気賀 重躬(けが しげみ、1901年(明治34年)8月8日 … 気賀 重躬(けが しげみ、1901年(明治34年)8月8日 - 1958年(昭和33年)3月24日)は、日本のキリスト教神学者、牧師、青山学院大学学長。 1901年8月8日、静岡県引佐郡気賀町に、気賀定吉・すみ子の長男として生まれた。気賀小学校、静岡県立浜松第一中学校で学んだ。1916年1月7日に日本基督教団浜松教会にて鵜飼捨吉牧師より洗礼を受け、1919年4月、青山学院神学部に入学。1923年5月、第1回全国学生英語演説大会に青山学院代表として出場し、第1位となった。 1924年3月に青山学院を卒業し、同年4月から本郷中央教会の副牧師となる。1925年4月から日本メソヂスト小樽教会の牧師、1927年4月から日本メソヂスト浅草教会の牧師、1928年4月から日本メソヂスト銀座教会の副牧師を務めた後、同年同月より青山学院神学部の講師となった。
笠原 貞造(かさはら ていぞう、1901年(明治34年)8月… 笠原 貞造(かさはら ていぞう、1901年(明治34年)8月8日 - 1985年(昭和60年)3月19日)は、昭和期の弁護士、農民運動家、政治家。衆議院議員(1期)。 群馬県出身。1928年(昭和3年)早稲田大学専門部政経科を卒業した。 卒業後は東京市牛込区役所に勤務し、書記、社会課、福利課各主任となり、1935年(昭和10年)に退職し、弁護士の業務に従事。社会大衆党新潟県連合会執行委員、全国農民組合新潟県連合会執行委員、日本農民組合新潟県支部連合会書記長などを務めた。その他、新潟県地方通貨安定推進委員会長、新潟県地方労働委員会長、新潟市教育委員、新潟県弁護士会長、日本弁護士連合会理事、同副会長、新潟県市町村教育委員連合会長などを務めた。
本庄 季郎(ほんじょう きろう、1901年8月6日 - 19… 本庄 季郎(ほんじょう きろう、1901年8月6日 - 1990年4月21日)は、日本の航空技術者。三菱内燃機製造(現在の三菱重工業)に所属し、一式陸上攻撃機をはじめ第二次世界大戦期の航空機設計に携わった。 戦後、GHQにより航空機の開発、製造を禁じられた三菱が航空機設計の技術を使用して民間用に販売した自転車、三菱十字号や、讀賣テレビの「鳥人間コンテスト選手権大会」第一回大会(1977年)で82.44mを飛んで優勝した岡良樹パイロット操縦のハンググライダーは、本庄の設計であった。1990年、前立腺癌のため死去。 2013年公開のアニメーション映画『風立ちぬ』においては、主人公である堀越二郎の帝大時代からの親友かつ三菱での同僚として描かれた(声:西島秀俊)。
5代 上野 喜左衛門(うえの きざえもん、1901年(明治3… 5代 上野 喜左衛門(うえの きざえもん、1901年(明治34年)8月6日 - 1971年(昭和46年)8月9日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員、参議院議員。南国殖産、南国交通、長崎自動車などの創業者。 豪商・先代上野喜左衛門の長男として鹿児島県薩摩郡隈之城村大字東手の向田(のちの川内市(現薩摩川内市)向田町)に生まれ、父の死去に伴い1921年(大正10年)家督を相続し、前名次郎七を改め襲名する。 1920年(大正9年)東京商科大学(現一橋大学)予科に入学し、1927年(昭和2年)に同大学を卒業する。キッコーマンの茂木啓三郎とは大学時代からの親友。 1925年(大正14年)川内電気社長となる。
大森 久司(おおもり ひさじ、1901年8月5日 - 197… 大森 久司(おおもり ひさじ、1901年8月5日 - 1976年8月13日)は、日本の政治家。位階は正四位。勲等は勲二等。参議院議員(2期)。奈良県議会議長。奈良県議会議員(6期)。奈良市議会議員(3期)。 奈良県桜井市初瀬町生まれ。旧制奈良県立畝傍中学校、関西学院大学卒業。 1930年、奈良市で大徳電気商会を設立。1944年、軍需省軍需監理部から発せられた「電気工事業整備要綱」に基づいて近畿地方の電気工事業者が統合し、設立された近畿電気工事株式会社の取締役に就任。 1961年、きんでん取締役社長。 1965年の第7回参議院議員通常選挙奈良地方区から自由民主党公認で立候補し、初当選。1971年、第9回参議院議員通常選挙再選。
宮崎 市定(みやざき いちさだ、1901年〈明治34年〉8月… 宮崎 市定(みやざき いちさだ、1901年〈明治34年〉8月4日 - 1995年〈平成7年〉5月24日)は、日本の東洋史家。京都大学名誉教授。 1901年、長野県下水内郡秋津村(現在の飯山市)静間で宮崎市蔵・悦の次男として生まれた。父の市蔵は、飯山小学校の教師であった。 その後、秋津小学校、県立飯山中学校(現:長野県飯山北高等学校)を卒業し、1919年に新設まもない松本高校(現:信州大学)文科甲類に入学する。同校の後輩には、後の東洋史学者、曽我部静雄と仁井田陞がいた。 1922年に京都帝国大学文学部史学科に入学、東洋史を専攻し、内藤湖南・桑原隲蔵・羽田亨・狩野直喜らに師事する。卒業論文は、南宋滅亡期の中国社会と北方民族との交渉の一場面を題目とした。
