青木 才次郎(あおき さいじろう、1880年(明治13年)1… 青木 才次郎(あおき さいじろう、1880年(明治13年)12月21日 - 1954年(昭和29年)12月6日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・龍間。 茨城県西葛飾郡、のちの猿島郡五霞村(現五霞町)で、先代・青木才次郎の長男として生まれる。私立錦城中学校(現錦城学園高等学校)を経て、明治法律学校を修了した。1919年(大正8年)家督を相続し才次郎を襲名した。 青木組を組織して土木建築請負業を営み、茨城土木工業社長、水戸商工会議所議員などを務めた。 また、水戸市会議員、同参事会員、茨城県小作調停委員、同治水委員会委員、同耕地整理組合長などを歴任した。 1924年(大正13年)補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年5月3日に就任し1925年(大正14年)9月28日まで在任。
山川 均(やまかわ ひとし、1880年(明治13年)12月2… 山川 均(やまかわ ひとし、1880年(明治13年)12月20日 - 1958年(昭和33年)3月23日)は、日本の社会主義者、社会運動家、思想家、評論家。労農派マルクス主義の指導的理論家であった。山川菊栄は2番目の妻。 岡山県窪屋郡倉敷村字城ノ内に生まれる。小学校時代の友人に大原孫三郎がいた。同志社尋常中学部に学び、柏木義円らから影響を受ける。在学中に教育勅語や教会のキリスト教に対して反感と不信を抱き、同志社教師森田久萬人としばしば論争した。 同志社を中退して上京。1900年(明治33年)、守田有秋らの友人と語らって発行していた雑誌『青年の福音』に掲載した皇太子の結婚事情について書いた論説「人生の大惨劇」が不敬罪に問われ、重禁固刑を受ける。
平ノ石 辰治郎(ひらのいし たつじろう、1880年12月20… 平ノ石 辰治郎(ひらのいし たつじろう、1880年12月20日 - 1925年11月9日)は、現在の福島県いわき市出身で玉垣部屋、尾車部屋、峰崎部屋に所属した元大相撲力士。12代玉垣。本名は緑川 辰次郎。167cm、94kg。最高位は西前頭4枚目。 磐城炭坑で石炭運搬に従事していたが、相撲の強さを見出した上司から勧められて入門。1900年1月、初土俵・序ノ口。三段目に在位していた1905年に、師匠の死によって玉垣部屋が消滅し、それに伴い尾車部屋に移籍し、横綱大砲、大関荒岩の指導を受け、1908年5月十両昇進した。1911年2月新入幕。新入幕までには序ノ口から11年(22場所)かかっており、このうち三段目は4年半(9場所)に及んだ。
八角 三郎(やすみ さぶろう、1880年〈明治13年〉12月… 八角 三郎(やすみ さぶろう、1880年〈明治13年〉12月19日 - 1965年〈昭和40年〉1月20日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍中将、衆議院議員。 岩手県盛岡市出身。栃内曽次郎海軍大将は叔父。八角が海軍兵学校を志願するきっかけは原敬の激励だったという。 岩手県立盛岡尋常中学校より海軍兵学校(29期)へ進んだ。席次は入校時137名中119番。卒業時は125名中75番。第一駆逐隊所属の駆逐艦「吹雪」乗組み中尉として日本海海戦に参戦。大尉時代に『敵艦進路及び速力の誤測に対する命中限界算法、魚雷動的発射に於ける誤差』と題する論文を発表 し、海軍水雷術の発展に貢献している。海軍水雷学校校長、第二水雷戦隊司令官を務めた水雷の権威である。
盛島 明長(もりしま めいちょう、1880年(明治13年)1… 盛島 明長(もりしま めいちょう、1880年(明治13年)12月19日 – 1941年(昭和16年)3月24日)は、衆議院議員(立憲政友会)、医師。 沖縄県宮古郡下地村(現在の宮古島市)出身。1902年(明治35年)に沖縄県師範学校を卒業し、小学校訓導を務めた。その後、長崎医学専門学校に入学し、1908年(明治41年)に卒業。翌年、郷里に医院を開業した。 医業のかたわら、1917年(大正6年)より県会議員となり、副議長、議長を歴任した。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し当選。翌年の第20回衆議院議員総選挙でも再選されたが、1938年(昭和13年)4月7日、衆議院議員選挙法違反事件で大審院で上告棄却となり長崎控訴院判決が確定して退職した。
小原 光雲 (おはら こううん、1880年(明治13年)12… 小原 光雲 (おはら こううん、1880年(明治13年)12月19日 – 1938年(昭和13年)8月13日)は 大正-昭和時代前期の華道家。いけばな小原流二世家元。島根県松江市出身。本名は光一郎。 1880年(明治13年)、島根県松江市に生まれる。1890年(明治23年)、父(小原雲心)に呼ばれ大阪に転居する。父の勧めで商人を目指していたが、小原流興隆のため1904年(明治37年)、25歳で華道家に転身。1916年(大正5年)、父の死を受けて小原流家元を継承。以来、積極的に花展を開催し、ラジオや新聞・雑誌などで講座を受け持つなど、小原流いけばなの大衆化を図る。盛花に「型」を定め家元制度を確立させ、盛花をいける人を急増させる。
