大門岩 嘉右エ門(おおといわ かえもん、1890年4月13日… 大門岩 嘉右エ門(おおといわ かえもん、1890年4月13日 - 1950年4月5日)は、現在の福岡県糸島市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は吉村 嘉右衛門。最高位は東関脇(1922年1月場所)。現役時代の体格は175cm、101kg。得意技はもろ差し、右四つ、寄り、上手出し投げ。非力ながら出足は鋭かった。 福岡県志摩郡芥屋村(のち糸島郡芥屋村→同志摩村→同志摩町、現在の糸島市)出身。1909年1月山分部屋から初土俵を踏む。後に出羽海部屋に移籍する。四股名は故郷の名勝「芥屋の大門」に因んだ。順調に昇進し1914年1月十両、1917年1月入幕した。175cm、101kgの体でもろ差し、右四つを得意とし、上手出し投げも得意とするなど技巧派。
原 久一郎(はら ひさいちろう、1890年4月10日 - 1… 原 久一郎(はら ひさいちろう、1890年4月10日 - 1971年10月19日)は、ロシア文学者。
菊池 義郎(きくち よしろう、1890年4月10日 – 19… 菊池 義郎(きくち よしろう、1890年4月10日 – 1990年2月4日)は、日本の政治家、植民政策学者。自由民主党衆議院議員。日本商科大学(廃校)の学長も務めた。
細野 躋(ほその のぼる、1890年4月9日 - 1984年… 細野 躋(ほその のぼる、1890年4月9日 - 1984年3月30日)は昭和時代日本の官僚、実業家。 1890年(明治23年)、東京府豊多摩郡渋谷村(現在の東京都渋谷区)で細野順の長男として出生。1915年(大正4年)に東京帝国大学法学部を卒業し高等文官試験に合格、鉄道省に入省する。イギリス、次いでアメリカ合衆国へ留学し、帰国後に鉄道書記官を経て総務課長へ至る。官僚時代には各地の鉄道局職員が編成したチームの対抗戦「全国鉄道野球大会」への出場経験がある。 阪神電気鉄道へ出向後、取締役支配人に至るが読売新聞社の正力松太郎から甲子園球場を本拠地とする職業野球チーム創設を持ち掛けられ、今西与三郎社長、石井五郎専務らと1935年(昭和10年)12月に阪神タイガースの前身となる「大阪野球倶楽部」設立に尽力した。
原田 実(はらだ みのる、1890年4月8日 - 1975年… 原田 実(はらだ みのる、1890年4月8日 - 1975年1月6日)は、日本の教育学者、作家、翻訳家。早稲田大学名誉教授。 千葉県朝夷郡丸村に生まれる。千葉県立安房中学校(現・安房高等学校)を卒業。その後、早稲田大学高等師範部卒。 若山牧水と交流し、牧水が主宰する詩歌雑誌『創作』(1910年創刊)や太田水穂の『潮音』(1915年創刊)に短歌や歌論を精力的に発表。歌人として注目されたが、その後は学者の道で大成することとなった。 1918年、『青鞜』(1911 - 1916)や『潮音』などに「斎賀琴」あるいは「斎賀琴子」名義で短歌や小説を発表していた斎賀こと(1892 - 1973)と結婚。 雑誌『教育時論』編集長、1946年早大教授。
萩原 彦三(はぎわら ひこぞう、1890年(明治23年)4月… 萩原 彦三(はぎわら ひこぞう、1890年(明治23年)4月6日 - 1967年(昭和42年)10月15日)は、日本の拓務官僚。 埼玉県大里郡御正村(現在の熊谷市)出身。旧制熊谷中学、旧制第一高校を経て、1915年(大正4年)10月に文官高等試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業した。朝鮮総督府試補、同参事官、同事務官、学務局学務課長・宗教課長、殖産局水産課長、総督官房文書課長、殖産局土地改良課長、咸鏡南道知事などを歴任した。 その後、拓務省管理局長、同殖産局長を経て、1937年(昭和12年)5月14日に拓務次官に就任し、1939年(昭和14年)4月15日に次官を辞して退官した。
水沢 孝策(みずざわ こうさく、1890年(明治23年)4月… 水沢 孝策(みずざわ こうさく、1890年(明治23年)4月6日 - 1968年(昭和43年))は、日本の外交官。駐パナマ公使。 新潟県出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部政治科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。外務属、領事官補、スペイン公使館三等書記官、ドイツ大使館三等書記官、ポーランド領事館領事、ロサンゼルス領事、アメリカ合衆国大使館二等書記官、同一等書記官を歴任。1933年(昭和8年)、外務書記官・調査部第二課長となり、翌年には香港総領事に転じた。1937年(昭和12年)、ホノルル総領事に就任し、1939年(昭和14年)に駐パナマ公使に任命された。 1940年(昭和15年)に退官した後は、南洋拓殖株式会社顧問を務めた。