田村 道美(たむら みちよし、1901年8月4日 - 199… 田村 道美(たむら みちよし、1901年8月4日 - 1990年代)は、日本の映画俳優、映画プロデューサーである。戦前の無声映画時代に活躍し、当時の人気女優の入江たか子と結婚した。長女はおなじく女優の入江若葉である。 1901年8月4日、東京市京橋区新富町(現中央区新富)に生まれる。祖父の田村成義は、「田村将軍」の異名を持つ歌舞伎興行の大御所であった。 慶應義塾大学経済学部を卒業後、1931年、30歳にして京都の日活太秦撮影所に入社、同年11月13日公開の村田実監督の無声映画『白い姉 前篇』でデビューした。翌1932年、三枝源次郎監督の『海に散る花』では早くも主役の座を獲得する。 同年、当時人気絶頂、新興キネマと提携し映画製作会社「入江ぷろだくしょん」を設立したばかりの入江たか子(1911年 - 1995年)と交際、自らの人気を考え籍を入れず別居結婚とする。
二神 武(ふたがみ たけし、1901年8月2日 - 1985… 二神 武(ふたがみ たけし、1901年8月2日 - 1985年11月27日)は、大正から昭和時代の野球選手、野球指導者。立教大学野球部の黎明期に活躍し、飛田穂洲の指導の下で野球部の四大学野球連盟(現・東京六大学野球連盟)への加入を提案し、実現した立役者。第1回都市対抗野球でも優勝チームのメンバーとして活躍した。東京出身。 1901年(明治34年)8月2日、二神駿吉(衆議院議員、実業家)の次男として生まれる。愛知県名古屋市の明倫中学校(現・愛知県立明和高等学校)出身。中学時代から俊足であった。 立教大学に入学し、野球部に所属。立教大学野球部は早稲田大学野球部監督だった飛田穂洲の指導を受けながらチーム力をつける。
横川 信夫(よこかわ のぶお、1901年8月1日 - 197… 横川 信夫(よこかわ のぶお、1901年8月1日 - 1975年11月10日)は、昭和期の農林官僚、政治家。参議院議員(1期)、栃木県知事(公選第4-7代)。 栃木県宇都宮市の出身。宇都宮中学校、第二高等学校理科甲類を経て、1925年東京帝国大学農学部卒業、農林省に入省。青森営林局の技手を振り出しに林野畑を歩き、1939年満洲国林野局計画課長、1944年同林野総局林産課長、1945年東満総省林政庁長となる。 同年、ソ連軍の侵攻によりシベリアに抑留される。1948年に帰国。林野庁に入り、1950年に林野庁長官になる。 退官後の1953年の第3回参議院議員通常選挙全国区に自由党から出馬して当選する。
甲野 勇(こうの いさむ、1901年(明治34年)7月31日… 甲野 勇(こうの いさむ、1901年(明治34年)7月31日 - 1967年(昭和42年)10月15日)は、日本の考古学者。 東京都日本橋生まれ。宮内省侍医寮御用掛も務める医師・甲野棐(たすく)の四男として生まれる。母は乙骨太郎乙の姪。 1922年、東京帝国大学理学部の人類学選科に入学する。同教室には、山内清男が1919年、八幡一郎が1921年から選科生として学んでいた。1925年卒業。翌年軍人・公爵でありながらドイツで先史考古学を学んだ大山柏の設立した大山史前学研究所に入所する。また、1928年に甲野は、広義の人類学(人類学、考古学、民族学など)に関心をもつ若手研究者により結成された人文研究会にも参加している。
山崎 敏夫(やまざき としお、1901年〈明治34年〉7月3… 山崎 敏夫(やまざき としお、1901年〈明治34年〉7月30日 - 1978年〈昭和53年〉4月3日)は、日本の歌人・国文学者。愛知県立大学元学長、同大名誉教授。位階は従三位。勲二等瑞宝章受章。 東京出身。第八高等学校卒、1926年京都帝国大学文学部国文科卒。八高時代石井直三郎に師事し、歌誌「青樹」を経て「水甕」(尾上柴舟)所属。愛知県立第一高等女学校(愛知県立明和高等学校の前身の一つ)校長などを経て、愛知県立女子大学教授、1964年学長、1966年愛知県立大学学長を務めた。1969年定年退官、名誉教授となり、椙山女学園大学短期大学部教授を務め、1977年退職。1972年勲二等瑞宝章受章。1978年死去。
谷口 豊三郎(たにぐち とよさぶろう、1901年7月29日 … 谷口 豊三郎(たにぐち とよさぶろう、1901年7月29日 - 1994年10月26日)は、昭和時代の日本の実業家。元東洋紡績社長。日本繊維産業連盟・初代会長。理論物理や数学などの研究に資金援助した谷口工業奨励会(後の谷口財団)の創設者。 1901年(明治34年)7月29日、大阪船場生まれ。旧制大阪府立天王寺中学校、旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学工学部機械学科、東京帝国大学法学部政治学科卒業。1928年(昭和3年)、父・谷口房蔵の経営する大阪合同紡績に入社。1931年(昭和6年)、東洋紡に吸収されるが取締役でのこる。公職追放となるが、解除後副社長として復帰。1947年(昭和22年)に社長、1966年(昭和41年)に会長を歴任する。
