上司 小剣(かみつかさ しょうけん、1874年(明治7年)1… 上司 小剣(かみつかさ しょうけん、1874年(明治7年)12月15日 - 1947年(昭和22年)9月2日)は、日本の小説家。 奈良県奈良市生まれ、兵庫県多田村(のちの川西市)育ち。本名は延貴。父が多田神社の宮司を務めていた為、小学生まで多田村で育ち、その後母の実家である大阪に預けられる。大阪の浪華文学会で活動したあと1897年上京、読売新聞社に勤め、編集局長。1914年の半生記小説『鱧の皮』が田山花袋に賞賛され、代表作となった。1937年帝国芸術院会員。戦後、新日本文学会の賛助会員となった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
宮原 武熊(みやはら たけくま、1874年(明治7年)12月… 宮原 武熊(みやはら たけくま、1874年(明治7年)12月13日 - 没年不明)は鹿児島県出身の医学者、眼科医で、日本統治時代の台湾における政治家。台湾台中市のスイーツ専門店「宮原眼科(日出宮原眼科)」の由来として知られている。 鹿児島県川辺郡知覧村(現・南九州市)で出生。 同年退官し、東京で眼科開業。その後台湾に再渡航し、1927年(昭和2)に民間開業医として台中州台中市栄町に宮原眼科医院を開業。 1933年(昭和8)12月29日に陳炘および台湾文化協会や台湾民衆党を率いていた林献堂らとともに台湾人による台湾自治を目指す『東亜共栄協会』を設立し、一時は1万人超の会員数となったが、次第に日本の右翼団体の圧力で劣勢となり、1936年に解散に追い込まれている。
小森 雄介(こもり ゆうすけ、1874年(明治7年)12月1… 小森 雄介(こもり ゆうすけ、1874年(明治7年)12月11日)- 1942年(昭和17年)5月3日)は、明治後期から昭和前期の銀行家、政治家。衆議院議員。 鹿児島県鹿児島郡鹿児島城下高麗町(現鹿児島市高麗町)で、旧鹿児島藩士・小森新蔵の六男として生まれる。1896年(明治29年)7月、鹿児島高等中学造士館本科卒業。1899年(明治32年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 衆議院事務局に入り同属に任官。1902年(明治35年)台湾銀行に転じて書記に就任。植民経済研究のため1905年(明治38年)アメリカ合衆国に留学しハーバード大学で学んだ。その後、ボストンのキタピポヂー銀行での実務研修、欧州各国の視察旅行を経て、1908年(明治41年)に帰国した。
前田 利定(まえだ としさだ、1874年〈明治7年〉12月1… 前田 利定(まえだ としさだ、1874年〈明治7年〉12月10日 - 1944年〈昭和19年〉10月2日)は、日本の政治家、華族(子爵)。逓信大臣(第26代)、農商務大臣(第32代)を務めた。東京府出身。 加賀前田家の分家の一つである旧七日市藩主家に、最後の藩主(藩知事)前田利昭の子として生まれる。 1894年(明治27年)、日清戦争に歩兵中尉として従軍。1902年(明治35年)、東京帝国大学法科大学を卒業。その後、司法官試補となる。1904年(明治37年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属し1944年(昭和19年)2月2日に辞職するまで在任した。 1922年(大正11年)に加藤友三郎内閣の逓信大臣となり初入閣。
瀧川 儀作(たきがわ ぎさく、1874年(明治7年)12月8… 瀧川 儀作(たきがわ ぎさく、1874年(明治7年)12月8日 - 1963年(昭和38年)1月31日)は、日本の実業家、政治家。瀧川辨三の養嗣子。旧姓梶岡。 瀧川辨三が発展させた東洋燐寸株式会社社長を引き継ぎ日本のマッチ王と呼ばれる。 奈良県吉野郡、のちの高見村(現東吉野村)で豪家梶岡源重郎、たみの三男として生まれた。後旧長州豊浦藩藩士瀧川辨三の養子となり、明治32年(1899年)分家す。 明治29年(1896年)大阪商業学校卒業。岳父を助けて幾多の事業に参画。 1918年1月には兵庫県下の28工場を合併して帝国燐寸株式会社を設立、2月には膠州湾租借地に青島燐寸株式会社を設立。神戸商業会議所会頭、神戸日華実業協会長、瀧川学園理事を歴任。
本多 熊太郎(ほんだ くまたろう、明治7年(1874年)12… 本多 熊太郎(ほんだ くまたろう、明治7年(1874年)12月8日 - 昭和23年(1948年)12月18日)は、明治・大正・昭和の外交官、太平洋戦争時の中華民国大使、東條内閣の外交顧問。戦後はA級戦犯容疑者として逮捕された。 和歌山県那賀郡で本多宇兵衛の子として生まれる。東京法学院(中央大学)法科在学中の1894年(明治27年)5月に外務省留学生試験(講習語は中国語)に合格し、同年6月に法学院を中途退学。翌1895年(明治28年)8月に外務省書記生試験(後の外務専門職試験)に合格し外務書記官。同期に中村巍、高橋橘太郎らがいる。1898年(明治31年)、外交官及領事官試験(第7回、後の外交官1種試験)に合格し外交官補となる。
