佐治 孝徳(さじ たかのり、1899年(明治32年)2月20… 佐治 孝徳(さじ たかのり、1899年(明治32年)2月20日 - 1953年(昭和28年)4月1日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。台東庁長。 高知県安芸郡奈半利町に生まれる。第四高等学校を経て、1920年(大正9年)東京帝国大学法学部政治科に入学。1923年(大正12年)同大を卒業。在学中の1922年(大正11年)11月に高等試験に合格し、台湾総督府に奉職し台北州属となった。 高雄州警務課長、台北州七星郡守、新竹州内務部地方課長、台湾総督官房審議室勤務、台湾総督府事務官、台湾総督府営林所庶務課長、台北州内務部長、台中州内務部長、台東庁長、台湾総督府専売局参事・専売局庶務課長兼樟脳課長を経て、1942年(昭和17年)7月、台湾総督府専売局長に就任した。
山沢 栄子(やまざわ えいこ、1899年2月19日 - 19… 山沢 栄子(やまざわ えいこ、1899年2月19日 - 1995年7月16日)は、大阪市出身の写真家。 女性写真家のパイオニアであり、関西を拠点にポートレートや広告写真の分野で活躍した。1960年以降は抽象的な形態のモティーフを組み合わせた「What I'm doing」のシリーズを制作した。「What I'm doing」のシリーズは大阪市中之島美術館に収蔵されている。 14歳から写真を始め、1918年女子美術学校(現・女子美術大学)日本画科選科卒業。1926年カリフォルニア・スクール・オブ・ファイン・アーツ(後のサンフランシスコ芸術大学(英語版))に留学し油絵を学ぶ。その間、写真家コンソエロ・カネガの助手として、本格的に写真を学ぶ。
菊井 維大(きくい つなひろ、旧姓田中、1899年(明治32… 菊井 維大(きくい つなひろ、旧姓田中、1899年(明治32年)2月19日 - 1991年(平成3年)11月15日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。東京大学名誉教授。日本学士院会員。長崎県長崎市出身。学習院大学教授の水野謙は長女の子(外孫)。加藤正治門下。弟子に三ケ月章、斎藤秀夫、大須賀虔、木澤克之など。 1923年(大正12年)東京帝国大学法学部卒業。 その後、東京帝国大学法学部助教授を経て、1932年(昭和7年)東京帝国大学法学部教授。1947年(昭和22年)東京大学法学部教授。 1959年(昭和34年)4月、立教大学法学部法学科教授に就任。1967年(昭和42年)立教大学総長事務取扱。
小林 中(こばやし あたる、1899年〈明治32年〉2月17… 小林 中(こばやし あたる、1899年〈明治32年〉2月17日 - 1981年〈昭和56年〉10月28日)は、日本の実業家。初代日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)総裁、日本航空会長、東急電鉄社長、富国生命保険社長などを歴任。戦後の財界において影の財界総理と称されるほどの実力者であった。愛称はコバチュー。初代石和町名誉町民。位階は正三位。勲等は勲一等旭日大綬章。 1899年(明治32年)2月17日、山梨県中巨摩郡源村(現・南アルプス市)の村長を務めた矢崎貢と、小林伝右衛門の三女ふくの間に、次男として出生。伝右衛門の要請で両親とともに石和町に移り、同年12月に伝右衛門の養子となった。1901年(明治34年)9月には小林家の家督を相続した。
栗原 嘉名芽(くりはら かなめ、1899年2月16日 - 1… 栗原 嘉名芽(くりはら かなめ、1899年2月16日 - 1990年5月1日)は、日本の音響学者。 東京出身。東京帝国大学理学部物理学科卒業。東京高等商船学校教授。日本大学教授。東京学芸大学教授。日本女子大学文学部国文科教授。聖徳学園短期大学教授、同名誉教授。歌人として『青影』同人。日本科学協会顧問。
江角 ヤス(えすみ ヤス、1899年〈明治32年〉2月15日… 江角 ヤス(えすみ ヤス、1899年〈明治32年〉2月15日 - 1980年〈昭和55年〉11月30日)は、日本の教育者、修道女、社会事業家。 島根県簸川郡久木村(現在の出雲市)で、誕生した。父・文之助と母・ユウの3女で、9人きょうだいの6番目の子供だった。家の宗教は浄土真宗であった。 1905年(明治38年)、久木村尋常高等小学校に入学し、1911年(明治44年)に卒業する。同年4月には、簸川群直江村外5ヶ村の組合立直江高等小学校に入学し、1914年(大正3年)に卒業する。同年4月、島根県女子師範学校(二部)に入学し、1916年(大正5年)に卒業する。同年4月、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)理科に入学する。