樋貝 詮三(ひがい せんぞう、1890年〈明治23年〉4月3… 樋貝 詮三(ひがい せんぞう、1890年〈明治23年〉4月3日 - 1953年〈昭和28年〉1月1日)は、日本の政治家、法学者。法学博士。位階は正三位。 保険院長官、衆議院議員、第37代衆議院議長、第3次吉田内閣国務大臣・賠償庁長官を歴任した。 山梨県東山梨郡勝沼町(現・甲州市)出身。日川中学、中央大学夜間法科在学中に文官高等試験に合格し、1918年に京都帝国大学法科大学を卒業。卒業後は法制官僚となり、法制局に勤務の傍ら中央大学講師を務め、内閣恩給局長・保険院長官などを歴任。1943年、『海の慣習法』で京都帝国大学法学博士。 1946年の戦後最初に行われた第22回衆議院議員総選挙では、郷里の山梨から日本自由党(鳩山自由党)の公認候補として擁立されて立候補し、当選する。
赤松 小寅(あかまつ ことら、1890年〈明治23年〉4月3… 赤松 小寅(あかまつ ことら、1890年〈明治23年〉4月3日 - 1944年〈昭和19年〉4月25日)は、日本の内務・警察官僚。官選府県知事。 東京府出身、静岡県磐田郡見付町で生まれる。旧幕臣、海軍中将・赤松則良の五男として生まれる。学習院中等学科、同高等学科を経て、1915年2月、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1916年2月、内務省に入り、長崎県工場監督官補として警察部保安課勤務となる。 1917年10月、長崎県属として内務部地方課勤務に転じた。以後、同地方課長心得、長崎県理事官、三重県農商課長、山梨県理事官、内務省社会局事務官・工場監督官などを歴任。
赤堀 鉄吉(あかほり てつきち、1890年(明治23年)4月… 赤堀 鉄吉(あかほり てつきち、1890年(明治23年)4月3日 - 1968年(昭和43年)1月1日)は、日本の外交官。台湾総督府官僚、弁護士。 大阪市此花区西島町出身。1918年(大正7年)、東京帝国大学法学部英法科を卒業。愛知県属、台南州警務課長・理蕃課長、台北州教育課長、高雄州警務部長、同内務部長、台中州警務部長、殖産局鉱務課長・商工課長、同山林課長・鉱務課長、文教局学務課長、内務局地方課長・地理課長、殖産局農務課長、専売局庶務課長、新竹州知事、高雄州知事などを歴任した。 退官後は台湾住宅営団理事長に就任した。 1942年(昭和17年)より中華民国大使館参事官・廈門総領事を務めた。戦後に弁護士を開業。
兼崎 地橙孫(かねざき ぢとうそん、1890年〈明治23年〉… 兼崎 地橙孫(かねざき ぢとうそん、1890年〈明治23年〉3月27日 - 1957年〈昭和32年〉9月3日)は、山口県出身の日本の俳人、書家、弁護士。本名は理蔵。 1890年(明治23年)に山口県山口市に生まれる。豊浦中学校(現:山口県立豊浦高等学校)時代に俳句を始め、河東碧梧桐が撰者をしていた新聞『日本』へ投句。私立興風中学(現:山口県立小野田高等学校)に転校し卒業、この頃遊行中の碧梧桐本人と出会い傾倒する。第五高等学校(現:熊本大学)へ進学する頃には荻原井泉水の『層雲』に投句を始め、若き新傾向俳人として注目される。碧梧桐が1915年(大正4年)に『海紅』を創刊すると海紅にも投句を始める。この頃ら層雲の句友、種田山頭火が度々地橙孫の元を訪れるようになり、山頭火の放浪や生活の面倒などを生涯に渡り手助けすることとなる。
水野 鼎蔵(みずの ていぞう、1890年(明治23年)3月2… 水野 鼎蔵(みずの ていぞう、1890年(明治23年)3月26日 - 1968年(昭和43年)8月17日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、教育者。長野県上田市長。位階は従六位。 長野県小県郡上田町房山(現上田市上房山)で、旧家・水野茂平の長男として生まれた。1910年(明治43年)旧制上田中学(現長野県上田高等学校)を卒業。国内外の玩具に興味を持ち、1922年(大正11年)地元に日本アルプス玩具水野工場を創業し、海外輸出を軌道に乗せ、日本貿易協会から表彰された。1941年(昭和16年)上田化工を設立し、専務取締役工場長となる。戦後はアルプス玩具を経営。その他、上田商工会議所議員、長野県商工経済会評議員、上田ガス取締役、上田信用金庫理事なども務めた。
荒勝 文策(あらかつ ぶんさく、1890年3月25日 - 1… 荒勝 文策(あらかつ ぶんさく、1890年3月25日 - 1973年6月25日)は、日本の物理学者。専門は原子核物理学。京都大学名誉教授。理化学研究所の仁科芳雄、大阪帝国大学の菊池正士と共に、日本を代表する原子核物理学者であった。戦時下には大日本帝国海軍のF研究の主要人物として日本の原子爆弾開発に関わった。紫綬褒章、従三位勲二等旭日重光章受章。兵庫県印南郡的形村(現姫路市的形町)出身。 御影師範学校(神戸大学国際人間科学部の前身)を経て東京高等師範学校を卒業し、いったん佐賀県で教職に就いたのちに京都帝国大学理科大学物理学科に入学。1918年に卒業した後はそのまま講師・助教授を務め、1926年に台北帝国大学教授に内定。
村本 福松(むらもと ふくまつ、1890年3月23日 - 1… 村本 福松(むらもと ふくまつ、1890年3月23日 - 1973年6月22日)は、日本の経営学者。 大阪府大阪市出身。1910年大阪高等商業学校卒、1919年に日本人で初めてハーバード大学経営学大学院でMBAを取得し、日本におけるアメリカ経営学の導入に先駆的役割を果たす。1962年「経営の論理」で大阪市立大学商学博士。1928年旧制大阪商科大学教授、1942年学長事務取扱。神戸商科大学教授、浪速大学教授、校名変更で大阪府立大学教授、大阪市立大学教授、大阪府立産業能率研究所、京都産業大学教授を務めた。研究は、経営学、商学、経営者論、中小企業論、広告論等幅広い。東亜大学の設立に参加したが設立以前に死去した。
