三井 義夫(みつい よしお、1899年9月22日 - 195… 三井 義夫(みつい よしお、1899年9月22日 - 1959年1月2日)は、日本の彫金家。号は為楽。帝展・新文展・日展で活動し、日本芸術院賞を受賞した。 東京府東京市中根岸に生まれる。初め彫金家土田勝業に学び、のち海野家の門をたたき、さらに海野清に師事した。 東京美術学校金工科選科彫金部に学び、1928年に卒業した。 1927年、第8回帝展に「楽園之図手箱」が入選し、以後も帝展・新文展などに継続して出品した。 昭和初期から戦後にかけて彫金界で活動し、工芸諸展にも作品を発表した。1956年、第11回日展出品作「彫金象嵌花器」により日本芸術院賞を受賞した。 また、光風会工芸部会員としても活動した。
篠田 統(しのだ おさむ、1899年9月21日 - 1978… 篠田 統(しのだ おさむ、1899年9月21日 - 1978年8月10日)は、日本の食物史学者。東アジア食物史の開拓者として知られる。栄養生理学から食物史研究に転じた。 大阪府出身。1923年京都帝国大学理学部化学科卒業、同大学院動物学科に入学。1926年から1928年までユトレヒト大学(オランダ)、ミュンヘン大学(ドイツ)、ナポリ水族館(イタリア)に留学。1928年ユトレヒト大学から学位授与。1929年、京都帝大講師、同年「昆虫の腸の分泌に就て」で京大理学博士。1938年、関東軍防疫技師として従軍し、1940年には北支軍軍医部所属として昆虫防疫に従事。1945年8月まで北京衛生試験所技師を勤め、同年12月に引き揚げた。
武田 一郎(たけだ いちろう、1899年9月21日 - 19… 武田 一郎(たけだ いちろう、1899年9月21日 - 1973年12月23日)は、日本の教育学者、教育行政家。 北海道出身。東京文理科大学卒。奈良女子高等師範学校教授、戦後は文部省視学官となり教育行政に携わる。のちお茶の水女子大学附属小学校長、1964年定年退官、お茶の水女子大学名誉教授、北海道学芸大学学長、十文字学園女子短期大学学長。
坂本 武(さかもと たけし、1899年(明治32年)9月21… 坂本 武(さかもと たけし、1899年(明治32年)9月21日 - 1974年(昭和49年)5月10日)は、日本の俳優。本名は永石 武平。 松竹蒲田撮影所で軽妙な脇役として活躍し、斎藤寅次郎監督らによる短篇喜劇映画に多く出演した。小津安二郎監督作品にも常連出演し、『出来ごころ』『浮草物語』などの「喜八もの」では主人公の喜八を演じて人気を得た。上記以外の出演作品に『カルメン故郷に帰る』『煙突の見える場所』など。 1899年(明治32年)9月21日、兵庫県赤穂郡坂越村(現在の赤穂市坂越)に、漁師の父・安吉と母・ます江の5人兄弟の長男として生まれる。坂越尋常高等小学校卒業後、大阪の時計店に勤めるうち、松旭斎天勝一座の奇術を観に行き、舞台からの呼びかけに奇術の相手として飛び入り出演する。
木村 岳風(きむら がくふう、1899年9月20日-1952… 木村 岳風(きむら がくふう、1899年9月20日-1952年7月1日)は、日本の吟道家。本名は松木 利次(まつき としつぐ)。日本詩吟学院の創設者で、近代吟詠の祖と称される。著書に『皇漢名詩の吟じ方』などがある。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)生まれ。高島小学校を経て、旧制諏訪中学中退。上諏訪町役場ので勤務している際に、上司の上原栄から朗吟を習った。1922年に上京するが、関東大震災に際しての材木販売などで失敗するなど、商売での失敗が続いた。 一方で、教育者の伊藤長七が木村の吟詠の才能を見出し、伊藤が校長を務める東京府立第五中学校(現・小石川中等教育学校)の全校生徒の前で詩吟の講習を開かせたり、芸名を「嶽風」から「岳風」に改めさせた。
池見 茂隆(いけみ しげたか、1899年(明治32年)9月1… 池見 茂隆(いけみ しげたか、1899年(明治32年)9月18日 - 1973年(昭和48年)12月19日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県糟屋郡仲原村(現粕屋町)で、実業家・池見辰治郎の長男として生まれる。幼少期に福岡市博多柳町に転居した。福岡市立福岡商業学校(現福岡市立福翔高等学校)を経て、早稲田大学商科で学んだ。 その後、家業の池見合資会社社員、酒精会社重役となる。その他、大日本酒精監査役、大日本酒類醸造取締役、文化味噌社長、池見(合)代表社員、九州製作所社長なども務めた。 政界では福岡市会議員に在任した。1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で福岡県第1区から民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
