田制佐重(たせい すけしげ、1886年11月25日ー1954… 田制佐重(たせい すけしげ、1886年11月25日ー1954年10月30日)は、日本の教育社会学者。 山形県置賜郡添川村(現・飯豊町添川)生まれ。山形県立米沢中学校卒、1907年早稲田大学文学部文学科卒。新潟県立高田中学校教諭、1913年に退職して上京、大日本文明協会で翻訳の仕事をする。1915年大日本文明協会編集部員。1946年早大文学部講師。のち教育学部講師を兼ねる。
竹崎 米吉(たけざき よねきち、1886年(明治19年)11… 竹崎 米吉(たけざき よねきち、1886年(明治19年)11月25日 - 1967年〈昭和42年〉)は、日本の内務官僚。大阪府岸和田市長。 高知県吾川郡仁西村(現在の高知市)出身。1914年(大正3年)、関西大学法律科を卒業し、警部補となる。1919年(大正8年)、高等文官試験に合格。大阪府属、同警部、沖縄県警視・警務課長、同巡査教習所長、同中頭郡長、同国頭郡長、愛媛県書記官・学務部長、沖縄県書記官・警察部長、同内務部長、同総務部長を歴任した。1936年(昭和11年)、佐賀県書記官・総務部長に就任し、翌年7月に退官した。 退官後の1937年(昭和12年)10月に岸和田市長に選出された。
吉田 絃二郎(よしだ げんじろう、1886年11月24日 -… 吉田 絃二郎(よしだ げんじろう、1886年11月24日 - 1956年4月21日)は、日本の小説家、随筆家。佐賀県神埼郡西郷村(現在の神埼市)に生まれ、幼時に長崎県佐世保市に移る。本名は吉田源次郎。 佐賀工業学校金工科(現在の佐賀県立佐賀工業高等学校機械科)、早稲田大学文学部英文科を卒業。1915年(大正4年)に早大講師、1924年に同大文学部教授となる(教え子には井伏鱒二等がいる)。教職の傍ら詩や小説を多く執筆した。1934年(昭和9年)に早大を退職し作家活動に専念。小説・随筆・評論・児童文学・戯曲と幅広い分野で活躍し、著作集は236冊を数えた。1956年4月21日死去、享年69。墓所は多磨霊園。
磯 永吉(いそ えいきち、1886年11月23日 - 197… 磯 永吉(いそ えいきち、1886年11月23日 - 1972年1月21日)は、日本の農学者、作物育種学者。台北帝国大学(現台湾大学)教授。台湾米(蓬萊米)の父と呼ばれた。農学博士(北海道大学・論文博士・1928年)(学位論文「台湾稲ノ育種学的研究」)。 1886年、広島県福山市新馬場町(霞町)で生まれた。旧制日彰館中学(現・広島県立日彰館高校)を経て、1905年に札幌農学校に入学。同学校は東北帝国大学農科大学に在学中に東北帝国大学農科大学に改組となったため、1911年に東北帝国大学農科大学を卒業。 1912年、台湾へ渡り、台湾総督府農事試験場に勤務。1928年、学位論文『台湾稲ノ育種学的研究』を北海道帝国大学に提出して農学博士号を取得。
林 道倫(はやし みちとも、1885年(明治18年)12月2… 林 道倫(はやし みちとも、1885年(明治18年)12月21日 - 1973年(昭和48年)3月28日)は、日本の精神医学者、教育者。新制岡山大学の初代学長を務めた。名前は「どうりん」と音読みされることもある。 宮城県仙台市出身。仙台第一中学校、第二高等学校を経て、1910年12月東京帝国大学医学部卒業。帝大在学中は日本の精神病研究の先駆者である呉秀三の薫陶を受け、歌人の斎藤茂吉は同級生であった。1921年からドイツに3年間留学する。 帰国から間も無い1924年7月、岡山医科大学(現岡山大学医学部)精神科教授に就き、生涯にわたり岡山を活動拠点とする。しかし、就任早々林を待ち受けていたのが、日本脳炎の流行であった。
青塚 恒治(あおづか こうじ、1885年(明治18年)12月… 青塚 恒治(あおづか こうじ、1885年(明治18年)12月21日 - 1958年(昭和33年)7月15日)は、大正から昭和時代前期の政治家。山形県酒田市長。 地主青塚岩治の二男として山形県飽海郡酒田本町に生まれる。生家は代々金物屋を営んだ。荘内中学校を経て第一高等学校に進み、俳句や漢詩を嗜んだ。1917年(大正6年)酒田町会議員に当選し、1920年(大正9年)消防組頭を経て、1926年(大正15年)酒田町助役に就任した。1931年(昭和6年)山形県会議員に当選し、酒田市会議員、同議長を経て、1945年(昭和20年)10月、酒田市長に就任したが、間もなく公職追放となった。 のち初代監査委員に就任した。
大橋 八郎(おおはし はちろう、1885年12月19日 - … 大橋 八郎(おおはし はちろう、1885年12月19日 - 1968年6月4日)は、日本の政治家、逓信官僚、俳人。岡田内閣の法制局長官、林内閣の内閣書記官長、社団法人日本放送協会第4代会長、日本電信電話公社第2代総裁。現在の富山県高岡市出身。 日本放送協会会長時、終戦時の玉音放送に携わった。戦後の通信事業近代化に貢献。おじは漢詩人の大橋十右衛門。 富山縣高岡中學校、石川縣尋常中學校を経て、1906年(明治39年)7月に第四高等學校を卒業。 1910年(明治43年)7月に東京帝国大学法科大学を卒業した後、逓信省に入省。同年11月、高等文官試験に合格する。1925年(大正14年)10月に郵務局長、1928年(昭和3年)7月に経理局長となる。
