中野 尊正(なかの たかまさ、1920年6月25日 - 20… 中野 尊正(なかの たかまさ、1920年6月25日 - 2010年6月24日)は、日本の地理学者(地形学・地図学)。(旧)東京都立大学名誉教授。正四位勲三等旭日中綬章。 台湾にて生まれる。台北高等学校を卒業後、上京する。1942年東京帝国大学地理学科卒業後、地理調査所技官に任官。 1962年10月、(旧)東京都立大学教授就任。1984年3月定年退職。 第四紀学の諸分野のうち、地形とくに平野の地形学を発展させ、さらに災害・土地保全研究を行った。 1984年6月 東京都立大学名誉教授。 1994年11月 勲三等旭日中綬章受章。 平成22年6月24日没。享年90。墓所は青山の梅窓院。
津田 清子(つだ きよこ、1920年6月25日 - 2015… 津田 清子(つだ きよこ、1920年6月25日 - 2015年5月5日)は、俳人。奈良県生。奈良女子師範(現在の奈良教育大学)卒。卒業後は小学校教師として勤務。当初は前川佐美雄のもとで短歌を学んでいたが、1948年、橋本多佳子の七曜句会に出席したことをきっかけに俳句に転向。多佳子に師事し「七曜」同人となるとともに、多佳子の師である山口誓子にも師事し誓子の「天狼」に投句。1951年に天狼賞を受賞、1955年「天狼」同人。1971年「沙羅」を創刊、主宰。1986年同誌を「圭」に改称。2000年、第六句集『無方』で第34回蛇笏賞受賞。2012年、「圭」を8月号で終刊。 代表句に「虹二重神も恋愛したまへり」など。
谷川 寛三(たにがわ かんぞう、1920年6月24日 - 2… 谷川 寛三(たにがわ かんぞう、1920年6月24日 - 2015年11月30日)は、日本の官僚、政治家。元自由民主党参議院議員・衆議院議員。元科学技術庁長官。
国枝 利通(くにえだ としみち、1920年6月23日 - 2… 国枝 利通(くにえだ としみち、1920年6月23日 - 2011年3月8日)は、岐阜県岐阜市出身のプロ野球選手(内野手)、野球解説者、実業家。
大崎 映晋(おおさき えいしん、1920年〈大正9年〉6月2… 大崎 映晋(おおさき えいしん、1920年〈大正9年〉6月21日- 2015年〈平成27年〉)は日本の水中写真家・水中考古学者・海女文化研究家。中央大学経済学部卒業、東京藝術大学油絵画科中退。1938年(昭和13年)、トレジャー・ダイバーの第一人者片岡弓八に師事し、海軍水路部勤務などを経て、戦後は名取洋之助の門下に入り、水中写真家として国内外の映画の水中撮影を数多く手掛ける。1960年から1961年(昭和35年-36年)、サンタモニカ国際写真コンクールにてアカデミー賞受賞。1970年(昭和45年)、ジャック・マイヨールが伊豆半島でフリー・ダイビングの世界新記録を出した時に彼をサポートし、以後、ジャックと交遊を続ける。
加藤 隆一(かとう りゅういち、1920年6月21日 - 2… 加藤 隆一(かとう りゅういち、1920年6月21日 - 2011年10月3日)は、元東海銀行頭取、会長。名古屋商工会議所会頭、名古屋銀行協会会長、中経連副会長等を歴任。1996年、英国より大英帝国勲章(司令官CBE)を受勲。愛知県出身。
楠 安夫(くすのき やすお、1920年6月21日 - 200… 楠 安夫(くすのき やすお、1920年6月21日 - 2000年10月9日)は、香川県出身のプロ野球選手(投手、捕手)・コーチ。
酒井 敏夫(さかい としお、1920年6月21日 - 201… 酒井 敏夫(さかい としお、1920年6月21日 - 2012年5月23日)は、日本の医学者・生理学者、東京慈恵会医科大学名誉教授。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
有馬 輝武(ありま てるたけ、1920年(大正9年)6月20… 有馬 輝武(ありま てるたけ、1920年(大正9年)6月20日 - 2003年(平成15年)1月10日)は、昭和期の農林技官、労働運動家、政治家、俳人。衆議院議員(3期)。俳号・明彦(あきひこ)。 後の鹿児島県西之表市出身。海軍予備学生として出征し、海軍中尉で解員(復員)した。1946年(昭和21年)明治大学商学部を卒業した。 復員後は鹿児島食糧事務所勤務で組合運動に従事し、同所の労働組合委員長となる。全食糧労働組合の副委員長に就任するため1948年農林省食糧庁に転じ、農林技官兼農林事務官に任官。その後、全食糧労働組合中央執行副委員長、同中央執行委員長、全農林労働組合中央執行副委員長、同書記長、同中央執行委員長、鹿児島地方労働組合評議会事務局長などを務めた。
