ、1887年(明治20年)4月5日 - 1971年(昭和46年)3月10日)は、日本の俳人。本名・登。 京都生まれ。鹿児島の第七高等学校造士館 (旧制)を経て、1916年京都帝国大学文学部国文科卒。高濱虚子に師事、「ホトトギス」同人。大学卒業後、鹿児島の川内中学校(現・鹿児島県立川内高等学校)教諭となる。1920年京都に戻り、大日本武徳会武道専門学校 (旧制)の教授となる(戦後、同校最後の校長に就任)。「京大三高俳句会」を母体として日野草城らとともに「京鹿子」創刊。同誌はのちに野風呂が主宰となり、関西におけるホトトギス派の中軸となっていった。俳諧活動の傍ら学校でも教鞭をとり、戦後は大阪成蹊女子短期大学教授を務める。
谷村 唯一郎(たにむら ただいちろう、1887年4月5日 -… 谷村 唯一郎(たにむら ただいちろう、1887年4月5日 - 1982年5月29日)は、日本の弁護士・最高裁判所判事。 鹿児島県大島郡名瀬町(名瀬市を経て現奄美市)生まれ。会計検査院の書記をしながら、1914年に中央大学法律科を卒業。1917年に弁護士となり、戦前には東京弁護士会会長を務める。戦後は法曹一元化に一環として司法次官(後の法務事務次官)として数々の法改正を手がけ、司法研修所の設立に力を尽くした。また、GHQの公職追放解除を審査する公職資格訴願審査委員会委員長を歴任。 1951年4月、最高裁判所判事となる。 定年前の1956年11月に「定年なんて老いぼれの烙印を押されるのは嫌」として依願退官。
高木 友三郎(たかぎ ともさぶろう、1887年(明治20年)… 高木 友三郎(たかぎ ともさぶろう、1887年(明治20年)4月5日 - 1974年(昭和49年)5月12日)は、日本の経済学者、ジャーナリスト。法政大学教授、北日本新聞主筆・会長。 1887年(明治20年)4月5日、富山県に生まれる。 1914年(大正3年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 同年、不動貯金銀行に入社。翌年、増田ビルブローカー銀行に転動。市場調査、株式売買を担当。 1917年(大正7年)大阪毎日新聞入社。経済部副部長を務める。 1918年(大正8年)東京帝国大学大学院法学部ドイツ法律学科に入学し、金井延もとで経済学・経済政策を研究。 同年10月、法政大学に、わが国初の経済学部を創設。
永井 幸太郎(ながい こうたろう、1887年4月4日 - 1… 永井 幸太郎(ながい こうたろう、1887年4月4日 - 1983年1月23日)は、日本の実業家。高畑誠一とともに日商を設立し、同社代表取締役社長や、貿易庁長官、学校法人甲南学園理事長、日本発条代表取締役社長等を歴任した。藍綬褒章受章。 兵庫県氷上郡(現丹波市)山南町下滝出身。柏原中学校(現兵庫県立柏原高等学校)首席卒業を経て、1909年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。同期には高畑誠一や出光佐三、和田恒輔がいた。卒業後スタンダード石油入社。その後高畑の誘いを受け鈴木商店に入社。本店穀肥主任、取締役本店総支配人等を経て、日本商業に出向。鈴木商店破綻後、台湾銀行の森広蔵頭取や三菱財閥の各務鎌吉などの支援を得て、高畑らとともに日本商業を分離して日商を設立し取締役に就任した。
山端 祥玉(やまはた しょうぎょく、1887年4月4日 - … 山端 祥玉(やまはた しょうぎょく、1887年4月4日 - 1963年2月24日)は、日本の写真家、実業家。本名は啓之助。 1887年(明治20年)、福井県勝山市に生まれる。小学校を卒業後、1904年(明治37年)より東京・本郷の望月東涯に写真を学ぶ。その後、近衛歩兵第1連隊に入営し、 除隊後出張写真師となり、1910年(明治43年)、蘭領スマトラ島メダン市の朝日写真館技師長に就任する。1914年(大正3年)、英領シンガポールに写真材料商サン商会と写真館を設立する。帰国後、1927年(昭和2年)に東京・築地にG.T.サン商会(1943年(昭和18年)に山端写真科学研究所と改称)を創設し、1933年(昭和8年)に写真印画用の高速輪転機で特許を取得する。
