紺野 陽吉(こんの ようきち、1913年5月16日 - 19… 紺野 陽吉(こんの ようきち、1913年5月16日 - 1945年10月3日)は、山形県生まれの作曲家。 1913年、山形県西置賜郡東根村大字畔藤(現白鷹町畔藤)で生まれる。紺野家は祖父の代からの医者の家で、陽吉は男3人女3人の6人兄弟の次男であった。県立長井中学校 (現山形県立長井高等学校) を1931年に卒業し、上京する。親は医学の道を望んだが、本人は自分の好きな音楽の道へ進む。立教大学交響楽団やコンセール・ポピュレール (後の青年日本交響楽団) というセミプロ楽団でヴァイオリンを弾く。生活の糧は、当時さかんに発売されていたポピュラー音楽のレコード録音の伴奏者として得ていたものと考えられる。
瀧内 正(たきうち ただし、1913年(大正2年)5月16日… 瀧内 正(たきうち ただし、1913年(大正2年)5月16日 - 2006年(平成18年)6月11日)は、日本の政治家。都城市長を2期歴任した。 福岡県浮羽郡、のちの浮羽町(現うきは市)で生まれた。1934年(昭和9年)福岡師範学校を卒業。さらに1943年(昭和18年)明治大学法科を卒業。 1944年(昭和19年)1月、都城市役所に入所した。同市職組合長、資材課長、厚生課長、庶務課長、総務課長を歴任。1953年(昭和28年)都城市議会議員に選出され2期在任。1976年(昭和51年)都城市長に選出され2期在任した。 1976年、前市長の堀之内久男が衆議院議員総選挙出馬に無所属で出馬を表明したために、後任の市長を選出するための選挙を行う。
藤間 生大(とうま せいた、1913年5月16日 - 201… 藤間 生大(とうま せいた、1913年5月16日 - 2018年12月10日)は、日本の歴史学者、考古学者で、古代日本史から近代東アジア史まで幅広く研究を行った。 広島市生まれ。1936年、早稲田大学文学部史学科卒。1938年、日本評論社入社、戦前には教育科学研究会生活教育研究部会に参加。1945年7月、埼玉県立浦和中学校教諭、1949年、民主主義科学者協会事務局常任書記長、1951年まで務める。1952年の第25回衆議院議員総選挙及び1953年の第26回衆議院議員総選挙に埼玉1区から出馬するが落選。1971年、熊本商科大学教授、同付属海外事情研究所長、1982年、退職。 日本共産党に属し、戦後しばらく、マルクス主義歴史学者として、井上清、石母田正と並んで盛名を馳せ、当時の学生の必読書となった。
野中 国男(のなか くにお、1913年(大正2年)5月15日… 野中 国男(のなか くにお、1913年(大正2年)5月15日 - 1947年(昭和22年)4月28日)は、日本の陸軍軍人である。最終階級は陸軍少佐。正六位。インパール作戦に参謀として従軍、終戦後の復員前に不可解な自決を遂げた。 佐賀県神埼郡神埼町において生まれる。野中は幼少の頃より秀才であったが、生家は貧しかったので、町内の素封家の学資援助で、神埼町立神埼小学校へ入学、納富健次郎と生涯にわたる親友となり共に首席を争うが納富にはかなわなかった。納富は海軍兵学校第62期として皇族2名を除いて14番/123名で卒業している。空母「瑞鶴」飛行隊長(海軍大尉)として、1943年(昭和18年)11月8日の第2次ブーゲンビル島沖航空戦で戦死、海軍中佐に二階級特進している。
伊黒 正次(いぐろ まさじ、1913年5月14日 - 200… 伊黒 正次(いぐろ まさじ、1913年5月14日 - 2000年10月4日)は、1930年代に活躍した元スキージャンプ選手。 山形県生まれで、7歳の時小樽の伊黒家に養子入りする。旧姓は松宮。旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校)-北海道帝国大学(現:北海道大学)から札幌鉄道局(札鉄、のち札幌鉄道管理局)。安達五郎は旧制小樽中学の同期生である。 1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックに出場し、ジャンプ競技で7位入賞を果たす(当時は入賞は6位までだったため、入賞はならなかった)。 1938年(昭和13年)のノルディックスキー世界選手権大会(フィンランド・ラハティ)で10位。 1940年札幌オリンピックが幻に終わったことを機に札鉄を退職して茨城県の日立製作所に転職、一時競技を離れた。
普川 茂保(ふかわ しげやす、1913年5月13日 - 19… 普川 茂保(ふかわ しげやす、1913年5月13日 - 1995年5月30日)は日本の実業家。元日本信託銀行社長・会長。 神奈川県出身。旧制神奈川県立小田原中学校(神奈川県立小田原高等学校の前身)、旧制東京商科大学(一橋大学の前身)を経て、第百銀行に入行。 三菱銀行で総務部長や常務を務めたのち、1974年に日本信託銀行社長就任。日本列島改造論後の不動産不況で多額の不良債権が生じていた同行のたてなおしにあたった。また労働組合との関係改善も進め、のちの三菱銀行との経営統合の基盤を作った。1981年に社長を退任し、会長に就任。1987年6月、会長を退き、取締役相談役に就任。1988年6月には取締役を退任し相談役に就任。
