野間 三郎(のま さぶろう、1912年5月5日 - 1991… 野間 三郎(のま さぶろう、1912年5月5日 - 1991年12月4日)は、日本の地理学者。兄は国文学者の野間光辰。 兵庫県神戸市生まれ。1930年に旧制大阪府立高津中学校卒業。1933年に旧制大阪高等学校卒業。1936年に京都帝国大学文学部史学科地理学専攻卒業。1941年に京都帝国大学講師。大東亜戦争中、室賀信夫、小牧実繁らと関係していたため、公職追放された。1946年に同大学を退職。 その後、第三高等学校講師、京都新聞社出版部、毎日新聞社調査部を経て、1952年に立命館大学教授。1959年、金沢大学教授。1962年に「近代地理学の潮流 十九世紀地理学史研究」で京都大学より文学博士の学位を取得。
中沢 茂一(なかざわ もいち、1912年(明治45年)5月5… 中沢 茂一(なかざわ もいち、1912年(明治45年)5月5日 - 2004年(平成16年)11月20日)は、衆議院議員(日本社会党)。 長野県上水内郡芋井村(現長野市)生まれ。昭和12年(1937年)日本大学政治学科卒。桜田製作所に入社し、保険組合常務となり、同19年(1944年)奥田製油所南方総局長兼シンガポール所長として現地に赴任、敗戦で帰国した。同22年(1947年)米倉龍也の秘書となり、長野県農協連合会嘱託、県農民連盟常任参与、信越林産工業協同組合理事長などを歴任した。 昭和27年(1952年)第25回衆議院議員総選挙に長野県第1区から初当選し、同47年(1972年)の第33回衆議院議員総選挙まで断続的に通算8回当選を果たし、主に農政問題に尽力した。
簗瀬 一雄(やなせ かずお、1912年5月5日 - 2008… 簗瀬 一雄(やなせ かずお、1912年5月5日 - 2008年9月14日)は、日本の国文学者、豊橋技術科学大学名誉教授。 東京生まれ。早稲田大学国文科卒業。1960年「俊恵及び長明の研究」で法政大学文学博士。豊田工業高等専門学校教授、1978年豊橋技術科学大学教授、1982年定年退官、名誉教授。 愛知に在住していた1958年から1972年にかけ、著作研究および未刊古典の翻刻私家版「碧冲洞叢書」を謄写版で100冊発行した。歌集も多く刊行している この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
清水 金一(しみず きんいち、本名雄三(のちに武雄)、191… 清水 金一(しみず きんいち、本名雄三(のちに武雄)、1912年5月5日 - 1966年10月10日)は、日本のコメディアン、映画俳優である。浅草の軽演劇、およびトーキー初期を彩るミュージカル・コメディのスターとして知られる。愛称はシミキン。「ハッタースゾ!(ハッ倒すぞ!)」の流行語を生んだほか、「ミッタァナクテショーガネェ(みっともなくてしょうがない)」も有名なフレーズであった。 山梨県甲府市に生まれる。 上京し、1928年(昭和3年)、16歳のときに、浅草オペラの一座を開いていた東京音楽学校声楽科出の清水金太郎に弟子入りし、清水金一を名乗る。このころ一座の女優嶺レイ子との間に1児をもうけている。
岡村 俊昭(おかむら としあき、台湾名:葉天送、1912年5… 岡村 俊昭(おかむら としあき、台湾名:葉天送、1912年5月4日 - 1996年1月25日)は、プロ野球選手。
林 茂(はやし しげる、1912年5月4日 - 1987年7… 林 茂(はやし しげる、1912年5月4日 - 1987年7月3日)は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。専門は日本政治史。 1912年、和歌山県で生まれた。1932年に第一高等学校文科乙類を卒業し、東京帝国大学法学部政治学科に入学。1936年に卒業し、同大学大学院に進学した。1938年に東京帝国大学大学院を退学。 1942年、京城帝国大学法文学部助教授に就任。翌1943年、陸軍に臨時召集、終戦まで過ごした。 1948年、東京大学社会科学研究所助教授に就いた。1956年、同研究所教授に昇格。1973年、東京大学を退任し、名誉教授となった。その後は神奈川大学法学部教授として教鞭をとった。1976年、津田塾大学学芸学部教授に転じた。
細田 吉蔵(細田 吉藏、ほそだ きちぞう、1912年〈明治4… 細田 吉蔵(細田 吉藏、ほそだ きちぞう、1912年〈明治45年〉5月2日 - 2007年〈平成19年〉2月11日)は、日本の運輸官僚、政治家、弁護士。衆議院議員(10期)。正三位勲一等。松江市名誉市民。 長男は衆議院議長、自由民主党幹事長、内閣官房長官、衆議院議員(11期)を歴任した細田博之。 島根県松江市西茶町に細田義一郎、千代乃の間に6人兄弟の4番目として生まれる。生家は、屋号を丸吉印「細田本店」、「細田油店」と称する油卸問屋。実父義一郎の弟・六助、つやの夫妻に子供がいなかったため、生まれてすぐに養子にだされ、養父母に育てられる。養母が薬屋を開いており、両方の店を手伝いながら少年時代を過ごす。
