林 古溪(はやし こけい、1875年〈明治8年〉7月15日 … 林 古溪(はやし こけい、1875年〈明治8年〉7月15日 - 1947年〈昭和22年〉2月20日)は歌人、作詞家、漢文学者、立正大学教授、東洋大学講師。本名は竹次郎。東京・神田出身。哲学館(現東洋大学)教育学部卒。 林羅山に連なる家系で、代々学者の家柄である。林家の次男として東京神田に生まれる。 幼少時代を神奈川県愛甲郡古沢村(現厚木市)で過ごし、古渓の筆名はこの古沢村から採ったという。 10歳の時に父を失って以来、池上本門寺に入って修行。さらに哲学館(現東洋大学)に入学すると国漢を学んだ。漢詩に非凡な才を見せたが、一方で新体詩のグループを作っては積極的に活動を始めた。卒業後、同校付属の京北中学校で国漢科教員となり、生徒たちから「達磨さん」と呼ばれて慕われたという。
馬場 恒吾(ばば つねご、1875年7月13日 - 1956… 馬場 恒吾(ばば つねご、1875年7月13日 - 1956年4月5日)は、日本のジャーナリスト・政治評論家・実業家。ジャパンタイムズや国民新聞などで自由主義擁護の論陣を張る。第二次大戦後、読売新聞社社長。 岡山県邑久郡長浜村奥浦(現・瀬戸内市牛窓町)に、代々庄屋を務めた馬場家の長男として生まれる。1892年、京都の第三高等学校予科に入学。1895年、三高予科を修了し、仙台の第二高等学校入学。東北学院で押川方義が行っていた聖書の講義に通い、メソジストとして洗礼を受ける。1896年、二高中退。1897年、安部磯雄を追って同志社神学校(現・同志社大学神学部)に入学するが、葛藤の末キリスト教と決別し、一年弱で中退。
景浦 直孝(かげうら なおたか、1875年(明治8年)7月1… 景浦 直孝(かげうら なおたか、1875年(明治8年)7月12日 - 1962年(昭和37年)8月19日)は、明治時代から昭和中期にかけての愛媛県の郷土史家。号は景浦稚桃。 愛媛県松山城下北夷子町72番戸(現松山市三番町2丁目1-3)に、士族景浦充孝の子として生まれる。1894年(明治27年)愛媛県立伊予尋常中学校(後の旧制松山中学校)を卒業。湯殿高等小学校訓導を経て、1901年(明治34年)に松山高等女学校(現松山南高校)の教諭となり、1926年(大正15年)の退職、1926年(大正15年)から1938年(昭和13年)までは北予中学校(現松山北高校)の教諭となる。 1910年(明治43年)愛媛県の公刊事業で、『愛媛県誌稿』の編纂が始まり、景浦は委員に委嘱される。
青山 禄郎(あおやま ろくろう、1875年(明治8年)7月6… 青山 禄郎(あおやま ろくろう、1875年(明治8年)7月6日 - 1940年(昭和15年)1月6日)は、日本の技術者、実業家。日本信号創業者。電信・無線・信号・電気事業の分野で幾つもの国家的重責を担った。日産自動車のダットサン(DAT)のAは青山に由来する。 1875年(明治8年)7月6日に岡崎で父・鈴山巌と母・智恵の間に生まれる。愛知県額田郡高等小学校卒業。静岡中学校を中退し、1891年(明治24年)9月に上京して東京郵便電信学校に転校した。1892年(明治25年)に青山家に養嗣子として入籍した。1893年(明治26年)に東京郵便電信学校を首席で卒業し、逓信技手に任ぜられ逓信省電務局に勤務した。
戸部 良祐(とべ りょうすけ、1875年7月6日 - 193… 戸部 良祐(とべ りょうすけ、1875年7月6日 - 1934年12月19日)は、日本の実業家・政治家。衆議院議員(1期)。 石川県出身。1900年、陸軍教導団歩兵科卒。のちに明治法律学校で学ぶ。日露戦争に従軍し、帰国後は小学校訓導、石川県立第二中学校(現・石川県立金沢錦丘中学校・高等学校)助教諭心得、第四高等学校助教授となり、区長、七尾町助役、鹿島郡会議員、七尾町議、石川県議となる。また、能登部銀行監査役、七尾無尽(株)取締役社長、能登藁工品同業組合、鹿島郡蚕糸同業組合各組合長を務めた。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において石川2区から立憲民政党公認で立候補して当選し、衆議院議員を1期務めた。
