細川 護貞(ほそかわ もりさだ、1912年〈明治45年〉7月… 細川 護貞(ほそかわ もりさだ、1912年〈明治45年〉7月17日 - 2005年〈平成17年〉10月3日)は、旧肥後熊本藩細川家の第17代当主。第2次近衛内閣で内閣総理大臣秘書官を務めた。 1912年(明治45年)、細川侯爵家第16代当主・細川護立と博子(侯爵池田詮政の長女)の長男として生まれる。曾祖父に島津忠義と鍋島直正。旧制学習院高等科を経て京都帝国大学で狩野直喜博士の教えを受ける。京大法学部卒業後、企画院嘱託。 1940年(昭和15年)、第2次近衛内閣で首相秘書官に就任する。1943年(昭和18年)、昭和天皇の弟宮高松宮宣仁親王の御用掛となり宮中グループを中心に各方面の有識者から情報や意見を収集し、海軍グループで同郷出身の高木惣吉海軍少将に協力して東條英機暗殺未遂事件や終戦工作の一翼を担い、戦時中の動静を「細川日記」として戦後発表している。
中里 喜一(なかざと きいち、1912年 <明治45年> 7… 中里 喜一(なかざと きいち、1912年 <明治45年> 7月16日 - 2001年 <平成13年> 1月21日)は、日本の政治家。東京都江戸川区長(9期)。位階は従四位。勲三等瑞宝章。 現在の東京都江戸川区生まれ。東京府立第一商業学校(現・東京都立第一商業高等学校)を卒業した。 1930年、東京府南葛飾郡松江町役場に入る。江戸川区教育課長、総務課長などを経て、1960年、助役となり、1964年、区長に就任する。区長を9期36年務め(この間、特別区区長公選制が導入され、中里は選任制と公選制の両方で区長に選ばれた)、1999年退任、この間、東京23区区会副会長などを歴任した。同年、江戸川区から名誉区民を贈られた。
松尾 孝(まつお たかし、1912年(明治45年)7月15日… 松尾 孝(まつお たかし、1912年(明治45年)7月15日 - 2003年(平成15年)10月28日)は、日本の実業家。カルビー創業者。広島県広島市出身。 カルビーの前身は1905年(明治38年)広島市宇品で創業した広島名産柿ようかん製造の松尾巡角堂である。ただ、松尾が幼少時代の家業は、米ぬかを中心とした穀粉製造販売を行っていた。幼少期は比較的不自由なく生活していた。太田川(旧太田川)で捕った小エビで母親が作ってくれたかき揚げが大好物で、これがのちにかっぱえびせんにつながっていく。 もち米の暴落で父が相場で失敗し、当時の金額で1万円の莫大な借金を抱えた。さらに1927年(昭和2年)広島第一中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)5年のとき、母が亡くなり、病弱で足も不自由な父と弟を養わなくてはならなくなり家業を始めた。
内山 興正(うちやま こうしょう、1912年7月15日 - … 内山 興正(うちやま こうしょう、1912年7月15日 - 1998年3月13日)は日本の曹洞宗の僧侶で、折り紙作家。詩人。 澤木興道に長年師事し、その死後に安泰寺の住職となる。 兄弟子に横山祖道、弟弟子に弟子丸泰仙がいる。 渡部耕法、唐子正定、関口道潤、櫛谷宗則、奥村正博、山本成一、本多廸冨、鷹峰道雄等がいる。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
阿木 翁助(あぎ おうすけ、1912年7月14日 - 200… 阿木 翁助(あぎ おうすけ、1912年7月14日 - 2002年9月11日)は、日本の劇作家、脚本家。本名:安達鉄翁。息子は東宝プロデューサー。孫は笠井信輔(元フジテレビアナウンサー)。 脚本作品としては、1957年のNHKのラジオドラマ「花くれないに」、1964年のNET系のテレビドラマ「徳川家康」などが知られる。 長野県諏訪郡下諏訪町出身。旧制長野県立諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。1930年、小説家を志し上京。 1932年東京プロレタリア演劇研究所を卒業、築地小劇場演劇研究所の研究生となり、1934年にはムーラン・ルージュ新宿座文芸部、新派文芸部に入って劇作家としての道を歩み始め、「女中あい史」の脚本で名を挙げる。
楫西 貞雄(かじにし さだお、1912年〈明治45年〉7月1… 楫西 貞雄(かじにし さだお、1912年〈明治45年〉7月14日 - 1996年頃)は、日本の造園系都市計画家。 本人の文章によると、東京帝国大学農学部において、菊竹倉二と同じ研究室に所属していたという。 建設省計画局都市計画課や施設課長、大阪府土木部計画課技師、千葉市建設局等を歴任した。1958年当時は「協和コンサルタンツ顧問」であった。その後、社団法人日本緑化センター常務理事を務める[要出典]。 1978年に第5回日本公園緑地協会北村賞を受賞。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小西 四郎(こにし しろう、1912年7月14日 - 199… 小西 四郎(こにし しろう、1912年7月14日 - 1996年2月5日)は、日本の歴史学者、東京大学名誉教授。幕末史が専門。 兵庫県生まれ。東京帝国大学国史学科卒。文部省維新史料編修官を経て東京大学史料編纂所教授、1973年定年退官。NHK大河ドラマ『翔ぶが如く』の監修を務めた。 1996年、急性骨髄性白血病のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
