小澤 國平(おざわ くにへい、1893年1月17日 - 19… 小澤 國平(おざわ くにへい、1893年1月17日 - 1980年2月12日)は、日本の郷土史家、考古学者、教員。 埼玉県児玉郡長幡村(現上里町)の立石半五郎の三男として生まれる。1913年埼玉県師範学校師範学科第一部卒業。師範学校に訓導として勤務。1917年、文部省から「博物ノ内植物」の「師範学校、中等学校、高等女学校教員免許状」を授与され、1918年埼玉県立熊谷高等女学校教諭。1920年には「博物科ノ内動物及生理」の「師範学校、中学校、高等女学校教員免許状」を授与される 。1947年熊谷市立桜田中学校校長を経て、1949年熊谷市立女子高等学校校長となり、翌1950年熊谷市立公民館長。 高校の教員として教壇に立つ傍ら、鳥類の観測記録を日本鳥学会の機関誌に投稿を続けた一方で、埼玉郷土会などに活動の場を広げ、民俗・伝承や考古資料の調査・研究を行い、1939年には熊谷郷土会の例会で、熊谷地方の板碑について発表している 。
東 龍太郎(あずま りょうたろう、1893年〈明治26年〉1… 東 龍太郎(あずま りょうたろう、1893年〈明治26年〉1月16日 - 1983年〈昭和58年〉5月26日)は、日本の政治家、医学者、厚生官僚。東京大学名誉教授。位階は正三位。東京都知事(第4・5代)、日本赤十字社社長(第10代)などを歴任した。 位階勲等は正三位勲一等旭日桐花大綬章。学位は医学博士(東京帝国大学)。称号は東京都名誉都民、日本赤十字社名誉社長など。 父は医師の東藤九郎。弟は野球選手の東武雄。武雄は東大野球部の投手として活躍し、龍太郎はボート部の選手として活躍した。妻は東京帝国大学総長を務めた山川健次郎(枢密顧問官、男爵)の三女・照子。 大阪府大阪市中央区久太郎町に、医師の東藤九郎の長男として生まれる。
八木 繁一(やぎ しげいち、1893年(明治26年)1月15… 八木 繁一(やぎ しげいち、1893年(明治26年)1月15日 - 1980年(昭和55年)6月9日)は、日本の教育者・植物研究家。教員として愛媛県師範学校に長年勤務し、多くの優秀な理科教員を養成するとともに、愛媛県理科教育研究会の会長として愛媛県の理科教育に貢献した。また、教員として勤務するかたわら、牧野富太郎に師事して地元の植物研究に打ち込み、オキチモズクやツバキカンザクラなどを発見したことでも知られている。 1893年(明治26年)1月15日、愛媛県野間郡波方村樋口(現今治市波方町樋口)に生まれた。農家の父・鶴吉と母・ハルの間の11人兄弟の10人目であった。1908年(明治41年)に波方尋常高等小学校(現今治市立波方小学校)高等科を卒業すると、越智郡岩城村の岩城尋常高等小学校(現上島町立岩城小学校)に代用教員として勤務しながら愛媛県師範学校を目指し、1910年(明治43年)に同校に合格、入学した。
細田 栄蔵(榮藏、ほそだ えいぞう、1893年〈明治26年〉… 細田 栄蔵(榮藏、ほそだ えいぞう、1893年〈明治26年〉1月12日 - 1964年〈昭和39年〉2月13日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、埼玉県議会議員(1期)、埼玉県入間郡飯能町長。 埼玉県高麗郡飯能町(のち入間郡飯能町、現:飯能市)で生まれる。埼玉県立川越中学校を中退。 1908年(明治41年)、織物製造業を継いで細田織物工場を設立した。その後、埼玉染絨取締役、埼玉県農業会理事、所沢毛織物工業所代表取締役、武蔵織物工業所代表取締役、武蔵織物工業協同組合常務理事、関東羊毛工業協同組合理事長、飯能商工会議所会頭、武蔵織物社長、西部編織社長、所沢毛織会長などを務めた。 政界では、飯能町会議員を務める。
大田黒 元雄(おおたぐろ もとお、1893年1月11日 - … 大田黒 元雄(おおたぐろ もとお、1893年1月11日 - 1979年1月23日)は、日本の音楽評論家である。日本における音楽評論の草分けとして知られる。 1893年(明治26年)1月11日、東京府(現・東京都)に生まれる。 大田黒の父は、日本の水力発電の先駆者で、芝浦製作所(現・東芝)の経営を再建し、財をなした大田黒重五郎(-じゅうごろう)である。父・重五郎は、幕府の御家人出身で、小牧(こまき)が本姓であった。熊本藩出身の大田黒惟信(-これのぶ、砲術家)の次女・らく(1925年没)と結婚し、以後大田黒姓を名乗ることとなった。 元雄は長男で一人っ子、幼時について、父・重五郎は、 「元雄は、幼い時から一度だって、頭なんか叩かないで済んで来た。
鈴木 九平(すずき きゅうへい、1893年 <明治26年> … 鈴木 九平(すずき きゅうへい、1893年 <明治26年> 1月11日 - 1980年 <昭和55年> 8月21日)は、日本の経営者。位階は正四位。 静岡県磐田市出身。1918年に東京高等商船学校を卒業。日本郵船での勤務を経て、1935年に日本捕鯨(のちの日本水産)に入社し、1950年には社長に就任。1951年には会長も兼務し、1963年には相談役に退いた。 1960年5月に藍綬褒章と紺綬褒章を受章し、1972年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1980年8月21日急性心不全のために死去。87歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