山元 恵一(やまもと けいいち、1913年(大正2年)5月1… 山元 恵一(やまもと けいいち、1913年(大正2年)5月13日 - 1977年(昭和52年)11月)は、沖縄県出身の洋画家。 那覇市西村生まれ。父親は警察官。沖縄県立第二中学校(現・沖縄県立那覇高等学校)に進学、「樹緑会」に属し美術教師の比嘉景常から指導を受ける。卒業後、反対を押し切り上京し、東京美術学校を受験するが失敗、川端画学校に入り木炭によるデッサンを習得した。 1933年(昭和8年)、東京美術学校油画科に入学し、シュルレアリスムのグループ〈貌〉に加わる。1938年(昭和13年)、東京美術学校油画科を卒業。1941年(昭和16年)、比嘉景常の後任の美術教師として県立第二中学校に赴任する。
中村 健也(なかむら けんや、1913年5月13日 - 19… 中村 健也(なかむら けんや、1913年5月13日 - 1998年8月11日)はトヨタ自動車工業(現在のトヨタ自動車)の元技術者で、初代トヨペット・クラウン、及び初代トヨペット・コロナの開発責任者(トヨタ自動車での呼称は車両開発主査〔後にチーフエンジニアに名称変更〕)。また、日本の自動車開発に於けるチーフエンジニア制を築いた人物でもある。 兵庫県西宮市出身。1934年3月に長岡高等工業学校(現在の新潟大学工学部電気工学科)を卒業。共立自動車製作所勤務を経て、1938年9月にトヨタ自動車工業に入社、志望として設計、実験の分野を希望していたが、出身校や溶接の知識に詳しい事が注目され挙母工場(後の本社工場)車体生産課工機係に配属され、自社での大型2000tプレス機の開発、溶接機の改良等、工場の生産能力の向上に尽力する。
村形 繁明(むらかた しげあき、1913年5月11日 - 2… 村形 繁明(むらかた しげあき、1913年5月11日 - 2007年9月6日)は、東京都出身のサッカー選手、サッカー審判員。選手時代のポジションはGK。 東京府立第八中学校(現:東京都立小山台高等学校)時代にサッカーを始める。第一早稲田高等学院を経て、早稲田大学理工学部に入学し、ア式蹴球部に入部した。4年次の1936年に後輩の佐野理平の台頭や、川本泰三の勧めもあってマネージャーへ転向した。 1937年に大学を卒業して三井物産に入社。同時に審判としての勉強も始め、同年7月に大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)審判研修会に参加した。 戦後、日本スポーツ界の国際大会への復帰が認められると、オリンピック招致と1958年のアジア大会が待ち構えていた。
中村 正二郎(なかむら しょうじろう、1913年5月9日 -… 中村 正二郎(なかむら しょうじろう、1913年5月9日 - 1977年12月4日)は、日本の教育者。医学者。山口大学第5代目学長。専門は基礎医学・生化学。 京都帝国大学医学部卒業。1944年、山口県立医学専門学校(現・山口大学医学部)講師、同校助教授、同校教授を経て、1973年山口大学第5代目学長に就任(1977年まで)。日本電気泳動学会総会第12回総会長を務めた。 就任当時は実験機器が不足していた為、必要な物は手作りで補い、実験に取り組んでいた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
林 大 (はやし おおき、1913年5月8日 - 2004年… 林 大 (はやし おおき、1913年5月8日 - 2004年3月30日) は、日本の国語学者。国立国語研究所所長、国語学会代表理事などを務めた。 林古渓の長男として、東京市に生まれた。1934年に浦和高等学校を卒業し、東京帝国大学に入った。文学部国文学科で橋本進吉に師事し、1937年に卒業した。 1946年に文部省教科書局嘱託となる。1949年からは、国立国語研究所と文部省調査普及局国語課に兼務した。1960年には国立国語研究所第一研究部部長、1966年には同第四研究部部長に任ぜられた。 1967年からは文部省初等中等教育局視学官、1972年からは同主任視学官として、学年別漢字配当表および学習指導要領国語科編の改訂にたずさわった。
目代 渉(もくだい わたる、1913年5月8日 - 2002… 目代 渉(もくだい わたる、1913年5月8日 - 2002年2月9日)は、日本の経営者、工学博士。東洋ゴム工業社長、会長を務めた。高知県高知市出身。 1937年に東京帝国大学理学部応用化学科を卒業し、東洋紡での勤務を経て、1944年9月に東洋ゴム工業に入社。1959年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1965年5月に社長に就任。1977年5月に会長に就任し、1983年6月には相談役に就任。 1977年に紺綬褒章を受章し、1978年に藍綬褒章を受章し、1983年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
