加能 作次郎(かのう さくじろう、1885年〈明治18年〉1… 加能 作次郎(かのう さくじろう、1885年〈明治18年〉1月10日 - 1941年〈昭和16年〉8月5日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家。石川県羽咋郡西海村風戸(現・志賀町西海風戸〈さいかい ふと〉)出身。苦難の少年期を過ごし、早大在学中に「厄年」で登場。「世の中へ」で地位を確立し、自然主義の流れをくむ人情味豊かな私小説に独自の境地を拓いたが、昭和に入り低迷した。 少年時代、京都の伯父に預けられて育てられた作次郎は、早稲田大学文学部英文科を卒業した後、博文館に入社し、『文章世界』の主筆として翻訳や文芸時評を発表する。1918年(大正7年)に私小説「世の中へ」で認められ、著作家として活躍する。
下村 正助(しもむら しょうすけ、1885年(明治18年)1… 下村 正助(しもむら しょうすけ、1885年(明治18年)1月9日 - 1953年(昭和28年)7月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。山形県米沢市出身。 日中関係が不穏な時期に下村は第10戦隊司令官に就任した。下村は日本海軍の通信系統、即ち、北京海軍駐在武官→旅順→東京→佐世保→高雄→第三艦隊旗艦出雲から、佐世保、高雄を省略することで、日華事変が勃発した当日に出雲艦上においていち早く事変発生の情報を入手した。第三艦隊司令長官長谷川清と会談中のことであった。
木山義喬(きやま よしたか、1885年1月9日 - 1951… 木山義喬(きやま よしたか、1885年1月9日 - 1951年4月24日)は日本の洋画家、およびHenry Y. Kiyamaのペンネームで主にアメリカ合衆国で活動した漫画家。鳥取県日野郡出身。 1885年(明治18年)1月9日、鳥取県日野郡根雨の油屋に生まれる。県立第二中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)に進学するが、家産が傾き中退。1904年(明治37年)、19歳のときに伯父を頼って日系移民の一大拠点であったサンフランシスコに移民する。木山は画才に優れ、ハウスボーイ(下男)や農業労働者など、雑多な仕事で生活を支えながらサンフランシスコの絵画コンクールに投稿を重ね、1915年(大正4年)から1920年(大正9年)の間に複数の受賞を得る。
工藤 義雄(くどう よしお、1885年(明治18年)1月7日… 工藤 義雄(くどう よしお、1885年(明治18年)1月7日 - 1940年(昭和15年)11月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 岡山県出身。工藤敏夫の二男として生まれる。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)3月、陸軍士官学校(17期)を卒業し、翌月、歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊付となる。1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を卒業した。 1916年(大正5年)12月、教育総監部付となり、同課員、陸軍兵器本廠付兼陸軍省軍務局課員、軍務局課員兼参謀本部員、歩兵第9連隊大隊長、同連隊付、陸士教官、参謀本部員などを務め、1928年(昭和3年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵第6連隊長に就任。
西 成甫(にし せいほ、1885年1月6日 - 1978年8… 西 成甫(にし せいほ、1885年1月6日 - 1978年8月17日)は、日本の解剖学者、エスペラント運動家。東京帝国大学名誉教授。医学博士。西成度の孫。 東京出身。早稲田中学、第一高等学校、東京帝国大学医学部卒。大沢岳太郎に師事。1911年ハイデルベルク大学へ留学し、M. Furbringer, H. Brausに師事。1915年東北帝国大学教授、1922年東京帝国大学教授、1945年定年退官、名誉教授、49年群馬大学学長。1945-1966年日本エスペラント学会理事長。弟子には浦良治など。祖父は裁判官で第6代大審院長を務めた西成度。 1978年8月17日、心不全のため神奈川県横浜市の国立横浜病院にて死去。