小圃 千浦(おばた ちうら、1885年(明治18年)12月1… 小圃 千浦(おばた ちうら、1885年(明治18年)12月18日 - 1975年(昭和50年)10月6日)は、日本出身のアメリカ合衆国の画家、版画家。アメリカの大自然を日本画の技法で描き、新しい美の世界を切り開いた。また、米国で日本人初の野球チームを共同設立した。戦争中、日系人収容所のトパーズ戦争移住センターに収容されたことでも知られる。 岡山県後月郡井原村(現・井原市)に8人兄弟の末子として生まれる。本名、佐藤蔵六。5歳で仙台に住む洋画家・美術教師の兄六一(伊達藩家老だった小圃家に婿入りしていた)の養子となる。7歳から日本画を学んだ。14歳のときに東京に出て、「大政奉還図」で有名な邨田丹陵に師事した。
星島 義兵衛(ほしじま ぎへえ、1885年(明治18年)12… 星島 義兵衛(ほしじま ぎへえ、1885年(明治18年)12月17日 - 1968年(昭和43年)7月25日)は、日本の実業家。元岡山県農工銀行頭取。岡山商工会議所設立者・初代会頭。 岡山県児島郡藤戸村生まれ。1905年岡山県立岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)卒業。1909年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。1913年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部銀行科卒業。 星島銀行入行後、1925年岡山県農工銀行取締役。1928年岡山県農工銀行頭取。1934年初代岡山ロータリークラブ会長。1936年日本赤十字社評議員。 1943年岡山県商工経済会会頭。1944年日本勧業銀行顧問。1946年岡山商工会議所発起人総代・初代会頭。
山中 峯太郎(やまなか みねたろう、1885年(明治18年)… 山中 峯太郎(やまなか みねたろう、1885年(明治18年)12月15日 - 1966年(昭和41年)4月28日)は、日本の陸軍軍人、小説家、翻訳家。陸士19期・陸大退校(25期相当)、最終階級は陸軍歩兵中尉(依願免官)。 山中未成、大窪逸人、石上欣哉、三条信子などのペンネームも用いた。 大阪府で呉服商を営んでいた馬淵浅太郎(旧・彦根藩士)の次男として生まれる。幼少時に、陸軍一等軍医(大尉相当官)山中恒斎の婿養子となり、のちに恒斎の娘の「みゆき」を娶った。大阪偕行社附属小学校(現・追手門学院小学校)、天王寺中学(現・大阪府立天王寺高等学校)を経て、1901年(明治33年)、大阪陸軍地方幼年学校(大幼)に入校。
伊藤 文吉(いとう ぶんきち、1885年(明治18年)12月… 伊藤 文吉(いとう ぶんきち、1885年(明治18年)12月15日 - 1951年(昭和26年)11月25日)は、日本の実業家。華族、貴族院男爵議員。 初代内閣総理大臣伊藤博文の実子。伊藤家に行儀見習いに来ていた多摩出身の女性との間にできた婚外子で、当初は、博文の後妻の兄である木田幾三郎の長男として育てられたが、後に戸籍上伊藤の養子となる。旧制山口県立豊浦中学校(第1期)、山口高等学校卒業。1908年(明治41年)東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、農商務省の商工局に勤務、文官高等試験を経て翌年山林事務官兼農商務書記官となり、1910年(明治43年)休職し、渡英。農商務省参事官、同山林局書記官、外務書記官、内閣総理大臣秘書官、軍需省顧問、鮎川義介が創立した日本産業(日産)取締役、日本鉱業社長などを務めた。
近藤 元久(こんどう もとひさ、1885年12月15日 - … 近藤 元久(こんどう もとひさ、1885年12月15日 - 1912年10月6日)は日本の初期のパイロットで、ロサンゼルスの近郊で、事故死した。航空機の事故で死亡した最初の日本人である。 伊予松山藩士・近藤南洲の次男として大阪で生まれた。松山中学の漢学の教師をしていた叔父・近藤元弘の養子となり松山中学を卒業後、1903年に単身、渡米した。8年ほどアメリカ合衆国で暮らした後、飛行家となることをめざしてサンディエゴのカーチス飛行学校で学び、1912年(明治45年)4月27日、万国飛行免状を得た。カーチス飛行学校では武石浩玻とともに学び、同校初の日本人卒業生となった。カーチス飛行学校で日本海軍の山田忠治、河野三吉、中島知久平の三人のカーチス水上機の実習の手伝いなどをした。