鹿島 精一(かじま せいいち、1875年(明治8年)7月1日… 鹿島 精一(かじま せいいち、1875年(明治8年)7月1日 - 1947年(昭和22年)2月6日)は、大正から昭和時代前期の土木工学者、実業家、政治家。鹿島組社長、土木学会会長、貴族院勅選議員。 旧盛岡藩士葛西晴寧、すえの長男として岩手県岩手郡上田村(現在の盛岡市上田)に生まれる。翌年父晴寧が死去し、家族は仁王村字下台(現在の盛岡市梨木町)母の実家出渕家に引き取られる。盛岡中学を経て、1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、逓信省鉄道作業局に出仕する。同年、鹿島組組長の鹿島岩蔵の長女と結婚し、養嗣子となり、鹿島組副組長に就任する。1912年(明治45年)養父の岩蔵の死去により、37歳にして3代目鹿島組組長となり、1930年(昭和5年)鹿島組を株式会社に改組し、初代社長に就任した。
二反長 音蔵(にたんちょう おとぞう、1875年(明治8年)… 二反長 音蔵(にたんちょう おとぞう、1875年(明治8年)7月1日 - 1951年(昭和26年)8月7日)は、日本の農民・農業技術者。阿片の材料となるケシの日本国内栽培に尽力した。「日本の阿片王」と称された。 大阪府三島郡福井村(現在の茨木市)の出身。旧姓は川端。 20歳頃よりアヘン材料となるケシの栽培に興味を示し、台湾総督府要人の後藤新平のバックアップを得ることに成功、福井村でケシ栽培をはじめる。以後ケシの栽培技術と品種の改良に努め、モルヒネ含有量が従来品種の数倍多い三島種を開発した。 昭和戦前期に日本は満州・朝鮮・内蒙古などの植民地・占領地でケシを栽培してアヘンを製造し、これが軍部の収入源となっていた。
山口 左一(やまぐち さいち、1875年(明治8年)6月26… 山口 左一(やまぐち さいち、1875年(明治8年)6月26日 - 1936年(昭和11年)9月8日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員。神奈川県中郡高部屋村長。 山口左七郎の長男として、神奈川県、のちの中郡高部屋村(伊勢原町を経て現伊勢原市)に生まれる。1912年(明治45年)2月に家督を相続する。 同志社卒業。農業を営む傍ら、高部屋村収入役、同村長、同村会議員、所得税調査委員、中郡農会副会長、県農会議員、帝国農会議員を歴任した。 実業界では産業組合中央会県支会副会長、伊勢原銀行頭取、伊勢原電気、横浜興業信託、相武電力、神奈川県農工銀行各取締役、相模銀行、農工信託各監査役を務めた。
武井 真澂(たけい しんちょう、1875年(明治8年)6月2… 武井 真澂(たけい しんちょう、1875年(明治8年)6月24日 - 1957年(昭和32年)6月3日)は、日本の山岳画家。本名は真澄。 長野県諏訪郡豊田村十川(現・諏訪市)に生まれる。1896年に東京美術学校本科を卒業。1900年(明治33年)から1914年(大正3年)まで旧制長野県立松本中学校で図画を教えた。退職後は東京に住みながら、長野県内を主体に山梨県・富山県・静岡県などの山に登り、山岳画を描いた。
中原 芳煙(なかはら ほうえん、1875年(明治8年)6月2… 中原 芳煙(なかはら ほうえん、1875年(明治8年)6月24日 - 1915年(大正4年)6月20日)は明治・大正時代の日本画家。 島根県邑智郡都賀行村大字潮村(現・美郷町)に、農業と鉄山経営をしていた旧家の当主・源吉郎の次男として生まれた。本名は佐次郎、画号を芳煙という。 幼い頃から絵を好み、那賀郡町村組合立石見学校(現・島根県立浜田高等学校)を卒業後、1896年(明治29年)9月、画家を志して東京美術学校(現・東京藝術大学)に進学、川端玉章に師事した。 日本画本科2学年の時に美術学校生徒成績品展覧会で「秋野鹿図」が一等褒状を受賞した。 師の玉章は芳煙の画風を推賞して惜しまなかったといわれる。
生駒 粂蔵(生駒 粂造、いこま くめぞう、1874年7月22… 生駒 粂蔵(生駒 粂造、いこま くめぞう、1874年7月22日 - 1944年7月11日)は、明治後期から昭和前期の新聞記者、ジャーナリスト、評論家、翻訳家。報知新聞社調査部長や芸備日日新聞主筆兼編集長を務め、相撲記者の長老として、角界の批評、随筆等に活躍した。将棋界の発展にも貢献し、東京将棋連盟(現・日本将棋連盟)名誉顧問・評議委員を務めた。別名、翺翔(こうしょう、ごうしょう)。聖公会信徒。 1874年(明治7年)7月22日生まれ。1896年(明治29年)、東京・築地の立教大学卒業。 1899年(明治32年)、東京毎日新聞社に入社。明治35年、藝備(芸備)日日新聞主筆兼編集長を経て、報知新聞社に入社。
