大塚 信照(おおつか のぶてる、1886年(明治19年)1月… 大塚 信照(おおつか のぶてる、1886年(明治19年)1月1日 - 1958年(昭和33年)3月21日)は、日本の実業家。かつては大日本帝国陸軍の軍人であり、最終階級は陸軍少将であった。退役後、服部時計店取締役を務めた。 愛媛県宇和島市出身。北宇和島町神田川原に生まれる。1904年(明治37年)、兄が旅順要塞の東鶏冠山北砲台において戦死したのを受け、帝国軍人として尽くすことを決意する。兄の手紙には「明暁部下を率い一死以て敵陣に突入する死後は再日露戦争があるだろうからお前は軍人となって俺の敵を討って御国の為に尽くして呉れ」とあった。1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。砲工学校、東京帝国大学を卒業し、米国に派遣される。
木下 利玄(きのした りげん、1886年(明治19年)1月1… 木下 利玄(きのした りげん、1886年(明治19年)1月1日 - 1925年(大正14年)2月15日)は、日本の歌人、子爵。本名は利玄(としはる)。 佐佐木信綱主宰の「竹柏会」同人。初期の官能的な歌風から、晩年は写実的な作風に変わった。口語的発想による利玄調を確立。「白樺」の創刊にも参加。歌集に『銀』(1914年)、『紅玉』(1919年)など。 歌風は初め官能的、感傷的であった。その後、窪田空穂や島木赤彦らに影響を受けて自然主義・写実主義に傾き、口語や俗語を使用した平易なその短歌は利玄調と呼ばれるようになった。以下は、中高校の教科書に採られたり、入試を始めとする各種試験に使われたりして、広く知られているものである。
九里 四郎(くのり しろう、1886年1月1日 - 1953… 九里 四郎(くのり しろう、1886年1月1日 - 1953年3月1日)は、日本の洋画家。通称「くり」。海軍主計大監・貴族院議員の南郷茂光の子。海軍少将・南郷次郎、南郷三郎の弟。加賀藩前田家の家老・九里家の養子となる。 東京生まれ。学習院初等科から志賀直哉と同級で、のち里見弴、谷崎潤一郎など文人と親しく交わった。1902年、学習院中等科を退学、1910年、東京美術学校西洋画科卒。同級に池部鈞、藤田嗣治、近藤浩一路らがいた。在学中に文展入賞。1911年-1912年ヨーロッパに渡る。出発の際には、友人の志賀直哉をはじめ、柳宗悦、細川護立、郡虎彦、里見弴、児島喜久雄、木下利玄、有島生馬ら14名の白樺派が集まって送別会が行なわれた(宗悦の母と四郎の母はともに嘉納治五郎の姉)。
入江 操(いりえ みさお、1886年(明治19年)1月 - … 入江 操(いりえ みさお、1886年(明治19年)1月 - 1958年(昭和33年))は、栃木県宇都宮市長。東京市区長。 栃木県河内郡雀宮村(現在の宇都宮市)出身。日本大学法律科に入り、のち政治科に転じた。1910年(明治43年)、内務省に入り、栃木県属、河内郡長、上都賀郡長、下都賀郡長を歴任した。1926年(大正15年)に郡制が廃止された後は、政友本党政務調査主事、立憲民政党政務調査委員を経て、1930年(昭和5年)に新潟市助役に就任した。さらに東京市に入り、荏原病院事務長、世田谷区長、荏原区長、城東区長、本郷区長を務めた。 1940年(昭和15年)、宇都宮市長に選出され、1944年(昭和19年)まで務めた。
羽鳥 千尋(はとり ちひろ、1886年 - 1912年)は、… 羽鳥 千尋(はとり ちひろ、1886年 - 1912年)は、森鷗外の小説「羽鳥千尋」のモデルとなった人物である。群馬県佐波郡玉村町に生まれる。父は陸軍軍医の羽鳥文作。
岩波 嘉重(いわなみ かじゅう、1886年 - 1974年)… 岩波 嘉重(いわなみ かじゅう、1886年 - 1974年)は、日本の実業家。日本ピラー工業(現・PILLAR)創業者。 長野県諏訪郡中洲村(現・諏訪市)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東京高等商船学校(現・東京海洋大学)卒業。1924年船舶用レシプロエンジンのシリンダーグランド用として国産第一号の船舶用パッキンである合金製ピラーパッキンを考案し、兵庫県神戸市灘区に日本ピラー工業所(現・PILLAR)を創業。1926年大阪府大阪市淀川区に本社・工場を新設。1948年株式会社に改組し、日本ピラー工業株式会社(現・株式会社PILLAR)を設立。
