黒田 寿男(くろだ ひさお、1899年4月14日 - 198… 黒田 寿男(くろだ ひさお、1899年4月14日 - 1986年10月21日)は、日本の農民運動家、政治家、弁護士。1948年結成の労働者農民党の初代主席。元衆議院議員。 岡山県津高郡金川村(のち御津郡金川村→金川町→御津町、現・岡山市北区)出身。第六高等学校を経て東京帝国大学法学部に入学。在学中に新人会で活動し、学生連合会を結成、委員長となる。法曹資格を得て後は自由法曹団で労働運動・農民運動を支援。労農党、労農派に参加した。1929年(昭和4年)には東京無産党を結成して書記長に就任、翌年に全国大衆党に合流した。 1936年(昭和11年)に行われた第19回衆議院議員総選挙に岡山県第1区から全国農民組合の支援を受けて出馬。
権藤 花代(ごんどう はなよ、1899年(明治32年)4月1… 権藤 花代(ごんどう はなよ、1899年(明治32年)4月13日 - 1961年(昭和36年)11月3日)は、唱歌「たなばたさま」作詞者・童謡詩人。本名は権藤はなよ。結婚前は伊藤はなよの旧姓で作品を発表、結婚後はペンネーム権藤はな子を使っていた。2008年頃までは、「権藤花代」という漢字名が使用されていたが、その後は本名の「権藤はなよ」が一般的になっている。実兄の伊藤生更はアララギ派の歌人であり、短歌結社「美知思波」を創立している。 1899年(明治32年)山梨県北巨摩郡穴山村(現・韮崎市穴山町)に、父・伊藤友重(ともじゅう)、母・やよの次女として生まれる。 1919年(大正8年)山梨県師範学校(現・山梨大学)を卒業。
村田 五郎(むらた ごろう、1899年〈明治32年〉4月11… 村田 五郎(むらた ごろう、1899年〈明治32年〉4月11日 - 1982年〈昭和57年〉3月24日)は、日本の内務官僚。官選群馬県知事、情報局次長。 愛知県出身。実業家・村田義教の長男として生まれる。台北中学、第八高等学校を経て、1923年3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年5月、内務省に入り富山県警部として警察部警務課に配属された。 以後、富山県氷見郡長、東京府内務部農林課長、同学務部社会課長、同知事官房主事兼秘書兼文書課長、東京府工業組合監督官、大分県書記官・警察部長、警視庁衛生部長、同庁官房主事、厚生省体力局体育課長、内務秘書官・警保局外事課長、福岡県総務部長、内務省地方局振興課長、兼平沼騏一郎国務大臣付秘書官、内務事務官・警保局保安課長などを歴任。
吉野 源三郎(よしの げんざぶろう、1899年(明治32年)… 吉野 源三郎(よしの げんざぶろう、1899年(明治32年)4月9日 - 1981年(昭和56年)5月23日)は、編集者・児童文学者・評論家・翻訳家・反戦運動家・ジャーナリスト。昭和を代表する進歩的知識人。『君たちはどう生きるか』の著者として、また雑誌『世界』初代編集長としても知られている。岩波少年文庫の創設にも尽力した。明治大学教授、岩波書店常務取締役、日本ジャーナリスト会議初代議長、沖縄資料センター世話人などの要職を歴任した。
肥後 和男(ひご かずお、1899年(明治32年)4月8日 … 肥後 和男(ひご かずお、1899年(明治32年)4月8日 - 1981年(昭和56年)2月24日)は、日本の歴史学者。東京教育大学文理科教授を経て、東京教育大学名誉教授。日本古代史の重鎮であった。茨城県久慈郡大子町出身。従三位勲三等旭日中綬章。 茨城県久慈郡大子町生まれ。茨城県立下妻中学校、東京高等師範学校を卒業後、福岡県立東筑中学校、長野師範学校で教鞭をとる。1927年(昭和2年)京都帝国大学史学科(国史科専攻)卒業。同大学院入学。1932年(昭和7年)より東京文理科大学(後の東京教育大学)講師となり、1933年(昭和8年)同大助教授、1943年(昭和18年)同大教授。1946年(昭和21年)公職追放。
小山 元一(こやま もとかず、1899年(明治32年)4月8… 小山 元一(こやま もとかず、1899年(明治32年)4月8日 - 1973年(昭和48年)12月22日)は、日本の政治家。三郷村会議員、三郷村長(2期)、高田市議会議員(2期)、高田市長(2期)、上越市長(1期)。 新潟県中頸城郡三郷村(高田市を経て、現在の上越市)出身。1927年明治大学政経学科卒。1934年三郷村会議員となり、1947年まで務め、同年4月三郷村長に就任した。三郷村長は高田市に合併されるまでの1955年まで務め、同年5月に高田市議会議員に当選し、2期務めた。1963年高田市長選挙に立候補して当選、2期務めた。在職中、高田市は隣接の直江津市との合併が成立し、1971年に上越市が発足し、初代市長に就任した。