北嶋 千代吉(きたじま ちよきち、1920年6月18日 - … 北嶋 千代吉(きたじま ちよきち、1920年6月18日 - 2003年5月16日)は、日本の経営者。秋田県出身。 1942年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に日本軽金属に入社。1973年11月に取締役に就任し、1976年6月に常務、1977年6月に専務を経て、1979年1月に副社長に就任し、同年6月には社長に昇格。1987年6月には相談役に就任。 2003年5月16日肺炎のために死去。82歳没。
原 節子(はら せつこ、1920年〈大正9年〉6月17日 -… 原 節子(はら せつこ、1920年〈大正9年〉6月17日 - 2015年〈平成27年〉9月5日)は、日本の女優。神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町帷子(現在の横浜市保土ケ谷区月見台)出身。本名は會田 昌江(あいだ まさえ)。 戦前から戦後にかけての日本映画を代表する女優のひとりで、「永遠の処女」と呼ばれた。『晩春』(1949年)や『東京物語』(1953年)などの小津安二郎監督作品の出演で知られ、ほか『わが青春に悔なし』(1946年)、『青い山脈』(1949年)、『めし』(1951年)などに出演した。 1963年に女優業を引退し、2015年9月5日に死去するまで隠遁生活を送った。 神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町帷子(現在の横浜市保土ケ谷区月見台)で、尾上町で生糸商を営む父・藤之助、母・ナミの間に末っ子として生まれた。
木野 工(きの たくみ、1920年(大正9年)6月15日 -… 木野 工(きの たくみ、1920年(大正9年)6月15日 - 2008年(平成20年)8月3日)は、日本の小説家。 北海道旭川市生まれ。旭川中学校(現・北海道旭川東高等学校)、北海道帝国大学工学部卒業。1943年に海軍予備学生として横須賀海兵団に入団。占守島派遣や内地転属を経て終戦を迎える。北海日日新聞創刊に参加し、新聞合併を経て北海タイムスの記者として勤務。文化部長や論説委員を務めた。その傍ら1949年より旭川の文芸同人誌「冬濤」に参加。1952年より同誌編集責任者を務めた。旭川市の郷土史研究書である『旭川今昔ばなし』も著した。
江橋 慎四郎(えばし しんしろう、1920年(大正9年)6月… 江橋 慎四郎(えばし しんしろう、1920年(大正9年)6月14日 - 2018年(平成30年)4月8日)は、日本の体育学者。専門は社会体育学・レクリエーション学。東京大学名誉教授。 神奈川県鎌倉市生まれ。旧制湘南中学(現在の神奈川県立湘南高等学校)から、旧制二高を経て東京帝国大学文学部に入学した。学生時代には体育会系の水泳部マネジャーと体育会の総務を務めていた。当時の大学生は徴兵が猶予されていたが、兵力不足を補うため、江橋ら文系の学生の学徒出陣が決定した。 戦後、文部省体育局勤務などをへて、東京大学教授。その後鹿児島大学教授や中京大学教授を歴任した。さらに、日本初の国立体育系単科大学である鹿屋体育大学の創立に尽力し初代学長となる。
坂野 常和(さかの つねかず1920年6月14日 - 201… 坂野 常和(さかの つねかず1920年6月14日 - 2011年7月10日)は、日本の実業家。元日本化薬社長。元大蔵省証券局長。父は坂野常善(海軍中将)、叔父は坂野鉄次郎(逓信官僚)、岳父は原安三郎(日本化薬社長・会長)。
駒井 哲郎(こまい てつろう、1920年(大正9年)6月14… 駒井 哲郎(こまい てつろう、1920年(大正9年)6月14日 - 1976年(昭和51年)11月20日)は、昭和期の日本の銅版画家、東京藝術大学教授。 油絵や色彩版画の作品も少数あるが、生涯にわたり一貫してエッチングを制作し、モノクロームの世界で、自己の内面、幻想、夢などを表現し続けた。作風は、パウル・クレーの影響が濃い抽象的・幻想的なもの、樹木や風景を繊細で写実的なタッチで描いたものなどがある。大岡信(詩人、評論家)、安東次男(詩人)ら文学者との交流も多く、安東とのコラボレーションによる詩画集『からんどりえ』(1960年)は、版画と詩を同じ紙に刷った、日本では初の試みと言われている。棟方志功、浜口陽三など、同時代の版画家に比べやや地味な存在ではあるが、日本美術界では長らくマイナーな分野であった銅版画の普及と地位向上に貢献した作家として高く評価されている。
