木村 健二郎(きむら けんじろう、1896年5月12日 - … 木村 健二郎(きむら けんじろう、1896年5月12日 - 1988年10月12日)は、日本の分析化学者。学位は、理学博士(東京大学)。日本学士院賞受賞。 青森県出身。父は神奈川県第一中学校(現・神奈川県立希望ヶ丘高等学校)校長の木村繁四郎(1864-1945)。祖父は弘前藩家老の木村藹吉(1840-1879)。伯父(伯母の夫)に伊東重、義兄に矢代幸雄(姉の夫)がいる。 旧制神奈川県立第一中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学理学部化学科に在学中、柴田雄次に師事する。卒業後も大学に残り、1922年に同大学理学部助教授となる。1925年からデンマークに留学し、ニールス・ボーアのもとで研究した。
小畑 哲夫(こばた てつお、1896年(明治29年)5月12… 小畑 哲夫(こばた てつお、1896年(明治29年)5月12日 - 1971年(昭和46年)1月10日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 兵庫県宍粟郡神戸村(一宮町を経て現宍粟市一宮町)で、小畑彦太郎の二男として生まれる。1916年(大正5年)姫路師範学校を卒業した。 1916年、兵庫県内の小学校訓導に就任。その後、鉄鋼線材製造業を営む。阪神被覆電気溶接棒製造工業組合主事、同組合常務理事、西日本電極棒工業組合専務理事、日本電気溶接棒工業組合専務理事、日本溶接工業代表取締役、兵庫県宍粟郡神戸村薪炭組合長、同郡薪炭組合連合会副会長、兵庫県民主政治会宍粟郡支部長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に兵庫県地方区から民主党公認で出馬して当選(補欠、任期3年)し、その後、国民民主党に所属し参議院議員に1期在任した。
福吉 勲二(ふくよし くんじ、1896年5月11日 - 没年… 福吉 勲二(ふくよし くんじ、1896年5月11日 - 没年不明)は、日本の内務官僚。桑名市長。 三重県出身。1921年京都帝国大学法学部卒。1924年高等文官試験に合格し、内務省に入る。復興局から岐阜、北海道、秋田、鳥取、岡山、富山、愛媛の各県に勤務し、1941年沖縄県内務部長となる。その後、香川県副知事となり、1945年7月に桑名市長に就任した。 市長就任直後に終戦を迎え、戦災復興に力を入れた。しかし、同年10月に市内の川の氾濫による水害が起き、大きな被害を受けた。福吉は戦災と水害によるダブルパンチを受けた市民を大いに励まし、復興に奔走した。翌1946年に城南干拓事業に着手、1947年には学校給食を実施した。
芹沢 光治良(せりざわ こうじろう、1896年(明治29年)… 芹沢 光治良(せりざわ こうじろう、1896年(明治29年)5月4日 - 1993年(平成5年)3月23日)は、日本の小説家。静岡県沼津市名誉市民(1980年‐ )。1965年‐1974年に日本ペンクラブ会長を務めた。日本芸術院会員。 フランス留学後、『ブルジョア』で出発。『巴里に死す』で注目された。作品は父性希求、天理教を主題にしたもの、日本と西洋の対比やその矛盾を追究するものの系列があり、冷徹な目を据えながら、生と死、愛の問題を扱った主知的ヒューマニズム作家。日本よりもむしろ海外(特にフランス)で高い評価を受けた。特に1950年代に『巴里に死す』がフランスでも高く評価され、ノーベル文学賞候補者となったという噂も流れた。
市原 硬(いちはら かたし、1896年〈明治29年〉5月2日… 市原 硬(いちはら かたし、1896年〈明治29年〉5月2日 - 1979年〈昭和54年〉1月10日)は、日本の医化学者。医学博士。大阪大学名誉教授。日本生化学会会長。位階は従三位。 島根県那賀郡江津村(のち江津町、現・江津市)出身。市原朋作の長男。1914年、浜田中学卒業。1923年、大阪医大卒業。同医化学教室に勤務する。1928年に大阪帝国大学医学部助教授、1940年に教授、1960年に定年退官。1961年、和歌山医大学長に就任。1979年死去。死没日付をもって従三位に叙された。 古武弥四郎大阪帝国大学医学部教授に師事、その後継者として1961年に有核アミノ酸代謝の研究で須田正巳と共に日本学士院賞を受賞した。
松浦 周太郎(まつうら しゅうたろう、1896年5月2日 -… 松浦 周太郎(まつうら しゅうたろう、1896年5月2日 - 1980年6月8日)は、日本の昭和期の政治家。位階は従三位。 労働大臣・運輸大臣。北海道美深町名誉町民(1964年)。妻は同町の児童養護施設・社会福祉法人美深育成園の創立者である松浦カツ。 北海道渡島支庁茅部郡落部村(現・二海郡八雲町)野田生の開拓農家の長男として生まれる。父・増太郎は愛知県の人で、濃尾地震(1891年)で耕地を失い、翌1892年、八雲徳川農場で小作人として働くために渡道してきていた。 1909年4月、現在の美深町紋穂内に移住、恩根内第一尋常小学校を卒業後は家業の農作業に従事し、また中学講義録を取り寄せ独学していた。一時期、胃を痛めて東京の長与胃腸病院に入院し、夏目漱石と病室を共にしたことがある。