小笠原 道生(おがさわら みちなり、1899年(明治32年)… 小笠原 道生(おがさわら みちなり、1899年(明治32年)9月16日 - 1955年(昭和30年)11月27日)は、文部官僚。 和歌山県出身。小笠原誉至夫の長男として生まれた。旧制和歌山中学時代には野球部員として第1回および第2回の全国中等学校優勝野球大会に出場している。第四高等学校を経て東京帝国大学医学部に進み、1925年(大正14年)卒業。文部省に入り、体育官兼体育研究所技師、大臣官房体育課長を経て、体育局長となる。体育研究所長となり、戦時中に退官した。 戦後は大映監査役、同取締役、文部省厚生振興会会長、横綱審議委員を務めた。
砂野 仁(いさの まさし、1899年9月15日 - 1979… 砂野 仁(いさの まさし、1899年9月15日 - 1979年6月30日)は、日本の実業家。川崎重工業社長、会長を務めた。 京都府与謝郡加悦町出身。1926年に京都帝国大学経済学部を卒業し、1927年に川崎造船所に入社した。主に労務畑に携わり、1954年に川崎航空機副社長に就任し、同社の再建に尽力し、1959年に川崎重工業取締役に就任し、1961年12月に社長に就任した。1969年12月から1973年11月までに会長を務めた。 1969年6月から1976年11月までに神戸商工会議所会頭と日本商工会議所副会頭を務め、日本ルーマニア経済委員会会長、ソ連東欧貿易会会長、関西経済連合会常任理事なども歴任した。
岡本 忠雄(おかもと ただお、1899年(明治32年)9月1… 岡本 忠雄(おかもと ただお、1899年(明治32年)9月15日 - 1956年(昭和31年)12月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 広島県出身。1924年東京帝国大学英法科卒。札幌逓信局庶務課長、熊本逓信局経理課長、満洲国郵政総局副局長、同北安省次長、同総務庁地方処長を経て、運輸通信省海運総局総務局長、東京逓信局長、総裁官房考査室主査、参議院運輸委員会専門員となる。 1952年の第25回衆議院議員総選挙において広島3区で自由党公認で立候補して落選。翌1953年の第26回衆議院議員総選挙で当選した。1955年の第27回衆議院議員総選挙では日本民主党から立候補したが落選した。1956年12月18日死去、57歳。
赤木 鉄夫(あかぎ てつお、1899年〈明治32年〉9月14… 赤木 鉄夫(あかぎ てつお、1899年〈明治32年〉9月14日 - 没年不明)は、昭和時代前期の逓信官僚。陸軍司政長官。 伊勢次郎の三男として岡山県に生まれる。旧制岡山中学、旧制六高を経て、1924年(大正13年)に東京帝国大学法学部独法科を卒業する。逓信省に奉職し、同省経理局主計課勤務、釧路郵便局長、中央電話局府加入課長、札幌逓信局規画課長、広島逓信局監督課長、地方海員審判所審判官、東京地方逓信局海事部長、東京都市逓信局監督課長、中央航空研究所総務部長、貯金局総務課長、逓信書記官・逓信官吏練習所長を経て、1942年(昭和17年)8月、陸軍司政長官に就任した。1944年(昭和19年)8月、名古屋逓信局長に就任した。
野口 弥吉(のぐち やきち、1899年9月14日 - 200… 野口 弥吉(のぐち やきち、1899年9月14日 - 2002年2月23日)は、日本の作物学者、東京大学名誉教授。
坂本 幸男(さかもと ゆきお、のち改名して坂本日深(にちじん… 坂本 幸男(さかもと ゆきお、のち改名して坂本日深(にちじん)、1899年(明治32年)9月12日 - 1973年(昭和48年)2月10日)は、日蓮宗系の仏教学者、僧侶。 1899年、岡山県津島生まれ。日蓮宗不受不施派の家系。東京帝国大学文学部印度哲学科を卒業する。卒業後は東洋大学教授となる。1948年より立正大学仏教学部教授となり、翌1949年には学部長を務める。1954年、「慧苑の華厳教学の研究 特に教判論を中心として」で東北大学より文学博士の学位を取得。身延山久遠寺第84世・深見日円の弟子となり日深と改名。1966年立正大学に法華経文化研究所を設立して所長となる。1968年、立正大学学長に就任。
宮木 広大(1899年〈明治32年〉9月12日 - 没年不明… 宮木 広大(1899年〈明治32年〉9月12日 - 没年不明)は、昭和時代前期の拓務官僚、農商務官僚、台湾総督府官僚。 東京市に生まれる。第二高等学校を経て、1923年(大正12年)3月に東京帝国大学経済学部を卒業し、農商務省に入省し商務局属となる。翌年11月、高等試験行政科に合格。農商務省鉱山監督局書記官、商工事務官、拓務事務官、拓務書記官、拓務局事業課長、同局南洋課長、ブラジル赴任を経て、1940年(昭和15年)5月に新竹州知事に就任し、1942年(昭和17年)7月に台南州知事に転じた。1943年(昭和16年)退官した。 その後、台湾拓殖理事を務めた。戦後、公職追放となった。