石河 龍夫(いしこ たつお、1893年(明治26年)1月10… 石河 龍夫(いしこ たつお、1893年(明治26年)1月10日 - 1962年(昭和37年)10月26日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1893年(明治26年)に愛媛県で生まれた。陸軍士官学校第26期、東京帝国大学工学部火薬学科卒業。1932年(昭和7年)に陸軍造兵廠火工廠研究課長に就任し、1936年(昭和11年)に陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所に転じた。1938年(昭和13年)3月に陸軍砲兵大佐に進級し、陸軍造兵廠火工廠技術課長に着任。1939年(昭和14年)3月に兼陸軍造兵廠火工廠検査課長を経て、1940年(昭和15年)1月20日に陸軍燃料廠附となる。 同年8月1日に陸軍燃料廠整備部長兼研究部長に就任し、1941年(昭和16年)3月1日に陸軍少将に進級した。
井上 貞蔵(いのうえ ていぞう、1893年〈明治26年〉1月… 井上 貞蔵(いのうえ ていぞう、1893年〈明治26年〉1月7日 - 1963年〈昭和38年〉8月12日)は、日本の商学博士。日本大学名誉教授。東京簿記学校名誉学長。明治大学商学部教授。 神奈川県都筑郡田奈村大字長津田(のち横浜市緑区長津田町)出身。井上傳五左衛門の二男。錦城商業学校、東京府立第四中学校を卒業。専門学校検定試験合格。 1917年、第一高等学校第一部文科を卒業。1920年、東京帝国大学経済学部を卒業。1922年、日本大学商学部講師。1924年、日本大学商学部教授兼学監心得。 1924年より1926年まで経済政策研究の為独逸及び英国に留学。1927年、日本大学商経学部教授兼学監。1936年、主論文「商業使用人問題の研究」及び副論文「商店法論」により「商学博士」を授与される。
鳥畠 徳次郎(とりばたけ とくじろう、1893年(明治26年… 鳥畠 徳次郎(とりばたけ とくじろう、1893年(明治26年)1月7日 - 1969年(昭和44年)12月25日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、石川県議会議長。 石川県石川郡上金石町(金石町を経て現金沢市金石)で生まれる。1911年(明治44年)京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)を卒業した。 商社などで勤務。1927年(昭和2年)北陸自動車商会を設立し、取締役支配人に就任。その他、石川合同自動車社長、朝日車輛代表、金沢交通専務取締役、石川交通社長、石川日産自動車販売社長、朝日物産社長、大阪光タクシー社長、大阪尼ケ崎自動車工業社長、石川定期運輸社長、大阪中央自動車工業会長、大阪宝タクシー取締役、北国証券金融取締役、北陸放送取締役、金沢商工会議所常議員などを務めた。
柳田 元三(やなぎた げんぞう、1893年1月3日 - 19… 柳田 元三(やなぎた げんぞう、1893年1月3日 - 1952年10月7日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。
島津 信夫(しまづ のぶお、1893年(明治26年)1月3日… 島津 信夫(しまづ のぶお、1893年(明治26年)1月3日 - 1990年(平成2年))は大正から昭和期の海軍軍人。正五位勲三等。最終階級は海軍大佐。
馬島 僴(まじま ゆたか、1893年1月3日 - 1969年… 馬島 僴(まじま ゆたか、1893年1月3日 - 1969年10月5日)は、医師・産児制限運動家。 愛知県出身。愛知県立医学専門学校(現名古屋大学医学部)卒。旧姓は浜田。通称は僴(かん)。新聞ではドクトル馬島として取り上げられた。賀川豊彦に共鳴して神戸で医療救済活動にあたる。1920年(大正9年)欧米に留学して産児調節を学ぶ。1928年(昭和3年)、太田慶太郎、その妻太田操らとともに、解放運動犠牲者救援会(現在の日本国民救援会)を創設、東京市本所松倉町に労働者診療所を開設、1929年(昭和4年)東京市議。1930年(昭和5年)東京市芝公園5号地に愛児女性協会が設立した産児制限相談所に参画。第二次世界大戦後も産児調節運動を推進した。
神部 満之助(かんべ まんのすけ、1893年〈明治26年〉1… 神部 満之助(かんべ まんのすけ、1893年〈明治26年〉1月2日 - 1972年〈昭和47年〉9月10日)は、日本の土木工事技術者、経営者。間組社長を務めた。 神奈川県足柄上郡南足柄村で裕福な家庭に生まれる。南足柄小学校高等科を経て、1909年(明治42年)に岩倉鉄道学校建設科を卒業し、同年10月に間組に入社した。約10年にわたって朝鮮半島で道路建設に従事した。 1923年(大正12年)6月、山梨県南巨摩郡で榑坪発電所(後の早川第一発電所)の工事を管轄していた早川出張所の主任が急死し、神部がその後任に就いた。1925年7月、当時50歳の松永安左エ門が大井川水系の電源調査のために赤石山脈を縦走することになり、神部が案内役として先導した。