河西 新太郎(かわにし しんたろう、1912年5月2日 - … 河西 新太郎(かわにし しんたろう、1912年5月2日 - 1990年9月8日)は、昭和時代日本の詩人、作詞家。香川県出身。 1912年(明治45年)5月2日、弁護士・河西善太郎の長男として高松市に生まれる。旧制高松中学校を経て東洋大学在学時に東都大詩人連盟等を結成。機関紙「大学詩派」を主宰する他、新東京演劇映画協会文芸部長として多数の脚本を手がけた。その後大学を中退し、同郷の先輩である菊池寛を訪ね「文藝春秋社」への入社を希望するも「詩で飯は食えない」と断られる。1934年(昭和9年)四国民報社に入社。1937年(昭和12年)に東京朝日新聞が主催した「亜欧連絡記録大飛行応援歌」に応募した「行けよ「神風」空遠く」が応募総数約四万五千編の中から一等入選で採用された。
小島 政夫(こじま まさお、1912年5月2日 - 2000… 小島 政夫(こじま まさお、1912年5月2日 - 2000年10月1日)は、日本の経営者。山之内製薬社長、会長を務めた。広島県出身。 1936年に熊本薬学専門学校を卒業し、同年に山之内製薬に入社した。1962年3月に取締役に就任し、1969年8月に常務、1974年8月に専務を経て、1977年3月に社長に就任。1980年3月に会長に就任し、1984年3月に相談役に就任した。 1984年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2000年10月1日肝不全のために死去。88歳没。
紅林 茂夫(くればやし しげお、1912年5月2日 - 20… 紅林 茂夫(くればやし しげお、1912年5月2日 - 2004年3月30日)は、日本の経済評論家。 東京出身。1936年東京商科大学(現一橋大学)卒業、安田銀行入行、戦後改称して富士銀行調査部長、67年常任監査役。経済評論で活躍。のち創価大学教授、90年退職、国際経済研究センター理事長。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
能 登志雄(のう としお、1912年5月 - 1988年2月… 能 登志雄(のう としお、1912年5月 - 1988年2月6日)は、日本の地理学者。専門は、集落地理学など。東北大学教授などを歴任。 長崎県長崎市生まれ。父親は、当時長崎高等商業学校教授であったが、その後転勤を重ね、登志雄は青年期を石川県金沢市で過ごすこととなった。 石川県立金沢第二中学校から第四高等学校 (旧制) 理科甲類を経て、1932年に東京帝国大学理学部地理学科で人文地理学を専攻し、辻村太郎の指導を受けた。地理学科の同期生には木内信蔵、1年後輩には矢沢大二がいた。能は語学に優れ、学生時代から英語やドイツ語に通じていた。 卒業後の1935年、大学院に進学し、辻村との共訳という形でノルベルト・クレープス『人類地理学』の翻訳(1936年)を出したが、1936年に広島陸軍幼年学校教官となり、1941年には陸軍気象部付陸軍技師として予報班に勤務し、さらに1942年には南方派遣野戦気象部隊付予報技術将校として出征して南方各地を転戦した。
東 史郎(あずま しろう、1912年(明治45年)4月27日… 東 史郎(あずま しろう、1912年(明治45年)4月27日 - 2006年(平成18年)1月3日)は、日本の軍人(召集兵)、著述家、社会活動家。 京都第16師団、福知山第20連隊上等兵として南京攻略戦に参加し、南京大虐殺(南京事件)を著書『わが南京プラトーン』で告発した。中国やアメリカ合衆国などでも謝罪活動を続けた。日記の一部記述について元上官と名誉毀損裁判となり、二審まで東日記の記述の公表に公益性は認定されたものの、事実であるかについて客観的証拠がないと判定され、最高裁で上告理由がないとして、そのまま損害賠償を命じられた。 京都府竹野郡間人村(たいざむら)出身。間人小学校を卒業後、1926年(大正15年)に京都府立第二中学校に進学した。
倉若 晴生(くらわか はるお、本名:倉若貞司、1912年4月… 倉若 晴生(くらわか はるお、本名:倉若貞司、1912年4月27日 - 1982年11月26日)は、日本の作曲家。新潟県西頸城郡糸魚川町(現在の糸魚川市)出身。東京府立化学工業学校出身。 江口夜詩に師事し、ポリドールレコード専属作曲家となる。昭和時代初期 - 中期に活動した。 作詞家・詩人の清水みのる、歌手の田端義夫(バタヤン)とのトリオで数々のヒット曲を世に送り出した。生涯に作曲した作品は千曲を超える。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
