信氏 良吉(のぶうじ りょうきち、1894年(明治27年)2… 信氏 良吉(のぶうじ りょうきち、1894年(明治27年)2月5日 - 1981年(昭和56年)3月25日)は、日本の陸軍軍人、火薬学者。最終階級は陸軍中将。 京都府京都市出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官した。陸軍派遣学生として京都帝国大学工学部工業化学科で学び、1923年(大正12年)3月に卒業した。 1930年(昭和5年)8月、砲兵少佐に進級。1934年(昭和9年)8月、砲兵中佐に進み、1935年(昭和10年)8月、陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所長に就任。1937年(昭和12年)6月、陸軍科学研究所員に転じ、1938年(昭和13年)3月、砲兵大佐に昇進した。
奥田 喜久司(おくだ きくじ、1894年(明治27年)2月4… 奥田 喜久司(おくだ きくじ、1894年(明治27年)2月4日 - 1939年(昭和14年)11月4日)は、日本の海軍軍人。少年飛行兵制度を発案することで予科練に至る基礎をつくり、のちに航空隊司令として作戦指揮中に戦死した海軍少将である。 奥田は兵庫県出身で、神戸一中を経て1914年(大正3年)に海軍兵学校を卒業した海兵42期生である。席次は117名中54番であった。翌年12月海軍少尉任官。海軍砲術学校高等科学生を経て、「洲埼」分隊長。次いで「神威」艤装員としてアメリカ合衆国に出張した。同艦分隊長、「島風」砲術長兼分隊長と砲術畑を歩む。 同期生の先頭を切って近藤泰一郎と共に海軍大学校甲種学生(23期)に進み、卒業後航空に転科。
仁田 竹一(にた / にだ / にった たけいち、1894年… 仁田 竹一(にた / にだ / にった たけいち、1894年(明治27年)2月4日 - 1976年(昭和51年)6月14日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、広島県佐伯郡大柿町長。 広島県佐伯郡深江村(大柿町を経て現江田島市)で仁田笹松の二男として生まれ、仁田久米次の養子となる。1912年(明治45年)広島県立呉中学校(現広島県立呉三津田高等学校)を卒業した。 呉商工会議所副会頭、呉第一銀行頭取、江田島汽船社長、瀬戸内海汽船社長、広島緑地建設社長、広島湾海運会長、因島運輸社長、ラジオ中国取締役、全日本観光連盟中国支部長、広島県観光連盟会長、日本経営者団体連盟(現日本経済団体連合会)常任理事、中国ヨット連盟会長、中国操艇協会会長などを務めた。
今村 春吉(いまむら はるきち、1894年〈明治27年〉2月… 今村 春吉(いまむら はるきち、1894年〈明治27年〉2月4日 - 1989年〈平成元年〉7月19日)は、長崎市の外科医師、洋画家。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
三好 義雪(みよし よしゆき、1894年〈明治27年〉2月3… 三好 義雪(みよし よしゆき、1894年〈明治27年〉2月3日 - 没年不明)は、日本の医師(内科小児科、三好医院)、会社役員。族籍は広島県平民。 広島県広島市東白島町(現・広島市中区東白島町)出身。三好家は代々医を業とする。広島高等師範学校附属中学校を優等の成績を以て卒業する。1915年、岡山医学専門学校を卒業する。1916年、舟入病院臨時医員嘱託、同年に広島県防疫医拝命、同年に一年志願兵として入隊。1917年、正八位に叙される。 1920年、予備役三等軍医後広島病院に勤務。1923年、開業する。内科小児科を主とする。白島小学校医、広島高等師範学校医である。1930年以来広島市医師会理事。1937年、鈴木商店監査役に就任する。
田口 政五郎(たぐち まさごろう、1894年(明治27年)2… 田口 政五郎(たぐち まさごろう、1894年(明治27年)2月3日 - 1964年(昭和39年)2月8日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、兵庫県明石市長、同明石郡垂水村長、同垂水町長。 兵庫県明石郡、のちの明石市で生まれる。1919年(大正8年)東京帝国大学経済学部を卒業した。 1923年(大正12年)兵庫県会議員に選出された。その後、垂水村長、垂水町長(2期)を務めた。1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で兵庫県地方区から民主党公認で出馬して当選(補欠、任期3年)した。次の第2回通常選挙には出馬せず、参議院議員に1期在任した。この間、第3次吉田内閣大蔵政務次官などを務めた。