嵐 橘楽(あらし きらく、1874年7月18日 - 1922… 嵐 橘楽(あらし きらく、1874年7月18日 - 1922年3月)は、日本の俳優、元歌舞伎役者、元子役である。嵐 橘樂と表記されることもある。また、芸名の読みは「あらし きつらく」と表記されることもある。本名は永田 長治郎(ながた ちょうじろう)。幼名は中村 成子(なかむら なるこ)、旧芸名は中村 鳥次郎(なかむら ちょうじろう)、嵐 喜樂(あらし きらく)。三代目中村翫雀、四代目嵐橘三郎門下の歌舞伎役者から横田商会、日活京都撮影所の旧劇俳優に転じ、子供芝居時代からの幼馴染みである尾上松之助を支える名脇役として活躍したが、志半ばで病没した。 1874年(明治7年)7月18日、大阪府大阪市南区久左衛門町(現在の同市中央区西心斎橋2丁目及び心斎橋筋2丁目辺り)に生まれる。
野田 義夫(のだ よしお、1874年(明治7年)7月15日 … 野田 義夫(のだ よしお、1874年(明治7年)7月15日 - 1950年(昭和25年)11月1日)は、日本の教育者。 福岡県八女郡下広川村(現在の広川町)出身。1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、さらに大学院で学んだ。1900年(明治33年)に文部属となり、広島高等師範学校教授、奈良女子高等師範学校教授、文部省督学官、大阪高等学校校長を歴任した。その間の1924年(大正13年)、文学博士号を受けた。 退官後、大阪高等女子職業学校(現在の英真学園高等学校)教授・名誉校長、羽衣高等女学校(現在の羽衣学園中学校・高等学校)校長を経て、1936年(昭和11年)から親和高等女学校(親和中学校・親和女子高等学校)校長を務めた。
川崎 九淵(かわさき きゅうえん、1874年7月11日 - … 川崎 九淵(かわさき きゅうえん、1874年7月11日 - 1961年1月24日)は能楽大鼓の名手。葛野流宗家代理・宗家預りを歴任し、能楽界初の人間国宝となった。また、理論面においても地拍子の法則性を発見するなどの功績を残した。本名・旧名利吉。 1874年7月11日、愛媛県温泉郡魚町(現在の松山市本町近辺)に生れる。幼時より当地で盛んだった喜多流の能を稽古し、松山東雲神社の奉納能において神童との評判を取る。後、師高橋節之助の勧めにより葛野流大鼓を東正親に師事。この方面でもすぐに才能を示し、1892年に来松した石井流宗家石井一斎によって後継者に乞われるほどであったという。 1899年、小学校の同級生であった高浜虚子の兄池内信嘉の勧めにしたがって上京、葛野流預りの津村又喜に師事した。
島崎 赤太郎(しまざき あかたろう、1874年〈明治7年〉7… 島崎 赤太郎(しまざき あかたろう、1874年〈明治7年〉7月9日 - 1933年〈昭和8年〉4月13日)は、日本の作曲家、音楽教育者であり、オルガン奏者である。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。 東京の築地(入船)に生まれた。父親の熊次郎は大工棟梁であったが、1886年(明治19年)ごろ、一家をあげてクリスチャンとなった。この父親は1890年(明治23年)の内国勧業博覧会にオルガンを出品していた。赤太郎は東京音楽学校(現・東京藝術大学)入学後、専修部でルドルフ・ディットリヒ、小山作之助らの元で学び、1893年(明治26年)に卒業。そのまま母校の助教となり、1901年(明治34年)には昭憲皇太后御前演奏を行っている。
神田 左京(かんだ さきょう、1874年〈明治7年〉7月7日… 神田 左京(かんだ さきょう、1874年〈明治7年〉7月7日 - 1939〈昭和14年〉7月7日)は、日本の生物学者。ホタルの研究で知られる。 1874年(明治7年)7月7日、長崎県北松浦郡佐々村に生まれる。1901年(明治34年)4月、関西学院普通部および高等部を卒業。1901年4月から1907年(明治40年)7月まで東京市牛込区原町の成城学校の英語教師を務める。この頃は心理学を研究しており、1907年9月から1912年(明治45年)6月までアメリカ・マサチューセッツ州のクラーク大学(en:Clark University)に在学、心理学でマスター・オブ・アーツを取得する。 1912年、1913年、1914年(大正3年)の6月から9月の間はマサチューセッツ州のウッズホール臨海実験所で生物学の研究をする。
