田村 秀吉(たむら ひできち、1895年(明治28年)4月2… 田村 秀吉(たむら ひできち、1895年(明治28年)4月25日 - 1955年(昭和30年)10月9日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、大蔵参与官。弁護士。 徳島県那賀郡新野村(現在の阿南市)出身。1923年(大正12年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験行政科・司法科に合格した。内務省に入り、青森県や復興局に勤務した。その後、東京帝国大学大学院で学び、政策研究会(のち大東亜研究所)を創設。1933年(昭和8年)から弁護士を開業した。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第20回、第21回でも再選された。その間、小磯内閣で大蔵参与官を務めた。戦後の1946年(昭和21年)、大政翼賛会の推薦議員のため公職追放となった。
船田 中(ふなだ なか、1895年〈明治28年〉4月24日 … 船田 中(ふなだ なか、1895年〈明治28年〉4月24日 - 1979年〈昭和54年〉4月12日)は、日本の政治家。位階は従二位勲一等、勲章は旭日桐花大綬章。衆議院議員(当選15回)。第51代・56代衆議院議長、自由民主党副総裁等を歴任。 政治家一家として知られた「船田三兄弟」の長兄。衆議院議員で行政管理庁長官をつとめた船田享二は長弟、衆議院議員で運輸大臣や自治大臣などを歴任した藤枝泉介は次弟にあたる。澄夫人は第24代衆議院議長元田肇の五女。参議院議員や栃木県知事をつとめた船田譲は長男で、その長男(孫)の船田元も衆議院議員、その2度目の妻(孫嫁)の畑恵も参議院議員をつめとている。 なお名の「中」は「なか」が正しい読みで、「あたる」は誤読である。
児島 高信(こじま たかのぶ、1895年(明治28年)4月2… 児島 高信(こじま たかのぶ、1895年(明治28年)4月22日 - 1947年(昭和22年)8月12日)は、朝鮮総督府官僚。 東京府東京市(渋谷区)出身。1919年(大正8年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、翌年に朝鮮総督府事務官となった。同参事官、殖産局商工課長、財務局理財課長、全羅南道内務部長、総督官房会計課長、鉄道局理事を歴任。1936年(昭和11年)、咸鏡北道知事に就任し、1940年(昭和15年)に李王職次官に転じた。1945年(昭和20年)、李王職長官事務取扱。1946年(昭和21年)1月、同職官制廃止後は宮内省御用掛を務めた。1947年(昭和22年)8月12日死去。天皇、皇后、皇太后より祭粢料を賜った。
三浦 一雄(みうら くにお、1895年4月22日 - 196… 三浦 一雄(みうら くにお、1895年4月22日 - 1963年1月30日)は、日本の官僚、政治家。青森県三戸郡五戸町出身。位階は正三位。勲一等瑞宝章。父は五戸町長や青森県議会議員を務めた三浦道太郎。また、祖父の三浦泉八は十和田湖畔・宇樽部の開拓者として知られる。 1895年(明治28年)、青森県三戸郡五戸町に生まれる。仙台の第二高等学校から東京帝国大学へ進学し、在学中に上杉慎吉を中心に東大に組織された全日本興国同志会に入会。同大学を卒業後、農商務省入省。同期に岸信介ら。 1925年(大正14年)に農商務省が商工省・農林省(現 農林水産省)へと分割されると農林省へ転籍し、農山漁村経済更生運動に深く関わり一時期企画院に出向した後に農林次官を最後に農林省を退官。
池田 禎政(いけだ ただまさ、1895年〈明治28年〉4月2… 池田 禎政(いけだ ただまさ、1895年〈明治28年〉4月22日 - 1920年〈大正9年〉1月18日)は、日本の華族(侯爵)。旧岡山藩池田家第14代当主。 父は池田詮政。母は久邇宮朝彦親王の三女安喜子女王。26歳で早世し、未婚により子供がいなかったため、弟の政鈞(後に宣政と改名)が家督を相続した。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
三輪 休和(みわ きゅうわ、1895年4月20日 - 198… 三輪 休和(みわ きゅうわ、1895年4月20日 - 1981年10月24日)は、日本の陶芸家。第十代三輪休雪。1970年に人間国宝に認定。本名は邦広。 1895年(明治28年)山口県萩市の旧萩藩御用窯三輪家の9代雪堂の次男として生まれる。1908年(明治41年)、明倫館の流れを汲む萩中学校に入学し、優秀な成績で2年に進むが、祖父雪山の「職人に学問は要らぬ」という説得により、同校を2年で退学、作陶を父の九代雪堂に学び、家業に従事する。また、祖父の勧めから江戸千家流の阿部直彦について茶道を学び、また宝生流の渡辺蒿蔵に謡曲を習うなど、諸芸の修業を積んだ。1937年(昭和2年)三輪窯を継承して10代休雪を襲名した。