廣川 シズエ(ひろかわ シズエ、1912年4月24日 - 2… 廣川 シズエ(ひろかわ シズエ、1912年4月24日 - 2008年6月8日)は、日本の政治家、自由民主党衆議院議員(1期)。農林大臣を務めた廣川弘禅の妻。本名は廣川 志津江。 福島県出身。1932年共立女子専門学校(現共立女子大学)卒。青年学校勤務を経て、東京都議会議員となり、青葉学園理事長、同学園中学校、高等学校各副校長、幼稚園長などを務めた。 1967年1月の総選挙を前に夫が急死、その身代わり候補として東京3区から自民党公認で立候補して当選し、衆議院議員を1期務めた。次の1969年の総選挙でも立候補したが、3万票余りと同じ党の小坂徳三郎と賀屋興宣に大差を付けられ落選し、以後、立候補しなかった。
小泉 一郎(こいずみ いちろう、1912年4月23日 - 1… 小泉 一郎(こいずみ いちろう、1912年4月23日 - 1991年10月20日)は、日本の英文学者。 茨城県水戸市生まれ。1937年東京帝国大学文学部英文科卒、1941年同大学院(旧制)満期修了。副手、水戸高等学校教授、茨城大学文理学部助教授、東京女子大学教授、学習院大学文学部教授を歴任。1983年定年退任、名誉教授。 1984年、勲三等瑞宝章を受章。 1991年10月20日、肺炎のため死去。
前田 喜代士(まえだ きよし、1912年4月20日 - 19… 前田 喜代士(まえだ きよし、1912年4月20日 - 1938年1月)は、福井県出身のプロ野球選手。 武生中学では主将で4番中堅手だった。卒業後は慶大に進むも病気で中退。その後、ノンプロの呉羽紡績、日本レイヨンでプレーした。 1936年、名古屋軍の結成に参加し、そのまま入団。最初の公式リーグ戦である1936年春の第一回日本職業野球リーグ戦では左翼手として活躍し、5月17日の東京セネタース(鳴海球場)戦では、石原繁三からランニングホームランを打った。これは球団史上初めての本塁打である(日本プロ野球公式戦でも、同年5月4日に本塁打を打った藤井勇(大阪)に次いで第二号本塁打である)。同年秋の第二回日本職業野球リーグ戦においても12月7日の東京セネタース(洲崎球場)戦で、同じ石原繁三から日本プロ野球公式戦史上初の代打本塁打を打つなど、長打力のある打者として、弱小・名古屋軍を支えた。
池松 武之亮(いけまつ たけのすけ、1912年〈明治45年〉… 池松 武之亮(いけまつ たけのすけ、1912年〈明治45年〉4月20日 - 1990年〈平成2年〉5月23日)は、日本の医師。 いびき研究における世界的先駆者。 熊本県津奈木村(現・津奈木町)生まれ。父親が病院を開業した大分県竹田市荻町で育つ。大邱医学専門学校(現・慶北大学校医科大学)および千葉医科大学(現・千葉大学医学部)を卒業し、東京逓信病院および野田病院に勤務した。 1942年(昭和17年)に千葉県野田市にて池松耳鼻咽喉科を開業。いびきが原因で一夜にして離婚を言い渡された女性の治療をきっかけにいびきの研究をはじめ、39年間で8,000例以上のいびき手術を行った。1982年(昭和62年)にパリで開催された「第1回世界いびき学会」で名誉会長に就任した。
松本 竣介(まつもと しゅんすけ、1912年4月19日 - … 松本 竣介(まつもと しゅんすけ、1912年4月19日 - 1948年6月8日)は、日本の洋画家。太平洋戦争が始まる8ヶ月前の1941年(昭和16年)4月、軍部による美術への干渉に抗議して、美術雑誌『みづゑ』437号に「生きてゐる画家」という文章を発表したことはよく知られている。都会の風景やそこに生きる人びとを、理知的な画風で描いた。 1912年(明治45年)に東京府渋谷に生まれ、その後、岩手県で育った。17歳になる年に再び上京し、その後は東京で絵を描き続けた。一方、文筆活動の活発だった画家でもある。中学にあがった時に聴力を失った。1944年(昭和19年)制作の作品以降、名前の文字を、本名の「俊介」から「竣介」に改めた。
源氏 鶏太(げんじ けいた、1912年〈明治45年〉4月19… 源氏 鶏太(げんじ けいた、1912年〈明治45年〉4月19日 - 1985年〈昭和60年〉9月12日)は、日本の小説家。富山市出身。旧制富山商業学校(現・富山県立富山商業高等学校)卒。本名、田中富雄。 住友合資会社勤務の傍ら小説を書き始め、『英語屋さん』ほか2編で直木賞受賞。『三等重役』『停年退職』『天上大風』など、長いサラリーマン生活からの体験に基づいたユーモア小説で人気を博した。戦後の昭和を代表するベストセラー作家の一人である。映画化された作品も多い。晩年は幽霊物を多く書いた。 ペンネームの由来は「平家より源氏が好きなこと」と「『鶏』という字が好きで、『鶏太』とすると、昔の武士の名前のようになる」という理由。