片岡 鉄兵(かたおか てっぺい、1894年(明治27年)2月… 片岡 鉄兵(かたおか てっぺい、1894年(明治27年)2月2日 - 1944年(昭和19年)12月25日)は、日本の大正・昭和前期における小説家。「鉄平」と表記されることもある。 岡山県苫田郡芳野村(現・鏡野町)に生まれる。 津山中学の同級生に矢野峰人、中山巍らがいる。中学校卒業後、第六高等学校受験に失敗、自殺を企てた。上京し、慶應義塾大学仏文科に進学したが、出席日数が不足したため中退、一時帰郷。様々な職を転々としながら小説を書き始め、各雑誌・出版社に投稿を行う。1921年『舌』などを書いて文壇に出る。山陽新報、大阪朝日新聞社、大阪時事新報の記者を務める。 1924年(大正13年)、横光利一や川端康成らと文学雑誌「文芸時代」を創刊し、創作活動のみならず評論活動や翻訳活動にも手を付けた。
太田垣 士郎(おおたがき しろう、1894年2月1日 - 1… 太田垣 士郎(おおたがき しろう、1894年2月1日 - 1964年3月16日)は、昭和の実業家。贈正四位・勲二等。京阪神急行電鉄(現・阪急阪神ホールディングス)社長や関西電力の社長・会長を歴任。関西電力時代には黒部ダム建設を指揮した。 兵庫県城崎郡城崎町湯島(現・豊岡市)で地元の開業医、太田垣隆準(りゅうせつ)の長男として生まれる。 第五高等学校、京都帝国大学経済学部卒業。1920年に日本信託銀行へ入行したが、1925年には阪神急行電鉄(現:阪急阪神ホールディングス)に移った。阪急では小林一三のもとで出札係や阪急百貨店の店員などの業務を広くこなした。1946年12月、京阪神急行電鉄(1943年に阪神急行電鉄が京阪電気鉄道と合併して改称)社長に就任。
潁原 退蔵(えばら たいぞう、1894年〈明治27年〉2月1… 潁原 退蔵(えばら たいぞう、1894年〈明治27年〉2月1日 - 1948年〈昭和23年〉8月30日)は、日本の国文学者。専門は近世文学、とくに俳諧史研究に業績を残す。学位は、文学博士(1947年)。病によりかつて依願免官した京都大学助教授に1948年8月再び着任するが、同月30日に逝去、死去日を以て、京都大学教授。 1894年、長崎県南松浦郡北魚目村(現長崎県南松浦郡新上五島町)生まれ。1917年3月、東京高等師範学校国語漢文学卒業。1921年3月、京都帝国大学文学部卒業後、京都帝国大学大学院入学。1928年3月、京都帝国大学大学院退学。 1931年4月、京都帝国大学助教授に着任するも、1936年4月に病気により依願免官。
田村 虎一(たむら とらいち、1894年(明治27年)2月1… 田村 虎一(たむら とらいち、1894年(明治27年)2月1日 – 1983年(昭和58年)7月11日)は、大正から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員、山口県玖珂郡川下村長。 山口県で田村與兵衛の三男として生まれる。1918年(大正7年)中央大学専門部法律科を卒業。 卒業後、農商務省、東京鉄道局などで勤務。1922年(大正11年)弁護士試験に合格し、のちの岩国市で開業した。1938年(昭和13年)川下村長に就任。その他、川下村会議員、岩国町会議員、山口県会議員、同副議長、岩国市会議員、同市助役、山口県監査委員、岩国弁護士会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙に山口県第2区から日本自由党公認で出馬して当選し、その後、民主自由党に所属して衆議院議員に1期在任した。
小島 政二郎(こじま まさじろう、1894年(明治27年)1… 小島 政二郎(こじま まさじろう、1894年(明治27年)1月31日 - 1994年(平成6年)3月24日)は、日本の小説家、随筆家、俳人。俳号は燕子楼。 東京府東京市下谷区に生まれ育った。生家は呉服商「柳河屋」。 京華中学を経て、慶應義塾大学部文学科在学中に、『三田文学』主幹で西洋美術史家の澤木四方吉から教えを受け、『三田文学』で作品を発表し始める。1916年に先輩作家の文章について批評した『オオソグラフィ』は森鴎外から認められるなど、学生時代から慶應義塾関係者内において、その名は知れ渡る。卒業後は鈴木三重吉が主宰していた児童雑誌『赤い鳥』の編纂に携わる。1919年に慶應義塾大学部文学科講師となり、最終的には文学部教授へ昇格し、1931年まで勤め、また1920年には『三田文学』編集委員となった。
橋本 象造(はしもと しょうぞう、1894年〈明治27年〉1… 橋本 象造(はしもと しょうぞう、1894年〈明治27年〉1月31日 - 1973年〈昭和48年〉8月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 和歌山県和歌山市出身。和歌山県立和歌山中学校より海軍兵学校第43期へ進んだ。水雷畑を歩み、海軍大学校(甲種25期)卒業後は、海軍省、軍令部の課長を務めるなど、海軍中央の要職を歴任した。軍令部第2部第4課長在任中に、日独伊三國間同盟条約締結問題で、第3課長柳本柳作と共に強硬な反対意見を表明したため、右翼から名指しで狙われている。その後総力戦研究に没頭した。 太平洋戦争末期に、天号作戦により沖縄に突入する戦艦大和以下の第二艦隊の燃料が問題になった。この時、連合艦隊参謀小林儀作大佐の要請を受け、呉鎮守府軍需部が管理していた帳簿外の燃料を提供することを承認したのが、呉鎮守府参謀長兼補給長であった橋本である。