森田 慶一(もりた けいいち、1895年4月18日 - 19… 森田 慶一(もりた けいいち、1895年4月18日 - 1983年2月13日)は、日本の建築家。建築研究者。三重県生まれ。京都大学名誉教授。また東海大学教授を歴任。過去の様式からの分離を宣言した分離派建築会に名を連ね設計活動を始めるが、西洋建築の歴史的研究を経て、ギリシアやローマの古典精神を探求し、建築論研究にも力を注いだ。 県立三重第一中学校、旧制第三高等学校を経て、1920年(大正9年) 東京帝国大学工学部建築学科卒業。その後、一旦、警視庁技師となったのち、武田五一からの招聘で京都帝国大学助教授として赴任。 1934年に「ヰトルーヰウスノ建築論的研究」で工学博士。1934年から1936年、古典建築を研究のため、フランス、ギリシアに留学。
大木 惇夫(おおき あつお、1895年〈明治28年〉4月18… 大木 惇夫(おおき あつお、1895年〈明治28年〉4月18日 - 1977年〈昭和52年〉7月19日)は日本の詩人・翻訳者・作詞家。本名は軍一(ぐんいち)。1932年までは篤夫(あつお)と名乗っていた。太平洋戦争(大東亜戦争)中の戦争詩で有名だが、児童文学作品他、「国境の町」などの歌謡曲、「大地讃頌」をはじめとした合唱曲、軍歌(戦時歌謡)、社歌、校歌、自治体歌の作詞も多い。1967年紫綬褒章、1972年勲四等旭日小綬章。 広島県広島市天満町(現在の西区天満町)出身。生家は裕福な呉服商であったが、彼が物心付く頃には没落しており、貧しい暮らしの中で育った。少年時代に『アラビアン・ナイト』や巖谷小波の『世界お伽噺』を読み、文学者を志す。
西光 万吉(さいこう まんきち、1895年(明治28年)4月… 西光 万吉(さいこう まんきち、1895年(明治28年)4月17日 - 1970年(昭和45年)3月20日)は、戦前日本の部落解放・社会運動家、政治運動家、著述家。本名は清原一隆。 全国水平社設立の中心人物で差別され苦しんでいた、水平社旗の意匠の考案者および水平社宣言の起草者として知られる。従弟の亀本源十郎も水平社で活動していた。 奈良県御所市の被差別部落の寺院、浄土真宗本願寺派西光寺に生まれる。多感な青年期に受けた数々の差別に悩み、学校を転々とし離郷して画家志望となるなど出自をめぐる悩みを経験。その頃に起きた米騒動に触発され、同郷の盟友である阪本清一郎(後の水平社共同設立者)、駒井喜作らと共に青年運動、社会改造運動に没入していった。
布浦 真作(ふうら しんさく、1895年4月17日 - 19… 布浦 真作(ふうら しんさく、1895年4月17日 - 1985年2月27日)は、日本の銀行家。山口銀行頭取を務めた。山口県出身。 1919年に慶應義塾理財科を卒業し、同年4月に山口銀行(現在の三和銀行)に入行。1943年7月に百十銀行常務に就任し、1949年3月には山口銀行頭取に昇格。1974年5月に会長を経て、1980年6月には取締役相談役に退いた。 1958年5月に藍綬褒章を受章し、1966年11月に勲四等旭日小綬章を受章し、1976年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1985年2月27日大腸腫瘍のために死去。89歳没。
野口 喜一(のぐち きいち、1895年(明治28年)4月16… 野口 喜一(のぐち きいち、1895年(明治28年)4月16日 - 1957年(昭和32年)4月2日)は、昭和時代の政治家。実業家。地主。衆議院議員。 神奈川県橘樹郡川崎町南河原(川崎市幸区南河原を経て現幸区駅前本町)の素封家の家に生まれる。1922年(大正11年)3月、明治大学法科を卒業。1924年(大正13年)市制施行直後の川崎市の学務委員に推され、1926年(大正15年)市青年団御幸分会長、1928年(昭和3年)県社会委員となった。 同年9月、川崎市会議員に当選。参事会員となった。さらに1932年(昭和7年)6月より神奈川県会議員に2期当選し、参事会員にも選ばれた。 1937年(昭和12年)4月の第20回衆議院議員総選挙では神奈川県第2区から出馬し当選。
相良 守峯(さがら もりお、1895年(明治28年)4月14… 相良 守峯(さがら もりお、1895年(明治28年)4月14日 - 1989年(平成元年)10月16日)は、日本の独文学者。 東京大学名誉教授、鶴岡市名誉市民(第一号)、勲二等瑞宝章受章、文化勲章受章。贈従三位(没時叙位)、贈勲一等瑞宝章(没時陞叙)。山形県鶴岡市出身。幼名は鈇太郎(おのたろう)だったが、鉄太郎(てつたろう)と間違えられることが多かったため、数え23歳の年の瀬に郡長の許可を得て守峯と改めた(『茫々わが歳月』p.7)。 木村謹治とともに編纂した独和辞典は「キムラ・サガラ」と呼ばれた。 大独和辞典の編纂やゲーテの研究等でも有名。日本独文学会の創設に貢献した。