谷村 敬介(たにむら けいすけ、1899年 <明治32年> … 谷村 敬介(たにむら けいすけ、1899年 <明治32年> 2月15日 - 1993年 <平成5年> 1月30日)は、日本の経営者。大東京火災海上保険社長、会長を務めた。位階は従五位。 富山県出身。1922年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に鴻池銀行に入行。1926年に鴻池信託を経て、1939年に大東京火災海上保険に転じ、1944年に取締役に就任し、1945年に常務、1956年に専務を経て、1957年には社長に就任。1962年6月に会長を経て、1966年には相談役に退いた。 1963年に藍綬褒章を受章し、1966年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1993年1月30日心不全のために死去。93歳没。
猪谷 善一(いたに ぜんいち、1899年2月15日 - 19… 猪谷 善一(いたに ぜんいち、1899年2月15日 - 1980年1月16日)は、日本の経済学者。 富山県出身。1923年東京商科大学卒、同年助手、パリ留学をへて1927年助教授、1937年教授。1938年「最近日本貿易の伸展に関する実証的研究」で経済学博士。1939年退職、大阪商工会議所理事。亜細亜大学教授。1971年定年、駒澤大学教授。上田貞次郎に師事した。 妻の妙子は、幼女の頃より中勘助に愛された人として知られる(『中勘助の恋』富岡多恵子、創元社、1993)。中の学友・江木定男(江木鰐水の孫)とその妻・万世(関新平の娘で、定男の継母・悦子の妹でもあり、鏑木清方の代表作「築地明石町」のモデル)との娘で、お茶の水女学校を出て猪谷と結婚し出産もしたが、35歳で早世した。
金沢 治(かなざわ おさめ、1899年(明治32年)2月14… 金沢 治(かなざわ おさめ、1899年(明治32年)2月14日 - 1981年(昭和56年)5月12日)は日本の歌人、郷土史家、方言研究家。飯田義資(1894-1973)・一宮松次(1897-1972)と共に徳島県郷土史研究の三大長老の1人とされる。徳島県郷土資料専門調査員を務めた。 1899年2月14日、徳島県美馬郡半田町(現:つるぎ町)に金沢与平の長男として生まれる。 1918年3月、徳島県師範学校本科第一部を卒業する。 1923年4月、上京し国学院大学高等師範部に入学する。在学中は折口信夫に師事する。 1926年、国学院大学高等師範部を卒業し、神奈川県立商工高等学校に就職する。 1927年、帰郷し徳島県立徳島中学校に転任する。
大池 晴嵐(おおいけ せいらん、1899年〈明治32年〉2月… 大池 晴嵐(おおいけ せいらん、1899年〈明治32年〉2月14日 - 1977年〈昭和52年〉9月29日)は、日本の書家。愛知県丹羽郡古知野村(現・江南市)生まれ。号は晴嵐、別号に一魯、田翁、魯翁。本名は一良(かずよし)。正六位勲五等双光旭日章受章。 大正時代から昭和初期に活躍した中部地方(尾張地方)の漢字書家。行草書を得意とした。父に伴い名古屋で書を、親戚に画を習った。書を志し上京、豊道春海に師事する。泰東書道院で活躍するも、戦災により帰郷する。帰郷後は中部書壇の高揚に努め会派の違いを結集した中部日本書道会の育成に貢献した。自会派平心社(後の東海書道芸術院)を創立した。日展・中部日本書道会脱退後はかえって中部日本書道会の方が全国展出品者が増え、主流となっていった。
宮本 百合子(みやもと ゆりこ、1899年(明治32年)2月… 宮本 百合子(みやもと ゆりこ、1899年(明治32年)2月13日 - 1951年(昭和26年)1月21日)は、日本の昭和期の小説家・評論家。旧姓は中條(ちゅうじょう)、本名はユリ。日本女子大学英文科中退。 18歳で『貧しき人々の群』を発表し天才少女と注目された。米留学後結婚したが離婚、その経緯をまとめた『伸子』を発表。その後ソ連を訪れ日本共産党に入党。宮本顕治と結婚。再三検挙されながらも執筆活動を続けた。戦後は『歌声よ、おこれ』を書いて民主主義文学運動の出発を宣言、『播州平野』『風知草』『二つの庭』『道標』などを書いた。日本の左翼文学・民主主義文学、さらには日本の近代女流文学を代表する作家の一人である。
大久保 太三郎(おおくぼ たさぶろう、1899年 <明治32… 大久保 太三郎(おおくぼ たさぶろう、1899年 <明治32年> 2月13日 - 1974年 <昭和49年> 10月10日)は、日本の銀行家。位階は従四位。 兵庫県出身。1923年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。1949年4月に理事を経て、1952年8月には監事に就任。 1958年5月から1963年4月までに千葉銀行頭取を務め、1961年に千葉商工会議所会頭に就任し、1963年5月には日本銀行政策委員会委員に就任。 1970年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1974年10月10日急性肺炎のために死去。75歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