武藤 常介(むとう つねすけ、1890年3月21日 - 19… 武藤 常介(むとう つねすけ、1890年3月21日 - 1963年8月6日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。衆議院議員(1期)。位階は従四位。勲等は勲二等。旧姓は黒羽。 茨城県久慈郡誉田村(現常陸太田市)生まれ。茨城県立師範学校(現茨城大学)卒業後、久慈郡太田小学校訓導、太田実科高等女学校講師などを経て、1925年に太田町議会議員に当選。1932年(昭和7年)には太田町長に就任し、3期。この間、1942年には茨城県町村長会長を歴任した。 国政選挙では、1946年の総選挙で茨城選挙区に日本進歩党から出馬して初当選、だが公職追放に遭い1期限りで不出馬となる。追放解除後の1953年の参院選で茨城県選挙区に改進党から出馬して当選し、以後2期。
松生 義勝(まついけ よしかつ、1890年3月21日 - 1… 松生 義勝(まついけ よしかつ、1890年3月21日 - 1963年1月12日) は、日本の化学者。初代東京水産大学学長。 大阪府出身。1913年水産講習所(現東京海洋大学)製造科卒業。東北帝国大学理学部物理学科から転じ、1922年東北帝国大学理学部化学科卒業。東北帝国大学助手を経て、1927年助教授。1928年水産講習所教授、理学博士。1941年釜山高等水産学校教授。1946年水産講習所所長。1947年第二水産講習所(現水産大学校)所長事務取扱。1949年東京水産大学(現東京海洋大学)学長。1958年東京水産大学名誉教授、農林省水産講習所(現水産大学校)所長。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
白岩 亮治(しらいわ りょうじ、1890年3月21日 - 1… 白岩 亮治(しらいわ りょうじ、1890年3月21日 - 1971年11月17日)は、宮城県桃生郡矢本町(現・同県東松島市)出身で尾車部屋に所属した大相撲力士。本名は奥田 亮二。身長173cm、体重90kg。現役引退後は、年寄として後進の指導につとめた。 19歳の時に尾車部屋へ入門し、1910年1月場所で初土俵を踏んだ。「白岩」の四股名は、故郷に大きな白い岩があったことに因む。 昇進は順調で、1915年6月場所で新十両に昇進した。その直後、師匠が亡くなり、所属力士らは峰崎部屋に預けられる。その間、1919年1月場所で新入幕した。 もろはずにかかっての押しを得意としたが、地味な取り口であった。入幕後十両に落ちることもなく、39歳まで現役で取っていたこともあり、元々の老け顔もあって周囲からは「白岩老」と呼ばれることもしばしばだった。
萱嶋 高(かやしま たかし、1889年〈明治22年〉4月18… 萱嶋 高(かやしま たかし、1889年〈明治22年〉4月18日 - 1956年〈昭和31年〉2月18日)は、大日本帝国陸軍軍人、陸軍中将。宮崎県児湯郡高鍋町出身。陸士22期、陸大32期。 天津駐屯歩兵隊(昭和11年5月30日からは支那駐屯歩兵第2連隊)長、歩兵第136旅団長などを歴任し、太平洋戦争開戦後は、留守第6師団長から新設された第46師団の師団長となるが師団が南方に渡る前に予備役、その後召集され再び留守第6師団長。 退役後、1945年に宮崎市長に就任したが、連合国軍の進駐にともない辞職した。その後、公職追放となり、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、通州事件に関する証言をおこなっている。
君島 清吉(きみじま せいきち、1889年(明治22年)4月… 君島 清吉(きみじま せいきち、1889年(明治22年)4月16日 - 1966年(昭和41年)1月11日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 栃木県下都賀郡栃木町(現栃木市)出身。君島寅吉の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1917年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し奈良県工場監督官補となる。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。 以後、奈良県警視、国勢院書記官、内務省社会局事務官、同書記官、同労働部労務課長、兼同部労政課長などを歴任。 1931年12月、茨城県知事に就任。1932年6月、香川県知事に転任。県下の治安と県民の生活安定に尽力。1933年6月、宮崎県知事に転任。
井上 吉次郎(いのうえ きちじろう、1889年4月13日 -… 井上 吉次郎(いのうえ きちじろう、1889年4月13日 - 1976年3月4日)は、ジャーナリスト、社会学者。 和歌山県出身。東京帝国大学卒。1916年東京日日新聞社入社、大阪毎日新聞社出版局次長。1946年創刊の「新大阪新聞」主筆。1949年関西大学教授、60年定年、1966年追手門学院大学教授。1959年「社会交通と文化交流に就いての社会学的考察」で関西大学文学博士。