塚原 二四三 (つかはら にしぞう、1887年(明治20年)… 塚原 二四三 (つかはら にしぞう、1887年(明治20年)4月3日 - 1966年(昭和41年)3月6日)は、日本の海軍軍人。海兵36期・海大18期。最終階級は海軍大将。日本海軍で最後に大将に昇進した二人の軍人の一人。 1887年4月3日、福井県で父・塚原開太郎と母・たけの(山梨県西八代郡高田村の青柳忠左衛門の長女)の五男として生まれる。名前の「二四三」は「明治二十年四月三日生まれ」であることに因む。 本籍は山梨県中巨摩郡三恵村(現南アルプス市)で 、父は郡議会議員を務めた。長兄の塚原竹麿は村議会議員や助役を務め、次兄の塚原甲麿は大日本国民中学会の講師、弟の塚原懿智三は満州鉄道技師となった。甲府中学を経て、1908年(明治41年)11月21日に海軍兵学校36期を20位の成績で卒業、少尉候補生となり、練習航海に出発。
鳳 谷五郎(おおとり たにごろう、1887年4月3日 - 1… 鳳 谷五郎(おおとり たにごろう、1887年4月3日 - 1956年11月16日)は、千葉県印旛郡大森村(現:千葉県印西市大森)出身で宮城野部屋(一時期勝ノ浦部屋)に所属した大相撲力士。第24代横綱。現役引退後は年寄として後進の指導につとめた。本名は瀧田 明(たきた あきら)。 1887年4月3日に千葉県印旛郡大杜村(現:千葉県印西市大森)で米屋「米庄」を営む家に生まれる。父親の滝田丹治は大の相撲好きが高じて玉垣部屋へ入門、三段目まで進んだが家業を継ぐために廃業した。そんな父を間近で見て育った明も相撲好きになったが、廃業後も田舎相撲に熱中し過ぎて財産を失った挙句、家業の米屋を廃業せざるを得なくなってしまった父は自身の二の舞を演じさせまいと明を船橋の呉服屋へ奉公に出して相撲の道に進ませぬように図った。
稲垣 英夫(いながき ひでお、1887年(明治20年)4月1… 稲垣 英夫(いながき ひでお、1887年(明治20年)4月1日 - 1937年(昭和12年)2月12日)は、日本の建築家。内務省造神宮使庁に勤務した後独立して稲垣建築事務所を設立し、数多くの神社建築等を手掛けた。 東京出身。郁文館中学校を卒業したのち、工学院建築科を卒業。 1910年(明治43年)東京税務監督局新築工事現場監督拝命(1913年(大正2年)まで)。 以後横浜電気工業株式会社、株式会社東陽銀行、同保土ケ谷支店、横浜市開港記念館、茂木佐平次東京別邸、金光教青生会、キッコーマン宮内省御用醸造場など工事設計や監督に携わる。 1916年(大正5年)10月、内務省造神宮使庁に入省し、翌年4月明治神宮造営局に勤務。
熊崎 恭(くまさき きょう、1887年4月 - 1923年1… 熊崎 恭(くまさき きょう、1887年4月 - 1923年10月2日)は、明治時代の日本の外交官。元在ニューヨーク総領事。 父は外交官の熊崎寛良で大蔵省葉煙草専売所長等を務めた。弟の熊崎武良は哲学者で早稲田大学教授を務めた。本籍地は東京府東京市麻布区本村町(現元麻布・南麻布)。父が在リヨン在勤中に同地で生まれ、リヨンの小学校を経て、神田の旧制中学校に途中入学し、1908年(明治41年)東京高等商業学校(現一橋大学)卒業、専攻部進学。ボート部出身。 1期下の酒匂秀一(のちに駐ポートランド大使)や大島堅造(のちに住友本社取締役)とは、英語教師のフレデリック・イーストレイクや、高商時代のドイツ語教師だったリヒャルト・ハイゼの家に遊びに行くなど親しかった。
三木 良英(みき よしひで、1887年(明治20年)3月31… 三木 良英(みき よしひで、1887年(明治20年)3月31日 - 1970年(昭和45年)2月18日)は、日本の陸軍軍人、内科医。最終階級は陸軍軍医中将。 兵庫県出身。三木駿三の長男として生まれる。姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)、第三高等学校を経て、1912年(明治45年)6月に東京帝国大学医科大学を卒業し、二等軍医に任官し歩兵第20連隊付となる。1913年(大正2年)8月、東京第二陸軍病院(現国立成育医療研究センター)付となる。1914年(大正3年)8月、東京帝大大学院に入学。1915年(大正4年)8月、一等軍医に昇進し、歩兵第71連隊付、青島病院付、スイス駐在を務め、1921年(大正10年)3月、三等軍医正に進級しドイツ駐在となる。