堀田 吉雄(ほった よしお、1899年2月13日 - 200… 堀田 吉雄(ほった よしお、1899年2月13日 - 2001年7月28日)は、日本の民俗学者。 三重県津市生まれ。1924年文部省の検定試験に合格、朝鮮の高等女学校で教え、戦後は四日市市の新制中学校教諭、1950年三重県立桑名高等学校教諭、1956年退職。柳田国男に師事して、1966年『山の神信仰の研究』で柳田賞受賞。三重県文化財専門委員、伊勢民俗学会主宰。 2001年7月28日、老衰のため死去。
小山 栄三(こやま えいぞう、1899年2月12日 - 19… 小山 栄三(こやま えいぞう、1899年2月12日 - 1983年8月16日)は、日本の社会学者、新聞学者。立教大学名誉教授、立教大学社会学部長、国立世論調査所初代所長、日本世論調査協会会長、日本広報協会理事長。世論調査を日本で初めて行った第一人者として知られるとともに、日本の新聞学の基礎も築いた。 1899年2月12日、北海道小樽市に生まれる。 1924年、東京帝国大学文学部社会学科卒業。翌1925年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。東京帝国大学新聞研究室の第1回生であり、研究室の助手などを務めた。1935年には、三省堂から「新聞学」を出版。 1938年、立教大学教授に就任する。翌1939年、厚生省人口問題研究所研究官、1943年には、文部省民族研究所員兼企画院調査官を歴任する。
今村 忠助(いまむら ちゅうすけ、1899年2月12日 - … 今村 忠助(いまむら ちゅうすけ、1899年2月12日 - 1954年12月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。自由党吉田派。
山手 樹一郎(やまて きいちろう、1899年〈明治32年〉2… 山手 樹一郎(やまて きいちろう、1899年〈明治32年〉2月11日 - 1978年〈昭和53年〉3月16日)は、日本の小説家。栃木県出身。初め編集者として活動し、時代小説作家に転身。明朗爽快な作風で支持を得た。 栃木県那須郡黒磯町生まれ。父親が鉄道員として黒磯駅に勤務していた当時に生まれた。本名は井口長次。旧制明治中学校卒業。 小学新報社『少女号』の編集者を経て、博文館に入社。『講談雑誌』編集長、『少年少女譚海』編集長をつとめる。1932年頃より兼業作家となり、1939年より専業作家。前後して長谷川伸の門下。翌年より新聞連載した「桃太郎侍」で人気を得る。1944年、「獄中記」「檻送記」「蟄居記」の三部作(のち『崋山と長英』として出版)で第4回野間文芸奨励賞を受賞。
米谷 隆三(まいたに りゅうぞう、1899年2月11日 - … 米谷 隆三(まいたに りゅうぞう、1899年2月11日 - 1958年5月3日)は、日本の法学者。専門は、商法・保険学。学位は、法学博士。1955年「約款法の理論」で日本学士院賞受賞。岡山県出身。 岡山県都窪郡茶屋町(現倉敷市茶屋町)生まれ。旧制第一岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1925年東京商科大学(現一橋大学)卒業(青山衆司ゼミナール)。 1923年文官高等試験行政科合格、1925年商工省入省、商務局保険課勤務。1929年明治大学兼任講師(火災保険論)を経て、1930年東京商科大学(現一橋大学)助教授兼予科教授就任。ベルリン、ローマ、パリへの留学を経て、1934年第10回国際アクチュアリー会議日本代表。
神崎 縷々(かんざき るる、 明治32年(1899年)2月1… 神崎 縷々(かんざき るる、 明治32年(1899年)2月11日 - 昭和11年(1936年)2月28日)は、日本の俳人。本名は神崎 主計。 福岡県宗像郡神興村津丸(現・福津市)生まれ。旧制小倉中学校(現・福岡県立小倉高等学校)を経て、1922年東京高等商業学校(現・一橋大学)本科卒業。吉岡禅寺洞に師事した。 藤本ビルブローカー銀行、久原商事、貝島商事を経て、1932年、小倉市京町に火薬商の神崎商店を設立し、同社支配人に就任。ジー・ワインベルゲン商会小倉支店長も務めていたが、1936年に37歳で死去した。 井筒屋設立者の神崎慶次郎元小倉市長は叔父で養父。倉田主税元日立製作所社長は兄。倉田興人元三井鉱山社長は弟。
佐保田 鶴治(さほだ つるじ、1899年2月11日 - 19… 佐保田 鶴治(さほだ つるじ、1899年2月11日 - 1986年9月11日)は、日本の宗教学者、哲学者。大阪大学名誉教授、文学博士。インド哲学・宗教学専攻。 30数年に及ぶ教授生活を送ったが、若年の頃から虚弱体質で悩み続けていた。ところが、還暦を過ぎた62歳の時に、インド人の手ほどきによるヨーガに出会うことにより、健康をめきめき取り戻し、それまでの不健康な生活が一変し、周囲が驚くほどの健康体となった(典拠『ヨーガ入門』)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