井上 清(いのうえ きよし、1885年(明治18年)1月6日… 井上 清(いのうえ きよし、1885年(明治18年)1月6日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)に伊藤正誼の四男として生まれ、井上周富の養子となった。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。朝鮮総督府臨時土地調査局監査官、忠清南道第二部長、咸鏡北道第一部長、財務局税務課長、咸鏡南道内務部長、京畿道内務部長を歴任した。1929年(昭和4年)より朝鮮煙草元売捌株式会社専務取締役、同社長を務めるが、1931年(昭和6年)に京城府尹に任命された。1933年(昭和8年)には逓信局長に就任した。 1936年(昭和11年)に退官した後は、南朝鮮水力電気株式会社社長、朝鮮電力株式会社専務取締役などを務めた。
朝倉 八郎(あさくら はちろう、旧姓・杉浦、1885年〈明治… 朝倉 八郎(あさくら はちろう、旧姓・杉浦、1885年〈明治18年〉1月6日 - 1950年〈昭和25年〉)は、日本の商人(米穀商)、恵美須米穀問屋組合長、地主、家主、東洋青物市場会社員。合名会社常磐松商会代表社員。 愛知県碧海郡旭村(現・碧南市)生まれ。杉浦太市の八男。朝倉徳次郎の養子。1908年、家督を相続した。米穀商を営む。また地家主で、東洋青物市場会社員であった。 宗教は日蓮宗。趣味は書画、旅行。東京在籍。住所は東京市渋谷区猿楽町、同区向山供託社アパート内。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
瀬川 深(せがわ ふかし、1885年1月5日 - 1948年… 瀬川 深(せがわ ふかし、1885年1月5日 - 1948年)は、岩手県出身の医師、歌人・俳人である。雅号として藻外を名乗った。 1885年(明治18年)1月5日、岩手県江釣子村(現・北上市)の瀬川早水の三男に生れる。のちに、同族の医師の瀬川雅夫の養子となった。実父の早水は1846年(弘化3年)に村宿の長男として生まれ、のちに江釣子小学校を創設。1899年から1903年まで同村の助役を務めたのち板垣退助が率いる自由党のもとでの自由民権運動を推進した。 深は旧制盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)に入学。同学年にはともに医師を志した小林茂雄や岡山儀七、一級上には歌人の石川啄木がおり、さらに先輩には金田一京助や及川古志郎、野村胡堂らがいた。
山本 実彦(やまもと さねひこ、1885年〈明治18年〉1月… 山本 実彦(やまもと さねひこ、1885年〈明治18年〉1月5日 - 1952年〈昭和27年〉7月1日)は、日本のジャーナリスト。改造社社長。雅号は亀城。 鹿児島県高城郡水引郷大小路村(現在の鹿児島県薩摩川内市大小路町)出身。1885年(明治18年)1月、にて鍛冶屋山本庄之助の長男として出生する。実彦が小学生の頃に生家の経済状況が悪化、困窮を極めたことから旧制鹿児島県立川内中学校を自主退学。自ら働くことを決意して沖縄に渡り、離島にて1902年(明治35年)に代用教員の職を得る。 1904年に19歳で上京、郵便及び筆耕屋の仕事の傍ら日本大学法律科を卒業。『門司新報』『やまと新聞』記者を経て、1915年(大正4年)に東京毎日新聞社(現在の毎日新聞とは資本関係はない)社長に就任。
宮川 一貫(みやかわ いっかん、1885年(明治18年)1月… 宮川 一貫(みやかわ いっかん、1885年(明治18年)1月5日 - 1944年(昭和19年)3月25日)は、昭和期の政治家、柔道家。衆議院議員。
広野 規矩太郎(廣野、ひろの きくたろう、1885年(明治1… 広野 規矩太郎(廣野、ひろの きくたろう、1885年(明治18年)1月4日 - 1961年(昭和36年)12月21日)は、大正から昭和時代前期の政治家、銀行家。衆議院議員(1期)。 実業家・広野織蔵の長男として滋賀県犬上郡彦根江戸町(彦根町を経て現彦根市)に生まれる。彦根中学校(現滋賀県立彦根東高等学校)、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)京都帝国大学法科大学政治科を卒業。横浜正金銀行に入行し、本店、大阪、神戸各支店にて勤務。1920年(大正9年)1月、父が頭取を務める百三十三銀行に移り専務取締役に就任した。 のち百三十三銀行、滋賀貯蓄銀行、近江信託、琵琶湖ホテル各取締役、滋賀銀行取締役、同頭取、同会長を歴任する。