沢田 茂(さわだ しげる、1887年(明治20年)3月29日… 沢田 茂(さわだ しげる、1887年(明治20年)3月29日 - 1980年(昭和55年)12月1日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県高知郡鴨部村(現・高知市鴨部町)出身。農業・沢田栄之助の三男として生まれる。兄弟四人のうち、長男を除く三兄弟が陸軍将校となった。1899年(明治32年)4月に高知県立海南中学校に入校。同期は山下奉文で、永らく交友を結んだ。広島陸軍地方幼年学校を経て、1905年(明治38年)11月15日、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月26日、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第16連隊付となる。野戦砲兵第22連隊付などを経て、1910年(明治43年)11月26日、陸軍砲工学校高等科を卒業。
南 鉄太郎(みなみ てつたろう、1887年(明治20年)3月… 南 鉄太郎(みなみ てつたろう、1887年(明治20年)3月29日 - 1944年(昭和19年)9月8日)は、日本の衆議院議員。海軍軍人。弁護士。 兵庫県三原郡賀集村(現在の南あわじ市)出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。同大学院で学んだ後、海軍経理学校乙種学生を修了した。海軍では中主計から主計少佐に至った。その間、第十二駆逐隊主計長、臨時南洋群島防備隊附、砲艦「伏見」乗員、海軍経理学校教官、同監事を歴任した。1924年(大正13年)に予備役に編入された後は、弁護士を開業した。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)に兵庫2区(当時)から翼協非推薦で出馬し、当選を果たした。
塩田 せつ(しおだ せつ、1887年(明治20年)3月29日… 塩田 せつ(しおだ せつ、1887年(明治20年)3月29日 - 1958年(昭和33年)10月27日)は、日本の教育者である。旧姓は飯田。 千葉県印旛郡木下町(現在の印西市)に生まれ、千葉女子師範学校(現在の千葉大学教育学部・大学院教育学研究科)に入学する。1904年(明治37年)に卒業後は、成田尋常小学校(現在の成田市立成田小学校)で教鞭を執り以後千葉県内の小学校および師範学校の教師として活動した。1909年(明治42年)に水産学校の講師として活動した塩田文隣と結婚したことにより、夫の勤務地であった宮城県宮古市を経て岩手県、北海道内の学校に転勤する。 1919年(大正8年)に夫が死去したことにより、帰郷し布鎌尋常小学校(現在の栄町立布鎌小学校)にて訓導にあたった。
矢野 機(やの はかる、1887年3月27日 - 1992年… 矢野 機(やの はかる、1887年3月27日 - 1992年2月10日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
工藤 祐舜(くどう ゆうしゅん、1887年(明治20年)3月… 工藤 祐舜(くどう ゆうしゅん、1887年(明治20年)3月26日 - 1932年(昭和7年)1月8日)は、日本の植物学者。現在の秋田県平鹿郡増田町(現横手市)縫殿生まれ。植物分類学の泰斗として知られる。 父祐哲は浄土真宗の寺院通覚寺の19世住職であり、祐舜は長男であったが、のちに弟祐信を養子として寺を継がせている。 1901年(明治34年)秋田県立第三中学校(現秋田県立横手高等学校)に入学、植物好きの教師宮沢運治に傾倒し、宮沢もまた工藤を殊の外かわいがって植物採集に連れまわし、あたかも助手のような扱いであったという。中学時代、すでに海外の植物園や博物館などと標本交換をおこない、学名不明の植物を札幌農学校の宮部金吾に送ったことで2人の文通が始まった。
加藤 隆太郎(かとう りゅうたろう、1887年(明治20年)… 加藤 隆太郎(かとう りゅうたろう、1887年(明治20年)3月26日 – 1973年(昭和48年)12月31日)は、明治末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。板橋区から練馬区の独立に貢献した。 東京府北豊島郡上土支田村(石神井村大字上土支田、大泉村大字上土支田、板橋区東大泉町、練馬区東大泉町を経て現東京都練馬区東大泉)で、農業・加藤信太郎、だい の第2子、長男として生まれる。1901年(明治34年)3月、大泉村立泉小学校(現練馬区立大泉小学校)高等科3学年を修了し東京府立第二中学校(現東京都立立川高等学校)に進んだが、病のため1902年(明治35年)11月に中退した。家業の肥料商を手伝い、1906年(明治39年)4月から私立正則予備学校、同英語学校(現正則学園高等学校)で学んだ。