梅棹 忠夫(うめさお ただお、1920年6月13日 - 20… 梅棹 忠夫(うめさお ただお、1920年6月13日 - 2010年7月3日)は、日本の生態学者、民族学者、情報学者、未来学者。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、京都大学名誉教授、理学博士(京都大学、1961年)。従三位勲一等瑞宝章。日本中東学会初代会長を務めた。 1963年に発表した「情報産業論」はセンセーションを巻き起こした。今では当たり前の言葉になった「情報産業」という言葉を初めて用いた。 1964年には自身を中心とした若手研究会による私的研究会「万国博覧会を考える会」を発足。小松左京が万博に参加するきっかけを作った。 「京大式カード」の生みの親でもある。 アフガニスタン、東南アジアなどを実地踏査し、世界を西欧と日本の第一地域と、それ以外の第二地域とから成るとした『文明の生態史観序説』(1957年)を発表した。
岡田 英次(おかだ えいじ、1920年〈大正9年〉6月13日… 岡田 英次(おかだ えいじ、1920年〈大正9年〉6月13日 - 1995年〈平成7年〉9月14日)は、日本の俳優。千葉県銚子市生まれ。身長166cm。慶應義塾普通部を経て、慶應義塾大学経済学部を卒業。 1946年、村山知義の第2次新協劇団に入団。1949年に『花の素顔』で映画デビュー。 1950年、今井正監督の『また逢う日まで』で久我美子の相手役を演じたことで一躍注目を浴びる。 「新協劇団」分裂後の1954年、劇団青俳を木村功らと設立。後に現代人劇場を経てフリーに。『真空地帯』『ここに泉あり』などの話題作に次々と出演したほか、1959年にはアラン・レネ監督の『二十四時間の情事』に出演。世界的にも知られることに。
伊舎堂 用久(いしゃどう ようきゅう、1920年〈大正9年〉… 伊舎堂 用久(いしゃどう ようきゅう、1920年〈大正9年〉6月12日 - 1945年〈昭和20年〉3月26日)は、日本の陸軍軍人。沖縄戦の陸軍特攻第一号。最終階級は陸軍中佐。石垣島出身。 沖縄県石垣島登野城出身。父・伊舎堂用和は公務員で教育熱心であった。日清戦争、日露戦争に従軍、石垣島出身で初の金鵄勲章を受けている。父の宮古島への赴任 (裁判所勤務) に伴い旧制沖縄県立宮古中学校に入学、翌年再び父の転勤で那覇に戻り沖縄県立第二中学校に転校、同窓に、後に初代自衛隊沖縄地方連絡部長となる又吉康助がいる。その後陸軍予科士官学校入学。1941年(昭和16年)7月、陸軍士官学校卒業。伊舍堂は歩兵を希望していたが、陸軍の航空隊の増設方針で転科を余儀なくされたという。
塚原 雄太(つかはら ゆうた、1920年(大正9年)6月12… 塚原 雄太(つかはら ゆうた、1920年(大正9年)6月12日 - 2011年(平成23年)12月30日)は、日本の教育者、教育研究家。 1920年(大正9年)6月12日、栃木県に生まれる。1944年(昭和19年)に法政大学経済学部を繰り上げ卒業する。学徒出陣で陸軍東部第17部隊に入隊し、1945年(昭和20年)に敗戦により復員する。復員後、土木労務者、米軍PXのバーテンダー、露天商組合事務員などを経て、1947年(昭和22年)に東京荒川区の荒川区立第七中学校の教員となる。1954年(昭和29年)に荒川区立第九中学校にうつり、1957年(昭和32年)から1981年(昭和56年)まで同校第二部(夜間学級)で教鞭をとった。
泉田 喜義(いずみだ きよし、1920年(大正9年)6月10… 泉田 喜義(いずみだ きよし、1920年(大正9年)6月10日 - 没年不明)は、長崎県出身のプロ野球選手。 鎮西学院中学校から1940年に東京巨人軍へ入団。「チョコ投げの泉田」と呼ばれ、落ち着きのない投球フォームに定評があった。1942年に応召される。戦後は川南造船に在籍した。2003年に出版された澤宮優の『巨人軍史上最強の捕手』において、取材協力者の1人として名を連ねている。