橋川 正(はしかわ ただす、1894年1月30日 - 193… 橋川 正(はしかわ ただす、1894年1月30日 - 1931年9月6日)は、日本の大正 - 昭和期に活躍した歴史学者・仏教史学者。 京都の真宗大谷派の寺院仏願寺に生まれる。真宗京都中学(現、大谷中学校・高等学校)を経て、1917年に真宗大谷大学(現、大谷大学)を卒業。その後、研究科在籍のまま、京都帝国大学文学部国史学科に依託生として入学。三浦周行・西田直二郎に師事した。1921年、同卒業とともに、真宗大谷大学学部助教授兼予科教授に就任。24年、同教授。この間、1920年には、父恵順の死去により、仏願寺住職および常葉幼稚園長を継職している。 同大学奉職後は、仏教史・真宗史の研究・教育に尽力するとともに、個別寺院史・地域史研究にも従事し、短期間に多くのすぐれた業績を残した。
江原 三郎(えはら さぶろう、1894年(明治27年)1月3… 江原 三郎(えはら さぶろう、1894年(明治27年)1月30日 - 1965年(昭和40年)3月4日)は、日本の政治家、弁護士。栃木県宇都宮市長、衆議院議員などを歴任。 栃木県下都賀郡絹村(桑絹村、桑絹町を経て現小山市)に塚原金吾の三男として生まれ、衆議院議員江原節の養子となった。東京帝国大学独法科を卒業し弁護士となる。宇都宮市会議員を経て、1935年(昭和10年)9月から1937年(昭和12年)5月まで宇都宮市選出の栃木県会議員を務める。1937年から栃木1区選出の立憲政友会の衆議院議員を1期務めた。 1944年(昭和19年)12月31日、宇都宮市長に就任。1945年(昭和20年)7月、宇都宮大空襲により同市は甚大な被害を受け市役所も焼失した。
下飯坂 潤夫(しもいいざか ますお、1894年〈明治27年〉… 下飯坂 潤夫(しもいいざか ますお、1894年〈明治27年〉1月29日 - 1971年〈昭和46年〉12月26日)は、日本の裁判官、最高裁判所判事。宮城県出身。四男はシナリオ作家の下飯坂菊馬。小説家の橘かがりは孫。 旧制宮城県立仙台第一中学校、旧制第二高等学校、東京帝国大学法科大学卒業。第二次世界大戦前は鳥取地裁所長、水戸地裁所長、新潟地裁所長、大審院判事などを務め、その後は札幌高裁長官、名古屋高裁長官、大阪高裁長官を歴任。 1956年11月に最高裁判事となる。岩松三郎裁判官の後任であり、当初は安部恕東京高裁長官が候補に上ったが、安部が辞退したため下飯坂になった。 八海事件の第二次上告審では第一小法廷裁判長として単独犯行説ではなく5人犯行説をとって1962年5月17日に無罪判決を破棄し、広島高裁に差し戻す判決を言い渡した(八海事件は1968年10月に第三次上告審で無罪判決が確定した)。
山本 修二(やまもと しゅうじ、1894年1月29日 - 1… 山本 修二(やまもと しゅうじ、1894年1月29日 - 1976年1月22日)は、日本の英文学者、演劇研究者。 京都生まれ。探墓家として知られた小学校教員山本臨乗の次男。1919年京都帝国大学文学部英文科卒、1921年龍谷大学教授、1925年第三高等学校教授、1949年京都大学教養部教授、1954年定年退官、名誉教授、立命館大学教授、1967年龍谷大学教授。アイルランド演劇の研究などをおこなうほか歌舞伎評論もした。森本薫と親しく、田宮虎彦は門下生(三高時代の教え子)。
清水 泰(しみず ゆたか、1894年〈明治27年〉1月28日… 清水 泰(しみず ゆたか、1894年〈明治27年〉1月28日 - 1969年〈昭和44年〉9月13日)は、国文学者。 山梨県北巨摩郡安都那村(現・北杜市)生まれ。水上勘三郎の次男として生まれ、清水有文の養子となった。1925年京都帝国大学(現・京都大学)文学部国文科卒。龍谷大学教授、1941年立命館大学教授。1964年退任、名誉教授。1962年「継子物語の研究」で京都大学文学博士。 弟に水上達三がいる。
蓑田 胸喜(みのだ むねき、明治27年〈1894年〉1月26… 蓑田 胸喜(みのだ むねき、明治27年〈1894年〉1月26日 - 昭和21年〈1946年〉1月30日)は、日本の右翼思想家、反共主義者。慶應義塾大学予科、国士舘専門学校教授、原理日本社主宰、国際反共連盟評議員。 熊本県八代郡吉野村(現・氷川町)生。八代中学校を経て、第五高等学校(五高)に学ぶ。五高での同期には佐々弘雄、細川隆元がいる。 1917年(大正6年)、五高卒業後、東京帝国大学入学。最初は法科大学(法学部)に入学するが、文科大学(文学部)宗教学科に転学し、宗教学者の姉崎正治に師事する。1920年(大正9年)文学部卒業、さらに法学部政治学科に学士入学する。帝大在学中は、天皇機関説と激しい論争を展開したことでも知られる君権学派憲法学者の上杉慎吉が指導していた国粋主義的な学生団体である興国同志会に入会するとともに、三井甲之に私淑するようになる。