加藤 精一(かとう せいいち、1889年4月11日 - 19… 加藤 精一(かとう せいいち、1889年4月11日 - 1963年8月28日)は、日本の俳優である。本名同じ。坪内逍遙の文芸協会に参加、新劇の初期から舞台俳優として活動した人物として知られる。 1889年(明治22年)4月11日、岡山県上房郡高梁町(現在の同県高梁市)に生まれる。父は熊本藩の漢学者出身の人物であったが、精一の出生後、まもなく死去したため、精一は、加藤家の養子となった。のちの俳優の成松和一(1905年 - 1944年)は義弟にあたる。地元の旧制高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)へ通い卒業する。 東京に移り、早稲田大学英文科に入学、小川未明、三木露風、北原白秋、西條八十らと詩作を通じて親交を結んだ。
山下 長(やました たけし、1889年4月8日-1959年2… 山下 長(やました たけし、1889年4月8日-1959年2月9日)は、日本の実業家。オリンパス(旧・高千穂製作所)創業者、高千穂製作所社長。顕微鏡をはじめとする光学機器の製造業を経営した。 鹿児島県名瀬の金久(現・奄美市内)出身。名瀬の高等小学校で3年間学んだ後、鹿児島の本家にひきとられて中学造士館に入る。1904年に上京。東京の京北中学校 (旧制)と京都の第三高等学校 (旧制)を卒業。1915年東京帝国大学法科大学法律学科(独法科)卒業。弁護士となるが、父の勧めで実業界に転じ親戚の松方正義関連の企業に就職することとなる。川崎造船所などの大企業は断り、松方の五男・五郎が経営する常盤商会に1918年入社。
山本 熊一(やまもと くまいち、1889年(明治22年)4月… 山本 熊一(やまもと くまいち、1889年(明治22年)4月8日 - 1963年(昭和38年)1月17日)は、日本の外交官。外務次官、大東亜次官、駐タイ大使。 山口県出身。1912年(明治45年)、東亜同文書院を卒業。外交科試験以外の合格者を採用する「門戸解放」の一環として、高等文官試験に合格し、1920年(大正9年)に外務事務官となり、トルコ大使館三等書記官、外務省通商局勤務、イギリス大使館二等書記官、満州国大使館二等書記官、同一等書記官、外務省調査部第五課長、同通商局長を歴任した。1940年(昭和15年)東亜局長となり、1941年(昭和16年)10月にはアメリカ局長を兼任した。さらに1942年(昭和17年)外務次官に就任し、同年11月1日大東亜次官に転じた。
川副 隆(かわそえ たかし、1889年(明治22年)4月8日… 川副 隆(かわそえ たかし、1889年(明治22年)4月8日 - 1962年(昭和37年)8月2日)は、大正から昭和期の実業家・政治家。衆議院議員。 長崎県西松浦郡伊万里町(現伊万里市)で、政治家川副綱隆の長男として生まれる。1915年(大正4年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 三菱商事に入社。漢口出張所長、船舶部長代理、漢口日本居留民団行政委員などを歴任。その後、海運業に従事し、神戸会陽汽船取締役、大阪静鉱業取締役、佐世保親和銀行取締役、佐世保運輸取締役、西肥菱油取締役、川副商会社長、日東燃料社長、九北運輸社長、丸三肥料社長、佐世保魚市場社長、佐世保製氷冷蔵社長などを務めた。 1937年(昭和12年)4月、第20回衆議院議員総選挙(長崎県第2区、立憲民政党公認)で初当選し、1942年(昭和17年)4月の第21回総選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して再選された。
菊池 知勇(きくち ちゆう・ともお、1889年〈明治22年〉… 菊池 知勇(きくち ちゆう・ともお、1889年〈明治22年〉4月7日 - 1972年〈昭和47年〉5月8日)は、日本の教育者、歌人。 岩手県東磐井郡渋民村(現・一関市大東町曾慶)出身。奥玉高等小学校に入学したのち下折壁高等小学校を卒業。岩手師範学校(現・岩手大学教育学部)卒業。上京し、慶応幼稚舎の教員となる。1910年若山牧水の『創作』の創刊に参加、1926年初めての綴方専門誌『綴方教育』を創刊。1927年口語短歌誌『ぬはり』を創刊した。幼稚舎での教え子に詩人の薩摩忠がいる。 『ぬはり』は戦時下の用紙統制で1944年、『真樹』(1930年、山本康夫創刊)などと合併し『直毘』(なおび)として刊行された時期もあったが、その後も刊行が続いている。
中山 詳一(なかやま しょういち、1889年(明治22年)4… 中山 詳一(なかやま しょういち、1889年(明治22年)4月6日 - 1945年(昭和20年)3月20日)は、日本の外交官。駐イラン公使。 京都府出身。1913年(大正2年)、京都帝国大学法科大学を卒業。1916年(大正5年)、外交官及領事官試験に合格し、漢口に領事官補として赴任した。以後、浦塩派遣軍政務部員、ロシア在勤外交官補、外務事務官、通商局第二課勤務、在アメリカ合衆国大使館三等書記官、同二等書記官、牛荘領事・関東庁事務官、外務書記官、亜細亜局第一課長、同第二課長、在英国大使館一等書記官、中華民国公使館一等書記官、同大使館参事官を歴任。1934年(昭和9年)からはイタリア大使館参事官を務めた。