伊藤 吉之助(いとう きちのすけ、1885年(明治18年)1… 伊藤 吉之助(いとう きちのすけ、1885年(明治18年)1月4日 - 1961年(昭和36年)7月7日)は、日本の哲学者。 1885年、山形県酒田市で生まれた。旧姓は須田。生家は雑貨卸商であった。 1903年に山形県立荘内中学校を卒業し、第一高等学校 に入学。一高を卒業後は東京帝国大学文学部哲学科に進学。同期生には安倍能成、小山鞆絵、宮本和吉らがいた。また、同郷であった阿部次郎と宮本和吉と合わせて「庄内の哲学三羽烏」と呼ばれた。1909年、卒業論文「カントを中心とした空間論」を提出して同大学を卒業。卒業後は同大学大学院に進み、5年間在籍した。 1911年から1918年まで、東京帝国大学副手を務めた。
鶴見 祐輔(つるみ ゆうすけ、1885年〈明治8年〉1月3日… 鶴見 祐輔(つるみ ゆうすけ、1885年〈明治8年〉1月3日 - 1973年〈昭和48年〉11月1日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本の官僚、政治家、著述家。衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)、厚生大臣。 英語を得意とし、第二次世界大戦にかけて米国の対日世論が厳しくなる時期に、現地での講演や出版などを通じて民間外交に尽力した。 1885年(明治8年)1月3日、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)で、官営新町紡績所の工場長をしていた父・良憲と、母・琴子の次男、10人きょうだいの第四子として生まれる。一家は1895(明治28年)年9月に東京市赤坂へ、翌1896(明治29年)年1月に父の郷里である岡山県へ転居した。
佐々木 仙太郎(ささき せんたろう、1885年〈明治18年〉… 佐々木 仙太郎(ささき せんたろう、1885年〈明治18年〉1月3日 - 1957年〈昭和32年〉11月23日)は、日本の商人(米穀商、味噌商)、政治家。大阪府貝塚市長(初代)。 大阪府泉南郡麻生郷村津田(現・貝塚市)出身。仙右衛門の長男。米穀商人となり、岸和田市本町に玄米問屋を開いて江州米などを売り、堂島北浜に乗出す。玄米問屋を見切ると津田に帰り、精米所、精麦所を起す。 味噌製造販売業を営む。貝塚町助役となる。1937年3月に岡本市治郎貝塚町長が急逝、後任に町長代理助役佐々木が指名され、同年5月に貝塚町長に就任する。1941年、貝塚町長に留任する。 1943年5月に貝塚町市制を施行、市長臨時代理者に佐々木が任命され、同年7月に初代貝塚市長に就任する。
中村 孝也(なかむら こうや、1885年(明治18年)1月2… 中村 孝也(なかむら こうや、1885年(明治18年)1月2日 - 1970年(昭和45年)2月5日)は、大正・昭和期の日本の歴史学者。東京帝国大学名誉教授。専門は日本近世史。文学博士(東京帝国大学、1926年)。群馬県出身。 1885年(明治18年)1月、群馬県高崎に生まれる。父は士族で小学校教員の中村勝弥、母は小学校嘱託教員の中村とく。「孝也」の名は、『孝経』を典拠とした。幼少の頃から漢籍に造詣の深かった父より漢学を学び、5歳の時、母が勤務する神戸尋常小学校へ見学児として通学、以後複数の学校に転校するも、いずれも抜群の成績で進級した。1899年(明治32年)、14歳の時に小学校准教員検定試験に合格。
福永 尊介(ふくなが たかすけ、1885年〈明治18年〉1月… 福永 尊介(ふくなが たかすけ、1885年〈明治18年〉1月2日 - 1929年〈昭和4年〉1月30日)は、日本の内務官僚。県知事。 北海道厚岸郡太田村で福永磨理輔の長男として生まれる。山口高等学校を経て、1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。1909年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り樺太庁属となる。 以後、樺太庁事務官、同理事官兼専売局副参事(函館専売支局樺太出張所長)、青森県理事官、和歌山県警察部長、警視庁衛生部長、東京府内務部長などを歴任。 1924年6月、清浦内閣により福井県知事に登用されたが、翌月、加藤高明内閣により更迭された。1927年5月、千葉県知事に就任。