斎藤 干城(さいとう かんじょう、明治18年(1885年)1… 斎藤 干城(さいとう かんじょう、明治18年(1885年)12月13日 - 昭和23年(1948年)5月18日)は、日本の医師、陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍軍医中将。鳥取県米子市長。正四位勲一等瑞宝章。 鳥取県米子市尾高町に生まれた。開業医斎藤勇夫の長男。 米子中学(現在の米子東高校)を経て大正元年(1912年)九州帝国大学医学部卒業後、熊本歩兵第13連隊軍医に任官。昭和3年(1928年)、浜田陸軍病院長に就任。昭和5年(1930年)3月、一等軍医正(大佐相当官)に昇進し豊橋陸軍病院長となる。昭和6年(1931年)8月、名古屋陸軍病院長に異動。昭和7年(1932年)12月、第12師団軍医部長となり、第3師団軍医部長に転じた。
除野 康雄(よの やすお、1885年(明治18年)12月12… 除野 康雄(よの やすお、1885年(明治18年)12月12日 - 1969年(昭和44年)10月9日)は、日本の内務・警察官僚。官選滋賀県知事。 熊本県飽託郡健軍村(現在の熊本市東区)出身。除野正稔の二男として生まれる。第五高等学校を卒業。 1911年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1912年、内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、北海道庁理事官、茨城県理事官、鹿児島県警察部長、鳥取県書記官・内務部長、秋田県書記官・内務部長、新潟県書記官・内務部長などを歴任。 1931年1月20日、滋賀県知事に就任。同年12月18日、知事を休職となる(政友会の犬養内閣成立に伴う更迭)。
岡山 不衣(おかやま ふい、1885年(明治18年)12月9… 岡山 不衣(おかやま ふい、1885年(明治18年)12月9日 - 1943年(昭和18年)11月29日)は岩手県花巻市出身の俳人、新聞編集者。岩手毎日新聞社(1933年廃刊。現在の毎日新聞とは無関係)の主筆(編集長)でもあった。生誕時の本名は伊藤儀七であったが、幼少時に養子に出たことで岡山儀七となった。 1885年(明治18年) のちの貴族院議員伊藤儀兵衛の四男として、花巻に生まれる。1889年(明治23年)、岡山直機の養子となる。 旧制岩手県立盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)に入学し、石川啄木と出会う(学年は啄木が1年上)。1901年(明治34年)に啄木のほか野村長一(後の野村胡堂)や、後に医学博士となる小林茂雄や瀬川深(せがわふかし)、猪川浩らと短歌会「白羊会」を結成する。
高橋 勝四郎(たかはし かつしろう、1885年(明治18年)… 高橋 勝四郎(たかはし かつしろう、1885年(明治18年)12月9日 - 1972年(昭和47年))は、日本の獣医師。馬産家として名高い。岩手県胆沢郡南下幅村(現在の奥州市)出身。父の高橋音四郎は南都田村の村議会議員。 生家は農家で、馬の飼育も手掛けていた。そのことから勝四郎は幼少の頃から馬と身近に接しながら育った。当時の慣例により5歳の時に南下幅尋常小学校に入学。卒業後農業補習科に3年通い、水沢尋常高等小学校の高等科4年生に編入。卒業後は師範学校に進学するつもりであったが13歳だった勝四郎は入学年齢に達しておらず、入学年齢に達するまでの間、母校の南下幅尋常小学校に代用教員として勤務することになった。
佐々木精治郎(ささき せいじろう、1885年〈明治18年〉1… 佐々木精治郎(ささき せいじろう、1885年〈明治18年〉12月8日 - 1971年〈昭和46年〉11月28日)は、日本の画家。岩手県江刺郡黒石村出身。 ロサンゼルス美術学校、ニューヨーク美術学院を卒業し、帰国。それ以降も渡欧などを経て、多くの展覧会出品や個展を開催する。 パステル画を中心とした作品が特徴である。 1885年12月8日、岩手県江刺郡黒石村長根(現:奥州市水沢黒石町字長根)の農家に7人兄弟の次男として生まれる。実家はかつて庄屋を務めるほど豪農である。1892年ごろ黒石村立博文尋常小学校(のちの奥州市立黒石小学校)に入学し、熊野神社神主より漢学を学んだ。卒業後、当時村内には高等小学校が無いため、胆沢郡前沢町の前沢尋常高等小学校へ進み、のちに七光社同人となる村上隆一と自炊生活を始めた。