李 康友(り こうゆう、1913年5月8日 - 1990年1… 李 康友(り こうゆう、1913年5月8日 - 1990年1月3日)は、日本の実業家である。三亜薬品工業(現在の日本ベーリンガーインゲルハイム)創業者・社長、東亜興行創業者・社長。東京韓国商工会議所初代会長、在日韓国商工会議所初代会長を歴任した。日本名は高橋 康友(たかはし こうゆう)、おもに映画界では日本名を名乗った。大韓民国勲章(朝鮮語版)冬柏章受章者。 1913年(大正2年)5月8日、日本統治時代の朝鮮・慶尚南道昌原郡東面(現在の大韓民国慶尚南道昌原市義昌区東邑)に生まれる。 長じて東京に移住し、星薬科大学を卒業する。1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦終結後も東京に残り、翌1946年(昭和21年)には、中野区鷺宮に三亜薬品工業株式会社を設立、胃腸薬「イモール」の製造販売を行った。
久米 常民(くめ つねたみ、1913年5月5日 - 1977… 久米 常民(くめ つねたみ、1913年5月5日 - 1977年2月10日)は、日本の国文学者。専門は万葉集であり、中部地方における万葉研究の中心的な役割を果たした。学位は、博士(文学)(名古屋大学)。愛知県知多郡東浦村(現・東浦町)出身。 1913年(大正2年)5月5日、愛知県知多郡東浦村(現・東浦町)藤江に生まれた。1920年(大正9年)4月に藤江尋常小学校に入学し、1926年(大正15年)3月に藤江尋常小学校を卒業した。1926年(大正15年)4月に旧制愛知県立半田中学校に入学し、1931年(昭和6年)3月に愛知県立半田中学校を卒業した。半田中学校時代の友人として、後に児童文学作家となる新美南吉(本名は新美正八)がおり、南吉と久米は互いが書いた文学作品を交換して読み合うなどしていた。
近藤 芳美(こんどう よしみ、1913年〈大正2年〉5月5日… 近藤 芳美(こんどう よしみ、1913年〈大正2年〉5月5日 - 2006年〈平成18年〉6月21日)は、日本の歌人。男性。 本名は近藤 芽美(読み同じ)。戦後の歌壇を牽引する歌人として活動し、文化功労者に選ばれた。長年「朝日歌壇」(朝日新聞)の選者を務めたことで知られるほか、建築家としての顔も持ち、ゼネコンや大学に籍を置く。 東工大建築科卒。「アララギ」に入会、土屋文明に師事。1948年刊行の『埃吹く街』は戦後の短歌の方向を樹立したものといわれている。戦争経験をもつ知識人の立場から時代状況を鋭く歌いつづけた。ほかに『黒豹』(1968年)など。 1913年、慶尚農工銀行(後の朝鮮殖産銀行)に勤務する父の赴任先だった朝鮮・慶尚南道の馬山で出生。
舟橋 正夫(ふなばし まさお、1913年 <大正2年> 5月… 舟橋 正夫(ふなばし まさお、1913年 <大正2年> 5月5日 - 1996年 <平成8年> 8月16日)は、日本の経営者。古河電気工業社長を務めた。位階は正四位。 愛知県名古屋市出身。1932年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に古河電気工業に入社。1964年11月に取締役に就任し、1968年7月に常務、1971年12月に専務を経て、1973年6月に副社長に就任し、1974年11月には社長に昇格。1983年6月に会長を経て、1989年6月から取締役相談役を務めた。 1980年4月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲二等旭日重光章を受章した。 1996年8月16日食道がんのために死去。
森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 200… 森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 2009年11月10日)は、日本の俳優、歌手、コメディアン、元NHKアナウンサー。最終期はアクターズセブン所属。別表記に森繁久弥。
森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 200… 森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 2009年11月10日)は、日本の俳優、歌手、コメディアン、元NHKアナウンサー。最終期はアクターズセブン所属。別表記に森繁久弥。