日高 八郎(ひたか はちろう、1920年6月10日 - 19… 日高 八郎(ひたか はちろう、1920年6月10日 - 1997年1月10日)は、日本の英文学者。社会学者の日高六郎の弟。 中国・青島生まれ。父(1875-1951)は長崎県壱岐島出身、東京外国語専門学校支那語科を出て北京大使館に勤めたあと商店を開いていた。少年時代は『暁』という家庭内新聞を発行した。1945年東京帝国大学英文科卒。指導教授は中野好夫。旧制府立高校教授を皮切りに旧・東京都立大学講師を経て1952年東京大学教養学部助教授、のち教授。1981年定年退官後、東京大学名誉教授、東海大学教授。1996年春、勲三等旭日中綬章受勲。 専門はシェイクスピア及び現代英文学。現代英文学の研究対象はチャールズ・ディケンズ、ロバート・ルイス・スティーヴンソン、D・H・ロレンス、T・S・エリオット、サマセット・モーム、オルダス・ハクスリー、ジョゼフ・コンラッド、キャサリン・マンスフィールド等多岐に渡る。
秋山 庄太郎(あきやま しょうたろう、1920年〈大正9年〉… 秋山 庄太郎(あきやま しょうたろう、1920年〈大正9年〉6月8日 - 2003年〈平成15年〉1月16日)は、日本の写真家。 日本広告写真家協会名誉会長、日本写真家協会名誉会長、全日本写真連盟副会長、日本写真協会副会長、日本写真芸術専門学校初代校長、日本デザイナー学院校長を歴任。二科会写真部創立会員。 紫綬褒章、勲四等旭日小綬章受章。 中学生の時に好きな女の子ができ、その子の顔をいつも眺めていたかったためにカメラに興味を持ち、パーレットを買ってもらったが、使い方が難しく、ぶつけてタスキを曲げてしまいピントが出なくなってしまった。その次に入手したのはバルディで、中学の修学旅行にて奈良の若草山でススキが逆光に光るのを撮影し想像以上の良い写真ができたことから写真が面白くなり始めた。
垣花 秀武(かきばな ひでたけ、1920年6月8日 - 20… 垣花 秀武(かきばな ひでたけ、1920年6月8日 - 2017年1月27日)は、日本の核物理学者、核化学者、文明評論家。 名古屋大学、東京工業大学名誉教授。瑞宝中綬章受章者。正四位。 東京出身。両親は沖縄県出身。東京帝国大学理学部卒。東京工業大学助教授、1958年教授。1977年国際原子力機関事務次長兼研究・同位体局長。 1970年代から80年代当時は、今日と違って国際原子力機関の幹部は圧倒的大多数が欧米出身で、垣花だけが唯一の欧米以外出身の科学者であり、副局長(次長から昇進)まで務め上げた。これは、後述するウラン濃縮も画期的効率化、海水からの核物質抽出考案・成功などの実績をあげてきたことが大きい。
古舘 曹人(ふるたち そうじん、1920年6月6日 - 20… 古舘 曹人(ふるたち そうじん、1920年6月6日 - 2010年10月28日)は、日本の俳人。佐賀県杵島郡出身。本名・六郎。 父の古舘九一は、杵島炭鉱で高取伊好の大番頭役を務めた実業家で、晩年は唐津焼の再興に尽力した収集家でもあった。唐津中学(現佐賀県立唐津東中学校・高等学校)、五高、東京大学法学部卒。在学中に学徒出陣を経験。東大ホトトギス会に入会し山口青邨に師事、俳句雑誌「夏草」の編集をする。 1947年、太平洋炭鉱に入社。1979年、句集『砂の音』で俳人協会賞受賞。俳人協会顧問。太平洋興発の副社長も務めた。2010年、老衰のため90歳で死去。
山本 啓四郎(やまもと けいしろう、1920年6月6日- 1… 山本 啓四郎(やまもと けいしろう、1920年6月6日- 1990年11月23日 )は、日本の経営者。日清紡績社長、会長を務めた。 東京都出身。1943年に慶應義塾大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日清紡績に入社した。1967年6月に取締役に就任し、1969年6月に常務、1972年12月に専務を経て、1973年5月に社長に就任。1979年7月に会長に就任し、1980年7月から1985年7月までに監査役を務めた。 1990年11月23日、転移性脳腫瘍のために死去。70歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
赤桐 操(あかぎり みさお、1920年6月5日 - 2010… 赤桐 操(あかぎり みさお、1920年6月5日 - 2010年6月21日)は、日本の政治家。位階は正三位。勲等は勲一等。参議院議員(日本社会党→社会民主党)。参議院副議長(第21代)。 千葉県銚子市出身。千葉県立匝瑳中学校卒業後、銚子郵便局に就職した。1946年に同局の従業員組合の委員長に選出された。1949年、全逓信従業員組合(日本郵政公社労働組合の前身)の千葉地区本部書記長、1960年には県労働組合連合協議会議長に選出されて1974年までの14年の間務めた。 1974年の第10回参議院議員通常選挙に千葉地方区から日本社会党公認で立候補し初当選。連続当選4回。党参議院議員会長などを経て、1992年8月から1995年8月まで参議院副議長を務めた。