兵頭 精(ひょうどう ただし、1899年4月6日 - 198… 兵頭 精(ひょうどう ただし、1899年4月6日 - 1980年4月23日)は、日本で最初に飛行機操縦士免許を取得した女性である。愛媛県北宇和郡好藤村東仲(後の鬼北町)の出身。 四姉妹の末娘として生まれる。精が11歳の時、父が脳溢血のため53歳で亡くなる。子供の頃から英才で知られ、高等小学校卒業後に松山市の済美高等女学校(後の済美高等学校)3年に編入。亡父の林太郎が空に憧れ、飛行機の設計図を書いていたことを知った精もまた空に憧れてパイロットを志した。同校を卒業後、周囲から医師や教師を勧められた精は1919年(大正8年)1月に次姉の譲留と共に家を出る。そして大阪で薬剤師見習いを始めたものの、同年11月15日に上京。
瀬戸 直一(せと なおいち、1899年4月6日 - 1990… 瀬戸 直一(せと なおいち、1899年4月6日 - 1990年2月16日)は、日本の経営者。長野県出身。 1922年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に日出紡織に入社。 1941年に大和紡人絹(のちの大和紡績)に転じ、1948年に取締役に就任し、1952年に常務、1955年に専務を経て、1962年に副社長に就任し、1963年には社長に昇格。1974年6月に会長を経て、1977年6月には相談役に就任した。 1967年10月に藍綬褒章を受章し、1974年5月に勲三等旭日中綬章を受章。 1990年2月16日心不全のために死去。90歳没。
尾原 勝吉(おばら かつきち、1899年 <明治32年> 4… 尾原 勝吉(おばら かつきち、1899年 <明治32年> 4月5日 - 1981年 <昭和56年> 3月6日)は、日本の指揮者、ヴァイオリニスト。 島根県簸川郡久木村(現、出雲市斐川町美南)に生まれる。父の甚四郎は華道・池坊の宗匠、兄の定次郎は高等女学校の図画教師という芸術一家で育つ。幼少期から音楽を好み、5歳で横笛を吹きこなして周囲を驚かせた。一方、大社中学校(現・島根県立大社高等学校)に進学後はスポーツにも万能で、野球部の主将として、1917年(大正6年)の第3回全国中等学校優勝野球大会に出場し勇名を馳せた。 1919年(大正8年)、同中学校を卒業し明治大学商学部へ入学。在学中の同年、宮内庁音楽部の山井基清にヴァイオリンの手ほどきを受け習得する。
武野 藤介(たけの とうすけ、1899年4月3日 - 196… 武野 藤介(たけの とうすけ、1899年4月3日 - 1966年7月25日)は、日本の小説家。本名は武野真寿太。 岡山市生まれ。岡山中学校在学中、回覧雑誌などを作り文学に没頭。二度落第し、中学卒業に7年かかる。1919年上京、編入試験を受けて早稲田大学予科入学、ロシア文学科に進んだが、1923年中退。新聞記者、雑誌記者となり、文壇ゴシップやコントが評判となる。 戦時下は時局的な小説を書いたが、戦後1950年頃から『あまとりあ』などカストリ雑誌の常連となり、以後艶笑小説を専らとする。小説に「嘘」「ぬれつばめ」、ゴシップをもとにした「文壇余白」「武野藤介風流文学自選集」などがある。
関根 正二(せきね しょうじ、本名読み:まさじ、1899年4… 関根 正二(せきね しょうじ、本名読み:まさじ、1899年4月3日 - 1919年6月16日)は、日本の洋画家。 1899年、福島県西白河郡大沼村(現白河市)に屋根葺き職人の父のもとに生まれた。1908年、前年に発った父を追い上京、深川区東町に移る。江東区立東川小学校の同級生に伊東深水がおり、伊東の紹介で1914年に東京印刷株式会社に就職。そこでオスカー・ワイルドの作品を読み、ワイルドの思想に触れた。 1913年頃から絵画の勉強をはじめ、数ヶ月だけ太平洋画研究所に通ったものの、ほぼ独学で絵画を習得する。1915年、会社を辞めた関根は長野県へ放浪し、洋画家の河野通勢と出会う。同年10月、「死を思ふ日」が第2回二科展に入選。
有賀 鉄太郎(ありが てつたろう、1899年4月1日 - 1… 有賀 鉄太郎(ありが てつたろう、1899年4月1日 - 1977年5月25日)は、日本のプロテスタント神学者、教会史・教理史学者。 1899年、大阪府で生まれ、東京で育った。東京府立一中で学び、在学中の1917年に日本基督同胞教会原宿教会で受洗。一中を卒業後は同志社大学神学部に入学。卒業論文はシュライアマハーの宗教本質論に関するものであった。卒業後、1922年から1925年までニューヨークのユニオン神学校に留学し、修士号を取得。修士論文のテーマはトレルチの宗教本質論であった。 1925年に帰国し、翌1926年に同志社大学文学部神学科の講師に就任。1930年、文学部神学科教授に昇格。1931年より中国燕京大学客員教授。
城 英一郎(じょう えいいちろう、1899年(明治32年)4… 城 英一郎(じょう えいいちろう、1899年(明治32年)4月1日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。海兵47期。最終階級は海軍少将。 1899年(明治32年)4月1日、熊本県熊本市東坪井町26番地に蚕糸業を営む城喜又と梅の4人兄弟姉妹の長男として生まれる。県立熊本中学校を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第31期)を受験し、双方に合格している。1916年(大正5年)8月31日、海軍兵学校47期に151名中28位の成績で入校。1919年(大正8年)10月9日、海軍兵学校を成績順位115名中第28位で卒業、海軍少尉候補生となる。 1923年(大正12年)12月1日海軍大尉進級。