李箕永(りきえい、1896年5月 – 1984年8月9日)は… 李箕永(りきえい、1896年5月 – 1984年8月9日)は朝鮮の小説家。本貫は徳水。号は民村。筆名に民村生、聖居山人、聖居、陽心谷人、陽心学人、箕永生がある。日本統治時代はプロレタリア主義作家としてKAPFの中心メンバーとして活動、解放後は左翼陣営に加わり文壇の重鎮の座に座り続けた。貧困を極めて精巧に描き出す李の筆は南北を通じて高く評価されている。 李箕永は1896年5月に忠清南道牙山に生まれる。父は李敏彰、母は密陽朴氏の間の長男である。生まれてすぐに天安に引っ越し、そこで育った。李の家庭は貧しく母は李が数え年で11歳のときに死んだ。学費の支払いにも苦労するほどの貧しさのなか、古代小説を読んで少年期を過ごす。
門屋 盛一(かどや もりいち、1896年(明治29年)4月3… 門屋 盛一(かどや もりいち、1896年(明治29年)4月30日 - 1961年(昭和36年)5月10日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 愛媛県風早郡河野村(温泉郡河野村、北条町、北条市を経て現松山市)で、門屋フミの息子として生まれる。幼くして両親と大分県、のちの佐伯市に移った。貧しい家庭のため12歳から小学校給仕となる。村役場給仕、大分県南海部郡戊申溜池普通水利組合書記、薬局生などを務め、独学を続けた。長崎県の崎戸炭坑に移り採炭夫として働く。三菱長崎造船所工業補修学校に入学し木型職工となる。21歳で鉄道工業合資会社に転じ土木事業に係わる。24歳で同社桂事務所現場主任に就任し丹那トンネル工事に従事した。
井谷 正吉(いたに まさきち / まさよし、1896年(明治… 井谷 正吉(いたに まさきち / まさよし、1896年(明治29年)4月29日 - 1976年(昭和51年)2月10日)は、大正から昭和期の農民運動家、農業技術者、政治家。衆議院議員(4期)。 愛媛県北宇和郡日吉村下鍵山(現鬼北町下鍵山)で、井谷正命の長男として生まれる。1914年(大正3年)郡立宇和農蚕学校(現愛媛県立宇和高等学校)を卒業した。 兵役後の1918年(大正7年)に家出して大阪、奈良、三重などを巡り、帰郷して北宇和郡役所土木科に勤務した。1919年(大正8年)から1922年(大正11年)まで三重県度会郡七保村(現大紀町)の農業補習学校教師を務めた。この間、地元青年と土民協会を設け農村問題の研究を行う。
林 重義(はやし しげよし、1896年4月29日 - 194… 林 重義(はやし しげよし、1896年4月29日 - 1944年3月16日)は戦前日本の洋画家、版画家。 1896年に兵庫県神戸市に生まれた。始めは京都市立絵画専門学校において日本画を学ぶが、中退している。関西美術院において鹿子木孟郎に師事し油絵を学んでいる。1922年に小林和作とともに東京へ上京し、1923年に二科展に出品、初入選を果たす。1926年に「庭の一隅」で二科賞を受賞した。1928年から渡欧して、渡欧先から二科展に作品を出品している。1930年までヨーロッパに滞在、帰国後、二科会を退会する。1930年代に主に石版画を制作、発表した。1931年には独立美術協会の創立に参加するが、1937年には同会からも退会、同年、文展に出品している。
四方 諒二(しかた りょうじ、1896年〈明治29年〉4月2… 四方 諒二(しかた りょうじ、1896年〈明治29年〉4月28日 - 1977年〈昭和52年〉12月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 兼松商店[要出典]の役員であった四方素の二男として神戸市で生れる。第一神戸中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第19連隊付となる。1924年(大正13年)3月、陸軍委託学生として学んだ東京外国語学校(独語)を修了。1927年(昭和2年)6月、兵科を憲兵科に移し憲兵大尉となり、咸興憲兵分隊長となった。 小倉憲兵分隊長を経て、1930年(昭和5年)4月から3年間、陸軍派遣学生として東京帝国大学法学部で学ぶ。
羅 蕙錫(ら けいしゃく、ナ・ヘソク、朝鮮語:나혜석、189… 羅 蕙錫(ら けいしゃく、ナ・ヘソク、朝鮮語:나혜석、1896年4月28日 - 1948年12月10日)は、日本統治時代の朝鮮および韓国の洋画家、作家、詩人、ジャーナリスト。本貫は羅州羅氏。現在の京畿道水原市八達区出身。女子美術大学の留学生。韓国最初の女性画家で近代朝鮮文学における最初の女性作家とも評される。女性解放論者であり、女性解放のための運動や朝鮮独立運動にも参加していた。初名は児只、字は明順、号は晶月。 1896年4月、父・羅基貞と母・崔是議の間に五人兄姉の二女として京畿道水原に生まれた。父の家系は代々官僚をつとめ、資産家で子弟教育に関心が高かった。幼名は兒只(アジ=子供を意味する)、幼児期は明順(ミョンスン)と呼ばれ、日本留学時から蕙錫、号は晶月(チョンウォル)と名乗った。