中村 徳吉(なかむら とくきち、明治19年(1886年)- … 中村 徳吉(なかむら とくきち、明治19年(1886年)- 昭和49年(1974年))は、日本の医師(外科医)。旧姓西村。医学博士。臨床外科医学会の権威。 検事、弁護士西村卯の実弟。鳥取県士族西村佐司衛(質商・金銭貸付)の二男、中村安五郎の養子。 鳥取県米子市内町出身。 米子中学(現在の米子東高校)、一高を経て1912年東京帝国大学医科大学を卒業。病理学、外科を3年間母校で研修し聖路加病院に勤務したが、1918年シベリア出兵にあたり米国赤十字病院外科部長として従軍する。 1922年米国ミネソタ州のメイヨー・クリニックにおいて外科および細菌学を研究して帰国、再び聖路加病院に勤務し外科医長となる。墓所は多磨霊園の聖路加国際病院禮拝堂附属墓碑。
トーマス永井(とーます ながい、1886年 - 1966年)… トーマス永井(とーます ながい、1886年 - 1966年)は洋画家。魔術的リアリズムの担い手として独自の作風を確立。しかし太平洋戦争の混乱によりその業績は長らく埋もれたままになっていた。忘れられた洋画家として近年評価が急速に高まってきている。本名は永井富三(ながい とみぞう)
永山 美樹(ながやま みき、1886年(明治19年) - 1… 永山 美樹(ながやま みき、1886年(明治19年) - 1949年(昭和24年))は、日本の建築家、デザイナー。 1907年(明治40年)、京都高等工芸学校図案科卒業後、宮内省入省。 内匠寮技手として国会議事堂コンペで三等をとった後、退職。その後、国会議事堂建設の設計嘱託となる。 1922年(大正11年)株式会社髙島屋に入社、また長堀店装飾図案入社。1932年(昭和7年)に長堀店家具装飾部設計部主任となり、1934年(昭和9年)には設計部長となる。また1938年(昭和13年)には長堀店商事部設計部長となり、1942年(昭和17年)商事部設計課長を経て、1943年(昭和18年)定年退職する。
佐野 五風(さの ごふう、1886年 - 1974年)は四条… 佐野 五風(さの ごふう、1886年 - 1974年)は四条派の日本画家である。本名・佐野曠。 京都府出身。1905年京都市立美術工芸学校本科卒、1907年同専攻科卒。竹内栖鳳に師事し円山・四条派の伝統を受け継ぐ。 1907年、第一回文展(文部省展覧会)入選以降、文展・帝展で活躍し、1930年第11回帝展推薦、無鑑査資格を獲得する。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
福田 次吉(ふくだ じきち、1886年〈明治19年〉 - 1… 福田 次吉(ふくだ じきち、1886年〈明治19年〉 - 1972年〈昭和47年〉)は、日本の土木技術者、内務官僚。 1909年(明治42年)、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省に入省。土木局、東京土木出張所などに勤務する。1927年(昭和2年)土木局第二技術課長、1934年(昭和9年)仙台土木出張所長を経て、1936年(昭和11年)に退官。各地の内務省直轄河川・港湾の調査や改修計画に携わった。内務省退官後は神奈川県顧問となり、京浜工業地帯建設の計画・実施を指導する。その後、日立製作所顧問のほか、地元・金沢の長建設顧問、治山社取締役を務めた。 旧交会『五十周年記念特集号』、1973年 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