高柳 宰正(たかやなぎ さいしょう、1895年(明治28年)… 高柳 宰正(たかやなぎ さいしょう、1895年(明治28年)4月13日 - 1974年(昭和49年))は、日本の政治家。栃木県矢板市長を務めた。 矢板町針生に生まれる。旧制 大田原中学校 卒業(明治45年、第6回卒)。矢板町会議員、栃木県会議員を経て、1942年(昭和17年)に矢板町長に就任。町長は1945年(昭和20年)10月31日まで務めた。 1955年(昭和30年)2月、合併に伴う矢板町長選挙に立候補したが大島喜一郎に敗れた。その後、1959年(昭和34年)2月の矢板市長選挙で当選し、市長は1963年(昭和38年)2月16日まで務めた。市長在任中には、小学校の改築や道路整備などを行い市勢の発展に尽力した。
石原 兵永(いしはら ひょうえい、1895年〈明治28年〉4… 石原 兵永(いしはら ひょうえい、1895年〈明治28年〉4月12日 - 1984年〈昭和59年〉8月17日)は、無教会派のキリスト教伝道者。栃木県生まれ。旧姓・鈴木。1920年青山学院英文学部卒。内村鑑三に師事する。青山師範学校の英語教師となり、石原文子と結婚、石原姓になる。青山師範学校教授を1931年に退職し伝道活動を続ける。
牧野 キク(まきの キク、1895年〈明治28年〉4月12日… 牧野 キク(まきの キク、1895年〈明治28年〉4月12日 - 1996年〈平成8年〉6月27日)は、日本の教育者、学校経営者。北海道の学校法人藤女子学園理事長、藤女子大学初代学長を務めた。藤女子学園創成期の札幌藤高等女学校(後の藤女子中学校・高等学校)時代から、同校2代目校長のクサヴェラ・レーメと共に、女子教育に尽力した。戦中は軍からの圧力に耐えて学校を守り抜き、戦後は藤女子専門学校の設置、新教育制度の施行に伴う藤女子短期大学や藤女子大学の設置など、生涯を女子教育への発展に尽くした。「女子教育の先達」「北海道女子教育の先駆者」とも呼ばれる。富山県富山市越前町出身。 1895年(明治28年)に、富山市越前町で、10人兄妹の第4子として誕生した。
椎熊 三郎(しいくま さぶろう、1895年4月11日 - 1… 椎熊 三郎(しいくま さぶろう、1895年4月11日 - 1965年7月27日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。 衆議院議員(9期)、衆議院副議長(第39代)、衆議院議院運営委員長(第10代)などを務めた。 北海道利尻郡鴛泊村(現・利尻富士町)に生まれ、単身で小樽市に渡る。苦学しながら1914年に小樽中学校(現・北海道小樽潮陵高等学校)を卒業後、へき地教育に携わった後に1918年に『小樽新聞』社会部記者となる。社内の賃上げ争議に加わって退職処分に遭うが、小樽商業会議所会頭だった山本厚三に認められ、秘書として迎えられる。小樽に普通選挙期成同盟を設立して幹事長となり、普選運動に邁進する。
石田 寿(いしだ ひさし、1895年4月11日 - 1962… 石田 寿(いしだ ひさし、1895年4月11日 - 1962年2月20日)は、日本の裁判官。長崎地方裁判所所長、京都地方裁判所所長、高松高等裁判所長官などを歴任した。 福岡地方裁判所判事などを務めた石田精一の二男として福岡市に生まれる。1913年福岡県立中学修猷館、1916年第五高等学校独語法律科を経て、1920年東京帝国大学法学部独法科を卒業する。在学中の1919年には高等文官試験行政科に合格している。東大在学中は後の首相広田弘毅が創設した学生寮「浩浩居」で生活しており、その頃から広田との信頼関係が築かれた。 卒業後、三菱合資会社に一時勤務するが、1922年司法官試補となり横浜地方裁判所に勤務する。
中里 無庵(なかざと むあん、1895年(明治28年)4月1… 中里 無庵(なかざと むあん、1895年(明治28年)4月11日 - 1985年(昭和60年)1月5日) は、陶芸家。唐津焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)。12代中里太郎右衛門。本名は中里重雄。
川上 澄生(かわかみ すみお、明治28年(1895年)4月1… 川上 澄生(かわかみ すみお、明治28年(1895年)4月10日 - 昭和47年(1972年)9月1日)は、日本の版画家。神奈川県出身。
村松 正俊(むらまつ まさとし、1895年4月10日 - 1… 村松 正俊(むらまつ まさとし、1895年4月10日 - 1981年9月20日)は、文明批評家、翻訳家。