伊藤 公平(いとう こうへい、1901年7月28日 - 19… 伊藤 公平(いとう こうへい、1901年7月28日 - 1984年3月9日)は、日本の歌人、随筆家、小説家、教員。千葉県印旛郡八生村押畑生まれ。吉植庄亮に師事。千葉県歌人クラブでは創設以来、事務所代表を長年務めた。また、出身地である成田市をはじめ、各地で短歌教室を開き指導を続け、後進に大きな影響を与えたと評価される。 1901年、千葉県印旛郡八生村押畑(現・成田市押畑)に父総平、母よねの長男として生まれる。父の総平も歌人であった。少年時代より体が弱く、文学や絵画に親しむようになる。1919年、成田中学校(現・成田高等学校)を卒業して、國學院大學に進学。大学で佐佐木信綱、折口信夫、武田祐吉らの講義を受けて文学的素養を深めたが、同時期に絵画に傾倒し、川端画学校で油絵を学ぶ。
岩永 巌(いわなが いわお、1901年7月28日 - 198… 岩永 巌(いわなが いわお、1901年7月28日 - 1985年1月9日)は、日本の経営者。熊本県熊本市出身。 1915年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に東洋レーヨン(現在の東レ)に入社。1947年に取締役に就任し、1948年に常務を経て、1960年に副社長に就任し、1963年には三井石油化学工業社長に昇格。1969年11月に会長に就任。 1965年に藍綬褒章を受章し、1971年に勲二等瑞宝章を受章。 1985年1月9日急性心不全のために死去。83歳没。
市川 秀雄(いちかわ ひでお、1901年〈明治34年〉7月2… 市川 秀雄(いちかわ ひでお、1901年〈明治34年〉7月27日 - 1964年〈昭和39年〉10月31日)は、日本の法学者。刑法学者・労働法学者。1961年、博士(法学)(中央大学)題は「刑法における市民法思想と社会法思想」。専門はドイツ刑法。東京都生まれ。 明治天皇の侍医・市川賢亮の三男。1919年独逸学協会中学校(現・獨協中学校・高等学校)卒業。1925年第一高等学校卒業。1930年東京帝国大学法学部卒業。1932年東京帝国大学大学院(旧制)法学研究科修了。少年保護司。1942年中央大学法学部専任講師。1946年中央大学法学部教授。1964年10月30日中央大学在職中に逝去、63歳没。1964年中央大学名誉教授。
岩本 月洲(いわもと げっしゅう、1901年7月27日 - … 岩本 月洲(いわもと げっしゅう、1901年7月27日 - 1995年3月3日)は日本の宗教学者、随筆家、政治家、参議院議員(1期)。 京都府出身。龍谷大学研究科修了、京都女子専門学校(現京都女子大学)講師、宗教文化研究所所長を歴任。 1947年の第1回参議院議員通常選挙に広島県選挙区(自由党)から立候補し当選。参議院議員を1期務める(3年議員)。1950年の第2回参議院議員通常選挙には現職として出馬したが落選。その後、特例社団法人真人会理事などを務め、広島県呉市(旧豊田郡安浦町)野呂山の「真人会野呂山道場」の建立に携わる。同道場の親鸞堂では、青少年修道研修会、成人修道研修会などを開催した。 1981年11月の秋の叙勲で勲四等に叙され、旭日小綬章を受章する。
高橋 ふみ(たかはし ふみ、1901年7月26日 - 194… 高橋 ふみ(たかはし ふみ、1901年7月26日 - 1945年6月21日)は、日本の哲学者・大学講師。 1901年7月26日、石川県河北郡七塚村木津(現・かほく市木津)に生まれる。父親は羽二重工場を営み、七塚村の村長を務めるなど、裕福な名士だった。母親は西田幾多郎の妹で、ふみは西田の姪にあたる。 地元の尋常高等小学校を卒業すると、当時石川県内唯一の公立高等女学校であった金沢第一高等女学校に入学する。高等女学校卒業後も、女子高等師範・女子医専のような実学・職業教育ではない学問を求め、花嫁修業を求める親を説得して、設立2年目の東京女子大学高等学部へ1920年4月に入学し、さらに、1926年4月に東北帝国大学法文学部に入学して哲学を学ぶ。
寺園 勝志(てらぞの かつし、1901年(明治34年)7月2… 寺園 勝志(てらぞの かつし、1901年(明治34年)7月25日 - 1998年(平成10年)2月11日)は日本の政治家、元官僚。鹿児島県知事や南日本放送会長を務めた。 1901年(明治34年)、姶良郡栗野村(のちの栗野町、現在の湧水町栗野地域)出身。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校を経て東京帝國大学(現・東京大学)を卒業。 内務官僚となり 、厚生省部長、鹿児島県経済部長、同県副知事などを経て、1955年(昭和30年)から鹿児島県知事を3期12年務めた。在任中、戦後の混乱で厳しい財政の中で農業振興や交通・通信の整備に尽力し、大隅半島の広大なシラス台地である笠野原台地に大規模灌漑で農業用水を提供する土地改良事業をおこなった。