大須賀 応(おおすか ことを、1894年(明治27年)1月2… 大須賀 応(おおすか ことを、1894年(明治27年)1月25日 - 1945年(昭和20年)3月26日(異説あり。本文参照))は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 北海道札幌郡琴似村大字篠路村(現・札幌市北区屯田)出身。陸軍屯田兵軍曹・大須賀忠夫の子として生まれる。札幌中学を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第7連隊付となる。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。 1937年(昭和12年)12月、第16師団参謀として南京攻略戦に参加[要出典]。1938年(昭和13年)7月、砲兵大佐に昇進し野砲兵第22連隊長に就任。
千葉 三郎(ちば さぶろう、1894年(明治27年)1月25… 千葉 三郎(ちば さぶろう、1894年(明治27年)1月25日 - 1979年(昭和54年)11月29日)は、大正-昭和期の政治家。位階は正三位。 宮城県知事、労働大臣のほか、東京農業大学学長も務めた。 1894年(明治27年)、千葉県茂原市に生まれた。錦城中学、一高を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学仏法科を卒業後、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)に入社するも、ほどなくして退職し、米国プリンストン大学に留学、石油業を学んだ。同大大学院を修了し、1922年(大正11年)に帰国。 帰国後は当時の鐘紡社長・武藤山治の片腕となり、大日本実業組合連合会理事に就任した。1925年(大正14年)、旧千葉2区における衆議院補欠選挙に、武藤が会長を務める実業同志会から立候補、初当選した。
篠田 鐐(しのだ りょう、1894年(明治27年)1月25日… 篠田 鐐(しのだ りょう、1894年(明治27年)1月25日 - 1979年(昭和54年)5月8日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中将。工学博士。 愛知県出身。陸軍少将・工学博士、篠田金の長男として生まれる。東京陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第1連隊付となる。1917年(大正6年)11月、陸軍砲工学校高等科(23期)を卒業した。陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部応用科学科で学び、1922年(大正11年)3月に卒業した。さらに同大学院で学び、1925年(大正14年)3月に修了した。 1925年5月、陸軍科学研究所員に発令。
佐藤 喜一郎(さとう きいちろう、1894年1月22日 - … 佐藤 喜一郎(さとう きいちろう、1894年1月22日 - 1974年5月24日)は、日本の実業家、銀行家。元帝国銀行頭取、三井銀行社長、日本棋院総裁。 神奈川県横浜市出身。横浜一中、一高、1917年東京帝国大学経済学部卒業後、米山梅吉の紹介で、三田会の学閥の色合いが強い戦前の三井銀行(現・三井住友銀行)に入行。ニューヨーク支店長、大阪支店長など、海外要員として経営中枢からは遠ざけられ、1941年には三井銀行の海外担当取締役、1943年の帝銀発足時も常務にあった。戦後は一転して1946年の公職追放の発表に先立って、万代順四郎会長、入間野武雄頭取(大蔵省出身)はじめ、戦前三井財閥のリーダー池田成彬に、池田の子飼でありかつ万代の後継と目されていた大矢知昇常務も退任したため、佐藤が予期せぬ頭取の座に就任した。
植場 鉄三(うえば てつぞう、1894年(明治27年)1月2… 植場 鉄三(うえば てつぞう、1894年(明治27年)1月22日 - 1964年(昭和39年)1月30日)は、日本の拓務官僚。実業家。 大阪府に郡正光の子として生まれ、衆議院議員植場平の養子となった。1921年(大正10年)京都帝国大学経済学部を卒業し、翌年に高等試験に合格した。秋田県平鹿郡長、同農林課長、同庶務課長、同知事官房主事、長崎県事務官・社会課長、兵庫県事務官・社会課長、樺太庁農林部長などを務めた。1933年(昭和8年)より拓務書記官・農林課長、拓務大臣秘書官・官房秘書課長、管理局長、殖産局長を歴任。1941年(昭和16年)8月に退官するが、12月に拓務次官として復帰した。 1943年(昭和18年)より中支那振興株式会社副総裁を務め、翌年には内閣綜合計画局長官に就任した。
西脇 順三郎(にしわき じゅんざぶろう、1894年〈明治27… 西脇 順三郎(にしわき じゅんざぶろう、1894年〈明治27年〉1月20日 - 1982年〈昭和57年〉6月5日)は、日本の詩人(近代詩)、英文学者、文学博士。第二次世界大戦前のモダニズム、ダダイスム、シュルレアリスム運動の中心人物。また、生涯に多くの水彩画並びに油彩等の絵画作品を残した。出生地である新潟県小千谷市の名誉市民。位階は正四位。生前、ノーベル文学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。 1922年、渡英して西欧の超現実主義的感覚を身につけた。帰国後、日本の超現実主義運動に参加して、詩集『Ambarvalia』(1933年)を刊行。ほかに『旅人かへらず』(1947年)、『近代の寓話』(1953年)など。