牛山 栄治(うしやま えいじ、1899年9月12日 - 19… 牛山 栄治(うしやま えいじ、1899年9月12日 - 1979年2月11日)は、日本の教育者、歴史家。山岡鉄舟の研究の第一人者。 1899年、埼玉県に生まれる。16歳の頃から小倉鉄樹の薫陶を受けた。東京高等師範学校、次いで日本大学で日本史を専攻、卒業後は教育者として中等教育に従事する傍ら、山岡鉄舟の研究に打ち込み多数の著作を残した。 1947年(昭和23年)、東京都中学校長会が発足すると1957年まで副会長を務めたほか、1949年(昭和24年)には文化庁による第1期国語審議会の委員を務めるなど公的な組織にも参加した。 1966年(昭和41年)、日本大学豊山女子高等学校が開校すると初代学長に就任、1970年(昭和45年)まで務めた。
河野 貞子(こうの さだこ、1899年9月11日 - 198… 河野 貞子(こうの さだこ、1899年9月11日 - 1984年2月12日)は、日本の料理研究家。 山口県熊毛郡田布施村(現田布施町)出身。広島県立広島高等女学校卒業。1919年から十数年にわたり商社勤務の夫とともにアメリカ合衆国に滞在、料理と家事を研究。1930年帰国後、西洋料理の知恵を日本料理に取り入れながら新しい家庭料理を創出、テレビ番組でも人気だった。1981年勲五等宝冠章受勲。
谷川 一男(たにがわ / たにかわ かずお、1899年(明治… 谷川 一男(たにがわ / たにかわ かずお、1899年(明治32年)9月11日 - 1954年(昭和29年)1月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 福岡県出身。測量業・谷川常吉の息子として生まれる。小倉中学校(現福岡県立小倉高等学校)を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、騎兵少尉に任官し騎兵第5連隊付となる。1924年(大正13年)10月、騎兵中尉に昇進し、1926年(大正15年)2月、兵科を航空兵に転科し航空兵中尉に任官。1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業した。 1930年(昭和5年)12月、下志津陸軍飛行学校教官に就任。
村岡 四郎(むらおか しろう、1899年 <明治32年> 9… 村岡 四郎(むらおか しろう、1899年 <明治32年> 9月10日 - 1975年 <昭和50年> 5月28日)は日本の実業家。京阪電気鉄道社長、京福電気鉄道会長などを務めた。京阪中興の祖と呼ばれる[要出典]。位階は正四位。勲二等旭日重光章。 神奈川県橘樹郡城郷村(現在の横浜市港北区小机町)出身。立教中学校(現:立教池袋中学校・高等学校)、第三高等学校を経て東京帝国大学法学部を卒業。近畿日本鉄道(近鉄)社長を務めた佐伯勇は三高・東京帝大の後輩に当たる。1923年、京阪電気鉄道に入社。運輸部門でキャリアを積む。乗客掛長時代(1927年 - 1936年)には「琵琶湖周遊乗車船券」を発売して、琵琶湖鉄道汽船との競争を優位に導く。
平井 新(ひらい あらた、1899年9月10日 - 2000… 平井 新(ひらい あらた、1899年9月10日 - 2000年3月9日)は、日本の社会思想史学者。慶應義塾大学経済学部長・大学院経済学研究科委員長・名誉教授・野球部長。福岡市出身 。
室原 知幸(むろはら ともゆき、1899年9月10日 - 1… 室原 知幸(むろはら ともゆき、1899年9月10日 - 1970年6月29日)は、松原・下筌ダムの建設反対運動(いわゆる蜂の巣城紛争)を主導した住民運動家である。 1899年(明治32年)9月10日に熊本県阿蘇郡小国町で生まれる。1923年(大正12年)に早稲田大学専門部政治学科を卒業後、郷里で家業であった山林業を継ぐ。小国町町議会議員を3期務め、戦後には小国町の公安委員会の委員長も務めた。 1953年(昭和28年)の西日本水害を受け、建設省は筑後川治水対策の一環として1957年(昭和32年)に熊本・大分県境に下筌ダムの建設を計画。これに対して、室原は「暴には暴」「法には法」をスローガンに掲げて、実力闘争、法廷闘争の両面で反対運動を主導した。
渡辺 俊雄(渡邊 俊雄、わたなべ としお、1899年(明治3… 渡辺 俊雄(渡邊 俊雄、わたなべ としお、1899年(明治32年)9月9日 - 没年不明)は、日本の実業家。渡邊工業社長。名古屋螺子製作所(現:メイラ株式会社)創業者。息子は作曲家の渡辺宙明。孫は、映画・ドラマ・アニメ等の音楽やさだまさしのアレンジャーとして知られる渡辺俊幸。曽孫(俊幸の娘)は芸術家アイドルとして活動するマコ・プリンシパル(渡辺真子)。 新潟県長岡市出身。旧家・渡邊毅夫の長男として生まれる。父・毅夫は教育界で活躍し、女学校校長や渡邊工業取締役を務めた。 長岡中学を卒業後、九州の明治専門学校機械科に入学。1923年(大正12年)首席で同校を卒業後、豊国セメント株式会社に入社し、名古屋工場に勤務する。