栗原 祐幸(くりはら ゆうこう、1920年〈大正9年〉6月5… 栗原 祐幸(くりはら ゆうこう、1920年〈大正9年〉6月5日 - 2010年〈平成22年〉6月1日)は、日本の政治家。位階は正三位。 防衛庁長官、労働大臣、衆議院議員(7期)、参議院議員(2期)を務めた。長男は沼津市長や衆議院議員を務めた栗原裕康。 静岡県田方郡中郷村(現三島市)の生まれ。東京府立第八中学校、佐賀高等学校文科甲類を経て1944年東京帝国大学法学部卒業。学徒出陣により中国に出征する。軍隊時代に上官を殴打するなど、若い頃から鼻っ柱が強い性格だった。 戦後、栗原は東大時代の恩師である南原繁より、「戦前の日本は優秀な人材が官僚組織や軍部に集中して民間の裾野が手薄になり、権力の暴走をくい止めることができなかった。
卓 庚鉉(たく・こうげん、タク・キョンヒョン、朝鮮語: 탁경… 卓 庚鉉(たく・こうげん、タク・キョンヒョン、朝鮮語: 탁경현、1920年6月5日 - 1945年5月11日)は、大日本帝国陸軍軍人、朝鮮人特攻隊員。日本名は光山文博。 1920年に慶尚南道で生まれ、京都府の立命館中学校、京都薬学専門学校を卒業する。1943年10月、特別操縦見習士官一期生に合格し、鹿児島県知覧にあった大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所に赴任する。1944年10月には陸軍少尉に任官する。 1945年5月11日、戦闘機の隼にて出撃、沖縄飛行場西海面で戦死した。没後、二階級特進で大尉となった。 出撃の前日、富屋食堂の鳥濱トメに自身が朝鮮人ということを明かした上で、アリランを歌ったというエピソードが有名である。
北川 晃二(きたがわ こうじ、1920年6月4日 - 199… 北川 晃二(きたがわ こうじ、1920年6月4日 - 1994年2月27日)は、日本の編集者、ジャーナリスト、小説家。フクニチ新聞社社長。 福岡県添田町出身。 1938年福岡県中学修猷館を経て、1943年西南学院高等部英文科を卒業。 北京日本大使館調査課報道班に勤務。応召によって北支派遣軍第63師団から久留米師団に転属、同地で終戦を迎えた。 復員後、福岡市の図書出版惇信堂に入社し、南風書房を設立。1946年6月、真鍋呉夫らと文芸誌「午前」を創刊。創刊号に掲載された小説「逃亡」が火野葦平に賞賛され、第1回九州小説賞を受賞。編集者として檀一雄、三島由紀夫らの寄稿を得るなど手腕を発揮する一方、新鋭作家として注目され東京の文芸誌「群像」などに作品を発表した。
笠原 和夫(かさはら かずお、1920年6月3日 - 199… 笠原 和夫(かさはら かずお、1920年6月3日 - 1998年4月10日)は、大阪府出身のプロ野球選手(外野手)・監督。
松井 源吾(まつい げんご、1920年6月3日 - 1996… 松井 源吾(まつい げんご、1920年6月3日 - 1996年1月11日)は、日本の構造家。早稲田大学建築学科で長く教鞭をとりながら、菊竹清訓や黒川紀章など著名な建築家と数多くの建築を生み出してきた構造設計者の一人である。学外では、構造設計事務所ORS事務所を創設し、設計活動を展開した。また、現場打ち中空ボイドスラブ工法など、研究開発した工法も多数。早稲田大学退官後は、構造設計の賞として松井源吾賞を創設。構造エンジニア、構造設計者らの育成と地位の向上にも力を注いでいた。 代表作に、菊竹清訓や黒川紀章など一連の建築作品における構造設計、早稲田大学理工学部51号館(1967年)、中銀カプセルタワービル(1972年)、BIGBOX高田馬場(1973年)、世田谷美術館(1985年)、坂茂の紙の家(1995年)の構造設計など多数。
植村 家隆(うえむら いえたか、1920年(大正9年)6月2… 植村 家隆(うえむら いえたか、1920年(大正9年)6月2日 - 1981年(昭和56年)5月18日)は日本の実業家。日本生命保険元専務取締役。ニッセイ児童文化振興財団(現:ニッセイ文化振興財団)常務理事。日本インターナショナル整流器監査役。旧子爵・旧大和高取藩第16代当主。東京都港区在籍。従五位。 東京都出身。旧大和高取藩第15代当主・植村家治の次男として生まれる。1944年(昭和19年)神戸商業大学(現:神戸大学)卒業後、1946年(昭和21)10月日本生命保険に入社。1968年(昭和43年)東京総務部長、1971年(昭和46年)取締役、1974年(昭和49年)常務、1979年(昭和54年)専務に就任。