藤田 淳教(藤田 淳敎、ふじた あつのり、1896年〈明治2… 藤田 淳教(藤田 淳敎、ふじた あつのり、1896年〈明治29年〉4月27日 - 1963年〈昭和38年〉10月23日)は、昭和時代の台湾総督府官僚。公吏。台中市尹、台東庁長。旧姓は平良、幼名は亀吉。 鹿児島県姶良郡国分町(現・霧島市国府)出身。平良淳夫の四男として生まれ、藤田半次郎の養子となる。日本大学商学部予科を経て、1925年(大正14年)同大文学部法律学科を卒業し、高等文官試験行政科試験に合格する。 合格後、直ちに台湾総督府に理事官として出仕し、1928年(昭和3年)10月に高雄州岡山郡郡守、1929年(昭和4年)12月に台北州勧業課長、1930年(昭和5年)5月に新竹州教育課長、1931年(昭和6年)4月に台北州教育課長を経て、1935年(昭和10年)9月20日に台中市尹に就任する。
川上 小夜子(かわかみ さよこ、1896年〈明治29年〉4月… 川上 小夜子(かわかみ さよこ、1896年〈明治29年〉4月27日 - 1951年〈昭和26年〉4月24日)は日本の女性歌人。本名、小西 慶子(旧姓、久城)。覇王樹同人の小西憲三は夫。 1898年(明治31年)、福岡県八女郡三河村(現在の八女市)に生まれ、大牟田市で育つ。熊本尚絅女学校卒業後、1916年(大正5年)に白日社の『詩歌』に参加。詩歌の廃刊後は1918年(大正7年)『覇王樹』の創刊と共に参加、同人として出詠。1925年(大正14年)に水町京子、北見志保子らと共に『草の実』を創刊、覇王樹を退いた。1935年(昭和10年)、北原白秋が『多磨』を創刊するとともに同誌に参加する。なお、草の実は戦時中に解散の命で解散している。
李 勲求(イ・フング、朝鮮語: 이훈구/李勳求、1896年4… 李 勲求(イ・フング、朝鮮語: 이훈구/李勳求、1896年4月26日または1906年6月6日 - 1961年6月13日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の農業経済学者、農学者、教育者、政治家、実業家、ジャーナリスト。制憲・第5代(参議院)韓国国会議員、檀国大学学長、成均館大学校総長を務めた。 本貫は韓山李氏(朝鮮語版)。号は心堂。キリスト教徒。 忠清南道舒川郡麒山面出身。漢学教育を経て、1920年に水原農林専門学校卒、1924年に東京帝国大学(現・東京大学)農学部農科卒。日本留学中にキリスト教に入信した。公州永明学校教員を2年間務めた後、1927年にカンザス州立大学大学院修了、1929年にウィスコンシン州立大学大学院農業経済学専攻修了(博士)。
清野 暢一郎(せいの ちょういちろう、1896年4月26日 … 清野 暢一郎(せいの ちょういちろう、1896年4月26日 - 1976年2月21日)は、日本のアメリカ演劇研究者。 第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学英文科卒。在学中、十一谷義三郎らの『行路』に参加。米国へ留学し演劇を研究、ユージン・オニールを主として研究し、帰国後演劇活動に携わる。東京都立大学 (1949-2011)を経て1956年中央大学専任講師、1964年教授、1967年定年退職。
高井 亮太郎(たかい りょうたろう、1896年4月26日 -… 高井 亮太郎(たかい りょうたろう、1896年4月26日 - 1969年3月12日)は、第2代東京電力(現:東京電力ホールディングス)社長。関東配電社長。 新潟県加茂市出身。1920年(大正9年)、東京帝国大学電気工学科を出て猪苗代水力電気入社。東京電燈、関東配電と技術畑で育ち、1946年に関東配電社長。1952年に東京電力社長。 1958年、社員が収賄罪で起訴され引責辞任。1969年3月、腸腫瘍のため東京電力病院で死去。72歳。 初代 安蔵弥輔 / 2代 高井亮太郎 / 3代 青木均一 / 4代 木川田一隆 / 5代 水野久男 / 6代 平岩外四 / 7代 那須翔 / 8代 荒木浩 / 9代 南直哉 / 10代 勝俣恒久 / 11代 清水正孝 / 12代 西沢俊夫 / 13代 廣瀬直己 / 14代 小早川智明 初代 新木栄吉 / 2代 新井章治 / 3代 安蔵弥輔 / 4代 菅礼之助 / 5代 青木均一 / 6代 木川田一隆 / 7代 平岩外四 / 8代 那須翔 / 9代 荒木浩 / 10代 田村滋美 / 11代 勝俣恒久 / 12代 下河邉和彦 / 13代 数土文夫 / 14代 川村隆 この項目は、エネルギーに関連した書きかけの項目です。