福井 孝治(ふくい こうじ、1899年4月1日 - 1977… 福井 孝治(ふくい こうじ、1899年4月1日 - 1977年3月13日)は日本の経済学者・社会科学者。大阪経済大学、旧制大阪商科大学、大阪市立大学の学長を歴任。学位は経済学博士(大阪商科大学)。大阪市立大学名誉教授。 愛知県出身。第八高等学校を経て1922年京都帝国大学経済科卒、同大学院に進学、河上肇に師事した。1925年、福島高等商業学校(現・福島大学経済学部)教授。1929年に旧制大阪商科大学助教授に就任し1933年教授、経済学原論やドイツ語を講じた。戦後は学制改革に伴い1949年に大阪商科大などを母体に発足した大阪市立大学経済学部教授。翌1950年からは前年に急逝した黒正巌に代わり大阪経済大学の学長(第2代)も務めた(-1960年)。
深見 義一(ふかみ ぎいち、1899年4月1日 - 1972… 深見 義一(ふかみ ぎいち、1899年4月1日 - 1972年12月7日)は日本の経営学者、商業学者。一橋大学名誉教授。 マーケティング、小売政策、通信販売、切符制度研究等の先駆者とされる。 第1回日本商業学会賞受賞。元社団法人流通問題研究協会会長。 東京商科大学(現一橋大学)附属商学専門部卒業後、名古屋高等商業学校(現在の名古屋大学大学院経済学研究科・経済学部)で教鞭をとったのち、東京商科大本科に入学し、1929年に同大学学部卒業。首席卒業生総代。同期に高橋泰蔵一橋大学名誉教授がいる。 大学で内池廉吉に師事し、内池の「市場論」を継ぐ。語学に堪能で、英語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシャ語に通じ、大学を卒業した1929年から1935年までアメリカ合衆国、ドイツ、イタリアに留学した。
小沢 儀明(おざわ よしあき、1899年3月31日 - 19… 小沢 儀明(おざわ よしあき、1899年3月31日 - 1929年12月28日)は地質学者、古生物学者。東京帝大助教授。 1899年、山梨県東山梨郡日下部村の大地主の家に生まれた。1916年、日川中学校を卒業し、第一高等学校に入学。中学時代より地学に関心があり、高校では科学会に所属して坪井誠太郎と共に活動した。高校1年次にすでに東京地質学会創立第20周年記念総会に出席した記録が残っている。1920年、東京帝国大学地質学科に入学。トマス・ヘンリー・ハクスリーの『白亜の一片(On a piece of chalk)』を読んで、地史学・古生物学の道を志したという。在学中より第二講座の横山又次郎の指導を受け、山口県秋吉台周辺の化石層序を研究した。
小林 周蔵(こばやし しゅうぞう、1899年〈明治32年〉3… 小林 周蔵(こばやし しゅうぞう、1899年〈明治32年〉3月31日 - 1984年〈昭和59年〉10月9日)は、昭和時代の日本の実業家である。信越化学工業の第5代社長を務めた。現在の長野市出身。 1899年(明治32年)3月31日、小林太一郎の三男として生まれる。出身地は長野県上水内郡朝陽村(現・長野市)。長野中学校を卒業したのち、東京商科大学(現一橋大学)大学予科を経て1924年(大正13年)3月同大学本科を卒業した。 大学卒業後は前年に設立されたばかりの電機メーカー富士電機製造(現・富士電機)へと志願入社し、川崎工場に配属された。1931年(昭和6年)秋、富士電機製造から退社し、郷里長野県の電力会社信濃電気に入社する。
福地 春男(ふくち はるお、1899年(明治32年)3月30… 福地 春男(ふくち はるお、1899年(明治32年)3月30日 - 1953年(昭和28年)12月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 佐賀県出身。陸軍少佐・福地守太郎の長男として生まれる。佐賀中学校(現佐賀県立佐賀西高等学校)、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し近衛野砲兵連隊付となる。1923年(大正12年)12月、陸軍砲工学校高等科(29期)を卒業した。1924年(大正13年)3月から7月まで陸軍戸山学校学生となる。陸軍野戦砲兵学校付などを経て、1930年(昭和5年)11月、陸軍大学校(42期)を卒業した。