鳥居 正(とりい ただし、1899年2月11日 - 没年不詳… 鳥居 正(とりい ただし、1899年2月11日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は鳥居 笑次(とりい しょうじ)。鳥井 正と表記に揺れがある。 1899年(明治32年)2月11日、鹿児島県鹿児島市に生まれる。1979年(昭和54年)に発行された『日本映画俳優全集 男優篇』では、生年月日は不詳、本名も不詳という旨が記されている。幼少期から数本の歌劇に出演していたとされている。 専修大学を中退後、1917年(大正6年)に沢田正二郎(1892年 - 1929年)が創立して間も無い新国劇に入り、幹部俳優として活躍。立ち回りの巧さで定評があった。1925年(大正14年)、聯合映画芸術家協会と連携して製作された衣笠貞之助監督映画『月形半平太』や、同じく東亜キネマと連携して製作されたマキノ青司(牧野省三)総指揮・監督映画『国定忠治』で沢田と共演。
一戸 謙三(いちのへ けんぞう、1899年2月10日 - 1… 一戸 謙三(いちのへ けんぞう、1899年2月10日 - 1979年10月1日)は、日本の詩人。 青森県弘前市出身。青森県立弘前中学校(現:青森県立弘前高等学校)卒業。1919年、帰省した際、青森県で初めての詩人団体「パストラル詩社」を結成。福士幸次郎に師事し、一戸玲太郎の筆名で口語自由詩人として活躍した。1920年、経済的事情により慶應義塾大学医学部中退。1936年方言詩集『ねぷた』を刊行。1960年青森文化賞、1962年青森県褒賞を受ける。1979年10月1日、心不全のために死去。 昭和初期にはエスプリ・ヌーボーの影響を蒙り、知的観照性の高い散文詩へと移行したが、やがて方言詩に転身、高木恭造とならんで津軽方言詩人としても活動した。
阿波野 青畝(あわの せいほ、1899年(明治32年)2月1… 阿波野 青畝(あわの せいほ、1899年(明治32年)2月10日 - 1992年(平成4年)12月22日)は、奈良県出身の日本の俳人。本名は敏雄。旧姓・橋本。原田浜人、高浜虚子に師事。昭和初期に山口誓子、高野素十、水原秋桜子ととも「ホトトギスの四S」と称された。「かつらぎ」主宰。 市井の生活を材に、鷹揚な表現で自在な句境を構築した。古典を素地にした叙情性も特徴。句集に『万両』(1931年)、『除夜』(1986年)など。 奈良県高市郡高取町に橋本長治・かね夫妻の4男として生まれる。父は八木銀行高取支店長で士族の家系。幼少の時に耳を患い難聴となる。1913年、奈良県立畝傍中学校(現・奈良県立畝傍高等学校)に入学。
太田 公秀(おおた ただひで、1899年(明治32年)2月1… 太田 公秀(おおた ただひで、1899年(明治32年)2月10日 - 1987年(昭和62年)3月19日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級 1899年(明治32年)に東京府で生まれた。陸軍士官学校第32期、陸軍大学校第39期、東京帝国大学政治学科卒業。1939年(昭和14年)8月に第27師団参謀長に就任し、日中戦争に出動。1940年(昭和15年)8月1日に陸軍歩兵大佐に進級。同年10月22日に第6軍高級参謀に転じ、1941年(昭和16年)9月に陸軍大学校教官、1942年(昭和17年)10月に留守第3師団参謀長と歴任。1943年(昭和18年)6月10日に第43師団参謀長に転じ、10月15日に陸軍燃料廠廠員、1944年(昭和19年)3月1日に北スマトラ燃料工廠長を歴任し、太平洋戦争に出征。
楠瀬 常猪(くすのせ つねい、1899年2月10日 - 19… 楠瀬 常猪(くすのせ つねい、1899年2月10日 - 1988年6月18日)は、日本の政治家。広島県知事(官選第39代、公選初代)。参議院議員(1期)。 1899年に広島県に生まれる。1923年東京商科大学(一橋大学の前身)卒業。商工省課長、燃料局長官、中国地方行政事務局長官などを歴任する。 1945年に39代官選広島県知事となり、戦災都市復興協議会を設置、原爆投下で廃れていた広島の街の復興に努めた。官選知事を1947年3月まで務めた後、同年4月5日に初めて執行された広島県知事選挙に出馬し、中井正一らを破り当選。初代公選初代広島県知事に就任した。同年12月には昭和天皇の戦後巡幸があり、随行役を務めた。
田河 水泡(たがわ すいほう、1899年〈明治32年〉2月1… 田河 水泡(たがわ すいほう、1899年〈明治32年〉2月10日 - 1989年〈平成元年〉12月12日)は、日本の漫画家、落語作家。本名︰高見澤 仲太郎(たかみざわ なかたろう)。 昭和初期の子供漫画を代表する漫画家であり、代表作『のらくろ』ではキャラクター人気が大人社会にも波及し、戦後もさまざまなキャラクターグッズが作られるなど、社会現象となるほどの人気を獲得した。 東京府東京市本所区本所林町(現・東京都墨田区立川)の生まれ。出生直後に母親が亡くなり、父親が再婚するために、仲太郎は子供のいなかった伯父夫婦の元で育てられる。中国画や庭いじりを愛好していた伯父の影響で、仲太郎も絵筆を取るようになる。