湊 素堂(みなと そどう、1912年(明治45年)7月14日… 湊 素堂(みなと そどう、1912年(明治45年)7月14日 - 2006年(平成18年)7月24日)は、昭和から平成にかけて代表する臨済宗の禅僧。俗姓は湊。道号は葆州、法諱は素堂 (そどう)。室号は用いず。徳島県徳島市津田町出身。臨済宗建長寺派管長(1964年-1980年)、臨済宗建仁寺派管長(1989年-1999年)。湊 葆州(みなと ほしゅう) とも言う。世寿95。 1912年 (明治45年) 7月14日、徳島県徳島市津田に湊勝治郎・たねの四男として生まれ、恵人(よしひと)と名付けられた。 1926年(大正15年) 4月、徳島県立徳島中学校(現・徳島県立城南高等学校)に入学。1932年(昭和7年) 4月、旧制高知高等学校に入学。
橋本 武(はしもと たけし、1912年7月11日 - 201… 橋本 武(はしもと たけし、1912年7月11日 - 2013年9月11日)は、日本の国語教師、国文学者、元灘校(灘中学校・高等学校)教頭。京都府宮津市出身。中学の3年間をかけて中勘助の『銀の匙』を1冊読み上げる国語授業「『銀の匙』授業」で知られる。
森 国久(もり くにひさ、正字体:森國久、1912年(明治4… 森 国久(もり くにひさ、正字体:森國久、1912年(明治45年)7月10日 - 1961年(昭和36年)6月26日)は、日本の政治家。熊本県天草地方で首長を務め、全国の離島の振興に力を注ぎ、天草五橋の実現に尽力した。 熊本県龍ヶ岳町長、熊本県町村会副会長、天草郡町村会長、天草振興協議会長、天草架橋期成会副会長、天草観光協会長、全国離島振興協議会副会長、内閣離島振興対策審議会委員(すべて死亡時)。 出生から学校卒業まで 1912(明治45年)7月10日、熊本県天草郡樋島村(現・熊本県上天草市龍ヶ岳町樋島)に生まれる。地元の小学校を卒業後、1925年(大正14年)4月、熊本県立天草中学校(現・熊本県立天草高等学校)に入学。
岡 映(おか あきら、1912年7月10日 - 2006年4… 岡 映(おか あきら、1912年7月10日 - 2006年4月13日)は岡山県出身の部落解放運動家、歴史家。 岡山県英田郡江見町(現・美作市)の被差別部落に生まれ、京都で友禅職人として働く。1932年、日本共産党に入党。 1935年、全国水平社第13回全国大会に参加。 戦後は、農民運動・重税反対闘争に積極的に取り組んだ。 岡山県美作地方を中心に岡山県農民同盟の活動や岡山県人民解放同盟青年協議会副会長、部落解放全国委員会岡山県連合会常任委員、および同書記長を歴任。 1955年、部落解放同盟岡山県連書記長に就任。同中四国ブロック協議会議長を経て、1966年、同県連委員長に就任。 1970年2月19日、第5回部落解放同盟岡山県委員会開催。
小寺 武四郎(こでら たけしろう、1912年7月9日 - 2… 小寺 武四郎(こでら たけしろう、1912年7月9日 - 2004年7月23日)は、日本の経済学者。第10代学校法人関西学院院長、元関西学院大学学長および経済学部教授。専門は金融論、国際金融論。日本金融学会第5代会長。 大日本紡績(後のユニチカ)社長・小寺源吾の四男。実弟はユニチカ社長を務めた小寺新六郎。元関西学院高等商業学部教授・小寺敬一は叔父。
高野 百介(たかの ももすけ、1912年7月9日 - 戦死)… 高野 百介(たかの ももすけ、1912年7月9日 - 戦死)は、長野県出身のプロ野球選手(外野手)。
小川 信雄(おがわ のぶお、1912年(明治45年)7月9日… 小川 信雄(おがわ のぶお、1912年(明治45年)7月9日 - 2002年(平成14年)9月6日)は、日本のエンジニア・実業家。日亜化学工業創業者、元社長、元会長。同社を世界有数の蛍光灯用・ブラウン管テレビ用蛍光体メーカーに育て上げ、中村修二の青色発光ダイオード開発も決定、支援した。阿南市名誉市民。子供は男女各2人の4人。現・日亜化学工業会長の小川英治は長女の婿養子。 1912年(明治45年)7月9日、徳島県那賀郡長生村(現・阿南市長生町)において、久積鶴吉・ソノ夫妻の末子として誕生。高等小学校卒業後の1927年(昭和2年)、県立富岡中学校(現・富岡西高校)に入学。同級生に後藤田正晴が居て、柔道部で小川と後藤田は互いを認める間柄となった。