関 鑑子(せき あきこ、1899年(明治32年)9月8日 -… 関 鑑子(せき あきこ、1899年(明治32年)9月8日 - 1973年(昭和48年)5月2日)は、日本の声楽家、音楽教育者、音楽評論家。プロレタリア音楽同盟の委員長に選ばれ、「アカイ歌手」と騒がれた。 第二次世界大戦後、日本共産党員として同党の文化政策に基づく実践活動を行い、国内外において、日本のうたごえ運動の創始者と見なされるようになった。 父 関厳(美術評論家。雅号 "関如来")、母 トヨの長女として、東京都本郷区龍岡町(当時)に生まれる。弟に関忠亮。関家は代々郡山藩の江戸詰め御典医の家系で、読売新聞の美術担当だった父親は美術評論の草分けであり、鑑子が生まれた時はパリ万国博覧会 (1900年)へ出品する美術品の鑑定官をしていたことから、娘の名に「鑑」の字をつけ、秋生まれであったことから「アキ」と読ませた。
舘脇 操(たてわき みさお、1899年9月8日 - 1976… 舘脇 操(たてわき みさお、1899年9月8日 - 1976年7月18日)は、日本の植物学者。 神奈川県横浜市生まれ。1918年、北海道帝国大学予科入学。農学部に進み、植物学教室の宮部金吾に学ぶ。1924年同大学卒業。1933年農学博士取得、1945年理学博士取得。1935年北海道帝国大学助教授を経て1952年に北海道大学教授となり、1958年からは北海道大学附属植物園長を兼務した。1963年、定年により北大を退職した後は酪農学園大学、札幌商科大学教授を歴任。 植物分類地理学を専門とし、森林生態学に業績をあげた。1949年に北海道文化賞、1960年に日本農学賞、1972年に北海道新聞文化賞を受賞した。
西岡 喜平(にしおか きっぺい、1899年(明治32年)9月… 西岡 喜平(にしおか きっぺい、1899年(明治32年)9月8日 - 没年不明)は、日本の政治家。元小松島市長。旧制神戸育英高等学校卒業。徳島県小松島市出身。 小松島市出身。1916年(大正5年)、旧制神戸育英高等学校中退。 その後、小松島町役場に就職し、土木係技手・土木係主任・土木課長を経て1947年(昭和22年)に小松島町助役に就任。1949年(昭和24年)には小松島町長に就任。 1951年(昭和26年)に初代小松島市長に当選。1953年(昭和28年)まで2期を務めた。また小松島選挙管理委員長等を歴任した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
八木 宗十郎(やぎ そうじゅうろう、1899年(明治32年)… 八木 宗十郎(やぎ そうじゅうろう、1899年(明治32年)9月7日 - 1981年(昭和56年)2月5日)は、日本の政治家、実業家。 山口県出身。明治大学専門部商科卒業。1923年、父祖が代々経営していた八木呉服店(現ちまきやホールディングス。百貨店は山口井筒屋が継承。)に入社。1937年、ちまきや八木取締役社長。山口県会議員、同参事会員を務めた。1942年、翼賛政治体制協議会から出馬し、衆議院議員に当選。山口商工会議所会頭も25年間に亘り務めるなど、戦前戦後にかけて山口県政治・経済の中心的役割を担った。戦後は公職追放を経て、NHK経営委員など公職の傍ら、岸信介首相の後援会長として岸政権を側面から支援した。
青野 武一(靑野武一、あおの ぶいち、1899年(明治32年… 青野 武一(靑野武一、あおの ぶいち、1899年(明治32年)9月7日 - 1959年(昭和34年)12月9日)は、大正・昭和期の労働運動家、政治家。位階は正五位。 衆議院議員(4期)。配偶者は青野 喜代子。長男は青野 宏、次男は青野 徹、孫は青野 義弘、青野 光俊[要出典]。 愛媛県新居郡、のちの西条市で生まれる。高等小学校を卒業後、八幡製鐵所に入り職工として勤務。日本労友会に加わり、1920年(大正9年)同製鐵所の大争議に参加した。日本労友会が解散した後、1925年(大正14年)九州民権党が結成され執行委員に就任。その後、日本大衆党、労農大衆党、社会大衆党、日本無産党などの八幡支部書記長を務めた。
西川 政一(にしかわ まさいち、1899年9月5日 - 19… 西川 政一(にしかわ まさいち、1899年9月5日 - 1986年6月4日)は、日本の経営者。日商岩井社長、会長を務めた。兵庫県氷上郡竹田村(現在の丹波市)出身。 1924年に神戸高等商業学校(現神戸大学)を卒業し、同年に鈴木商店に入社した。1928年に高畑誠一、永井幸太郎に誘われて、日商の設立に加わり、1958年11月には社長に就任した。岩井産業との合併に尽力し、1968年に日商岩井初代社長に就任した。1969年11月から1972年6月までに会長を務めた。 バレーボール選手でもあり、日本のバレーボールの先達・多田徳雄に神戸高商時代にバレーボールの指導を受け、日本代表(全日本)にも選ばれた。その後多田らと関西排球協会を設立し、普及活動にも力を入れ、1948年5月から1977年3月までに日本バレーボール協会会長も務めた。