足立 全康(あだち ぜんこう、男性、1899年(明治32年)… 足立 全康(あだち ぜんこう、男性、1899年(明治32年)2月8日 - 1990年(平成2年)12月19日)は日本の実業家。素封家。島根県能義郡飯梨村字古川(現・安来市古川町)出身。 実家は農業を営む。尋常小学校卒業後、家業を手伝う傍ら、村の商売の手伝いをし、次第に商売に深い関心を寄せてゆく。14歳の頃、炭を大八車で運搬する傍らそれを売ることで、初めて商売を手がけることになる。その後はさらに商売を手がけてゆき、類い希な商才を発揮してゆくことになる。 第二次世界大戦後は、敗戦後の瓦礫の中を駆け回り、大阪を商売の本拠地として、大阪と安来を商売で往復するようになる。その後、不動産投資を手がけるようになり、一代で財産を築く。
矢野 一郎(やの いちろう、1899年2月7日 - 1995… 矢野 一郎(やの いちろう、1899年2月7日 - 1995年4月17日)は、日本の実業家(元第一生命会長)、剣道家(剣道範士)。
岸田 日出刀(きしだ ひでと、1899年2月6日 - 196… 岸田 日出刀(きしだ ひでと、1899年2月6日 - 1966年5月3日)は、日本の建築学者・建築家。工学博士(1929年)。元東京大学教授。 戦前から戦後にかけて建築分野の造形意匠設計方面の権威であった。東京帝国大学工学部建築学科卒業後、大学に残り非常勤講師を務める傍ら、東京帝国大学大講堂(安田講堂)、同理学部1号館(現存せず)などの設計に携わり、内田祥三とともに関東大震災で被災した東京帝国大学のキャンパス復興に尽力した。東京大学建築学科では建築意匠設計教育に長くかかわり、岸田研究室には前川國男、丹下健三、立原道造、浜口隆一、浅田孝らが在籍し巣立っていったほか、前川や丹下らをバックアップし育てた。
兼岩 伝一(かねいわ でんいち、1899年2月5日 - 19… 兼岩 伝一(かねいわ でんいち、1899年2月5日 - 1970年9月15日)は、日本の都市計画家、土木技術者、政治家。1935年に創刊された雑誌「区画整理」の表紙を飾った標語として知られる「土地区画整理は都市計画の母」の造語を生み出した。 1899年、愛知県丹羽郡布袋町(現・江南市)の中小製紙工場の家に生まれる。 岐阜市立岐阜商業、名古屋中学校、第八高等学校を経て、1925年東京帝国大学工学部土木工学科卒。内務省に入り復興局技師となる。その後、愛知県都市計画技師に転出。1936年、三重県に移り、都市計画課長となる。巨大コンビナートを生み出す四日市市などの都市計画を立案。 1942年には東京府道路課長に、1943年には埼玉県土木課長に就任する。
戸田 止戈夫(とだ しかお、1899年(明治32年)2月5日… 戸田 止戈夫(とだ しかお、1899年(明治32年)2月5日 - 不明)は日本の実業家である。戸田工業の創業者であり、元社長である。岡山県井原市出身。 1899年(明治32年)岡山県後月郡西江原村(現:井原市)の戸田生一の四男として出生。1911年(明治44年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1916年(大正5年)17歳で同校を卒業。戸田接三の死去により、中備機業合資会社を引き継ぐ。同年、東洋除虫材を設立した。 東洋除虫材はその後、蚊取り線香の製造を始め、1920年(大正9年)に西江原にあった工場は、営業所とあわせて広島県安佐郡横川町(現:広島市西区)へ移転した。1926年(大正15年)広島県安佐郡深川にあった弁柄製造工場を買収し、1933年(昭和7年)に広島市横川町に弁柄の製造販売を事業目的とする戸田工業株式会社を資本金50万円で設立。
小辻 節三 (こつじ せつぞう、アブラハム・ベン・アブラハム… 小辻 節三 (こつじ せつぞう、アブラハム・ベン・アブラハム・コツジ、1899年〈明治32年〉2月3日- 1973年〈昭和48年〉10月31日)は、日本の言語学者、古代オリエント学者である。 1899年10月31日、賀茂神社の代々続いていた神主の家系の末子として京都に生まれた。神主であった父の影響で幼少期から神道を学び、学校教育では武士道を学んだ。 小辻が13歳の頃、明治天皇が崩御し、それに続いて乃木希典が殉死したことをきっかけに、生きる意味について考えるようになった。そこからたまたま古本屋で見つけたヘブライ語聖書を購入し、読むようになっていった。その後、父の反対を押し切り、明治学院大学神学部に進学した。
東畑 精一(とうばた せいいち、1899年(明治32年)2月… 東畑 精一(とうばた せいいち、1899年(明治32年)2月2日 - 1983年(昭和58年)5月6日)は、日本の農業経済学者。農学博士。位階は従二位。次女は東畑朝子。 三重県出身。シュンペーターの革新論や企業者論を中軸に日本の資本主義や農業問題に独自の解明を行った『日本農業の展開過程』などで第二次世界大戦の終結までは主に学究面で活躍、戦後は農林省農業総合研究所所長、アジア経済研究所所長、税制調査会会長など多くの調査研究機関、政策関係委員会の要職を歴任、戦後の日本社会に多方面で大きな影響を与えた。 1899年、三重県一志郡豊地村(現・松阪市)の地主の家に生まれた。東畑吉之助の長男。 三重県立第一中学校を経て、1919年7月旧制第八高等学校第二部丙類卒業ののち、東京帝国大学農学部に入学、農業経済学を専攻した(在学中の友人に蠟山政道・勝次郎(のち山田姓)兄弟がいる)。