藤井 真信(ふじい さだのぶ、1885年(明治18年)1月1… 藤井 真信(ふじい さだのぶ、1885年(明治18年)1月1日 – 1935年(昭和10年)1月31日)は、日本の財政家、大蔵官僚。大蔵大臣。 徳島県麻植郡牛島村(現・吉野川市)に、藤井市三郎の四男として生まれる。生家は古くから藍商を営む名家であった。徳島中学校、第三高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学独法科を首席で卒業。高文試験16番目(180人中)で大蔵省に入省する(配属先は専売局書記)。主に税務畑を歩み、1923年9月19日、蔵相事務担当秘書官(〜1926年11月11日)、1924年6月6日、主税局国税課長併任(〜1926年11月11日)、同年12月20日、大臣官房秘書課長併任(〜1926年11月11日)、1926年11月5日、東京税務監督局長、1927年7月17日、主税局長、1929年7月4日、主計局長と順調に昇進を重ね、1934年5月に高橋是清蔵相の下で大蔵次官に就任する。
上原 種美(うえはら たねよし、1885年(明治18年)1月… 上原 種美(うえはら たねよし、1885年(明治18年)1月1日 - 1950年(昭和25年)10月30日)は、日本の教育者、文部官僚。 山梨県出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学農科大学を卒業。農商務省嘱託、文部属、文部省督学官、同図書官、同事務官、実業学務局農業教育課長などを歴任し、その間東京高等師範学校教授を兼ねた。1921年(大正10年)、三重高等農林学校校長に就任し、1939年(昭和14年)には東京農業教育専門学校校長となった。戦後の1946年(昭和21年)から霞ヶ浦農科大学学長を務めた。 その他、日本農業教育会会長、大日本教育会副会長、全国学農連盟副会長、実業教育振興会理事長、日本青年館理事などを務めた。
永田 寛定(ながた ひろさだ、1885年1月1日 - 197… 永田 寛定(ながた ひろさだ、1885年1月1日 - 1973年8月2日)は、日本のスペイン文学者、翻訳家。 東京生まれ。1909年東京外国語学校西斑牙語科卒業、戦後、東京外国語大学教授を務めた。スペイン文学の翻訳、教育に尽くした。 岩波文庫で、セルバンデス『ドン・キホーテ』完訳に挑んだが、徹底的に直す翻訳作業で、行の頭にこの字が来てはいけない、といった直し方を続けたため、続編の翻訳半ばで死去、弟子の高橋正武が継いで、最終巻を刊行した。なお『ドン・キホーテ』は、弟子の会田由が先に完訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
栗原 大島太郎(くりはら おおしまたろう、1885年(明治1… 栗原 大島太郎(くりはら おおしまたろう、1885年(明治18年)1月23月 - 1975年(昭和50年)5月10日)は、大正から昭和期の医師、実業家、政治家。衆議院議員、長崎県南高来郡加津佐町長。 長崎県南高来郡加津佐村(加津佐町を経て現南島原市)で、栗原一角の五男として生まれ、1916年(大正5年)10月に家督を相続した。1913年(大正2年)熊本医学専門学校(現熊本大学医学部)を卒業した。 医師を開業(回生医院)した。長崎県医師会代議員、美加登製糸所長、加津佐繭市場 (株) 取締役、信用組合顧問理事、加津佐町漁業組合長などを務めた。 政界では、加津佐町会議員、同町長、南高来郡会議員、長崎県会議員、同副議長、消防組頭、方面委員などを務めた。
茅原 基治(かやはら もとじ、1885年 - 1942年)は… 茅原 基治(かやはら もとじ、1885年 - 1942年)は、日本の航海士・船長。 岡山県小田郡北川村(現在の岡山県笠岡市)出身。旧制金光中学校卒業。 ロシア革命時、800名程の子供がサンクトペテルブルクからウラル地方を経てウラジオストクへ逃れ難民状態にあった。その子供たちを太平洋から大西洋を横断してフィンランドまで茅原が船長を務める陽明丸で送り届けた。 墓は岡山県笠岡市にあり、岡山県に親戚がいる。 難民の子孫に出会った篆刻家の北室南苑の尽力により、茅原基治の親戚と難民の子孫とを結ぶことができ、墓参りが実現されるとともに茅原基治らの功績が広く知られるようになった。