藤原 喜一(ふじわら きいち、1880年〈明治13年〉12月… 藤原 喜一(ふじわら きいち、1880年〈明治13年〉12月17日 - 1990年〈平成2年〉3月6日)は、編集者、東洋美術史・中国書道史研究者。号は楚水(そすい)。書や漢詩に関する著書多数。男性長寿日本一だった(109歳)。 大分県西国東郡呉崎村(現:豊後高田市)生まれ。呉崎小学校教師を経て、1901年、関西法律学校を卒業後、明治法律学校で法律・経済学を学び、1904年、実業之日本社に入社。編集長、理事を務める。1928年、退社後は三省堂出版部顧問に。 戦後は東洋美術史、中国書道史の著述をする傍ら、駒澤大学、東京学芸大学、横浜国立大学で東洋美術史、中国書道史を講義。1961年、論文『中国書道史』で博士号(文学、駒澤大学)を取得。
天岡 直嘉(あまおか なおよし、1880年〈明治13年〉12… 天岡 直嘉(あまおか なおよし、1880年〈明治13年〉12月17日 - 1957年〈昭和32年〉1月8日)は、明治・大正・昭和初期の内務・逓信官僚。売勲事件で知られる。 内閣総理大臣桂太郎の娘・輝子の夫。逓信省為替貯金局長、逓信省貯金局長、賞勲局総裁を歴任。位階勲等は従三位勲二等、後に失位・褫奪。岐阜県出身。 岐阜県安八郡大垣町(現大垣市)で、旧大垣藩士・天岡通剣の長男として生まれた。1906年東京帝国大学法科大学卒業、内務省入省。 1907年、内閣書記官。1912年、内閣会計課長。1917年に逓信省に移って逓信省為替貯金局長となり、1920年に貯金局が分離すると逓信省貯金局初代局長になった。
中山 寿彦(中山 壽彦、なかやま としひこ、1880年12月… 中山 寿彦(中山 壽彦、なかやま としひこ、1880年12月16日 - 1957年11月26日)は、日本の医師、政治家。日本医師会4代会長、貴族院議員、参議院議員、国務大臣。位階は従三位。勲等は勲二等。 兵庫県生まれ。1907年、東京帝国大学医学部を卒業。同年、東京医科大学附属病院助手となった。1920年、東京府豊多摩病院長に就任。東京府医師会長、同医師会附属下谷病院長、東京市理事、日本医療団東京支部事務局長、母子愛育会理事、公衆衛生院顧問、医師国家試験審議会委員などを歴任。 1946年(昭和21年)2月に日本医師会会長に就任した。戦後の新体制を準備していたが、GHQから戦争協力者に対する公職追放を医師会役員にも適用するという通告を受けて会長職を辞任した。
秦 逸三(はた いつぞう、1880年12月14日 - 194… 秦 逸三(はた いつぞう、1880年12月14日 - 1944年5月25日)は、日本で初めて人造絹糸(レーヨン)製造に成功した科学者・実業家。帝国人造絹糸(現・帝人)共同設立者。今の広島県安芸郡海田町出身。 広島県立広島第一中学校(現広島県立国泰寺高校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学医科大学薬学部に入学したが、同大学工科大学応用科学科に転入学した。1908年に卒業後、樟脳事務局に就職。のち神戸税関を経て、米沢市にある旧制米沢高等工業学校(現山形大学工学部)教授となり、研究室でビスコース人造絹糸(レーヨン)製造に専念する。 1884年にフランス人イレール・ド・シャルドネ(フランス語版、英語版)によって発明されたレーヨンは、1892年に工業化に成功し、日本にも紹介され、1905年から本格的な輸入が始まり、日本市場にも徐々に普及していった。
富永 鴻(とみなが こう、1880年(明治13年)12月13… 富永 鴻(とみなが こう、1880年(明治13年)12月13日 - 1937年(昭和12年)5月15日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、長崎市長。 静岡県城東郡、のちの大須賀村(小笠郡横須賀町、大須賀町を経て現掛川市)出身。衆議院議員・富永発叔の二男として生まれ、富永ひでの養子となる。第三高等学校を卒業。1905年、東京帝国大学法科大学を卒業。1906年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し台湾課属となる。 以後、鹿児島県事務官、兵庫県事務官、神奈川県事務官、同県港務部長、徳島県警察部長、宮城県警察部長、石川県内務部長、山梨県内務部長などを歴任。 1921年6月、佐賀県知事に就任。
辛島 知己(からしま ともき、1880年(明治13年)12月… 辛島 知己(からしま ともき、1880年(明治13年)12月12日 – 1967年(昭和42年)10月15日)は、日本の内務官僚。熊本市長。 熊本県熊本市に辛島格の長男として生まれる。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、高等文官試験に合格した。衆議院試補、同書記官を経て、岩手県理事官、山梨県警察部長、静岡県警察部長、静岡県内務部長を歴任した。 1925年(大正14年)に退官した後は、熊本市長に選出された。 1930年(昭和5年)より関東庁事務官となり、大連民政署長、専売局長事務取扱を務めた。 その後は帝国発明協会専務理事・研究所総務部長となり、1943年(昭和18年)には関東州住宅営団理事長に就任した。