津田 市正(つだ いちまさ、1901年(明治34年)7月25… 津田 市正(つだ いちまさ、1901年(明治34年)7月25日 - 没年不明)は、鳥取県鳥取市出身の法学者。専攻分野は法哲学。法学博士。津田短期大学(1982年廃止)の学長・明治学院大学の教授も歴任した。著作も多数ある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
中村 草田男(なかむら くさたお、1901年〈明治34年〉7… 中村 草田男(なかむら くさたお、1901年〈明治34年〉7月24日 - 1983年〈昭和58年〉8月5日)は、日本の俳人・国文学者。成蹊大学名誉教授。本名は中村 清一郎(なかむら せいいちろう)。 中国廈門出身。東京帝国大学国文科卒。高浜虚子に師事、「ホトトギス」で客観写生を学びつつ、ニーチェなどの西洋思想から影響を受け、生活や人間性に根ざした句を模索。石田波郷、加藤楸邨らとともに人間探求派と呼ばれた。「萬緑」を創刊・主宰。戦後は第二芸術論争をはじめとして様々な俳句論争で主導的な役割をもった。次世代の金子兜太などに多大な影響を与えた。忌日は「草田男忌」として、季語になっている。 清(現中国)福建省廈門にて清国領事中村修の長男として生まれる。
古賀 良彦(こが よしひこ、1901年7月24日 - 196… 古賀 良彦(こが よしひこ、1901年7月24日 - 1967年6月29日)は、日本の医学者、教育者。 1901年(明治34年)、福岡県朝倉郡大福村(現・朝倉市)に生まれる。福岡県立朝倉中学校には、実家(乳業家)の手伝いとして牛乳配達を続けながら通い、熊本市にあった第五高等学校、さらに九州帝国大学に進学した。1927年(昭和2年)に同大医学部を卒業。内科教室に入局後に医療分野における放射線研究を始め、博士号を取得。東北大学に異動した。 東北大学でも放射線研究を続け、1936年(昭和11年)には同大電気工学科教授の抜山平一と共同で、心臓の鼓動に合わせてX線撮影(単純X線撮影)を行う技術を開発。さらに1943年(昭和18年)には胸部X線間接撮影法を開発(同年ブラジルのde Abreuも独立して開発)、第1回技術院賞を受賞した。
下山 定則(しもやま さだのり、1901年〈明治34年〉7月… 下山 定則(しもやま さだのり、1901年〈明治34年〉7月23日 - 1949年〈昭和24年〉7月6日、(死亡日時は不詳)は、日本の鉄道官僚。運輸次官、日本国有鉄道総裁(初代)などを歴任した。 兵庫県神戸市出身。司法官であった父の英五郎は、同県有馬郡高平村木器(こうづき)(現在の三田市木器)の出身であった。転勤に従い少年時代は転校を繰り返していた。転校するたびにその都市の主要駅の時刻表を暗記して人気者になっていたという。静岡中学、津中学、三高卒業。静岡中学時代は野球部(現在の静岡高校野球部)でピッチャーを務めた。三高時代には稚内から[疑問点 – ノート]鹿児島まで駅名を暗唱して友人から「鉄道」というあだ名をつけられた。
柴田 喜三郎(しばた きさぶろう、1901年7月23日 - … 柴田 喜三郎(しばた きさぶろう、1901年7月23日 - 1998年1月5日)は、日本の経営者。大阪府大阪市出身。 1918年に関西商工学校を卒業。1929年に発動機製造(のちのダイハツ工業)に入社し、1943年に取締役に就任し、常務、専務を歴任。1966年に再び取締役に就任し、顧問、ダイハツディーゼル社長、会長、相談役を歴任した。 1969年に藍綬褒章を受章し、1975年に勲四等旭日小綬章を受章した。 1998年1月5日全身衰弱のために宝塚市の病院で死去。96歳没。
八木 一郎(やぎ いちろう、1901年7月23日 - 199… 八木 一郎(やぎ いちろう、1901年7月23日 - 1990年2月25日)は、日本の農林技官、政治家。参議院議員(4期)、衆議院議員(5期)。 愛知県渥美郡高師村藤並(現豊橋市藤並町)に八木用作の長男として生まれる 1923年(大正12年)3月東京高等蚕糸学校卒業。農林技官として東京府、愛知県、農林省、興亜院、大東亜省に勤め、1946年(昭和21年)退官。 1947年の第23回衆議院議員総選挙愛知5区に民主党から出馬し、初当選、5期務める。内閣委員長、1957年の第1次岸内閣農林政務次官を歴任。1960年の第29回衆議院議員総選挙で落選。 1963年の参議院に鞍替え出馬して、杉浦武雄死去に伴う第6回参議院議員通常選挙愛知県選挙区補欠選挙で初当選。
申 駿遠(シン・ジュヌォン、朝鮮語: 신준원、1901年7月… 申 駿遠(シン・ジュヌォン、朝鮮語: 신준원、1901年7月23日 - 1966年6月1日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国のジャーナリスト、政治家。第5代韓国国会議員。 慶尚北道善山郡(現・亀尾市)出身。日本大学文学部卒。故郷善山の三・一運動に参加したことや、大学在学中に朴烈や曺奉岩と共に黒涛会のアナキスト運動に参加したことにより投獄された。帰国後は朴相熙、金雨東らと共に亀尾消費組合を組織し、新聞社の支局長を務めた後、1960年の第5代総選挙で善山郡選挙区より無所属で出馬し当選、国会議員を1期務めた。