江島 伊兵衛(えじま いへえ、1895年(明治28年)4月1… 江島 伊兵衛(えじま いへえ、1895年(明治28年)4月10日 - 1975年(昭和50年)10月10日)は、日本の実業家、能楽研究家。筆名荏寺 枚平(えじ まいへい)。 東京に生まれる。幼名は銀次郎。1912年に東京高等商業学校(現・一橋大学)予科に入学し、1917年に同校本科を卒業した。弓道部出身。 1918年に神田豊穂と春秋社を設立。同社の社長に就任する。その後家業を株式会社化し、1928年にわんや書店社長となる。1935年に鴻山文庫を設立した。 1961年、わんや書店の会長に就任した。松下塗料専務取締役、早稲田印刷監査役、野上記念法政大学能楽研究所顧問、宝生会理事なども歴任した。 著書・論文も多く、また、発行している雑誌『宝生』で「火曜研究会」と銘打った研究座談会を佐藤芳彦ともども主催して、能・謡曲の演者と研究者の交流の場を設けた。
竹村 豊太郎(たけむら とよたろう、1895年〈明治28年〉… 竹村 豊太郎(たけむら とよたろう、1895年〈明治28年〉4月9日 - 1977年〈昭和52年〉)は、日本の経済学者、教育者。立教大学商学部教授・経済学部教授、国士舘大学教授。 1895年4月9日生まれ。慶應義塾大学理財科を卒業したのち、三井銀行に入行。 同行で4年間の勤務のあと退職し、慶応義塾大学教授のトーマス・E・ジョンの元で研究助手を務め、同大学大学院で経済学および人口論を専攻する。1920年(大正9年)3月、同大学理財科大学院を修了。 1925年(大正14年)に立教大学商学部(現・経済学部・経営学部)教授に就任。経済原論や銀行論を講じる。 1937年(昭和12年)に立教大学スキー部が創設されると、初代部長を務めた。
伊藤 武雄(いとう たけお、1895年4月9日 - 1971… 伊藤 武雄(いとう たけお、1895年4月9日 - 1971年2月24日)は、日本のドイツ文学者。 1895年、神奈川県横須賀市生まれ。東京帝国大学文学部独文科で学び、1918年に卒業した。 卒業後は第四高等学校教授となった。戦後の1949年7月、第14代第四高等学校校長となった(1950年3月まで)。一方で、同1949年は国立学校設置法の施行による新制金沢大学が設置され、包摂されることとなったことから金沢大学教授となった。1960年に金沢大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は桃山学院大学教授として教鞭をとった。 なお、1909年生まれのドイツ文学者に名古屋大学教授を務めた伊藤武雄がいるが、全くの別人である。
黒沢 隆朝(くろさわ たかとも、1895年4月9日 - 19… 黒沢 隆朝(くろさわ たかとも、1895年4月9日 - 1987年5月20日)は、秋田県鹿角郡花輪町(現・鹿角市)出身の作曲家。日本の音楽教育と音楽起源の研究に努めた。別名・水田詩仙(みずたしせん)、桑田つねし、秋田実、植村甫(はじめ)、西田徹、藤村俊、藤原俊。次男は黒沢真澄(ヴァイオリニスト)。 黒沢隆朝の父は市太郎、代々神職の家であった。小学校の代用教員の傍ら、秋田県師範学校を二度受験するも極度の近視のため不合格となり、1912年(明治45年)3度目の受験の際に検査表を書き直して合格した。1917年(大正6年)に秋田師範学校を卒業。1918年上京して東京音楽学校(現・東京藝術大学)甲種師範科に入学。
富田 芳郎(とみた よしろう、1895年4月8日 - 198… 富田 芳郎(とみた よしろう、1895年4月8日 - 1982年1月8日)は、日本の地理学者。冨田 芳郎とも綴る。 1895年(明治28年)、北海道札幌市で名護屋家の子としてに生まれる。石狩川下流域の花川小学校尋常科六年を経て、公立白石尋常高等小学校の高等科を卒業する。さらに、札幌の北海道師範学校附属小学校高等科3年に入学し、一年間で修了する。その後は、小学校の準訓導の資格を取るため同校の講習所へ通いながら独学した。17歳の時北海道師範学校に入学した。1915年(大正4年)に東京高等師範学校理科3部に入学し、地理学と博物学を専攻した。東京高等師範では地形学を山崎直方・辻村太郎に、地質学を大関久五郎に、人文地理学を内田寛一に学んだ。
鶴見 憲(つるみ けん、1895年〈明治28年〉4月7日 -… 鶴見 憲(つるみ けん、1895年〈明治28年〉4月7日 - 1984年〈昭和59年〉8月18日)は、日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦前の1940年11月から在シンガポール日本総領事を務め、宣伝工作・民族工作を積極的に推進したことで知られる。日本占領時期にはマラッカ州長官を務めた。熱海市長。 1895年4月7日、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)で、官営・新町紡績所の工場長をしていた父・良憲と、母・琴子の7男(10人きょうだいの末子)として生まれる。 一家は1895年9月に東京・赤坂、1896年1月に父の郷里・岡山、1899年夏に名古屋へ転居。1900年4月、鶴見が5歳のときに母・琴子が病死。