金 声浩(キム・ソンホ、朝鮮語: 김성호/金聲浩、1899年… 金 声浩(キム・ソンホ、朝鮮語: 김성호/金聲浩、1899年9月5日または1900年 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の検察官、裁判官、弁護士、実業家、政治家。初代全羅南道議会(朝鮮語版)議員、第3代韓国国会議員を歴任した。 全羅南道康津郡出身。日本大学専門部法科卒。朝鮮弁護士試験・高試司法科合格。光州地方法院木浦支庁上席検事・首席判事、光州地検木浦支庁長、東光学校校長、大韓国民党木浦市党委員長、初代全羅南道議会議員、韓国金属工業会長、国民会木浦支部支部長、自由党全羅南道党副委員長、朝鮮建国青年会全南委員長、木浦体育会会長、第3代国会金融界不正事件および農林部疑惑事件国政監査特別委員会委員長を務めた。
杉山 亮太郎(すぎやま りょうたろう、1899年 <明治32… 杉山 亮太郎(すぎやま りょうたろう、1899年 <明治32年> 9月5日 - 1974年 <昭和49年> 11月12日)は、日本の経営者、銀行家。清水銀行頭取を務めた。位階は従五位。 静岡県出身。1923年に早稲田大学商学部商学科を卒業し、同年9月に駿州銀行(のちの清水銀行)に入行。 1940年4月に常務を経て、1947年2月には頭取に就任した。1971年4月には会長に就任。 1960年5月に黄綬褒章を受章し、1969年11月に勲四等瑞宝章を受章した。 1974年11月12日、心筋梗塞のため死去した。75歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
大島 亮吉(おおしま りょうきち、1899年9月4日 - 1… 大島 亮吉(おおしま りょうきち、1899年9月4日 - 1928年3月25日)は、大正から昭和初期にかけての日本の登山家・作家。登山に関する多くの文章を著したが、登山中の遭難により死亡した。 東京府東京市芝区桜川町(現在の東京都港区虎ノ門)で大島善太郎・さく夫婦の三男として生まれる。祖父・大島善十郎は越中八尾出身で、東京に出て煙草の販売業を営んできたが、煙草の専売化によって廃業に追い込まれた。しかし、それまでの利益で買った貸家からの収益で、家族はそれなりの生活ができていたという。12歳の時に喘息の発作で倒れ、八尾に住んでいた伯母の元で療養生活を送っている。1914年、八尾尋常高等小学校高等科を卒業したのを機に帰京して慶應義塾商工学校に入学する。
蔵原 伸二郎(くらはら しんじろう、1899年〈明治32年〉… 蔵原 伸二郎(くらはら しんじろう、1899年〈明治32年〉9月4日 - 1965年〈昭和40年〉3月16日)は熊本県出身の詩人、作家、評論家。 熊本県阿蘇郡黒川村(現在の阿蘇市)に生まれる。本名は蔵原惟賢(これかた)。父惟暁は神官で阿蘇神社の直系。母いくは医学者北里柴三郎の妹。 7歳で熊本市に移住。旧制九州学院中学校在学中から中国詩に親しむ。19歳で上京し、慶應義塾大学文学部仏文科に学ぶ。同級に青柳瑞穂や石坂洋次郎がいた。1923年、大学在学中に萩原朔太郎『青猫』に触発されて詩を書き始め、『三田文学』『コギト』に作品を発表。のち、東京外国語学校のロシア語科に通っていたことが発覚したため、二重学籍を理由に慶應義塾大学から退学処分を受ける。
大場 磐雄(おおば いわお、1899年9月3日 - 1975… 大場 磐雄(おおば いわお、1899年9月3日 - 1975年6月7日)は、日本の考古学者。國學院大學教授。旧姓は谷川だが、昭和3年(1928年)、母方の大場家を相続し、以後、大場姓となる。楽石と号す。 古代日本の信仰あるいは精神世界に関心を持ち、神道や祭祀遺跡などの遺跡を研究した。中でも、神道考古学を体系化した。本人が「私の考古学はただの考古学ではない。考古民俗学(または民俗考古学)だ」と言うように、文献史学・民俗学・考古学三位一体のスケールの大きな古代日本の研究が特徴である。主著は『大場磐雄著作集』(全8巻)にまとめられている。
都甲 徠(とごう きたる、1899年(明治32年)9月3日 … 都甲 徠(とごう きたる、1899年(明治32年)9月3日 - 1991年(平成3年)2月17日)は、日本の陸軍軍人。陸士33期卒(歩兵)。最終階級は陸軍少将。 大分県速見郡山香町(現:杵築市)出身。農業・都甲喜佐久の三男として生まれる。宇佐中学校(現大分県立宇佐高等学校)卒業を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第64連隊付となる。1932年(昭和7年)11月、陸軍大学校(44期)を卒業した。 1932年(昭和7年)12月、歩兵第37連隊中隊長に就任。1933年(昭和8年)12月、参謀本部付勤務(支那課)となり、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員、北京・太原・長沙駐在)、中国駐在を務め、1936年(昭和11年)8月、歩兵少佐に進級。