清水 真澄(しみず ますみ、1885年 - 1954年)は、… 清水 真澄(しみず ますみ、1885年 - 1954年)は、高知県土佐郡河内街北門筋(現在の高知市永国寺町)出身で高知市役所に勤務した行政職員。 昭和初期から戦後復興期まで高知市役所で、高知市の都市計画、土木工事に対し都市計画創成期から戦後復興期まで20数年間携わった人物。高知市の土木部長や建設局長を務め、昭和の百々越前と呼ばれた。そして日本最初の沈下橋とされる柳原沈下橋の架橋を推進。 高知県立海南中学校を卒業して高知大林区署に勤務。4年後高知県庁に移り、土木課配属。高知公園の整備と五台山公園設立に携わり、技術を体得。1919年の都市計画法公布後、高知市にも都市計画調査委員会が設置された。以降適用指定で行政を進めるため、1924年1月に高知市土木課長に就任。
小玉 新太郎(こだま しんたろう、1885年 - 1923年… 小玉 新太郎(こだま しんたろう、1885年 - 1923年)は、日本の化学者。1913年に鰹節のうまみ成分がイノシン酸であることを発見した。 1903年(明治36年)に愛媛県立松山中学校を卒業した。1907年(明治40年)3月に東京高等師範学校の数物化学部を卒業した。1910年(明治43年)12月に京都帝国大学理学部純正化学科を卒業した。京都帝国大学時代は久原躬弦門下であった。 その後、鈴木製薬所(現在の味の素)に入り、池田菊苗の指導の下で東京帝国大学で研究に従事した。このとき、鰹節のうまみ成分がイノシン酸であることを発見した。 1923年に死去した。
可知 貫一(かち かんいち、1885年 - 1956年)は、… 可知 貫一(かち かんいち、1885年 - 1956年)は、日本の農業土木技術者、研究者。岐阜県出身。円筒分水工の発明者。 岐阜県恵那郡阿木村(現在の中津川市阿木)出身。父の与一は東野村小学校初代校長や阿木村村長を務め、自由民権活動家。母方の祖父の鷹見豊次郎も巌邑尋常高等小学校の校長で、貫一は同校の高等科に通った。 岐阜中学校を経て明治40年(1907年)に第六高等学校 (旧制)卒業、東京帝国大学農科大学農学科へ進み明治43年(1910年)卒業して東京高等農林学校で教鞭を執る。 明治45年(1911年)に岐阜県へ技師として赴任。円筒分水工を考案し、大正3年(1914年)に可児郡小泉村に第1号が設置された。
服部 健三(はっとり けんぞう、1885年 <明治18年> … 服部 健三(はっとり けんぞう、1885年 <明治18年> - 1942年 <昭和17年>)は、日本の薬学者。東京帝国大学医科薬学科卒、薬学博士、東京帝国大学教授、勲三等瑞宝章。専門は、ビタミン、コレステロールなど。 服部貞の二男として大阪に生まれる。東京帝国大学医科薬学科出身。丹波敬三の下で衛生裁判化学を研究し、第一次世界大戦中の薬品欠乏の危機に際しては優良薬品製造に寄与した。戦後、留学先のアメリカのハーバード大学からフランクフルトのコロイド化学研究所に留学し、所長ベッヒホルドHeinrich J. Bechhold(1866―1937)に師事し最先端のコロイド化学を学んだ。東京帝大助教授を経て、1924年衛生裁判化学講座担当教授となり、酵素・コロイド化学の新分野を導入。
阿南 常一(あなみ つねいち、1885年 - 1958年)は… 阿南 常一(あなみ つねいち、1885年 - 1958年)は日本のジャーナリスト。後藤新平の秘書役的立場で都市計画法令の制定、都市計画機構の創設などに努力を傾注した。都市計画の啓蒙普及に40年にわたって献身した。 大分県山香町に生まれる。若くして大阪に出て、次いで同郷の政治家元田肇を頼って上京し、その下で修業を積む。 1909年、明治大学卒業。1912年、東京市水道課(現在の東京都水道局)に就職し、村山貯水池の土地買収では地元民との折衝に尽力する。その後、東京通信社を経て、1916年1月に報知新聞社の記者となる。 日本の近代都市計画が制度化されるのは、1918年(大正7年)、内務大臣後藤新平が都市計画調査の予算を付け、内務省に都市計画課が誕生、都市計画調査会が設置され、翌1919年に旧都市計画法と市街地建築物法が公布されてからである。