富田 愛次郎(とみた あいじろう、1885年(明治18年)1… 富田 愛次郎(とみた あいじろう、1885年(明治18年)12月5日 - 1954年(昭和29年)11月3日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、衆議院議員。 愛知県出身。富田治郎右衛門の三男として生まれる。第四高等学校を経て、1913年、京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。大学卒業後、内務省に入り京都府属となる。 以後、京都府警視、埼玉県理事官、同視学官、内務省警保局事務官兼内務書記官、社会局第一課長、同書記官、同労働部長、同社会部長、中央職業紹介事務局長などを歴任。 1935年1月、三重県知事に就任。1937年1月、広島県知事に転じた。
飛鳥井 雅四(あすかい まさし、1885年〈明治18年〉12… 飛鳥井 雅四(あすかい まさし、1885年〈明治18年〉12月4日 - 1974年〈昭和49年〉7月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1885年(明治18年)に東京府で生まれた。陸軍士官学校第18期、陸軍砲工学校高等科第16期(優等)卒業。1914年(大正3年)に、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。 イギリス駐在を経て、1928年(昭和3年)8月に陸軍通信学校研究部主事に就任し、1930年(昭和5年)3月6日に陸軍工兵大佐に進級、8月1日に電信第2連隊長に転じた。1932年(昭和7年)4月に近衛師団司令部附となり、日本大学に配属された。 1933年(昭和8年)8月に陸軍砲工学校教官に転じ、1934年(昭和9年)8月1日に陸軍少将に進級と同時に津軽要塞司令官に着任。
坂口 康蔵(さかぐち こうぞう、1885年(明治18年)12… 坂口 康蔵(さかぐち こうぞう、1885年(明治18年)12月2日 - 1961年(昭和36年)7月28日)は、日本の医師・内科医学者・政治家。東京帝国大学教授や貴族院勅選議員を務めた。 東京府出身。1910年(明治43年)、東京帝国大学医科大学を卒業し、附属病院副手、伝染病研究所技手、東京帝国大学助手を経て、1919年(大正8年)に東京帝国大学講師となった。同年、医学博士号を受ける。1926年(大正15年)より欧米に留学し、1928年(昭和2年)に帰国したのち、東京帝国大学助教授、東京警察病院院長となった。その後、同大学教授、同医学部附属病院院長、同医学部長となり、1946年に定年退官した。1946年から1956年まで厚生技官となり、国立東京第一病院院長、国立東京第一病院附属高等看護学院長を務めた。
今井 博茂(いまい ひろしげ、1885年12月1日 - 19… 今井 博茂(いまい ひろしげ、1885年12月1日 - 1935年7月29日)は、日本の造兵技術者。海軍造兵少将。 福岡県出身。1905年福岡県立中学修猷館、1909年7月第五高等学校工科を経て、1912年7月東京帝国大学工科大学造兵学科を卒業。東大在学中の1911年2月、海軍造兵学生試験に合格。 1912年海軍造兵技士として呉海軍工廠に入り、呉海軍工廠砲熕部部員、舞鶴海軍工廠造兵部部員を務めた後、1918年造兵監督官として米国に出張。帰国後、佐世保海軍工廠造兵部部員、呉海軍工廠砲熕部部員などを務め、1929年11月海軍造兵大佐に累進し、横須賀海軍工廠造兵部部員となる。1932年10月呉海軍工廠砲熕部部員を経て、1934年11月佐世保海軍工廠造兵部長に就任する。
大藪 虎亮(おおやぶ こりょう、1885年12月1日 - 1… 大藪 虎亮(おおやぶ こりょう、1885年12月1日 - 1966年)は、日本の国文学者。号は紫牛。 福岡県出身。1905年福岡県立尋常中学修猷館、1909年第五高等学校英語文科を経て、1912年東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。 1920年第四高等学校教授に就任し、国語を講じる。1935年旧制広島高等学校教授に転じて、国語を講じる。
平田 昇(ひらた のぼる、1885年12月1日 - 1958… 平田 昇(ひらた のぼる、1885年12月1日 - 1958年5月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
池田 蔵六(いけだ ぞうろく、1885年〈明治18年〉12月… 池田 蔵六(いけだ ぞうろく、1885年〈明治18年〉12月1日 - 1940年〈昭和15年〉4月12日)は、日本の大蔵・台湾総督府官僚。台湾総督府専売局長、同財務局長。 東京府東京市出身。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し、高等文官試験に合格した。専売局書記、参事補、副参事、参事を務め、三田尻専売局長、徳島専売局長、岡山専売局長、専売局煙草課長を歴任した。その後、台湾総督府専売局参事に転じ、1929年(昭和4年)には専売局長となった。翌年には財務局長に就任した。 退官後は東洋葉煙草株式会社社長を務めた。