千葉 命吉(ちば めいきち、1887年3月26日 - 195… 千葉 命吉(ちば めいきち、1887年3月26日 - 1959年12月29日)は明治 - 昭和時代の教育研究者、教育者。奈良女高師付属小学校訓導などをへて、大正9年(1920年)広島師範付属小学校の主事(現在の校長と同等)となる。大正10年(1921年)八大教育主張講演会で子供の独創性を重視する「一切衝動皆満足論」を発表。大正11年(1922年)ドイツに留学、独創学を研究。昭和3年(1928年)大日本独創学会を設立した。著作に「独創主義教育価値論」「独創教育学」など。 千葉命吉の創造教育論というのは1919年1月の『創造教育の理論及実際』でではじめて提唱された。その独創的理論が評価され大正9年(1920年)に小学校校長に抜擢された。
南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887年〈明治20年〉3月… 南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887年〈明治20年〉3月25日 - 1944年〈昭和19年〉7月6日)は、日本の海軍軍人。海兵36期。太平洋戦争初期から中期にかけて第一航空艦隊および第三艦隊(南雲機動部隊)司令長官を務めた後、サイパンの戦いで自決。死後一階級特進により、最終階級は海軍大将。正三位勲一等功一級。 1887年3月25日、山形県南置賜郡米沢信夫町(現在の米沢市)で、郡役所書記の父・南雲周蔵と母・志んの次男として生まれる。6人兄弟姉の末子であった。父の周蔵は旧米沢藩士であり、藩では御扶持方(中士階級)でもあった。 米沢尋常中学興譲館を経て、1905年(明治38年)海軍兵学校36期に入校。
深川 繁治(ふかがわ しげはる、1887年〈明治20年〉3月… 深川 繁治(ふかがわ しげはる、1887年〈明治20年〉3月25日 - 1976年〈昭和51年〉9月6日)は、日本の逓信官僚。台湾総督府官僚。 佐賀県出身。1911年(明治44年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業した。逓信管理局書記、逓信局事務官、通信副事務官・税関副事務官、東京中央郵便局長などを歴任。1920年(大正9年)、台湾総督府事務官に転じ、逓信局庶務課長・海事課長を経て、交通局参事・逓信部長、台北州内務部長などを務めた。1932年(昭和7年)に交通局理事・逓信部長に就任し、1935年(昭和10年)には文教局長に転じた。 1937年(昭和12年)に退官した後は、台湾放送協会常務理事を1943年(昭和18年)まで務めた。
赤木 正雄(あかぎ まさお、1887年(明治20年)3月24… 赤木 正雄(あかぎ まさお、1887年(明治20年)3月24日 - 1972年(昭和47年)9月24日)は、日本の農学博士・政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。文化勲章受章者。 日本において砂防の重要さをいち早く説いた人物で「砂防の父」や「砂防の神様」と称される。 兄は中筋村(現豊岡市)村長の赤木一雄、甥に画家の赤木蘇夫二(そぶじ)、政治学者の赤木須留喜(するき)、子供は1男4女、三女(玲子)の岳父はドイツ語学者の武内大造、四女(淑子)の夫は生物学者の太田次郎。 兵庫県城崎郡中筋村(現豊岡市)引野に生まれる。父甚太夫、母たみの四女二男の末っ子で、地方の豪農であった赤木家は甚太夫で11代目に当たる。
岡田 春夫(おかだ はるお、1887年(明治20年)3月24… 岡田 春夫(おかだ はるお、1887年(明治20年)3月24日 - 1937年(昭和12年)12月11日)は、日本の政治家。通算3回衆議院議員選挙に当選した。 兵庫県生まれ。1911年(明治44年)関西大学法律科を卒業、北海タイムスに入社し政治部記者となる。美唄町議、北海道議、北海道参事会員を経て、1928年(昭和3年)普通選挙が日本に導入されて初の総選挙に立憲民政党公認で旧北海道4区から立候補したが落選。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員選挙に前回の総選挙と同じく民政党公認で立候補し初当選。 1932年(昭和7年)の第18回衆議院議員選挙では次点だったものの、4年後の第19回衆議院議員選挙では再び当選し政界に返り咲いた。