南 新助(みなみ しんすけ、1885年(明治18年) - 1… 南 新助(みなみ しんすけ、1885年(明治18年) - 1972年(昭和47年))は、日本最初の旅行会社の創業者。日本の団体旅行、企画旅行の草分け。 滋賀県栗太郡草津町(現 草津市)生まれ。東海道本線敷設の際、路線と草津駅建設の用地を無償提供するなど尽力した父が1889年(明治22年)、草津駅構内でただ一人国鉄立売営業権を与えられていたため、うばがもちや弁当の販売を家業としていた。その傍らそれに飽き足らず、「何か汽車を使って新しいことができないか」と日々考え続けていた。 南はある時、400人以上であれば汽車賃が半額になるということを知り、1905年(明治38年)旅行斡旋業の日本旅行会(今の日本旅行)を創業し、高野山参拝、伊勢神宮参拝を企画し実行した。
相馬 其一(そうま きいち、1885年 - 1966年)は、… 相馬 其一(そうま きいち、1885年 - 1966年)は、新潟県出身の洋画家。浦和画家。 新潟県新発田市に生まれる。1905年(昭和38年)に上京し、白馬会研究所に入り黒田清輝に師事した。1919年(大正8年)、帝展に「信濃路」出品し特選を受賞。光風会会員。埼玉県の浦和転居後は高田誠を指導した。
岡田 惣一郎(おかだ そういちろう、1885年〈明治18年〉… 岡田 惣一郎(おかだ そういちろう、1885年〈明治18年〉 - 1927年〈昭和2年〉)は、四日市岡田家・岡田屋の6代目当主である。5代目当主の岡田惣右衛門の甥で養子。 5代目四日市岡田家当主の岡田惣右衛門夫妻は不妊症で、子どもが生まれなかった。「このままでは岡田屋が滅亡する。夫婦養子をとろう」となり、惣右衛門の妹の岡田ひさが婿養子をもらうこととなった。婿養子となったのは、前田末吉。イオンの社史など史料で詳しい経歴が公開されていないため家柄などの出自が判明していない人物である。前田末吉は、貿易関係者であった。貿易商人として朝鮮半島と関係があり、四日市西町の紙商店である鍵忠の奉公人として修業し、勤勉に働いていた男性だった。
増田 正宗(ますだ せいそう、1885年 - 1966年)は… 増田 正宗(ますだ せいそう、1885年 - 1966年)は、明治から昭和にかけての日本画家、本名は久太郎。実業家の増田通二の父。
櫻田 清芽(さくらだ きよめ、1885年(明治18年) - … 櫻田 清芽(さくらだ きよめ、1885年(明治18年) - 1958年(昭和33年)12月31日)は、大正から昭和時代前期の政治家。青森県弘前市長。 青森県津軽郡弘前植田町(中津軽郡弘前植田町を経て現:弘前市植田町)に生まれる。弘前中学校を卒業後、明治大学予科に学ぶ。帰郷後は教員などを経て、1910年(明治43年)陸奥日報社に入社し、編集長、弘前新聞主筆兼社長を歴任する。 その間、弘前市会議員を26年、青森県会議員を20年務め、1951年(昭和26年)4月、弘前市長に就任した。中津軽郡11箇村との合併などを実現し、1955年(昭和30年)4月に満期退官。その後は、1957年(昭和32年)より県公安委員長を務めたが、任期中に急逝した。
國府 尽平(こうの じんぺい、1885年(明治18年) - … 國府 尽平(こうの じんぺい、1885年(明治18年) - 1956年(昭和31年)4月30日)は、日本の海軍軍人、医師。海軍中佐で予備役となったのち、医学博士号を取得した。 海軍兵学校35期。福島県北会津郡湊村(現・会津若松市)出身。 國府は二度改名しており、旧名は横倉房吉と穴澤房吉である。会津中学から府立一中に転校し、海兵の席次は172中名123番であった。同期生に近藤信竹、高須四郎、野村直邦などがいる。海兵35期の遠洋航海は「松島」が火災沈没事故を起こし、乗組んでいた國府は救助されたが、同期生30名以上が犠牲となっている。海軍将校として装甲巡洋艦・常磐、戦艦・富士、特務艦・朝日、呉海兵団、横須賀防備隊などで勤務した。
山脇 正治(やまわき まさはる、1885年 - 1959年1… 山脇 正治(やまわき まさはる、1885年 - 1959年12月24日)は、東京府出身のアマチュア野球選手、プロ野球監督。 旧制早稲田中学(現・早稲田中学校・高等学校)時代に早稲田大学野球部の創設者である安部磯雄に見いだされ、早稲田大学野球部に入部。捕手として「早稲田のエース」河野安通志を支え、1903年の第一回早慶戦や1905年の米国遠征に参加する。1907年から1910年まで早稲田大学野球部キャプテンを務め、1910年のハワイ遠征を以て大学野球を引退。そのままアメリカに残り、9年後の1919年11月に帰国。 早稲田大学野球部主将時代の1908年11月22日にアメリカ合衆国から米大リーグ選抜チームであるリーチ・オール・アメリカンチームが来日し、戸塚球場で早稲田大学野球部との試合を行った際に、早稲田大学創設者の大隈重信が日本野球史上初となる始球式を行うことになり、早稲田の先頭打者として打席に立った山脇が大隈の投じた一球をわざと空振りしたことが現在に伝わる始球式の形態になっていると言う。