松田 月嶺(まつだ げつれい、1880年12月10日 - 1… 松田 月嶺(まつだ げつれい、1880年12月10日 - 1919年1月22日)は、日本の俳人。 山形県谷地町生まれ。1907年曹洞宗大学(現 駒澤大学)、1911年京都帝大文学部卒業。別名・通称、湛堂。山形県谷地町の定林寺巨勢寂湛によって得度。1911年、母校曹洞宗大学講師となる。俳句は大須賀乙字に学び、作家として特異な地歩を占めていた。著書に名和三幹竹編「月嶺句集」がある。大正8年1月22日逝去、39歳。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
土屋 寛(つちや ゆたか、1880年(明治13年)12月10… 土屋 寛(つちや ゆたか、1880年(明治13年)12月10日 - 1950年(昭和25年)11月12日)は、衆議院議員(立憲民政党)、尾道市長。 広島県御調郡栗原村(のち栗原町、現尾道市)出身。御調郡書記を務めた後、1909年(明治42年)に栗原村の村長に選出され、町制施行後も町長を務めた。また、広島県会議員に選出され、県会の郡部会議長にも就任した。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し当選。当選回数は合計で4回を数えた。その間、1940年(昭和15年)から1942年(昭和17年)にかけて尾道市長を務めた。 戦後、日本進歩党の結成に参加するが、大政翼賛会の推薦議員だったため、間もなく公職追放となった。
浜田 精蔵(濱田 精藏、はまだ せいぞう、1880年(明治1… 浜田 精蔵(濱田 精藏、はまだ せいぞう、1880年(明治13年)12月9日 - 1926年(大正15年)9月8日)は、明治末から大正期のジャーナリスト、実業家、政治家。衆議院議員、福岡市会議長。清蔵の表記有り。 鹿児島県 姶良郡、のちの加治木村(加治木町を経て現姶良市)で、浜田清四郎の二男として生まれた。1905年(明治38年)慶應義塾大学政治科を卒業した。 時事新報記者となりロンドン特派員、経済部長などを務めた。千代田生命保険に転じ、福岡支部長などを務めた。その後、博多商業会議所副会頭、諏訪炭礦専務取締役、西部合同瓦斯会社(現西部ガスホールディングス)社長、日本水電取締役などを務めた。 政界では、福岡市会議員に選出され、同議長にも在任した。
お鯉(おこい、1880年12月8日 - 1948年8月14日… お鯉(おこい、1880年12月8日 - 1948年8月14日)は、芸妓から、のちに政治家桂太郎の愛妾になり、晩年に尼僧となった女性。本名は小久江(のち安藤)照。 東京・四谷見附の漆問屋に生まれ(貰い子とも)、6歳で新宿の引手茶屋主人・安藤兼作の養女となるも養家の家産が傾き、14歳で新橋「照近江」の芸者となり花柳界に入る。のち市村羽左衛門と結婚したが、間もなく離婚して花柳界に戻った。24歳ころ、山縣有朋の紹介で60歳近い桂太郎の愛妾となり、赤坂榎坂町に暮らし、病気がちな本妻可那子に代わって桂の世話をした。日比谷焼討事件では「桂とともにお鯉を殺せ」の声が上がり、榎坂町の自邸が焼かれた。 1913年、桂の死後は待合や銀座カフェー・ナショナルを経営した。
近藤 寿一郎(こんどう じゅいちろう、1880年〈明治13年… 近藤 寿一郎(こんどう じゅいちろう、1880年〈明治13年〉12月8日 - 1958年〈昭和33年〉11月7日)は、日本の実業家、林業並びに製薬業鋼商。近藤家第7代。 鳥取県日野郡根雨宿(のち日野郡根雨町、現日野町)出身。近藤喜兵衛の長男。近藤家は製鉄業を営み、大山林地主である。大阪工業学校(現大阪大学工学部)に学んだが、中退する。 1912年、根雨銀行監査役に就任する。1913年、日野郡根雨町に木材乾溜工場を設立する。1914年、日野郡是製糸取締役となる(後に社長)。1916年、酢酸精製工場として大阪府堺市に近藤製薬工場を建設する。1920年、日野郡教育会長に就任する。 1921年、日野郡木炭同業組合副会長に就任する。
内田 信也(うちだ のぶや、本名:のぶなり、1880年(明治… 内田 信也(うちだ のぶや、本名:のぶなり、1880年(明治13年)12月6日 - 1971年(昭和46年)1月7日)は日本の実業家、政治家。
松本 彦次郎(まつもと ひこじろう、1880年12月5日 -… 松本 彦次郎(まつもと ひこじろう、1880年12月5日 - 1958年1月14日)は、日本の歴史学者、俳人。東京文理科大学名誉教授、野辺地町名誉町民。「金鶏城」と号した。 青森県上北郡野辺地村(後の野辺地町)に生まれる。1903年、第一高等学校を卒業し、京都帝国大学法科に進んだが、1904年に東京帝国大学文科大学史学科に入学。1908年に卒業 卒業後は慶應義塾普通部の教員となり、1919年に第六高等学校教授となった。1915年にはシカゴ大学への留学を経験する。1930年、東京文理科大学助教授となる。1931年に教授に昇進し、国史学教室主任として後進を指導した。1943年に東京文理科大学を定年退職し、1944年に同大学名誉教授となった。