白井 富次郎(しろい とみじろう、1912年4月18日 - … 白井 富次郎(しろい とみじろう、1912年4月18日 - 1993年5月1日)は、日本の経営者。静岡県湖西市出身。愛知製鋼の元社長。湖西市長も務めた。 1930年に静岡県立浜松商業学校を卒業し、1932年12月に豊田自動織機製作所に入社。 1949年11月に取締役に就任し、常務を経て、1963年2月に愛知製鋼専務に就任した。1969年12月に社長に就任し、1980年3月に会長を経て、1985年3月から相談役を務めた。1987年から1992年までに湖西市長も務めた。 1979年5月に藍綬褒章を受章し、1984年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1993年5月1日心不全のために死去。81歳没。
西邑 昌一(にしむら しょういち、1912年4月18日 - … 西邑 昌一(にしむら しょういち、1912年4月18日 - 1998年3月22日)は、日本のサッカー選手、および指導者。兵庫県出身。旧制甲陽中学(現甲陽学院高等学校)、関西学院大学および早稲田大学卒業。 選手時代はフォワードを務めた。1930年2月に開催されたア式蹴球全國優勝競技會(第10回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で関学クラブの一員として、後藤靱雄や堺井秀雄らとともに優勝に貢献した。 早稲田大学に在籍していた1934年に第10回極東選手権のサッカー日本代表に選出され、5月15日のフィリピン代表戦で同点に追いつく得点をあげた。 西邑が25歳の1936年4月にベルリンオリンピックの日本代表に選出された が、本大会での出場機会は無かった。
山下 好一(やました こういち、1912年4月17日 - 1… 山下 好一(やました こういち、1912年4月17日 - 1997年1月7日)は、和歌山県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。
水島 廣雄(みずしま ひろお、1912年4月15日 - 20… 水島 廣雄(みずしま ひろお、1912年4月15日 - 2014年7月28日)は、京都府舞鶴市出身の実業家、民法学者。日本興業銀行勤務を経て、そごうの会長、社長を務めた。東洋大学名誉教授、法学博士。担保法の権威としても知られた。
古谷 綱正(ふるや つなまさ、1912年〈明治45年〉4月1… 古谷 綱正(ふるや つなまさ、1912年〈明治45年〉4月15日 - 1989年〈平成元年〉5月11日)は、日本のジャーナリスト、ニュースキャスター。毎日新聞社論説委員、JNNニュースコープメインキャスター。 東京出身。旧制成城高等学校卒業。同校の尋常科(旧制成城第二中学校)時代から非行に走り、喫煙に始まり学校をサボって映画館に入り浸るなどの行為を繰り返し、尋常科4年の際には落第一歩手前の状況となるが、同校のダルトン・プランなどのシステムをフル活用してなんとか落第を免れた。高等科では左翼運動に走り警察に検挙され、事実上停学処分となり3年次の2学期と3学期は期末試験すら受けていない状態だったが、どういうわけか落第にもならず卒業できた。
薦田 国雄(こもだ くにお、1912年4月15日 - 19… 薦田 国雄(こもだ くにお、1912年4月15日 - 1997年10月2日)は、日本の経営者。 香川県三豊郡豊浜町出身。1936年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に東邦ガスに入社。1962年8月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1975年3月に社長に就任し、1984年6月には会長に就任。テレビ愛知監査役、中部日本放送取締役、東海旅客鉄道取締役なども歴任。 1973年10月に藍綬褒章を受章し、1986年5月に勲二等旭日重光章を受章。 1997年10月2日急性心不全のために死去。85歳没。
戸川 幸夫(とがわ ゆきお、1912年〈明治41年〉4月15… 戸川 幸夫(とがわ ゆきお、1912年〈明治41年〉4月15日 - 2004年〈平成16年〉5月1日)は、日本の小説家、児童文学作家。動物に関する正しい観察・知識を元にして動物文学を確立させ、日本においては椋鳩十と並ぶ第一人者(特に闘犬に関する作品が多い)。 それまでは噂のみの存在だったイリオモテヤマネコの標本を今泉吉典にもたらし、新種発見に大きく貢献したことでも知られる。ルポルタージュ、戦記物語などの作品もあり、漫画原作も手がけた。 佐賀市に生まれ、1歳の時に、医師で、またハンターでもあった戸川益勇の養子となる。10歳までは福岡県若松市及び八幡市(いずれも現・北九州市)で育つ。幼少から動物好きで、動物学者になることを志し、動物に関する本を耽読した。