今堀 和友(いまほり かずとも、1920年6月1日 - 20… 今堀 和友(いまほり かずとも、1920年6月1日 - 2016年5月8日)は、日本の生化学者。東京大学名誉教授。大阪府大阪市出身。父は教育者・心理学者の今堀友市、兄は東洋史学者・今堀誠二、生物学者・今堀宏三。弟子に2016年度ノーベル生理学・医学賞受賞者である大隅良典がいる。
吉田 俊秀(よしだ としひで、1920年6月1日- 1986… 吉田 俊秀(よしだ としひで、1920年6月1日- 1986年7月7日)は、日本の遺伝学者・哺乳類学者。 元国立遺伝学研究所細胞遺伝部長、東京医科大学客員教授。北海道大学理学部動物学科卒業、北大では牧野佐二郎教授の弟子。1954年、北海道大学より「ネズミ腫瘍の細胞学的、組織学的研究」で理学博士を取得。1986年7月7日午後零時55分、肝不全のため、東京都新宿区西新宿の東京医大病院で死去、66歳。1964年日本遺伝学会賞受賞。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
小川 弘(おがわ ひろし、1920年6月 - 2010年7月… 小川 弘(おがわ ひろし、1920年6月 - 2010年7月17日)は、日本の哲学者・大学教授。 日本統治下の台湾・台北市に生まれる。1944年に東京商科大学を卒業。1954年に東京教育大学文学部哲学科哲学の助教授になる。認識論を研究する。1978年に筑波大学教授になる。1984年に筑波大学を定年退職。1988年に八千代国際大学政治経済学部哲学担当教授になる。1996年に八千代国際大学を退職。2010年7月17日に死去、90歳没。 東京教育大学の筑波移転問題にからんで、慎重な姿勢を取った文学部と、積極的だった理学部を中心とする部分の間には、大学の意思決定機関だった評議会の運営をめぐる軋轢があった。
辰野 千寿(たつの ちとし、1920年(大正9年)5月31日… 辰野 千寿(たつの ちとし、1920年(大正9年)5月31日 - 2016年(平成28年)1月20日)は、日本の教育心理学者、筑波大学・上越教育大学名誉教授。 長野県上伊那郡西春近村(現伊那市)生まれ。旧制伊那中学(長野県伊那北高等学校)を経て、1944年東京文理科大学心理学科卒、愛知青年師範学校教授、1948年東京文理科大学助手、1955年東京教育大学助教授、1961年「学習における禁止及び促進の研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得、1967年教授、1973年筑波大学副学長、1976年辞任、1978年上越教育大学学長、1990年退官、勲三等旭日中綬章受勲。応用教育研究所長、学校教育研究所理事長。
神戸 淳吉(かんべ じゅんきち、1920年5月31日 - 2… 神戸 淳吉(かんべ じゅんきち、1920年5月31日 - 2011年8月10日)は、日本の児童文学作家。東京府出身。日本大学専門部社会科卒。社会福祉施設などに勤務。1950年いぬいとみこ、佐藤さとるらと同人誌「豆の木」を創刊。1955年作家となる。動物文学や偉人伝を描くことが多かった。日本児童文学者協会・日本児童文芸家協会会員。
秦 謹一(はた きんいち、1920年(大正9年)5月30日 … 秦 謹一(はた きんいち、1920年(大正9年)5月30日 - 2006年(平成18年)8月17日)は、日本の工学者。北海道工業大学名誉教授・北海道大学名誉教授である。徳島県徳島市出身。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
志場喜徳郎(しば きとくろう、1920年5月29日 - 19… 志場喜徳郎(しば きとくろう、1920年5月29日 - 1994年7月5日)は日本の大蔵官僚。 和歌山県出身。1942年7月 高等試験行政科を合格。東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年9月に大蔵省入省。主税局国税課。主に税制(主税、国税)畑を歩む。1964年7月3日 国税庁調査査察部長。1966年7月22日 大臣官房財務調査官(証券局担当)。1967年8月4日 東京国税局長。1968年6月15日 日本銀行政策委員会大蔵省代表理事。1969年8月6日 証券局長。1971年6月11日 退官。1972年2月8日 市況情報センター(現:QUICK)社長(〜1984年)。1984年 同会長。1987年1月 QUICK会長(〜1992年)。