大川光三(おおかわ みつぞう、1899年3月30日 - 19… 大川光三(おおかわ みつぞう、1899年3月30日 - 1965年11月7日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。衆議院議員(2期)。 現在の大阪府高槻市生まれ。加島銀行に勤務するかたわら関西大学専門部経済科に通い、1923年に同専門部卒業し弁護士試験に合格。1927年に独立し、弁護士事務所を開業。 1931年に大阪府会議員に当選して政界入り(立憲民政党所属)、大阪府会では副議長まで務め上げ、1942年の総選挙で大阪4区(当時)から翼賛政治体制協議会推薦で立候補して国政入りを果たした。このため戦後、公職追放を受けるも、追放解除後の1952年総選挙に旧大阪3区から改進党から出馬し国政復帰。しかし翌年の総選挙で落選して再度国政から遠ざかる。
武島 一義(たけしま かずよし、1899年(明治32年)3月… 武島 一義(たけしま かずよし、1899年(明治32年)3月29日 - 1975年(昭和50年)6月30日)は、日本の内務官僚。官選鳥取県知事。 福岡県山門郡柳河町(現・柳川市)出身。第五高等学校を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。東京市を経て、1926年、内務省に入省し宮崎県事務官となる。 以後、沖縄県、茨城県、長野県で勤務。さらに、厚生省生活課長、熊本県内政部長を歴任。 1943年7月、鳥取県知事に就任。同年9月に発生した鳥取地震の復興に尽力。1945年4月に知事を退任。同年に公職追放となり退官した。
香川 綾(かがわ あや、1899年3月28日 - 1997年… 香川 綾(かがわ あや、1899年3月28日 - 1997年4月2日)は、香川栄養学園の創始者。医学博士。日本における栄養学の普及に多大なる功績を残した。 1899年3月28日、和歌山県東牟婁郡本宮村(現:田辺市)に警察官・横巻一茂とのぶ枝の娘として生まれる。母方の祖父が紀州藩の食膳係を務めていたこともあり、幼い頃から食生活の大切さを教わっていた。14歳の時に母を肺炎で亡くし、この経験から医師を志すようになる。 1914年、和歌山県師範学校女子部(現:和歌山大学)に入学。卒業後は小学校の教師を務めていたが、1921年に上京して東京女子医学専門学校(現:東京女子医科大学)へ入学。1926年、東京帝国大学医学部の島薗順次郎の元に勤務。
清原 邦一(きよはら くにかず、1899年(明治32年)3月… 清原 邦一(きよはら くにかず、1899年(明治32年)3月27日 - 1967年(昭和42年)11月11日)は、日本の検察官、弁護士。検事総長。 和歌山県那賀郡(現紀の川市)で、清原英三の長男として生まれる。旧制・和歌山県立粉河中学校、旧制・第一高等学校を経て、1924年4月、東京帝国大学法学部法律学科(仏法)を卒業。 1923年12月、高等試験行政科試験に合格し、1924年5月、裁判所書記兼司法属に任官し東京地方裁判所書記兼大臣官房調査課に配属された。同年12月、高等試験司法科試験に合格し、1925年3月、司法官試補に任官し大阪地方裁判所詰となる。1926年11月、検事に任官し大阪地裁予備検事となる。
川崎 栄治(かわさき えいじ、1899年3月27日 - 19… 川崎 栄治(かわさき えいじ、1899年3月27日 - 1985年10月9日)は、日本の外交官。1921年に外務省に入省して以降、主にラテンアメリカ諸国に置かれた在外公館に駐在し、1965年に在ボリビア日本大使(特命全権大使)に任ぜられた。外務省を退官後、1970年から1977年までラテンアメリカ協会の理事長を務めた。 1899年3月27日に生まれ、福岡県で幼少期を過ごす。1921年3月に東京外国語学校西語部拓殖学科を卒業し、同年4月に外務省に通訳生として入省する。 入省後は、在ダバオ領事館、在スペイン大使館などを経て、1928年に在リマ領事館への赴任以降は、ラテンアメリカ諸国を中心にキャリアを歩んでいく。
高田 正(たかだ ただし、1899年3月26日 - 1947… 高田 正(たかだ ただし、1899年3月26日 - 1947年1月6日)は、日本の裁判官。ゾルゲ事件で裁判長を務めた。 北海道札幌市出身。北海道庁立札幌第一中学校、第一高等学校を経て、1925年に東京帝国大学法学部を卒業。同年司法官試補となり、以後東京地方裁判所判事・検事、対満事務事務官、企画院書記官、司法省刑事局第4課長・第3課長などを歴任。 1942年東京刑事地方裁判所部長判事として、ゾルゲ事件の主犯とされた尾崎秀実とリヒャルト・ゾルゲらの裁判(同裁判所第9部)の裁判長となる。尾崎とは一高・東京帝大を通じて同期生・友人の間柄であったが、高田が尾崎に対して下した判決は死刑であった。高田は判決の後、次のように付け加えたという。
黒田 毅(くろだ たけし、1899年(明治32年)3月26日… 黒田 毅(くろだ たけし、1899年(明治32年)3月26日 - 没年不明)は、日本の政治家。愛知県守山市長。 兵庫県出身。愛知県青年師範学校卒。安城農林学校教諭を経て、守山高等小学校校長、全国青年学校協会会長、全国青年師範同窓連盟理事長、愛知県青年師範学校教員会会長などを歴任する。 1951年三郷澱粉協同組合理事長、守山町教育委員、愛知県商工協同組合理事などを務め、1955年守山市長選挙に立候補し初当選。1959年に再選。在職中に全国市長会から海外産業及び都市開発視察団員に選ばれ、欧米各国を視察。 一方で名古屋市との合併協議にも関わり、1963年に守山市が名古屋市に編入されて後は守山公民館長・愛知県社会教育委員を務めた。