菊池 文吾(きくち ぶんご、1895年(明治28年)4月6日… 菊池 文吾(きくち ぶんご、1895年(明治28年)4月6日 - 1946年〈昭和21年〉6月28日)は、日本の実業家。 日本レイヨン第2代社長。日本レイヨン初代社長菊池恭三の四男であり、妻は貴族院議員下郷久成の二女。 大阪府菊池恭三四男。1895年に市立大阪商業学校(現大阪公立大学)卒業後、アメリカ合衆国にて遊学した。丸川商事社長、杉村倉庫取締役、尾三電力取締役、日本レイヨン取締役、日本レイヨン常務を歴任し、1938年から父の後任として日本レイヨン社長を務めた。また、南海鉄道監査役、スフ製造工業組合監事、日本化学繊維研究所監事なども兼任した。
中安 閑一(なかやす かんいち、1895年〈明治28年〉4月… 中安 閑一(なかやす かんいち、1895年〈明治28年〉4月5日 - 1984年〈昭和59年〉1月31日)は、日本の経営者。宇部興産株式会社(現:UBE株式会社)会長、経済団体連合会常任理事、日本経営者団体連盟常任理事、経済企画庁経済審議会専門委員、産業機械統制会理事技術部長。 山口県宇部市出身である。宇部尋常高等小学校を卒業後、山口中学校に入学。中学時代は模型飛行機作りに熱中しながら勉学に励んだといい、卒業後は機械工学を学ぶため東京高等工業学校機械科(現・東京工業大学工学部)に入学した。 1918年(大正7年)3月に東京高等工業を卒業すると、三菱重工業に入社した。当時は戦争景気に沸き高給を約束してくれる会社も多かったが、当時三菱がイスパノシーザーと呼ばれる飛行機を製造していたことから入社を決めたという。
陶山 篤太郎(すやま とくたろう、1895年〈明治28年〉4… 陶山 篤太郎(すやま とくたろう、1895年〈明治28年〉4月4日 - 1941年〈昭和16年〉9月28日)は詩人、実業家。昭和初期に政治家としても活動した。 1895年、神奈川県橘樹郡川崎町(現・川崎市)砂子生まれ。1913年(大正2年)に横浜商業学校(現・横浜市立横浜商業高等学校)卒業。 1919年(大正8年)の雑誌『太洋の周辺』の同人になり、1924年(大正13年)に詩集「銅牌」を刊行する。また、労働学校の講師になり、労働者の教育に従事する。 1932年(昭和3年)に社会民衆党から川崎市会議員選に出馬して最高点で当選、1936年には神奈川県会議員にも当選して1938年 - 1939年に県会副議長。
茂森 唯士(しげもり ただし、1895年〈明治28年〉4月2… 茂森 唯士(しげもり ただし、1895年〈明治28年〉4月2日 - 1973年〈昭和48年〉2月5日)は、日本のジャーナリスト、評論家。 熊本県生まれ。東京外国語学校卒。 はじめ左翼だったが、戦時中転向し、戦後も反共の論陣を張った。産経新聞論説委員、世界動態研究所所長、人権擁護調査会常任理事。
生駒 雷遊(いこま らいゆう、1895年〈明治28年〉4月1… 生駒 雷遊(いこま らいゆう、1895年〈明治28年〉4月1日 - 1964年〈昭和39年〉12月2日)は、活動弁士、俳優である。本名は生駒 悦(読み不明)。東京浅草を中心に高い人気を得た。 1895年(明治28年)4月1日、岡山県 真島郡落合村大字垂水(現在の同県真庭市落合垂水)で運送業を営む、若狭屋生駒宗平の長男・悦として生まれる。 1912年(明治45年)、旧制・岡山県立商業学校(現在の岡山県立岡山東商業高等学校)を卒業、役場につとめるが、退職して上京し、早稲田大学に入学した。やがて中退、伊井蓉峰門下から日活(1912年設立)の「活動写真弁士養成所」で弁士の技術を学んだ。 1916年(大正5年)、満21歳のころ、浅草の帝国館で公開されたユニバーサル映画の一連のブルーバード映画作品が大ヒットし、生駒の解説の功とされた。
島本 久五郎(しまもと きゅうごろう、1895年(明治28年… 島本 久五郎(しまもと きゅうごろう、1895年(明治28年)4月1日 - 1973年(昭和48年)9月15日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍少将。 和歌山県出身。島本熊太郎の三男として生れる。和歌山中学校を経て、1916年11月、海軍兵学校(44期)を95名中6番の席次で卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍潜水学校普通科を卒業し、「第28潜水艦」(呂号第五十四潜水艦)に乗り組む。海軍水雷学校高等科で学び、アメリカ駐在、「呂号第五十三潜水艦」艦長、第7潜水戦隊参謀、「呂号第二十七潜水艦」艦長などを経て、1930年11月、海軍大学校(甲種28期)を卒業。 「伊号第六十潜水艦」艦長、第1潜水戦隊参謀、軍令部員(第3部第5課)、練習艦隊参謀、第2艦隊参謀、海大教官、支那方面艦隊先任参謀を歴任した。