西村 兵部(にしむら ひょうぶ、1920年5月28日 - 1… 西村 兵部(にしむら ひょうぶ、1920年5月28日 - 1976年6月3日)は、美術史学者。 大阪府大阪市生まれ。関西学院専門部文学部英文科を経て1944年台北帝国大学文政学部史学科卒業。奈良の育英高等学校教諭の後、1948年奈良国立博物館に勤務、1961年資料室長、1964年普及室長、1967年資料室長、学芸課長、1972年大阪市立美術館長となった。染織工芸史の研究を専門とし、正倉院宝物の古裂調査を宮内庁より委嘱された。1976年6月3日、心筋梗塞のため京都の鞍馬口病院で死去。従五位勲五等双光旭日章を追贈された。
羽鳥 輝久(はとり てるひさ、1920年5月28日 - 19… 羽鳥 輝久(はとり てるひさ、1920年5月28日 - 1997年1月28日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 東京都千代田区は神田駿河台に生まれ、幼少時に港区の芝へ移った。1932年、慶應義塾幼稚舎6年生の時に三田綱町道場にて柔道を始める。当時から肥満体であったため夏は少し動いただけでも大汗をかき、熱心に稽古をしているように見られて思わぬ景品を受けた事もあったという。3年後には講道館へ入門し飯塚国三郎9段(のち10段)の内弟子となって、同年5月に初段、11月には2段に昇段。また、この頃に併せて指導を受けた中野正三7段(のち10段)は子供相手にも惜しみなく受身を取ってくれたので、羽鳥を含めて幼年組の生徒達は技の体得が早かったという。
北原 文枝(きたはら ふみえ、1920年5月28日 - 19… 北原 文枝(きたはら ふみえ、1920年5月28日 - 1980年10月6日)は、日本の女優、声優である。本名、阿部 房枝。夫は俳優の安部徹。 東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)出身。日本大学芸術学部卒業。北村喜八と村瀬幸子が1937年に結成した芸術小劇場で活動を始めた。1944年2月に劇団俳優座が設立されると、村瀬とともに参加。俳優座が御殿場に疎開すると、1945年に離脱し、独立した。 戦後しばらくはラジオを中心に活動した。NHKのクイズ番組や、文化放送の「冗談音楽」にレギュラーとして出演した。1953年、田中絹代監督『恋文』に端役で初出演した。1955年9月、当時所属していたプレーヤーズ・センターの事務員が北原や三木鶏郎など複数のタレントのギャラを何度も横領し、キャバレー代に使っていたと報道される。
石井 忠重(いしい ただしげ、1920年〈大正9年〉5月25… 石井 忠重(いしい ただしげ、1920年〈大正9年〉5月25日 - 2007年〈平成19年〉8月10日)は、昭和時代の政治家。神奈川県厚木市長。厚木市名誉市民。 神奈川県愛甲郡南毛利村(現厚木市愛名)出身。神奈川県立厚木中学校(現神奈川県立厚木高等学校)を経て、1941年(昭和16年)東京高等工業学校機械科(現東京科学大学)を卒業し、逓信省航空試験所に入り、1942年(昭和17年)現役入隊。1945年(昭和20年)復員。1951年(昭和26年)南毛利農協専務理事、1954年(昭和29年)南毛利地区農業委員長を経て、1955年(昭和30年)厚木市議会議員に当選。1959年(昭和34年)2月、38歳の若さで厚木市長に就任した。
白崎 秀雄(しらさき ひでお、1920年5月25日-1992… 白崎 秀雄(しらさき ひでお、1920年5月25日-1992年2月22日)は、作家、美術評論家。福井市出身。 法政大学修了。1966年「真贋」で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。伝記小説に新境地を開き、骨董、書画、日本絵画、篆刻などの関連著作が多い。北大路魯山人を世に広めた人物としても知られる。魯山人の芸術性・技術的な特異性を鋭く評価した。