住田 正一(すみた しょういち、1893年〈明治26年〉1月… 住田 正一(すみた しょういち、1893年〈明治26年〉1月2日 - 1968年〈昭和43年〉10月2日)は、経営者、東京都副知事、海事史研究家で日本海事史学会会長を務めた。 愛媛県下浮穴郡砥部村(現伊予郡砥部町)で生まれた。小学校在学中に広島県呉市に移り、広島県立第三中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)、第六高等学校を経て、1918年、東京帝国大学法科大学政治学科卒。当時日本一の総合商社だった神戸の鈴木商店に入社、同船舶部勤務。鈴木商店の「大番頭」金子直吉の秘書を永く務めた。金子直吉名義の唯一の著書「経済野話」(1924年、巌松堂書店)は、東京ステーションホテル20号室で金子が住田に語った内容を住田が口述筆記の形でまとめたものである。
操 坦道(みさお たんどう、1893年1月2日 - 1994… 操 坦道(みさお たんどう、1893年1月2日 - 1994年9月11日)は、日本の医学者、内科学者、感染症学者、ウイルス学者。臨床医学の日本における紹介者で、ウイルス性疾患研究の第一人者だった。九州大学名誉教授、日本感染症学会名誉会員。 鹿児島県の沖永良部島の現・和泊町出身。代々村長かつ学者の家系だった操家に生まれる。名前の由来は王陽明の「信歩行来皆坦道」。西郷隆盛が沖永良部島に流刑になった際は祖父・操坦栽が世話をし、隆盛が父の操坦勁のために書いた家族生活の心得や曾祖父の操坦晋が遺した家訓「清慎」のもと、坦道は育てられた。1906年4月に鹿児島市の鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)へ入学。同校の寄宿舎「成徳寮」で暮らす。
武部 六蔵(たけべ ろくぞう、1893年(明治26年)1月1… 武部 六蔵(たけべ ろくぞう、1893年(明治26年)1月1日 - 1958年(昭和33年)1月19日)は、日本の内務官僚。秋田県知事、関東局総長、企画院総裁心得、満洲国総務長官。 本籍・石川県。旧加賀藩士・長崎県師範学校長兼教授、武部直松の四男として長崎で生まれる。東京府立四中、第一高等学校を経て、1918年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を優等で卒業し、銀時計を授与された。1916年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1918年7月、内務省に入り東京府属兼内務属として地方局府県課に配属された。 1919年10月、長崎県理事官・内務部農林課長に就任。以後、福岡県学務課長、内務事務官・都市計画局、帝都復興院書記官・同建築局庶務課長兼営繕課長、復興局建築部庶務課長、復興局長官官房計画課長、同長官官房文書課長、復興事務局文書課長、同計画課長、同庶務課長、兼内務書記官・内務大臣秘書官、内務書記官・大臣官房会計課長などを歴任。
小町谷 操三(こまちや そうぞう、1893年1月1日 - 1… 小町谷 操三(こまちや そうぞう、1893年1月1日 - 1979年1月5日)は、日本の商法学者。専門は海商法。学位は法学博士(東京帝国大学)。東北大学名誉教授。 長野県出身。旧制第二高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学法科卒業。東京地方裁判所判事を経て欧米各国に留学し帰国。1924年(大正13年)東北帝国大学教授。1929年(昭和4年)法学博士(東京帝国大学)。第二次世界大戦後は東北大学教授、1956年まで務め名誉教授。退官後は法政大学、次いで愛知学院大学で教授を務める。戦前に旧法制審議会幹事、戦後に法制審議会商法部会委員を務めた。 二高時代には阿波研造の下で弓道を嗜み、東北帝大教授時代には、『弓と禅』で知られるオイゲン・ヘリゲルと阿波の通訳を務めた。
近藤 泰一郎(こんどう たいいちろう、1893年(明治26年… 近藤 泰一郎(こんどう たいいちろう、1893年(明治26年)1月1日 - 1975年(昭和50年)12月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。従四位、勲一等。 1893年1月1日、愛知県中島郡平和町(現在の稲沢市)の農家に生まれる。高等小学校時代の1905年11月頃、伊勢湾に凱旋入港した第三戦隊の千歳を見学に行った際、司令官である出羽重遠中将に声をかけられ、海軍に対する憧れを抱く。その後、愛知県立第三中学校在学中、学費の都合上高等学校に行けそうになかったため、当時流行っていた米国への出稼ぎを考えていたが、排日運動の機運が高まっていたため断念し、同じく海外に行ける可能性があり、また憧れもあった海軍兵学校受験を決意し、1911年(明治44年)9月11日、海兵42期生として入校する。