園部 マキ(そのべ まき、明治18年(1885年)12月1日… 園部 マキ(そのべ まき、明治18年(1885年)12月1日 - 昭和19年(1944年)1月)は、保育事業家。 大正3年(1914年)に、京都市最初の保育園を開設した。 明治18(1885)年12月1日、宮崎県高鍋で士族の家庭に生まれる。旧姓は、藤田。 明治33(1900)年に、同志社女学校(現在の同志社女子大学)入学し、明治38(1905)年、に卒業する。同年、京都看病婦学校1年に編入し、同年5月には渡米、フィラデルフィアの一致協会附属看護学校(Presbyteriam Hospital of Nursing)に留学する。 明治42(1909)年4月、卒業。その後、社会施設事業等を見学視察し、同年11月に帰国。
近藤 民雄(こんどう たみお、1885年(明治18年)11月… 近藤 民雄(こんどう たみお、1885年(明治18年)11月30日 - 1967年(昭和42年)7月20日)は、日本の商法学者。
宇野 円空(宇野圓空、うの えんくう、1885年11月27日… 宇野 円空(宇野圓空、うの えんくう、1885年11月27日 - 1949年1月1日)は、日本の宗教学者・民族学者。 1885年、京都市にある西本願寺派の尊徳寺で生まれた。東京帝国大学文科大学哲学科で学び、1910年に卒業。大学では、マルセル・モースに師事した。同年、京都帝国大学大学院へ進んだ。 1912年より佛教大学教授となった。1920年から1923年にかけて欧州(フランス、ドイツ、オランダ)に研究留学し、宗教民族学の理論的研究に従事した。1922年、龍谷大学教授となった。1926年、東京帝国大学文学部専任講師となり、1927年に助教授昇格。1934年に学位論文『マライシアニ於ケル稲米儀礼』を東京帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。
石坂 養平(いしざか ようへい、1885年(明治18年)11… 石坂 養平(いしざか ようへい、1885年(明治18年)11月26日 – 1969年(昭和44年)8月16日)は、日本の文芸評論家、政治家。衆議院議員、埼玉県議会議員(いずれも立憲政友会)。父の石坂金一郎も政治家で、郡会議員、県会議員を務めた。 埼玉県大里郡中奈良村(後の奈良村、現在の熊谷市)に大地主の家の長男として生まれる。幡羅尋常小学校、熊谷中学校を経て1902年(明治35年)に第二高等学校に進学。1906年(明治39年)に東京帝国大学理学部に進学したが中退して、1910年(明治43年)に同文科大学哲学科に再入学した。帝大在学時から文芸評論家として活動を始め、「新自然主義の誕生」や「鈴木三重吉論」などの文学論を発表して中央文壇に認められた。
高階 研一(たかしな けんいち、明治18年〈1885年〉11… 高階 研一(たかしな けんいち、明治18年〈1885年〉11月25日 - 昭和42年〈1967年〉10月4日)は、明治時代末期から昭和時代後期にかけて活躍した日本の神職。 丹生川上神社宮司、石上神宮宮司、廣田神社宮司、札幌神社宮司、諏訪神社宮司、橿原神宮宮司を歴任したほか、長野県神社協会理事、全国神職会理事、皇典講究所理事、奈良県神社庁初代庁長、神社本庁第3代事務総長、同理事、同顧問を務めた「神社界の重鎮」であった。 明治18年(1885年)11月25日、元豊岡藩士高階幸造を父に、兵庫県城崎郡田鶴野村に生まれた。 大学は國學院大學師範部国語漢文科に進んだ。同期には折口信夫がおり、研一と折口との交流は折口が亡くなるまで続いている。
青田 勝晴(あおた かつはる、1885年〈明治18年〉11月… 青田 勝晴(あおた かつはる、1885年〈明治18年〉11月24日 - 1944年〈昭和19年〉2月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 奈良県、現在の奈良市出身。布帛製品製造輸出業に従事し、メリヤス同業組合代議員、大阪輸出協会理事、大阪貿易同盟会理事を務めた。1919年(大正8年)9月25日に大阪府会議員に当選して、1931年(昭和6年)9月24日に退任するまで務めた。そのほか同参事会員、所得税調査委員、借地借家、小作、商事各調停委員となる。 1932年(昭和7年)の第18回衆議院議員総選挙において大阪府第3区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選した。1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙で落選した。