若槻 哲雄(わかつき てつお、1913年5月4日 - 199… 若槻 哲雄(わかつき てつお、1913年5月4日 - 1993年4月2日)は、日本の物理学者。専門は原子核物理学。第10代大阪大学総長。元大阪府教育委員長。長野県長野市出身。位階勲等は従三位勲一等瑞宝章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
今中 寛司(いまなか かんじ、1913年5月4日 - 200… 今中 寛司(いまなか かんじ、1913年5月4日 - 2007年12月4日)は、日本の思想史学者。学位は、文学博士(京都大学・1968年)(学位論文「徂徠学の基礎的研究」)。同志社大学名誉教授。専門は、近世日本政治思想史、特に荻生徂徠。 奈良県出身。京都帝国大学卒。1968年、「徂徠学の基礎的研究」で京都大学より文学博士の学位を取得。神戸大学教育学部助教授、1959年、同志社大学文学部助教授、教授、1984年、定年退任、名誉教授。1989年、勲三等瑞宝章受章。奈良本辰也と『荻生徂徠全集』全5巻を編纂した。 2007年12月4日、老衰のため死去。
大堀 弘(おおほり ひろむ、1913年5月3日 - 1985… 大堀 弘(おおほり ひろむ、1913年5月3日 - 1985年5月12日)は、日本の商工官僚。電源開発総裁、共同石油社長。大堀孝の長男。 和歌山市出身。高輪尋常小学校、旧制武蔵高校を経て、1936年に東京帝国大学法学部卒業、同年、商工省入省。貿易局属。同期に小室恒夫(通商局長、新日鉄化学社長)、村田恒、皆川良三(札幌通産局長)、永野量、佐藤清一(共に東京通産局長)など。 戦後の1948年兵器処理委員会に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。のち商工省から新制通産省と改称の後もしばらくは、吉田茂や白洲次郎、初代通産省官房長の永山時雄らの「外交派」・「通商派」らが実権を握っていたが、その後の朝鮮特需によりジョゼフ・ドッジらの自由経済から方向転換、主流の「産業派」もしくは「統制派」の復権後は、永山が東京通産局に、大堀も中小企業庁長官ののち経済企画庁に出された。
高橋 浩一郎(たかはし こういちろう、1913年5月3日 -… 高橋 浩一郎(たかはし こういちろう、1913年5月3日 - 1991年8月21日)は、日本の気象学者。理学博士(東京帝国大学・論文博士・1948年)(学位論文「外插法に基く量的天気予報の研究」)。 東京市下谷区生まれ。父は医師で随筆家の高橋毅一郎。旧制東京高等学校を経て、1936年東京帝国大学理学部物理学科卒業、中央気象台に入る。1948年「外插法に基く量的天気予報の研究」で東京帝国大学より理学博士の学位を取得。気象研究所予報研究部長、札幌管区気象台長、気象庁予報部長、気象庁長官、筑波大学教授、1977年定年退官。日本気象協会副会長。1969年藤原賞受賞。
岡上 鈴江(おかのうえ すずえ、1913年5月3日 - 20… 岡上 鈴江(おかのうえ すずえ、1913年5月3日 - 2011年1月27日)は、日本の児童文学者・翻訳家。 小川未明の次女として東京に生まれる。日本女子大学英文学科卒。外務省勤務ののち、児童文学の再話・翻訳などの著述生活に入る。日本児童文芸家協会顧問。 「日本近代童話の父」と讃えられた未明の没後30周年を記念し、1991年に小川未明文学賞が創設された際には小川未明文学賞委員会会長に就任。以来、理想と現実の問題に真摯に取り組む児童文学作家を世に送り出してきた。未明の精神である「誠実な人間愛と強靭な正義感」を育むよう、その生涯を通して子供たちにエールを送り続けた。 2011年1月27日、心筋梗塞のため東京都杉並区の自宅で死去。
佐藤 一郎(さとう いちろう、1913年(大正2年)5月1日… 佐藤 一郎(さとう いちろう、1913年(大正2年)5月1日 - 1993年(平成5年)2月26日)は、日本の大蔵官僚、政治家。参議院議員(2期)、衆議院議員(4期)。経済企画庁長官(第20代)。位階は正三位。 一高を経て、1937年(昭和12年)3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。1936年(昭和11年)10月、高等試験行政科に合格。1937年4月、大蔵省入省。預金部兼大臣官房文書課属。入省成績はビリに近い方だったといわれている。戦争末期1944年(昭和19年)7月、神奈川県庁に出向し、教育、人事、庶務の各課長を歴任し、学徒動員をめぐって軍部とかなりやりあった。 戦後は、片山哲内閣総理大臣秘書官。
矢沢 大二(やざわ だいじ、1913年5月1日 - 1994… 矢沢 大二(やざわ だいじ、1913年5月1日 - 1994年5月29日)は、日本の地理学者である。(旧)東京都立大学教授、日本地理学会会長。紫綬褒章、勲三等旭日中綬章受章。 1913年、長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)で生まれた。旧制諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)時代に三沢勝衛の教えを受け、地理学を志した。旧制新潟高等学校理科乙類を経て、東京帝国大学理学部地理学科に進学。同大学を1936年に卒業した。 戦時中は陸軍参謀本部気象班長として勤務。 1950年、(旧)東京都立大学理学部助教授に就いた。1953年、学位論文『気候景観の地理学的研究』を東京大学に提出して理学博士号を取得。1959年に教授昇格。