川内 唯彦(かわうち ただひこ、1899年9月1日 - 19… 川内 唯彦(かわうち ただひこ、1899年9月1日 - 1988年4月13日)は、日本の社会運動家。 福岡県出身。東京外国語学校(現東京外国語大学)卒。1922年日本共産党に参加、モスクワのコミンテルン第4回大会に出席した。プロレタリア科学研究所、唯物論研究会などに在籍し、マルクス主義文献の翻訳などを行った。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
森 八三一(もり やそいち、1899年(明治32年)8月31… 森 八三一(もり やそいち、1899年(明治32年)8月31日 - 1990年(平成2年)6月9日)は、日本の政治家。参議院議員(4期)。参議院副議長(第12代)。 1917年(大正6年)愛知県立農林学校(現愛知県立安城農林高等学校)卒業。栃木県産組課長、中川農業協同組合組合長、全国購買農協連合会農産課長及び常務理事、日本藁工芸品統制常勤理事、全国農業会農産局長、全国農業協同組合連合会参事を歴任し、1950年(昭和25年)第2回参議院議員通常選挙で全国区から立候補し、初当選(無所属)、以降4期務める。 1954年(昭和29年)参議院農林委員長、1971年(昭和46年)参議院副議長。1972年(昭和47年)春の叙勲で勲一等瑞宝章受章。
島津 忠彦(しまづ ただひこ、1899年(明治32年)8月3… 島津 忠彦(しまづ ただひこ、1899年(明治32年)8月30日 - 1980年(昭和55年)5月12日)は、昭和期の日本の実業家、政治家、華族(男爵)。貴族院男爵議員、参議院議員(2期)。重富島津家第8代当主(越前島津家第23代当主)。 鹿児島県鹿児島市清水町出身。男爵・島津壮之助の長男として生まれる。父の死去に伴い、1925年(大正14年)4月15日、男爵を襲爵した。 鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制) を経て、1923年(大正12年)成蹊実業専門学校本科を卒業。三菱銀行に勤務(約10年間)。以後、三和電機社長、鈴木商店代表者、鹿児島製紙興業社長などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任。
鈴木 正文(すずき まさふみ / まさぶみ、1899年〈明治… 鈴木 正文(すずき まさふみ / まさぶみ、1899年〈明治32年〉8月30日 - 1978年〈昭和53年〉5月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家。位階は従三位、勲等は勲二等。 衆議院議員(3期)、労働大臣。 山梨県北巨摩郡出身。1925年(大正14年)、早稲田大学政治経済学部を卒業。 朝日新聞社に入社し海外特派員となる。京城支局長を経て、1940年(昭和15年)、論説委員に就任し1941年(昭和16年)に退社。その後、日本印刷文化協会理事、山梨日日新聞論説委員を務める。 戦後、1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に日本自由党から山梨県全県区(当時)で立候補するが落選した。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙に山梨県全県区で立候補し当選。
岡 俊二(おか しゅんじ、1899年(明治32年)8月29日… 岡 俊二(おか しゅんじ、1899年(明治32年)8月29日 - 1974年(昭和49年)10月22日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員。 医師・岡玄卿の長男として生まれる。父の死去に伴い、1925年(大正14年)5月1日、男爵を襲爵した。 1925年、東京帝国大学経済学部を卒業した。同年、第一生命保険に入社し、その後、同社秘書役を務めた。 1945年(昭和20年)10月27日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に属して活動し、1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。
小林 武治(こばやし たけじ、1899年(明治32年)8月2… 小林 武治(こばやし たけじ、1899年(明治32年)8月28日 - 1988年(昭和63年)10月12日)は、昭和期の政治家。静岡県知事・厚生大臣・郵政大臣・法務大臣。参議院議員3期。 長野県北佐久郡南大井村平原(現小諸市)に、農家の二男として生まれる。旧制野沢中学校、旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部英法科に入学。五高時代は池田勇人・佐藤栄作と同級生であった。また東大時代は濱口雄幸の息子・濱口巌根(元・日本長期信用銀行頭取)と机を並べた。 1923年高等試験行政科に合格する。逓信次官を務めたことのある濱口雄幸の勧めもあり、翌1924年に東大卒業後、逓信省に入省する。以後秘書課長、逓信省総務局、熊本逓信局、逓信院次長と順調に昇進を重ねた。