今村 信次郎(いまむら のぶじろう、1880年(明治13年)… 今村 信次郎(いまむら のぶじろう、1880年(明治13年)12月4日 - 1969年(昭和44年)9月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 旧米沢藩江戸家老同心(下士階級)で農業を営む今村滝次郎の二男として生れる。米沢中学校を経て、1902年(明治35年)12月、海軍兵学校(30期)を次席で卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。この時席次は百武源吾と入れ替わり首席となった。日露戦争では「韓崎丸」乗組として、百武、溝部洋六らと海兵32期の指導にあたり、日本海海戦には「三笠」乗組で砲術長安保清種付として参戦した。「須磨」乗組、「鹿島」回航委員、同分隊長などを経て、海軍砲術学校特修科を首席で修了。
島本 信二(しまもと しんじ、1880年12月2日 - 19… 島本 信二(しまもと しんじ、1880年12月2日 - 1927年12月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 熊本県出身。慶應義塾大学で学び、アメリカへ留学する。帰国後、熊本県会議員となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において熊本6区から立憲政友会公認で立候補して当選する。1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補して再選した。のち政友会に戻り、衆議院議員を2期務めた。1927年在職中に死去した。
梅谷 光貞(うめたに みつさだ、1880年〈明治13年〉12… 梅谷 光貞(うめたに みつさだ、1880年〈明治13年〉12月2日 - 1936年〈昭和11年〉9月27日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 兵庫県養父郡畑村(現・養父市)で、梅谷伊平の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1909年1月、内務省に入省し警視庁警部となる。 1910年(明治43年)11月、警視庁警視に昇進。以後、岩手県警察部長、栃木県警察部長等、警察畑の要職を歴任した。1916年6月、台湾総督府に転出し、警視・民政部警察本署保安課長に就任。その後、警察官及司獄官練習所長事務取扱、台北庁長、総督府事務官、兼参事官、新竹州知事などを歴任。
渡辺 三郎(渡邊 三郎、わたなべ さぶろう、1880年(明治… 渡辺 三郎(渡邊 三郎、わたなべ さぶろう、1880年(明治13年)12月2日 - 1951年(昭和26年)1月8日)は、日本の工学者、実業家、政治家。工学博士、貴族院勅選議員。旧姓・大河原。「特殊鋼」の命名者。 群馬県碓氷郡松井田駅(現安中市)で、商業・大河原新七、野恵夫妻の三男として生まれる。松井田町尋常高等小学校、群馬尋常中学校、第一高等学校工科を経て、1907年(明治40年)6月、東京帝国大学工科大学採鉱冶金学科を卒業。 大学卒業後、古河鉱業所 (株)(現古河機械金属)に入社し足尾鉱業所精錬課溶鋼係長に就任。1908年(明治41年)6月、実業家・渡辺福三郎、多満子夫妻の五女で従姉妹の那べと入夫縁組して渡辺と改姓。
岡崎 憲(おかざき けん、1880年〈明治13年〉11月30… 岡崎 憲(おかざき けん、1880年〈明治13年〉11月30日 - 1942年〈昭和17年〉7月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 宮城県仙台市生まれ。1907年(明治40年)東京高等商船学校(現東京海洋大学)卒。東洋汽船に入り、外国航路の船長になる。同時に海軍予備員となり、少佐となる。1920年(大正9年)にイタリアのジェノバで開かれた第2回ILO総会に出席。帰国後は海員組合の創立委員となり、顧問に就任。その後社会民衆党の結成に参加し、中央委員となる。1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙で当時の神奈川1区から社会大衆党公認で立候補して当選した。翌年の総選挙でも再選。いずれもトップで当選した。
佐々木 秀司(ささき ひでじ、1880年(明治13年)11月… 佐々木 秀司(ささき ひでじ、1880年(明治13年)11月29日 - 1934年(昭和9年)11月14日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。政友会系官選香川県知事。 福島県田村郡守山町(現・郡山市)出身。佐々木一二の二男として生まれる。第二高等学校を卒業。1907年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し、警視庁警部となる。 以後、警視庁警視、四谷警察署長、栃木県事務官、石川県警察部長、群馬県警察部長、新潟県警察部長、山形県内務部長、神奈川県内務部長などを歴任。 1922年6月、香川県知事に就任。政友会の政党色の強い県政を行った。1923年10月、知事を休職となる。