田中 万吉(たなか まんきち、1895年4月1日 - 194… 田中 万吉(たなか まんきち、1895年4月1日 - 1945年10月15日)は日本の洋画家。
友松 円諦(ともまつ えんたい、1895年〈明治28年〉4月… 友松 円諦(ともまつ えんたい、1895年〈明治28年〉4月1日 - 1973年〈昭和48年〉11月16日)は、日本の宗教家、仏教学者である。幼名は春太郎。全日本仏教会創立者。 愛知県名古屋市生まれ。 浄土宗の僧侶となったが、既存の仏教の在り方に疑念を抱いた。浄土宗の僧侶のまま宗教大学へ入り、卒業してさらに慶應義塾大学予科を経て、慶應義塾大学文学部史学科でサンスクリット(梵語)を学び、大正13年に卒業。 独・仏に留学し、帰国後に慶應義塾大学予科講師・教授、慶應義塾大学仏教青年会顧問、日本放送協会ラジオ講師、大正大学講師等を歴任。西洋哲学に裏打ちされた仏典研究をはじめる。また、高島米峰の新仏教運動に影響されて仏教復興運動(真理運動)を開始し、ラジオや機関誌で思想を広めた。
窪田 俊彦(くぼた としひこ、1895年4月1日 - 198… 窪田 俊彦(くぼた としひこ、1895年4月1日 - 1984年4月12日)は、日本の経営者。石川県出身。 1921年に東京帝国大学を卒業。北海道炭礦汽船での勤務を経て、1961年5月から1965年11月までに札幌テレビ放送社長を務めた。 1984年4月12日、心不全のために死去。89歳没。
内藤 春治(ないとう はるじ、1895年4月1日 - 197… 内藤 春治(ないとう はるじ、1895年4月1日 - 1979年5月23日)は、日本の鋳金家、工芸家、教育者。東京美術学校教授、東京藝術大学名誉教授。帝展・新文展・日展で活動し、日本芸術院賞を受賞した。 岩手県盛岡市に生まれる。少年期に釜師有坂安太郎に入門し、のち南部鋳金研究所で松橋宗明に学んだ。その後上京し、香取秀真に師事した。 1920年に東京美術学校に入学し、1925年に鋳造科を卒業した。研究科修了後の1928年、同校助手となった。1926年には高村周豊らと「旡型」を結成し、昭和初期の新工芸運動に参加した。 1927年、第8回帝展に美術工芸部が新設されると「壁画への時計」を出品して入選した。
沼田 恒夫(ぬまた つねお、1895年3月29日 - 196… 沼田 恒夫(ぬまた つねお、1895年3月29日 - 1967年4月9日)は、日本の政治家。元愛媛県大洲市長、今治市長。 旧制大洲中学校(現:愛媛県立大洲高等学校)卒業。喜多郡役所書記を経て、1939年愛媛県属となり、地方課長・商工課長などを歴任した。1942年に今治市長阿部秀太郎に招かれて助役になり、1943年12月今治市長に就任して戦時下の市政を担当した。敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の政令第3号によって市長職を離れた。 1954年に大洲市長選挙に立候補し元菅田村村長の有友寿次郎を破り初当選、初代大洲市長に就任した。1958年の市長選挙において無投票で当選を果たし、2選。3選を目指し、1962年の大洲市長選挙に立候補したが新人で愛媛県議会議員の森永冨茂に破れ落選。
高田 保(たかた たもつ / たかだ たもつ、1895年(明… 高田 保(たかた たもつ / たかだ たもつ、1895年(明治28年)3月28日 - 1952年(昭和27年)2月20日)は、茨城県出身の劇作家、随筆家。俳号は羊軒。母方の従兄に近世文学研究者の山口剛がいる。 1895年、茨城県新治郡土浦町(現在の土浦市)の旧家に生まれる。子供の頃より気遣いが出来てまた話も面白く、同級の者以外とも交流するなど人望が厚かったという。旧制土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を経て早稲田大学英文科へと進んだ。大学在学中から新劇運動に参加して宇野浩二を知るようになる。また、在学中に創立者・大隈重信の妻の銅像を建てるかの問題で「銅像事件」と呼ばれる騒動が起きるが、その時代を描いた尾崎士郎の小説『人生劇場・青春編』に、高田をモデルとした「吹岡早雄」という人物が登場している。
李家 孝(りのいえ たかし、1895年(明治20年)3月28… 李家 孝(りのいえ たかし、1895年(明治20年)3月28日 - 1978年(昭和53年)2月18日)は、日本の実業家。三菱製鋼株式会社元取締役会長。剣道範士。 李家隆介の次男として生まれる。1919年(大正8年)、東京帝国大学工学部機械科卒業後、三菱重工業に入社。1941年(昭和16年)、三菱重工業神戸造船所造機工作部長を務める。1950年(昭和25年)、東日本重工業社長に就き、1952年(昭和27年)、三菱日本重工業株式会社取締役を経て、1955年(昭和30年)に三菱製鋼株式会社取締役会長兼三菱日本重工業株式会社取締役(後に相談役)に就任した。 趣味は剣道、謡曲、打球。宗教は真宗。 長男・孝信(三井物産・三井リース事業副社長)は新田帯革製造所(現ニッタ)社長新田長三の次女・絢子と結婚した。