一戸 二郎(いちのへ じろう、1894年(明治27年)1月2… 一戸 二郎(いちのへ じろう、1894年(明治27年)1月20日 - 1938年(昭和13年)10月2日)は、日本の農商務・内務官僚。官選県知事。旧姓・西。 東京府出身。西大助の二男として生まれ、1897年に一戸氏を再興。第一高等学校を卒業。1917年7月、京都帝国大学法科大学政治経済学科を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務省に入省し農商務属となる。 以後、臨時産業調査局事務官兼農商務大臣秘書官、製鐵所副参事、農商務事務官、同書記官、内務省社会局事務官、同書記官、台湾総督府事務官兼同秘書官、岐阜県書記官・学務部長、内務省社会局書記官・労働部労政課長などを歴任。 1932年6月、愛媛県知事に就任。
高木 正得(たかぎ まさなり、1894年〈明治27年〉1月2… 高木 正得(たかぎ まさなり、1894年〈明治27年〉1月20日 - 1948年〈昭和23年〉11月5日[矛盾 ⇔ 高木正得])は、日本の昆虫学者、華族。爵位は子爵。貴族院子爵議員。次女は崇仁親王妃百合子。 旧河内丹南藩の最後の藩主・高木正善の子として生まれる。1920年(大正9年)2月、父・正善の死去により、家督を相続し、子爵となる。1922年(大正11年)、東京帝国大学理学部動物学科を卒業する。その後、東京帝国大学大学院で昆虫学、寄生虫学を専攻。1932年(昭和7年)4月7日、補欠選挙で貴族院議員に当選し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在職、この間司法参与官も歴任。公務の傍ら、チョウやカミキリムシを研究した。
国井 善弥(國井 善彌、くにい ぜんや、1894年1月20日… 国井 善弥(國井 善彌、くにい ぜんや、1894年1月20日 - 1966年8月17日)は、昭和の日本の武術家。鹿島神流第十八代宗家。福島県いわき市常磐関船町宿内出身。本名は道之。昭和の今武蔵と呼ばれた。 祖父の16代国井新作、父の17代国井英三により、幼少期から家伝の鹿島神流(鹿島神伝直心影流)を教わる。父の命で19歳で外に出て佐々木正之進から新陰流剣術、栖原邦泰から馬庭念流剣術、妙道流柔術を師事。鹿島神流を大成させる。 その後、第1次世界大戦に徴兵され、卓越した武術が軍内で評判となり、陸軍戸山学校の教官に任じられる。中山博道らと共に古流武術を組み直し、戸山流片手軍刀術を開発。成果を上げたことにより校庭に本人の銅像が建立された。
芦乃家 雁玉(あしのや がんぎょく、1894年1月20日 -… 芦乃家 雁玉(あしのや がんぎょく、1894年1月20日 - 1960年12月30日)は、漫才師。本名: 三井 寒三郎。難波新地の生まれ。享年66。愛称は風貌から「タコ壺」、または「雁さん」。 「雁玉」「雁」という字は尊敬する歌舞伎役者の二代目實川延若の替紋の五つ雁金に由来。 幼少から芸事が好きであった。俄役者の東明幸三郎を兄に持つ。袋物商に奉公しながら、勝手に春の家雁玉を名乗り天狗連で活躍する。1916年頃に晩年の笑福亭吉右衛門(当時は5代目笑福亭吾竹)に見出され弟子に迎え入れられ落語や音曲の修業を積む。1917年頃に雁玉と名乗り独立。 その後、玉子家春夫と名乗り軽口に転向、安来節、万歳の一座に入る。
金井 満(かねい みつる、1894年(明治27年)1月20日… 金井 満(かねい みつる、1894年(明治27年)1月20日 - 1974年(昭和49年)5月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。陸士27期次席。最終階級は陸軍少将。功四級。 1894年(明治27年)に長野県塩尻市で生まれた。名古屋陸軍幼年学校台賜、中央幼年学校および陸軍士官学校第27期をいずれも恩賜で卒業。原隊は工兵第18大隊。陸軍砲工学校高等科卒業後、兵器局、整備局勤務を経て、1939年(昭和14年)3月9日に工兵第3連隊長(第11軍・第3師団)に就任し、8月1日に陸軍工兵大佐に進級した。日中戦争に出動し、冀東作戦、宜昌作戦、漢水作戦などを連戦した。1941年(昭和16年)3月に陸軍築城部部員に転じた。
大熊 信行(おおくま のぶゆき、1893年2月18日 - 1… 大熊 信行(おおくま のぶゆき、1893年2月18日 - 1977年6月20日)は、経済学者・文芸評論家・歌人。 富山大学教授、神奈川大学教授、創価大学教授などを歴任。福田徳三門下。 山形県米沢市元籠町生まれ。旧制米沢興譲館中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)を経て1916年東京高等商業学校(現一橋大学)卒。中学時代、浜田広介や上泉秀信と同人誌を作っていた。高商同期の歌人浦野敬はのちに、大熊の創刊した歌誌「まるめら」の同人となった。 1916年日清製粉入社。米沢商業学校で教鞭をとった後、1919年東京高等商業学校専攻部進学、1921年同卒。1941年経済学博士(東京商科大学)。論文の題は「経済理論における配分原理の所在並に適用に関する基礎的研究」。