尾崎 洵盛(おざき のぶもり、1880年〈明治13年〉11月… 尾崎 洵盛(おざき のぶもり、1880年〈明治13年〉11月29日 - 1966年〈昭和41年〉1月31日)は、日本の陶磁器研究家、外交官、男爵。中国の陶磁器の権威として知られた。元文化財専門審議会専門委員。 東京生まれ。慶應義塾幼稚舎を経て、1903年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。1905年同専攻部卒業。1906年外交官及領事官試験に合格し、外務省に入省。在上海日本国総領事館総領事事務代理、在アメリカ合衆国日本国大使館三等書記官、外務省参事官、在ベルギー公使館二等書記官等を経て、1918年退官。陶磁器研究を行い、中国の陶磁器の権威として知られた。元文化財保護委員会文化財専門審議会専門委員。
太田 秋之助(おおた あきのすけ、1880年(明治13年)1… 太田 秋之助(おおた あきのすけ、1880年(明治13年)11月27日 - 1957年(昭和32年)6月21日)は、大正から昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、福島県会議長、福島県相馬郡石神村長。子に参議院議員を務めた太田豊秋。ひ孫はお笑いコンビ「天明ブラウン」の 太田成秋。 福島県行方郡信田沢村(石神村、相馬郡石神村信田沢、原町市を経て現南相馬市原町区信田沢)で、太田亥之助の長男として生まれる。高等小学校を卒業。1916年(大正5年)家督を相続した。 農業、家業の土木建築請負業(東北建設)を営む。福島電灯取締役、東北電気取締役、植田水力電気取締役、福電興業取締役、信用組合理事、福島県地方木材会社社長、福島県煙草耕作組合連合会副会長などを務めた。
羽島 金三郎(はしま きんざぶろう、1880年11月25日 … 羽島 金三郎(はしま きんざぶろう、1880年11月25日 - 1962年3月22日)は、日本の鉄道技術者。現在の山形県上山市出身。次男には国鉄浜松工場・大宮工場長、川崎電機製造常務取締役を務めた羽島進。 山形県南村山郡上山裏町(現・上山市裏町)にて羽島栄造・はなの長男として生まれ、明新学校・上山尋常高等小学校(現・上山市立上山小学校)、山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)、第二高等学校(現・東北大学)、帝国大学工科大学(現・東京大学大学院工学系研究科・工学部)機械工学科を経て1905年に川崎造船所に就職した。同年には松平信安の長女・賀満(かま)と結婚した。 1907年12月に帝国鉄道庁へ移り大宮工場で勤務、1910年に鉄道院技技師、1919年に盛岡工場長、1922年に札幌鉄道局工作課車両係長を経て、その後工作課長となる。
杉村 七太郎(すぎむら しちたろう、1879年(明治12年)… 杉村 七太郎(すぎむら しちたろう、1879年(明治12年)12月19日 - 1960年(昭和35年)11月25日)は、日本の医学者。専門は、外科学・泌尿器科学。東北帝国大学第一外科初代教授。東北帝国大学名誉教授。 1879年(明治12年)、静岡県磐田郡池田村に生まれる。同村尋常小学校、見附町高等小学校、静岡県立静岡中学校、第二高等学校第3部を経て、東京帝国大学医科大学、さらに同大学院に進学。佐藤三吉の下で外科学を専攻。当時新設予定の新潟医学専門学校の外科教授として外科総論及び泌尿器外科を担当することが内定したため、1908年(明治41年)、皮膚科泌尿器科、土肥慶蔵の指導も受けた。ドイツに留学し外科学を研鑽。
伊藤 東一郎(いとう とういちろう、1879年12月18日 … 伊藤 東一郎(いとう とういちろう、1879年12月18日 - 1950年10月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 岐阜県海津郡、後の城山村(城山町、南濃町を経て現海津市)出身。茨城県立水戸中学校卒業後は郷里に戻っていたが、1900年12月より一年志願兵として名古屋歩兵第6連隊第3中隊に属する。日露戦争に従軍後、陸軍歩兵中尉で除隊。その後は輪西中普通水利組合会議員、石津村議、岐阜県議、同参事会員、同副議長、自作農創調査委員、小作、金銭債務各調停委員となる。ほか帝国在郷軍人会海津郡連合分会長、大日本砂防協会評議員となる。 1936年の第19回衆議院議員総選挙において岐阜1区(当時)から立憲民政党公認で立候補して初当選。
古屋 慶隆(ふるや よしたか、1879年12月18日 - 1… 古屋 慶隆(ふるや よしたか、1879年12月18日 - 1945年3月10日)は、戦前日本の政治家。岐阜県恵那市出身。古屋家は典型的な地方の名望家であり、慶隆の父・善造も衆議院議員を1期務めた。 1903年明治大学法律科卒業。恵那郡大井町(現在の恵那市)会議員、所得税調査委員を経て1915年第12回衆議院議員総選挙で無所属で立候補し初当選。当選後立憲同志会に入党。その後憲政会、立憲民政党に所属。1928年の第16回衆議院議員総選挙に落選したのを唯一の例外として、1942年の翼賛選挙まで連続9回当選した。加藤高明内閣及び第1次若槻内閣で鉄道参与官を務めたのち、1931年1月民政党総務に就任し、同年4月には第2次若槻内閣の内務政務次官となった。