高田 蒔(たかた まき、1892年〈明治25年〉12月30日… 高田 蒔(たかた まき、1892年〈明治25年〉12月30日 - 1978年〈昭和53年〉3月4日)は、日本の生化学者、内科学者、内科医。医学博士。東邦大学名誉教授、アメリカ国際アカデミー名誉会員。雅号は日庵主人。 新潟県新潟市学校町通(現 新潟市中央区学校町通)の新潟県直税署職員・高田善一郎の四男として出生。 1910年(明治43年)3月に新潟中学校を卒業、1911年(明治44年)9月に仙台医学専門学校医学科に入学、1913年(大正2年)8月に東京府北豊島郡巣鴨町巣鴨(現 東京都豊島区巣鴨)の溝口伯爵家家扶・高田政敏の養子になった。 1915年(大正4年)9月に東北帝国大学医学専門部医学科を優等で卒業、恩賜の銀時計を下賜された。
邦枝 完二(くにえだ かんじ、1892年12月28日 - 1… 邦枝 完二(くにえだ かんじ、1892年12月28日 - 1956年8月2日)は、日本の小説家。本名は邦枝 莞爾。雅号は双竹亭竹水。戸籍上の誕生日は1893年1月1日。 1892年(明治25年)12月28日東京市麹町区(現・千代田区)東京麹町生れ。祖父は300石取りの幕臣、父は馬術に長じていたという。母方の叔父が浮世絵収集や江戸戯作者を好む通人であったところから、少年時代からその影響を受ける。 麹町小学校を経て商工中学校卒業後、慶應義塾大学予科、東京外国語学校に籍を置いたことになっているが、学生とは名ばかりで、創作に熱心であった。在学中から永井荷風に私淑し、荷風の推薦で処女作『廓の子』が雑誌「三田文学」に掲載された。
岡崎 義恵(おかざき よしえ、男性、1892年12月27日 … 岡崎 義恵(おかざき よしえ、男性、1892年12月27日 - 1982年8月6日)は、日本の国文学者・文芸学者。文学博士。日本学士院会員。 高知市生まれ。東京帝国大学卒、1923年東北帝国大学助教授、のち東北大学教授、1955年共立女子大学教授。1965年日本学士院会員。 美学に基づく日本文芸学を唱えた。1937年谷崎潤一郎が『源氏物語』の現代語訳を出した際、光源氏と藤壺の密通の場面が削除されたことを批判した。『岡崎義恵著作集』全10巻がある。 墓所はさいたま市西区三橋の青葉園。
土井 辰雄(どい たつお、1892年12月22日 - 197… 土井 辰雄(どい たつお、1892年12月22日 - 1970年2月21日)は、大正・昭和期の日本のカトリック教会高位聖職者。洗礼名はペトロ。日本人初の東京大司教かつ、日本人初の枢機卿。 宮城県仙台市出身。1902年4月21日に洗礼を受ける。仙台第一中学(現・宮城県仙台第一高等学校)・第二高等学校(旧制)卒業後、ローマのウルバノ大学に留学し、神学・哲学の学位を得て帰国。1921年5月1日に司祭叙階。宮城県、岩手県の教会にて司牧活動の後、在京ローマ教皇使節秘書を務めていた。 パリ外国宣教会によって司牧されていた東京大司教区が1937年に邦人教区として独立した時、初代邦人大司教として東京教区長に任命され、1938年2月13日にジャン・アレキシス・シャンボン大司教の手により司教叙階を受けた。
五十嵐 勇(いがらし いさむ、1892年(明治25年)1月1… 五十嵐 勇(いがらし いさむ、1892年(明治25年)1月18日 - 1986年(昭和61年)3月7日)は、日本の金属工学者。 1892年(明治25年)に熊本県に生まれる。1909年(明治42年)に熊本県立玉名中学校を卒業後、広島高等師範学校を経て、京都帝国大学理学部を卒業した。 住友金属工業伸銅所に勤務中の1938年(昭和13年)に航空機に使う超々ジュラルミンを開発した。戦後は1946年(昭和21年)から東北大学教授。その他、秋田大学や岩手大学の教授も務めた。退官後は熊本県熊本市に居住した。1986年(昭和61年)死去。
石田 乙五郎(いしだ おとごろう、1892年(明治25年)1… 石田 乙五郎(いしだ おとごろう、1892年(明治25年)1月18日 - 1977年(昭和52年)3月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。憲兵司令部本部長。戦後、A級戦犯として逮捕された。 広島県に生まれ、東京帝国大学政治学科を卒業。 1913年、陸軍士官学校(25期)を卒業して陸軍少尉となる。 1930年、牛込憲兵分隊長、1935年、羅南憲兵隊長 となる。 1938年、陸軍大佐となり、支那駐屯憲兵隊警務部長に就任。 1941年、台湾憲兵隊長、1942年、陸軍少将・台湾憲兵隊司令官となる。1944年、陸軍憲兵学校長、憲兵司令部本部長となる。1945年4月30日、陸軍中将となる。 1945年8月15日、終戦の日に大阪憲兵隊に留置されていた米軍捕虜搭乗員5人が真田山墓地で2人が斬首、3人が銃殺され、埋められる。
西條 八十(さいじょう やそ、新字体:西条、1892年1月1… 西條 八十(さいじょう やそ、新字体:西条、1892年1月15日 - 1970年8月12日)は、日本の詩人、作詞家、仏文学者、小説家。早稲田大学文学部文学科元教授であった。 長男の西條八束は陸水学者。長女の三井ふたばこ(西條嫩子)も詩人。孫の西條八兄はエレキギター製作者。 自費出版した処女詩集『砂金』(1919年)が好評を博し、抒情性に富んだ清新な詩風で、象徴詩人としての地位を確立。童謡、歌謡曲の作詞も多く手がけた。作品に詩集『一握の玻璃』(1951年)など。 東京府東京市牛込区牛込払方町(現:東京都新宿区払方町)出身。石鹸の製造販売業で財を成したが、父親の死後、家庭は没落した。1898年、桜井尋常小学校に入学。
