矢追 秀武(やおい ひでたけ、1894年10月11日 - 1… 矢追 秀武(やおい ひでたけ、1894年10月11日 - 1970年9月23日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の細菌・ウイルス学者。東京帝国大学教授、国立予防衛生研究所部長、横浜医科大学(現:横浜市立大学)細菌学教授(1951年-1961年)、神奈川歯科大学教授を歴任。精製痘苗の精製(矢追抗原、PVL, Purified vaccine lymph)、溶連菌毒素のトキソイド化の研究で知られる。 1894年(明治27年)、奈良県高畑町番外1番地(菩提町1番地)で生まれた。1920年12月、東京帝国大学医学部を卒業。 同大学衛生学教室に研究生として入室。翌年、副手、助手になった。酸類の細菌に及ぼす影響を研究した。
由比 忠之進(ゆい(正しくは、ゆび[要出典]) ちゅうのしん… 由比 忠之進(ゆい(正しくは、ゆび[要出典]) ちゅうのしん、1894年(明治27年)10月11日 - 1967年(昭和42年)11月12日)は、日本の弁理士、日本エスペラント学会会員のエスペランティスト、反戦運動家。福岡県志摩郡前原村(現・糸島市)生まれ。 1919年(大正8年)、当時蔵前にあった東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業。 労働運動に共感し学歴を隠して沖電気の職工として就職するが、入営に前後して学歴が判明したため失業、1920年(大正9年)小学校教諭と結婚し、特許事務所で外国の特許の翻訳に従事した。1921年(大正10年)頃からエスペラント語を学び始める。 1924年(大正13年)に東京職業補導所に入り木工技術を習得し、同級生の資金援助で家具屋を開業したが、身体の不調から家具屋をやめ、その後名古屋放送局に勤務した。
小沢 愍昌(おざわ みんしょう、1894年(明治27年)10… 小沢 愍昌(おざわ みんしょう、1894年(明治27年)10月11日 - 2004年(平成16年)7月12日)は、日本の僧。山梨県出身。2004年5月20日より死去するまで男性としての日本国内最高齢者だった。 山梨県御坂町生まれ。1917年に山梨市の浄土宗光雲寺の住職となり、1978年まで務めた。 2004年7月、肺炎のため山梨市の病院で死去。109歳と275日。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
上村 六郎(うえむら ろくろう、1894年10月10日 - … 上村 六郎(うえむら ろくろう、1894年10月10日 - 1991年10月29日)は、染織文化研究者。 新潟県刈羽郡生まれ。号は元人(げんじん、もとんど)。京都高等工芸学校染色学卒。京都帝国大学工学部工業化学科卒、同大助手。関西学院大学理工科講師、武庫川女子大学教授、1950年大阪学芸大学教授。58年定年退官、同年「上代文学に現れた色名・色彩並に染色の研究」で京都大学理学博士。県立新潟女子短期大学教授、新潟青陵女子短期大学初代学長、四天王寺女子大学教授、日本染織学園園長を兼任。旭川市の優佳良織(ゆうからおり)工芸館内国際染織美術館館長。 日本の古代染織を研究し、宮内庁の委嘱により正倉院御物裂の調査に当たる。
古茂田 甲午郎(こもだ こうごろう、1894年(明治27年)… 古茂田 甲午郎(こもだ こうごろう、1894年(明治27年)10月9日 - 1982年(昭和57年)6月27日)は、日本の建築家。 大正8年(1919年)に文部省入省後、営繕技師として勤務していたが、関東大震災後の大正13年(1924年)に大学時代の恩師である佐野利器に請われて東京市に転じた。その後は東京市の学校建築に関する責任者として勤務し、特に復興小学校の実務により「当時の学校建築の権威」と評された。 茨城県出身。第一高等学校及び東京帝国大学卒業後、文部省に入省した。
国崎 定洞(くにざき ていどう、1894年(明治27年)10… 国崎 定洞(くにざき ていどう、1894年(明治27年)10月5日 - 1937年(昭和12年)12月10日)は、日本の衛生学者・共産主義者・社会主義者。社会衛生学の創始者。ドイツで日本人の社会主義者グループを組織して、ドイツ共産党日本語部を結成した。しかしソビエト連邦移住後に大粛清により処刑された。 1894年に熊本県熊本市に生まれる。父の宗英は医師で、村医をしていた対馬で育った。13歳で単身、姉の嫁ぎ先である埼玉県川越町(現・川越市)の田中家に移り寄宿して川越高等小学校、川越中学校(現・埼玉県立川越高等学校)を卒業。さらに第一高等学校第3部(英語組)を卒業。一高では常に3番以内の成績だったという。