福田 昌子(ふくだ まさこ、1912年7月8日 - 1975… 福田 昌子(ふくだ まさこ、1912年7月8日 - 1975年12月30日)は、日本の政治家、学校法人純真女子学園(現・学校法人純真学園)の創立者。衆議院議員。医学博士。 鹿児島県鹿児島市生まれ、福岡県出身(籍は築上郡吉富町)。福岡県立福岡高等女学校(現・福岡県立福岡中央高等学校)を経て、1934年(昭和9年)に東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)を卒業。九州帝国大学医学部に学び、九大医学部附属医院、済生会病院に勤務しながら、1940年(昭和15年)、ヒスタミンの研究により史上最年少(満26歳)で医学博士号を取得した。また、大阪府衛生課、東京都公衆衛生課などに勤めた。 戦後の1947年(昭和22年)に、第23回衆議院議員総選挙に社会党から福岡県第1区で立候補して当選した。
高木 養根(たかぎ やすもと、1912年7月7日 - 199… 高木 養根(たかぎ やすもと、1912年7月7日 - 1999年1月9日)は、日本の実業家。元日本航空社長。広島県福山市生まれ、岐阜県高山市育ち。 府立四中、一高を経て、1933年京都帝国大学文学部に入学。同年の文部省による滝川幸辰法学部教授の処分(滝川事件)に反対、古谷綱正・花田清輝(のちの文芸評論家)らとともに大学自治を擁護する文学部の運動の中心として活動したが、学内で配ったビラの文面が治安維持法違反に問われ2ヵ月で大学中退を余儀なくされた。1年間の拘置生活の後1935年、東京帝国大学法学部に再入学した。 1940年に大学を卒業し大日本航空に入社したが終戦により解散。1951年、航空活動の再開を見越して設立された日本航空に入社した。
松野 友(まつの とも、女性、1912年(明治45年)7月7… 松野 友(まつの とも、女性、1912年(明治45年)7月7日 - 1997年(平成9年)7月21日)は、日本の政治家。元岐阜県本巣郡穂積町(現:瑞穂市)町長。 夫は松野幸泰(元岐阜県議会議員、岐阜県知事、自由民主党衆議院議員、国土庁長官・北海道開発庁長官)。子に元瑞穂市長の松野幸信と元岐阜県議会議員松野幸昭、孫に自民党衆議院議員の棚橋泰文がいる。 1912年(明治45年)7月7日、岐阜県安八郡浅草村(現在の大垣市)で生まれた。1930年(昭和5年)に岐阜県女子師範学校本科第二部を卒業し、数年間小学校教員を務めた。1932年(昭和7年)5月に松野幸泰と結婚した。 夫の幸泰は岐阜県本巣郡穂積村の村会議員となり、太平洋戦争下では翼賛壮年団長を務めた。
福田 利光(ふくだ としみつ、1912年7月6日 - 200… 福田 利光(ふくだ としみつ、1912年7月6日 - 2001年11月29日 )は、日本の経営者。西日本新聞社社長を務めた。 福岡県三井郡北野町(現在の久留米市)出身。1934年に早稲田大学専門部政治経済学科を卒業し、1937年に福岡日日新聞社(のちの西日本新聞社)に入社。1963年に取締役に就任し、1969年に常務、1970年に専務を経て、同年10月には社長に就任した。1985年6月に会長に就任し、1991年6月に代表取締役相談役を経て、1993年6月に相談役に就任。 テレビ西日本会長、テレビ熊本・サガテレビ・テレビ長崎の取締役なども歴任。 1987年4月に勲一等瑞宝章を受章。 2001年11月29日に急性心不全のために死去。
岸 武雄(きし たけお、1912年7月6日 - 2002年1… 岸 武雄(きし たけお、1912年7月6日 - 2002年1月21日)は、日本の児童文学作家、教育者。 岐阜県出身。1932年岐阜師範学校卒業。小・中学校教諭を経て岐阜教育大学教授、1986年定年。 58歳から創作を始め、中部地方の歴史的事件をもとに底辺に生きる人びとを描き、1971年「千本松原」で野間児童文芸推奨作品賞。1979年「花ぶさとうげ」で小学館文学賞受賞。「千本松原」は1992年に「せんぼんまつばら 川と生きる少年たち」としてアニメ映画化された。 80歳を過ぎても旺盛な執筆活動を行い、2002年1月21日に死去。享年89。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
木村 謙二(きむら けんじ、1912年7月5日 - 没年不明… 木村 謙二(きむら けんじ、1912年7月5日 - 没年不明)は、日本の心理学者・教育者。稚内北星学園、北星学園女子短期大学の学長を務めた。専門は特殊児童心理学で、日本における障害児教育の先駆者の一人。 北海道夕張市出身。1935年、北海道札幌師範学校を卒業して深川尋常高等小学校の教員となる。しかしキリスト教徒のため天皇礼拝を拒んだ事などが原因で1937年に辞職し、同年に上京して東京市内の尋常小学校の代用教員などを務めながら1943年に法政大学法文学部を卒業した。 法政大学商業学校教員などを経て、1951年に北海道大学教育学部の助教授となる。1954年からは、北星学園が開設した一年制の幼児教育専修学校で教育心理学の講義を担当している。