杉原 荒太(すぎはら あらた、1899年8月28日 – 19… 杉原 荒太(すぎはら あらた、1899年8月28日 – 1982年1月20日)は、日本の政治家、外交官。参議院議員(4期)。防衛庁長官(第3代)。 佐賀県杵島郡中通村(後の山内町、現武雄市)に生まれる。 1917年旧制鹿島中学校卒業。旅順中学校を経て1922年大阪市立高等商業学校(後の大阪市立大学)を卒業後。外務省に入省。アメリカ合衆国ヴァーモント大学に留学、卒業する。 帰朝後は南京総領事、本省法規課長、企画課長、大東亜省総務局長、外務省調査局長、同条約局長を歴任。 戦後、首相となった吉田茂とは何かと対立し、1946年いわゆる“Y項パージ”で外務省を追放され、弁護士となる。 1950年、第2回参議院議員通常選挙に自由党から佐賀選挙区にて立候補し当選を果たす。
橋本 朝秀(はしもと ちょうしゅう、1899年(明治32年)… 橋本 朝秀(はしもと ちょうしゅう、1899年(明治32年)8月26日 - 1960年(昭和35年)1月31日)は、日本の彫刻家。福島県安達郡二本松町(現・二本松市)出身。本名は秀次。 戦後に山崎朝雲門下の逸材として頭角を現した。また人格の誠実さ、円満さと制作に関する一途さ、精進への努力に関しては友人たちの誰しもが敬服していた。 木彫彫刻界の有力者として活躍し、伝統木彫を基盤に仏教彫刻に関する造詣を深め自作に活かした。 1919年(大正8年)上京し山崎朝雲の元で1928年(昭和3年)まで木彫を学ぶ。また同時期に本郷絵画研究所でデッサンを学んだ。 1925年(大正14年)、第6回帝展(現日展)に出品した「幻想」が初入選。
沖森 源一(おきもり げんいち、1899年8月25日 - 1… 沖森 源一(おきもり げんいち、1899年8月25日 - 1951年8月14日)は、大正・昭和期の内務官僚・政治家。最終学歴は高等小学校ながら、高等文官試験に合格して内務官僚となり、最後は佐賀県知事を務めた。 広島県御調郡市村(現在の尾道市)出身。高等小学校卒業後、苦学の末に高等文官試験に合格して内務省へ入った。香川県経済部長・岡山県経済部長・長野県内務部長を歴任後、1945年10月27日に官選知事として佐賀県知事に就任した。ところが翌1946年7月8日になって食糧供出に非協力的であるとして更迭された。その後、新憲法下の最初の知事選挙に立候補し、沖森の後任官選知事であった戸沢盛男らを破って当選を果たした。
木川田 一隆(きかわだ かずたか、1899年8月23日 – … 木川田 一隆(きかわだ かずたか、1899年8月23日 – 1977年3月4日)は、1950年代から1960年代にかけて活躍した日本の実業家。東京電力社長や、経済同友会代表幹事(1960年 - 1962年(複数代表幹事制)、1963年 - 1975年)を歴任した。「企業の社会的責任」を唱導した哲人的財界人として知られる。 福島県伊達郡梁川町で生まれ、旧制角田中学、旧制山形高校を経て、東京帝国大学経済学部で学び、在学中に河合栄治郎の講義を最前列で聴いて、河合が唱える理想主義的自由主義に傾倒した。1926年に卒業後、三菱鉱業の採用面接で河合直伝の労働法を披露し、警戒されて不採用となる。やむなく第2志望の東京電燈へ入社し、「電力の鬼」松永安左エ門に師事して民間企業人の闘魂を学ぶ。
塩田 正洪(鹽田 正洪、しおた せいこうあるいはまさひろ、1… 塩田 正洪(鹽田 正洪、しおた せいこうあるいはまさひろ、1899年〈明治32年〉8月23日 - 1972年〈昭和47年〉8月)は、朝鮮総督府官僚。 1899年8月23日、東京府で楠眞道の四男として生まれ、塩田武夫の養子となる。1924年、東京帝国大学法学部を卒業。 朝鮮総督府農務課長務官、林政課長総督官房秘書官兼文書課事、農林局農務課長、江原道内務部長、殖産局鉱産課長、企画部長を経て、1942年10月23日農林局長に就任。1943年12月1日、農商局長。1944年8月17日、鉱工局長に就任し、終戦まで務めた。 アジ歴グロッサリー 植民地官僚経歴図
川野 芳満(川野 芳滿、かわの よしみつ/ほうまん、1898… 川野 芳満(川野 芳滿、かわの よしみつ/ほうまん、1898年(明治31年)9月22日 - 1979年(昭和54年)7月2日)は、日本の政治家、衆議院議員(9期)。 現在の宮崎県宮崎市で生まれた。1919年(大正8年)慶應義塾大学専修科卒業。 宮崎市議会議員、宮崎県通貨安全委員会会長を経て、1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に日向民主党から初当選、日本自由党から自由党、自由民主党へと所属政党を替えながら当選9回。両院法規委員会委員長、大蔵委員会、運輸及び交通委員会、社会労働委員会各委員長を経て、第三次鳩山内閣の通商産業政務次官となる。藍綬褒章を受章し、証券民主化議員連盟委員長、宮崎県酒造組合、全国酒卸協同組合各連合会長、全国酒造組合中央会理事などを務めた。