錦織 幹(にしきおり かん、1874年(明治7年)12月7日… 錦織 幹(にしきおり かん、1874年(明治7年)12月7日 - 1955年(昭和30年)7月28日)は、内務官僚。長崎市長。 愛媛県出身。 父は判事を務めた錦織義弘・リウの子。1896年(明治29年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。1899年(明治32年)に高等文官試験に合格した。内務属、秋田県参事官、鹿児島県参事官、山形県事務官、長崎県港務長、島根県事務官、山梨県内務部長、千葉県内務部長、新潟県内務部長などを歴任した。1917年(大正6年)に休職となった後は、日本スレートアスフハルト工業株式会社取締役、証券交換所株式会社取締役を務めた。 1922年(大正11年)、長崎市長に選出された。
山室 機恵子(やまむろ きえこ、1874年(明治7年)12月… 山室 機恵子(やまむろ きえこ、1874年(明治7年)12月5日 - 1916年(大正5年(7月12日)は、山室軍平の最初の妻で、明治時代の社会事業家である。 岩手県花巻の川口村(市町村制施行後は花巻川口町)に開明的な素封家の佐藤庄五郎の長女として生まれる。佐藤家は代々豪農で、庄五郎は農村改良指導者として天皇から奨励金を授与されたこともあった。 地元の高等小学校を卒業後、家業の養蚕を手伝っていたが、『女学雑誌』でキリスト教に触れ、1892年に上京、明治女学院に入学する。在学中、一番町教会に通い、1891年植村正久より洗礼を受ける。 1893年明治女学校普通科を卒業し、継いで高等文科に進み、1895年に卒業後は東京婦人矯風会の書記を経て、下田歌子らの大日本婦人教育会が設立した女紅場で教壇に立つ傍ら、『女学雑誌』の事務仕事にも携わった。
福田 徳三(ふくだ とくぞう、1874年(明治7年)12月2… 福田 徳三(ふくだ とくぞう、1874年(明治7年)12月2日 - 1930年(昭和5年)5月8日)は、日本の経済学を開拓した経済学者。社会政策学派、新歴史学派として経済理論、経済史などを導入した。東京商科大学(現・一橋大学)教授、慶應義塾教授、フランス学士院文科部外国会員等を歴任。レジオンドヌール勲章受章。 1874年、東京・神田で生まれた。母がクリスチャンであったため、1885年、12歳の時に築地新栄教会において植村正久から洗礼を受けた。泰明小学校から私立の東京英語学校などを経て、母の遺言と姉の助言に従い高等商業学校(後の東京高等商業学校、現在の一橋大学)に入学。学生時代には、東京の貧民窟(スラム)での伝道活動にも参加した。
早田 文藏(はやた ぶんぞう、1874年12月2日 - 19… 早田 文藏(はやた ぶんぞう、1874年12月2日 - 1934年1月13日)は日本の植物学者。 1871年、新潟県加茂生まれ。1903年東京帝国大学を卒業。台湾総督府の依頼で台湾の植物を研究し、さらにインドシナでも調査を行った。その後東京帝大理学部教授および東大附属植物園長となった。 台湾植物の命名にあたってはフランス人神父のユルバン・ジャン・フォーリー (Urbain Jean Faurie) が残した資料に拠る部分が多かったため、謝意を表するため日本人から寄付を募り、1917年に神父の銅像を建てた。 死後の1936年、台湾総督府は功績をたたえ記念碑を現台北植物園の腊葉館前に建てたが太平洋戦争の混乱により、フォーリー神父の銅像ともども行方不明となってしまった。
石破 市造(いしば いちぞう、1874年〈明治7年〉12月2… 石破 市造(いしば いちぞう、1874年〈明治7年〉12月2日 - 1941年〈昭和16年〉1月19日)は、日本の農民、政治家。鳥取県八頭郡大御門村長、同村会議員、同信用組合理事を歴任。 参議院議員や第39代鳥取県知事を務めた石破二朗の父で、第102・103代内閣総理大臣、第28代自由民主党総裁の石破茂の祖父。 鳥取県八東郡大御門村大字殿(後の郡家町、現・八頭町)で石破常七の長男として農家の家に生まれた。高等小学校卒業後は家業たる農業に従事したが、明治27年(1894年)隼村役場書記を拝命。明治28年(1895年)大御門村役場に転じ明治33年(1900年)辞任。明治35年(1902年)村書記復職。
相見 香雨(あいみ こうう、1874年(明治7年)12月1日… 相見 香雨(あいみ こうう、1874年(明治7年)12月1日 - 1970年(昭和45年)6月28日)は、日本の美術史家、新聞記者。本名は相見繁一(はんいち)。 96歳で没するまで約60年に亘り在野で実証的研究を続け、美術史界における「在野の大立者」(田中一松)と評された。生涯に書き継いだ自筆の調査記録は42帙240冊(九州大学文学部所蔵)にのぼる。87歳で紫綬褒章、勲四等旭日小綬章を受章した。 1874年、相見家(商家・野波屋)の長男として島根県松江魚町(現松江市魚町)に生まれた。白潟小学校(現松江市立中央小学校)、進取学館(のちの私立中学修道館)を経て、島根県尋常中学校(前身は松江中学)に進学。