荻田 常三郎(おぎた つねさぶろう、明治18年(1885年)… 荻田 常三郎(おぎた つねさぶろう、明治18年(1885年) - 大正4年(1915年)1月3日)は、滋賀県初の飛行操縦士、日本の民間飛行家の先駆者。 滋賀県愛知郡島川村(後の八木荘村、現愛知郡愛荘町島川)に呉服商・善三郎の嫡子として生まれた。明倫小学校を経て同志社中学を中退後、陸軍歩兵第9連隊に一年志願兵として入営、少尉となった。当初は自転車に関心があり、各地で競技会に参加していたが、陸軍在職中に深草練兵場で武石浩玻の事故死を目撃したことで飛行機に興味を持ち、除隊後家業を手伝う傍らで手に入る限りの飛行書を集め、飛行学校に入学するため大正2年(1913年)9月フランスに留学し、パリ郊外のヴェリジー=ヴィラクブレー飛行場(フランス語版)(現ヴィラクブレー空軍基地)にあるモラーヌ・ソルニエ飛行学校(L'école de pilotage Morane-Saulnier à Villacoublay )に入学した。
佐竹 僴一郎(さたけ かんいちろう、1885年 - 1937… 佐竹 僴一郎(さたけ かんいちろう、1885年 - 1937年3月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は騎兵大佐。 高知県香美郡田村(現在の南国市)に生まれる。共立学校、海南学校(現在の高知県立高知小津高等学校)を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、陸軍騎兵少尉に任官。 陸軍騎兵学校教導隊長、陸軍士官学校馬術部教官、朝鮮龍山騎兵第28連隊長、豊橋陸軍教導学校騎兵隊長などを歴任。1936年(昭和11年)満洲に派遣され佐竹部隊長として活躍中に公傷を負い、翌年3月16日没。
石黒 魯平(いしぐろ ろへい、1885年(明治18年) - … 石黒 魯平(いしぐろ ろへい、1885年(明治18年) - 1956年(昭和31年)7月21日)は、日本の言語学者。学位は、文学博士。駒澤大学教授。「標準語の父」と言われる。 愛知県知多郡小鈴谷村の石黒重郎平の二男として生まれる。常滑市「鈴渓義塾」出身。東京帝国大学言語科卒業。東京高等師範学校附属中学校教諭ののち駒澤大学教授に就任。 文理大学講師、台北高校教諭を経て、1948年、法政大学石岡予科教授就任。 1956年『「標準語」原論 』で駒澤大学より文学博士の学位を授与される。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
周 竜光(しゅう りゅうこう、繁体字: 周龍光; 簡体字: … 周 竜光(しゅう りゅうこう、繁体字: 周龍光; 簡体字: 周龙光; 拼音: Zhōu Lóngguāng; ウェード式: Chou Lung-kuang、1885年(清光緒11年) - ?)は、中華民国の政治家。字は二為。 日本に留学し、東京帝国大学を卒業した。帰国後は北京大学教授、督弁魯案事宜公署秘書を歴任している。1925年(民国14年)からは、北京政府で司法部参事や特別関税会議専門委員を務めた。1928年(民国17年)、中国大学副校長となっている。 しかし同年6月、周竜光は国民政府に転じて外交部第二司司長に抜擢され、翌1929年(民国18年)1月には外交部亜洲司司長となった。その後、北平市政府参事に移り、1931年(民国20年)12月10日に天津市長代理に就任した(病気を理由に辞任した張学銘の後任)。
山本 安曇(やまもと あずみ、1885年 - 1945年3月… 山本 安曇(やまもと あずみ、1885年 - 1945年3月4日)は日本の鋳金美術家、本名は山本 菊一。 長野県南安曇郡有明村(現・安曇野市)に生まれる。旧制京北中学卒業後、郷里の小学校で教鞭をとり、研成義塾で井口喜源治の薫陶を受け、明治40年(1907年)東京美術学校(現東京藝術大学)鋳金科に入学。成績優秀で香取秀真の信望を受け、また在学中から同郷の荻原守衛(碌山)と親交を深め、その作品の鋳造に着手する。同45年(1912年)卒業。大正2年(1913年)青壺会、同7年(1918年)金人会、同13年(1924年)光爐会、同14年(1925年)工芸済々会などの結成に参加した。 昭和2年(1927年)第8回帝国美術院展(帝展)に出品した「三光(朧銀燭台)」で初入選し、同7年(1932年)帝展に「盤(果物盛器)」を出品し、審査員となる。