吉本 貞一(よしもと ていいち、1887年3月23日 - 1… 吉本 貞一(よしもと ていいち、1887年3月23日 - 1945年9月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
小村 雪岱(こむら せったい、明治20年(1887年)3月2… 小村 雪岱(こむら せったい、明治20年(1887年)3月22日 - 昭和15年(1940年)10月17日)は、大正から昭和初期の日本画家、版画家、挿絵画家、装幀家。 明治20年(1887年)、埼玉県川越市郭町に父小村繁門(しげかど)、母もんの長男として生まれる。本名は泰助。明治24年(1891年)に父が病没し、翌年母が小村家より離縁されたため、幼くして両親を失い、伯父の小村万吉に養育されることになった。明治33年(1900年)、坂戸尋常高等小学校を卒業した雪岱は、翌明治34年(1901年)、東京の神田神保町に住む叔母の家に寄宿し始めた。明治35年(1902年)、叔母の世話で、日本橋檜物町に住む外務省勤務の書家安並賢輔方で学僕となる。
中山 晋平(なかやま しんぺい、1887年(明治20年)3月… 中山 晋平(なかやま しんぺい、1887年(明治20年)3月22日 - 1952年(昭和27年)12月30日)は、日本の作曲家。多くの傑作といわれる童謡・流行歌・新民謡などを残した。作品は多岐にわたり、校歌や社歌等を含め中山の作品と判明しているものだけで1770曲存在する。 一部の作品は現在も抒情歌または日本歌曲として歌い継がれている。長調の曲はほとんどがヨナ抜き音階で書かれている。また、童謡には「兎のダンス」や「蛙(かはづ)の夜回り」のようなピョンコ節がかなりある。その作品群は独特の曲調から俗に「晋平節」と呼ばれ親しまれている。 長野県下高井郡新野村(現・中野市)に生まれる。生家は名主、村長を出した旧家であったが父親の急死により落魄し、養蚕をする母親に女手一つで育てられ、長野師範学校講習科を修了後、1903年(明治36年)に尋常高等小学校の代用教員となる。
高畑 誠一(たかはた せいいち、1887年(明治20年)3月… 高畑 誠一(たかはた せいいち、1887年(明治20年)3月21日 - 1978年(昭和53年)9月19日)は、日本の実業家。日商株式会社(後の日商岩井、現・双日)の元会長。 愛媛県喜多郡内子町出身。父・宗次郎、母・タキセの長男。生家は内子町ではかなり古い家系で、誠一で14代目になる。呉服、食料品、日用雑貨までなんでも扱う小売店をやっていた。いわゆる“よろずや”だったが、誠一が小学校にあがる頃この“よろずや”を廃業し、生糸と木蝋の製造業を始めた。 旧制西条中学校(現・愛媛県立西条高等学校)を経て神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業。同期に永井幸太郎、出光佐三、和田恒輔。神戸高商在学中は三井物産への入社を志望していたが、尊敬する同校校長の水島銕也の推薦ということで鈴木商店に入社する。
秦 テルヲ(はだ てるを、明治20年(1887年)3月20日… 秦 テルヲ(はだ てるを、明治20年(1887年)3月20日 - 昭和20年(1945年)12月26日)は、明治から昭和にかけて活動した日本画家。本名、輝男。名前の読みについては、広島市内の秦姓はすべて静音で「はた」と読むというが、テルヲ自身は「はだ」と濁音で読ませた。 明治20年3月20日広島市に生まれる。幼少期に一家で京都市に移住するが、まもなく父が死去。貧困の中で明治37年京都市美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)図案科を卒業する。千總の輸出用ビロード工場に勤める傍ら、京都や神戸の貧困街や労働者の写生に励む。 明治42年、前衛的な日本画家たちの研究会と展覧会を目的に千種掃雲らによって結成された「丙午画会」に参加。