山下 徳治(やました とくじ、1892年1月15日 - 19… 山下 徳治(やました とくじ、1892年1月15日 - 1965年7月10日、正字では「德治」)は、日本の教育学者。改姓後は「森 徳治」と称した。戦前の新自由教育運動の中で、欧州、ソビエト連邦への留学、視察を通じて獲得した労働教育を中心にした教育理論の移入を図った。また、生前のヴィゴツキーに会った唯一の日本人として知られている。筆名は「村上 純」。 1892年、鹿児島県徳之島生まれ。西南戦争敗戦後一家で徳之島に移住し、父は砂糖製造、販売業に従事。山下3歳のとき一家は鹿児島市に転居し、西田町に住む。西田小学校、鹿児島高等小学校を卒業。鹿児島第一中学校(旧制)入学後から教師を志し、同校2年生のとき鹿児島師範学校に転入学し、同校を1913年卒業。
三鬼 隆(みき たかし、1892年1月14日 - 1952年… 三鬼 隆(みき たかし、1892年1月14日 - 1952年4月9日)は、日本の実業家。第二次世界大戦後に日本製鐵(現・日本製鉄)社長を務め、日鐵解体後は八幡製鐵の初代社長となった。日本経営者団体連盟(旧日経連)の第2代会長(代表常任幹事)を務めるなど財界に重きをなしたが、航空機事故で遭難死した。父は実業家・政治家の三鬼鑑太郎。長男は元新日本製鐵会長の三鬼彰。 1892年(明治25年)、岩手県盛岡市に生まれる。父の三鬼鑑太郎は当時岩手県庁の官吏であったが、のちに実業界(花巻軽便鉄道社長)から衆議院議員(1936年当選)に転身する人物である。五男四女の二男であるが、兄が夭折しているために、実質的には長男として育っている。
秦 豊吉(はた とよきち、1892年1月14日 - 1956… 秦 豊吉(はた とよきち、1892年1月14日 - 1956年7月5日)は、日本の実業家、演出家、翻訳家、随筆家、興行師。
小林 光政(こばやし みつまさ、1892年(明治25年)1月… 小林 光政(こばやし みつまさ、1892年(明治25年)1月13日 - 1962年(昭和37年)7月9日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事、読売新聞社専務取締役。 栃木県下都賀郡絹村延島(現小山市)出身。小林長蔵の長男として生まれた。第一高等学校を卒業。1916年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1917年3月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し警視庁警部となる。 以後、警視庁警視、同特別高等課長、兼警察講習所教授、朝鮮総督府事務官、台湾総督府事務官・警務局保安課長、警視庁書記官・官房主事、内務省警保局勤務、福岡県内務部長、埼玉県書記官・内務部長などを歴任。
池田 林儀(いけだ しげのり、1892年〈明治25年〉1月1… 池田 林儀(いけだ しげのり、1892年〈明治25年〉1月11日 - 1966年〈昭和41年〉7月15日)は大正・昭和時代のジャーナリスト。 秋田県由利郡仁賀保町出身。旧制本荘中、東京外国語学校(現東京外語大学)シャム語科卒。大日本雄弁会講談社社員を経て報知新聞社にうつる。大隈重信の番記者をへてベルリン特派員。『優生運動』(1926-1930)を刊行し、日本の優生学の普及を図った。ワンダーフォーゲル運動を日本に紹介し、足の会を優生運動の一環として行った。 1933年(昭和8年)京城日報に招聘され副社長に就任。昭和14年(1939年)報知新聞に復社し編集局長就任。戦後「秋田魁新報」に随筆「話の耳袋」を長期連載した。
川島 つゆ(かわしま つゆ、1892年1月10日 - 197… 川島 つゆ(かわしま つゆ、1892年1月10日 - 1972年7月24日)は、国文学者、俳人。 埼玉県出身。本名は以志。俳号は露石。三輪田高等女学校(現・三輪田学園中学校・高等学校)卒。沼波瓊音に俳句を学ぶ。別府大学教授、梅花女子大学教授。一茶、芭蕉、女流俳人などを研究。
石橋 五郎(いしばし ごろう、1892年 <明治25年> 1… 石橋 五郎(いしばし ごろう、1892年 <明治25年> 1月10日 - 1971年 <昭和46年> 1月10日)は、日本の経営者。藤倉電線(現在のフジクラ)社長を務めた。位階は正五位。 佐賀県出身。1913年に山口高等商業学校を卒業し、1922年に藤倉電線に入社。 取締役、常務を経て、1948年5月には社長に就任。1961年7月には会長に就任。 1960年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等瑞宝章を受章。 1971年1月10日、肺機能障害のために死去。79歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