金 庚培(キム・ギョンベ、朝鮮語: 김경배、1894年10月… 金 庚培(キム・ギョンベ、朝鮮語: 김경배、1894年10月5日または1895年 - 1965年4月17日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。制憲、2代韓国国会議員。 李氏朝鮮黄海道延白郡(現・朝鮮民主主義人民共和国黄海南道)または黄海北道生まれ。平壌大城中学校卒業、駒澤大学専門部政治科修了。駒澤大学在学中に三・一運動に参加したため、後は投獄された。1927年、満州で大韓独立党に加入し、義成団副団長を務めた後、朝鮮に潜入し地下活動を行ったが、九月山事件で再び逮捕され、2年間服役した。解放後は延白面長、延白郡守、延白水利組合長を務めた。1948年の初代総選挙と1950年の第2代総選挙では延白郡甲選挙区から出馬し当選したほか、憲法起草委員、反民族行為特別調査委員会委員長を歴任した。
鮎沢 巌(あゆさわ いわお、1894年10月5日 - 197… 鮎沢 巌(あゆさわ いわお、1894年10月5日 - 1972年11月30日)は、元・国際労働機関(ILO)職員。国際基督教大学名誉教授。 茨城県久慈郡太田町(現・常陸太田市)で元水戸藩士の次男として生まれた。芝中学校在学中に安部磯雄のユニテリアン教会や社会主義協会に足を運び、その社会改良思想に影響を受けた。1911年芝中学校を卒業。フレンド平和奨学会(Friend Peace Scholarships)の奨学生としてアメリカ合衆国に留学。ハワイの中央太平洋学院(ハイスクール)、ホイットマンカレッジを経て、1915年ハバフォード大学に入学。社会学と社会事業(特に社会問題と労働問題)を学ぶ。1917年ハバフォード大学を卒業。
田村 秢(たむら みのる、1894年〈明治27年〉10月3日… 田村 秢(たむら みのる、1894年〈明治27年〉10月3日 - 1991年〈平成3年〉11月19日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(当選1回)。ZTV代表取締役社長田村憲司、衆議院議長田村元の父。自由民主党衆議院議員田村憲久の祖父。TBSテレビアナウンサーの田村真子は曽孫にあたる。 三重県宇治山田市岩淵町(現・伊勢市)出身。 宇治山田中学(旧三重県立第四中学校)を1912年に卒業し、金沢の第四高等学校を経て、1917年、東京帝国大学に入学。1921年、東京帝国大学法学部独法科を卒業。 松阪市で弁護士を開業した。後に三重県弁護士会会長を3期務め、日本弁護士会連合会理事を務めた。 三重県会議員、同議長を経て、1942年の第21回衆議院議員総選挙で三重2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する(いわゆる「翼賛候補」)。
上条 愛一(上條、かみじょう あいいち、1894年(明治27… 上条 愛一(上條、かみじょう あいいち、1894年(明治27年)10月2日 - 1969年(昭和44年)2月18日)は、日本の労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 長野県東筑摩郡今井村(現:松本市)で生まれた。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)卒業後、代用教員を経て、1920年、早稲田大学政治経済科を卒業。同年、読売新聞社に記者として入社した。 1920年、大日本労働総同盟友愛会東京連合会書記に就任。1925年、第7回国際労働総会に日本労働代表随員として渡欧した。その後、日本労農党、日本労働組合同盟の結成に参画し、1936年、日本労働組合会議書記長に就任した。 戦後、日本社会党に入党し、日本労働組合総同盟(総同盟)全繊同盟総主事、総同盟副会長、中央労働委員会労働者側委員、全繊同盟政治顧問などを歴任した。
大野 竹二(おおの たけじ、1894年(明治27年)10月1… 大野 竹二(おおの たけじ、1894年(明治27年)10月1日 - 1976年(昭和51年)12月18日)は、日本海軍の軍人。戦艦「大和」第4代艦長。最終階級は海軍少将。 伊集院五郎海軍大将の二男として東京で生まれ、大野義方海軍大佐の養子となる。 東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を1912年に卒業後、1916年11月、海軍兵学校(44期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。英国私費留学(オックスフォード大学)、「秋風」「高崎」の各航海長などを経て、1928年12月、海軍大学校(甲種26期)を卒業。 「神通」航海長、第2遣外艦隊参謀、軍令部第2班第3課・第1班第1課の各参謀、第3艦隊参謀、第1遣外艦隊参謀、第11戦隊参謀、軍令部第1部第2課・第3部第7課・第3部第8課の各部員、支那方面艦隊司令部付などを歴任し、1938年11月、海軍大佐に進級。
酒井 朝彦(さかい あさひこ、1894年10月1日 - 19… 酒井 朝彦(さかい あさひこ、1894年10月1日 - 1969年5月25日)は、日本の児童文学作家。本名・酒井 源一。教師、編集者をへて創作に専念。1961から1962年、第5代日本児童文学者協会会長。 長野県下伊那郡竜丘村(現飯田市)の母の実家に生まれ、1900年、5歳の時に父に死別し木曽の定勝寺に預けられた。小学校卒業後上京し、旧制東京中学を経て早稲田大学英文科に進む。1920年に卒業。その後、働きながら小川未明のネオ・ロマンチィズムに傾倒し童話を書き始める。1924年、未明の推薦により東京朝日新聞に「天に登った蛍」を発表。同年、同人誌『童話時代』を創刊。同誌休刊後、1928年に千葉省三、伊藤貴麿らと同人誌『童話文学』を創刊。