佐藤 忠良(さとう ちゅうりょう、1912年7月4日 - 2… 佐藤 忠良(さとう ちゅうりょう、1912年7月4日 - 2011年3月30日)は、日本の彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。 生き生きとした女性像などをブロンズや木彫で表現した。本の装幀の仕事もこなし、福音館書店版の絵本『おおきなかぶ』の挿絵なども手がけた。出身地にある宮城県美術館には、「佐藤忠良記念館」が併設、日本で最も多い約600点の彫刻作品を収蔵。その他、滋賀県の佐川美術館の佐藤忠良記念館、札幌芸術の森「佐藤忠良記念子どもアトリエ」、国立近代美術館、国立国際美術館など、日本全国各地に佐藤忠良の作品が収蔵・展示されている。 女優の佐藤オリエは娘。作品のモデルを務めた彫刻家の笹戸千津子は弟子。
中村 三郎(なかむら さぶろう、1912年7月3日 - 没年… 中村 三郎(なかむら さぶろう、1912年7月3日 - 没年不明[戦死])は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、内野手。 諏訪蚕糸学校(現・長野県岡谷工業高等学校)在学中に、甲子園に2回出場(春1回〔1930年〕、夏1回〔1930年〕)。1930年春の大会では、優秀選手賞を受賞。そして、最後の出場となった1930年夏の大会では準優勝投手に輝いた。長野県きってのNo.1投手との誉れ高く、その後明治大学やノンプロの諏訪紡績でも活躍した。 1937年に大東京へ入団。プロ野球入団後は内野手に転向し、「三振か長打か」の荒削りなバッティングで人気を博した。同年春季シーズンで喫した46三振は、リーグ最多三振記録(1939年に佐藤武夫〈東京セネタース〉が56三振をマークするまではプロ野球記録でもあった)。
玉置 一徳(玉置 一德、たまき いっとく、1912年7月3日… 玉置 一徳(玉置 一德、たまき いっとく、1912年7月3日 - 1978年11月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。京都府相楽郡加茂町出身。息子は、民主党元衆議院議員の玉置一弥。 桃山中学校、第四高等学校を経て、1936年に京都帝国大学法学部卒業。浅野セメントに入社するも兵役で中国各地を渡る。1943年除隊となり、朝鮮の鉱山会社勤務時に終戦を迎える。 戦後、農業を経て日本社会党結成に参加。相楽郡選出の京都府議を経て1960年の第29回衆議院議員総選挙で民主社会党公認で旧京都2区に立候補し初当選。以後通算当選5回。国対畑を歩み、党国会対策副委員長、国対委員長を歴任した。 議員在職中の1978年11月26日、胸部大動脈瘤破裂により死去した。
藤谷 俊雄(ふじたに としお、1912年7月2日 - 199… 藤谷 俊雄(ふじたに としお、1912年7月2日 - 1995年2月11日)は、日本の歴史学者、部落問題研究家である。 京都府京都市出身。生家は真宗大谷派の即現寺。京都府立第二中学校卒業後、1934年に高知高等学校文科甲類、1937年京都帝国大学文学部史学科卒業。1938年、治安維持法違反で検挙。その後、生家の住職、また京都市史編纂に参加。 戦後、日本史研究会創設に参加。また1966年には部落問題研究所理事長兼所長に就任し、文化厚生会館問題によって奈良本辰也・林屋辰三郎・原田伴彦らが去った後の研究所再建に尽力。
白 石(ペク・ソク、백석、1912年7月1日 - 1996年… 白 石(ペク・ソク、백석、1912年7月1日 - 1996年1月7日)は、北朝鮮の詩人。平安北道定州の出身。 本貫は水原白氏。本名は白夔行。1929年に日本へ留学。青山学院英文科を卒業したのち咸興で英語教師となった。ペンネームの「石」という一字は、敬愛していた石川啄木から取っている。なお白石の出生年は啄木の没年でもあり、同時代的な交流はない。 白石の詩の世界は、当時のモダニズムの影響をうけながらも、郷土的な叙情の世界を方言で表す特徴を持っている。1938年の作『私とナターシャと白いロバ』ではモダニズムのイメージを用い、『エビガラスズメが来る夕方』『カズラン峠』などでは一般の読者もわからない方言を用いるなど、民俗的な世界を表している。
小林 幸三郎(こばやし こうざぶろう、1912年〈明治45年… 小林 幸三郎(こばやし こうざぶろう、1912年〈明治45年〉7月1日 - 2014年〈平成26年〉7月29日)は、日本の経営者。RKB毎日放送社長を務めた。群馬県出身。 1912年、現在の群馬県前橋市小坂子町に生まれる。芳賀小学校を経て群馬師範学校を卒業。満洲に渡り撫順・吉林小で教員として勤務。1940年に北京大学を卒業し、1938年に東京日日新聞社(のちの毎日新聞社)に入社。1943年に召集され海軍二等兵としてインパール作戦にも参加するが生還を果たす。 1946年帰国し毎日新聞社に復職。政治報道に従事し、安部晋太郎・竹内黎一・小林正巳は当時の部下にあたる。神戸支局長、政治部長、大阪本社編集局長を歴任。