古島 敏雄(ふるしま としお、1912年4月14日 - 19… 古島 敏雄(ふるしま としお、1912年4月14日 - 1995年8月29日)は、日本の歴史学者。専門は日本経済史・農業史。東京大学名誉教授。 1912年、長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)で生まれた。飯田中学校を経て、1932年3月第八高等学校理科甲類を卒業し、東京帝国大学農学部農業経済学科に入学。1936年3月に同大学を卒業。 1939年10月、東京帝国大学農学部講師に就任。 1948年10月、東京大学農学部助教授となった。1949年、学位論文『元禄時代に於ける農学の発達とその地盤』を東京大学に提出して農学博士号を取得。 1959年、東京大学農学部教授に昇格。翌1960年から日本経済史講座の担当者が戦死したため空席になっていた一橋大学経済学部教授を併任し、永原慶二とともに中村政則、西田美昭ら多くの後継者を育てた。
澤田 紋(さわだ あや、1912年(明治45年)4月14日 … 澤田 紋(さわだ あや、1912年(明治45年)4月14日 - 1986年(昭和61年)7月24日)は、日本の政治家。初代阿南市長。早稲田大学法学部中退。徳島県阿南市日開野町出身。 早稲田大学法学部を中退後、旧富岡町収入役・町長を歴任。 1958年(昭和33年)5月に阿南市が発足し、初代市長に就任。1970年(昭和45年)まで12年間に渡り阿南市長を務めた。市長在任中は旧神崎製紙、阿南工業高等専門学校、徳島県立阿南工業高等学校等の誘致や各産業の振興に努めた。市長退任後は社会福祉協議会会長、四国治水期成同盟会会長、阿南信用金庫理事長等を歴任した。 1986年(昭和61年)の没日をもって阿南市名誉市民に選定される。
杉江 清(すぎえ きよし、1912年4月13日 - 2006… 杉江 清(すぎえ きよし、1912年4月13日 - 2006年8月1日)は、日本の文部官僚。文部省大学学術局長、国立科学博物館長、公立学校共済組合理事長などを歴任した。 愛知県出身。東京商科大学付属商業教員養成所を経て、1941年旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業。大学では米谷隆三ゼミナールに参加。 東京明治工業専門学校(現明治大学理工学部)教授、文部省初等中等教育局職業教育課長、文部省初等中等教育局中等教育課長、文部省大臣官房人事課長、文部省調査局長を経て、文部省体育局長として東京オリンピックの準備にあたった。 1962年1月から文部省管理局長を務めたのち、1964年から文部省大学学術局長として大学の学部学科増設や大学闘争への対応などにあたった。
小室 栄一(こむろ えいいち、1912年4月12日 - 没年… 小室 栄一(こむろ えいいち、1912年4月12日 - 没年不詳)は、日本の歴史学者。 東京生まれ。1934年に成城高等学校文科甲類を卒業し、東京帝国大学文学部言語学科に入学。その後、西洋史学科に転科し、大類伸に学び、卒業論文「中世英國城廓形式の研究」をまとめ、1937年に卒業。同年、同大学大学院に入学し、1941年修了。この間、1939年に日本大学予科講師となり、1942年4月に日本女子大学教授、1949年4月に東洋大学文学部史学科助教授、1951年同大学教授。1954年4月に明治大学文学部歴史地理学科教授となり、1983年に定年退職。 専門は西洋史であるが、1958年から関東地方の中世城郭の調査研究を行った。
環 昌一(たまき しょういち、1912年4月12日 - 19… 環 昌一(たまき しょういち、1912年4月12日 - 1993年3月8日)は、日本の裁判官、司法官僚、弁護士。最高裁判所判事。徳島県出身。 1936年に東京帝国大学法科卒業。司法官試補から1937年12月裁判官となり横浜地裁や甲府地裁、東京地裁などに勤務。1943年10月に司法省民事局へ、終戦の1945年8月に再び裁判官に返り咲き、高松控訴院判事、徳島地裁判事、最高裁調査官などを歴任した。 1948年1月に司法省調査課(のちに調査部、秘書課)に転じ、1949年1月に検事となり、法務庁調査意見第一局長補佐、行政訴訟局第一課長などを務めた。会社法の改正作業に携わったが、占領軍との折衝の仕事が多く「ばかばかしくなって」1950年7月に退職して弁護士に転身。
石井 利雄(いしい としお、1912年(明治45年)4月10… 石井 利雄(いしい としお、1912年(明治45年)4月10日 - 2001年(平成13年)1月12日)は、日本の造船技師(専門は舶用内燃機関、造船の生産技術・品質管理などの生産管理全般)、海軍軍人(予備将校)、実業家である。最終階級は海軍中尉。従七位。とくに、戦時急造された海防艦の専門家であり、戦時中、御蔵型など40隻の海防艦を竣工させた。戦後は、南極観測船の建造にも関わった。ブロック工法(ブロック建造方式)による艦船建造の先駆者の一人。 佐賀県神埼市出身。生家は佐賀藩主鍋島家の藩祖以来の外戚家門石井家。初代藩主鍋島勝茂の従兄石井茂成の8代目の子孫という。 神埼市立神埼小学校を経て、佐賀県立佐賀中学校(現・佐賀西高等学校)に進学。