倉元 要一(くらもと よういち、1879年(明治12年)12… 倉元 要一(くらもと よういち、1879年(明治12年)12月17日 - 1942年(昭和17年)11月12日)は、日本の政治家、立憲政友会所属の衆議院議員。 福岡県宗像郡上西郷村(現・福津市)出身。明治大学法科専門部卒業。大阪府属、滋賀県警部、鳥取県警部、福井県今立郡長、坂井郡長、福井県理事官、静岡県浜名郡長、静岡県理事官・産業課長を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、6回の当選を重ねた。その間、浜松市会議員を兼ね、文部大臣秘書官を務め、平沼内閣では司法政務次官に就任した。 1939年(昭和14年)の政友会分裂に際しては中島知久平総裁が率いる政友会革新同盟に所属し、政党解消後は翼賛議員同盟に加わらず興亜議員同盟に所属。
庄司 良朗(しょうじ よしろう、1879年(明治12年)12… 庄司 良朗(しょうじ よしろう、1879年(明治12年)12月17日 - 1931年(昭和6年)6月22日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。ジャーナリスト。実業家。 静岡県駿東郡原町(現在の沼津市)出身。静岡中学校を経て、1901年(明治34年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)行政科を卒業した。1903年(明治36年)、沼津商業学校教諭となるが、翌年に起こった日露戦争に陸軍近衛歩兵少尉として出征し、中尉に昇進した。その後、1908年(明治41年)に早稲田大学英語科を卒業した。 駿豆新聞社社長兼主筆、東駿銀行監査役、沼津市畜産組合長、東海石炭株式会社社長、静岡朝報社社主などを務めた。また駿東郡会議員、同議長、静岡県会議員、同参事会員に選出された。
人見 次郎(ひとみ じろう、1879年〈明治12年〉12月1… 人見 次郎(ひとみ じろう、1879年〈明治12年〉12月16日 - 1959年〈昭和34年〉12月2日)は、日本の農商務官僚、実業家。朝鮮総督府総督官房鉄道局長、台湾総督府総務長官。 京都府船井郡富本村(現:南丹市八木地区)で人見次郎八の二男として生まれる。第三高等学校を経て、1904年(明治37年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。農商務省に入り、山林局属となる。特許局事務官・庶務課長、兼特許局図書館長、衆議院事務局書記官兼特許局事務官などを歴任。 1908年(明治41年)、統監府に転じ、特許局事務官に就任。1910年(明治43年)8月に朝鮮総督府が設置されると、書記官・農商工部商工課長に就任。
梁瀬 長太郎(やなせ ちょうたろう 1879年〈明治12年〉… 梁瀬 長太郎(やなせ ちょうたろう 1879年〈明治12年〉12月15日 - 1956年〈昭和31年〉6月11日)は、日本の実業家である。株式会社ヤナセの創業者として知られる。
山中 秀二郎(やまなか ひでじろう、1879年(明治12年)… 山中 秀二郎(やまなか ひでじろう、1879年(明治12年)12月15日 – 1944年(昭和19年)3月1日)は、日本の検事、鉄道官僚。貴族院男爵議員。 陸軍中将・男爵山中信儀の二男として生まれ、1926年(大正15年)5月15日に男爵を襲爵した。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。翌年に司法官試補となり、東京地方裁判所・区裁判所検事、広島地方裁判所・区裁判所検事、福岡地方裁判所・区裁判所検事を歴任した。1923年(大正12年)、東京鉄道局副参事に転じ、水戸運輸事務所長、人事係長、参事、鉄道省事務官、鉄道監察官を歴任した。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し死去するまで在任した。
小島 文八(こじま ぶんぱち、1879年(明治12年)12月… 小島 文八(こじま ぶんぱち、1879年(明治12年)12月14日 - 1937年(昭和12年)9月23日)は戦前日本の雑誌編集者、軍人、南洋開拓者。シャトーブリアン『哀調(フランス語版)』の訳者。 東京外国語学校でフランス文学を専攻し、卒業後『婦人界』主筆を務めた。日露戦争においては松山俘虜所に勤務、終戦後は職を転々とし、西沢島等の南洋事業に関わった。 1879年(明治12年)12月14日、静岡県静岡裏一番町に陸軍士官小島好問の子として生まれた。なお、生誕時父はフランスに留学していた。 1894年(明治27年)4月明治議会中学2年に編入、1896年(明治29年)4月父が呉に転任した頃塩谷青山塾に預けられ、そこから中学に通った。
坂田 幹太(さかた みきた、1879年(明治12年)12月1… 坂田 幹太(さかた みきた、1879年(明治12年)12月13日 - 1958年(昭和33年)10月18日)は、日本の内務官僚、政治家、実業家。県知事、貴族院議員。旧姓・水谷。