板垣 只二(いたがき ただじ、1889年(明治22年)4月5… 板垣 只二(いたがき ただじ、1889年(明治22年)4月5日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。弁護士。 徳島県出身。井村乕吉の二男として生まれ、板垣住蔵の養子となった。1911年(明治44年)、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)紡織科を卒業。朝鮮総督府属、同税関鑑定官を務めた。1921年(大正10年)、高等試験行政科に合格。朝鮮総督府税関監視官・事務官、税関関税官、理事官、馬山府尹、木浦府尹などを歴任した。 退官後の1932年(昭和7年)、高等試験司法科に合格し、弁護士を開業した。1935年(昭和10年)には中央大学法学部を卒業した。 その他、東京ビタミン製造会社社長、第一化学工業株式会社社長、北陸工業株式会社社長、小倉鉱業株式会社社長、時事写真速報株式会社取締役会長、京浜昭興株式会社社長、共立企業株式会社取締役、蔵前工業会館株式会社取締役、共立興業株式会社取締役、壁谷ゴム工業株式会社取締役、銀座昭興株式会社監査役などを務めた。
福田 重清(ふくだ しげきよ、1889年〈明治22年〉4月4… 福田 重清(ふくだ しげきよ、1889年〈明治22年〉4月4日 - 1964年〈昭和39年〉7月19日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。初代日立市長(1期) 。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 富山県出身。1909年(明治42年)中央大学法律科卒。日本鉱業(日鉱)に入り、日立鉱業所庶務課長を経て、1933年(昭和8年)副所長も兼任する。1939年(昭和14年)日立市が発足すると同所副所長のまま市長に就任した。市長は翌年まで務め、1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では茨城2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受け立候補して当選する。衆議院議員在職中に日立鉱業所の所長に就任する。
大友 順治(おおとも じゅんじ、1889年(明治22年)4月… 大友 順治(おおとも じゅんじ、1889年(明治22年)4月4日 - 1966年(昭和41年)10月14日)は、日本の政治家。宮城県富谷村長(2期)。 宮城県黒川郡富谷村(のち富谷町、現・富谷市)出身。富谷高等小学校卒。家業(米穀・食糧・肥料・雑貨の販売)に従事し、1929年(昭和4年)富谷村会議員に当選。1945年(昭和20年)11月富谷村長に就任した。 1947年(昭和22年)地方自治法の施行に伴う初の公選による富谷村長に当選した。戦後の財政的に苦しい時期に六・三・三制による教育改革での新制中学校校舎建設計画を立案し、着工に至り、完成にこぎつけた。また、度重なる台風被害に対し、災害からの早期復旧事業の達成に力を入れた。
西村 卓爾(にしむら たくじ、1889年〈明治23年〉4月3… 西村 卓爾(にしむら たくじ、1889年〈明治23年〉4月3日) - 1967年〈昭和42年〉10月10日)は、大正時代中期の歯科医師である。 長門国美祢郡大嶺村(山口県美祢市大嶺町重安)に醫家西村家第四代当主西村俊三(にしむら しゅんぞう)の嫡男として生まれた。父親と同じく医師を志し大阪高等医学専門学校(現:大阪医科薬科大学)を卒業。しかし剣道の試合中に耳を痛め、歯科医師へ転向する。東京歯科医学専門学校(現:東京歯科大学)卒業(第3期)。大正2年3月、山口県下関市新地町において西村歯科医院開業。 大正7年、山口県に2歯科医師会が存立し、対立状態が続いた当時、日本連合歯科医師会会長である血脇守之助氏、山口県歯科医師会会長である林義三郎氏と会談、問題解決に尽力する[どうやって?]。
多田 北烏(ただ ほくう、1889年〈明治22年〉4月3日 … 多田 北烏(ただ ほくう、1889年〈明治22年〉4月3日 - 1948年〈昭和23年〉1月1日)は、日本の商業美術家。本名は多田 嘉寿計(かすけ)。大正から昭和初期にかけてポスターや雑誌のデザインを多数手がけ、日本のポスターデザインの先駆者と言われる。 長野県松本市北深志出身。多田庄野の長男として生まれる。江戸時代に信濃国安曇郡で発生した貞享騒動の義民多田加助の子孫にあたる。13歳で上京し、日本画家の大和雲陽に師事、旧制東京高等工業学校図案科選科修了、川端画学校に学び、凸版印刷図案部を経て、東京図案研究所長等を歴任した。大正11年(1922年)に、日本初のデザイン制作会社である実用美術研究所サン・スタジオを創設し、商業美術の向上と後進の指導に努力した。
太宰 施門(だざい せもん、1889年〈明治22年〉4月1日… 太宰 施門(だざい せもん、1889年〈明治22年〉4月1日 - 1974年〈昭和49年〉1月11日)は、日本のフランス文学者。京都大学名誉教授。名前の読み方は「しもん」あるいは「よしかど」とされることもある。 岡山県倉敷市児島出身。旧制岡山県立岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1907年に旧制第一高等学校へ進学、1910年、同校を卒業する。1913年東京帝国大学文学部卒。1919年第一高等学校教授在職中にフランス留学を命ぜられ、1920年出発、1921年京都帝国大学文学部助教授に任ぜられ、1923年帰国し着任、京都帝大に仏文研究室を開設。1931年オノレ・ド・バルザック「人間喜劇」の研究で文学博士、論文の題は「ラ、コメヂ、ユメーヌの研究」。