雲井 浪子(くもい なみこ、本名:坪内操、旧姓:高井、190… 雲井 浪子(くもい なみこ、本名:坪内操、旧姓:高井、1901年(明治34年)7月23日 - 2003年(平成15年)8月20日)は、元宝塚少女歌劇団主演娘役で宝塚歌劇団卒業生。兵庫県津名郡洲本町出身。 夫は演劇評論家、早稲田大学教授の坪内士行。娘に女優の坪内ミキ子がいる。実姉は同じく宝塚歌劇団1期生で宝塚歌劇団卒業生の八十島揖子、実妹は宝塚歌劇団16期生で宝塚歌劇団卒業生の緒島なほ子(本名:高井秀子)。義理の叔父は坪内逍遥、逍遥の養女は飯塚くに。 芸名は小倉百人一首の第76番:法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)の より、宝塚歌劇団創設者の小林一三によって命名された。 1913年7月、湊山尋常高等小学校(後の神戸市立湊山小学校)を卒業した後、宝塚唱歌隊(同年12月に宝塚少女歌劇養成会に改称。
宮幡 靖(みやはた やすし、1900年(明治33年)8月22… 宮幡 靖(みやはた やすし、1900年(明治33年)8月22日 - 1959年(昭和34年)5月13日)は、日本の政治家、計理士。 静岡県生まれ。1918年(大正7年)、静岡県立静岡中学校卒業。中学時代は野球部(現在の静岡高校野球部)に在籍した。1923年(大正12年)に明治大学商学部卒業後、富士身延鉄道(現・身延線)に入社後、1929年(昭和4年)に計理士・税理士となり、静岡県計理士会長、名古屋地方税務代理士会長等を歴任。 鷹岡町(現・富士市)議、同町長を経て、1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙で静岡県から立候補したが次点で落選。1947年(昭和22年)、第23回衆議院議員総選挙で静岡2区から衆議院議員に当選して以降、3回連続当選。
清水 亘(しみず わたる、1900年8月20日 - 1986… 清水 亘(しみず わたる、1900年8月20日 - 1986年9月20日)は、水産学者。愛媛県出身。 1927年京都帝国大学農学部卒。1947年より京都大学農学部教授。1963年の京大退官以降は日本大学農獣医学部教授となった。 魚肉ハムや魚肉ソーセージの考案者である。1960年には魚肉冷凍すり身を考案するなど水産加工品の発展に大きく寄与し、初代かまぼこ博士として知られた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
辛 鳳祚(シン・ボンジョ、신봉조、創氏名:辛島 純、1900… 辛 鳳祚(シン・ボンジョ、신봉조、創氏名:辛島 純、1900年8月20日 - 1992年12月27日)は、日本統治時代の朝鮮で活動した大韓民国の教育者。号は和巖(ファアム、화암)。 本貫は霊山辛氏で、江原道旌善郡に生まれた。1919年に培材高等普通学校(朝鮮語版)を卒業したが、在学中に起きた三・一運動に関わり、懲役6ヶ月を宣告された。1920年には、朝鮮エスペラント協会(朝鮮語版)の設立に参加した。1924年に延禧專門学校(朝鮮語版)文科を卒業した。後に日本に留学し、1927年に東北帝国大学法文学部に、特別入学扱いで入学し、1930年に卒業して文学士となった。 延禧專門学校を卒業した後、母校である培材高等普通学校に教師としてしばらく勤務した際に、女子教育に関心をもち、以後生涯を女性の中等教育に捧げた。
大日向 蔦次(おおひなた つたじ、1900年8月20日 - … 大日向 蔦次(おおひなた つたじ、1900年8月20日 - 1975年2月23日)は日本の政治家。東京都議(6期)、第21代都議会議長を歴任した。 1900年8月20日、千葉県に生まれる。1924年に日本大学商学部を卒業。1947年、東京都議会議員選挙に江戸川区選挙区から立候補し、初当選する。その後、総務委員会委員長(1952年から1953年)、厚生委員会委員長(1956年)、社会党都議団幹事長(1960年)を歴任した。1960年10月28日に衆議院選挙に立候補するため都議を辞職した。第29回衆議院議員選挙に旧東京6区から立候補したが、次点で落選した。その後は、東京都選挙管理委員会委員(1960年から1963年)を務めた。