細野 武男(ほその たけお、1912年6月28日 - 199… 細野 武男(ほその たけお、1912年6月28日 - 1994年9月19日)は、日本の法学者。専門は法社会学。学校法人立命館総長・立命館大学学長、京都橘女子大学学長など歴任。 岐阜県揖斐郡揖斐町(現・揖斐川町)出身。旧制松本高文科甲類在学中から農民運動・教育運動に参加。治安維持法違反での検挙歴(1933年、二・四事件)がある。1934年、東京帝国大学文学部社会学科に入学し、理論社会学を専攻。卒業論文テーマは「ジンメルの貨幣哲学」であった。 大学卒業後、東洋経済新報社に入社するが石橋湛山と衝突し退社。その後、財団法人日本貿易振興協会日本貿易研究所に入所し米国経済史の研究に注力。しかし同研究所もまもなく閉鎖され、1947年兵庫県立労働研究所に移籍。
西山 松之助(にしやま まつのすけ、1912年6月28日 -… 西山 松之助(にしやま まつのすけ、1912年6月28日 - 2012年1月8日)は、日本の歴史学者。東京教育大学名誉教授。弟子に歴史学者の竹内誠がいる。 1912年、兵庫県赤穂市有年村で生まれた。1932年に姫路師範学校を卒業し、東京高等師範学校に進んだ。1937年に高等師範学校を卒業し、東京文理科大学史学科に入学。国史学を専攻し、1940年に卒業。在学中の1935年から臨済禅の修業をし、1937年、「蔵雲」の道号を授けた。 卒業後は母校・東京高等師範学校の助手となり、1944年に同助教授、1949年に教授に昇格。1949年5月に新制東京教育大学の発足とともに東京高等師範学校は包摂されることとなったため、1950年より東京教育大学助教授となった。
斎藤 兼之助(さいとう かねのすけ、1912年(明治45年)… 斎藤 兼之助(さいとう かねのすけ、1912年(明治45年)6月28日 - 1986年(昭和61年)1月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中尉。 海兵団(4等兵)から士官に昇進した。 1912年(明治45年)6月28日、栃木県那須郡金田村小滝(現在の大田原市)で生まれる。尋常小学校を卒業後、地元の東野鉄道に勤務した。 1930年(昭和5年)6月に、横須賀鎮守府(横鎮)にある横須賀海兵団へ入団。新兵教育を終えて同年12月に重巡洋艦「加古」に3等機関兵として配属される。1931年(昭和6年)10月、戦艦「比叡」に転属。 1932年4月に、横須賀の海軍工機学校に入校し、9月に卒業すると軽巡洋艦「多摩」に乗り組む。
馬場 金太郎(ばば きんたろう、1912年〈明治45年〉6月… 馬場 金太郎(ばば きんたろう、1912年〈明治45年〉6月28日 - 1993年〈平成5年〉1月6日)は、日本の医学博士、昆虫学者。新潟県で黒川病院、村上精神病院を設立し医療に貢献、また昆虫の研究に多大な業績を残した。 1912年(明治45年)、千葉県安房郡富浦町(現南房総市)に生まれる。旧姓は酒井。小学生の頃に、医院をひらいていた馬場家の養子として、新潟県北蒲原郡黒川村に移る。1930年(昭和5年)に新発田中学を卒業、1935年(昭和10年)に新潟高等学校を卒業する。1939年(昭和14年)に新潟医科大学を卒業後、同大学の解剖学教室の助手に任ぜられるが、10月に召集を受ける。軍医として中国に駐在していたが1946年(昭和21年)6月に復員し、1947年(昭和22年)5月に『南支広東「デルタ」に於ける「アノフェレス」蚊の「マラリア」流行病学的研究』で医学博士の学位を取得する。
佐古 利正(さこ としまさ、明治45年〈1912年〉6月26… 佐古 利正(さこ としまさ、明治45年〈1912年〉6月26日 - 平成10年〈1998年〉9月22日)は、日本の神職、教育者。宇津神社宮司。 明治45年(1912年)6月26日、佐古吉浦・しづ夫妻の五男として、山口県都濃郡鹿野町(現周南市)に誕生した。 昭和5年(1930年)、旧制山口県立岩国中学校を卒業すると、姉幸嬰の強い影響を受けて、同年4月1日に神宮皇學館本科第二部に入学した。同期には呉市出身の白石舜逸がいた。在学中の昭和7年(1932年)5月、神宮皇學館大講堂に於いてジョセフ・ウォーレン・ティーツ・メーソンの「神道の創造性について」という講演会が開かれこれに出席すると強い衝撃を受け、メーソンの『神ながらの道』を日夜読み耽ったという。
高山 辰雄(たかやま たつお、1912年(明治45年)6月2… 高山 辰雄(たかやま たつお、1912年(明治45年)6月26日 - 2007年(平成19年)9月14日)は、日本画家。文化勲章受章者。脚本家の高山由紀子は長女。