西 忠雄(にし ただお、1912年4月10日 - 1998年… 西 忠雄(にし ただお、1912年4月10日 - 1998年1月25日)は、日本の建築構造工学者。専門は建築材料。東京大学名誉教授。第32代東洋大学学長(1982年9月 - 1985年9月)。工学博士。東京都生まれ。 1937年(昭和12年)、東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、同年に大阪窯業セメント株式会社に就職。1942年(昭和17年)に内務省技師を経て、1947年(昭和22年)建設省建築研究所第二研究部(材料)勤務。1948年(昭和23年)、北海道大学助教授に就任。1951年(昭和26年)、同大学の教授に就任。1962年(昭和37年)、東京大学教授に転任。1973年(昭和48年)、定年退官。
東井 義雄(とうい よしお/ぎゆう、1912年(明治45年)… 東井 義雄(とうい よしお/ぎゆう、1912年(明治45年)4月9日 - 1991年(平成3年)4月18日)は、「いのちの教育」の探求に尽くした日本の教育者、浄土真宗僧侶。 兵庫県出石郡合橋村佐々木(現・豊岡市)にある浄土真宗の東光寺に生まれる。1932年(昭和7年)に姫路師範学校を卒業した。卒業後、豊岡小学校赴任を皮切りに小学校教師として奉職、多くの著作を著す。1972年(昭和47年)に八鹿小学校校長を最後に定年退職。翌年4月より姫路学院女子短期大学、兵庫教育大学の講師を務め、1987年(昭和62年)辞任。55年間の教員生活に終止符を打つ。1991年(平成3年)急性硬膜下出血で逝去。東光寺住職。
末広 義一(末廣、すえひろ よしかず、1912年 <明治45… 末広 義一(末廣、すえひろ よしかず、1912年 <明治45年> 4月7日 - 1999年 <平成11年> 11月7日)は日本の大蔵官僚。位階は正五位。 愛媛県三間町出身。若いころに大阪の税務署に入り、苦学して関西大学専門部法科を卒業。1951年4月 主計局大蔵第一係主査。1953年4月1日 主計局主計官(給与課)。1954年5月15日 主計局主計官(総務課(予算総括係担当))。1958年4月26日 主計局司計課長。1961年 東北財務局長。1963年5月 退官。同年 金属鉱物探鉱融資事業団監事。1964年 金属鉱物探鉱促進事業団理事。1971年 海外鉱物資源開発監査。1972年 同取締役。1974年 常務。
塩出 英雄(しおで ひでお、1912年4月6日 - 2001… 塩出 英雄(しおで ひでお、1912年4月6日 - 2001年3月20日)は昭和-平成時代の日本画家。 明治45年(1912年)4月6日、広島県福山市生まれ。17歳の時美術に志を立て、1931(昭和6)年上京し姻戚関係にあった尾道出身の片山牧羊に日本画の手ほどきを受ける。同年 帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)日本画科に入学。主に山口蓬春の指導を受けるかたわら、学科では同校の教頭金原省吾から東洋美学や東洋美術史、国文や漢文まで広く学び、その後金原が没する58年まで薫陶を受けることになる。また学外でも高楠順次郎に仏教学を学び、高楠が没する45年まで師事する。36年に美術学校を卒業するが、この間35年より奥村土牛に師事し、昭和12年(1937年)より院展で活躍。
藤野 渉(ふじの わたり、1912年4月5日 - 1983年… 藤野 渉(ふじの わたり、1912年4月5日 - 1983年5月3日)は、日本の哲学者。名古屋大学名誉教授。 1912年、熊本県熊本市で生まれた。愛媛県出身。京都帝国大学文学部哲学科で学び、1935年に卒業。 戦後、名古屋大学文学部助教授に就いた。後に教授昇格。1976年に名古屋大学を定年退官し、名誉教授となった。マルクス主義を主として研究した。
徳永 康元(とくなが やすもと、1912年4月2日 - 20… 徳永 康元(とくなが やすもと、1912年4月2日 - 2003年4月5日)は、日本の言語学者、ハンガリー文学者。 東京府豊多摩郡大久保町字百人町(後の東京都新宿区百人町)に生まれ育つ。父徳永重康は東大動物学科出身の古生物学者・地質学者で理学博士・工学博士、早稲田大学教授、東大地質学教室非常勤講師。実弟の徳永重元も地質学者。徳永家は元の苗字を吉原と称し、薩摩藩士の家系だった。重康が高島鞆之助の三女と結婚した時に徳永と名乗り始め、その後離婚に至ってからも苗字はそのままになった。日本銀行初代総裁吉原重俊は父方の祖父の弟にあたる。母方の祖父柴田承桂は薬学者で東京大学教授をつとめた。 東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)から同中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を4年修了で卒業し、府立高等学校文科乙類で実吉捷郎や石川道雄に師事。