池田 幸太郎(いけだ こうたろう、1895年3月28日 - … 池田 幸太郎(いけだ こうたろう、1895年3月28日 - 1976年8月16日)は、日本の画家。 佐賀郡出身。1913年(大正2年)に佐賀中学校卒業後に上京し、川端画学校で結城素明の指導を受けた。1921年(大正10年)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科を卒業した。 1925年(大正14年)に「染井釣堀の図」が帝展に初入選した。昭和初期にかけて一連の東京風物を描いたが、1933年(昭和8年)頃から官展への出品を辞め、独自の制作活動を行った。 1932年にはロサンゼルスオリンピックの芸術競技の絵画種目に出品した。
素木 しづ(しらき しづ、1895年3月26日 - 1918… 素木 しづ(しらき しづ、1895年3月26日 - 1918年1月29日)は、日本の小説家。本名上野山志づ(うえのやま しづ)。 1895年(明治28年)、札幌に生まれる。昆虫学者・素木得一の妹。庁立札幌高等女学校(現北海道札幌北高等学校)卒業後、結核性関節炎が悪化し右足を切断。1913年(大正2年)、小学校から同期だった森田たまに数日遅れて森田草平門下に入る。同年処女作『松葉杖をつく女』を、翌年『三十三の死』を発表。新進女流作家としての地位を築く。1915年(大正4年)画家の上野山清貢(うえのやま きよつぐ)と結婚し(婚姻届を出したのは1917年(大正6年))の年末、子(茂登山櫻子)をもうける。
石浜 知行(いしはま ともゆき、1895年3月26日 - 1… 石浜 知行(いしはま ともゆき、1895年3月26日 - 1950年8月1日)は、日本の経済学者。 兵庫県出身。時事新報社の記者・石濱鉄郎の長男、作家の石浜金作は弟。東京帝国大学経済学部卒。ドイツ留学を経て九州帝国大学教授。1928年(昭和3年)三・一五事件で辞職、のち読売新聞論説委員。戦後、1946年(昭和21年)に中国研究会設立に参加。九州帝大に復帰、マルクス主義経済学者として活動する。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
当間 重剛(とうま じゅうごう、當間 重剛、1895年(明治… 当間 重剛(とうま じゅうごう、當間 重剛、1895年(明治28年)3月25日 - 1971年(昭和46年)10月20日)は、戦前の沖縄県および琉球政府の政治家・裁判官。那覇市長・琉球政府行政主席(1956年11月11日 - 1959年11月10日)。フランス語に堪能な人物だった。 ジャーナリストで初代那覇市長だった当間重慎の息子として沖縄県那覇(現・那覇市)に生まれる。沖縄県立第一中学校、旧制第三高等学校を経て、1920年に京都帝国大学法学部を卒業。1939年に那覇市長に選出され、戦時中は大政翼賛会沖縄県支部長を務めた。 沖縄戦後には一転沖縄民政府行政法務部長を歴任し、1946年には戦前の市町村長経験者を市町村長に起用する米軍の特別措置に伴い再度那覇市長に就任。
前田 一(まえだ はじめ、1895年3月25日-1978年5… 前田 一(まえだ はじめ、1895年3月25日-1978年5月2日)は、昭和時代の経営者。日本経営者団体連盟(日経連)発足時から21年にわたって専務理事を務めた。一説には「サラリーマン」という語を広めた人物とされている。 佐賀県小城郡三日月村(現在の小城市)出身。東京帝国大学法学部を卒業後、経済学部に再入学して1921年に卒業、北海道炭礦汽船会社に入社して労務係となり、以後一貫して総務畑を歩む。1927年に著した『サラリマン物語』が日本に「サラリーマン」という和製英語を定着させるきっかけになったと言われている。1929年にヨーロッパに留学し、日本政府の要請で第12回国際労働会議の日本政府代表嘱託に加わっている。
石川 定俊(いしかわ さだとし、1895年(明治28年)3月… 石川 定俊(いしかわ さだとし、1895年(明治28年)3月24日- 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、陸軍司政長官、実業家。 石川龍助の長男として、秋田県秋田市に生まれる。札幌中学から東北帝国大学農学科予科にすすみ北海道帝国大学農学部を経て、1922年(大正11年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、台湾総督府殖産局に奉職する、高等試験行政科に合格。1924年(大正13年)10月、地方理事官に進み、台北州七星郡守に任じ、台北市助役、新竹州内務部地方課長、警務部理蕃課長、台北州警務部長、内務局土木課長、交通局鉄道部長などを歴任した。その後、1942年(昭和17年)7月に陸軍司政長官に任じ、ケドウ州(現インドネシア共和国ジャワ島中部ジャワ州)長官となった。