佐藤 紅緑(さとう こうろく、1874年〈明治7年〉7月6日… 佐藤 紅緑(さとう こうろく、1874年〈明治7年〉7月6日 - 1949年〈昭和24年〉6月3日)は、日本の劇作家・小説家・俳人。本名:洽六 1874年(明治7年)、現在の青森県弘前市親方町に、旧弘前藩士の父・弥六、母・支那(しな)の次男として出生。 父の佐藤弥六(1842年 - 1923年)は、幕末に福沢諭吉の塾(慶應義塾)で学び、帰郷して県会議員となり産業振興に尽力、また『林檎図解』『陸奥評話』『津軽のしるべ』などの著書も著し、森鷗外の作品「渋江抽斎」にも郷土史家として登場する、弘前を代表する人物だった。 1890年東奥義塾を中退、青森県尋常中学校(後の青森県立弘前中学校 現・弘前高校)に入学。
池田 敬八(いけだ けいはち、旧姓・赤坂、1874年(明治7… 池田 敬八(いけだ けいはち、旧姓・赤坂、1874年(明治7年)7月3日 - 1963年(昭和38年)3月23日)は、日本の政治家・衆議院議員(立憲民政党)、大蔵官僚、弁護士。カナモジ会理事。 三重県度会郡宇治山田町(宇治山田市を経て現在の伊勢市)出身。三重平民・赤坂敬二の三男、あるいは六男として生まれ、池田房明の養子となった。 1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。大蔵省専売局事務官、専売局参事、専売局長官官房監理課長などを経て、1917年(大正6年)からは印刷局長を務めた。 1928年(昭和3年)、退官。三重県第二区より第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
肥田 金一郎(ひだ きんいちろう、1874年7月2日 - 1… 肥田 金一郎(ひだ きんいちろう、1874年7月2日 - 1936年8月11日)は、日本の実業家。父・肥田昭作が採掘権を獲得した福島県高玉鉱山を経営する傍ら、福島県馬産の要職に携わる。日本中央競馬会(JRA)福島競馬場に連なる福島競馬倶楽部の公認開催権取得に功績を残し、また後には1908年の馬券禁止以来苦境に陥っていた千葉県中山競馬倶楽部の地位向上に尽くし、日本の最高障害競走・中山大障害を創設するなど、のちに中央競馬の主要場となる中山競馬場の礎を築いた。政治面では、安達郡高川村長や安達郡会議員を務めた。住所は牛込区市谷甲良町41であった。 1874年、東京市に生まれる。1892年、旧制学習院中等科を卒業し、福島県高玉鉱山に入社、1919年まで経営に携わった。
田中 文蔵(たなか ぶんぞう、1874年7月2日 – 194… 田中 文蔵(たなか ぶんぞう、1874年7月2日 – 1941年12月18日)は、日本の実業家。三井物産取締役を務めた。 現在の福井県小浜市竹原に[要出典]田中熊吉の長男として生まれる。生家は豊かではなかったとされる[要出典]。 旧制福井県立小浜中学校を卒業後に上京した[要出典]。苦学の後に[要出典]東京法学院(現・中央大学)に入学する。1891年に東京法学院を卒業した。 卒業後は新聞雑誌編集の仕事に就いたが、1905年に三井物産に入社した。当初は見習社員として勤め、支店長会議の議事録作成を進言して実行したことが重役の益田孝に認められ、正式な社員として採用されたと伝わる[要出典]。1915年当時は庶務課長兼調査課長だった。
藤野 厳九郎(ふじの げんくろう、1874年7月1日 - 1… 藤野 厳九郎(ふじの げんくろう、1874年7月1日 - 1945年8月11日)は、日本の医師・教育者。日本留学時代の魯迅の恩師として知られる。
坪川 洹平(つぼかわ かんぺい、1874年(明治7年)6月2… 坪川 洹平(つぼかわ かんぺい、1874年(明治7年)6月29日 - 1958年(昭和33年)11月7日)は、日本の実業家・慈善家。1952年(昭和27年)には新発田市名誉市民に推挙された(名誉市民第1号)。新発田町立図書館(新発田市立中央図書館の前身)の寄贈者である。新潟県北蒲原郡新発田本村外ヶ輪(現・新発田市城北町)出身。 1874年(明治7年)6月29日、新潟県北蒲原郡新発田本村外ヶ輪(現・新発田市城北町)に生まれた。父親は坪川瀬平、母親はウイである。洹平は5人兄弟姉妹の三男であり、兄には英吉と雄二、姉にはレンとキイがいた。父の瀬平は新発田藩の茶道家である田宮休斎の次男であり、坪川家を嗣いで同家7代目となった。
大島 実太郎(おおしま じつたろう、1874年6月28日 -… 大島 実太郎(おおしま じつたろう、1874年6月28日 - 1924年9月3日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。 大阪府出身。1895年、東京高等蚕糸学校(現・東京農工大学)、1901年、東京法学院(現・中央大学)卒。京都府蚕糸同業組合立高等養蚕伝習所(現・京都府立綾部高等学校)教師を経て、弁護士の業務に携わる。花屋敷土地、四国生糸、大阪証券交換所各(株)取締役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において京都6区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙で落選した。落選から間もなく死去した。