前川 真平(まえかわ しんぺい、1874年12月1日 - 1… 前川 真平(まえかわ しんぺい、1874年12月1日 - 1906年4月24日、 英語 Shinpei MaekawaまたはShinpei Mykawa)は、愛知県出身の農業技術者。渡米し、テキサス州の南東部に稲作を導入させた。ヒューストンのMykawaという地域名、ならびにMykawa Roadという道路は彼の名にちなんで命名された。"Mykawa"は当初マエカワと発音させるためのスペリングであったが、米国での発音は“マイカワ”である。 前川は高等商業学校(のちの東京高等商業学校→東京商科大学、現・一橋大学)を卒業した。同校は当時、東京の商業学校の筆頭に位置づけられていた。 1903年、海軍士官だった前川は、翌年開催されたセントルイス万国博覧会日本使節団の一員として渡米した。
伊吹 元五郎(いぶき もとごろう、1874年(明治7年)11… 伊吹 元五郎(いぶき もとごろう、1874年(明治7年)11月28日 – 1959年(昭和34年)3月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。衆議院議員。 長崎県長崎市出身。1898年(明治31年)、陸軍士官学校を卒業。最終階級は陸軍大佐。シベリア出兵に従軍した。帝国在郷軍人会長崎市聯合分会長、同本部評議員、同西彼杵郡聯合分会長、長崎護国会長、大政翼賛会長崎県協力会議長、同中央協力会議員などを務めた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に長崎1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し、当選を果たした。1946年(昭和21年)、推薦議員のため公職追放となった。
二木 洵(ふたつぎ まこと、1874年(明治7年)11月25… 二木 洵(ふたつぎ まこと、1874年(明治7年)11月25日 - 1936年(昭和11年)1月29日)は、日本の政治家・蚕種業者。衆議院議員。 筑摩県東筑摩郡和田町村(現長野県松本市)に窪田畔夫の次男として生まれる。東京物理学校を卒業後、明治31年(1898年)同郡本郷村の秋蚕種製造業者、二木秀一の養子となる。大正3年(1914年)片倉組の今井五介らとともに一代交雑種普及団を組織して新種の普及に努め、同5年(1916年)から東筑摩郡製糸同業組合長に就任する。同10年(1921年)製糸会社「筑摩社」を設立し社長となり、同15年(1926年)帝蚕倉庫の取締役となる。昭和3年(1928年)長野県蚕糸調査会の設立とともに委員となり、同5年(1930年)副会長となる。
田中 善立(たなか ぜんりゅう、1874年(明治7年)11月… 田中 善立(たなか ぜんりゅう、1874年(明治7年)11月24日 - 1955年(昭和30年)2月20日)は、明治から昭和前期の教育者、僧侶、政治家。衆議院議員(7期)。 愛知県愛知郡、のちの篠原村(松葉村、常磐村大字篠原を経て現名古屋市中川区)で、豪農・田中平八、タキ夫妻の二男として生まれる。熱心な真宗信徒の父が中学進学を認めなかったため、13歳で出家得度し真宗大谷派名古屋別院内の普通学校(現名古屋大谷高等学校)に入学し、校長南条文雄の薫陶を受けた。1891年(明治24年)12月に上京し東京英語学校(現日本学園中学校・高等学校)に入学し、1892年(明治25年)夏、哲学館(現東洋大学)に転じた。
渡辺 香涯(わたなべ こうがい、1874年(明治7年)11月… 渡辺 香涯(わたなべ こうがい、1874年(明治7年)11月24日‐1961年(昭和36年)9月29日)は明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 1874年11月24日に東京府四谷区荒木町に生まれる。名は啓三。1892年(明治25年)に高橋玉淵に入門、また川端玉章にも師事した。1896年(明治29年)の日本絵画協会第1回絵画共進会、1897年(明治30年)春季の日本絵画協会第2回絵画共進会二作品を出品、同年7月に東京美術学校を卒業。同年秋季の日本絵画協会第3回絵画共進会に「木枯」を出品し、二等褒状を得る。1898年(明治31年)春季の日本絵画協会第4回絵画共進会に「秋致」を出品した後、2、3年山形県、群馬県の中学校教員を務めて1900年(明治33年)に帰京する。
堀 英四郎(ほり えいしろう、1874年11月24日 - 1… 堀 英四郎(ほり えいしろう、1874年11月24日 - 1963年7月6日)は、日本の英語学者。 愛媛県今治市出身。1884年徳冨蘆花の英語塾に学び、1888年上京、東京英語学校入学、1894年東京専門学校(早稲田大学)英文科卒、ここで坪内逍遙の講義を受け、神田の国民英学会で英語を教えた。1894年東京府立城北中学校、1897年岡山県立第一中学校に勤め、1902年江田島海軍兵学校教授。1916年-1945年慶応義塾大学教授。この間1932年-1941年NHK英語講座担当。1949年-1954年戸板女子短期大学英文科長。