等松 農夫蔵(とうまつ のぶぞう、1896年〈明治29年〉4… 等松 農夫蔵(とうまつ のぶぞう、1896年〈明治29年〉4月25日 - 1980年〈昭和55年〉12月28日)は、日本の海軍軍人(主計科士官)。海軍経理学校6期。最終階級は海軍主計少将。戦後は公認会計士となり、有限責任監査法人トーマツを創設した。日本公認会計士会長。 群馬県前橋市に生まれるが、幼年期に判事であった父を亡くし、北甘楽郡岩平村(多野郡吉井町を経て現・高崎市)に引っ越す。群馬県立富岡中学校(現・群馬県立富岡高等学校)を経て、海軍経理学校を1917年に卒業(6期)、海軍主計少尉候補生を命じられる。遠洋航海を経て、1918年、戦艦「扶桑」乗組。1919年、海軍主計少尉に任官。1920年、海軍主計中尉に進級。
正邦 宏(まさくに ひろし、1896年4月25日 - 192… 正邦 宏(まさくに ひろし、1896年4月25日 - 1928年6月1日)は、日本の俳優である[4][5][6][7]。本名金子 政國(かねこ まさくに)[8]。伊庭孝門下の新劇の舞台俳優から、時代劇も含めた映画俳優に転向、「和製ロイド」(ハロルド・ロイド)として人気を博したが、早世した[8]。
綿貫 佐民(わたぬき すけたみ、1896年〈明治29年〉4月… 綿貫 佐民(わたぬき すけたみ、1896年〈明治29年〉4月25日 - 1950年〈昭和25年〉9月7日)は、日本の政治家、実業家。元衆議院議員の綿貫民輔は長男。 兵庫県三原郡賀集村(現・南あわじ市)の南家に生まれる。父は兵庫県議、自由民権家の南嘉五郎。慶應義塾大学部理財科卒。卒論は交通経済学。卒業後は日本電力に入社し、日本電力社員として小牧ダム建設のため富山県井波町(現・南砺市)に入る。ダム建設反対運動のさなか、運動家たちとの接触を通じてダム反対派の中心メンバーの一人だった綿貫栄と知り合う。綿貫栄らが条件闘争派として反対運動からの分派行動をとる過程で親しくなり、綿貫栄の長女と結婚する。綿貫栄の長男が交通事故で亡くなったため婿として綿貫家に迎えられる。
西 雅雄(にし まさお、1896年(明治29年)4月24日 … 西 雅雄(にし まさお、1896年(明治29年)4月24日 - 1944年(昭和19年)4月16日)は、政治活動家。特に、経済の宇野学派を構成する宇野弘蔵や大学教授の高木益郎から高く評価され、西の活動により共産党員となったものも多い。 岡山県勝田郡梶並村(現:美作市)出身。旧制岡山県立高梁中学(現:高梁高等学校)へ進学、同級生に東京帝国大学教授となる宇野弘蔵や関西大学法学部教授になる高木益郎、第一高等学校の特待生となった松田享爾がいた。特に、後に東京帝国大学の教授になり、経済学の宇野学派をつくった宇野は、自身の著書「忘れえぬ級友」で西について言及している。 西は、後に堺利彦を委員長とする第一次共産党に参加し、その後もボルシェヴィズムに理論と実践の両面で心身共に投じてゆくが、早熟の文学少年だった西の手ほどきで、宇野は文学と社会・政治論に目を惹かれていった。
濱尾 四郎(はまお しろう、1896年4月24日 - 193… 濱尾 四郎(はまお しろう、1896年4月24日 - 1935年10月29日)は、日本の検事、弁護士、探偵小説家。子爵。貴族院議員。戦後の版では「浜尾四郎」表記が一般的である。作家活動は実働足かけ6年に過ぎず、作品量は長短20篇に及ぶだけだが、戦前派作家として逸することのできない足跡を残している。
横山 エンタツ(よこやま エンタツ、1896年(明治29年)… 横山 エンタツ(よこやま エンタツ、1896年(明治29年)4月22日 - 1971年(昭和46年)3月21日)は、大正・昭和期の漫才師・俳優である。本名:石田 正見(いしだ まさみ)。花菱アチャコとのコンビ(エンタツ・アチャコ)で、「万才」に代わり、「しゃべくり漫才」を発明。今につながる漫才ブームを作った。現在の(全国的に流布した)漫才スタイルの元祖である。漫才作家秋田實の良き相談者として上方漫才、喜劇の興隆に大きく貢献した。吉本新喜劇初期の出演者でもある。
山田 作之助(やまだ さくのすけ、1896年(明治29年)4… 山田 作之助(やまだ さくのすけ、1896年(明治29年)4月22日 - 1995年(平成7年)5月20日)は、日本の会社役員、弁護士、裁判官。昭和セメント、肥後製糸各監査役。神戸弁護士会長[3]。最高裁判事[3]。衆議院議員山田喜之助の三男。
武藤 鉄城(むとう てつじょう、1896年(明治29年)4月… 武藤 鉄城(むとう てつじょう、1896年(明治29年)4月20日 - 1956年(昭和31年)8月30日)は、秋田県出身の日本の考古学者、民俗学者、スポーツ指導者。 秋田県河辺郡豊岩村(現・秋田市豊岩)に武藤喜市郎、シケの四男として生まれた。本名のテツジョウにはテツシロという四番目の意味が込められている。 秋田県立秋田中学校(現・秋田県立秋田高等学校)に入学し、中学5年生の時に新潟県高田市(現・上越市)で開催された第1回全国スキー大会において急斜面競技と長距離競技で4位と6位に入賞している。中学校を卒業した後、慶應義塾大学部に進み、理財科(経済学部)に籍を置いたが、在籍5年で退学し、1920年(大正9年)に帰郷して兄の一郎の四ツ小屋付近の発掘の助手をした。