西川 次郎(にしかわ じろう、1913年5月1日 - 199… 西川 次郎(にしかわ じろう、1913年5月1日 - 1994年3月17日)は、日本の経営者。古河鉱業(現在の古河機械金属)社長を務めた。和歌山県出身。 1937年に北海道帝国大学工学部鉱山科を卒業し、同年に古河鉱業に入社。1964年11月に取締役に就任し、1969年5月に常務、1971年3月に専務を経て、1976年11月に副社長に就任し、1980年6月に社長に昇格。1987年6月に会長に就任し、1989年6月から常勤相談役を務めた。 1973年11月に藍綬褒章を受章し、1986年4月に勲二等旭日重光章を受章した。 1994年3月17日脳梗塞のために死去。80歳没。
鈴木 保男(すずき やすお、1913年4月30日 - 200… 鈴木 保男(すずき やすお、1913年4月30日 - 2000年以前)は、神奈川県出身のサッカー選手、サッカー指導者。日本代表としてベルリンオリンピックに出場した。後に改姓して高島保男となった。 東京府立第八中学校 (現:東京都立小山台高等学校) を卒業後、早稲田大学に入学してア式蹴球部に入部した。堀江忠男や立原元夫らが同期に当たり、大学在学中の1934年5月に開催された第10回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、5月15日のフィリピン代表戦で初出場した。 1936年に大学を卒業した。同年に開催されたベルリンオリンピックのサッカー日本代表メンバーに選出され、8月7日のイタリア代表戦に出場した。
中江 孝男(なかえ たかお、1913年4月30日 - 没年不… 中江 孝男(なかえ たかお、1913年4月30日 - 没年不明)は、日本の官僚・実業家。東京帝国大学在学中にバスケットボール選手として活躍し、1936年ベルリンオリンピックへの出場経験がある。のちに農林省に官僚として勤務したのち、祖父中江種造の興した中江産業に務める。志賀直哉の娘婿である。 祖父は鉱山王と呼ばれ中江産業を興した中江種造。父は種造の子・種一で、母は料理研究家として知られる中江百合(渡辺暢の娘)。 旧制成城高等学校、東京帝国大学農学部に学び、籠球部に所属。1936年ベルリンオリンピックでは、同じ東京帝大の田中秀次郎・鹿子木健日子とともにバスケットボール日本代表に選ばれた。 大学卒業後、農林省に入省し官僚となる。
原 文兵衛(はら ぶんべえ、1913年(大正2年)4月29日… 原 文兵衛(はら ぶんべえ、1913年(大正2年)4月29日 - 1999年(平成11年)9月7日)は、日本の内務官僚、政治家。位階は従二位、勲等は勲一等旭日桐花大綬章。
岡本 良一(おかもと りょういち、1913年4月29日 - … 岡本 良一(おかもと りょういち、1913年4月29日 - 1988年8月2日)は、日本の歴史学者。 大阪府大阪市生まれ。1938年、京都帝国大学文学部史学科を卒業。 明浄高等女学校教諭を経て、1942年から大阪市に職員採用され、大阪城天守閣に配属され、大阪城主任として1968年3月に退職するまで26年間天守閣に勤務する。 退職後に、関西大学、羽衣学園短期大学の講師となる。大阪市史料調査会・理事、堺市立博物館・初代館長などを歴任する。1969年3月から研究・著作に専念する。 1988年8月2日、大阪市内の病院で肝臓癌で死去。
武田 範芳(たけだ のりよし、1913年4月28日 - 19… 武田 範芳(たけだ のりよし、1913年4月28日 - 1989年7月29日)は、北海道旭川市出身の洋画家。色の魔術師と呼ばれた国際的な画家である。エーゲ海をはじめて描いた作家でもあり、1960年代より国際展に出品し多くの国際賞を獲得した。フランス美術家連盟会員。ル・サロンフランス政府展 金 銀 銅 受賞。長男は俳優の武田光太郎。6親等に武田真治がいる。 1913年4月28日、北海道旭川生まれ。小学校のときに応募した水彩画公募展の審査員であった上野山清貢にほめられたことを契機に画家を志す。1932年、北海道庁立永山農業学校(現北海道旭川農業高等学校)林学科を卒業して上川支庁林務課に勤務し、大雪山自然林の保護に携わる。