貞松 修蔵(さだまつ しゅうぞう、1874年〈明治7年〉6月… 貞松 修蔵(さだまつ しゅうぞう、1874年〈明治7年〉6月23日 - 1938年〈昭和13年〉3月31日)は、長崎県出身の教育者。 静岡県立中央図書館の前身である静岡県立葵文庫の初代文庫長(初代館長)。 1874年(明治7年)6月23日、長崎県東彼杵郡大村町(現・大村市)に生まれた。父は旧大村藩士の山田悟であり、二男だった。1887年(明治20年)、遠戚である貞松義一郎の養子となった。1892年(明治25年)7月19日、私立大村中学校(現・長崎県立大村高等学校)を卒業した。1900年(明治33年)、高等師範学校(現・筑波大学)を卒業し、英語科教員の免許を受領した。 1900年(明治33年)には福岡県立中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)の教諭となり、1901年(明治34年)には熊本県師範学校(現・熊本大学)の教諭となり、1912年(大正元年)には私立興譲館中学校(現・興譲館高等学校)の英語歴史科教授嘱託となった。
山本 信哉(やまもと のぶき、明治6年〈1873年〉7月19… 山本 信哉(やまもと のぶき、明治6年〈1873年〉7月19日 - 昭和19年〈1944年〉12月18日)は、日本の歴史学者、神道学者。東京帝国大学史料編纂所史料編纂官。 元奈良国立博物館館長・山本信吉の父。
南条 金雄(なんじょう かねお、1873年〈明治6年〉7月1… 南条 金雄(なんじょう かねお、1873年〈明治6年〉7月18日 - 1948年〈昭和23年〉12月30日)は、日本の実業家。大正海上火災保険会長や、三井物産会長、三井合名筆頭常務理事を務めた。 群馬県邑楽郡館林町(現館林市)出身。前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)を経て、1892年に高等商業学校(現一橋大学)卒業後、横浜外国商館に入り、海外貿易に従事し海陸保険の事務につき英国と東京を往来する。 1901年三井物産入社。大阪支店保険掛主任等を経て、1910年大阪支店長。1913年ロンドン支店長。1918年取締役ロンドン支店長。同年安川雄之助、武村貞一郎とともに常務取締役に昇格。大正海上火災保険設立前に小田柿捨次郎の家で飯田義一、馬越恭平、岩原謙三、平生釟三郎、磯村豊太郎らと保険会社設立懇談会に参加し、1924年には大正海上火災保険会長に就任。
永地 秀太(ながとち ひでた、旧姓:有吉 秀太(ありよし ひ… 永地 秀太(ながとち ひでた、旧姓:有吉 秀太(ありよし ひでた)、1873年(明治6年)7月15日 - 1942年(昭和17年)12月14日)は、明治-昭和前期の洋画家。太平洋画会 創立メンバー、陸軍嘱託画家、文展(旧帝展)審査員、旧東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)教授。1944年、レジオンドヌール勲章(シュバリエ)受賞。贈従四位。山口県出身。
柴田 顕正(しばた けんせい、1873年7月15日 - 19… 柴田 顕正(しばた けんせい、1873年7月15日 - 1940年4月20日)は、日本の郷土史家、教育者、神官。 『岡崎市史』全8巻(1926年~1930年)とその別巻である『徳川家康と其周囲』全3巻(1934年~1935年)を半生を傾けて完成させた。正式には「柴田顯正」と表記。 愛知県額田郡伊賀村(現・岡崎市伊賀町)に伊賀八幡宮社司の柴田顯光の長男として生まれる。額田郡第十六番小学八幡学校(現・岡崎市立広幡小学校)を出たのち上京。1893年(明治26年)7月、國學院大學第一回生として同校を卒業後、史学者の三上参次のもとで教科書編集の仕事に携わった。 その後、1895年(明治28年) 石川県尋常中学校七尾分校(現・石川県立金沢泉丘高等学校)の教諭を経て、1897年(明治30年)9月から1901年(明治34年)8月まで、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)に勤務。