朝河 貫一(あさかわ かんいち、1873年(明治6年)12月… 朝河 貫一(あさかわ かんいち、1873年(明治6年)12月20日 - 1948年(昭和23年)8月10日)は、日本の歴史学者。日本人初のイェール大学教授。 福島県二本松市出身。父は旧二本松藩士朝河正澄、母は旧田野口藩士の長女杉浦ウタ(ウタは貫一が2歳の時に亡くなったため、その後は父正澄と継母エヒに育てられる)。 1874年(明治7年)、父正澄が「伊達郡立子山村小学校」(現福島市立立子山小学校)の校長格として赴任するため、現在の福島県福島市立子山にある天正寺に移住した後、新校舎とともに建設された校長住宅へ移る。天正寺には朝河が4歳の時に描いた馬の絵が現存する。 1878年(明治11年)、立子山小学校初等科に入学後、初等科首席卒業し、飛び級により同校普通科・高等科(3級まで)を修了する。
山川 端夫(やまかわ ただお、1873年(明治6年)12月1… 山川 端夫(やまかわ ただお、1873年(明治6年)12月15日 - 1962年(昭和37年)3月2日)は、日本の海軍・外務官僚、政治家、国際法学者。法学博士、貴族院議員、法制局長官。 長崎県出身。山川景範の長男として生まれる。長崎中学、第五高等学校を経て、1898年(明治31年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進む。同年12月、文官高等試験に合格。1899年(明治32年)3月、海軍省に入り参事官に就任。その後、兼高等捕獲審検所事務官、兼鉄道院理事、海軍教官兼海軍省参事官、講和会議全権委員随員などを歴任。1919年(大正8年)4月、法学博士号を取得。 1920年(大正9年)4月、外務省に移り臨時平和条約事務局第1部長に就任し、さらに条約局長となる。
木暮 理太郎(こぐれ りたろう、1873年(明治6年)12月… 木暮 理太郎(こぐれ りたろう、1873年(明治6年)12月7日 - 1944年(昭和19年)5月7日)は、日本の登山家。 1873年(明治6年)12月7日、群馬県新田郡寺井村(現・太田市寺井町)の農家の長男として生まれる。東京の私立郁文館中学校を卒業後仙台の旧制第二高等学校に進み1897年(明治30年)に卒業した。さらに東京帝国大学に進学しはじめ哲学科、ついで史学科で学んだが、中途退学した。その後は博文館の雑誌『ハガキ文学』の編集に従事し、『泰西名画鑑』を著した。1907年(明治40年)からは東京市史料編纂室嘱託となり、亡くなるまで東京市史稿編集に携わった。 若年時から登山を趣味としていたが、田部重治と知り合ったことをきっかけに1913年(大正2年)9月に日本山岳会に入会した。
山辺 知春(やまべ ともはる、1873年(明治6年)12月6… 山辺 知春(やまべ ともはる、1873年(明治6年)12月6日 - 1936年(昭和11年)11月21日)は、日本の宮内官僚。教育者。 福島県人の山辺知一の子。1898年(明治31年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。一年志願兵として陸軍歩兵少尉となり、その後中等教育に従事した。1903年(明治36年)、北白川宮成久王の教育掛となり、1910年(明治43年)より北白川宮家家令を務めた。その後宮内事務官・式部官を務めた。1922年(大正11年)、秩父宮別当に就任し、1926年(大正15年)からは北白川宮永久王・美年子女王・佐和子女王・多恵子女王の保育係を務めた。1930年(昭和5年)、宮中顧問官に就任し、北白川宮家別当となった。
江木 翼(えぎ たすく、1873年〈明治6年〉12月5日 -… 江木 翼(えぎ たすく、1873年〈明治6年〉12月5日 - 1932年〈昭和7年〉9月18日)は、日本の内務官僚、政治家。法学博士。幼名は恵助(えすけ)。 1873年(明治6年)12月5日、山口県御庄村(現在の岩国市)に酒造業を営む羽村卯作の三男として生まれる。山口中学校、山口高等中学校予科、本科を経て、東京帝国大学法科大学英法科へ進学、1897年(明治30年)5月17日に、枢密顧問官、文部大臣、貴族院議員となる江木千之の養子となる。同年7月、帝大を卒業し、大学院に進学。1898年(明治31年)12月、文官高等試験に合格。1899年(明治32年)1月、内務省に入省する。神奈川県事務官、法制局参事官、1910年(明治43年)には拓殖局部長を歴任する。
高田 耘平(たかだ うんぺい、1873年(明治6年)12月1… 高田 耘平(たかだ うんぺい、1873年(明治6年)12月1日 - 1957年(昭和32年)6月29日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、実業家。衆議院議員。衆議院有数の弁論家で農政通として知られた。 栃木県那須郡、のちの荒川村(南那須村、南那須町を経て現那須烏山市)で、高田啓三郎、トヨ夫妻の長男として生まれる。1892年(明治25年)栃木県尋常中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)を卒業。1902年(明治35年)11月に家督を相続し、農業を営む。 荒川村役場書記、栃木県会書記、税務属、荒川村助役、同村会議員、那須郡会議員を務め、1907年(明治40年)栃木県会議員に選出され2期在任し、参事会員も務めた。