田島 英三(たじま えいぞう、1913年4月28日 - 19… 田島 英三(たじま えいぞう、1913年4月28日 - 1998年10月10日)は、日本の物理学者。立教大学名誉教授。原子力安全研究協会元理事長。原子力の研究と平和利用に生涯を捧げ、日本における「放射線影響」の概念の普及に貢献するとともに、日本人初の国連職員(原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)初代科学担当官)として海外においても活躍した。 1913年(大正2年)、埼玉県行田市に生まれる。1938年(昭和13年)、東京文理科大学(現・筑波大学)物理学科卒業。 理化学研究所で仁科芳雄に師事し、原子核、原爆の研究に従事する。戦後まもなく、日本学術研究会議による「原子爆弾災害調査特別委員会」の一員として広島原爆と長崎原爆の被災直後の被災地調査を行う。
高木 圭二郎(たかぎ けいじろう、1913年4月28日 - … 高木 圭二郎(たかぎ けいじろう、1913年4月28日 - 1987年8月26日)は日本の歯科医師、歯学者。元東京歯科大学学長(1983年 - 1986年)。 1935年、東京歯科医学専門学校を卒業後、同大学口腔外科学教室、厚生省、ハルピン医科大学、厚生省勤務を経て東京歯科大学教授、同大学社会歯科学初代主任教授、副学長、学長職務代行を経て1983年から1986年まで同大学学長を務める。
城 みさを(じょう みさを、1913年(大正2年)4月27日… 城 みさを(じょう みさを、1913年(大正2年)4月27日 - 2018年(平成30年)1月10日)は、『さをり織り』の創始者、センテナリアン。 1913年4月、大阪府堺市に生まれる。大阪府立堺高等女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)卒業。 機械部品の販売などを手がけた夫・英二と結婚後、57歳の時に『さをり織り』を始める。 1981年に開催された神戸ポートアイランド博覧会をきっかけに、障害者にも『さをり織り』の指導を始める。 1990年代からは、高齢者の生涯学習にも取り組む。 104歳を迎えた後も、教室に顔を出し生徒を見守っていたという。 さをり織りには織り方や織り機、素材など制約がなく、身近な素材や余った糸を使用し、作り手のイメージで織りあげるという特徴がある。
石川 三郎(いしかわ さぶろう、1913年4月27日 - 1… 石川 三郎(いしかわ さぶろう、1913年4月27日 - 1999年11月1日)は、日本の経営者。日本触媒化学工業社長を務めた。兵庫県神戸市出身。位階は正五位。 1936年に京都帝国大学工学部工業化学科を卒業し、後に日本触媒化学工業に入社。 取締役、常務、専務を経て、1979年2月に副社長に就任し、1981年2月には社長に昇格。1986年2月に会長を経て、1990年2月から相談役を務めた。 1960年に大河内記念賞を受賞し、1969年11月に紫綬褒章を受章し、1977年4月に藍綬褒章を受章し、1990年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1999年11月1日心不全のために死去。86歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
岩澤 正二(いわさわ まさじ、1913年4月25日 - 20… 岩澤 正二(いわさわ まさじ、1913年4月25日 - 2007年5月16日)は、日本の実業家。住友銀行副頭取や、マツダ会長を務めた。 現在の秋田県大館市出身。大館中学校(現秋田県立大館鳳鳴高等学校)、小樽高等商業学校(現小樽商科大学)を経て、1938年3月、東京商科大学(現一橋大学)卒業。大学同期の小林政夫、坪井東、小泉明、横山宗一らと同期会を結成。4月に住友銀行(現三井住友銀行)に入社するも歩兵第17連隊に応召し満州に駐屯。甲種幹部候補生に合格後、1940年に少尉任官し、連隊旗手を拝命。1941年春の召集解除後に復職し、1944年に本店調査部勤務となるが、同年再召集され秋田鉱山専門学校の配属将校となり、勤労動員の引率で東北・北海道各地の鉱山を回った。
和知 喜八(わち きはち、1913年4月25日 - 2004… 和知 喜八(わち きはち、1913年4月25日 - 2004年10月23日)は、東京出身の俳人。東京府町田町(現町田市)生。中央大学法学部法学科卒、日本鋼管(現JFEスチール、JFEエンジニアリング)に務める。1937年、「馬酔木」に投句。当初は樹峰と号した。1940年、加藤楸邨の「寒雷」創刊に参加。1952年、「寒雷」同人。1958年、職場俳句の仲間とともに「響焔」を創刊。1963年に休刊したが、1969年に復刊。1970年、「寒雷」清山賞受賞。1975年、「響焔」主宰に就任。1998年、高齢となったため「響焔」主宰を退き名誉主宰に就任。同年、現代俳句協会名誉会員。2004年、第4回現代俳句大賞受賞。