富ノ澤 麟太郎(とみのさわ りんたろう、本名:富澤 麟太郎、… 富ノ澤 麟太郎(とみのさわ りんたろう、本名:富澤 麟太郎、1899年3月25日 - 1925年2月24日)は、日本の小説家。 山形市生まれ。幼い頃に宮城県へ移り、仙台市の木町通小学校、仙台第二中学校(宮城県仙台第二高等学校の前身)に学んだ。 1918年に上京して、早稲田大学予科に学び、佐藤春夫に師事するとともに、横光利一、中山義秀と交友関係をもった。大学は結局、中退となった。 1921年に横光利一や古賀龍視などとともに同人誌『街』を立ち上げ、続く1922年には、横光利一、中山義秀、小島勗などと同人誌『塔』の創刊に参加した。 富ノ澤の作風は「新感覚派の先駆け的存在」とも評され、代表作としては、自伝的作品とされる『流星』などが挙げられる。
佐野 保房(さの やすふさ、1899年 <明治32年> 3月… 佐野 保房(さの やすふさ、1899年 <明治32年> 3月25日 - 1980年 <昭和55年> 12月12日)は日本の政治家。東京都世田谷区長。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 山梨県(南巨摩郡身延町常葉竹之島)生まれ。中央大学法学部卒。1927年弁護士として活動を始めた。1932年世田谷区会議員、1947年都議会議員、都選管委員長、笹塚館社長、公明選挙連盟評議員、選挙制度調査会委員を経て、1959年から1975年まで世田谷区長(4期)。1966年から1968年まで特別区区長会会長も務めた。1980年12月12日、肺梗塞のため81歳で死去。墓所は世田谷区慈眼寺。死没日付をもって従五位に叙され、勲四等旭日小綬章を追贈された。
深沢 省三(ふかざわ しょうぞう、1899年(明治32年)3… 深沢 省三(ふかざわ しょうぞう、1899年(明治32年)3月24日 - 1992年(平成4年)3月24日)は、日本の洋画家、童画家。岩手県内の美術教育にも尽力した。
的場 幸雄(まとば さちお、1899年3月23日 - 198… 的場 幸雄(まとば さちお、1899年3月23日 - 1987年9月28日)は、日本の金属工学者。東北大学名誉教授。元富士製鐵代表取締役副社長。元日本金属学会会長。元日本鉄鋼協会副会長。 1924年九州帝国大学工学部冶金学科卒業、東北帝国大学工学部金属工学科講師。1927年東北帝国大学工学部金属工学科助教授。1935年九州帝国大学工学博士。1936年東北帝国大学工学部金属工学科教授。1955年日本金属学会会長。1959年東北大学工学部長。1962年東北大学名誉教授、富士製鐵代表取締役副社長、富士製鐵中央研究所所長。1971年日本工学会会長。日本鉄鋼協会副会長、日本学術会議会員なども務めた。墓所は染井霊園。
黒川 真武(くろかわ またけ、明治32年(1899年)3月2… 黒川 真武(くろかわ またけ、明治32年(1899年)3月23日 - 昭和57年(1982年)2月5日)は、日本の化学者、工業技術院長。化学、特に燃料工学に関する本邦屈指の権威として知られ、試験研究に関する技術行政の分野でも大きな足跡を残した。学位は工学博士(東京帝国大学)。 大正12年(1923年)東京帝国大学工学部応用化学科卒業後、農商務省燃料研究所へ入所する。昭和9年(1934年)燃料研究のため欧米を視察、帰国後『燃料協会誌』に「獨逸に於ける代用燃料の現況及将来」を寄稿する。昭和12年(1937年)に竹内寛との共同論文で『水性ガス反応における触媒の研究』を発表、昭和21年(1946年)に『石炭の水素添加に関する研究』で東京帝国大学より工学博士の学位を授与される。
浜野 正平 (はまの しょうへい、1899年3月22日 - … 浜野 正平 (はまの しょうへい、1899年3月22日 - 1974年4月29日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 戦前の明治神宮競技大会や全日本選士権大会で選手として活躍し、後には大阪府警察名誉師範や大阪柔道連盟会長等を務めるなど大阪柔道界の重鎮として知られた。 現在の香川県坂出市に出生し、幼少時代は地元香川に伝わる無相流の柔術を学んだ。坂出商業時代に吉本官次より柔道の手解きを受け、卒業後は上京して明治大学法科専門部へ進学、後には大阪外国語学校支那語科(二部)にも通った。この間、明治大学で三船久蔵に師事したほか講道館および大日本武徳会で永岡秀一・佐村嘉一郎両範士の指導を仰ぎ、1917年9月付で講道館入門。
水島 三一郎(みずしま さんいちろう、1899年3月21日 … 水島 三一郎(みずしま さんいちろう、1899年3月21日 - 1983年8月3日)は、日本の化学者。東京大学名誉教授。専門は構造化学・分子構造・分子科学。分子構造論の世界的先駆者。日本学士院会員。