伊藤 與八(いとう よはち、1894年 <明治27年> 10… 伊藤 與八(いとう よはち、1894年 <明治27年> 10月1日 - 1979年 <昭和54年> 4月30日)は、日本の経営者、銀行家。千葉興業銀行頭取を務めた。新潟県出身。位階は従五位。 1924年に慶應義塾大学法学部を卒業。第九十八国立銀行支配人、千葉銀行取締役、常務、千葉興業銀行専務、副頭取を経て、1963年5月には頭取に就任。1969年4月には会長に就任。 1965年に黄綬褒章を受章し、1968年に勲四等瑞宝章を受章。 1979年4月30日に急性肺炎のために死去。84歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
光風 貞太郎(てるかぜ さだたろう、1894年10月1日 -… 光風 貞太郎(てるかぜ さだたろう、1894年10月1日 - 1941年11月24日)は、秋田県由利郡子吉村(現在の由利本荘市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は小番 貞藏。身長178cm、体重94kg。最高位は西小結(1926年1月場所)。得意技は突っ張り、押し、寄り。引退後は年寄待乳山として後進の指導につとめた。四股名の命名者は須藤善一郎。 横綱大砲の待乳山部屋に入門。1914年1月場所に初土俵をふんだ。その後、師匠の死のために出羽海部屋に移籍した。1919年1月に新十両、1922年1月場所に入幕した。突き押し得意であったが、幕内中堅力士として腰を据えていた。1925年が最盛期で、1月場所は8勝2敗、5月場所には大関太刀光を引き落としに破る殊勲の星も含めて7勝3敗1分と連続して勝ち越し、1926年1月場所に小結に昇進した。
山口 重彦(やまぐち しげひこ、1894年(明治27年)9月… 山口 重彦(やまぐち しげひこ、1894年(明治27年)9月30日 - 1965年(昭和40年)10月19日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)、山口自転車社長。 鹿児島県で山口林五郎の長男として生まれる。鹿児島県姶良郡国分村(現霧島市)出身。東京府立工芸学校(現東京都立工芸高等学校)精密機械科を卒業。ダット自動車製造(快進社)に技師として入社。1914年(大正3年)に独立して東京府南葛飾郡吾嬬町(向島区を経て現葛飾区)に山口自転車工場を設立し、同社取締役社長に就任。その他、東京自転車工業組合理事、東京市少年職業委員、全国自転車業組合連合会評議員、東京市工業指導所評議員、協調会中小企業講座講師、厚生省労務管理調査委員、日本自転車工業会顧問などを務めた。
日下 晃次郎(くさか こうじろう、1894年〈明治27年〉9… 日下 晃次郎(くさか こうじろう、1894年〈明治27年〉9月30日 - 没年不明)は、日本の実業家、広島県多額納税者。廣島證券商事社長。斎藤商店取締役。 広島県賀茂郡三津町(現・東広島市安芸津町三津)出身。酒造業・日下賛三の二男。広島県立広島第一中学校卒業。1921年、慶應義塾大学部理財科卒業。広島産業銀行員となる。1925年、家督を相続した。農業を営んだ。三津酒造専務取締役に就任した。 1930年、加奈陀サン生命保険に入り、広島支部長を務めた。廣島證券商事取締役、同社長を務めた。住友生命保険会社に勤務した。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。処世の信条は協力一致。趣味はスポーツ、読書、運動。
後藤 耕造(ごとう こうぞう、1894年(明治27年)9月3… 後藤 耕造(ごとう こうぞう、1894年(明治27年)9月30日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。住宅営団理事。 愛知県出身。1919年(大正8年)、高等試験に合格し、翌年に京都帝国大学法学部英法科を卒業した。千葉県属、同警視、和歌山県理事官、同事務官、新潟県事務官、石川県書記官・学務部長、北海道庁学務部長、佐賀県書記官・警察部長を歴任。1939年(昭和14年)より三重県書記官・総務部長、広島県書記官・総務部長、北海道庁総務部長を務めた。 1941年(昭和16年)に退官した後は、住宅営団理事・大阪支所長となった。 戦後は京都市助役を務めた。