小松 平五郎(こまつ へいごろう、1896年 (明治29年)… 小松 平五郎(こまつ へいごろう、1896年 (明治29年) 4月20日 - 1953年 (昭和28年) 3月6日)は大正 - 昭和期の日本の作曲家。秋田県由利郡玉米村(現在の由利本荘市)生まれ。兄は作曲家の小松耕輔、弟は音楽評論家の小松清。筆名は平平平平 (ひらだいらひらへい) 。 8人兄弟の6男として生まれる。東京京華中学から慶應義塾大学商学部に進み、在学中にワグネル・ソサエティーを指揮するが、2年で中退し作曲に専念する。作曲はシュレーカーの門弟である亡命ポーランド人のステファン・ルビエンスキーに師事した。 1927年から1941年まで国民交響楽団を主宰、指揮したが、この楽団の目的は作曲家に発表の機会を、聴衆に鑑賞の機会を共に廉価で提供することにあった。
松田 権六(まつだ ごんろく、1896年〈明治29年〉4月2… 松田 権六(まつだ ごんろく、1896年〈明治29年〉4月20日 - 1986年〈昭和61年〉6月15日)は、日本の蒔絵師。人間国宝。文化勲章受章者。位階は従三位。 1896年、石川県金沢市生まれ。7歳で蒔絵の修業を始める。石川県立工業学校漆工科、東京美術学校漆工科で学ぶ。1943年(昭和17年)、母校である東京美術学校教授に就任。以後36年間にわたって教鞭を取った。 1947年(昭和22年)日本芸術院会員となり、1955年(昭和30年)には人間国宝に認定される。伝統工芸の復興に力を尽くす一方で並木製作所の蒔絵万年筆(ダンヒル・ナミキ)の製作指導といった新しい蒔絵の模索も行っている。1965年著書『うるしの話』で毎日出版文化賞受賞。
堀 経夫(ほり つねお、1896年〈明治29年〉4月20日 … 堀 経夫(ほり つねお、1896年〈明治29年〉4月20日 - 1981年〈昭和56年〉9月18日)は、日本の経済学者。専門は、経済思想史、社会思想史。日本学士院会員。関西学院大学学長、四国学院大学学長を歴任した。 1896年4月20日、函館市生まれ。1920年、京都帝国大学卒業。河上肇に師事。1925年東北大学教授、1932年大阪商科大学 (現在の大阪市立大学) 教授を経て、1948年関西学院大学教授に就任。1955年に、関西学院大学学長(第5代学長)に就任し、同学長を1966年に退任。同年、四国学院大学学長に就任。理論経済学会、経済学史学会、大洋州経済学会など多くの学会の創設以来の会員、幹事、顧問をつとめる。
片岡 恒一(かたおか つねかず、1896年(明治29年)4月… 片岡 恒一(かたおか つねかず、1896年(明治29年)4月19日 - 1952年(昭和27年)4月7日)は、三重県三重郡富洲原町(現在の四日市市富洲原地区)富田一色出身の政治家。衆議院議員(2期)。地方議員(三重県会議員・四日市市会議員)。三重郡富洲原町の教育者。 1896年(明治29年)4月19日、三重県三重郡富洲原町(現・四日市市)に生まれる。富田一色地区の三重県下の富豪で名門の商家であった片岡家(有力者の片岡徳松の一粒種の子供)の一人っ子であった。金持ちの1人息子でボンボンと呼ばれて、片岡氏は北勢四十八家の1つで堺村城主だった片岡家の一族である。型破りの人物で、親譲りの監元買別所(四日市市に立地)と、米穀取引所仲買店(名古屋市に立地)と、回漕店(三重郡富洲原町に立地)を切廻して一分の隙もなかった。
山下 太郎(やました たろう、1896年4月19日 - 19… 山下 太郎(やました たろう、1896年4月19日 - 1970年2月26日)は、日本の実業家。元山下汽船社長、会長。父は山下汽船創業者山下亀三郎。
由木 康(ゆうき こう、1896年4月16日 - 1985年… 由木 康(ゆうき こう、1896年4月16日 - 1985年1月27日)は、日本の牧師、讃美歌作家。日本の讃美歌の発展の中心的な役割を果たし、賛美歌「きよしこの夜」の訳者として知られる。パスカルの研究家で「パンセ」を翻訳した。教育者・郷土史研究者足立正の次男。 鳥取県西伯郡上道村(現境港市)に足立正の次男として生まれ、生後間もなく由木虎松の養子になる。 養父虎松の宣教活動のために、鹿児島、神戸、対馬などに転居する。養父の影響を受けてクリスチャンになり、神戸二中時代に洗礼を受ける。洗礼を受けてすぐの中学3年の時、すでに最初の賛美歌を作った。1914年、死の危険に直面して献身を決意する。関西学院高等学部文科(関西学院大学文学部の前身)で聖書学と神学を専攻する。
松本 毅(まつもと たけし、1896年(明治29年)4月14… 松本 毅(まつもと たけし、1896年(明治29年)4月14日 - 1962年(昭和37年)5月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。山形県鶴岡市出身。開拓使の松本十郎の孫にあたる。