土井 権大(どい ごんだい、1879年(明治12年)12月1… 土井 権大(どい ごんだい、1879年(明治12年)12月12日 - 1938年(昭和13年)2月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)。 兵庫県揖保郡石海村(現・太子町)に生まれる。明治法律学校に学び、1903年(明治36年)、早稲田大学英語政治科卒。北米移民事業に従事し、ブラジル移民事業を開始する。兵庫県議、石海産業組合長、播州素麺同業組合副組合長のほか、隆文館図書、中日化工各(株)常任監査役、雑誌「農政研究」主幹などを務める。早稲田出身ということから大隈重信の率いる憲政本党に所属し、当初は同じ揖保郡出身の肥塚龍を熱心に支持していたが、肥塚が立憲同志会に移籍すると土井は立憲国民党(憲政本党から改組)に残留し肥塚とたもとを分かつ。
柏木 ベン(かしわぎ ベン、1879年〈明治12年〉12月1… 柏木 ベン(かしわぎ ベン、1879年〈明治12年〉12月12日 - 1963年〈昭和36年〉8月14日)は、宗谷のアイヌ。アイヌ語宗谷方言の話者であり、当地のアイヌ文化の保持者であった。アイヌ名はHatankoyma、ハタンコイマッ、ハタンコイマ。 1879年12月12日、イキコマナイ 'Ikikomanay(現・稚内市大字宗谷村会所前)に生まれる。父・柏木弁太(ベンタ)(嘉永3年(1850年)6月-?)はオランナイ 'Oran Nay(現・稚内市大字宗谷村字第二清浜)の人、父方祖父・イクニンケ 'Ikuninkeは紋別の人、父方祖母はオランナイの人であった。また、父は首長であった。母・シマ(安政4年(1857年)6月-?)はその父母ともに石狩の人であり(シマはオランナイ出身との記述もある)、宗谷のことは何も知らなかったという。
安田 昌(やすだ まさる、1879年12月11日 - 193… 安田 昌(やすだ まさる、1879年12月11日 - 1931年10月27日)は、日本の実業家。 士族・安田仲元の長男として、福岡県に生まれる。1897年福岡県立尋常中学修猷館を経て、1900年東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業。 日本鉄道に技手として入社し、機関庫主任などを務める。1907年明治製糖の創立に参画、後に同社常務取締役に就任する。 明治商店取締役、明治製菓取締役、河西鉄道監査役、十勝開墾監査役、東京高等工業学校講師なども務めている。
板倉 卓造(いたくら たくぞう、明治12年(1879年)12… 板倉 卓造(いたくら たくぞう、明治12年(1879年)12月9日 - 昭和38年(1963年)12月23日)は、日本の法学者、ジャーナリスト、新聞経営者、政治家。慶應義塾大学法学部教授。時事新報社長。貴族院勅選議員。広島県比婆郡庄原村(現庄原市)生まれ。息子は三井銀行(現・三井住友銀行)社長を務めた板倉譲治。 庄原英学校を経て1895年、慶應義塾普通部に入学。その後大学部理財科に進んだが政治科に転じ、卒業後の1903年、普通部の英語教師となる。1905年恩師の福沢諭吉が創立した「時事新報」に入り社説を担当。自由主義の論陣を張り、福沢亡きあとの「時事新報」の論壇を支えた。1907年米英仏に留学し、コロンビア大学でウィリアム・アーチボルド・ダニング(英語版)に、イギリスでラサ・オッペンハイムに師事した。
胡 漢民(こ かんみん、1879年12月9日〈光緒5年10月… 胡 漢民(こ かんみん、1879年12月9日〈光緒5年10月26日〉 - 1936年〈民国25年〉5月12日)は、清末民初の政治家。中国同盟会以来の革命派人士で、中国国民党の長老。蔣介石と権力闘争を繰り広げたことでも知られる。旧名は衍鴻、字は展堂。 地方官吏の家庭に生まれる。21歳で挙人となった。1902年(光緒28年)に、呉敬恒(呉稚暉)・鈕永建らと日本に留学し、弘文学院師範科で学ぶ。しかし、呉が日本政府と清国公使により日本から追い返される事件が発生し、胡は怒って退学、帰国した。帰国後は、ジャーナリスト・教師として活動する。1904年(光緒30年)に再び日本へ留学、1906年(光緒32年・明治39年)6月に法政大学法政速成科第二班を卒業した。
金谷 眞一(かなや しんいち、1879年12月8日 - 19… 金谷 眞一(かなや しんいち、1879年12月8日 - 1967年2月16日)は、日本の実業家、日光金谷ホテル元代表取締役社長、帝国ホテル元取締役、富士屋ホテル元取締役、日光電気軌道元監査役。 1879(明治12年)12月、栃木県・日光金谷ホテルの金谷善一郎の長男として生まれる。日光金谷ホテルは1873年(明治6年)に外国人向けの民宿として、ジェームズ・ヘボンの薦めで「金谷カッテージ・イン」として創業したクラシックホテルで、現存する日本最古のリゾートホテルとして知られている。 明治期に立教学校(立教大学の前身の一つ)の初代校長を務め、建築家としても活躍したジェームズ・ガーディナーは、民宿の経営者である金谷善一郎に、日光を訪れる外国人向けに本格的なホテルが必要となることを助言し、長男・眞一に自身が教える築地の立教学校で英会話を含む英学を学ぶことを薦めた。