別宮 貞俊(べっく さだとし、1893年2月18日 - 19… 別宮 貞俊(べっく さだとし、1893年2月18日 - 1958年9月19日)は、日本の実業家、工学博士、登山家。住友電気工業初代社長を務めた。 東京都で別宮音五郎の子として生まれる。1917年に東京帝国大学工学部電気科を卒業し、逓信省で電気試験所技師を務め、東京工業大学教授も務めた。 1930年に住友電気工業の前身である住友電線製造所に転職し、常務、専務、社長を歴任した。 東京電機大学教授、日本科学技術情報センター理事長、日本電気学会会長なども歴任した。登山が趣味で日本山岳会会長も務めた。 1958年9月19日、狭心症のために死去。65歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、旧名・正一(まさかず)、18… 木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、旧名・正一(まさかず)、1893年〈明治26年〉2月17日 - 1967年〈昭和42年〉7月10日)は、日本の政治家、実業家、群馬県多額納税者。位階は正三位。衆議院議員(8期)、参議院議員(2期)、運輸大臣。伊香保温泉の旅館業、木暮旅館主。群馬県観光協会、日本温泉協会各会長。群馬銀行取締役会長、関東いすゞ自動車販売社長、群馬バス社長。25代目武太夫。 群馬県北群馬郡伊香保町(現・渋川市)出身。先代・木暮武太夫(元衆議院議員)の長男。 1912年(明治45年)、旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒業。1917年(大正6年)、慶應義塾大学理財科を卒業。はじめ三井銀行に勤めたが、退社して家業の旅館業に従事した。
井川 忠雄(いかわ ただお、男性、1893年2月15日 – … 井川 忠雄(いかわ ただお、男性、1893年2月15日 – 1947年2月18日)は、日本の大蔵官僚、政治家。太平洋戦争開戦前、日米民間人交渉に携わった人物として知られる。 島根県出身。(旧制)仙台一中、一高、1917年東京帝国大学法科大学政治科を卒業後、大蔵省に入省。東京税務監督局兼理財局属。近衛文麿と近しく、近衛や後藤隆之助らが設立した「昭和研究会」の初期のメンバーでもあった。1936年、門司税関長を最後に退官し、産業組合中央金庫(現・農林中央金庫)理事となった。 1940年、ニューヨーク州のカトリック外国伝道協会のジェームズ・E・ウォルシュ、ドラウト両神父が井川のもとを訪れ、日米国交の調整問題について意見交換を行ったことを契機に、陸軍省の岩畔豪雄大佐とともに日米交渉を進め「日米諒解案」を作成するが、蚊帳の外に置かれていた松岡洋右外相の逆鱗に触れ、事実上握り潰された。
沢 ゆき(さわ ゆき、1893年(明治26年)2月15日 -… 沢 ゆき(さわ ゆき、1893年(明治26年)2月15日 - 1972年(昭和47年)11月29日)(澤ゆき。澤ゆき子。)は、大正-昭和時代の詩人。本名は飯野ゆき。「炬火(たいまつ)」などの詩誌に叙情詩を発表。1921年(大正10年)の詩集『孤独の愛』は島崎藤村から激賞された。茨城県出身。詩集に『孤独の愛』『沼』『浮草』がある。 1893年(1894年記載のものもあるが正しくは1893年)2月15日に茨城県稲敷郡茎崎村小茎(現・つくば市小茎)で生まれた。旧姓相澤ゆき(相沢ゆき)。牛久沼畔にある酒造家に生まれ、沼に親しんで育つ。沼は彼女の作品に多く描かれる。 1905年、単身上京し1908年に技芸大学(共立女子職業学校)(現、共立女子大学)に入学、1911年同大学を卒業。
中川 一政(なかがわ かずまさ、1893年〈明治26年〉2月… 中川 一政(なかがわ かずまさ、1893年〈明治26年〉2月14日 - 1991年〈平成3年〉2月5日)は、日本の洋画家、美術家、歌人、随筆家。東京府生まれ。 洋画、水墨画、版画、陶芸、詩、和歌、随筆、書と多彩な作品を制作した。作品のすべてが独学であり、自ら「在野派」と称した。洒脱な文章でも知られた。
草川 信(くさかわ しん、1893年2月14日 - 1948… 草川 信(くさかわ しん、1893年2月14日 - 1948年9月20日)は、日本の作曲家。 長野県上水内郡長野町(現長野市)に旧松代藩士で銀行員の草川一成の四男として生まれる。長野師範学校附属小学校(信州大学教育学部附属長野小学校)で福井直秋に薫陶を受け、旧制長野中学(長野県長野高等学校の前身)を経て、東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)に進むとヴァイオリンを安藤幸と多久寅に、ピアノを弘田龍太郎に師事する。 1917年卒業後、渋谷区立小学校訓導、東京府立第三高等女学校(東京都立駒場高等学校と東京都立芸術高等学校の前身)教諭、東京市杉並高等家政女学校(東京都立荻窪高等学校の前身)、東京音楽学校教務嘱託など教職の傍ら、東京音楽学校管弦楽団などで演奏家として活動。