雪沢 千代治(雪澤 千代治、ゆきざわ ちよじ、1889年(明… 雪沢 千代治(雪澤 千代治、ゆきざわ ちよじ、1889年(明治22年)4月1日 - 1970年(昭和45年)2月20日)は、日本の内務官僚、政治家。府県知事、衆議院議員。 長崎県西彼杵郡雪浦村(現在の西海市)出身。雪沢梅太郎の二男として生まれる。第三高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入り静岡県属となる。 以後、岩手県理事官、兵庫県警視、内務事務官、新潟県書記官・学務部長、内務省土木局港湾課長、大臣官房都市計画課長などを歴任。 1937年6月、岩手県知事に就任。以後、熊本県・愛知県・京都府の各知事を歴任。1944年4月、愛媛県知事兼四国地方行政協議会長となる。
猿谷 吉太郎(さるや きちたろう、1889年〈明治22年〉4… 猿谷 吉太郎(さるや きちたろう、1889年〈明治22年〉4月1日 - 1987年〈昭和62年〉3月20日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1889年(明治22年)群馬県碓氷郡松井田町五料(現・安中市松井田町五料)に生まれる。旧制安中中学校(現・群馬県立安中総合学園高等学校)、陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校第22期卒業。1935年(昭和10年)12月に陸軍造兵廠火工廠板橋火薬製造所長に就任し、1937年(昭和12年)3月1日に陸軍砲兵大佐進級と同時に陸軍造兵廠名古屋工廠熱田製造所長に着任した。同年10月25日に兼陸軍造兵廠名古屋工廠高蔵製造所長となり、1939年(昭和14年)9月に陸軍造兵廠名古屋工廠立川兵器製造部長に転じた。
久山 知之(くやま ともゆき、1889年〈明治22年〉4月1… 久山 知之(くやま ともゆき、1889年〈明治22年〉4月1日 - 1968年〈昭和43年〉2月3日)は、日本の政治家、実業家、著述業。衆議院議員(岡山県第一区選出、当選6回)。岡山県会議員。 岡山県久米郡大井西村(現・津山市)に生まれた。久山茂樹の長男。1909年、家督を相続した。早稲田大学に学び、中退した。中国民報社に勤務し、記者となった。岡山県交通互助会長、高信銀行支店長、同支配人、久山工業所長、西美鉄道、美作電化工業各会社重役を務めた。 1919年、岡山県会議員に当選。1928年、衆議院議員に当選(6期連続当選)。立憲政友会に所属した。立憲政友会総務を務めた。1937年6月、第1次近衛内閣で司法政務次官に任ぜられ、1939年1月、退任した。
21代 木村 庄之助(にじゅういちだい きむら しょうのすけ… 21代 木村 庄之助(にじゅういちだい きむら しょうのすけ、1889年4月1日 - 1970年11月25日)は、大相撲の立行司。所属部屋:伊勢ノ海→井筒→双葉山道場・時津風。風貌から「蔣介石庄之助」と通称されている。 長野県更級郡塩崎村(現長野市)出身。本名:樽田→竹内重門。祖父、父(湊崎)ともに東京相撲の力士で、廃業後も浦風部屋の地方世話人(巡業の世話)をしていた。そのため幼少の頃に父の力士時代からの知人であった伊勢ノ海部屋所属の年寄・6代山響の養子となり、1897年、わずか8歳で初土俵を踏んだ。初名は3代式守与之吉で、20代庄之助が兄弟子である。1913年1月場所8日目に青白房(十両格)に昇格。
藤田 定市(ふじた さだいち、1889年〈明治22年〉4月1… 藤田 定市(ふじた さだいち、1889年〈明治22年〉4月1日 - 1973年〈昭和48年〉9月3日)は、日本の実業家。フジタ工業(現・フジタ)会長。広島県知事をつとめた藤田雄山は孫。 広島県賀茂郡中黒瀬村字大多田(現・東広島市黒瀬町)の農家に生まれる。藤田次助の三男。1910年12月、21歳の頃、兄の一郎とともに広島市台屋町で土木建築請負業を始める。 土木建築請負業を営む。1916年、「藤田組」を名乗り、兄の一郎が組長に、定市が副組長になる。1944年、藤田組社長に就任。1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下により、定市は自宅で家屋の下敷きとなり、重傷を負う。1962年、藤田組会長に就任。
辰馬 夘一郎(辰馬 卯一郎、たつうま ういちろう、1889年… 辰馬 夘一郎(辰馬 卯一郎、たつうま ういちろう、1889年〈明治22年〉3月26日 - 1979年〈昭和54年〉10月23日)は、日本の政治家。兵庫県西宮市長。西宮市会議員。西宮市名誉市民。 兵庫県武庫郡西宮町(現西宮市)出身。先代辰馬卯一郎の三男。 関西大学専門部に学び、中退する。1933年(昭和8年)、万歳酒造代表取締役となる。西宮町議を経て同市議に当選する。 1946年(昭和21年)3月2日から1959年(昭和34年)4月29日まで西宮市長を務めた。最後の官選市長であり、初代公選市長でもある。 1949年(昭和24年)には、夙川河川敷緑地に1,000本の桜の若木の植樹を行った。 1959年(昭和34年)、西宮市初の名誉市民。