清水 重美(しみず しげみ、1900年(明治33年)8月20… 清水 重美(しみず しげみ、1900年(明治33年)8月20日 - 1999年〈平成11年〉1月6日)は、昭和期の地方公務員、政治家。長野県飯田市長。男性。位階は従六位。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)で、清水宗一、あき の長男として生まれた。1916年(大正5年)3月、長野県組合立竜東農学校卒業。1919年(大正8年)公立実業学校教師となる。1939年(昭和14年)長野県技師に転じ、県立農業講習副所長を務め、1952年(昭和27年)長野県経済部農業改良課長、1954年(昭和29年)南佐久地方事務所長を歴任。1955年(昭和30年)飯田市助役に就任し、13年間在任した。 松井卓治市長の後継者として1968年(昭和43年)10月、飯田市長選挙に当選し、1972年(昭和47年)10月まで1期務めた。
高田 博厚(たかた ひろあつ、1900年8月19日 - 19… 高田 博厚(たかた ひろあつ、1900年8月19日 - 1987年6月17日)は、第二次世界大戦前に芸術を学ぶためにフランスに渡り、新聞記者としても戦後までフランスに滞在していた彫刻家。思想家、文筆家、翻訳家としても活躍した。 少年時代から文学・哲学・芸術に目覚め、18歳で上京し、高村光太郎の勧めで彫刻や翻訳に従事。31歳でフランスに渡り、ロマン・ロラン(作家)やアラン(哲学者)、ポール・シニャック(画家)、ジョルジュ・ルオー(画家)をはじめとするヨーロッパの知識階層と交流した。在欧日本人向け日刊紙『日仏通信』を刊行し、第二次世界大戦中も日本に戻らず新聞記者として活動し、パリ外国人記者協会副会長を務めた。
当間 重民(とうま じゅうみん、1900年8月19日 - 1… 当間 重民(とうま じゅうみん、1900年8月19日 - 1952年2月8日)は、戦前の沖縄県、沖縄諮詢会、及び沖縄民政府時代の政治家で那覇市長。
近藤 柏次郎(こんどう はくじろう、1900年8月17日 -… 近藤 柏次郎(こんどう はくじろう、1900年8月17日 - 1932年7月13日)は、日本のピアニスト。大正から昭和初期にかけて活躍したが、30代で芸妓と情死した。 浅野石油技師長近藤会次郎の次男として生まれる。暁星中学4年のときに府立一中に転校、一高を首席で卒業した。中学時代からピアノを学び、杉山長谷夫らに師事、山田耕筰の推薦で、来日中のデンマーク人ピアニストのジョージ・ロランジの伴奏を行い、一躍楽壇に知られた。友人の藤原義江によると、近藤は中学時代ピアノばかり弾いて学校にはあまり行かず、一高時代は「勉強は嫌いだが母親のために卒業だけはしてやる」が口癖だったという。 東京帝国大学法学部を卒業後日仏銀行に勤務の傍ら、藤原義江の伴奏をよく務めた。
町村 金五(まちむら きんご、1900年(明治33年)8月1… 町村 金五(まちむら きんご、1900年(明治33年)8月16日 - 1992年(平成4年)12月14日)は、日本の内務官僚、政治家。
七条 光明(七條、しちじょう みつきよ、1900年(明治33… 七条 光明(七條、しちじょう みつきよ、1900年(明治33年)8月15日 - 1964年(昭和39年)11月2日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・烏丸。 伯爵・烏丸光亨の三男として生まれ、先代七条信義の死跡を継承し、1924年(大正13年)6月16日、子爵を襲爵した。 学習院高等科を修了。1935年(昭和10年)豊島区役所嘱託に就任。以後、関東電気工業社員、同社農場主任、浅野カーリツト会社員などを務めた。 1946年(昭和21年)6月28日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
今井 野菊(いまい のぎく、1900年〈明治33年〉 8月1… 今井 野菊(いまい のぎく、1900年〈明治33年〉 8月14日 - 1982年〈昭和57年〉10月6日)は、日本の郷土史家、歌人である。本名は今井 すみ江(いまい すみえ)。 長野県諏訪郡宮川村(現・茅野市宮川茅野)に生まれ、諏訪高等女学校(現・諏訪二葉高等学校)へ入学。女学校一年の時に『アララギ』へ入会し島木赤彦と森山汀川に師事。大正7年(1918年)に卒業し小学校の代用教員となり、その翌年(当時19歳)寒天問屋「地紙世(ちがみせ)」(現・地紙世商店)の今井平左衛門に嫁ぐ。池坊華道の教授でもあり、地元の人々が敬意を込めて「地紙世の先生」と呼んでいた。戦後、『旧宮川村誌(史)』の編纂に奮闘する傍ら諏訪大社及び諏訪地域の在地信仰(ミシャグジ、千鹿頭神、天白神 等)の研究を行い、踏査集成を広範囲に渡って行った。
山田 幸男(やまだ ゆきお、1900年8月14日 - 197… 山田 幸男(やまだ ゆきお、1900年8月14日 - 1975年7月6日)は日本の藻類学者である。
山田 幸男(やまだ ゆきお、1900年8月14日 - 197… 山田 幸男(やまだ ゆきお、1900年8月14日 - 1975年7月6日)は日本の藻類学者である。 京都に生まれた。家族と東京に移り、東京府立一中、第一高等学校から東京帝国大学植物科で学んだ。早田文蔵に藻類の研究をすることを薦められ、海草の研究に取り組み、岡村金太郎の指導を受けた。1928年から2年間欧米留学の後、1930年に北海道大学に新たに設立された理学部の教授となった。日本における藻類研究のパイオニアとして働いた。1952年に設立された日本藻類学会の初代会長となり1965年まで会長を務めた。1962年に北海道大学理学部長も務めた。 1960年に北海道新聞文化賞、1964年に北海道文化賞を受賞した。