佐藤 博夫(さとう ひろお、1885年11月23日 - 19… 佐藤 博夫(さとう ひろお、1885年11月23日 - 1966年4月15日)は、日本の実業家。 熊本県阿蘇郡北小国村に生まれ、年少期に祖母に連れて、大阪に移住。1904年に岸和田中学を卒業。1907年に箕面有馬電気軌道に入社。 専務を経て、1936年から阪神急行電鉄社長を務め、1943年に陸上交通事業調整法による京阪電気鉄道との統合により、京阪神急行電鉄社長に就任した。 1946年11月に公職追放を受け、社長を辞任したが、1951年に会長として、阪急に復帰し、1951年に阪急不動産の社長に就任し1957年に東宝の会長に就任。1956年に交通文化賞を受賞し、1964年には勲三等旭日中綬章を受章した。
田中 正太郎(たなか しょうたろう、1885年(明治18年)… 田中 正太郎(たなか しょうたろう、1885年(明治18年)11月23日 - 1965年(昭和40年)1月17日)は、大正から昭和時代の政治家、教育者、実業家。北海道勇払郡苫小牧町長、初代苫小牧市長。 札幌県新冠郡(現・北海道新冠郡新冠町)にて生まれ、1893年(明治26年)苫小牧へ移り住む。苫小牧尋常高等小学校(現・苫小牧市立西小学校)を経て、1908年(明治41年)北海道師範学校第1部(現・北海道教育大学札幌校)卒業。卒業後、直ちに母校の苫小牧尋常高等小学校の訓導となり、その後、1918年(大正7年)苫小牧東尋常小学校(現・苫小牧市立東小学校)訓導兼校長を経て、1921年(大正10年)苫小牧東尋常高等小学校の校長に就任する。
黒木 三次(くろき さんじ、明治17年(1884年)12月2… 黒木 三次(くろき さんじ、明治17年(1884年)12月21日 - 昭和19年(1944年)9月30日)は、日本の華族。貴族院議員・帝都復興院参与・司法省委員を務める。位階・勲等・爵位は正三位・勲三等・伯爵。 第1軍司令官を務めた黒木為楨陸軍大将伯爵と、妻ヒヤク(黒田清隆の養女)の長男として東京に生まれる。一高で内村鑑三の元で学び、明治45年(1912年)東京帝国大学法科大学を卒業。大正7年(1918年)から欧米に留学し、帰国後は母校の東京帝国大学法科大学で副手を務める。大正12年(1923年)2月3日の父の薨去を受けて襲爵し、伯爵となる。三次は同年9月1日に発生した関東大震災の復興を目的とした帝都復興院参与に就任し、大正15年(1926年)5月1日には補欠選挙で貴族院伯爵議員に選出された。
石黒 英彦(いしぐろ ひでひこ、1884年12月20日 - … 石黒 英彦(いしぐろ ひでひこ、1884年12月20日 - 1945年6月21日)は、日本の文部・朝鮮総督府・台湾総督府官僚。 広島県出身。石黒清左衛門の五男として生まれる。広島中学、第三高等学校を経て、1910年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1911年5月、文部省維新史料編纂事務局書記となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年6月、文部属となり普通学務局に配属。その後、兼内務属・地方局勤務、秋田県理事官、群馬県視学官などを歴任。 1919年8月、朝鮮総督府に転じ江原道第三部長に就任。さらに平安北道第三部長、同警察部長、朝鮮総督府内務局地方課長などを歴任した。
曄道 文芸(てるみち ぶんげい、1884年(明治17年)12… 曄道 文芸(てるみち ぶんげい、1884年(明治17年)12月20日 - 1966年(昭和41年)8月11日)は、日本の法学者。専門は民法。実業家。学位は、法学博士。元京都帝国大学教授。 明治17年(1884年)、石川県能美郡川北町で、静泉寺住職・曄道大圓の長男として生まれる。第四高等学校を経て、明治42年(1909年)、京都帝国大学法学部を首席で卒業。曄道の卒業と同年に東京帝国大学を卒業した鳩山秀夫が、曄道が高等文官試験を受けると聞き付け、首席を取られることを恐れて、自身の高等文官試験受験を取り止めたとの逸話がある。 後に、京都帝国大学助教授、次いで教授を務め、京大民法学の基礎を固めたが、大正9年(1920年)、京大教授を退官、実業界に入った。
富田 松彦(とみた まつひこ、1884年(明治17年)12月… 富田 松彦(とみた まつひこ、1884年(明治17年)12月20日 - 1930年(昭和5年)10月24日)は、日本の大蔵官僚。台湾総督府官僚。 福島県出身。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。大蔵省理財局銀行課勤務、司税官、亀戸税務署長、広島税務監督局事務官、大蔵事務官、専売局副参事を務めた。1921年(大正10年)、台湾総督府に転じて財務局主計課長となり、1926年(大正15年)に財務局長に就任した。