泊 武治(とまり たけじ、1889年(明治22年)3月25日… 泊 武治(とまり たけじ、1889年(明治22年)3月25日 - 1953年(昭和28年)2月20日)は、日本の内務・警察官僚。官選高知県知事。陸軍司政長官。 石川県出身。泊宗平の五男として生まれる。第四高等学校を卒業。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1915年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。 三井鉱山を経て、1916年、内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、北海道庁警視、警視庁警視、同理事官、島根県書記官・警察部長、徳島県書記官・警察部長、長野県書記官・警察部長、和歌山県書記官・内務部長、京都府書記官・警察部長、同内務部長、大阪府内務部長、北海道庁土木部長などを歴任。
林 譲治(林 讓治、はやし じょうじ、1889年(明治22年… 林 譲治(林 讓治、はやし じょうじ、1889年(明治22年)3月24日 - 1960年(昭和35年)4月5日)は、日本の政治家。第41代衆議院議長、副総理、厚生大臣、初代内閣官房長官、内閣書記官長、高知県議会議員を歴任。位階勲等は従二位勲一等旭日桐花大綬章。 自由民権運動家としても活躍した明治・大正期の政治家・林有造の次男として高知県幡多郡宿毛村(現:宿毛市)に生まれた。戦後の内閣総理大臣・吉田茂の又従弟に当たる。1918年(大正7年)京都帝国大学法科大学独法科を卒業する。三菱倉庫勤務を経て1923年(大正12年)に宿毛町長、1927年(昭和2年)に高知県会議員となる。 1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に立候補し当選。
二荒 芳之(ふたら よしゆき、1889年(明治22年)3月2… 二荒 芳之(ふたら よしゆき、1889年(明治22年)3月22日 - 1909年(明治42年)8月18日)は、日本の伯爵。北白川宮能久親王の庶子で、後にその父子関係が確認されて華族に列せられた。旧姓は山本。 北白川宮能久親王の庶子として栃木県に生まれる。生母は側室の申橋カネ。申橋家は栃木県平民で、日光輪王寺宮元家司に申橋姓がある。 1891年(明治24年)、能久親王の信任が篤かった浅間牧場主事の黒岩有哉に密かに預けられ、群馬県吾妻郡長野原町で3年間を過ごしたのち、1894年(明治27年)から応桑村小学校(当時、現・長野原町立応桑小学校)に学んだ。当時は、快活で明朗大胆な性格だった。 1895年(明治28年)10月28日、父能久親王と死別。
小原 英一(おはら えいいち、1889年3月22日 - 19… 小原 英一(おはら えいいち、1889年3月22日 - 1959年12月22日)は、日本の実業家・運輸官僚。南海電気鉄道元社長・会長。 千葉県出身。東京帝国大学政治学部卒業後、1915年に鉄道院入りし、配車課長、貨物課長を歴任した後、1934年に退官。南海鉄道へ中途入社し、運輸部長、専務取締役を歴任した後、関西急行鉄道との合併で近畿日本鉄道副社長に就任。 1947年に南海電気鉄道発足に伴い社長に就任するが、南海野球(当時のプロ野球球団・南海ホークスの運営会社)会長となり、1950年に南海電鉄社長に復帰してその後は会長も歴任。南海会館をはじめ動物園・水族館・四国航路など関連事業に尽力し、太平洋野球連盟会長、新日本放送(現:毎日放送)監査役などを務めた。
柳 宗悦(やなぎ むねよし、1889年〈明治22年〉3月21… 柳 宗悦(やなぎ むねよし、1889年〈明治22年〉3月21日 - 1961年〈昭和36年〉5月3日)は、日本の美術評論家、宗教哲学者、思想家。民藝運動の主唱者である。名前は「やなぎ そうえつ」とも読まれ、欧文においても「Soetsu」と表記される。 宗教哲学、近代美術に関心を寄せ白樺派にも参加。芸術を哲学的に探求、日用品に美と職人の手仕事の価値を見出す民藝運動も始めた。著名な著書に『手仕事の日本』、『民藝四十年』などがある。 1889年(明治22年)3月21日、東京府東京市麻布区市兵衛町二丁目(現在の東京都港区六本木)に(父の元海軍少将・柳楢悦と母・勝子の三男として生まれる。1891年、宗悦が2歳の時に父はインフルエンザで死去、その後は母に育てられた。
土師 盛貞(はし もりさだ、1888年(明治21年)4月19… 土師 盛貞(はし もりさだ、1888年(明治21年)4月19日 - 1946年(昭和21年)1月10日[要出典])は、朝鮮総督府官僚。 鹿児島県鹿児島市下竜尾町出身。1914年(大正3年)に高等文官試験に合格し、翌1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。石川県警部、同警視、和歌山県日高郡長を務めた。1920年(大正9年)、朝鮮総督府事務官に転じ、全羅南道警察部長、京畿道警察部長、逓信局海事課長、海員審判所長、殖産局商工課長・商工奨励館長を歴任した。1931年(昭和6年)、専売局長となり、翌年に平安北道知事に転じた。1935年(昭和10年)からは慶尚南道知事を務め、1937年(昭和12年)に退官した。