石田 一良(いしだ いちろう、1913年4月23日 - 20… 石田 一良(いしだ いちろう、1913年4月23日 - 2006年9月17日)は、日本の歴史学者。東北大学名誉教授。杭州大学名誉教授。日本思想史学会名誉会長。文学博士。従四位勲二等瑞宝章。 1913年生まれ。京都市伏見区出身。1934年3月第三高等学校卒業。同年京都帝国大学法学部に入学。翌1935年に同文学部史学科に転じた。1939年、京都帝国大学文学部史学科国史学専攻を卒業して同大学院に入学。西田直二郎に学んだ。1945年まで在学。 1946年同志社大学文学部助教授となり、創設期の文学部文化学科の基礎確立に尽力。1948年2月に34歳の若さで教授に昇進、4月に新設の文化学科文化史学専攻で研究と教育にあたった。
大宮 隆(おおみや たかし 1913年(大正2年)4月23日… 大宮 隆(おおみや たかし 1913年(大正2年)4月23日 - 2007年(平成19年)6月4日)は、日本の実業家。寳酒造株式会社元会長・社長を務め、京都財界の顔役の一人だった。宝ホールディングス会長の大宮久は子。
大横田 勉(おおよこた つとむ、1913年4月20日 - 没… 大横田 勉(おおよこた つとむ、1913年4月20日 - 没年不明)は日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピック400メートル自由形で銅メダルを獲得。明治大学出身。
高 在珌(コ・ジェピル、朝鮮語: 고재필、1913年4月20… 高 在珌(コ・ジェピル、朝鮮語: 고재필、1913年4月20日 - 2005年1月17日)は満州国の官僚、大韓民国の政治家、弁護士、法学者、陸軍軍人。第15代保健社会部(現・保健福祉部)長官、第7・8・9・10代大韓民国国会議員を歴任した。 本貫は長興高氏(朝鮮語版)で高敬命(朝鮮語版)の子孫である。号は河南(ハナム、하남)。1920〜30年代に水原学生独立運動事件(水原高等農林学校事件)を主導した1人で独立有功者の高在千は兄。 日本統治時代の全羅南道潭陽郡生まれ。1933年光州高等普通学校卒。1936年中央大学予科修了、1939年同大法学部卒。1937年に満州高等文官試験に合格し、満洲国国務院総務庁高等官試補に任命され、同年12月大同学院第1部卒業(第11期生)。
崔 貞基(チェ・ジョンギ、朝鮮語: 최정기、1913年4月2… 崔 貞基(チェ・ジョンギ、朝鮮語: 최정기、1913年4月20日 - 2000年2月1日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、実業家、大韓民国の教育者、政治家。第2代朝鮮大学校総長、第6代韓国国会議員。本貫は耽津崔氏(朝鮮語版)。 日本統治時代の全羅南道光州郡(現・光州広域市)出身。京都中学校、光州農業学校(現・光州自然科学高等学校(朝鮮語版))卒。1929年に農高読書会の幹部として光州学生運動に参加したため、治安維持法違反などにより検挙され、1930年に懲役3年を、1931年に懲役1年を処されたことがある。その後は東京工業大学化学工学科、朝鮮大学校大学院を卒業した。日本光科学工業株式会社専務取締役、高麗美油株式会社社長、第2代朝鮮大学校総長(1960年6月11日〜1961年8月27日)、光州学生独立運動同志会長を歴任した。
今井 哲夫(いまい てつお、1912年(明治45年)5月20… 今井 哲夫(いまい てつお、1912年(明治45年)5月20日 - 1987年(昭和62年)12月27日)は、日本の政治家。新潟県柏崎市長を2期8年(1979年 - 1987年)務めた。 青年期には陸上競技選手(長距離走)として活躍し、慶應義塾大学在学中に箱根駅伝に出走したほか、3000メートル障害で当時の日本記録を更新した。1936年ベルリンオリンピックに3000メートル障害で出場。 新潟県刈羽郡比角村(現在は柏崎市の一部)出身。1922年(大正11年)、比角尋常高等小学校(現在の柏崎市立比角小学校)5年生の際に、新潟県少年オリンピック大会での総合優勝に貢献する。旧制新潟県立柏崎中学校(現在の新潟県立柏崎高等学校)に進学、近県中学校競技大会で4種目優勝を果たした。
鍋島 直紹(なべしま なおつぐ、1912年(明治45年)5月… 鍋島 直紹(なべしま なおつぐ、1912年(明治45年)5月19日 - 1981年(昭和56年)11月16日)は、日本の政治家。佐賀県知事・科学技術庁長官。旧肥前鹿島藩鍋島家の第15代当主にあたり、地元では親しみを込めて「トンさん」(=殿様)と呼ばれた。 1912年(明治45年)5月19日、旧鹿島藩鍋島家第14代当主で、内務政務次官を務めた鍋島直縄子爵の長男として佐賀県藤津郡(現・鹿島市)で生まれる。旧制学習院中等科・高等科を経て、1936年(昭和11年)九州帝国大学農学部農学科を卒業、農林省嘱託技師となる。1944年(昭和19年)同省を退職し、「鍋島農園」の経営に当たる。1947年(昭和22年)2月3日に爵位(子爵)を返上した。