浜田 勇(はまだ いさむ、1884年12月20日 - 194… 浜田 勇(はまだ いさむ、1884年12月20日 - 1945年1月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1884年(明治17年)12月、高知県安芸郡羽根村(現在の室戸市)に浜田勇次郎の子として生まれた。海南中学を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、歩兵少尉任官。 1917年(大正6年)、歩兵大尉になり歩兵第44連隊中隊長に就任。1919年(大正8年)、シベリア出兵に従軍。1929年(昭和4年)、歩兵中佐に進級。1931年(昭和6年)、予備役に編入された。1937年(昭和12年)、日中戦争(日華事変)で召集。1943年(昭和18年)、陸軍大佐に進んだ。
白上 佑吉(しらかみ ゆうきち、1884年(明治17年)12… 白上 佑吉(しらかみ ゆうきち、1884年(明治17年)12月19日 - 1965年(昭和40年)1月24日)は、日本の内務及び警察官僚。官選県知事。旧姓は林。陸軍大臣や首相を務めた林銑十郎は実兄。 石川県出身。父、石川県士族・林孜々郎が富山県礪波郡首席書記の時に、同郡出町(現砺波市)で三男として生まれる。その後、父の上司(郡長)で後に山口県警部長となった白上俊一の養子となる。第四高等学校を卒業。1910年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し警視庁警部・第一部警務課勤務となる。 1910年12月、警視総監官房文書課審査係長兼高等課外事係長に就任。
有馬 頼寧(ありま よりやす、明治17年(1884年)12月… 有馬 頼寧(ありま よりやす、明治17年(1884年)12月17日 - 昭和32年(1957年)1月9日)は、日本の政治家。農政研究者。農林大臣。日本中央競馬会第2代理事長。プロ野球オーナー。旧筑後国久留米藩主・有馬家の第15代当主。伯爵。
北村 西望(きたむら せいぼう、1884年(明治17年)12… 北村 西望(きたむら せいぼう、1884年(明治17年)12月16日 - 1987年(昭和62年)3月4日)は、長崎県出身の日本の彫刻家。本名は北村 西望(きたむら にしも)。 昭和を代表する彫刻家の一人。代表作に長崎平和公園設置の巨大像「長崎平和祈念像」、国会議事堂内設置の「板垣退助翁」などがある。文化勲章・紺綬褒章受章者、文化功労者。日本彫刻会では西望の功績を称え、同会展覧会における最優秀作品に贈られる賞の名称を「北村西望賞」(西望賞)としている。 また、個人寄付により小中学生の教育美術振興を目的とした「北村西望賞基金」を設け、これは2016年12月 (2016-12)現在[update]、「北村西望賞教育美術展」として公募展の形で継続している。
小松 耕輔(こまつ こうすけ、1884年〈明治17年〉12月… 小松 耕輔(こまつ こうすけ、1884年〈明治17年〉12月14日 - 1966年〈昭和41年〉2月3日)は、明治 - 昭和期の日本の作曲家・教育家・評論家。秋田県由利郡舘合村(後の玉米村→東由利村→東由利町舘合、現在の由利本荘市東由利舘合)出身。東京音楽学校卒業。号は玉巌(ぎょくがん)。 1901年に上京して東京音楽学校選科に入学。1903年に同校本科に進み、ヴァイオリンを幸田延、ピアノと作曲をヘルマン・ハイドリヒ、和声法をノエル・ペリーに師事。1906年に東京キリスト教青年会会館で歌劇「羽衣」を初演。同年、同校を卒業し、研究科でアウグスト・ユンケルに声楽を師事。学習院講師。1920年に渡仏。
東条 操(とうじょう みさお、1884年12月14日 - 1… 東条 操(とうじょう みさお、1884年12月14日 - 1966年12月19日)は、日本の国語学者。旧制静岡高等学校・広島高等師範学校・学習院・東洋大学の教授。東京大学講師。日本全国を回り、日本の方言研究の土台を築いた。
中田 正輔(なかた まさすけ、1884年12月14日 - 1… 中田 正輔(なかた まさすけ、1884年12月14日 - 1960年11月28日)は、昭和期の日本の政治家で、非公選最後及び公選初代の佐世保市長である。 佐世保市出身。早稲田大学政経科(現在の政治経済学部)を卒業し、帰郷して地元の佐世保軍港新聞の記者になったが体調を崩し2年ほどで退職して実家で農業を営む。1916年7月の長崎県議会議員補欠選挙に擁立され初当選、以後佐世保市議会議員(5期、1918年~1936年)、同議長(1930年6月~1932年3月)、さらに衆議院議員(1期、1932年~1936年)を務めた後、戦後間もない1946年8月に第12代佐世保市長に就任。翌年の初の市長選で引き続き当選、非公選1期、公選2期の計9年間に及び市長を務めた。