佐々木 駒之助(ささき こまのすけ、1873年(明治6年)7… 佐々木 駒之助(ささき こまのすけ、1873年(明治6年)7月6日 - 1954年(昭和29年)6月2日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。東洋拓殖総裁、貴族院勅選議員。 秋田県仙北郡花館村(大曲市花館を経て現大仙市)で、佐々木多右衛門の三男として生まれ、1885年(明治18年)6月、叔父・佐々木福蔵の養子となる。秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を経て、1899年(明治32年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。 福澤諭吉の紹介で堺市の会社に就職。その後、1900年(明治33年)山口銀行に入行し、理事兼営業部長、常務取締役などを歴任。三和銀行の創設に尽力した。その他、山口合資会社理事長、日本生命保険会長、共同火災保険会長、トヨタ自動車工業監査役、財団法人東亜研究所評議員、南洋協会評議員などを務めた。
田原 淳(たわら すなお、たはら すなお、1873年7月5日… 田原 淳(たわら すなお、たはら すなお、1873年7月5日 - 1952年1月19日)は、日本の病理学者。 大分県東国東郡瀬戸田村(国東市安岐町)の中嶋家の長男として生まれる。1889年に上京して東京英語学校と独逸学教会学校で学ぶ。1892年、伯父の中津藩医・田原春塘の養子となる。 1898年第一高等学校卒業、1901年東京帝国大学医学部卒業。1903年に私費でドイツに留学し、小久保恵作の勧めにより、マールブルク大学の病理学教室でルードヴィッヒ・アショフ(Ludwig Aschoff)に師事した。 ここで田原は心筋について研究を行い、1905年刺激伝導系の存在を明らかにし、刺激伝導系において重要な役割を持つ「房室結節(田原結節、田原・アショフ結節)」を発見した。
手塚 敏郎(てづか としろう、1873年(明治6年)7月1日… 手塚 敏郎(てづか としろう、1873年(明治6年)7月1日 - 1933年(昭和8年)10月26日)は、内務官僚、南洋庁長官。 宮崎県児湯郡高鍋町出身。1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学を卒業し司法官試補となった。1903年(明治36年)に検事となり、函館区裁判所、函館地方裁判所、札幌地方裁判所、沼津区裁判所を歴任した。1908年(明治41年)、内務省に転じ、福井県事務官・警察部長、長崎県事務官・警察部長、島根県内務部長を歴任した。 1918年(大正7年)、海軍事務官長・臨時南洋群島防備隊民政部長に任命され、南洋諸島の統治にあたった。 1922年(大正11年)、臨時南洋群島防備隊が廃止され、南洋庁が発足すると、初代長官に就任した。
山崎 延吉(やまざき のぶきち、1873年(明治6年)6月2… 山崎 延吉(やまざき のぶきち、1873年(明治6年)6月26日 - 1954年(昭和29年)7月19日)は、日本の農政家・教育者。衆議院議員(1期)、貴族院勅選議員。愛知県立農林学校初代校長。帝国農会幹事。安城市一帯が「日本デンマーク」と呼ばれるほどの農業先進地になったのは、農業改善に力を尽くした山崎の力が大きい。我農生との雅号をもつ。 石川県金沢区(現・金沢市長町1丁目14番地)に生まれる。父親は農業改革指導者二宮尊徳の弟子だった。1894年(明治27年)、第四高等学校卒業。1897年(明治30年)、東京帝国大学農科大学農芸化学科卒業。福島県蚕業学校の教諭に採用される。1899年(明治32年) 5月、大阪府立農学校の教諭に転ずる。
小沼 敬三郎(こぬま けいざぶろう、1873年(明治6年)6… 小沼 敬三郎(こぬま けいざぶろう、1873年(明治6年)6月26日 - 1957年(昭和32年)12月24日)は、日本の政治家、大蔵官僚。津山市長。 1873年6月、現在の岡山県津山市南新座に生まれる。法政大学卒業後、1902年、大蔵省(現財務省)へ入省する。 その後、平沼騏一郎の推薦で、岡山県赤磐、小田郡長となる。1923年には、苫田郡長となる。 1926年11月、苫田郡津山町長となる。津山町、津山東町、西苫田村、二宮村、院庄村、久米郡福岡村との6町村の合併を推進し、1929年2月、津山市が発足した際、市長へ就任した。 就任後、3期にわたり市長を務め、上水道整備、新市庁舎建設など、津山市の礎を築き上げた。