渋谷 塊一(しぶや かいいち、1893年〈明治26年〉2月1… 渋谷 塊一(しぶや かいいち、1893年〈明治26年〉2月14日 - 1971年〈昭和46年〉2月9日)は、大正から昭和時代の政治家。埼玉県南埼玉郡日勝村長、川越市長。号に香井。位階は従六位。 素封家・渋谷浦吉の二男として、埼玉県南埼玉郡岡泉村(日勝村、白岡町を経て現白岡市岡泉)に生まれる。1914年(大正3年)明治大学法科を卒業し、1916年(大正5年)日勝村の名誉助役に就任する。ついで同村農会長、同村長を経て、1928年(昭和3年)埼玉県会議員に当選し、郡農会副会長、県農地委員などを兼ねた。 1942年(昭和17年)7月、地方事務所官制が施行されると民間人としては異例の地方事務官として北足立地方事務所長に登用された。
児島 善三郎(こじま ぜんざぶろう、1893年2月13日 -… 児島 善三郎(こじま ぜんざぶろう、1893年2月13日 - 1962年3月22日)は、日本の洋画家である。
住吉 正(すみよし ただし、1893年(明治26年)2月10… 住吉 正(すみよし ただし、1893年(明治26年)2月10日 - 1976年(昭和51年)3月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 広島県吉舎町[要出典]出身。陸軍少尉住吉義夫の長男として生まれる。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業し、同年12月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第11連隊付となる。陸軍砲工学校高等科で学び、1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業した。 参謀本部員、陸軍重砲兵学校教官、陸軍省軍務局課員、留守第3師団参謀、気球連隊練習部長などを経て、1938年(昭和13年)3月、砲兵大佐に進級し野戦重砲兵第3連隊長となり日中戦争に出征した。
小島 新一(おじま あらかず、1893年2月9日 - 198… 小島 新一(おじま あらかず、1893年2月9日 - 1987年3月3日)は、日本の商工官僚、経営者。茨城県出身。 1918年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に高文行政科に合格し、農商務省に入省。商工省で貿易局長や事務次官などを歴任。1941年に日本製鉄取締役に就任し、1945年には副社長に就任し、1946年に公職追放を受けて、辞任。1952年に八幡製鉄副社長として復帰し、1956年1月に社長に昇格した。社長在任時には、戸畑製鉄所や堺製鉄所の建設に尽力し、君津製鉄所への進出を決定し、業界の近代化を推進した。1962年5月に会長に就任し、1967年5月から相談役を務めた。 1970年から1974年までに日本銀行政策委員会委員を務め、日本鉄鋼連盟会長、経済団体連合会副会長、産業構造審議会会長なども歴任した。
鈴木 茂三郎(すずき もさぶろう、1893年2月7日 - 1… 鈴木 茂三郎(すずき もさぶろう、1893年2月7日 - 1970年5月7日)は、日本の政治家、第2代日本社会党委員長。ジャーナリスト、エッセイストとしても知られた。
田村 吉永(たむら よしなが、1893年2月7日 - 197… 田村 吉永(たむら よしなが、1893年2月7日 - 1977年8月17日)は、日本史学者。 奈良県吉野郡白銀村(現・五條市)生まれ。奈良師範学校卒。奈良県で中学校教員など。1923年大和史学会、1931年大和国史会を創設。1934年雑誌『大和志』を発刊する。1935年近畿日本鉄道史料編纂室勤務、44年嘱託。1960年「大和条里制と条坊制の研究」で関西大学文学博士。1964年梅光女学院短期大学講師、同教授。1967年梅光女学院大学文学部教授。74年退任。号は節嶺。
山形 政二(やまがた せいじ / まさじ、1893年(明治2… 山形 政二(やまがた せいじ / まさじ、1893年(明治26年)2月6日 - 1944年(昭和19年)2月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 鳥取県米子市道笑町出身。山形金太郎の息子として生まれる。山形家は今は米子駅前の「山形屋みやげ店」になっているが、元は道笑町一丁目で線香や木蝋を製造販売した老舗で、屋号を山形屋といった。1906年(明治39年)駅前の現在地に移ってから、信州山十製糸の指導のもとに、座繰製糸を始めている。 米子中学(現在の米子東高校)では野球部。海軍兵学校および陸軍士官学校(第27期)を受験し、双方に合格している。1912年(大正元年)[元号要検証]、海軍兵学校に進んだ。
吉沢 清次郎(よしざわ せいじろう、1893年2月6日 - … 吉沢 清次郎(よしざわ せいじろう、1893年2月6日 - 1978年4月2日)は、日本の外交官。