開月 勘太郎(かいげつ かんたろう、1899年2月2日 - … 開月 勘太郎(かいげつ かんたろう、1899年2月2日 - 1966年7月16日)は、福岡県鞍手郡若宮町(現在の宮若市)出身で花籠部屋に所属した大相撲力士。本名は花田 勘太郎(はなだ かんたろう)。身長169cm、体重90kg。引退後は年寄として弟子を育てたこともあった。 1916年に当時の尾車部屋に入門する。その後、兄弟子の三杦磯善七に従って、所属部屋はしばしば変った(尾車→峰崎→片男浪→伊勢ノ海→花籠)。幕内在位時の所属部屋は伊勢ノ海部屋であったが、三杦磯の引退とともに興した花籠部屋に移籍し、そこで現役を終えた。 169cmという小柄で、体重も90kgという軽量で、右四つから食い下がる相撲を得意とした。
山田 正平(やまだ しょうへい、明治32年(1899年)2月… 山田 正平(やまだ しょうへい、明治32年(1899年)2月1日 - 昭和37年(1962年)8月16日)は、新潟県出身の篆刻家。「昭和の代表的篆刻家」。
山谷 太郎(やまや たろう、1899年(明治32年)2月 -… 山谷 太郎(やまや たろう、1899年(明治32年)2月 - 1952年(昭和27年))は、日本の実業家、俳人。日新書院取締役。脚本家・演出家の倉本聰の父。俳号は春潮。 山谷徳治郎の長男として岡山県津山市に生まれる。第六高等学校及び東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、日清製粉に入社。その後、父が経営する日新医学社に入り、その経営に当たる傍ら月刊雑誌『科学ペン』を主宰した。のち日新医学社社長を経て、自ら日新書院を創業、同社社長ののち取締役。 終戦後、善福寺 (杉並区)にあった三百坪の自宅を進駐軍に接収され、事業も傾いた。晩年は借金に追われ、52歳の若さで没した。 趣味は俳句・鳥・気象・柔道、宗教はキリスト教。
山田 俊介(やまだ しゅんすけ、1899年1月31日 - 1… 山田 俊介(やまだ しゅんすけ、1899年1月31日 - 1969年7月1日)は、日本の政治家、内務官僚、従四位勲二等瑞宝章。 青森県知事(第42代)、満洲国警務総局長兼保安局長官、福岡県知事(第35代)、逗子町長(1期)、逗子市長(4期)を歴任した。 兵庫県明石市生まれ。父は逗子開成中学校の創設、経営に尽力した漢学者の山田武臣。代々三日月藩主に仕えた漢学者の家系であった。逗子開成中学校、東京陸軍幼年学校を経て、東京中学校、第七高等学校造士館、東京帝国大学経済学部を卒業。特に東京陸軍幼年学校時代に生徒監であった阿南惟幾に目をかけられ、後に同期に先んじて知事に抜擢されたのは阿南の推薦があったからだという。
和栗 明(わくり あきら、1899年1月31日 - 1986… 和栗 明(わくり あきら、1899年1月31日 - 1986年11月28日)は、日本の機械工学者。九州大学名誉教授。第2代久留米工業短期大学学長。初代久留米工業高等専門学校校長。日本学士院賞受賞。和栗雄太郎九州大学名誉教授は長男。 岡山県出身。1923年九州帝国大学工学部機械学科卒業。1936年九州帝国大学工学博士。九州帝国大学工学部講師、九州帝国帝国大学工学部助教授を経て、1938年九州帝国大学校工学部教授。1953年「歯車に関する研究」により成瀬政男東北大学教授、中田孝東京工業大学教授とともに日本学士院賞を受賞。1964年久留米工業高等専門学校校長、日本機械学会名誉員。1969年勲二等瑞宝章受章。
佐藤 得二 (さとう とくじ、1899年1月30日 - 19… 佐藤 得二 (さとう とくじ、1899年1月30日 - 1970年2月5日)は、日本の仏教学者、作家。哲学研究者として朝鮮の水原高等農林学校(現・ソウル大学校農業生命科学大学)、京城帝国大学予科教授、第一高等学校教授を歴任。『仏教の日本的展開』は名著として知られる。その後、文部省督学官、社会教育局長、国際文化会館参与などを務めた。 岩手県胆沢郡金ケ崎村(現金ケ崎町)出身。盛岡中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学文学部哲学科卒。 戦後は結核に罹患し、貧困にも苦しむが再起し、1963年には親戚の女性の話をもとにした初の小説『女のいくさ』を刊行、直木賞を受賞。当時64歳という最高齢での受賞であり、「老人の新人」出現として話題をよんだ(のち、記録は古川薫の65歳での受賞に破られる)。