和泉 覚(和泉 覺、いずみ さとる、1912年〈明治44年〉… 和泉 覚(和泉 覺、いずみ さとる、1912年〈明治44年〉5月18日 - 2005年〈平成17年〉5月7日)は、日本の宗教家、政治家。創価学会理事長(第4代)、参議院議員(1期)。 職業軍人として、1942年(昭和17年)暮れ、最前線のニューギニアに出兵。九死に一生を得て、1946年(昭和21年)6月復員。戦後、戸田城聖の下で、柏原ヤスらと共に、創価学会の再建に奔走。同会筆頭理事及び理事、小岩支部長、江東総支部長などを経て、日蓮正宗法華講大講頭となる。 1940年(昭和15年)、妻の和泉ミヨとともに東京・九段下の軍人会館で行われた創価教育学会第2回総会に出席、入会する。この総会では、後に和泉の前任者となる原島宏治や、学会理事長を経て東京都議会公明党の重鎮となる小泉隆ら、戦後の戸田城聖体制の下で創価学会を担う最高幹部が多数入会し、和泉もその一人となった。
西村 秀雄(にしむら ひでお、1912年(明治45年)5月1… 西村 秀雄(にしむら ひでお、1912年(明治45年)5月17日 - 1995年(平成7年)10月17日)は、日本の解剖学者。 西村秀雄は1955年から1976年まで、京都大学医学部の解剖学教授として、《ヒトにおける奇形の発生率は初期胎児集団において高い》ことを報告した。この発見が《重度の奇形を持った胎児は自然流産につながりやすい》ことの根拠となった。 1948年、敗戦後の人口増加による窮乏を緩和するため、国会は社会的・経済的理由による妊娠中絶を合法化した。当時日本は米軍占領下にあり、GHQ公衆衛生福祉局は「避妊・家族計画」を推奨して中絶に反対したが、やがて賛同した。1960年から西村は22府県の1400人をこえる産科医の協力をとりつけ、妊娠初期に中絶のため医院を訪れる母親たちの同意を得て、摘出された胎児を研究標本として収集し、調査した。
甲斐 文比古(かい ふみひこ、1912年5月17日 - 20… 甲斐 文比古(かい ふみひこ、1912年5月17日 - 2001年9月2日)は、日本の外交官。外務省経済協力局長、駐マレーシア特命全権大使、駐オーストラリア特命全権大使、駐ドイツ特命全権大使。 日本統治時代の台湾の台北市生まれ。旧制台北高等学校を経て、外交官試験に合格し、1933年東京帝国大学法学部卒業、外務省入省。特別調達庁東京特別調達局契約部長等を経て、1952年在ジャカルタ日本国総領事館総領事。1955年在ベルリン日本国総領事館総領事。1961年外務省大臣官房審議官。同年外務省経済局経済協力部長。1962年外務省経済協力局長。1963年特命全権大使マレーシア国駐箚。1967年特命全権大使オーストラリア国駐箚。
蟹江 松雄(かにえ まつお、1912年5月12日 - 200… 蟹江 松雄(かにえ まつお、1912年5月12日 - 2001年2月14日)は、日本の農学者、農芸化学者。鹿児島大学第5代学長・名誉教授。農学博士。専門は発酵学(醸造学)、農産製造学。特に鹿児島の焼酎について長年研究した。 愛知県名古屋市出身。1930年、旧制愛知県立熱田中学校(愛知県立瑞陵高等学校の前身)卒業。1933年、旧制第八高等学校(名古屋大学教養部の前身)理科乙類卒業。1940年に京都帝国大学農学部(現京都大学農学部)農林化学科を卒業し、同年4月から京都帝国大学副手。1941年4月、黒田製薬株式会社に入社。 1946年6月、旧制鹿児島農林専門学校教授に就任。鹿児島赴任以来、焼酎に関心を抱き、研究の一つの柱とする。
稲垣 史生(いながき しせい、1912年5月12日 - 19… 稲垣 史生(いながき しせい、1912年5月12日 - 1996年2月27日)は、日本の時代考証家・歴史小説家。稲垣一城(いながき かずき)の筆名も持つ。本名・稲垣秀忠(ひでただ)。 多くの映画やテレビドラマの時代考証を手掛けた江戸時代考証の第一人者。江戸趣味の好事家や時代小説好きにはよく知られた存在であった。司馬遼太郎は、稲垣の著書「時代考証事典」の帯に「唯一の先達の仕事」との推薦文を寄せるなど、江戸時代考証において自分よりも優れた知識を持つ稲垣には敬意を表していた。 富山県砺波市出身。早稲田大学文学部国文科を卒業。戦前は都新聞社会部記者、海軍省嘱託の報道班員、戦後にサンニュース・フォトス記者、歴史文学研究会事務局長、雑誌編集長などを経て、文筆業に入る。
林 伊佐緒(はやし いさお、1912年5月11日 - 199… 林 伊佐緒(はやし いさお、1912年5月11日 - 1995年9月29日)は、日本の歌手・作曲家。日本歌手協会4代目会長。 山口県厚狭郡王喜村(現下関市)生まれ。明治大学中退。1975年に紫綬褒章、1983年には勲四等旭日小綬章を受章。没後、功績により従五位を追贈されている。 父の林正二は王喜村長を務めた。旧制興風中学校時代には陸上400メートルと水泳自由形の選手。音楽も好きで、体育学校か音楽学校を志望していたが、母に反対され、明治大学商科に進む。しかし、大学への通学途中に東京高等音楽学院があることに気付き、四谷分教場ピアノ科に籍を置いて両方に通うようになり、やがて大学を中退。1934年、郷里に戻って徴兵検査を受けた後、再び上京。