三橋 久美(みつはし ひさよし、1873年〈明治6年〉11月… 三橋 久美(みつはし ひさよし、1873年〈明治6年〉11月27日 - 1943年〈昭和18年〉4月5日)は、明治から大正時代の日本の判事(裁判官)、教育者。大審院判事・部長、東京控訴院判事・部長、東京地方裁判所判事・部長、立教大学教授。 1873年(明治6年)11月、東京府人・三橋久實の長男として東京市小石川区で生まれる。その後、家督を相続する。 1901年(明治34年)7月、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した後、翌年3月に司法官試補(東京区裁判所詰)となる。 その後、東京地方裁判所判事、東京控訴院判事、東京地方裁判所部長、東京控訴院部長を歴任。 1924年(大正13年)1月、大審院判事に任じられ、1933年(昭和8年)1月には大審院部長に就任。
岸上 克己(きしがみ かつみ、1873年11月26日 - 1… 岸上 克己(きしがみ かつみ、1873年11月26日 - 1962年6月21日)は明治時代から昭和時代中期にかけて活動した日本のジャーナリスト、労働運動家。 筆名は香摘(こうてき)。栃木県出身。 栃木県河内郡宇都宮町(現在の宇都宮市)で元宇都宮藩の士族・岸上安敬の四男として生まれる。尋常小学校の頃は成績優秀であったが、教師に吃音をからかわれたことが原因で不登校となったため、従兄を頼って埼玉県北足立郡浦和町(現在のさいたま市浦和区)へ移り住んだ。 従兄は印刷工を営んでいたが、ここで知り合った高木旭山の誘いにより劣悪な環境での労働を強いられていた工員の待遇改善活動へ身を投じ、活版工懇話会の設立に参加して機関紙の編集委員となった。
津野田 是重(つのだ これしげ、1873年(明治6年)11月… 津野田 是重(つのだ これしげ、1873年(明治6年)11月25日 - 1930年(昭和5年)9月2日)は、大日本帝国陸軍の軍人、政治家。熊本県出身。最終階級は陸軍少将。衆議院議員。 熊本藩士、陸軍大尉・津野田是秋の長男として生まれる。中学済々黌、陸軍幼年学校を経て、1895年(明治28年)2月、陸軍士官学校(第6期)歩兵科を首席卒業。同年5月、陸軍歩兵少尉任官、近衛歩兵第1連隊付となる。1900年(明治33年)12月、陸軍大学校(14期)を優等で卒業。 1901年(明治34年)6月、参謀本部出仕となり、参謀本部部員、フランス駐在、参謀本部付を経て、1904年(明治37年)5月、第3軍参謀に発令され日露戦争に出征。
川合 玉堂(かわい ぎょくどう、1873年〈明治6年〉11月… 川合 玉堂(かわい ぎょくどう、1873年〈明治6年〉11月24日 - 1957年〈昭和32年〉6月30日)は、明治・大正・昭和時代の日本で活動した日本画家。本名は 川合 芳三郎(かわい よしさぶろう)。画号は当初「玉舟(ぎょくしゅう)」、間もなく「玉堂」に改め、晩年は終の棲家と同名の「偶庵(ぐあん)」を別号として用いた。長男の真一は化学者で東京教育大学名誉教授。 愛知県葉栗郡外割田村(現在の一宮市木曽川町外割田)にて、1873年(明治6年)11月24日、筆墨紙商の長男として生まれる。1881年(明治14年)、一家は岐阜市に移住する。絵には12歳頃から親しむようになったという。1886年(明治19年)、京都の画家・青木泉橋が岐阜に来住すると、夫人も翠蘋と号する美人画家で、芳三郎少年は青木夫妻の知遇を得て大いに刺激を受けたという。
走り坊主または走り坊さん(はしりぼうず、はしりぼんさん、18… 走り坊主または走り坊さん(はしりぼうず、はしりぼんさん、1872年12月20日〈明治5年11月20日〉 - 1918年〈大正7年〉11月20日)は、日本の僧である。明治・大正時代の京都市中を阿弥陀如来の使いとして一日中走るという奇行で知られた。本名は新田 常治(にった つねじ)、法名を旗 玄教(はた げんきょう)。「走り坊主の常さん」の通称で親しまれた。 師僧は大蓮寺18世芳井教岸大僧正で、旗姓は同師の旧姓。 出身地は、和泉国泉南郡清児村(現・大阪府貝塚市清児)。18歳で京都の大蓮寺に弟子入りする。当時の大蓮寺は、京都市下京区佛具屋町五条通下るの地に在ったが、第二次大戦中の五条通拡幅に伴い、左京区岡崎の地に移転している。
上原 平太郎(うえはら へいたろう、1872年12月20日(… 上原 平太郎(うえはら へいたろう、1872年12月20日(明治5年11月20日)- 1950年(昭和25年)10月8日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。衆議院議員。 香川県香川郡一宮村(現高松市)で上原秀次郎の長男として生まれる。1896年5月27日、陸軍士官学校(7期)を卒業し、1897年1月25日、陸軍歩兵少尉に任官。義和団の乱、日露戦争に出征。陸軍大学校(17期)で学び、1903年11月28日に卒業した。 以後、参謀本部部員、陸軍大学校教官、第4師団参謀、歩兵第62連隊長、第11師団参謀長、陸軍航空部附、航空部員などを歴任。1921年7月20日、陸軍少将に進み近衛歩兵第1旅団長に就任。