高木 幹夫(たかぎ みきお、1899年3月21日 - 196… 高木 幹夫(たかぎ みきお、1899年3月21日 - 1966年8月14日)は、日本の実業家。元東京海上火災保険社長。
高木 幹夫(たかぎ みきお、1899年3月21日 - 196… 高木 幹夫(たかぎ みきお、1899年3月21日 - 1966年8月14日)は、日本の実業家。元東京海上火災保険社長。 高木磯太郎の長男として、福岡県筑紫郡大野村牛頸(現・大野城市牛頸)に生まれる。1917年、福岡県立中学修猷館、1920年、第一高等学校英法科を経て、1923年、東京帝国大学法学部英法科を卒業し、東京海上火災保険に入社する。なお、東京帝国大学在学中の1922年には、高等文官試験行政科に合格している。 1924年から5年間、海上保険研究のため英国に留学し、将来の最高幹部の基礎を作った。1939年、大阪支店長に抜擢され、その後海上営業部長となる。1944年の明治火災保険、三菱海上火災保険との合併後も、海上部長、総務部長、取締役と進み、1947年1月、常務取締役となり、1957年6月、社長に就任する。
三林 隆吉(みばやし りゅういち、1898年4月19日 - … 三林 隆吉(みばやし りゅういち、1898年4月19日 - 1977年2月7日)は、日本の産婦人科学者。京都大学医学部附属助産婦学校第4代校長を歴任。 基靭帯基底部に浸潤した子宮癌に対する超広汎性子宮全摘術や、子宮癌の放射線治療に回転照射術式を考案した。 石川県で生まれる。旧制第四高等学校を経て、1923年(大正12年)に京都帝国大学医学部を卒業する。新潟医科大学(現・新潟大学医学部)の講師を務め、1926年(大正15年) に助教授となる。1929年(昭和4年)医学博士を修める。1930年(昭和5年)ドイツに留学する。 帰国後、1936年(昭和11年)に新潟医科大学産婦人科の第4代教授となる。1938年(昭和13年)、京都帝国大学教授に転任。
鈴木 清(すずき きよし、1898年4月17日 - 1967… 鈴木 清(すずき きよし、1898年4月17日 - 1967年1月16日)は、日本の解剖学者、医師。専門は組織学。鈴木鍍銀法の発明者としても知られる。 1898年04月17日、兵庫県津名郡洲本町常盤町425番地(兵庫県淡路島津名郡洲本町(現洲本市)で生まれた。1923年3月、大阪医科大学(現 大阪大学医学部)を卒業。 大学卒業後は、新潟医科大学助手に就任。1926年07月19日より、京城帝国大学医学部助教授・医学部勤務となった。1926年09月13日、朝鮮総督府医学専門学校講師に就任し、解剖学第二講座を分担する。 1933年11月08日、解剖学研究のために1年6ケ月間、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカへ留学派遣される。
山錦 善治郎(やまにしき ぜんじろう、1898年4月17日 … 山錦 善治郎(やまにしき ぜんじろう、1898年4月17日 - 1972年5月27日)は、大阪府大阪市大淀区(現在の北区)出身で出羽海部屋所属の元大相撲力士。本名は山田 善次郎(やまだ ぜんじろう)。最高位は東関脇。現役時代の体格は173cm、107kg。 魚屋の次男に生まれ、関西大学専門部に進んで学生相撲で活躍、大学を中退して同郷の横綱大錦卯一郎を慕って出羽海部屋に入門した。四股名の山錦は本名と大錦の名から一文字ずつ取ったものである。1917年5月場所に初土俵を踏む。その後1922年1月場所に十両に昇進して2場所で通過、1923年1月場所で新入幕を果たす。 1927年10月場所で自己最高位の関脇に昇進したのをはじめ常に幕内上位で活躍、前頭5枚目で迎えた1930年5月場所では3日目に新大関玉錦に初黒星をつけると10日目に横綱宮城山も破り11戦全勝で平幕優勝を果たし、同時に平幕全勝優勝の第1号となった。
土方 与志(ひじかた よし、1898年(明治31年)4月16… 土方 与志(ひじかた よし、1898年(明治31年)4月16日 - 1959年(昭和34年)6月4日)は、日本の演出家。伯爵を継いだが剥奪された。築地小劇場を拠点に新劇運動を興した。東京生まれ。本名は久敬(ひさよし)。 東京市赤坂区表町(現・東京都港区赤坂)に生まれた。祖父久元は土佐藩出身で、維新後は宮内大臣・宮中顧問官・枢密顧問官・國學院大學学長などを務めて伯爵を授けられた。父久明は陸軍大尉だったが、何らかの事情で精神に異常をきたして療養中、与志が生まれて間もない1898年7月15日に拳銃で自殺している。母は加藤泰秋の三女・愛子。 土方は中学時代に友田恭助と子供芝居一座である南湖座を作り、演劇活動を始めている。