三代目 市川 莚升(いちかわ えんしょう、1894年(明治2… 三代目 市川 莚升(いちかわ えんしょう、1894年(明治27年)9月29日 - 1947年(昭和22年)5月10日)は、明治・大正・昭和時代の歌舞伎役者。屋号は高島屋。本名は高橋 道之助(たかはし みちのすけ)。 東京新富町生まれ。初代市川左團次の次男。長男の二代目市川左團次の異母弟。1898年(明治31年)二代目市川ぼたんとして初舞台をふみ、1915年(大正4年)に三代目市川莚升を襲名した。実兄二代目市川左團次につき、脇役を務め、女形の義兄二代目市川松蔦と共に、二代目左團次の演劇革新運動を援けた。当たり役は「太功記」十段目の十次郎、「吃又」の修理之助など。 近年、書籍、インターネットなどで、二代目市川左團次を初代市川左團次の一人息子とし、三代目市川莚升を初代左團次の養子とする記録が多々散見されるが、高橋家の戸籍原簿に拠れば、これは全くの誤謬である。
衛藤 速(衞藤、えとう はやし、1894年(明治27年)9月… 衛藤 速(衞藤、えとう はやし、1894年(明治27年)9月27日 - 1964年(昭和39年)12月21日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。 大分県宇佐郡竜王村野山(深見村、安心院町を経て現宇佐市)で生まれる。小学校を卒業。若年で中国に渡り、その後、沖縄、京阪神を遍歴した。福岡県田川郡川崎村(現川崎町)で炭鉱夫として働く。昭和の初めに川崎町で東豊炭鉱を経営。以後、田川商工会議所副会頭、大進鉱業代表取締役、耶彦新聞名誉社長、衛藤商事社長、衛藤鉱業社長、文珠岳炭礦社長(佐世保市)、東豊商事社長などを務めた。戦後の復興と朝鮮特需で1951年(昭和26年)には長者番付1位となった。 政界では川崎町会議員を務めた。
大江 俊明(おおえ としあき、1894年〈明治27年〉9月2… 大江 俊明(おおえ としあき、1894年〈明治27年〉9月27日 - 1954年〈昭和29年〉4月10日)は、日本の実業家、政治家。昭和前期の福岡県築上郡八屋町(現在の豊前市)の名士。築上新聞および築上産業新聞の創刊者。株式会社大江印刷所社長。 父は美濃派俳諧の流れを汲む逸茂庵派四世の大江壽太郎。子供は1男2女あり、長男は大江俊信。曾孫が元テレビ東京アナウンサーの大江麻理子である。 「社会の先駆者」(築上新聞発刊の辞より)たる気概で築上新聞および築上産業新聞を創刊し、20数年にわたり自ら健筆を振るった。また、25歳頃より求菩提山の研究と復興開発を志し、そのため自ら将棋、囲碁、観劇を禁じて生涯尽力した。
大亦 観風(おおまた かんぷう、1894年(明治27年)9月… 大亦 観風(おおまた かんぷう、1894年(明治27年)9月27日 - 1947年(昭和22年)10月22日)は、日本画家、南画家、歌人。本名は新治郎(しんじろう)。和歌山県和歌山市出身。はじめ洋画を学び、のち日本画に転向。寺崎広業、のちに小室翠雲に師事。大東南宗院の設立に参加。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
高橋 円三郎(圓三郎、たかはし えんざぶろう、1894年(明… 高橋 円三郎(圓三郎、たかはし えんざぶろう、1894年(明治27年)9月26日 - 1956年(昭和31年)6月4日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 島根県神門郡今市町(簸川郡今市町を経て現:出雲市)に父・徳助の長男として生まれる。1920年(大正9年)早稲田大学大学部政治経済学科を卒業後、山下汽船に入社。その後、報知新聞記者、東京朝日新聞記者を務めた。 政界を志し法制局事務嘱託に就任。1937年(昭和12年)第20回衆議院議員総選挙に立憲政友会から立候補し当選。農林大臣秘書官、日本大豆統制常任監査役を務めた。1940年(昭和15年)帝国油糧統制筆頭理事、太陽商社取締役となる。1946年(昭和21年)山陰日日新聞社長に就任。
冨永 格五郎(とみなが かくごろう、1894年9月23日 -… 冨永 格五郎(とみなが かくごろう、1894年9月23日 - 1954年9月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 北海道出身。1915年旧制函館中学校(現・北海道函館中部高等学校)卒。函館市議、北海道議を経て、北海商報社代表取締役、函館水産物、巴冷蔵各(株)社長などを務める。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で北海道1区(大選挙区制)から立候補するが落選。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において北海道3区から立候補して初当選。1949年の第24回衆議院議員総選挙では民主自由党公認で立候補して当選した。この間衆議院水産委員長や民主自由党総務を歴任した。1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して落選。