池田 政鋹(いけだ まさとし、1899年(明治32年)1月3… 池田 政鋹(いけだ まさとし、1899年(明治32年)1月30日 - 1945年(昭和20年)7月17日)は、日本の官僚・政治家。貴族院議員、子爵。従四位勲四等、研究会所属。 岡山県生まれ。本籍地は東京府。池田詮政の二男。伯父(詮政の兄)で鴨方藩知事であった池田政保の養子となる。 1924年(大正13年)、慶應義塾大学法学部を卒業。同年以降、臨時帝室編修官補、拓務属、朝鮮総督秘書官となるほか、麻布銀行取締役となる、また拓務省、大東亜省各委員、朝鮮農地開発営団監事などになる。 1937年(昭和12年)2月4日、養父が隠居し、家督を相続し同月15日、子爵を襲爵した。1939年(昭和14年)5月28日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し死去するまで在任した。
青木 清左衛門(靑木 清左ヱ門、あおき せいざえもん、189… 青木 清左衛門(靑木 清左ヱ門、あおき せいざえもん、1899年(明治32年)1月29日 - 1981年(昭和56年)1月21日)は、大正から昭和期の青年団指導者、実業家、政治家。衆議院議員(2期)、福井県坂井郡本荘村長。幼名は是茂。 福井県坂井郡芦原村(芦原町を経て現あわら市)で青木栄の長男として生まれ、父の実家、坂井郡本荘村河間(芦原町を経て現:あわら市)の代々庄屋を務めた青木家の養子となる。1919年(大正8年)福井県立福井中学校(現福井県立藤島高等学校)を卒業した。 本荘村青年団長、坂井郡青年団副団長、福井県青年団長を務め、福井青年社を設立。月刊雑誌『福井県青年』『若越春秋』の出版を行う。
尾高 朝雄(おだか ともお、1899年1月28日 - 195… 尾高 朝雄(おだか ともお、1899年1月28日 - 1956年5月15日)は、日本の法学者(法哲学)。日本学士院会員。第3期日本学術会議副会長。 漢学者で銀行家である尾高次郎の三男として生まれる。大韓帝国の釜山市生まれ。1916年に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業した後、第一高等学校、東京帝国大学法学部卒業。初め外交官を志すも、親の反対により諦め、京都帝国大学文学部に進学し、文学部卒業後は大学院で哲学を研究する。京都帝国大学では西田幾多郎、米田庄太郎に師事した。 1927年、兄・豊作と共に、東京社会科学研究所を設立し、所長に大塚金之助を、常務理事に田辺寿利を、所員に杉本栄一や高島善哉を招くなどした。
臼井 芳一(うすい よしかず、1899年1月28日 - 19… 臼井 芳一(うすい よしかず、1899年1月28日 - 1980年2月9日)は、日本の経営者。伊奈製陶(INAXを経て、現在のLIXIL)社長を務めた。 栃木県栃木市出身。1921年に東京高等工業学校窯業学科を卒業した。 日本陶器(ノリタケカンパニーリミテドを経て、現在のノリタケ)での勤務を経て、1924年に伊奈製陶に転じ、1933年に取締役、1948年9月に常務を経て、1963年12月に社長に就任した。1968年10月、相談役に就任した。 1967年10月に藍綬褒章を受章した。 1980年2月9日、脳梗塞のため死去した。81歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
西村 熊雄(にしむら くまお、1899年1月27日 - 19… 西村 熊雄(にしむら くまお、1899年1月27日 - 1980年11月12日)は、日本の外交官。 佐賀県出身。佐賀中学、五高を経て1923年(大正12年)、東京帝国大学法学部法律学科(英法)卒業後外務省入省、在中華民国日本国大使館外交官補。入省同期や前後期に井口貞夫(駐米大使、外務事務次官)、田尻愛義(外務次官、大東亜次官、政務局長)、安東義良(駐ブラジル大使、欧亜局長)、伊東隆治(自治政務次官、衆議院議員)などがいる。 在フランス日本国大使館書記官を経て、1937年条約局三課長、1940年条約局一課長、1944年(昭和19年)ハノイ総領事。終戦(敗戦)後の1947年(昭和22年)から1952年(昭和27年)の条約局長時にサンフランシスコ平和条約、旧日米安保条約締結の事務にあたる。
大谷 虎三(おおたに とらぞう、明治32年〈1899年〉1月… 大谷 虎三(おおたに とらぞう、明治32年〈1899年〉1月27日 - 没年不詳)は、日本の実業家、政治家。元赤沢組社長。元協同建設社長。元米子市議会議員。 大正14年(1925年)、鉄道省指定請負赤沢康平本店に入る。昭和2年(1927年)、同店代人。昭和7年(1932年)、赤沢組常務となり、昭和8年(1933年)、大鉄工業取締役米子支店長。昭和19年(1944年)、同社相談役。 昭和20年(1945年)、赤沢組社長に就任。昭和21年(1946年)、伯耆貨物自動車監査役。昭和22年(1947年)、同社取締役を各兼任。なお山陰日日新聞社取締役米子商工会議所常議員を兼務。この間、昭和22年(1947年)、昭和26年(1951年)米子市議各当選。