手塚 寿郎(てづか すみお/じゅろう、明治29年(1896年… 手塚 寿郎(てづか すみお/じゅろう、明治29年(1896年)4月12日 - 昭和18年(1943年)5月3日)は、日本の経済学者。小樽高等商業学校(現小樽商科大学)教授や東亜同文書院大学教授を務め、日本への近代経済学の導入を行った。 栃木県出身。宇都宮市立宇都宮商業学校(現栃木県立宇都宮商業高等学校)を経て、無試験入学で小樽高等商業学校(現小樽商科大学)に進学し、1916年に同卒業。1919年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部経済科卒業。福田徳三ゼミ出身。 経済学及び統計学研究のため、1920年から1926年までイギリス、アメリカ、フランスに留学。1921年小樽高等商業学校教授、叙従七位。オーストリア学派などの日本への導入を行った。
鈴木 十郎(すずき じゅうろう、1896年〈明治29年〉4月… 鈴木 十郎(すずき じゅうろう、1896年〈明治29年〉4月8日 - 1975年〈昭和50年〉5月4日)は、日本の政治家。小田原市長(5期)。歌舞伎研究家 。位階は正五位。 現在の神奈川県小田原市出身。 1909年(明治42年)、神奈川県立第二中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)に入学。同級に終生の友となる牧野信一(のち小説家)がいた。早稲田大学英文科中退。早大時代、同人誌「金と銀」「象徴」などを主宰した。読売新聞、朝日新聞、歌舞伎座支配人、松竹系の役員を務めた。 1949年(昭和24年)に小田原市長に初当選し5期務めた。この間、全国市長会副会長、関東市長会会長、国保中央会理事などを務めた。1969年に市長を引退。
萩原 寿雄(壽雄、はぎわら / はぎはら としお、1896年… 萩原 寿雄(壽雄、はぎわら / はぎはら としお、1896年(明治29年)4月8日 - 1981年(昭和56年)9月5日)は、日本の農業関係者、実業家、政治家。衆議院議員。 神奈川県出身。1919年(大正8年)東京帝国大学農科大学実科(現・東京農工大学農学部)を卒業した。 産業組合中央会主事補、全国購買農業協同組合連合会(現・全国農業協同組合連合会)主事、同肥料部長、同常任理事、農林省一般農林水産物価格形成専門委員会専門委員、神奈川県農業会長、同県蚕糸業会長、同県販売農業協同組合連合会長などを務めた。全国購買農業協同組合連合会の創立に加わった。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に神奈川県第3区から国民協同党所属で出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
樋口 助弘(ひぐち すけひろ、1896年4月7日 - 195… 樋口 助弘(ひぐち すけひろ、1896年4月7日 - 1958年8月9日)は、放射線科医師。九州大学医学部講師。東京慈恵会医科大学教授。 日本で放射線が医療に利用されたはじめから、主としてエックス線の利用による診断、治療に関する研究に従事、その成果を数多くの論文に発表し、特に放射線障害の研究、放射線保護物質の研究を行い、1956年(昭和31年)文部省科学研究費による総合研究、特に「放射能の人体最大許容量の決定」については、研究班長としての取りまとめにあたるなど、多方面に大きな足跡を残した。 新潟県南魚沼郡湯沢町出身。新潟県立長岡中学校、第六高等学校卒業。1922年(大正11年)九州帝国大学医学部卒業。
小島 秀雄(こじま ひでお、1896年〈明治29年〉4月5日… 小島 秀雄(こじま ひでお、1896年〈明治29年〉4月5日 - 1982年〈昭和57年〉3月22日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。3度に及ぶドイツ駐在歴があり、戦後には日独友好にも尽力した。 1896年(明治29年)、兵庫県神戸市生まれ。旧制第一神戸中学校を経て、海軍兵学校卒業。 海軍兵学校(第44期)では、入校時成績順位 100名中第5位、卒業時成績順位 95名中第7位と、成績優秀だった。日本海軍には珍しく、自他共に認める親ドイツ派の海軍軍人として鳴らし、そのため部内では、「ドイツ小島」と呼ばれることもあった。 ドイツ駐在は3回に及んだが、同じくドイツとの関係が深く、1938年(昭和13年)からは駐ドイツ大使も務めた陸軍軍人で親ナチスの大島浩とは犬猿の仲だった。
中野 和高(なかの かずたか、1896年(明治29年)4月5… 中野 和高(なかの かずたか、1896年(明治29年)4月5日 - 1965年(昭和41年)3月8日)は、愛媛県出身の日本の洋画家。雅号として「和光」の名を持つ 。 幼年期よりキリスト教の洗礼を受け、1955年(昭和30年)以降は聖イエス教団所属、晩年は熱烈なキリスト教徒として生活した。 1896年(明治29年)4月5日、「北野 和高」として愛媛県大洲に生まれる。1908年(明治41年)、家族と共に宮城県へ転居。 1914年(大正3年)に宮城県立仙台第一中学校を卒業。同年上京、葵橋洋画研究所に入所し黒田清輝に師事。1916年(大正5年)、東京美術学校西洋画科へ入学、1921年(大正10年)同校卒業、研究科へ進む。