中越 義幸(なかごし / なかごえ よしゆき、1894年(明… 中越 義幸(なかごし / なかごえ よしゆき、1894年(明治27年)9月23日 - 1978年(昭和53年)3月1日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、高知県高岡郡檮原村長、同東津野村長。位階は従五位。 高知県高岡郡西津野村越知面(檮原村を経て現檮原町)で、中越義隆、光子の二男として生まれる。1915年(大正4年)高知県立農林学校(現高知県立高知農業高等学校)を卒業。1921年(大正10年)家督を相続した。農業を営む。 檮原村農会技手に就任。その後青年学校教員となる。檮原村産業組合理事、檮原村信用組合長、高岡郡畜産組合長、高岡郡教育会長、檮原村警防団長、高知県椎茸組合長、高知県森林組合連合会常務理事、同副会長、同県大政翼賛会組織部長、同会事務局長などを務めた。
張 沢相(チャン・テクサン、1893年10月22日 - 19… 張 沢相(チャン・テクサン、1893年10月22日 - 1969年8月1日)は、大韓民国の政治家、独立運動家。字は致雨(チウ、치우)。号は滄浪(チャンナン、창랑)。 朝鮮時代の学者の張顕光(朝鮮語版)の直系の子孫である。朝鮮末期の慶尚道観察使の張承遠(朝鮮語版)は父、教育者・歴史学者の張炳恵(朝鮮語版)は娘。元奎章閣直閣の張吉相(朝鮮語版)、元善山郡郡守の張稷相(朝鮮語版)は兄。 慶尚北道漆谷郡北三面呉太洞(現・亀尾市呉太洞)に生まれる。本貫は仁同張氏。15歳で日本へ渡り、1909年に早稲田大学へ入学したが、同年10月に起きた安重根による伊藤博文暗殺事件を受けて、翌1910年に中国・上海へ亡命し、独立運動に身を投じることとなる。
大泉 黒石(おおいずみ こくせき、1893年(明治26年)1… 大泉 黒石(おおいずみ こくせき、1893年(明治26年)10月21日/1894年(明治27年)7月27日 - 1957年(昭和32年)10月26日)は日本の作家、ロシア文学者。自称「国際的の居候」。アナキスト的思想を盛り込んだ小説『老子』『人間廃業』などのベストセラーがある。 長崎県八幡町(現在の長崎市)八幡神社境内にて、ロシア人アレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチと日本人本山恵子の間に生まれる。日本名、大泉 清。ロシア名アレクサンドル・ステパノヴィチ・キヨスキー。 父はロシアの農家の出でペテルブルク大学出身の法学博士。天津の領事館に勤務していたが、ロシア皇太子時代のニコライ2世の侍従として来日した折、日本側の接待役でロシア文学研究家だった恵子と知り合い、周囲の反対を押し切って結ばれた。
木原 均(きはら ひとし、1893年10月21日 - 198… 木原 均(きはら ひとし、1893年10月21日 - 1986年7月27日)は、日本の遺伝学者。京都大学名誉教授。元国立遺伝学研究所所長。理学博士(京都帝国大学、1924年)。
津雲 国利(津雲 國利、つくも くにとし、1893年〈明治2… 津雲 国利(津雲 國利、つくも くにとし、1893年〈明治26年〉10月18日 - 1972年〈昭和47年〉1月4日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(当選8回)。拓務政務次官、政友会幹事、翼賛政治会常任総務などを歴任。 東京府西多摩郡青梅町上町(現・東京都青梅市)出身。津雲仙太郎の二男。津雲孝の弟。 旧制東京府立第二中学校(現・東京都立立川高等学校)卒業。安田銀行員養成所修業。安田銀行、古河銀行に勤務した。古河銀行宇都宮支店長をつとめた。 宇都宮市に於いて新聞経営に従事した。下野銀行相談役、下野新聞社顧問、下野日日新聞社顧問などを歴任した。1922年(大正11年)に分家し、一家を創立する。
山口 蓬春(やまぐち ほうしゅん、1893年10月15日 -… 山口 蓬春(やまぐち ほうしゅん、1893年10月15日 - 1971年5月31日)は、大正時代から昭和時代後期にかけて活躍した日本画家。本名、三郎(さぶろう)。文化勲章受章者。 同項目の多くは後述する「山口蓬春記念館」公式サイト内の「年譜」による。 北海道松前郡松城町(現・松前町)生まれ。日本銀行員だった父の転任に伴って松前や札幌に住んだ後、1913年(大正2年)に東京府(現東京都)高輪中学校を卒業後、1年間の志願兵として帝国陸軍に従軍した後に除隊し、1915年(大正4年)に東京美術学校(現東京芸術大学)に進学。当初は西洋画学科だったが、1918年(大正7年)に中途退学の上で日本画学科へ再入学し、松岡映丘に師事し、大和絵を習得した。
伊礼 肇(伊禮 肇、いれい / いれ はじめ、1893年(明… 伊礼 肇(伊禮 肇、いれい / いれ はじめ、1893年(明治26年)10月15日 - 1976年(昭和51年)6月7日)は、沖縄県出身の日本の弁護士、政治家。衆議院議員。 沖縄県中頭郡北谷村(現北谷町)字北谷で、農家・伊礼昆正の三男として生まれる。沖縄県立第一中学校から第七高等学校造士館に進学し、1916年に同校理科を卒業。京都帝国大学法学部法律学科(独法)に進学し、1919年7月に卒業した。 同年に帰郷して沖縄県属となり地方課に配属。要請を受け1920年8月に北谷村長に就任。村政改革を進めたが保守勢力との対立を引き起こした。1923年11月に村長を辞して那覇に法律事務所を開設。1924年5月の第15回衆議院議員総選挙に憲政会の公認を受けて沖縄県から出馬したが落選。