髙山 辰雄(たかやま たつお、1912年〈明治45年〉6月2… 髙山 辰雄(たかやま たつお、1912年〈明治45年〉6月26日 - 2007年〈平成19年〉9月14日)は、日本画家。文化勲章受章者。 大分市に生まれる。1931年(昭和6年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学、1936年(昭和11年)に卒業している。在学中から松岡映丘の画塾に入り、師事した。美校の卒業制作「砂丘」は、砂の上に座るセーラー服姿の若い女性を俯瞰的に描いた洋画風の作品で、後の高山の作風を思わせるものはほとんどない。 高山は戦後まもない1946年(昭和21年)ころ、ゴーギャンの伝記を読んで感銘を受け、その後の作風にはゴーギャンの影響がみられるようになる。1946年、第2回日展に裸婦ふたりを描いた「浴室」を出品し、特選となる。
森田 子龍(もりた しりゅう、1912年〈明治45年〉6月2… 森田 子龍(もりた しりゅう、1912年〈明治45年〉6月24日 - 1998年〈平成10年〉12月1日)は、日本の書家。兵庫県豊岡市出身。本名は「森田 清」。蒼龍社主宰・墨美社主宰。豊岡中卒。上田桑鳩に師事。1952年に「墨人会」を創立し、抽象画としての墨象の地位を確立する。主な作品に『龍知龍』などがある。
谷水 信夫(たにみず のぶお、1912年6月24日 - 19… 谷水 信夫(たにみず のぶお、1912年6月24日 - 1971年11月8日)は、日本の実業家、競走馬生産者、馬主。 関西でゴルフ場を運営するタニミズ企画株式会社の創業者。サラブレッド競走馬のオーナーブリーダー(生産馬主)としても著名であり、北海道にカントリー牧場を創業してタニノムーティエなど数々の活躍馬を輩出した。 1912年、和歌山県に生まれる。後に大阪府へ移って町工場規模の鉄工所を営んだが、太平洋戦争中に大阪大空襲で工場を焼かれ、一時廃業を余儀なくされた。終戦後は京都府に移り、駄馬による運送業を営んで資力の立て直しを図った。後に新たな鉄工所「マルナカ製作所」を興し、当時人気のあったポン菓子の製造機を量産、関西で8割のシェアを獲得した。
江口 俊男(えぐち としお、1912年〈明治45年〉6月23… 江口 俊男(えぐち としお、1912年〈明治45年〉6月23日 - 2001年〈平成13年〉5月15日)は、日本の内務・警察官僚。海軍司政官、警察庁長官。 佐賀県出身。佐賀高等学校を卒業。1934年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1935年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し土木局兼地方局属となる。 以後、広島県学務部社会課長、同経済部商工課長、広島県警察部警防課長、内務省地方局行政課勤務などを歴任。1943年、海軍司政官に任じられ南方に赴任。1946年に復員して鹿児島県警察部長に就任。 1948年、国家地方警察長崎県本部警察長に就任。以後、国家地方警察福岡県本部警察長、福岡県国家地方警察隊長、静岡県警察本部長、愛知県警察本部長、警察庁警備局長、同警務局長、警察庁次長を歴任。
川野 重任(かわの しげとう、1911年7月22日 - 20… 川野 重任(かわの しげとう、1911年7月22日 - 2010年7月22日)は、日本の農業経済学者。学位は、農学博士(京都大学・論文博士・1962年)(学位論文「土地改革の理論的性格」)。東京大学名誉教授。 鹿児島県南さつま市(旧加世田市域)出身。鹿児島県立川辺中学校 (旧制)を経て、第七高等学校造士館 (旧制)理科を1932年に卒業。1936年に東京帝国大学農学部農業経済卒業後、副手、1939年に助手、1942年に東京大学東洋文化研究所助教授、1951年に同研究所教授、1962年、「土地改革の理論的性格」で京都大学より農学博士の学位を取得。1966年、同研究所長に就任。1970年に所長退任。
坂本 鹿名夫(さかもと かなお、阪本 鹿名夫、1911年(明… 坂本 鹿名夫(さかもと かなお、阪本 鹿名夫、1911年(明治44年)7月21日 - 1987年(昭和62年)5月29日)は、日本の建築家。円形建築にこだわり、その経済性、合理性を主張し、朝日町立朝日小学校(登録有形文化財)など円形校舎、円形病院など全国に100以上の円形建築を手がけた。 東京生まれ。父は阪本釤之助で、鹿児島県知事や名古屋市長を歴任したため、その頭文字を導入して鹿名夫と名付けられた。従兄に永井荷風、異母兄に高見順がいる。 東京工業大学建築学科に進学し、卒業研究でも円形の飛行場を設計している。大学卒業後の1937年(昭和12年)、大倉土木(現・大成建設)に就職。戦時中は海軍に入隊し技術将校を経て、戦後会社に復職するが、1954年(昭和29年)大成建設を退職し、建築綜合計画研究所を設立し社長に就任。