高木 秀雄(たかぎ ひでお、1895年(明治28年)3月23… 高木 秀雄(たかぎ ひでお、1895年(明治28年)3月23日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。屏東市尹。 高木行正の長男として愛媛県北宇和郡宇和島町野川(現・宇和島市野川)に生まれる。1914年(大正3年)愛媛県立松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を卒業。翌年、台北庁に出仕。 1917年(大正6年)南投庁属、1922年(大正11年)台湾総督府財務局、1925年(大正14年)同府税務課を経て、1927年(昭和2年)1月、再び同府財務局勤務となり、1931年(昭和6年)5月、秘書課勤務に転じ、東京出張所勤務を発令される。翌年の1932年(昭和7年)3月、同府中央研究所会計課長および秘書課長を経て、文書課長となり、同年7月に同府総務長専属となった。
御手洗 辰雄(みたらい たつお、1895年(明治28年)3月… 御手洗 辰雄(みたらい たつお、1895年(明治28年)3月23日 - 1975年(昭和50年)9月7日)は、日本のジャーナリスト。政治評論家。 大分県大分市出身。旧制大分中学校を経て、慶応義塾大学に入るが、1914年(大正3年)に中退。地元の大分新聞(現・大分合同新聞)を経て、上京し、1917年(大正6年)報知新聞社に入り、社会部、政治部記者となり、1922年(大正11年)社会部長となる。1928年(昭和3年)に社内紛争のため退社。その後は東京毎夕新聞、国民新聞、二六新報の各編集局長などを務め、同郷の菊池寛の勧めにより『文藝春秋』に「城南隠士」のペンネームで政治評論を寄稿した。1936年(昭和11年)に朝鮮に渡り、京城日報副社長となる。
福島 敏行(ふくしま としゆき、1895年〈明治28年〉3月… 福島 敏行(ふくしま としゆき、1895年〈明治28年〉3月23日 - 1983年〈昭和58年〉3月23日)は日本の実業家。元日本通運社長、元学校法人日通学園理事長。 1895年(明治28年)3月23日、島根県松江市に生まれる。 1916年(大正5年)、法政大学法学部を卒業し、内国通運(現・日本通運)に入社する。 1960年(昭和35年)、日本通運社長に就任し、1968年(昭和43年)に辞任する。辞任後、いわゆる日通事件により業務上横領の疑い等で逮捕される。1971年(昭和46年)9月に東京地裁で懲役4年の判決が出、1977年(昭和52年)10月に最高裁で確定する。しかし、病気のため刑の執行は停止される。
斎木 重一(齋木、さいき しげいち、1895年〈明治28年〉… 斎木 重一(齋木、さいき しげいち、1895年〈明治28年〉3月23日 - 1977年〈昭和52年〉5月11日)は、日本の社会運動家、政治家。衆議院議員。旧姓は稲葉。 福井県坂井郡伊井村(現・あわら市)で生まれる。大関高等小学校卒業。卒業後は、一時東京に滞在する。 越前木材工の職工長を務める。1918年(大正7年)、福井製材職工同盟会を組織し、1925年(大正14年)、福井県労働同志会に改組し、農民運動にも加わった。1929年(昭和4年)に福井市会議員選挙に立候補したが、この時は3票差で落選した。1932年(昭和7年)、社会大衆党福井県連会長に就任した。1933年(昭和8年)に福井市会議員に当選した。
秋田 三一(あきた さんいち、旧姓・武光、1895年〈明治2… 秋田 三一(あきた さんいち、旧姓・武光、1895年〈明治28年〉3月22日 - 1987年〈昭和62年〉9月18日)は、日本の政治家(貴族院議員)、山口県多額納税者、実業家。神戸近海汽船代表取締役。 山口県防府市出身。生家の武光家は防府天満宮で代々大宮司を務めた。武光信雄の三男で、下関の秋田寅之介の養子となる。山口県立山口中学校(現山口県立山口高等学校)、第五高等学校を経て、1918年(大正7年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法科)卒業。 三井銀行横浜支店に入り、彦島船渠常務取締役を経て秋田汽船に転じ、代表取締役となる。材木商海運貿易鉱業を営む。山口県多額納税者に列し、1939年(昭和14年)貴族院議員に互選され、同年9月29日から研究会に属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。