桜井 三郎(さくらい さぶろう、1899年1月26日 - 1… 桜井 三郎(さくらい さぶろう、1899年1月26日 - 1960年4月8日)は日本の政治家、内務官僚。熊本県知事(官選第34代、公選初代-第3代)、参議院議員(1期)。位階は正三位。医学者、参議院議員の高桑栄松は弟。 新潟県西蒲原郡地蔵堂町(現燕市)に10人兄弟の長兄として生まれる。旧制新潟県立巻中学校、旧制第四高等学校を経て、1926年に京都帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、島根県書記官・警察部長、警視庁部長・消防部長、徳島、福岡両県の内政部長などを歴任。戦中は熊本県で官選知事を務め、1947年の熊本県知事選挙に出馬。細川隆元らを退けて当選した。この際、GHQの幹部が桜の枝を持って投票所を回り、桜井を暗に支持する選挙干渉があったという。
両角 政人(もろずみ まさと、まさんど、1899年1月25日… 両角 政人(もろずみ まさと、まさんど、1899年1月25日 - 1988年12月30日)は、日本の新聞記者、スケート指導者。 長野県諏訪郡宮川村(現茅野市)出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校の前身)から早稲田大学政治経済学部に進み、1923年に体育会スケート部を創設し、第1回の学生選手権大会の組織などにあたり、1925年には日本学生氷上競技連盟を設立した。また、大学時代に学生新聞の編集に参画し、1926年に政治学科を卒業すると、報知新聞に入社し、運動部の設置に関わった。新聞記者として、報知新聞運動部長、読売新聞機報部長などを歴任するかたわら、1929年に発足した日本スケート連盟の運営に永く関わり、1937年以降、永く理事長を務めた。
佐久間 徹(さくま とおる、1899年(明治32年)1月24… 佐久間 徹(さくま とおる、1899年(明治32年)1月24日 - 1977年(昭和52年)1月27日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 千葉県市原市出身。佐久間信太郎の長男として生まれる。1923年(大正12年)早稲田大学商学部を卒業した。 帝国火災保険に入社し、直営課長、福岡支店長、横浜支店長などを歴任。帝国火災保険が合併して日本火災海上保険(のち日本興亜損害保険)になると文書部長、取締役兼地方営業部長を務めた。その他、房総漁業監査役、千葉県漁網取締役、川崎定徳取締役、関東天然瓦斯開発取締役、高砂交通会長、千葉工業大学理事、同理事長などを務めた。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で千葉県第1区から民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
堀田 庄三(ほった しょうぞう、1899年1月23日 - 1… 堀田 庄三(ほった しょうぞう、1899年1月23日 - 1990年12月18日)は日本の銀行家。住友銀行頭取を19年務め(1952年~1971年)、「住銀の法皇」と称された。住友家評議員会委員長、住友老壮会会長、日本航空元会長。勲一等旭日大綬章受章。元モルガン・スタンレー証券代表取締役会長の堀田健介は長男。大正製薬社長の上原明は二男。
高原 逸人(たかはら はやと、1899年〈明治32年〉1月2… 高原 逸人(たかはら はやと、1899年〈明治32年〉1月23日 - 1977年〈昭和52年〉9月2日)は、昭和時代の台湾総督府官僚、陸軍司政長官。高雄州知事、花蓮港庁長。旧姓は早川。 高原金治の長男として福岡県京都郡豊津村(現・みやこ町豊津)に生まれる。豊津中学(現在の福岡県立育徳館高等学校の前身のひとつ)、旧制第五高等学校を経て、1925年(大正14年)3月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。在学中の1924年(大正13年)11月に高等試験行政科に合格。 大学卒業後直ちに渡台し、台湾総督府専売局書記庶務課勤務を拝命。ついで専売局副参事、台南州内務部地方課長、府中央研究所事務官庶務課長、府審議室事務官、新竹州警務部長、高雄州内務部長、府事務官殖産局農務課長を経て、1942年(昭和17年)9月、陸軍司政長官に任命され、高雄州知事を務めた。
林 正之助(はやし しょうのすけ、1899年〈明治32年〉1… 林 正之助(はやし しょうのすけ、1899年〈明治32年〉1月23日 - 1991年〈平成3年〉4月24日)は、吉本興業元会長・社長。興行師、芸能プロモーター。 風貌、豪快な性格からあだ名を「ライオン」と呼ばれていた。 兵庫県明石市出身で、大阪府大阪市北区育ち。米穀商を営んでいた林豊次郎の長男として出生。母親は林ちよ、姉は吉本興業創業者の吉本吉兵衛(後に泰三と改名)の妻の吉本せい。弟は旧吉本興業株式会社(初代東京吉本)の社長を務めた林弘高。実子は林マサで、その夫(娘婿)は林裕章。 1917年、18歳の時に吉本興業の前身、吉本興行部に入社し、19歳で総監督となった。1948年に吉本興業合名会社が株式会社に改編されたのを機に、初代の社長に就任。