渥美 かをる(あつみ かおる、1911年(明治44年)7月2… 渥美 かをる(あつみ かおる、1911年(明治44年)7月20日 - 1977年(昭和52年)12月10日)は、愛知県出身の国文学者。『平家物語』の研究で知られる。 夫は名古屋市で区長や教育長を務めた渥美善三、娘に実業家・著述家の渥美育子がいる。 以後、愛知県立女子短期大学教授、愛知県立女子大学教授、愛知県立大学教授を歴任
笠原 恒彦(かさはら つねひこ、1911年7月18日 - 1… 笠原 恒彦(かさはら つねひこ、1911年7月18日 - 1989年4月17日)は、日本の元ラグビー選手、俳優。本名同じ。東京市小石川区(現在の東京都文京区)生まれ、北海道育ち。 ラグビー選手として現役時代の主なポジションはフルバック(FB)及びファイブエイス(FE)。 北海中等学校(現 北海高等学校)を経て、明治大学(以下、明大)に進学。明大ではラグビー部で活動し、1930年度シーズンから1935年度シーズンまで、6年連続で明早戦に出場した他、同部在籍時代は全ての公式戦(全45試合)に出場した経験を持つ。トライゲッターであるとともに、キッカーとしても明大の得点源選手として活躍した。 また、1932年のカナダ代表来日試合を手始めに、ラグビー日本代表(以下、代表)としてキャップ6を獲得。
柄沢 十三夫(からさわ とみお、1911年7月18日 - 1… 柄沢 十三夫(からさわ とみお、1911年7月18日 - 1956年10月20日)は、日本の陸軍軍人、軍医。 長野県小県郡(現・上田市)で小学校教員の次男として生まれた。貧しい柄沢家を背負って立つ跡継ぎとして期待され育てられた。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1929年東京医学専門学校(現東京医科大学)に入学。1933年卒業、陸軍少尉。1936年4月、陸軍軍医学校に入学。軍医中将梶塚隆二が主幹を務める軍陣防疫学教室に所属、細菌学を学んだ。1937年7月、日華事変により学生のまま防疫部の一員として天津に渡り、防疫活動に従事した。この半年前に結婚し、天津にいる間に一女をもうけている。 1939年9月、陸軍軍医学校を卒業。
色部 義明(いろべ よしあき、1911年7月18日 - 20… 色部 義明(いろべ よしあき、1911年7月18日 - 2001年8月12日)は、日本の経営者。協和銀行頭取を務めた。東京都出身。 1936年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。 1966年5月に協和銀行に転じ、1971年5月に頭取に就任し、1980年9月には会長に就任した。1986年9月に相談役を経て、1998年4月から名誉顧問を務めた。 また頭取在任時に安宅産業破綻処理に立ち向かう事となった。 また、1981年から死去するまで全日本学生囲碁連盟会長をつとめた。1986年7月から1987年12月までに日本棋院理事長を務めた。1986年、日本棋院から大倉賞を受賞する。 2001年8月12日気管支喘息のために東京都三鷹市の病院で死去。
中井 利之祐(なかい りのすけ、1911年〈明治44年〉7月… 中井 利之祐(なかい りのすけ、1911年〈明治44年〉7月17日 - 没年不明)は、日本の実業家。旧姓・中川。 奈良県・中川亀太郎の三男。1929年、郡山中学校を卒業。中井製膠所経営、康徳化学工業勤務を経て1948年に浪華化学工業を設立、社長に就任する。 浪華化学工業、朝日化学産業各社長、野洲化学工業取締役、大阪膠質ゼラチン工業協同組合、飛島会各理事長、日本にかわゼラチン工業組合副理事長、大阪同和事業協議会副会長などをつとめる。 また民生委員である。 趣味は読書。宗教は真宗。住所は大阪市東淀川区飛島町(現・東中島)。
柳井 深造(やない しんぞう、1911年(明治44年)7月1… 柳井 深造(やない しんぞう、1911年(明治44年)7月16日- 没年不詳)は、陸上選手であり研究者でもある。川崎重工業研究室長を務め、流体力学の研究で知られる。岡山県出身。 1911年(明治44年)岡山県に生れる。1925年(大正14年)、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。1930年(昭和5年)3月、同校を卒業し、旧制第六高等学校理科乙類へ進学する。1933年(昭和8年)同校を卒業し、京都帝国大学工学部へ進学する。 京大では、陸上部に所属し、1934年(昭和9年)柳井が大学2年生のとき、兵庫県にある甲子園南運動場で行われた第21回全日本陸上競技選手権大会の男子110mハードルでは、15.4秒で準優勝している。