西田 安逸(にしだ やすいつ、1900年 <明治33年> 8… 西田 安逸(にしだ やすいつ、1900年 <明治33年> 8月13日 - 1970年 <昭和45年> 3月10日)は、日本の経営者。青森銀行頭取を務めた。 青森県出身。1925年に早稲田大学商学部を卒業し、1929年に日本勧業銀行に入行。1954年5月に常任監査役に就任し、同年11月に青森銀行副頭取を経て、1955年2月から1968年11月までに頭取を務めた。 1965年9月に藍綬褒章を受章。 1970年3月10日急性心不全のために死去。69歳没。
大潮 清治郎(おおしお せいじろう、1900年8月11日 -… 大潮 清治郎(おおしお せいじろう、1900年8月11日 - 1979年3月29日)は、福岡県三潴郡(現在の大川市)出身で陸奥部屋に所属した大相撲力士。本名は石橋 清治郎(いしばし せいじろう)。現役時代の体格は身長184cm、体重116kg。得意手は右四つ、寄り。最高位は東関脇。二枚鑑札で年寄・陸奥を襲名。 陸奥部屋に入門、1919年1月場所に初土俵を踏む。入門も遅かったこともあって、昇進もゆっくりで、新十両が1928年3月、新入幕は1932年1月場所で、すでに30歳を超えていた。その新入幕の場所に春秋園事件が起こり、多くの力士が脱退したが、彼は残留し、その結果いきなり東前頭2枚目と幕内上位に進出することになった(事件前の番付は東前頭12枚目だった)。
李 鎮洙(イ・ジンス、朝鮮語: 이진수/李鎭洙、1900年8… 李 鎮洙(イ・ジンス、朝鮮語: 이진수/李鎭洙、1900年8月7日 - 1968年12月9日または12月10日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の計理士、弁理士、教育者、政治家、実業家。朝鮮弁理士会(現・大韓弁理士会)会長、制憲・第2代韓国国会議員。本貫は徳山李氏(朝鮮語版)。 咸鏡南道利原郡出身。北青公立普通学校、京城オソン中学校、日本大学専門部工科専修科、同大商科経済学科卒。京都帝国大学(現・京都大学)経済学・社会学修了。世和堂製薬株式会社代表取締役、世和産業・世和商事・世和土建株式会社代表取締役、朝鮮弁理士会(現・大韓弁理士会)会長、韓国民族代表者大会代議員、総選挙対策委員会委員、財団法人世和学院理事長、ソウル薬学大学理事長、朝鮮雄弁会副会長、国会文教厚生・産業労働分科委員、独立政治経済問題研究所代表者、李儁先生記念事業協会理事、大韓労農党党員、大韓国民党党員、大韓労総委員長、自由党幹部、東洋水産株式会社代表、咸南人会総務部長を務めた。
安東 玉彦(あんどう たまひこ、1900年(明治33年)8月… 安東 玉彦(あんどう たまひこ、1900年(明治33年)8月7日 - 1990年(平成2年)9月19日)は、日本の政治家。大分県大分市長。 大分師範学校、法政大学高等師範部を卒業後、大分師範学校教諭、大分県視学、大分県立竹田高等女学校(現大分県立竹田高等学校)校長、大分県立別府高等女学校(現大分県立別府鶴見丘高等学校)校長を歴任。1947年(昭和22年)に大分市助役となる。 1963年(昭和38年)3月、周辺市町村との合併により新設された新・大分市長に当選。以後、1975年(昭和50年)まで、3期12年にわたり大分市長を務めた。 任期中の12年間は、ちょうど日本の高度成長期にあたった。大分市も、1964年(昭和39年)1月に新産業都市の指定を受けると、沿岸の埋立地に新日本製鐵大分製鐵所や昭和電工大分事業所などの企業が次々に立地して大分臨海工業地帯が形成されるなど、経済的に大きく発展し、人口が急増した時期であった。
青木 重臣(あおき しげとみ、1900年〈明治33年〉8月6… 青木 重臣(あおき しげとみ、1900年〈明治33年〉8月6日 - 1982年〈昭和57年〉4月21日)は、日本の内務・警察官僚、公選初代愛媛県知事(1期)。 長野県更級郡牧郷村(現:長野市)に青木善蔵の三男として生まれる。第二高等学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年、京都帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、石川県警部となる。 以後、麻布警察署長、六本木警察署長、深川警察署長、西平野警察署長、関東局警務課長、同特別高等警察課長、同警察官教習所長、満州国治安部特務科長、福井県書記官・警察部長、内務事務官、厚生省監理課長、情報局第一部第二課長、首相秘書官、内務省監査官、千葉県書記官・警察部長などを経て、福島県内政部長に就任。