近藤 正二(こんどう しょうじ、1893年〈明治26年〉2月… 近藤 正二(こんどう しょうじ、1893年〈明治26年〉2月5日 - 1977年〈昭和52年〉1月22日)は、日本の衛生学者、医師。医学博士。東北大学名誉教授。 生涯を通して食生活改善の啓蒙・普及に尽力し、欧米人と比較して著しく劣っていた日本人の体格、体力、寿命の向上に貢献した。 新潟県新潟市本町通10番町(現 新潟市中央区本町通10番町)の薬種商・近藤市蔵の次男として出生。 1910年(明治43年)3月に新潟中学校を卒業、1913年(大正2年)7月に第一高等学校を卒業、1917年(大正6年)12月に東京帝国大学医科大学医学科を卒業。 1918年(大正7年)1月に東北帝国大学医科大学細菌学教室細菌学講座(担任:青木薫教授)助手に就任、1920年(大正9年)11月に東北帝国大学医学部細菌学教室細菌学講座講師に就任、1921年(大正10年)3月に助教授に就任。
押谷 富三(おしたに とみぞう、1893年〈明治26年〉2月… 押谷 富三(おしたに とみぞう、1893年〈明治26年〉2月5日 - 1985年〈昭和60年〉4月15日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(5期)。幕末出石藩家老、河合長孝の孫にあたる。 滋賀県東浅井郡浅井町(現・長浜市)出身。1916年(大正5年)関西大学法科を卒業。弁護士となる。 1931年(昭和6年)9月25日、大阪府会議員選挙に大阪市北区選挙区から立候補して当選した。その後、再選して1936年(昭和11年)1月25日に辞職した。1939年(昭和14年)9月25日に3選を果たした。1946年(昭和21年)12月29日から1947年(昭和22年)4月29日まで第40代大阪府会副議長を務めた。
由谷 正太郎(ゆたに しょうたろう、1893年〈明治26年〉… 由谷 正太郎(ゆたに しょうたろう、1893年〈明治26年〉2月3日 - 1965年〈昭和40年〉)は、日本の実業家。丸由百貨店専務取締役。由谷家4代目。 鳥取県鳥取市川端の呉服商・由谷節の長男。鳥取市立遷喬小学校を経て旧制鳥取県立鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)卒業。呉服太物洋反物卸商を営む。1935年、家督を相続する。 1937年、米原章三と提携し、鳥取駅前にターミナルデパートとして丸由百貨店を設立し、由谷は専務に就任する。 趣味は野球、釣り。宗教は日蓮宗。住所は鳥取市川端4丁目。
池田 謙蔵(いけだ けんぞう、1893年2月2日 - 197… 池田 謙蔵(いけだ けんぞう、1893年2月2日 - 1974年7月17日)は、日本の経営者。三菱信託銀行社長を務めた。 奈良県出身。1918年に東京帝国大学法学部英法科を卒業し、同年に三菱合資に入社。 1933年に三菱信託銀行に転じ、1945年10月に常務を経て、1946年12月に社長に就任。1959年5月に会長を経て、1965年5月に相談役に就任。 1958年5月に藍綬褒章を受章し、1972年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1974年7月17日、脳出血のために死去。81歳没。墓所は青山霊園。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
和知 鷹二(わち たかじ、1893年(明治26年)2月1日 … 和知 鷹二(わち たかじ、1893年(明治26年)2月1日 - 1978年(昭和53年)10月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 広島県出身。旧中津藩士、陸軍中佐・和知蓁一郎の二男として生まれる。広島高等師範学校附属中学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第3連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 1923年(大正12年)8月、歩兵第3連隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員(支那課)、参謀本部付(支那研究員・南支駐在)、参謀本部員、第6師団司令部付(済南特務機関)、済南駐在武官などを歴任し、1929年(昭和4年)3月、歩兵少佐に昇進。
雨田 光平(あまだ こうへい、1893年2月1日 - 198… 雨田 光平(あまだ こうへい、1893年2月1日 - 1985年11月14日)は、日本の箏曲家、彫刻家、ハープ奏者。本名は雨田 外次郎(あまだ ほかじろう)。福井県出身。 福井市に生まれる。東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)卒業。在学中に箏曲京極流始祖の鈴木鼓村に師事した。1920年に渡米、アメリカ合衆国とフランスで10年間にわたってハープを修業し、1926年にマルセル・トゥルニエに師事。彫刻家としても国際的に活躍し、「日本のロダン」と呼ばれた。1929年に帰国。日本ハープ協会顧問。箏曲京極流2代目宗家。絵画、詩、書、陶芸など幅広い分野で藝術活動をおこなった。1959年、中日文化賞受賞。