大矢 半次郎(おおや はんじろう、1892年〈明治25年〉1… 大矢 半次郎(おおや はんじろう、1892年〈明治25年〉1月9日 – 1977年〈昭和52年〉12月7日)は、大正から昭和期の大蔵官僚、弁護士、政治家。参議院議員、農林中央金庫副理事長。旧姓は佐々木。 岩手県紫波郡、のちの都南村(現盛岡市)で、佐々木定吉の三男として生まれ、政治家大矢馬太郎の養子となり1918年(大正7年)に分家した。盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)を経て、第一高等学校を卒業し、1917年(大正6年)10月、文官高等試験行政科試験に合格。1918年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した。同年、大蔵省に入省し参事官室属となる。 以後、富山税務署長、品川税務署長、永代税務署長、仙台税務監督局直税部長、大阪税務監督局直税部長、銀行検査官、大蔵省主税局国税課長兼主税局臨時土地調査課長、東京税務監督局長、日本銀行監理官、大蔵省主税局長などを歴任。
篠原 義政(しのはら よしまさ、1892年(明治25年)1月… 篠原 義政(しのはら よしまさ、1892年(明治25年)1月9日 – 1943年(昭和18年)7月16日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。旧名は文治。 群馬県碓氷郡八幡村(現在の高崎市)出身。旧制高崎中学卒業。1916年(大正5年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学法律科を卒業した。内務省に入り、長野県属、東京府属、内務属を歴任した。1919年(大正8年)に内閣軍需局事務官となり、翌年には国勢院事務官に任命された。1922年(大正11年)に退官した後は弁護士・弁理士事務所を開業した。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。4回連続当選を果たした。
田嶋 隆純(たじま りゅうじゅん、1892年〈明治25年〉1… 田嶋 隆純(たじま りゅうじゅん、1892年〈明治25年〉1月9日 - 1957年〈昭和32年〉7月24日)は、日本の仏教学者。大正大学教授。真言宗豊山派大僧正。 チベット語に訳された仏教文献の精査解読とそれに基づくチベット訳と漢訳の仏典対照研究の先駆けとなった。 大正末期、日本におけるチベット語の先駆者河口慧海に師事しチベット語を修得。昭和初期にフランスに渡りソルボンヌ大学に留学。チベット訳の『大日経』や曼荼羅の研究に学績を残した。また大戦後、花山信勝の後を受けて巣鴨拘置所の教誨師となり、刑場に臨む戦犯に寄り添い処刑に立ち会うとともにBC級戦犯の助命減刑嘆願にも奔走した。その「代受苦」(地蔵菩薩の身代りの徳)の活動が多くの戦犯から感謝され、「巣鴨の父」と慕われた。
土井 藤右衛門(どい とうえもん、旧姓・木村、前名・卓爾、1… 土井 藤右衛門(どい とうえもん、旧姓・木村、前名・卓爾、1892年(明治25年)1月9日 - 没年不明)は、日本の会社役員。族籍は三重県平民。 三重県員弁郡東員村(現東員町)出身。木村誓太郎の七男。木村秀興の弟。先代藤右衛門の養子となり、1910年に家督を相続し、卓爾を改め襲名する。 1912年、第三高等学校を卒業。1916年、東京帝国大学法科大学独法科を卒業する。東京練炭製造所、北山索道、草津電鉄、日化燃料、佐藤衡器各会社の重役である。 紀勢東線相賀尾鷲間の工事開始等は土井が帝都にあって尽くすところが多かった。 住所は三重県北牟婁郡尾鷲町大字南浦(現・尾鷲市)、東京市芝区白金三光町、赤坂区青山南町二丁目。
堀口 大學(ほりぐち だいがく、新字体:堀口 大学、1892… 堀口 大學(ほりぐち だいがく、新字体:堀口 大学、1892年〈明治25年〉1月8日 - 1981年〈昭和56年〉3月15日)は、明治から昭和にかけての日本の詩人・歌人・フランス文学者。訳詩書は300点を超え、日本の近代詩に多大な影響を与えた。雅号は十三日月。葉山町名誉町民。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 欧米生活を経て、フランス近代詩の訳詩集『月下の一群』(1925年)を発表し反響を呼んだ。象徴派の詩に知性と官能美を加えた優雅な創作詩でも後進に影響を与えた。作品に『月光とピエロ』(1919年)、『砂の枕』(1926年)など。 1892年(明治25年)、帝国大学法科大学在学中であった堀口九萬一(のち外交官)の長男として、東京市本郷区森川町(現:東京都文京区本郷或いは西片辺り)に生まれる。
久保 角太郎(くぼ かくたろう、1892年(明治25年)1月… 久保 角太郎(くぼ かくたろう、1892年(明治25年)1月7日 - 1944年(昭和19年)11月18日)は、昭和初期の宗教家。霊友会の創設者。『法華経』に基づく在家による菩薩行を実践した。 普遍的な菩薩行の実践は、古来より大乗仏教の理想であった。しかし、19世紀の終り頃までは、アジアの伝統的な仏教国においては、人々の識字率は極めて低く、経典を自分で読む事など不可能だった。僧院等で教育を受け訓練された僧侶だけが仏の教えを本格的に行じることが出来た。そのため在家出家を問わない全ての人々による菩薩行の実践という理想は、長い仏教史上において一度も実現される事はなかった。 時代は下り、仏教国の一つである日本において、19世紀の終り頃から始まった全国的教育制度の普及により、人々の識字率は劇的に向上した。