水野 浩四(みずの こうし、1886年 - 1979年)は、… 水野 浩四(みずの こうし、1886年 - 1979年)は、日本の歯科医師。 1886年(明治19年)、現在の岡山県岡山市に6男2女の4男として生まれる。実兄にアマチュア天文家の水野千里がいる。父・千代之介(後に漸と改名)は邑久郡郡長として地方行政に尽力した。 1901年(明治34年)に高等小学校を卒業すると上京し、高山歯科診療所を経営する高山紀齋の住み込みの門下生となり、神田中学校夜間部に通う傍ら歯科修行に励む。1905年(明治38年)より東京歯科医学院(現在の東京歯科大学の前身)に通い、血脇守之助の指導を受け、1911年(明治44年)、歯科検定試験に合格する。この間、1910年(明治43年)、キリスト教岡山教会で海老名牧師の説教に接し感動して入信する。
阿部 喜之丞(あべ きのじょう、1886年(明治19年)-1… 阿部 喜之丞(あべ きのじょう、1886年(明治19年)-1972年(昭和47年))は、日本の都市計画家。土地区画整理および耕地整理技術者。東京市都市計画課の掛長として市域の耕地整理事業を担当し、1940年(昭和15年)に静岡県静岡市で起きた静岡大火の際は、復興のために設置された静岡市臨時復興局の局長として耕地整理と土地区画整理事業に辣腕を振った。1964年(昭和39年)に勲四等旭日小綬章、死去後に勲三等瑞宝章叙勲された。俳句や書道・弓道などの趣味を持ち、帰去来と号した。 新潟県旧高田市生まれ。1906年(明治39年)に東京帝国大学農科大学実科(のちの東京高等農林学校→現東京農工大学農学部)を卒業。
辻岡 通(つじおか とおる、1886年 - 1955年)は、… 辻岡 通(つじおか とおる、1886年 - 1955年)は、日本の建築家。台湾総督府を経て、建築設計事務所を東京に構えていたが、地元福井市内でも設計活動を継続していたとみられる。福井市の出身。 1908年、名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)卒業。建築科の第一期生である。 作品については記録の詳細は詳らかではないが、主要作品として東京都にあったI邸(1936年頃、旧名:市橋医院)、福井市役所三代目庁舎や公会堂(1933年、現存せず)、福井銀行本店(1936年竣工)福井城三の丸跡に立地する旧福井信託銀行(現三井住友信託銀行福井支店、1934年)が確認されている。とくに信託銀行は装飾を抑えた直線的デザインが特徴で多くの近代建築が倒壊した1948年の福井地震でも被災を免れたという歴史とともに、貴重な作品として評価がなされている。
小島 茂雄(小島 茂、こじま しげお、1886年 - 197… 小島 茂雄(小島 茂、こじま しげお、1886年 - 1970年)は、立教大学文学部元学部長、立教中学校(現・立教池袋中学校・高等学校)元校長。日本聖公会の聖職者。元日本陸軍通訳官。 1886年(明治19年)、茨城県生まれ。旧姓高橋。上京して立教中学校三年に入学。1908年(明治41年)、同校卒業。1911年(明治44年)、立教大学文学部を卒業。立教大学第一回の卒業生で、高松孝治(立教大学元教授、大学チャプレン)、久保田正次(立教大学元教授、立教大学野球部元部長、商学部卒)と同級生。 聖公会神学院を卒業して渡米。1912年(大正元年)、米国ニューヨーク市ジェネラル神学校とコロンビア大学に学ぶ。 帰国後、1915年(大正4年)に司祭按手を受け、同年9月から1918年(大正7年)9月まで日本聖公会前橋聖マッテア教会司牧を務めた。
廖 天祥(りょう てんしょう、1886年 - 没年不詳)は、… 廖 天祥(りょう てんしょう、1886年 - 没年不詳)は、中国の英語学者、教育者。国立成都大学(現・四川大学)外国語学部長、英文学科教授、四川大学英語学部教授。 1886年生まれ。華陽県(現・四川省成都市)出身。留学で日本へ渡り、1916年(大正5年)、立教大学文学部を卒業。中国の政治家で嶺南画派の創始者の一人でもある陳樹人とは大学の同級である。 国立成都大学(現・四川大学)の外国語学部英語(英文)学科教授として、英語、英文学の授業を担い、学部長も務めた。日本へ留学した天祥のほか、当時の教師の顔ぶれは豪華で、多くが海外留学を経験した帰国子女の四川省人であった。中国文学の教授はフランス留学した著名な作家の李潔仁と歴史家の孟文通が務め、フランス語の教授はパリ大学で哲学博士号を取得した鄧孟徳が務めた。