内野 信二(うちの しんじ、1900年(明治33年)8月6日… 内野 信二(うちの しんじ、1900年(明治33年)8月6日 - 没年不明)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争中に第二次遣独潜水艦作戦を完遂した伊号第八潜水艦長である。最終階級は海軍大佐。 鹿児島県出身。鹿児島二中を経て海軍兵学校49期を卒業。皇族2名を除いた席次は174名中29番。同期に原為一、長澤浩、鹿岡円平などがいる。1922年(大正13年)5月海軍少尉に任官した。中尉時代に5艦の呂号潜水艦に乗艦し、大尉進級。水雷学校高等科へ進み、さらに同専攻科を卒業。伊号潜水艦水雷長、潜水学校教官を務め、1933年(昭和8年)11月、少佐へ進級。以後潜水学校甲種学生(潜水艦長養成過程)をはさみ5艦の潜水艦長を歴任。
平井 蒼太(ひらい そうた、1900年8月5日 - 1971… 平井 蒼太(ひらい そうた、1900年8月5日 - 1971年7月2日)は愛知県出身のミステリー作家、豆本作家、性風俗文献蒐集家。薔薇蒼太郎、牡丹耽八、書鬼海二等、多数の変名を持つ。 平井太郎(江戸川乱歩)の次弟として名古屋市に生まれる。本名:平井通。 1917年11月、長兄太郎の鳥羽造船所入社に伴い、末弟敏男と共に鳥羽へ移住。1919年に兄弟で上京。東京市本郷区団子坂にて、長兄太郎や末弟敏男と共に古書店「三人書房」を経営。のち大阪へ移り関西大学専門部経済科を修業。1921年から電気部試験係として大阪電気局に勤務。1931年にカリエスを病み、休職して滋賀県甲賀郡寺庄村(現在の甲賀市)なる妻の実家で静養。
田島 ナビ(たじま ナビ、1900年〈明治33年〉8月4日 … 田島 ナビ(たじま ナビ、1900年〈明治33年〉8月4日 - 2018年〈平成30年〉4月21日)は、日本のスーパーセンテナリアン。鹿児島県喜界町在住の長寿の女性。2017年9月15日以降死去するまで長寿世界一となっていた。また、生年月日に確証のある人物としては世界最後の19世紀生まれの人物となった。 1900年8月4日に鹿児島県大島郡荒木地区の集落で田島家の長女として誕生。喜界島に在住し、尋常小学校を卒業後、織工場で働く。1919年に富二子を婿として迎え、共にサトウキビ農業を80歳頃まで勤めた。富二子は1991年(平成3年)に94歳で亡くなった。富二子の死後は長男夫妻のもとで生活していた。2002年(平成14年)2月に特別養護老人ホーム「喜界園」に入居した。
石見 元秀(いわみ もとひで、1900年(明治33年)8月2… 石見 元秀(いわみ もとひで、1900年(明治33年)8月2日 - 1976年(昭和51年)1月15日)は、日本の政治家。兵庫県姫路市長(5期)。位階は従四位。 子に元姫路市長の石見利勝。 兵庫県飾磨郡余部村(現・姫路市)生まれ。旧制姫路中学校卒業後、城陽尋常高等小学校代用教員を務め、富山県立山の土木工事現場で働いたのち、26歳のときに東京で建設業の会社を設立し、ダム・鉄道工事を請け負った。1933年(昭和8年)、満州に渡り砂利会社の経営を始めるも1936年(昭和11年)に撤退、1938年(昭和13年)に再度満州で森林伐採事業を展開するも戦況の悪化により1943年(昭和18年)に引き揚げを余儀なくされる。
細井 徳次郎(ほそい とくじろう、1900年 <明治33年>… 細井 徳次郎(ほそい とくじろう、1900年 <明治33年> 8月1日 - 1975年 <昭和50年> 6月5日)は、日本の経営者。明治製菓社長を務めた。位階は従四位。 埼玉県出身。1925年に東京商科大学本科を卒業し、同年に明糖産業に入社。1929年に明治製菓に転じ、取締役、常務、専務、副社長を経て、1964年11月に社長に就任。1970年11月に相談役に就任。 1966年5月に藍綬褒章を受章し、1972年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1975年6月5日心臓衰弱のために死去。74歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
金森 乾次(かなもり けんじ、1900年7月31日 - 19… 金森 乾次(かなもり けんじ、1900年7月31日 - 1954年12月8日)は、日本の実業家。近畿日本鉄道の会長を務めた。 父は大阪電気軌道4代目社長(参宮急行電鉄社長兼任)で実質的な創業者の一人である金森又一郎、長男は近畿日本鉄道11代社長の金森茂一郎、次男は大阪大学13代総長の金森順次郎。 大阪府大阪市出身。1921年に東京帝国大学を卒業した後に日本染料製造で技師として務め、1935年に大阪電気軌道に入社。1937年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1944年に副社長に就任したが、公職追放を受け、辞任。 公職追放解除を受け、1951年5月に会長として復帰。帝塚山学園理事も務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。