大谷 一男(おおたに かずお、1879年(明治12年)12月… 大谷 一男(おおたに かずお、1879年(明治12年)12月7日 - 1949年(昭和24年)8月9日[要出典])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県長岡郡五台山村(現在の高知市)に生まれた。1898年(明治31年)高知県尋常中学校卒を経て、1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官。1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業。 1922年(大正11年)11月、歩兵大佐に昇進し、陸士本科訓育部長に就任。近衛歩兵第2連隊長、第8師団参謀長を歴任。1927年(昭和2年)7月、陸軍少将に進級し歩兵第38旅団長となる。1930年(昭和5年)3月、近衛師団司令部付となり、1931年(昭和6年)10月、旅順要塞司令官に着任。
矢田 七太郎(やだ しちたろう、1879年〈明治12年〉12… 矢田 七太郎(やだ しちたろう、1879年〈明治12年〉12月4日 - 1957年〈昭和32年〉3月1日)は、日本の外交官。駐スイス公使。東亜同文書院大学学長。 静岡県出身。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。広州領事官補、漢口領事官補、天津領事官補、清国外交官補、イタリア大使館二等書記官、ロンドン総領事、サンフランシスコ総領事、上海総領事を歴任。1929年(昭和4年)、駐スイス公使に任命された。 退官後は満州国参議府参議を経て、1940年(昭和15年)より東亜同文書院院長・東亜同文書院大学学長を務めた。
永井 荷風(ながい かふう、1879年〈明治12年〉12月3… 永井 荷風(ながい かふう、1879年〈明治12年〉12月3日 - 1959年〈昭和34年〉4月30日)は、日本の小説家。本名は永井 壯吉()。号に金阜山人()、断腸亭()ほか。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 東京市小石川区(現在の文京区)出身。父・久一郎は大実業家だったが、荷風は落語や歌舞伎の世界に入り浸った。父は荷風を実業家にするために渡米させるが、荷風はアメリカ駐在を経てフランスにも滞在、同時代のフランス文学を身につけ帰国した。明治末期に師・森鷗外の推薦で慶応義塾教授となるが、江戸文化を無秩序に破壊しただけの幕末維新以後の東京の現状を嘆き、以後は、戯作者のように生きた。 永井久一郎と恒(つね)の長男として、東京市小石川区金富町四十五番地(現:文京区春日二丁目)にて出生。
小田村 有芳(おだむら つねか、1879年12月3日 - 1… 小田村 有芳(おだむら つねか、1879年12月3日 - 1965年4月5日)は、日本の実業家。元磯村産業会長。男爵楫取素彦の養孫。 山口県阿武郡に磯村應の五男として生まれ、男爵で元群馬県令の子・小田村希家の養子となる。1906年東京帝国大学機械工学科卒業。 1907年、群馬県旧烏淵村(現高崎市倉渕町)に山林を取得、製炭事業を行う。1910年、特許弁理士資格取得。磯村工業所(磯村産業)専務、会長などを務めた。磯村工業所は東京市芝口と小石川区水道町に店を置き、鉱山、土木、機械、電気、山林の調査設計工事と、特許手続きを業務とし、小田村のほか、実の兄弟の工学得業士・磯村秀策、工学士の磯村利水が所属し、磯村音介も社長を務めた。
只見 徹(ただみ てつ、1879年(明治12年)12月3日 … 只見 徹(ただみ てつ、1879年(明治12年)12月3日 - 1952年(昭和27年)7月28日は、日本の商学者。高岡高等商業学校創立委員として同校創立にあたり、初代校長を経て、第7代長崎高等商業学校校長。 埼玉県栗橋町(現久喜市)出身。1901年高等商業学校(現一橋大学)卒業。英米独留学、滋賀や愛媛の県立商業学校教諭、大阪市立高等商業学校教授、山口高等商業学校教授、福島高等商業学校教授を歴任し、1924年に高岡高等商業学校創立委員となり文部省の仮創立事務所で創立作業を進め、同年同校初代校長に就任。1930年から長崎高等商業学校校長。1936年初代長崎ロータリークラブ会長。1941年退官、長崎高等商業学校名誉教授。
木内 栄司(きうち えいじ、1879年〈明治12年〉12月2… 木内 栄司(きうち えいじ、1879年〈明治12年〉12月2日 - 1935年〈昭和10年〉1月1日)は、明治後期から昭和初期にかけて活動した日本の実業家、銀行家。八十二銀行の初代常務取締役を務めた。 1879年(明治12年)12月2日、長野県南佐久郡大沢村(現・佐久市大沢)の醸造業・木内儀三郎の長男として生まれる。木内家は武田信玄にゆかりのある旧家であり、代々大沢村(当時は田口藩領)の庄屋を務めた家柄であった。祖父・清兵衛が安政2年(1855年)に酒造業を創業し、栄司は二代目儀三郎の長男として家督を継いだ。 実業界では、1906年(明治39年)8月に南佐久郡臼田町(現・佐久市)に合資会社千曲銀行を設立し、頭取に就任。