中村 六行(明治19年(1886年) - 没年不明)は、日本… 中村 六行(明治19年(1886年) - 没年不明)は、日本の発明家、実業家。 広島県出身。早稲田大学卒業後、日本化学工業研究所を創設し、広島市に工業を有した。 鉱業家としても有名であり、北海道及び朝鮮に鉱区を有した。特に、朝鮮咸鏡南道端川郡南斗日面雲松里の鉱区はニッケル鉱として鉱量が極めて豊富であった。
林 亘(はやし わたる、1886年〈明治19年〉- 1950… 林 亘(はやし わたる、1886年〈明治19年〉- 1950年〈昭和25年〉)は、日本のクラリネット奏者、陸軍軍楽隊長。 高知県香美郡猪野々村(現・香美市)に生まれた。高等小学校3年の時、軍楽隊の試験に合格し、第四師団に配属された。英国に留学したのちに同師団の軍楽隊長に就任。 軍楽隊廃止後は大阪市音楽団の音楽長兼隊長として指揮をした。1950年(昭和25年)没。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
佐藤貞子(さとう さだこ、1886年 - 1950年)は、秋… 佐藤貞子(さとう さだこ、1886年 - 1950年)は、秋田県仙北郡出身の民謡歌手である。 民謡「秋田おばこ」の生みの親として知られている。「秋田おばこの女王」とも、江戸時代初期にかぶき踊りで全国巡業した出雲の阿国になぞらえ「秋田の阿国」とも呼ばれた。「秋田おばこ」、「秋田甚句」などを収めたレコードは戦前としては「驚異的」とされる60万枚のヒットを記録した。 1886年(明治19年)、秋田県仙北郡神代村(現・仙北市)に生まれる。笛の名人であった父の影響で民謡をはじめ、幼いころより歌の上手さは近隣に知れ渡り、地元の祭のスターであった。1922年(大正11年)、東京上野で開催された平和博覧会に出演。
山本 徳三郎(やまもと とくさぶろう、1886年 - 194… 山本 徳三郎(やまもと とくさぶろう、1886年 - 1945年)は砂防・植林技師。父は山本庄司。メダカの研究で知られ、名古屋大学教授も務めた山本時男は甥(兄時宜の子)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
藤田 左弌郎(ふじた さいちろう、1886年 - 1976年… 藤田 左弌郎(ふじた さいちろう、1886年 - 1976年)は、日本の造園家、バハイ教徒。山口県柳井市出身。 カリフォルニア州オークランドのハイ・スクール在学中、1905年頃バハイ教徒となった。1912年には北アメリカを訪問中のアブドゥル・バハーと出会い、1919年にハイファに招かれ万国正義院の庭園設計造園を始めた。彼はその後、第二次世界大戦中に日本へ帰国した時期を除いて1976年に亡くなるまで、ハイファのバハイ教寺院の造園と庭園の整備維持を続けた。 イスラエルのハイファのバハイ世界センターにおいて、 アブドゥル・バハーやショーギ・エフェンディー、そして後に万国正義院のもとで長らく奉仕活動に携わった。
高橋 貞子(たかはし さだこ、1886年〈明治19年〉 - … 高橋 貞子(たかはし さだこ、1886年〈明治19年〉 - ?)は、日本の明治時代から大正時代にかけての人物。岡山県和気郡和気町出身。超心理学者である福来友吉に、透視・念写能力を持つ超能力者として協力し、超能力実験の被験者となった人物である。 ホラー小説および映画作品『リング』シリーズに登場する架空の人物・山村貞子の名の由来、または山村貞子のモデルとの説もあるが、作者の鈴木光司は否定している。明治末期に超能力者とされた御船千鶴子、長尾郁子らと並んで紹介されることも多いが、2人と比較すると生涯についての資料に乏しく、謎が多い。 岡山県和気郡和気町で、二男二女の末子として誕生した。幼少時より無口で、静かな場所でもの思いにふけることを好んだ。