崔 瑗浩(チェ・ウォノ、朝鮮語: 최원호、1898年4月16… 崔 瑗浩(チェ・ウォノ、朝鮮語: 최원호、1898年4月16日 - 1980年2月27日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の公務員、政治家。第2・5代韓国国会議員。 漢字表記は崔援浩とも。 慶尚南道金海郡(現・釜山広域市江西区菉山洞)出身。私立普成中学校、中央大学理科専門部、中央大学商科卒。日本統治時代には金海青年会会長、女子夜学会・労働夜学会設立者、衡平社員、洛東江工事促進期成会代表、金海郡洛東江河口地域海水防止会委員を歴任した。解放後は朝鮮開拓株式会社社長、韓国民主党慶南道党部副委員長、国民会金海郡支部副委員長、大韓民族青年団金海郡団部委員長、大同青年団慶南道団部後援会会長、金海農場長、金海産業組合理事、慶南帆船組合長、民主国民党慶尚南道党委員長、民主党慶尚南道党最高委員、慶尚北道商工局長を務めた。
大木 喜福(おおき のぶとみ、1898年(明治31年)4月1… 大木 喜福(おおき のぶとみ、1898年(明治31年)4月16日 - 1972年(昭和47年)11月20日)は、日本の教育者、政治家。貴族院伯爵議員。旧姓・徳川。 男爵・徳川厚の二男として生まれ、伯爵・大木遠吉の養子となる。1924年(大正13年)東京帝国大学経済学部を卒業。養父の死去に伴い、1926年(大正15年)6月15日に伯爵を襲爵した。 大学卒業後、三井銀行に入行。1929年(昭和4年)東工学園理事長に就任し、1931年(昭和6年)東京工業学校を設立し校長となり、校名変更後の東京高等工科学校の校長も務めた。1967年(昭和42年)日本工業大学を設立し理事長に就任。 1940年(昭和15年)11月30日、補欠選挙で貴族院伯爵議員に選出され、研究会に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
田中 忠夫(たなか ただお、1898年4月13日 - 197… 田中 忠夫(たなか ただお、1898年4月13日 - 1978年12月1日)は、岡山県出身の教育者。 1898年4月13日 岡山県小田郡旧小田町(現・矢掛町)に生まれた。 岡山県立矢掛中学(現・岡山県立矢掛高等学校)卒。 1918年7月 第三高等学校 (旧制)卒。 1923年3月 東京帝国大学経済学部卒。 1923年4月 松山高等商業学校教授。 1930年 - 1932年ドイツ留学。 1934年10月 松山高等商業学校第三代校長に就任。 1944年3月 松山高等商業学校が松山経済専門学校へ名称変更することに伴い松山経済専門学校校長就任。 1947年2月 占領政策の教員適格条項に触れ同校校長辞任。
磯崎 辰五郎(いそざき たつごろう、1898年4月12日 -… 磯崎 辰五郎(いそざき たつごろう、1898年4月12日 - 1990年8月10日 )は、日本の法学者。専門は、憲法・行政法。法学博士。[要出典]大阪大学名誉教授。 香川県三野郡下高瀬村(現:三豊市三野町)出身。香川県立三豊中学校、第六高等学校を経て、京都帝国大学法学部卒業。 京都帝国大学では、佐々木惣一に憲法学および行政法学の指導を受ける。以後、佐々木惣一と研究を共にする。佐々木惣一の著書『日本国憲法論 改訂版』(有斐閣、1952年)および『日本國行政一般法論』(有斐閣、1952年)のはしがきでは、佐々木は磯崎に対して執筆の支援および長年の貢献について感謝を記している。 また、1945年(昭和20年)11月に佐々木惣一が内大臣府御用掛として憲法改正調査に当たり、箱根の奈良屋旅館で大石義雄と共に憲法改正草案「佐々木憲法草案」の作成を行っている。
中村 隆一(なかむら りゅういち、1898年4月12日 - … 中村 隆一(なかむら りゅういち、1898年4月12日 - 1992年6月27日)は、日本の経営者。日立金属社長を務めた。 山口県出身。松田忠治の六男として生まれ、芳治の養子となる。弟は元衆議院議員の林佳介。1926年に京都帝国大学法学部を卒業。 藤田銀行での勤務を経て、1928年に戸畑鋳物(のちの日立製作所)に転じ、1947年に取締役に就任し、1955年に常務を経て、1956年に日立金属初代社長に就任し、1971年2月には会長に就任。1977年6月からは相談役を務めた。 1965年に藍綬褒章を受章し、1968年に勲三等瑞宝章を受章。 1992年6月27日、肝不全のために死去。94歳没。
並川 義隆(なみかわ よしたか、1898年(明治31年)4月… 並川 義隆(なみかわ よしたか、1898年(明治31年)4月11日 - 1975年(昭和50年)1月2日)は、日本の内務及び警察官僚。官選滋賀県知事。 京都府出身。並川栄慶の長男として生まれる。第三高等学校を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、京都帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し大阪府属となる。 以後、地方警視・宮崎県警察部保安課長、徳島県警察部保安課長、地方事務官・秋田県農務課長兼知事官房秘書課長兼文書課長、奈良県地方課長、同勧業課長、福井県学務部長、岡山県学務部長、島根県総務部長などを経て、1939年4月、富山県総務部長となる。1940年4月、東京府書記官・経済部長に就任。