山口 昇(やまぐち のぼる、1896年〈明治29年〉4月5日… 山口 昇(やまぐち のぼる、1896年〈明治29年〉4月5日 - 1976年〈昭和51年〉3月20日)は、日本の実業家であり、愛知県を主な販売エリアとする自動車ディーラー・愛知トヨタ自動車の創業者である。愛知県自動車配給社長、愛知トヨタ自動車社長・会長(初代)などを歴任した。 1896年(明治29年)、愛知県碧海郡新川町(現・碧南市)に生まれた。 1913年(大正2年)、慶應義塾商工学校に入学した。在学中は慶應普通部の野球部に所属し、腰本寿監督の下、投手・キャプテンとして1916年(大正5年)の第2回全国中等学校優勝野球大会に出場、投打に活躍し優勝に貢献した。この時のチームメイトには、エドウィン・ダンの三男である日米混血のジョン・ダン、ハワイ出身の日独混血の河野元彦などがいた。
柴田 健太郎(しばた けんたろう、1896年(明治29年)4… 柴田 健太郎(しばた けんたろう、1896年(明治29年)4月 - 没年不詳)は、日本、満洲国の裁判官。 福岡県出身。1914年(大正3年)福岡県立中学修猷館、1917年(大正6年)第一高等学校独法科を経て、1920年(大正9年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。 宮崎地方裁判所、熊本地方裁判所、甲府地方裁判所、千葉地方裁判所、東京地方裁判所、東京控訴院の各判事を経て、1938年(昭和13年)満洲国最高法院審判官となり、1939年(昭和14年)新京高等法院次長に就任。 1943年(康徳10年)6月、新京法政大学学長に就任。
山口 将吉郎(やまぐち しょうきちろう、1896年(明治29… 山口 将吉郎(やまぐち しょうきちろう、1896年(明治29年)3月30日 - 1972年(昭和47年)9月12日)は、山形県鶴岡市出身の日本画家。挿絵画家。 高校時代は、美術講師の小貫博堂に指導を受け、大学時代は、結城素明に師事した。 大学卒業後は、絵画展覧会に作品を出品したり、同人誌などで挿絵を発表する。 その後は、主に小説本などの挿絵を描き、その中でも『神州天馬侠』 吉川英治(著)の挿絵は有名。 従甥に奇人の南画家として知られる服部二柳がいる。
内藤 雋輔(ないとう しゅんぽ、1896年3月30日 - 1… 内藤 雋輔(ないとう しゅんぽ、1896年3月30日 - 1990年5月8日)は、日本の東洋史学者。島根県出身。岡山大学名誉教授。次男は島根大学名誉教授の内藤正中。 1896年(明治29年)、島根県浜田市生まれ。1918年(大正7年)、京都帝国大学文学部史学科(支那史専攻)に入学して東洋史学者の内藤湖南(名字は同じ内藤姓だが血縁関係はない)に師事。卒業後、1929年(昭和4年)から岡山大学の前身である旧制第六高等学校教授を務める。戦後、1949年(昭和24年)、新制岡山大学教授に就任。1961年(昭和36年)、岡山大学を定年退官して名誉教授となる。定年退官後、1973年(昭和48年)までノートルダム清心女子大学教授。
泉山 三六(いずみやま さんろく、1896年(明治29年)3… 泉山 三六(いずみやま さんろく、1896年(明治29年)3月30日 – 1981年(昭和56年)7月7日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲二等。衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)、大蔵大臣(第54代)を歴任。ペンネームは泉山間窓。 山形県東田川郡大和村(現庄内町)小出新田出身。豪農・太田直右衛門の三男として生まれる。後に長じてから青森県八戸の資産家泉山家・5代目泉山吉兵衛の養子となる。子供の頃は手に負えない乱暴者だったという。第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。三井銀行に入行する。ここで三井財閥の大物池田成彬の目に留まり、企画部長、帝国銀行秘書役、同行調査役と栄進した。
波多野 鼎(はたの かなえ、1896年(明治29年)3月30… 波多野 鼎(はたの かなえ、1896年(明治29年)3月30日 - 1976年(昭和51年)9月29日)は、日本の経済学者、政治家。参議院議員(1期)。 愛知県生まれ。1917年旧制八高卒業ののち東京帝国大学に入学、新人会で活動した。1920年法学部英法科卒業ののち南満洲鉄道東亜経済調査局に就職し、前期新人会員により結成された社会思想社に参加した。1922年に同志社大学教授となり、その後九州帝国大学教授を務める。経済学博士。 第二次世界大戦後に日本社会党に入党。1947年、第1回参議院議員通常選挙で福岡県選挙区から参議院議員に当選し、同年成立した片山内閣では平野力三が罷免された後に農林大臣に就任。