須川 政太郎(すがわ せいたろう、1884年(明治17年)1… 須川 政太郎(すがわ せいたろう、1884年(明治17年)12月13日 - 1955年(昭和30年)7月28日)は明治から大正期の作曲家。 和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)谷王子出身。和歌山中学卒業の後、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)甲種師範科入学。途中2年間休学して、東京市茅場小学校で代用教員を務めたのち、復学し、明治44年に卒業した。翌年、竹久夢二作詞の『宵待草』のモデルとなった長谷川カタ(賢)と結婚し、東京市十思小学校で訓導をつとめた。 音楽教諭として、鹿児島師範学校、旧制鹿児島一中、京都師範学校、同女子師範、桃山高女、滋賀女子師範、大津高女 彦根高等女学校に赴任。戦中は一時、中島飛行機半田製作所に勤務し、戦後、半田高等女学校(のち半田高校)で音楽を教えた。
武富 敏彦(たけとみ としひこ、1884年(明治17年)12… 武富 敏彦(たけとみ としひこ、1884年(明治17年)12月13日 - 1964年(昭和39年)8月21日)は、日本の外交官。駐オランダ公使、駐トルコ大使。
西原 清顕(さいばら きよあき、1884年12月12日 - … 西原 清顕(さいばら きよあき、1884年12月12日 - 1972年10月18日)はアメリカで農場経営者となった人物。 1884年(明治17年)12月12日、高知県高知市新田淵(現在の桜井町)で元同志社社長で衆議院議員の西原清東の長男として生まれた。1902年(明治35年)東京築地立教中学卒業、第七高等学校に合格したが父親に呼ばれ渡米。父と一緒に米作りをする。戦前は東南テキサス日本人会長をしていたため開戦時拘束されたが、「米は武器、その専門家を捕まえて米を腐らせるのか」との名言を残し釈放される。1957年(昭和32年)母方のはとこの婚姻に合わせ一時帰国、日本からの移民に対する後援の功により勲五等瑞宝章を受ける。
大塚 惟精(おおつか いせい、1884年〈明治17年〉12月… 大塚 惟精(おおつか いせい、1884年〈明治17年〉12月11日 - 1945年〈昭和20年〉8月6日)は、日本の内務官僚、政治家。貴族院議員。熊本県士族。 栃木・福岡・石川・広島の各県知事を歴任し、中国地方総監在任中に原爆投下により被爆死した。 細川侯爵家に仕えた書家・大塚惟一の長男として熊本県に生まれる。 済々黌中学・五高を経て、1909年(明治42年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、11月、高等文官試験に合格し翌12月、内務省に入省、愛知県属(内務部庶務課)となった。そして徳島県・宮城県・神奈川県の警察部長を歴任したのち、栃木県知事(1924年(大正13年)6月 - 1926年(大正15年)9月)、福岡県知事(1926年(大正15年)9月 - 1927年(昭和2年)5月)、石川県知事(1927年(昭和2年)5月、ただし1日のみの在任)を務めた。
広幡 忠隆(ひろはた ただたか、1884年〈明治17年〉12… 広幡 忠隆(ひろはた ただたか、1884年〈明治17年〉12月11日 - 1961年〈昭和36年〉4月12日)は、日本の政治家。逓信官僚。華族。貴族院侯爵議員、皇后宮大夫。第10代広幡家当主。 東京府で侍従・広幡忠朝の長男として生まれる。父の死去に伴い1905年(明治38年)1月23日に侯爵を襲爵。 学習院中等学科、同高等学科を経て、1909年(明治42年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業。同年12月10日、満25歳に達し貴族院侯爵議員に就任し、火曜会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 1910年(明治43年)2月、内閣総理大臣官房事務嘱託となる。
小野寺 章(おのでら あきら、1884年(明治17年)12月… 小野寺 章(おのでら あきら、1884年(明治17年)12月10日 - 1935年(昭和10年)2月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、実業家、弁護士。 岩手県東磐井郡黄海村(藤沢町を経て現一関市)に小野寺治平の二男として生まれる。1909年(明治42年)、明治大学を卒業。卒業後は「刑法研究会」をおこして、研究調査に励んだ。1913年(大正2年)、弁護士試験に合格し、法律事務所を開いた。また日本林産株式会社を創業して取締役に就任し、さらに京浜窯業株式会社の監査役も兼ねた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回・第18回と当選を重ねた。その間、東北振興会幹事として、昭和東北大凶作や昭和三陸地震の救済に尽力した。
小槙 和輔(こまき わすけ、1884年(明治17年)12月1… 小槙 和輔(こまき わすけ、1884年(明治17年)12月10日 - 1932年(昭和7年)8月20日)は、日本の海軍軍人。 旧名は庄之助。最終階級は海軍少将。1932年ジュネーブ会議の全権随員。和歌山県鳥屋城村(現有田川町)出身。