横河 一郎(よこがわ いちろう、1885年(明治18年) -… 横河 一郎(よこがわ いちろう、1885年(明治18年) - 1938年(昭和13年)6月2日)は、日本の通信事業経営者、株式会社横河電機製作所(現・横河電機)初代取締役社長。 日本を代表する建築家である横河グループ創業者・横河民輔の甥。父の横河震八郎は横河橋梁製作所(現・横河ブリッジ)の取締役を務めた。 1885年(明治18年)生まれ。電機学校(現・東京電機大学)卒業後、逓信省電気試験所に入所。当時、建築の設計監督を行っていた叔父である横河民輔から電気が民間にも行渡る時代が到来することを予見した話を聞き、将来日本では電気計測器が必要であると考えた。 1912年(明治45年)民輔の勧めによりドイツに留学。
殷 汝耕(いん じょこう、1885年〈明治18年〉 - 19… 殷 汝耕(いん じょこう、1885年〈明治18年〉 - 1947年〈昭和22年〉12月1日)は、中華民国の政治家。中国同盟会に属した革命派の人物で、民国期には中国国民党に加入している。後に、親日地方政権である冀東防共自治政府の政務長官となった。字は亦農。兄は殷汝驪。 地方名望家の家庭に生まれ、1902年(明治35年)に日本に留学した。日本文学院で日本語を学んだ後、1905年(明治38年)に第一高等学校予科に入学した。その翌年には、鹿児島第七高等学校造士館に転入している。この頃、留学生の間で革命思想が流行していたこともあって、留学中に中国同盟会に参加した。なお、殷汝耕は日本留学中に日本人女性と結婚している。
木下 茂(きのした しげる、1885年 - 1966年)は福… 木下 茂(きのした しげる、1885年 - 1966年)は福岡県出身の実業家。山一證券の会長をはじめ、多くの企業で要職を歴任した。 1885年(明治18年)5月28日、福岡県八女郡上広川村で西村武助の三男として出生。長崎市・木下キチの養子となり、1912年(明治45年)その家督を相続した。翌1913年(大正2年)に早稲田大学商学部を卒業すると三菱合資会社に入社。長崎支店で勤めた後、1915年に小池合資会社へ転じた。1917年(大正6年)4月、小池合資は山一合資へと改組。1926年(大正15年)には山一證券株式会社となる。茂は同社大阪支店長を経て専務となり、社長の太田収が急逝した1938年(昭和13年)の12月に社長に選任される。
三田 光一(みた こういち、1885年 - 1943年)は、… 三田 光一(みた こういち、1885年 - 1943年)は、日本の自称透視能力者。御船千鶴子、長尾郁子、高橋貞子らとともに福来友吉によって発掘された「超能力者」の一人。 宮城県気仙沼市生まれ。1933年に、福来友吉の発案により岐阜市で行なった、月の裏側の念写で知られる。 1931年6月24日と1933年11月12日に当時見ることのできなかった月の裏側の念写に成功したとされたが、これは長年検証できなかった。 アポロ計画の際アメリカ航空宇宙局(NASA)が発表した、実際に撮影された月の裏側の写真と三田が念写した写真を比較すると、三田の写真には実際の月の裏側にはほとんど存在しない「海」を思わせる黒い部分が写し出されている点や、月よりはるかに暗く見える星が月と同じ明るさで写っていたり、星の配置がランダムでなく人間の手で描いた特徴があるなど、似ても似つかないほど異なっている。
関田 為平(せきだ ためへい、1885年 - 1956年)は… 関田 為平(せきだ ためへい、1885年 - 1956年)は、高知県長岡郡大篠村(現 南国市)の社会教育家。 社会教育家。明治18年10月29日長岡郡大篠村 大そね乙1746(南国市)に生まれる。父可通、母喜代。県立第一中学校をへて、第一高等学校3年を中退する。高知市に無料施療所を開設し、大正6年頃には高知県連合青年団を結成して副会長 となり、長岡郡連合会長を兼任した。処女団を創設、部落解放運動として部落内青年団、処女団運動を起こす。からわら貧しい優秀な青年には学資を提供した。大正8年県会議員に当選。また大篠村長 や修養団高知県連合会 理事を務め希望社や生長の家にも関係する。こうした運動に 30町歩ほどの所有地を投入した。