橋本 昂蔵(昻蔵、はしもと こうぞう、1898年(明治21年… 橋本 昂蔵(昻蔵、はしもと こうぞう、1898年(明治21年)4月10日 - 1970年(昭和45年)3月29日)は、日本の大蔵官僚、陸軍司政官、実業家。 鳥取県出身。第一高等学校、東京帝国大学法学部政治学科卒業。1921年(大正10年)11月、高等試験行政科に合格し、1922年、大蔵省に入省(主計局属)。戦時中にはシンガポールへの赴任や南方軍、昭南軍で部長職なども務めた。戦後、公職追放された。退官後は理研鍛造会社で社長や会長などを務めた。墓所は多磨霊園。
佐生 正三郎(さしょう しょうざぶろう、1898年4月9日 … 佐生 正三郎(さしょう しょうざぶろう、1898年4月9日 - 1971年9月21日)は、日本の映画会社経営者、実業家である。東洋汽船、ユニヴァーサル映画東京支社、パラマウント映画支配人を経て、東宝映画取締役、映画配給社理事、東宝常務取締役、太泉スタヂオ専務取締役、新東宝初代社長、日米映画社長、新外映配給社長を歴任した。「配給の神様」の異名をとり、フリーブッキング制(自由配給制度)の立案者として知られる。 1898年(明治31年)4月9日、千葉県に生まれる。父の元治郎は、君津郡青堀町に所在した南総銀行の大貫支店長を務めていた。 早稲田大学理工学部(現在の早稲田大学理工学術院)を卒業し、東洋汽船に入社、文書課長を務める。
禹長春(ウ・ジャンチュン、우장춘、通名:須永 長春(すなが … 禹長春(ウ・ジャンチュン、우장춘、通名:須永 長春(すなが ながはる)、1898年4月8日 - 1959年8月10日)は、農学者(農学博士)、育種学者。 韓国農業の父と呼ばれる。 父は乙未事変(朝鮮国王王妃閔妃暗殺事件)に参加した軍人・禹範善。範善が日本に亡命し日本人女性・酒井ナカと結婚、日本で生まれたのが禹長春である。出生地については東京赤坂説と広島説がある。育ったのは広島県呉市である。父の範善は閔妃を暗殺したため、1903年11月24日、禹が6歳の時にかつて閔妃に仕えていた高永根に呉で暗殺された。 同じく父が親日派とされ日本に逃れてきた具鎔書(のちに初代韓国銀行総裁、第10代大韓民国商工部長官などを歴任)ら、酒井の下に送られてきた親日派の子女6人で日本で育ち、禹は、広島県立呉中学校(現広島県立呉三津田高校)を卒業。
東浦 庄治(ひがしうら しょうじ、1898年(明治31年)4… 東浦 庄治(ひがしうら しょうじ、1898年(明治31年)4月8日 - 1949年(昭和24年)9月2日)は、日本の農業指導者、政治家。参議院議員。三重県度会郡城田村中須(現伊勢市)出身。 自作農の家に生まれる。1923年、東京帝国大学経済学部を卒業。 当時ようやく本格的な農政運動を開始していた帝国農会(帝農)に入り、農政調査を行いながら農政論の提唱をする。 1936年、帝国農会に幹事として復帰。1943年の農業団体統合直前までは帝農を全国機関とする系統農会の事実上の指導者として活躍する。 終戦後は全国農業会副会長となる。政界に進出し、1947年(昭和22年)4月、第1回参議院議員通常選挙で全国区に無所属で出馬して当選し、緑風会に所属して参議院議員に1期在任した。
加藤 清二郎(かとう せいじろう、1898年4月8日 - 1… 加藤 清二郎(かとう せいじろう、1898年4月8日 - 1982年9月24日)は、レストラン聚楽の創業者で、昭和時代に飲食業で成功した実業家。小さな洋食店から、第二次世界大戦までに数十店舗を抱える一大チェーングループに育て、「食堂王」とまで呼ばれた。 新潟県中蒲原郡白根町(現・新潟市南区)の商人の子として生まれる。小学校卒業後、新潟市の海産物屋「島二」に丁稚奉公に出る。実業雑誌を愛読し、安田善次郎の「学問より実地が大切」を拠り所に、3年間奉公する。年季を終えたあと志願兵となり、2年ののち除隊。相場に手を出して失敗し、親族・縁者に迷惑をかける。肩身の狭い実家住まいをしているとき、樺太の軍事占領によりひと儲けした商人が出ていることを知り、親に金を借りて24歳で樺太に渡ったものの、商機を逃し、当地で軍役夫となる。
村上 正雄(むらかみ まさお、1898年4月5日 - 194… 村上 正雄(むらかみ まさお、1898年4月5日 - 1943年1月23日)は、日本の新聞記者。東京都千代田区永田町出身。父・萬助(宮内省-内匠寮<たくみ寮>勤務、建築設計士)、母・せき、5人兄弟の長男。家族は、配偶者・志久、長女・眞呂、次女・しま 慶応義塾大学理財科卒業。大正15年、フランス留学ソルボンヌ大学にてフランス民族史専攻。 昭和4年6月、読売新聞社入社。昭和13年、婦人部部長。昭和16年4月、読売新聞経営の静岡新報社取締役兼編集局長。12月、静岡新聞社専務取締役兼編集総務就任。 昭和17年9月、読売新聞本社復帰、部長待遇。昭和18年1月、副理事(読売新聞本社在勤13年8ヶ月)。 インドネシアのセラム新聞社長として赴任する折、昭和18年1月23日夜、敵潜水艦の攻撃を受け、スラウェシ州南岸サラヤル水道東方12km付近にて沈没、戦死。