清水 鉱治(しみず こうじ、1886年 - 1925年2月2… 清水 鉱治(しみず こうじ、1886年 - 1925年2月25日)は、日本ホーリネス教会の牧師である。離島伝道に従事した。 山形県最上郡豊田村(現・鮭川村豊田)に沓澤家の次男として生まれる。新庄中学(現・山形県立新庄北高等学校)在学時代に、新庄ホーリネス教会清水俊蔵によりキリスト教に入信する。 新庄中学校卒業後に献身し、聖書学院に入学する。また、清水俊蔵の婿養子となる。1912年に妻が死去してから、伊東同盟教会(日本同盟基督教団伊東教会)で伝道する。1914年5月には新島同盟教会(日本同盟基督教団新島教会)に赴任する。 1925年に肺結核のために杉並救世軍病院で死去する。 辞世の歌は「教のため身はすて小舟かへりみで、この荒磯に朽ちはてんとぞ思ふ。
李 仁(イ・イン、朝鮮語: 이인、1886年または1890年… 李 仁(イ・イン、朝鮮語: 이인、1886年または1890年9月20日または1896年10月26日 - 1979年4月5日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、弁護士、検察官、裁判官、政治家。米軍政庁大法院長代理、第4代米軍政庁検事局検事総長、過渡政府大検察庁検察総長、初代法務部長官、制憲・第3・5代韓国国会議員(第5代は参議員)を歴任した。 本貫は慶州李氏、号は愛山。李益斎の子孫で、性理学者の李寛俊は祖父、自彊会と大韓協会の中心人物だった李宗栄は父、独立運動家の李始栄(朝鮮語版)は叔父。元国会議員の李泰九(朝鮮語版)は娘婿。 慶尚道大邱都護府(現・韓国大邱広域市)出身だが、先祖代々は慶州に在住。
河村 目呂二(かわむら めろじ、1886年 - 1959年9… 河村 目呂二(かわむら めろじ、1886年 - 1959年9月26日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本の芸術家・彫刻家。本名は弘。1934年の元旦より河村 龍興として活動をした。 岐阜県揖斐郡宮地村願成寺(現・池田町)生まれ。大垣中学校を卒業後、大阪医学専門学校に入学するが、芸術家への道を捨てきれず、一年で中退し、東京美術学校に入学し、彫塑科を卒業。幼少時より美術が好きであったと同時に音楽も好きであつたため、「メロディ」と「竹久夢二」の語呂合わせで目呂二と号した。猫好きの芸術家であり、招き猫などを多く手がけたことから、「猫の芸術家」「招き猫アーティスト」として知られる。文筆家・随筆家としての顔も持つ。
野原 櫻州(のはら おうしゅう、1886年(明治19年) -… 野原 櫻州(のはら おうしゅう、1886年(明治19年) - 1933年(昭和8年)2月28日)は明治から昭和にかけて活躍した日本画家である。野原桜州とも表記される。 歴史画、花鳥画。特に薔薇の絵を得意とし、生前は「薔薇の櫻州」と評されていた。
西岡 一雄(にしおか かずお、1886年 - 1964年2月… 西岡 一雄(にしおか かずお、1886年 - 1964年2月6日)は、日本の登山用具店主 登山家。 滋賀県大津市生まれ。大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)卒、第三高等学校中退。貿易語学校でロシア語を学び、大阪税関所に勤務。中国・青島税関勤務を経て、1921年、大阪にマリア運動具店を開店、東京にも進出。1924年には海野治良と東京に好日山荘を開く。同年、藤木九三、水野祥太郎とロック・クライミング・クラブ(RCC)を創設。1961年読売新聞社主催の第一回立山集会で「山の恩人」として表彰された。宮崎県で死去。
西川 速水(にしかわ はやみ、1886年(明治19年) - … 西川 速水(にしかわ はやみ、1886年(明治19年) - 1982年(昭和57年)3月2日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍大佐。駆逐隊司令、山形造船(株)常務、(株)山形県舶用木工品製作所・社長、水交会・常務理事、(財)荘内館・監事、功四級金鵄勲章、藤島町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)。