等々力 巳吉(とどりき みよし、1893年(明治26年)10… 等々力 巳吉(とどりき みよし、1893年(明治26年)10月15日 - 1959年(昭和34年)6月7日)は、日本の洋画家。 長野県南安曇郡柏原村(現・安曇野市)に生まれる。高等小学校を卒業後、豊科や堀金の小学校で代用教員となり、本科正教員となった後も、教育に専念する傍ら画業の研鑽を積む。昭和3年(1928年)教師を休職し、シベリア鉄道経由でパリに3年間留学し、アカデミー・ランソン(英語版)に入学、オトン・フリエスに師事し、ダゲール街(英語版)で西洋画を学ぶ。昭和5年(1930年)1月、スイス・イタリアを歴遊して帰国後、二科展で「ヴェニスの船着場」が初入選する。昭和8年(1933年)、東京市郊外の練馬にアトリエを構える。
小菅 宇一郎(こすが ういちろう、1893年10月14日 -… 小菅 宇一郎(こすが ういちろう、1893年10月14日 - 1968年2月14日)は、日本の経営者。滋賀県犬上郡多賀町出身。 1912年に八幡商業学校を卒業。伊藤糸店での勤務を経て、1925年に伊藤忠商事名古屋支店長に就任した。1933年12月に取締役に就任し、1949年12月に社長に昇格した。 1958年に藍綬褒章を受章し、1964年に産業功労賞を受賞し、1965年に勲三等旭日中綬章を受章した。 1968年2月14日脳溢血のために死去。74歳没。
今井 五六(いまい ごろく、1893年〈明治26年〉10月1… 今井 五六(いまい ごろく、1893年〈明治26年〉10月14日 - 1969年〈昭和44年〉10月31日)は、日本の実業家、政治家、教育者。 片倉製糸紡績株式会社取締役、財団法人片倉学園理事長、片倉磐城製糸株式会社代表取締役、昭和興業株式会社取締役、株式会社美篶商会取締役、日東紡績株式会社取締役、長崎製糸株式会社取締役、昭和絹靴下株式会社取締役、片倉米穀肥料株式会社取締役、東邦石油株式会社取締役、富国火災海上保険株式会社監査役、極東化学工業所社長(初代)、片倉合名会社出資社員、埼玉県大宮市長(初代・第4代)、片倉工業株式会社取締役、東亜ゴム工業株式会社社長(第2代)、トーテックス株式会社社長(初代)などを歴任した。
山本 倉丘(やまもと そうきゅう、1893年〈明治26年〉1… 山本 倉丘(やまもと そうきゅう、1893年〈明治26年〉10月12日 - 1993年〈平成5年〉9月5日)は、日本の日本画家。高知県幡多郡出身。本名は伝三郎。 四条派の伝統の上に近代的な様式を加えた花鳥画で知られ京都画壇の重鎮であった。 1893年2月17日、高知県幡多郡に生まれる。 1918年山元春挙(早苗会)に師事、1926年、京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)在学中に「麗日」が第7回帝展入選。1933年同校選科修了。同年、「菜園の黎明」が第14回帝展特選。 山元春挙没後の1939年、堂本印象(東丘社)に師事。 戦後は日展に出品を続けたほか、東丘社展・京展・関西展等で活躍。1958年の社団法人日展発足時に日展評議員就任。
長尾 秀太郎(ながお ひでたろう、1893年(明治26年)1… 長尾 秀太郎(ながお ひでたろう、1893年(明治26年)10月11日 - 1948年(昭和23年)6月24日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 香川県鵜足郡宇多津村(現在の綾歌郡宇多津町)出身。香川商業学校を経て、1920年(大正9年)、早稲田大学専門部法律科を卒業した。弁護士を開業し、高松弁護士会副会長、同会長を歴任した。香川県会議員、同参事会員に選出された。 1936年(昭和11年)7月、衆議院補欠選挙で当選を果たした。
黒島 亀人(くろしま かめと、1893年(明治26年)10月… 黒島 亀人(くろしま かめと、1893年(明治26年)10月10日 - 1965年(昭和40年)10月20日)は、日本の海軍軍人。海兵44期卒業。最終階級は海軍少将。
冨田 ふさ(とみた ふさ、1893年(明治26年)10月10… 冨田 ふさ(とみた ふさ、1893年(明治26年)10月10日 – 1954年(昭和29年)7月19日)は、日本の医師。政治家、衆議院議員(1期)。旧姓は不明。 1893年、福井県吉田郡松岡町(現・永平寺町)に生まれる。東京女医学校(現・東京女子医科大学)を卒業し、産婦人科医となる。京都帝国大学病院に勤務し、医師の冨田精と結婚する。1922年に夫とともに京都市で「冨田医院」を開業する。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で京都府から女子自由党公認で立候補して3位で当選した。選挙後、選挙期間中に戸別訪問したことが選挙違反に問われ、裁判所から罰金500円の有罪判決を受けた。翌年の第23回衆議院議員総選挙で民主党公認で京都1区から立候補したが落選した。