大野 洒竹(おおの しゃちく、明治5年11月19日(1872… 大野 洒竹(おおの しゃちく、明治5年11月19日(1872年12月19日) - 大正2年(1913年)10月12日)は、俳人、医師。明治時代の大蒐書家として知られる。 弥富村 (熊本県)出身、本名は豊太。7歳より東京で育つ。一高を経て、東京帝国大学医学部で土肥慶蔵に師事。 一高時代に正岡子規に誘われ句会に入り、東大在学中の明治27年(1894年)、佐々醒雪、笹川臨風らと筑波会を結成。明治28年(1895年)には、尾崎紅葉、巖谷小波、森無黄、角田竹冷らとともに正岡子規と並ぶ新派の秋声会の創設に関わった。明治30年(1897年)、森鷗外に先駆けて『ファウスト』の部分訳を公表している。 大学卒業後に性病専門の大野病院を京橋にて開業し、患者が門前に群れを成すほど繁盛した。
勝俣 銓吉郎(かつまた せんきちろう、明治5年11月18日(… 勝俣 銓吉郎(かつまた せんきちろう、明治5年11月18日(1872年12月18日) - 1959年(昭和34年)6月4日)は日本の英学者。早稲田大学名誉教授、富士短期大学初代学長。 神奈川県箱根出身。小学校を中退し、横浜郵便局に勤務しながら横浜英和学校で英会話を学んだ。上京して国民英学会に学んだ後、ジャパンタイムズに就職して英作文を研鑽した。東京府立第四中学校、三井鉱山勤務を経て、早稲田大学教授となり、ジャパン・ツーリスト・ビューロー、横浜市立横浜商業専修学校、英語教授研究所に兼務した。終戦直後は行政機関で翻訳に従事し、戦後立正大学教授、富士短期大学学長を務めた。 連語を重視し、長年ノートに用例を書き溜め、『英和活用大辞典』を編纂した。
武本 喜代蔵(たけもと きよぞう、1872年12月16日(明… 武本 喜代蔵(たけもと きよぞう、1872年12月16日(明治5年11月16日) - 1956年(昭和31年)6月26日)は日本の牧師、巡回伝道者である。 1872年(明治5年)鳥取県倉吉市に生まれる。1889年(明治22年)に日本組合基督教会の倉吉講義所(倉吉教会)でアメリカンボードのJ・H・ペティより洗礼を受ける。キリスト教徒になったことによる、家族の迫害を避けて、津山、岡山、倉敷に流転する。 1890年(明治23年)頃松江市で英国聖公会の宣教師B・F・バックストンに会い、バックストンに導かれ直接献身を決意するより、その後、バックストンと出雲地方での伝道を開始する。 1903年(明治36年)に日本組合基督教会の牧師に就任し、広島教会で牧会をする。
武田 五一(たけだ ごいち、1872年12月15日〈明治5年… 武田 五一(たけだ ごいち、1872年12月15日〈明治5年11月15日〉 - 1938年〈昭和13年〉2月5日)は、日本の建築家・建築学者。京都帝国大学建築学科創設者で、関西建築界の父といわれる。アメリカの著名建築家フランク・ロイド・ライトを日本に紹介した人物でもある。 小田県福山(現・広島県福山市)出身。「関西建築界の父」とも言われる日本の建築家。ヨーロッパ留学で影響を受けたアール・ヌーボー、セセッションなど、新しいデザインを日本に紹介した建築家とも言われる。建築以外にも工芸や図案・テキスタイルデザインなども手掛けた。自身の作品のみならず、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科や京都帝国大学(現・京都大学)に工学部建築学科を創立し向井寛三郎・瀧本義一など多くの後進を育成した。
佐々木 吉三郎(ささき きちさぶろう、明治5年11月15日(… 佐々木 吉三郎(ささき きちさぶろう、明治5年11月15日(1872年12月15日) – 大正13年(1924年)11月20日)は、日本の教育学者。 宮城県大崎市出身。宮城県師範学校を経て、1899年(明治32年)に東京高等師範学校を卒業。東京高等師範学校附属小学校訓導、東京高等師範学校助教授、同教授を歴任した。1907年(明治40年)から1909年(明治42年)までドイツに留学。帰国後、東京高等師範学校教授・同附属小学校主事を務めた。 その後、東京市視学、同学務課長に就任した。
関口 孝五郎(せきぐち こうごろう、明治5年11月14日〈1… 関口 孝五郎(せきぐち こうごろう、明治5年11月14日〈1872年12月14日〉 - 1953年〈昭和28年〉6月6日)は、明治から昭和にかけての日本の柔道家、柔道整復師。柔道範士、講道館八段を有し、群馬県の柔道の先駆者となった。長男・林五郎、次男・恒五郎はともに柔道八段。 明治5年(1872年)、群馬県西群馬郡中郷村(現・渋川市中郷)の農家に、父儀平治、母タケの長男として生まれる。1877年(明治15年)、渋川町の田子亀之丞に入門し、荒木霞新流柔術を習った。1896年(明治29年)に上京し、講道館に入門。 1900年(明治33年)に群馬県に帰り、前橋市曲輪町(現・千代田町)に嘉納治五郎命名による道場・弘道館を開く。