岩谷 莫哀(いわや ばくあい、本名:岩谷 禎次、1888年(… 岩谷 莫哀(いわや ばくあい、本名:岩谷 禎次、1888年(明治21年)4月18日 - 1927年(昭和2年)11月20日)は、日本の歌人、編集者。鹿児島県生まれ。 鹿児島県薩摩郡宮之城村湯田(現在のさつま町)に生まれる。川内中学校(現在の鹿児島県立川内高等学校)に進学、今井白楊と同窓となり文学を志し、「秀才文壇」などに投稿。第七高等学校造士館(現在の鹿児島大学)を経て、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。東大では尾上柴舟に学んだ。 短歌雑誌『車前草』を創刊。編集者として『桜草』や、橋田東聲主宰の『珊瑚礁』など、他の短歌雑誌でも活躍、のちに『水甕』を創刊し、同誌に専念する。 1916年、出版社「莫哀社」を起こすも事業に失敗し、翌年には明治製糖に入社して台湾に渡る。
伊藤 恭一(いとう きょういち、1888年(明治21年)4月… 伊藤 恭一(いとう きょういち、1888年(明治21年)4月15日 - 1950年(昭和25年)3月16日)は、明治末から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員。 岐阜県恵那郡付知村(付知町を経て現中津川市付知町)で、伊藤文弥の三男として生まれる。付知小学校卒業後、検定試験で准教員の資格を得て郷里の学校で教員を務め、1910年(明治43年)3月、岐阜県師範学校を卒業した。 加納小学校訓導に就任。以後、付知小学校訓導、同校長、岐阜県視学、岐阜市白山小学校長、同市徹明小学校長などを歴任。さらに、白山商工実修学校長、徹明商業青年学校長、岐阜県教員購買組合監事、同県国民学校長会副会長、大日本教育会岐阜県支部参与などを務めた。
岸本 鹿子治(きしもと かねじ、1888年(明治21年)4月… 岸本 鹿子治(きしもと かねじ、1888年(明治21年)4月14日 - 1981年(昭和56年)1月1日)は、大日本帝国海軍の軍人。海兵37期。最終階級は海軍少将。酸素魚雷と特殊潜航艇(甲標的)の開発を成功させた。実兄は岸本信太海軍中将(海軍機関学校10期)。岳父は豊辺新作陸軍中将。 岡山県出身。岡山一中を経て海軍兵学校(37期)を卒業。席次は179人中23番。岸本は海軍大学校乙種学生、海軍水雷学校高等科、同特修科を修了した水雷専攻の士官で、「夕暮」駆逐艦長、「長良」水雷長、「霧島」水雷長、海軍水雷学校教官、呉海軍工廠魚雷実験部員、第九駆逐隊司令などを歴任した。 他に、第五戦隊参謀、海軍兵学校教官、第三艦隊参謀、連合艦隊参謀などを経て、1930年(昭和5年)12月1日、海軍大佐に進級。
衛藤 即応(衞藤即應、えとう そくおう、1888年4月14日… 衛藤 即応(衞藤即應、えとう そくおう、1888年4月14日 - 1958年10月13日)は、日本の仏教学者・曹洞宗僧侶。学位は、文学博士。駒澤大学総長(1953年就任)。近代曹洞宗の宗学の確立に尽力。号は不喚。 大分県宇佐郡駅館村(現:宇佐市)出身。雲栖寺・雪洞明につき得度、心月院(兵庫県)にて弘津説三に嗣法して大応寺(山口県)住職となる。1904年曹洞宗大学(現:駒澤大学)、1912年京都帝国大学文学部印度哲学科卒業。曹洞宗大学教授として1921-24年英国、フランス、ドイツに学び、帰国後に駒澤大学教授。1928年京都市安泰寺住職。1937年学寮「道憲寮」を創立。 1944年「宗祖としての道元禅師」で京都大学より文学博士の学位を取得。
飯村 五郎(いいむら ごろう、1888年(明治21年)4月1… 飯村 五郎(いいむら ごろう、1888年(明治21年)4月13日 - 1946年(昭和21年)5月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→昭和会)、弁護士。 茨城県筑波郡真瀬村(現在のつくば市)出身。飯野茂吉の二男として生まれ、1910年(明治43年)に茨城県会議長飯村忠七の婿養子となった。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学を卒業後、一年志願兵制度によって陸軍三等主計に任じられた。退役後は弁護士を開業した。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は6回を数えた。その間、米内内閣で厚生参与官を務めた。1935年(昭和10年)には昭和会を結党にも参加している。
渡辺 義介(渡邊、わたなべ ぎすけ、1888年4月12日 -… 渡辺 義介(渡邊、わたなべ ぎすけ、1888年4月12日 - 1956年1月6日)は、日本の経営者。日本製鐵・八幡製鐵(現・日本製鉄)社長。 新潟県西蒲原郡弥彦村出身。日本石油会社支配人・渡辺忠の二男として生まれ、新潟県立柏崎中学校、第四高等学校を経て、1915年東京帝国大学法科大学経済学科卒。同年文官高等試験行政科試験に合格、農商務省に入る。官営八幡製鉄所に勤務を経て、商工省に戻り、鉱山局鉱政課長を歴任する。 1934年に日本製鐵が発足すると八幡製鉄所に戻り、所長となった。その後、1942年には北支那製鉄社長に就任、鉄鋼統制会理事長も務めた。1945年、日本製鐵社長となり、鉄鋼統制会会長に就任した。