中院 孝圓(なかのいん たかまる、1892年〈明治25年〉1… 中院 孝圓(なかのいん たかまる、1892年〈明治25年〉1月7日 - 1977年〈昭和52年〉1月21日)は、日本の病理学者、内科学者、内科医。医学博士。神戸医科大学第一内科学教室初代教授。 新潟県三島郡与板町大字与板(現 長岡市与板町与板)の浄土真宗本願寺派・明元寺の中院正信の次男として出生。 1910年(明治43年)3月に新潟中学校を卒業、1914年(大正3年)11月に新潟医学専門学校を卒業、新潟医学専門学校病理学教室助手に就任、1916年(大正5年)11月に京都帝国大学医科大学病理学教室助手に就任。 1921年(大正10年)4月に神戸病院病理科副医長に就任、10月に京都帝国大学から医学博士の学位を取得、1922年(大正11年)に神戸病院病理科医長・医化学科医長に就任、1924年(大正13年)に神戸病院病理科医長・胃腸科副医長に就任、1928年(昭和3年)5月にドイツに留学、イギリスとフランスの医学を視察、1929年(昭和4年)6月に帰国、12月に神戸病院内科呼吸器科部長・病理科部長に就任。
伊達 順之助(だて じゅんのすけ、明治25年(1892年)1… 伊達 順之助(だて じゅんのすけ、明治25年(1892年)1月6日 - 昭和23年(1948年)9月9日)は、満蒙独立運動や山東自治聯軍に参加した大陸浪人・馬賊。仙台藩知事であった男爵伊達宗敦の六男で、仙台藩祖伊達政宗の直系子孫、幕末の四賢侯の一人の宇和島藩主伊達宗城の孫にあたる。中国名は張宗援。
大達 茂雄(おおだち しげお、1892年(明治25年)1月5… 大達 茂雄(おおだち しげお、1892年(明治25年)1月5日 - 1955年(昭和30年)9月25日)は、日本の内務官僚、政治家。内務大臣(小磯内閣)、文部大臣(第5次吉田内閣)。参議院議員(1期)。 島根県那賀郡浜田町(現・浜田市)に、酒造業・大達新作の次男として生まれる。浜田中学から一高に進み、1916年(大正5年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、内務省に入る。宮城県属。 内務省では地方局財務課長を経て1932年(昭和7年)福井県知事となる。福井師範学校整理問題で県会と衝突し、それに対する内務省の扱いに不満を抱いて辞表を提出した。 1934年に満洲国に招かれて満洲国国務院総務庁法制処長、1936年同国務院総務庁長を歴任。
宮本 武之輔(みやもと たけのすけ、1892年(明治25年)… 宮本 武之輔(みやもと たけのすけ、1892年(明治25年)1月5日 - 1941年(昭和16年)12月24日)は、日本の工学者・土木技術者。内務官僚・企画院次長。 愛媛県松山市興居島出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務技手となった。1919年(大正8年)、内務技師となり、東京第一土木出張所、東京土木出張所、新潟土木出張所・土木試験所、内務省土木局に勤務した。1910年代には、当時待遇が文官に比べて冷遇されていた土木官僚たちによる待遇改善をめざした「技術者水平運動」のリーダー的存在であった。その間、1928年(昭和3年)に工学博士号を受けた。1937年(昭和12年)から東京帝国大学工学部教授を兼任。
上川 豊(かみかわ ゆたか、1892年1月5日 - 1984… 上川 豊(かみかわ ゆたか、1892年1月5日 - 1984年4月29日)は日本の医師。ハンセン病の治療、研究に従事し、国立療養所菊池恵楓園、台湾総督府楽生院(初代院長)、国立療養所東北新生園(2代目園長)で勤務した。大風子油を研究し、東北新生園時代は社会復帰農園を作った。 1892年広島県生まれ。大正6年(1917年)長崎医学専門学校卒業。皮膚科(青木大勇教授)に入る。第2代笹川教授の示唆で、1919年九州療養所国立療養所菊池恵楓園に入る。大風子油を研究し、1930年4月に京都大学にて医学博士。論文の題は 「大風子油の癩に対する治療的有効作用に就て」。 1930年8月、台湾総督府のらい療養所(楽生院)初代所長に任命された。
熊谷 綾雄(くまがい あやお、1892年(明治25年)1月5… 熊谷 綾雄(くまがい あやお、1892年(明治25年)1月5日 - 1968年(昭和43年)6月19日)は、日本の政治家。室蘭市長(5期)。位階は正五位。 岩手県西磐井郡一関町(現・一関市)出身。鉄道教習所を卒業後、旭川駅電信掛を皮切りに鉄道員の道を歩む。その後、名寄、滝川、岩見沢、室蘭の各駅長、稚内、旭川、室蘭の各運輸事務所長、稚内、室蘭の各管理部長を務めた。 戦後の1946年、室蘭市長松尾孝之が死去。市長選挙(準公選)が行われることになり、市長選挙に立候補して当選した。翌年4月の選挙でも当選した。市長在職中は小中学校の校舎の充実や室蘭工業専門学校の大学昇格、室蘭工業大学短期大学部の設置、図書館の開設、消防力の強化、社会福祉の充実など市の再建に大きく貢献した。