長谷川 峻(はせがわ たかし、1912年4月1日 - 199… 長谷川 峻(はせがわ たかし、1912年4月1日 - 1992年10月19日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等、勲章は旭日大綬章。自由民主党衆議院議員。宮城県栗原郡築館町(現在の栗原市)出身。 旧制宮城県築館中学校(現・宮城県築館高等学校)、早稲田大学専門部政経科卒業後、1933年に九州日報社(現 ・西日本新聞社)に入社。記者として活躍。この頃、緒方竹虎、中野正剛との知遇を得て、両雄の下で政治のイロハを学ぶ。1945年、緒方が東久邇宮内閣の国務大臣に就任すると、その秘書官を務めた。内閣では総理大臣の東久邇宮稔彦王の「国民諸君から直接手紙をいただきたい」との意向のもとで緒方のアイデアにより国民からの投書を募っていたが、稔彦王がすべての手紙を読むわけにもいかず、「平衡感覚を持った人」たる元記者の長谷川が手紙の整理役を務めた。
木辺 宣慈 (きべ せんじ、旧名:成麿(しげまろ)、1912… 木辺 宣慈 (きべ せんじ、旧名:成麿(しげまろ)、1912年4月1日 - 1990年5月2日)は、日本の浄土真宗の僧侶、真宗木辺派21代門主。光学技術者。レンズ磨きの名人として知られ、「レンズ和尚」と呼ばれた。父親は木辺孝慈、母親は醍醐忠敬の娘・静子。長姉の彰子は子爵藤谷為寛の二男・為隆の妻。次姉の弘子は、真宗誠照寺派の28世法主、二条秀淳に嫁いだ。妹の行子は、徳山毛利家の子爵毛利元靖の妻。 父方祖父は大谷光尊、父方伯父叔母に大谷光瑞、大谷尊由、九条武子ら、母方伯父に醍醐忠重がいる。
前川 八郎(まえかわ はちろう、1912年4月1日 - 20… 前川 八郎(まえかわ はちろう、1912年4月1日 - 2010年3月16日)は、兵庫県出身の元プロ野球選手(投手、内野手、外野手)・アマチュア指導者。
関屋 光彦(せきや みつひこ、1912年4月1日 ー 199… 関屋 光彦(せきや みつひこ、1912年4月1日 ー 1994年)は、日本の哲学者。 朝鮮京城生まれ。第一高等学校卒、1935年東京帝国大学文学部哲学科卒、同大学院、1939年青山学院中学部教諭、1941年文部省専門学務局学務課嘱託、1943年松本高等学校教授、1949年信州大学文理学部助教授、1950年教授、1951年津田塾大学教授、1954年国際基督教大学教授。1966年退職、1967年東海大学文学部教授、1971年東京女子大学短期大学部教授、1978年定年退職。 聖書研究会を主催した。妻は森有正の妹。松本高校では辻邦生を教えた。
秋田 全一(あきた ぜんいち、1912年4月1日 - 197… 秋田 全一(あきた ぜんいち、1912年4月1日 - 1977年10月28日)は、日本の経営者。大東京火災海上保険社長を務めた。 静岡県出身。1932年に横浜高等商業学校を卒業し、同年に野村證券に入社。 1958年に取締役に就任し、1960年に常務、1964年6月に大東京火災海上保険専務を経て、1966年4月に副社長に就任し、1970年6月には社長に昇格し、1976年7月までに務めた。 1944年8月に勲五等瑞宝章を受章。 1977年10月28日、急性心筋梗塞のために死去。65歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
須山達夫(すやま たつお、1912年(明治45年)4月 - … 須山達夫(すやま たつお、1912年(明治45年)4月 - 1992年(平成4年)11月2日)は、日本の外交官。ユネスコ執行委員(日本政府代表)、駐モロッコ特命全権大使、駐ノルウェー特命全権大使、駐トルコ特命全権大使を歴任した。 静岡県立静岡中学校を経て、1935年、東京帝国大学法学部卒業。外務省入省。戦後、1956年、駐スイス臨時代理大使、駐モロッコ特命全権大使(ユネスコ執行委員兼務)、1966年、駐ノルウェー特命全権大使(ユネスコ執行委員兼務)、1970年、駐トルコ特命全権大使。 1982年、第2代IFCA(国際親善文化協会)会長就任。ユネスコボロブドゥール修復執行委員長。 この項目は、外交官に関連した書きかけの項目です。