増田誠(ますだ まこと、1920年(大正9年)5月24日 -… 増田誠(ますだ まこと、1920年(大正9年)5月24日 - 1989年(平成元年)4月9日)は、日本の画家。洋画家。 山梨県南都留郡谷村町下谷(現在の都留市谷村町下谷)に生まれる。父は理容店を営む清治郎で、誠は次男。母はかね。幼い頃より絵が得意で、中学時代には似顔絵の天才と賞されたという。 1931年(昭和6年)には父の清治郎が死去。谷村尋常高等小学校、山梨県立都留中学校(現在の山梨県立都留高等学校)を経て、山梨師範学校(現在の山梨大学)を卒業。1938年(昭和13年)には吉田尋常高等小学校の教員となり、富士上吉田町(現在の富士吉田市上吉田)の西念寺の離れに下宿する。翌1939年8月には退職し、同年11月には国華工業へ就職する。
岡橋 四郎(おかはし しろう、1920年〈大正9年〉5月24… 岡橋 四郎(おかはし しろう、1920年〈大正9年〉5月24日 - 1999年11月)は、日本の政治家。元奈良県橿原市長(1期)。 奈良県出身。1939年〈昭和14年〉旧制畝傍中学校(現・奈良県立畝傍高等学校)卒。卒業後は住友金属に入社。1947年〈昭和22年〉に退社し、家業の米穀肥料店で働く。1979年〈昭和54年〉奈良県議会議員に当選。3期務め、1988年〈昭和63年〉に副議長に就任した。1991年〈平成3年〉橿原市長選挙に立候補するが、落選。1992年〈平成4年〉現職の辞職による市長選挙に立候補し、当選する。市長を1期務め、1995年〈平成7年〉に退任した。
小栗 浩(おぐり ひろし、1920年5月22日 ‐ 2020… 小栗 浩(おぐり ひろし、1920年5月22日 ‐ 2020年10月10日)は、日本のドイツ文学者。文学博士(北海道大学・論文博士・1968年)。東北大学名誉教授。 北海道函館市生まれ。弟はフランス史学者の小栗了之。小樽中学校(4年修了)、弘前高等学校を経て、1941年東京帝国大学文学部独文科卒業。1946年、松本高等学校講師、教授。1948年、北海道大学法文学部助教授。1959年から1960年にかけてヨーロッパに留学し、1964年、北海道大学文学部教授。1968年、「「西東詩集」研究 その愛を中心として」により、文学博士(北海道大学)の学位を取得。1973年、東北大学教授、1984年定年退官、名誉教授、日本大学文理学部教授となり、1990年に定年退任。
大久保 慎七(おおくぼ しんしち、1920年(大正9年)5月… 大久保 慎七(おおくぼ しんしち、1920年(大正9年)5月22日 - 2015年(平成27年)2月1日)は、第10-12代東京都小金井市長。 東京府北多摩郡小金井村(小金井町を経て、現在の東京都小金井市)で生まれる。東京府立第二商業学校(のち東京都立第二商業高等学校)卒。小金井市土地開発公社理事長、総務部長、1979年-1985年助役を経て、1987年市長に初当選。3期つとめ、1999年引退。税理士、不動産鑑定士を務めた。趣味は謡曲。 1985年の周辺住民の反対を受けてその後も迷走する小金井ごみ問題の当事者。任期中も解決できず、引退後市長に当選した稲葉孝彦も意向を受けた。 2000年、勲四等瑞宝章受章。
川上 喜八郎(かわかみ きはちろう、1920年(大正9年)5… 川上 喜八郎(かわかみ きはちろう、1920年(大正9年)5月22日 - 1983年(昭和58年)1月20日)は、日本の政治家。1975年から1982年まで新潟県新潟市長を務めた。 新潟市出身。1938年(昭和13年)新潟県立新潟中学校(現・県立新潟高等学校)卒業後、県局長、県職労委員長をへて、1975年(昭和50年)の新潟市長選に日本社会党、日本共産党の推薦を得て立候補。「人間都市新潟」をスローガンに初当選を果たし、新潟市では初、新潟県内では6番目の革新市政となる。1982年(昭和57年)12月14日、体調不良により2期目の任期を約4ヶ月残し辞任する。 1983年1月20日、食道癌により新潟市の新潟市民病院で死去。
小島 清(こじま きよし、1920年5月22日 - 2010… 小島 清(こじま きよし、1920年5月22日 - 2010年1月7日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。専門は国際経済学。 1920年愛知県名古屋市中区流町の困窮小売商・瀬見井家に生まれる。1938年愛知県商業学校(現愛知県立愛知商業高等学校)卒業(首席)。同年小島家の養子となる。1938年名古屋高等商業学校(現名古屋大学)に無試験入学、1941年同卒業、1943年9月東京商科大学(現一橋大学)(赤松要ゼミナール)を繰り上げ卒業、同年同大特別研究生となる。大学附属東亜経済研究所所員時代、江口定条初代如水会理事長が軍需省から大学キャンパスを守るため、キャンパス内に学生などが住めるよう設立した如水寮に居住。