中村 幸之助(なかむら こうのすけ、明治5年6月16日(18… 中村 幸之助(なかむら こうのすけ、明治5年6月16日(1872年7月21日) - 昭和20年(1945年)1月11日)は、日本の電気工学者。 宮城県仙台市出身。第二高等学校を経て、1898年(明治31年)に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、大学院に進んだ。1899年(明治32年)、東京工業学校教授となり、翌年から欧米諸国に留学した。1902年(明治35年)に帰国後は、東京高等工業学校教授に特許局審査官、東京高等工業学校附設工業教員養成所主事、特許局技師などを兼ねた。1919年(大正8年)、工学博士の学位を得た。1926年(大正15年)、東京高等工業学校校長に就任し、翌年には財団法人協調会東京工業専修学校校長も兼ねた。
中野 猪之助(なかの いのすけ、1872年7月21日(明治5… 中野 猪之助(なかの いのすけ、1872年7月21日(明治5年6月16日)- 1938年(昭和13年)1月18日)は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 大分県日田郡、のちの三芳村(現日田市下井手町)で、中野伍兵衛の二男として生まれる。漢学を修めた。 1899年(明治32年)福岡県久留米市京町で久留米製材所を設立し材木商を営む。のちに東京で合資会社中野材木店(京橋木挽町)を開店した。その他、久留米材木同業組合長、九州材木連合協会長、日田実業銀行取締役、九州材木専務取締役、久留米商業会議所特別議員、同顧問なども務めた。 政界では、久留米市会議員、同参事会員に在任。1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙(大分県第5区、無所属)で当選し、立憲民政党に所属して衆議院議員に1期在任した。
橋本 太吉(はしもと たきち、1872年 7月15日(明治5… 橋本 太吉(はしもと たきち、1872年 7月15日(明治5年6月10日)- 1933年(昭和8年)8月28日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家、衆議院議員。 広島県御調郡尾道町(現尾道市)で、醸造業・橋本長三の長男として生まれる。1885年(明治18年)家督を相続。1891年(明治24年)12月、慶應義塾を卒業した。 帰郷後、尾道市会議員に就任。また、尾道電灯社長、尾道米塩肥料取引所理事を務めた。1900年(明治33年)4月、横浜の原合名会社(原富太郎)輸出部支配人に就任し1904年(明治37年)6月まで在任した。その後、家業の醸造業、さらにアルミニウム工業を営み、中外石油アスファルト取締役、日本リンネット取締役、東海化学工業取締役、日本夏帽取締役、日本軽銀製造監査役などを務めた。
松江 豊寿(まつえ とよひさ、1872年7月11日(明治5年… 松江 豊寿(まつえ とよひさ、1872年7月11日(明治5年6月6日)- 1956年(昭和31年)5月21日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。第9代若松市長。 第一次世界大戦中に板東俘虜収容所所長を務め、在任中にドイツ人俘虜を人道的に扱い地元の住民とドイツ人俘虜を交流させた。この時、ドイツ人俘虜によって日本で初めてベートーベンの交響曲第9番が演奏された。映画『バルトの楽園』の主人公としても知られる。 1872年6月に現在の会津若松市で会津藩士、警察官・松江久平の長男として生まれる。1889年(明治22年)16歳の時に仙台陸軍地方幼年学校に入校し、1892年(明治25年)には陸軍士官学校(5期)に進んだ。
佐佐木 信綱(ささき のぶつな、1872年7月8日(明治5年… 佐佐木 信綱(ささき のぶつな、1872年7月8日(明治5年6月3日) - 1963年(昭和38年)12月2日)は、日本の歌人・国文学者。正三位。勲六等。文学博士。日本学士院会員。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 一時は桂園派に連なる歌を詠んだが、和歌改良の風潮に接して革新の気風を抱き、1897年(明治30年)頃から独自の歌境をうち立て、有望な新星として注目された。「ひろく、ふかく、おのがじし」をモットーとし[要出典]、新詩社系、根岸短歌系双方との交流を深めた。 国文学者としての実績も豊富で、特に『万葉集』の研究で有名。 三重県鈴鹿郡石薬師村(現在の鈴鹿市石薬師町)で、国学者で歌人の佐々木弘綱の長男として生まれる。