大室 亮一(おおむろ りょういち、1893年〈明治26年〉1… 大室 亮一(おおむろ りょういち、1893年〈明治26年〉10月6日 - 1987年〈昭和62年〉10月16日)は日本の弁護士。第二東京弁護士会会長、A級戦犯松井石根の補佐弁護人。第二次世界大戦後に法務庁(現:法務省)の初代人権擁護局局長を務めた。日弁連副会長、国際法曹協会会長などを歴任。岡山県笠岡市出身。 1893年(明治26年)岡山県浅口郡大島村(現:笠岡市)に生まれる。1907年、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)に入学した。同期には、京大医学部名誉教授となる井上硬や、キリスト教伝導師の松田壽比古がいた。同校を卒業し、1912年(大正元年)第六高等学校文科甲類に進学、その後、1914年(大正3年)に同校卒業、同年に東京帝国大学法科大学へ進学した。
村田 孝生(むらた たかお/たかいき、1893年10月6日 … 村田 孝生(むらた たかお/たかいき、1893年10月6日 - 1953年4月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
北島 謙次郎(きたじま けんじろう、1893年(明治26年)… 北島 謙次郎(きたじま けんじろう、1893年(明治26年)10月5日 – 1957年(昭和32年)11月24日)は、南洋庁長官、拓務次官。 佐賀県出身。佐賀県立佐賀中学校、第五高等学校を経て、1917年(大正6年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。高等文官試験に合格して、大蔵省銀行局に勤務し、のち福島税務署長に就任した。1919年(大正8年)、拓殖局書記官に任ぜられ、拓務省が設置されると拓殖省書記官に任ぜられた。文書課長、管理局第一課長などを経て、1932年(昭和7年)より殖産局長を務めた。 1936年(昭和11年)に南洋庁長官に任ぜられ、1940年(昭和15年)4月までその職にあった。同年10月に拓務次官に就任し、退官後は陸軍軍政顧問を務めた。
岡村 新市(おかむら しんいち、1893年10月5日 - 1… 岡村 新市(おかむら しんいち、1893年10月5日 - 1977年1月11日)は、日本の経営者。大和証券社長を務めた。 岡山県出身。第六高等学校 (旧制)卒。1921年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に藤本ビルブローカー銀行に入社。1943年2月に大和証券取締役に就任し、常務、専務を経て、1953年11月には社長に就任。1957年11月から1959年12月までに会長を務めた。 1966年9月に黄綬褒章を受章。1977年1月11日、心不全のために死去。83歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
平沢 長吉(平澤、ひらさわ ちょうきち、1893年(明治26… 平沢 長吉(平澤、ひらさわ ちょうきち、1893年(明治26年)10月5日 - 1960年(昭和35年)6月14日)は、大正・昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 秋田県南秋田郡土崎港町本山町(現秋田市土崎港中央)で、平沢喜一郎の長男として生まれる。1915年(大正4年)東京帝国大学農科大学実科を卒業した。 木材業を営み、出羽林業を設立して取締役に就任。土崎木材商業組合長、秋田県木材業統制組合理事長、同森林組合連合会副会長、同木材業林産組合長、秋田合同運送社長、三協木材社長、東北興業監事などを務めた。 政界では、土崎港町会議員、秋田市会議員、秋田県会議員、同参事会員、同議長を務めた。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で秋田県第1区から秋田県民主党公認で出馬して初当選。
司 忠(つかさ ただし、1893年〈明治26年〉10月5日 … 司 忠(つかさ ただし、1893年〈明治26年〉10月5日 - 1986年〈昭和61年〉5月1日)は、愛知県渥美郡豊橋町八町(現・豊橋市八町通3丁目)出身の実業家。丸善社長・会長。 丸善社長就任時にはワンマン独裁を宣言し、洋書部門の再建や著作権法改正に尽力した。国外に流出していた西洋絵画の松方コレクションの返還交渉にも関与している。 1893年(明治26年)10月5日、愛知県渥美郡豊橋町八町(現・豊橋市八町通3丁目)にある安久美神戸神明社の家に生まれた。1906年(明治39年)9月に高浜尋常高等小学校を退学すると、13歳で書籍商の丸善株式会社に見習生として入社した。 1922年(大正11年)5月10日に結婚している。
加藤 セチ(かとう せち、明治26年(1893年)10月2日… 加藤 セチ(かとう せち、明治26年(1893年)10月2日 - 平成元年(1989年)3月29日)は、日本の化学者。理学博士。日本の女性科学者の草分けの一人。元理化学研究所主任研究員。上野学園大学名誉教授。山形県東田川郡三川町名誉町民。