阿部 守太郎(あべ もりたろう、明治5年11月10日(187… 阿部 守太郎(あべ もりたろう、明治5年11月10日(1872年12月10日) - 大正2年(1913年)9月6日)は、日本の外交官、外務省政務局長。対中国強硬論者に暗殺された。妻の生は末弘直方の次女。 大分県下毛郡桜洲村(現在の中津市)出身。第三高等中学校を経て、1896年(明治29年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。同年、高等文官試験に合格し、大蔵属として主計局、理財局、主税局に勤務した。翌1897年(明治30年)、外務書記官に転じ、通商局第二課長心得となった。1899年(明治32年)、参事官に昇進し、翌年からは加藤高明外務大臣の秘書官も兼任した。1901年(明治34年)、イギリス公使館二等書記官となり、1905年(明治38年)からは清国公使館一等書記官を務めた。
樋口 虎若(ひぐち とらわか、明治5年11月10日(1872… 樋口 虎若(ひぐち とらわか、明治5年11月10日(1872年12月10日) – 1958年(昭和33年)6月4日)は、日本の医師。愛媛県宇和島市長。 愛媛県北宇和郡吉田町(現在の宇和島市)に吉田藩士の子として生まれた。1894年(明治27年)、第三高等中学校医学部を卒業し、翌年に陸軍三等軍医となった。一等軍医に昇進するが、辞して1900年(明治33年)に宇和島に耳鼻咽喉科医院を開業した。また宇和島市会議員、北宇和郡会議員、同副議長などを歴任した。 1938年(昭和13年)に宇和島市長に就任したが、翌年5月政党の対立抗争を嫌って退任した。
竹上 常三郎(たけがみ つねさぶろう、1872年12月9日〈… 竹上 常三郎(たけがみ つねさぶろう、1872年12月9日〈明治5年11月9日〉- 没年不詳)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。旧姓・大橋。 茨城県、後の古河町(現古河市)出身。大橋力蔵の二男として生まれ、竹上寅吉の養子となり家督を相続した。 1894年(明治27年)7月、陸軍士官学校(5期)を卒業し、同年9月、陸軍歩兵少尉に任官。1897年(明治30年)12月、陸軍大学校(14期)に入学し、1900年(明治33年)12月に卒業して士官学校に配属された。日露戦争では第7師団参謀として出征した。 以後、第17師団参謀などを経て、1914年(大正3年)8月、歩兵大佐に進み陸軍省人事局補任課長に就任。
古川 尭道(ふるかわ ぎょうどう、明治5年11月9日(187… 古川 尭道(ふるかわ ぎょうどう、明治5年11月9日(1872年12月8日) - 昭和36年(1961年))は、明治・大正・昭和期の臨済宗の僧。島根県簸川郡出東村の生まれ。出家後しばらくは本名の古川慧訓を通す。号は尭道。室名は毒狼窟。
中條 資俊(ちゅうじょう すけとし、なかじょう すけとし、明… 中條 資俊(ちゅうじょう すけとし、なかじょう すけとし、明治5年11月7日(1872年12月7日) - 昭和22年(1947年)3月1日)は、日本の医師・ハンセン病研究者。医学博士。北部保養院(国立療養所松丘保養園)院長、園長。 1872年11月7日 山形県南置賜郡塩井村(現・米沢市)に生まれる。幼名竹田留吉。1897年 第一高等学校医学部に入学。数え年26歳。1900年 中條家に養子となり、長女ハルと結婚。1901年 千葉医学専門学校卒業。1902年 医術開業免状下付。県立千葉病院医員。1903年 慰廃園嘱託医。1904年 伝染病研究所助手。1909年4月1日 青森県より北部保養院医長同月25日に院長を命じられる。
塚本 清治(つかもと せいじ、1872年12月5日〈明治5年… 塚本 清治(つかもと せいじ、1872年12月5日〈明治5年11月5日〉- 1945年〈昭和20年〉7月11日)は、明治から昭和にかけての内務官僚・政治家。 兵庫県揖東郡旭陽村(現在の姫路市)出身。初めは河田姓を名乗っていたが、1884年(明治17年)に塚本家の養子に入った。第三高等学校を経て東京帝国大学法科大学を卒業、1902年(明治35年)11月の高等文官試験に合格した。 初め東京府職員であったが、翌年には内務省に移籍して、以後1915年(大正4年)に神社局長、1920年(大正9年)に地方局長、1922年(大正11年)に社会局長を務め、1923年(大正12年)の第2次山本内閣成立と同時に内務次官に任じられた。
横山 健堂(よこやま けんどう、1872年12月5日(明治5… 横山 健堂(よこやま けんどう、1872年12月5日(明治5年11月5日) - 1943年(昭和18年)12月24日)は、日本の評論家。 山口県出身。本名は達三。東京帝国大学卒。明治41年(1908年)から黒頭巾の名で『読売新聞』に「新人国記」を連載した。維新史などの評論を書き、のち駒澤大学教授。子は俳人・医師の横山白虹。孫は俳人の寺井谷子。 長州藩に伝わる専當流を学んでいた。