栗西 清(くりにし きよし、1896年3月30日 - 197… 栗西 清(くりにし きよし、1896年3月30日 - 1970年11月11日)は、日本の経営者。 東京都出身。1917年に東京高等工業学校応用化学科を卒業し、同年に大日本人造肥料(のちの日産化学工業)に入社。1947年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1957年から1962年までに社長を務めた。 1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1970年11月11日脳軟化症のために死去。74歳没。
伊藤 修(いとう おさむ、1896年3月30日 - 1969… 伊藤 修(いとう おさむ、1896年3月30日 - 1969年6月14日)は、日本の弁護士、政治家。参議院司法委員長および法務委員長(初代)。 名古屋市生まれ。1921年、日本大学法科卒。1922年、弁護士となる。中部日本農民組合および日本農民組合岐阜県連の常任顧問、岐阜市会議員、東亜興業、旭炭鉱、関東重工業、三富士製作所、朝日精機、旭電気工業および日本社会公論の社長、日本社会新聞岐阜県総局長、社会文化大学名誉学長、富田高等女学校理事、岐阜弁護士会会長、岐阜地方裁判所調停委員。1952年、右派社会党岐阜県連委員長。青年民主主義擁護連盟本部会長。浄土真宗。東京都新宿区下落合に龍山荘を構えていた。 1966年4月の春の叙勲で勲二等に叙され、瑞宝章を受章する。
武田 正泰(たけだ まさやす、1896年 <明治29年> 3… 武田 正泰(たけだ まさやす、1896年 <明治29年> 3月29日 - 1969年 <昭和44年> 5月23日)は、日本の経営者。位階は従四位。 愛媛県出身。1916年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に三井倉庫に入社。1943年11月に取締役に就任し、常務を経て、1947年に社長に就任し、1968年5月までに務めた。1959年に藍綬褒章を受章し、1966年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1969年5月23日がん性腹膜炎のために死去。73歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
菊池 武一(きくち たけかず、1896年3月28日 - 19… 菊池 武一(きくち たけかず、1896年3月28日 - 1972年4月24日)は、日本の英文学者、翻訳家。 高松市出身。第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学文学部英文科卒業。國學院大學教授を務め、戦後になって古代文学、歴史研究に重きを置く方向付けに尽力する。また代々木ゼミナールの校長を務めた。子息菊池映二はフランス文学者で明治大学教授を務めた(1929-2002)。 日本の文芸、特に室町時代の謡曲文学、仕舞に造詣が深く、笛もよくした。スコット『アイヴァンホー』訳は、文庫上巻刊行後の1965年に入院し、退院後も執筆を続けたが、下巻の原稿を残して没し、菊池が國學院に迎えた高見穎治が校訂し刊行された。
岡部 金治郎(おかべ きんじろう、1896年〈明治29年〉3… 岡部 金治郎(おかべ きんじろう、1896年〈明治29年〉3月27日 - 1984年〈昭和59年〉4月8日)は、日本の工学者。専門は電子工学。 マグネトロンを実用的なマイクロ波源とする分割陽極マグネトロンを発明し、日本の十大発明家に選ばれた。東北大学で助教授、名古屋高等工業学校、大阪帝国大学、近畿大学で教授を歴任。学士院恩賜賞、文化勲章の受章者。八木秀次に師事。 1896年(明治29年)、名古屋市に生まれる。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を経て、1916年(大正5年)名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)紡織科卒業。1917年1月に高田商会大阪支店に入社、同8月に東北帝国大学理科大学助手を経た後、1918年(大正7年)9月、東北帝国大学理科大学物理科入学。
野村 芳兵衛(のむら よしべえ、1896年3月26日 - 1… 野村 芳兵衛(のむら よしべえ、1896年3月26日 - 1986年11月4日)は、日本の教育者。岐阜県洞戸村(現在の関市洞戸地区)の農家に長男として生まれる。家は浄土真宗で特に親鸞に信仰しており、精神形成に大きな影響を残した。真宗の活動家梅原真隆(しんりゅう)に傾倒し、その言葉「純に生きる」を生涯を通じてのモットーとした。 農家を継ぐことになっていたが、高等小学校を終えた後、校長から代用教員にと嘱望され、准教員を経て岐阜師範学校卒業。地元の小学校、岐阜女子師範学校付属小学校を経て、1924年上京、野口援太郎が自由主義教育の模範校として創立した池袋児童の村小学校の訓導となる。農村の教育に従事してきたため、東京の知識人階層の新思想には馴染めないものを感じ、親鸞の同行二人の思想を借りて、生活を基礎にし共生協力、あるいは協同自治の精神で、みんなが共に学んでいくことのできる場を作っていくことを教師の役割と捉えた。