宮本 正尊(みやもと しょうそん、1893年10月1日 - … 宮本 正尊(みやもと しょうそん、1893年10月1日 - 1983年11月30日)は、仏教学者。号は「香雪」。 1893年(明治26年)、新潟県で生まれた。大谷大学で学び、1918年(大正7年)に卒業。東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科で学び、1921年(大正10年)に卒業。1924年(大正13年)にオックスフォード大学大学院に留学し、1928年(昭和3年)に帰国。1929年(昭和4年)にPh.D.を取得した。 1928年(昭和3年)に帰国し、東京帝国大学助教授に就いた。1942年(昭和17年)に教授昇格。同年、学位論文『中道思想及びその発達』を東京帝大に提出して文学博士号を取得。 戦後の1949年(昭和24年)からは名称変更に伴い東京大学文学部教授。
榑林 皓堂(くればやし こうどう、1893年10月1日 - … 榑林 皓堂(くればやし こうどう、1893年10月1日 - 1988年1月6日)は、日本の曹洞宗の僧侶、仏教学者、駒澤大学総長。 1893年に静岡県榛原郡菅山村(現牧之原市)の華厳院、榑林拡道の長男として生まれる。 1915年、曹洞宗大学林(現、駒澤大学)を卒業し、永平寺で丘宗潭について修行。1918年から1921年には岸沢惟安について修行。 1927年に駒澤大学助手に就任、講師、助教授を経て教授、仏教学部長に。1958年に『道元禅の研究』で駒澤大学文学博士。1968年から75年に駒澤大学総長。76年に名誉教授。73年に曹洞宗権大教正に補任。
成田 努(なりた つとむ、1893年9月26日 - 1975… 成田 努(なりた つとむ、1893年9月26日 - 1975年1月7日)は、日本の経営者。新東京国際空港公団総裁を務めた。 東京都出身。1914年に東亜同文書院大学商務学科を卒業。中国貿易で活躍し、1934年に満州国建国に携わり、1936年に東洋パルプ専務、1939年に日本米穀副理事長を経て、その後は全国米穀商組合連合会理事長、朝鮮食糧営団理事長、中央食糧営団総裁、全国米穀小売組合連合会会長などを歴任。戦後は、1955年に農地開発機械公団理事長、1961年10月に愛知用水公団理事長を経て、1966年7月から1967年10月までに新東京国際空港公団総裁を務めた。 1975年1月7日、心臓衰弱のために死去。
笹川 恭三郎(ささがわ きょうざぶろう、1893年(明治26… 笹川 恭三郎(ささがわ きょうざぶろう、1893年(明治26年)9月26日 - 1990年(平成2年)9月8日[要出典])は、日本の内務官僚、拓務官僚、朝鮮総督府官僚。 新潟県西蒲原郡四ツ合村(現在の新潟市西蒲区)出身。第一高等学校を経て、1917年(大正6年)に東京帝国大学工科大学土木科を卒業。さらに東京帝国大学法学部政治科に学んで、1920年(大正9年)に卒業した。内務省土木局勤務、静岡県安倍郡長、静岡県理事官、内閣拓殖局書記官、拓務書記官、拓務省管理局第二課長、同第一課長、同地方課長、拓務局奨励課長、大臣官房文書課長、朝鮮総督府咸鏡南道知事を歴任した。 1940年(昭和15年)に退官した後は、北鮮合同電気株式会社社長を務めた。
斎藤 佐次郎(さいとう さじろう、1893年(明治26年)9… 斎藤 佐次郎(さいとう さじろう、1893年(明治26年)9月26日-1983年(昭和58年)12月11日)は、出版社金の星社の創業者。児童雑誌『金の船』(後『金の星』と改題)主宰者。 1893年(明治26年)父佐次郎(佐次郎と同名)の5男として生まれる。父親は人力車の防水幌や雨合羽の防水加工で財を成した。佐次郎が成人する前に両親と死別するが、父親の遺産により裕福な青年時代を送る。早稲田大学英文科卒業。在学中には坪内逍遥や島村抱月らの指導を受け、文学への道を志す。 1918年(大正7年)鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊したのに触発され、出版社キンノツノ社社長横山寿篤と児童雑誌創刊を決意。島崎藤村、若山牧水、西條八十、有島生馬らの賛同を得、さらに西條八十から野口雨情の紹介を受け、1919年(大正8年)11月、児童雑誌『金の船』を創刊、自ら執筆にも関わる。
田村 栄太郎(たむら えいたろう、1893年〈明治26年〉9… 田村 栄太郎(たむら えいたろう、1893年〈明治26年〉9月25日 - 1969年〈昭和44年〉11月29日)は、日本の歴史研究家。在野の学者という立場を貫き、学会の官僚主義やエリート意識を批判した。遊廓街で育ったことから幼少時から遊女らと交渉を持った。風俗関係に関する研究で知られ、数多くの著書を出した。 1893年(明治26年) 群馬県高崎市嘉多町に生まれる。生家は人力車宿・履物屋を営んでいた。高崎尋常小学校を経て、高崎商業学校に学ぶ。病気のため同校を卒業間際に中退し、その後上京して明治薬学校(現・明治薬科大学)に入るがほどなく中退する。台湾に渡り、漢方薬の研究をするがほどなく帰国。 郷里で農民運動に参加、建設者同盟にも加わる。