河村 幹雄(かわむら みきお、明治19年(1886年) - … 河村 幹雄(かわむら みきお、明治19年(1886年) - 昭和6年(1931年))は、日本の大正、昭和期を代表する地質学者・教育者・哲学者・宗教家である。九州帝国大学名誉教授であり、理学博士。
藤田 俊三(ふじた としぞう、1886年〈明治19年〉- 没… 藤田 俊三(ふじた としぞう、1886年〈明治19年〉- 没年不詳)は東京帝国大学出身の技術者。釜石製鉄所の所長や岩手木炭製鉄の社長などを歴任した。津田塾大学学長を務めた藤田たきは異母妹。 1886年(明治19年)2月6日、判事補を務める藤田菊江の三男としてその赴任先で生まれる。父・菊江は翌年3月に判検事登用試験に合格し、一家は大阪、四日市、名古屋、那覇など赴任先が変わる度に転居した。俊三は1903年(明治36年)に東京の第一高等学校二部へ入学。同窓生には後に旧経済団体連合会の初代会長を務める石川一郎がいる。1906年7月に卒業すると、他の多くの一高生と同じく東京帝国大学に進学し、1909年(明治42年)に採鉱冶金科を卒業。
李 醺雨(り くんう、イ・フヌ、이 훈우、1886年 - 1… 李 醺雨(り くんう、イ・フヌ、이 훈우、1886年 - 1937年)は、朝鮮の建築家。 1886年、慶尚南道河東郡に李鍾亀の3男として生まれた。日本で留学し、1908年4月、名古屋高等工業学校建築科に入学し、1911年3月に卒業した。1917年12月31日、朝鮮総督府総督官房土木局営繕課の技手に任じられ、朝鮮総督府の景福宮新庁舎の建築過程に職員として参加した。 1920年、総督府技手を辞職し、李醺雨建築工務所を開業した。これは、朝鮮人により設立された建築事務所の中で最も早い例とされる。
田 汝弼(でん じょひつ、1886年〈光緒12年〉 – 19… 田 汝弼(でん じょひつ、1886年〈光緒12年〉 – 1944年2月10日)は、中華民国・蒙古聯合自治政府(蒙古自治邦)の官僚。父は安徽派の政治家・官僚である田応璜。 1902年(光緒28年)、山西大学堂を卒業。まもなく日本へ留学し、1907年(光緒33年/明治40年)7月23日に明治大学経緯学堂第4回普通科卒業生となる。次いで盛岡高等農林学校農学科に入り、1912年(明治45年)3月30日に同学科選科を修了した。帰国後は山西省農事試験場場長や広済水利公司協理をつとめている。 1938年、田汝弼は晋北自治政府で民生庁厚生科科長に任命され、まもなく財政庁長兼民生庁長に抜擢された。翌1939年9月1日、蒙古聯盟・察南・晋北の3自治政府が合併して張家口に蒙古聯合自治政府が成立する。
林 芋村(はやし うそん、1886年 - 1929年4月3日… 林 芋村(はやし うそん、1886年 - 1929年4月3日)は、長野県下伊那郡千代村荻坪(現・飯田市)出身の教育者。本名は林 芳弥(はやし よしや)。 1886年(明治19年)長野県下伊那郡千代村荻坪(現・飯田市)に生まれた。父は芳平、母はとみ。四男だった。千代村立千代尋常小学校(現・飯田市立千代小学校)、農工補習学校を卒業し、徴兵検査で甲種合格となったことで近衛兵として入隊した。除隊後には役場の吏員として働いていたが、1915年(大正4年)28歳の時に波合村の尋常小学校(現・平谷村立平谷小学校)で代用教員となった。1922年(大正11年)12月、尋常科正教員資格を取得。平谷湖の近くに住み、年老いた母親や子どもとともに暮らした。
門脇 誠一郎(かどわき せいいちろう 1886年(明治19年… 門脇 誠一郎(かどわき せいいちろう 1886年(明治19年) - 1947年(昭和22年)2月11日)は、日本の柔道家、教育者。維新政府の教部大丞門脇重綾は母方の祖父。 鳥取県西伯郡渡村(現・境港市渡町)に父・直衛、母・ゆきの長男として生まれた。生家は米屋を営み繁盛していたが、誠一郎が生まれた頃より家運が少しずつ傾きはじめ、小学校に入学する頃には使用人もすっかり居なくなってしまった。このためよく家業の手伝いをさせられ、米俵を担いで配達して廻ったという。米屋に失敗した父直衛は渡紱緞工場をはじめたが、これも成功せず一家を挙げて米子の灘町に居を移した。 1903年鳥取県立第二中学校(現米子東高校)に入学したが家庭の事情で三年で退学、柔道を志して上京する。