天野 久(あまの ひさし、1892年1月5日 - 1968年… 天野 久(あまの ひさし、1892年1月5日 - 1968年2月15日)は、日本の政治家、実業家。位階は従三位、勲等は勲二等。衆議院議員(3期)。山梨県知事(公選第2-5代)。 山梨県東山梨郡七里村下於曽(のち東山梨郡塩山町→塩山市、現在の甲州市塩山下於曽)の出身。生家は江戸時代には村役人を務める。高等小学校卒業後に上京し、官費の逓信講習所(現在の電気通信大学)入学を望むが果たせずに帰郷し、1911年(明治44年)に下於曽で、政友会代議士でもある田邊七六の経営する田辺酒造店に奉公する。後に北都留郡笹子村(現大月市笹子町)で笹一酒造を創業し、山梨県酒類販売連合会会長などを務める。また、笹子郵便局長を兼ねていた。
宮崎 繁三郎(みやざき しげさぶろう、明治25年(1892年… 宮崎 繁三郎(みやざき しげさぶろう、明治25年(1892年)1月4日 - 昭和40年(1965年)8月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。長男は、陸軍士官学校出身で元明治大学総長の宮崎繁樹。 岐阜県出身。岐阜中学(現岐阜県立岐阜高等学校)を卒業後、陸士(26期)を卒業、席次は737人中230番。歩兵第16連隊(新潟県新発田市)に配属された。本来であれば陸大に入学するのに必要な連隊長からの推薦も受けられない成績であったが、二度目の受験で合格し陸大36期を64人中29番で卒業した。 参謀本部支那班などを経てハルビン特務機関補佐官についた。満州の不安定化と日本軍の勢力拡大を目論む甘粕正彦などの工作活動に関与した。
窪井 義道(くぼい よしみち、1892年(明治25年)1月4… 窪井 義道(くぼい よしみち、1892年(明治25年)1月4日 - 1949年(昭和24年)11月13日)は、日本の政治家・弁護士・実業家。立憲政友会→昭和会→政友会革新同盟→日本進歩党所属の衆議院議員で内務政務次官や海軍参与官を務めた。 山口県熊毛郡三丘村(現・周南市)出身。1918年(大正7年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。大倉商事に入社したが、1922年(大正11年)に法律研究のためドイツに留学した。1924年(大正13年)に帰国し、弁護士を開業した。 1924年(大正13年)、衆議院補欠選挙に出馬し当選。さらに第18回衆議院議員総選挙から第21回衆議院議員総選挙まで4期連続当選を果たした。
村上 龍太郎(むらかみ りゅうたろう、1892年(明治25年… 村上 龍太郎(むらかみ りゅうたろう、1892年(明治25年)1月4日 - 1964年(昭和39年)7月31日)は、日本の農林官僚。馬政局長官。 愛媛県出身。1916年(大正5年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。山林属、山林事務官・農商務事務官、特許局事務官・農商務参事官、農林書記官・大臣官房文書課長・統計課長、農務局農政課長を歴任。1931年(昭和6年)、畜産局長となり、1933年(昭和8年)には山林局長に転じた。山林局長在任中は関東軍軍令部附・同顧問を務めた。1937年(昭和12年)、馬政局次長、ついで馬政局長官に就任した。 退官後は日本競馬会副理事長となり、1941年(昭和16年)からは農地開発営団理事長となった。
阿部 茂夫(あべ しげお、1892年(明治25年)1月3日 … 阿部 茂夫(あべ しげお、1892年(明治25年)1月3日 - 1960年(昭和35年)8月3日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。 徳島県徳島市富田浦町に生まれる。1912年(明治45年)徳島県師範学校を卒業し、徳島県名東郡沖洲尋常高等小学校訓導、津田尋常高等小学校訓導、津田水産補修学校訓導を務めた。1919年(大正8年)早稲田大学政経科を修了。 古河鉱業(現古河機械金属)に入社し、1922年(大正11年)労働事情調査のためアメリカ合衆国へ派遣されイェール大学で学んだ。1927年(昭和2年)に帰国後、社会民衆党に入党した。1930年(昭和5年)全国民民衆党の結成に参画し中央委員に就任。
春日井 新一郎(かすがい しんいちろう、1892年(明治25… 春日井 新一郎(かすがい しんいちろう、1892年(明治25年)1月2日 - 1952年(昭和27年)6月3日)は、日本の肥料学者である。 東京府東京市(現在の東京都区部)に生まれる。1905年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1909年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第一高等学校を経て、東京帝国大学(現在の東京大学)に入学し、農芸化学を専攻した。1918年(大正7年)の卒業後も大学に残り講師や農商務省の技手等を経て、1923年(大正12年)に助教授として務め、1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)の帰国まで肥料の研究のためドイツに留学する。