武島 羽衣(たけしま はごろも、明治5年11月3日(1872… 武島 羽衣(たけしま はごろも、明治5年11月3日(1872年12月3日) - 昭和42年(1967年)2月3日)は日本の詩人、国文学者、作詞家。宮内省御歌所寄人。本名・武島 又次郎。
野崎 小十郎(のざき こじゅうろう、1872年12月2日(明… 野崎 小十郎(のざき こじゅうろう、1872年12月2日(明治5年11月2日) - 1946年(昭和21年)4月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。日本海海戦における第5戦隊参謀である。 高知県安芸郡馬ノ上村(現・芸西村)に野崎百弥太の長男として生まれる。 その後海南中学校を経て海軍兵学校(21期)を卒業。大尉時代に北清事変に出動し、少佐時代には日露戦争に参戦した。戦後海軍大学校(甲種5期)を卒業。横須賀鎮守府参謀、横須賀海軍工廠検査役、「新高」、「生駒」、「金剛」の各艦長、臨時南洋群島防備隊司令官などを歴任し海軍少将に任官した。位階勲等は従四位勲二等。功五級金鵄勲章を受章。 退役後には、碑衾町長(現在の目黒区)や玉川計器製作所の監査役を務めている。
石川 茂吉(いしかわ もきち、1872年〈明治5年〉11月2… 石川 茂吉(いしかわ もきち、1872年〈明治5年〉11月29日 - 没年不明)は、日本の政治家、地主・家主。 農業を営み、西巣鴨町町会議員、衛生委員、同町教育会評議員、青年団名誉会員、共賛会委員、氏神氷川神社総代、重林寺総代である。住所は東京府北豊島郡西巣鴨町字池袋。 父・瀧之進は池袋村の村長や、1889年6月5日より1891年9月5日まで巣鴨村助役をつとめた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
市川 代治(いちかわ だいじ、明治5年10月25日(1872… 市川 代治(いちかわ だいじ、明治5年10月25日(1872年11月25日) - 大正11年(1922年))は戦前日本の経済学者。ベルリン大学で9年間哲学・経済学を学ぶ傍ら、ベルリン東洋語学校(ドイツ語版)等で日本語を教え、帰国後は東亜経済調査局に勤務した。『方丈記』ドイツ語訳で知られる。 明治5年(1872年)10月25日山形県村山郡蔵増村に生まれた。後の住所は蔵増村蔵増甲1101番地。蔵増尋常小学校、天童高等小学校、山形県立山形中学校を経て、仙台の第二高等学校に入学した。1896年(明治29年)卒業後、上京して帝国大学文科に入学し、社会学を専攻し 、1899年(明治32年)7月東京帝国大学文学部哲学科を卒業した。
田中 清文(たなか せいぶん / きよふみ、1872年11月… 田中 清文(たなか せいぶん / きよふみ、1872年11月24日(明治5年10月24日)- 1951年(昭和26年)10月3日)は、明治から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員、富山県東礪波郡福野町長、初代北日本新聞社長。旧姓・有川。 新川県礪波郡福野村(現:富山県南砺市)で、有川甚造の二男として生まれ、親族で豪農の田中清三の養子となる。1903年(明治36年)中央大学法律科を卒業。帰郷後、田中貯蓄銀行を設立し頭取に就任し、さらに田中銀行頭取となる。 1903年9月、富山県会議員に当選し副議長に就任。1913年(大正2年)2月、第11回衆議院議員総選挙で富山県郡部から選出された広瀬鎮之が選挙法違犯で辞職したことに伴い繰上補充となり、衆議院議員を1期務めた。
鷲山 恭平(わしやま きょうへい、1872年11月24日 -… 鷲山 恭平(わしやま きょうへい、1872年11月24日 - 1957年2月15日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。 嶺向報徳社社長(初代)、掛川信用組合組合長、大日本報徳社副社長、静岡県小笠郡土方村長などを歴任した。 浜松県出身の篤農家である。報徳運動や農村復興運動を推進し、嶺向報徳社の初代社長を経て、大日本報徳社の副社長となった。また、日本国内最古の信用金庫として知られる島田掛川信用金庫の源流である掛川信用組合の経営にも携わった。政治家としても活動しており、故郷である土方村で村長を務めた。 1872年11月24日、浜松県城東郡嶺向村にて生まれた。上京して東京法学院に入学し、英語法律学科にて学んだ。
吉富 璣一(よしとみ きいち、明治4年11月10日(1871… 吉富 璣一(よしとみ きいち、明治4年11月10日(1871年12月21日) - 昭和4年(1929年)4月11日)は、日本の実業家。 山口県吉敷郡山口町生まれ。1895年高等商業学校(現一橋大学)卒業。1911年に三井物産を退社し、北海電化工業社長、東京金物商会社長、日魯漁業取締役、長州鉄道監査役、相模鉄道監査役などを務めた。 妻は吉敷郡会議員を務めた山内唯五郎の妹。浅野順一青山学院大学名誉教授は甥。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。