里木 佐甫良(さとき さぶろう、1912年3月31日 - 1… 里木 佐甫良(さとき さぶろう、1912年3月31日 - 1999年12月23日)は、日本の俳優。本名は佐藤 喜三郎。旧芸名は里木三郎、里木左甫良。他に里木三朗、里木三甫良、黒木三郎、黒木三朗、黒木左甫良、黒木佐甫良、悟木三郎などの別表記もある。 山形県山形市八森出身。旧制・山形県立山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)卒業。東京俳優生活協同組合に所属していた。 中学校卒業後の1930年に上京し、1931年、日本俳優学校(歌舞伎役者・六代目尾上菊五郎が設立した四年制の学校)へ二期生として入学し、演技を学ぶ。同期には山形勲や植村謙二郎、加藤嘉、三津田健がいた。その後は日本楽劇協会演劇研究所(山田耕筰が設立)に在籍し、1944年に陸軍移動演劇隊に入隊、満州および北支・中支前線を慰問で廻った。
島田 豊作(しまだ とよさく、1912年3月31日 - 19… 島田 豊作(しまだ とよさく、1912年3月31日 - 1988年7月11日)は、日本の陸軍軍人。士候45期。最終階級は陸軍中佐。群馬県館林市出身。 1929年、旧制館林中学校を卒業後、陸軍士官学校に入校(第45期、兵科:歩兵)。卒業後は見習士官を経て陸軍歩兵少尉として戦車第2連隊で戦車教育を受ける。 その後、1935年の満州事変、1939年の日中戦争(支那事変)に従軍。 太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦の南方作戦においては、戦車第6連隊麾下の第4中隊長(島田戦車隊、九七式中戦車・九五式軽戦車計15両装備)としてマレー作戦に参加。スリム・リバーの戦い(英語版)では、第4中隊の戦車および随伴の歩兵・工兵100人余りとともに、トロラク、スリム・リバー、スリムの陣地に対し戦史上稀な戦車による夜襲を決行。
本田 弘慈(ほんだ こうじ、1912年3月31日 - 200… 本田 弘慈(ほんだ こうじ、1912年3月31日 - 2002年4月6日)は、日本の牧師。 1912年(明治45年)3月31日 福井県丸岡町出身。父善太郎、母はつえの長男として生まれる。 1929年(昭和4年)7月22日 丸岡教会で洗礼を受ける。1930年 福井商業学校(現・福井県立福井商業高等学校)を卒業後、上京し、魚河岸の金物屋に勤める傍ら、日本大学文学部に入学する。同大学を中退、米国聖書教会の聖書配布の仕事を務める。 1934年(昭和9年) 関西聖書神学校に入学して、沢村五郎らの薫陶を受ける。1938年(昭和13年) 関西聖書神学校を卒業し、牧師として働く。 1940年(昭和15年)4月22日、森田志づと結婚する。
八木 勇平(やぎ ゆうへい、1912年3月31日 - 200… 八木 勇平(やぎ ゆうへい、1912年3月31日 - 2001年1月4日)は、日本の実業家。東急建設社長や、世紀東急工業会長、静岡県人会会長などを務めた。 静岡県小笠郡出身。1933年小樽高等商業学校(現小樽商科大学)卒業、東京横浜電鉄(現東急)入社。1958年取締役。1971年東急建設専務取締役。1972年東急建設取締役副社長。1973年東急建設取締役社長。1976年東急道路取締役社長。1978年東急工建取締役会長、東急不動産取締役。1979年東京急行電鉄監査役。1982年世紀東急工業取締役会長。静岡県人会会長なども歴任した。
白井 武明(しらい たけあき、1912年〈明治45年〉3月3… 白井 武明(しらい たけあき、1912年〈明治45年〉3月31日 - 2002年〈平成14年〉10月16日)は、日本の経営者。日本電装(現在のデンソー)社長、会長を務めた。 愛知県出身。1932年に浜松高等工業学校機械科を卒業。豊田自動織機、トヨタ自動車工業、日本電気自動車製造での勤務を経て、1949年に日本電装取締役に就任し、1953年4月に常務、1962年8月に専務を経て、1967年12月に副社長に就任し、1973年2月には社長に昇格。1977年3月に会長、1982年3月に取締役相談役を経て、、1983年3月に相談役に就任。 1976年3月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲三等旭日中綬章を受章。
寺井 啓之(てらい ひろゆき、1912年(明治45年)3月3… 寺井 啓之(てらい ひろゆき、1912年(明治45年)3月31日 - 1997年(平成9年)4月10日)は、森田流笛方能楽師。寺井久八郎家12代。 1912年(明治45年)東京生まれ。永田町小学校、東京音楽学校 (旧制)能楽科卒業。1928年(昭和3年)より寺井鉦次郎に師事し、同年「熊坂」で初舞台を踏む。1967年(昭和42年)より日本能楽会会員。重要無形文化財「能楽」保持者(日本能楽会会員としての総合認定)。 長男は十世・寺井久八郎(森田流笛方)で、二男は寺井良雄(宝生流シテ方。2010年死去)、三男は寺井栄(観世流シテ方)で、ともに重要無形文化財「能楽」の保持者(総合認定)。孫に寺井千景(観世流シテ方)がいる。