中村 幸彦(なかむら ゆきひこ、1911年7月15日 - 1… 中村 幸彦(なかむら ゆきひこ、1911年7月15日 - 1998年5月7日)は、日本の近世文学研究者。博士(京都大学・1962年)(学位論文『戯作論』)。 兵庫県津名郡由良町(現:洲本市由良3丁目)に父・中村安郎、母・しげの次男として生まれる。旧制洲本中学校、1935年、京都帝国大学文学部国文科卒業。1940年、天理図書館司書となり、京都帝国大学大学院を退学。1949年、天理大学教授、1958年、九州大学文学部教授となる。1962年『戯作論』で京都大学の博士号を取得。1971年、九州大学を退職、関西大学教授に就任。 1981年、『此ほとり一夜四歌仙評釈』で第32回読売文学賞受賞。1982年から『中村幸彦著述集』の刊行開始(1989年7月まで)。
新原 勇(しんばら いさむ、1911年7月15日 - 198… 新原 勇(しんばら いさむ、1911年7月15日 - 1987年5月18日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 昭和初期に日本国内における最高峰の柔道大会であった全日本選士権大会や明治神宮競技大会等で活躍し、指導者としては朝鮮や台湾でその礎を築いたほか日本国内においては福岡県立嘉穂中学校を全国優勝に導いた実績を有す、戦前を代表する柔道家・柔道指導者の1人である。 現在の福岡県飯塚市幸袋に生まれる。県立嘉穂中学校に入学すると、当時福岡県下における柔道の大家であり同校の師範を務めていた榎本本吉より熱心に手解きを受け、 1929年に2段位で卒業して翌年京都の武道専門学校に入学した。武専で磯貝一、田畑昇太郎両範士に師事し、柔道教士であった福島清三郎、栗原民雄、森下勇らの胸を借りて稽古に励んだ新原は1932年に精錬証を受け、翌33年には講道館5段位、1934年の教士号試合では飯山栄作に競り勝って称号を拝受している。
白井 震四郎(しらい しんしろう、1911年(明治44年)7… 白井 震四郎(しらい しんしろう、1911年(明治44年)7月15日 - 1982年(昭和57年)10月23日)は、日本の実業家。 日本高周波鋼業元取締役会長。神戸製鋼所元常務取締役。日本発条・尼崎製釘所(現・アマテイ)元各取締役。鋼材倶楽部・日本鉄鋼輸出組合(現・日本鉄鋼連盟)各元理事。 福島県会津若松市出身。衆議院議員を務めた白井新太郎の四男として生まれる。 祖父の白井五郎太夫は林安定とともに藩大砲隊頭を務め、鳥羽・伏見の戦いで討死した。なお父・新太郎の先妻は盛岡藩家老のち外交官の南部次郎(東政図)の次女・恵子、後妻は湯長谷藩の藩主家当主内藤政潔の叔母・董子である。また、兄(父・新太郎の養子)の白井龍一郎は加波山鉄道社長などを務めた実業家であり、龍一郎の妻は子爵山内豊健の姉で、幕末の土佐藩主山内容堂の孫にあたる。
重信 常喜(しげのぶ つねき、1911年7月15日 - 20… 重信 常喜(しげのぶ つねき、1911年7月15日 - 2006年4月16日)は、日本のフランス文学者、詩人。 東京生まれ。1935年東京帝国大学文学部仏文科卒、千葉大学講師、助教授、教授、1975年定年退官、名誉教授、日本大学法学部教授、1982年定年。没後、従四位。
金 善太(キム・ソンテ、朝鮮語: 김선태、1911年7月15… 金 善太(キム・ソンテ、朝鮮語: 김선태、1911年7月15日または8月2日または8月8日 - 1978年11月29日または12月29日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の法曹、政治家、大学教員。第3・4・5代韓国国会議員。 本貫は金陵金氏(朝鮮語版)。別名は逸松、日本名は金澤善太。 全羅南道莞島郡郡外面生まれ、本籍地は忠清南道公州郡。1927年に莞島郡外普通学校を卒業、中学2年生の時にこっそりと海南郡で家の牛を売り、そのお金でソウルに上京した。中東中学校、儆新学校、京城法政学校を経て1936年に日本大学専門部法科に編入、1939年3月に卒業した。同年に高等文官試験司法科に合格した後、光復までは全州・清州・清津で地方法院の判事を務めた。
羽田野 伯猷(はたの はくゆう、1911年7月13日 - 1… 羽田野 伯猷(はたの はくゆう、1911年7月13日 - 1985年1月9日)は、日本の仏教史学者。東北大学名誉教授。日本学士院賞受賞。 愛知県三河国出身。1933年第四高等学校卒業。1936年東北帝国大学法文学部卒業、文学士。1939年大日本帝国陸軍歩兵少尉。1941年大日本帝国陸軍中尉。大日本帝国陸軍大尉として満州で従軍したのち、1944年東北帝国大学着任。1951年東北大学助教授。1955年日本学士院賞受賞。1959年から東北大学教授を務め印度学第二講座を担当した。1960年東北大学文学博士。1975年退官。勲三等旭日中綬章。指導学生に磯田熙文東北大学名誉教授など。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。