本田 弘敏(ほんだ ひろとし、1898年9月22日 - 19… 本田 弘敏(ほんだ ひろとし、1898年9月22日 - 1981年10月18日)は、日本の実業家。東京ガスの社長や会長、日本ガス協会会長、東京商工会議所副会頭や日本社会人野球協会会長、日本バドミントン協会会長等を務めた。勲二等旭日重光章受章。 1921年東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業し、東京ガス入社。取締役供給部長、副社長等を経て、1953年社長就任。戦後の首都圏の都市ガス整備を行った 日本ガス協会会長、東京商工会議所副会頭や日本社会人野球協会会長、日本バドミントン協会会長、社団法人如水会理事長等も務め、1968年に勲二等旭日重光章受章。 1981年10月18日、肝不全のため東京女子医科大学病院で死去、享年83。
白鳥 義三郎(しらとり ぎさぶろう、1898年(明治31年)… 白鳥 義三郎(しらとり ぎさぶろう、1898年(明治31年)9月21日 - 1965年(昭和40年)12月27日)は日本の千葉県出身の教育者・政治家。千葉県津田沼町長、習志野市初代市長などを歴任。習志野市立習志野高等学校の創立に尽力した。 白鳥与惣左衛門の四男として千葉県千葉郡津田沼町久々田に生まれる。1926年(大正15年)、ベルリン工科大学建築科を卒業、帰国後は東京で教師をつとめた後、合理主義と人道主義の精神に徹した政治活動を展開。 1947年(昭和22年)、公選首長として津田沼町長となり、1955年(昭和30年)、習志野市制が施行されて連続2期市長に当選、文京住宅都市としての習志野市の基礎を築き、大いに地方自治を推進した文化人市長として知られた。
中山 伊知郎(なかやま いちろう、1898年9月20日 - … 中山 伊知郎(なかやま いちろう、1898年9月20日 - 1980年4月9日)は、日本の経済学者。経済学博士(東京商科大学・1939年)。一橋大学初代学長、一橋大学名誉教授。日本における近代経済学の導入に貢献した。1963年から1980年まで日本学士院会員。1968年文化功労者。第4期日本学術会議副会長。従二位勲一等旭日桐花大綬章。勲一等瑞宝章受章。 父である中山朝之助は福島の平(現・いわき市)で生まれ、その後三重の宇治山田(現・伊勢市)で山田朝報という新聞社を創業し、主筆を務めた。旧制宇治山田中学(現・三重県立宇治山田高等学校)、神戸高等商業学校(現・神戸大学)を経て、1923年に東京商科大学(現・一橋大学)本科を卒業し、同年4月、東京商科大学大学助手に就任。
降旗 徳弥(ふるはた とくや、1898年9月18日 - 19… 降旗 徳弥(ふるはた とくや、1898年9月18日 - 1995年9月5日)は、日本の政治家、実業家。信濃日報社長、信越放送取締役、長野放送社長、衆議院議員、第2次吉田内閣の逓信大臣、松本市長などを歴任した。映画監督の降旗康男は三男。
川村 秀文(かわむら ひでふみ、1898年〈明治31年〉9月… 川村 秀文(かわむら ひでふみ、1898年〈明治31年〉9月18日 - 1981年〈昭和56年〉3月2日)は、日本の内務・厚生官僚。官選千葉県知事、学校法人川村学園理事長・学園長。 秋田県鹿角郡花輪町出身。内務官僚・川村竹治の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1922年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、内務省に入省し東京府属となる。 以後、内務省大臣官房会計課長、欧米各国視察(1931年)、国際労働総会政府代表随員(1931年、ジュネーヴ開催)、社会局書記官・保険部監査課長、厚生省保険院総務局企画課長、厚生省保険院総務局長、厚生省社会局長などを歴任。
千原 繁子(ちはら しげこ、1898年〈明治31年〉9月17… 千原 繁子(ちはら しげこ、1898年〈明治31年〉9月17日 - 1990年〈平成2年〉5月25日)は、日本の医師。沖縄県出身者で初の女医。終戦後の沖縄の女性たちの生活苦による不条理妊娠など、悲惨な事態に立ち会い、また民法改正運動や母子保健など、広い範囲にわたって活動を行った。 沖縄県那覇区若狭町で誕生した。旧姓は渡嘉敷。幼少時に両親が離婚、母のもとで極貧の生活を送った。小学校の成績は常に総代であり、父から「女学校に出してやる」といわれて父のもとへ引き取られた。父は沖縄で初の学校長となった人物、沖縄初の視学であり、繁子は父から強い影響を受けた。父が沖縄人として本土の人間から見下されていたこと、父のもとでの生活も豊かではなかったことで、早くから自立心を培われて育った。