浜口 檐(はまぐち たん、1872年7月7日(明治5年6月2… 浜口 檐(はまぐち たん、1872年7月7日(明治5年6月2日)– 1939年(昭和14年)10月2日)は、明治後期から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員。 和歌山県有田郡広村(広町を経て現広川町)で、実業家・7代濱口儀兵衛(濱口梧陵)の末子として生まれた。1891年(明治24年)慶應義塾普通部を、1894年(明治27年)東京専門学校(現早稲田大学)英語政治科を卒業。円覚寺に2年参禅して イギリスに留学し、1902年(明治35年)ケンブリッジ大学を卒業した。 1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙に和歌山県郡部から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。この間、議員歳費を辞退して話題となる。
杉 敏介(すぎ としすけ、1872年7月1日(明治5年5月2… 杉 敏介(すぎ としすけ、1872年7月1日(明治5年5月26日) - 1960年7月2日)は、日本の教育者。第一高等学校、国文教授 - 校長。通称は"びんすけ"。夏目漱石『吾輩は猫である』の津木ピン助のモデル。歌人としても知られ、号は烏山。
載仁親王妃 智恵子(ことひとしんのうひ ちえこ、1872年6… 載仁親王妃 智恵子(ことひとしんのうひ ちえこ、1872年6月30日〈明治5年5月25日〉- 1947年〈昭和22年〉3月19日)は、日本の皇族。閑院宮載仁親王の妃。身位は親王妃で、皇室典範における敬称は殿下。母方を通じて、東山天皇の7世孫にあたる。 1872年6月30日(明治5年5月25日)、公爵・三条実美の二女として誕生。母は、鷹司輔煕の九女・治子。旧名は、三条 智恵子(さんじょう ちえこ)。 6歳ほどより跡見女学校へ通い、跡見花蹊に学ぶ。絵画を得意とし、四條派の写生画、南宗派の文人画を修め、「花堤」の雅号を持つ。1891年(明治24年)閑院宮載仁親王と結婚する。載仁親王との間には、篤仁王(夭折)、恭子女王(安藤信昭夫人)、茂子女王(黒田長礼夫人)、季子女王、春仁王、寛子女王、華子女王(華頂博信夫人、後に戸田豊太郎夫人)の2男5女を儲けた。
金山 米次郎(かなやま よねじろう、1872年6月29日(明… 金山 米次郎(かなやま よねじろう、1872年6月29日(明治5年5月24日)- 1941年(昭和16年)5月29日)は、富山市長。弟は安田銀行下谷支店長を務めた金山音治。 富山県富山市出身。青雲の志を抱き東京に出る。東京芝新銭座町4番地(現・東京都港区東新橋2丁目)にあった吏党系の壮士の集う「青年義勇団」に所属しようとしたが若すぎた為、年齢を2歳偽り所属した。実年齢20歳(公称22歳)の時、1891年(明治24年)5月29日、板垣退助を総理(総裁)に迎えた自由党は「国家主義(極右)と社会主義(極左)とはともに国を滅ぼす」とし、その中庸を目指す自由党の自由主義こそが国家を津々と発展させるものであるとして国家が歩むべき方向性を示す宣言を行い、10月15日に自由党は党大会を開いて党則を改正したが、国家主義を標榜し民党と対立する吏党に所属する米次郎は、自由党の方向性と板垣に対して憤りを覚えた。
万代 嘉平治(萬代、まんだい かへいじ、1872年6月27日… 万代 嘉平治(萬代、まんだい かへいじ、1872年6月27日(明治5年5月22日)- 1917年(大正6年)3月9日)は、明治から大正前期の園芸家、政治家。衆議院議員(1期)、岡山県赤磐郡石生村長。 岡山県磐梨郡原村(石生村、赤磐郡石生村を経て現和気郡和気町)で生れた。同志社(現同志社大学)を卒業した。 1901年(明治34年)石生村長に就任し1914年(大正3年)まで在任。この間、難航していた同村田原上・下耕地整理事業を推進した。その他、赤磐郡会議員(1900年-1904年、1911年-1913年)、岡山県会議員(1899年-1917年)を務め、郡会議長、岡山県参事会員にも在任した。立憲国民党に所属し第一次護憲運動を推進し、和気橋の架橋に尽力した。
牛島 滕六(うしじま とうろく、1872年〈明治5年6月24… 牛島 滕六(うしじま とうろく、1872年〈明治5年6月24日〉 - 1952年〈昭和27年〉9月11日)は、明治から昭和にかけての日本の俳人。本名は虎之助。 俳誌『時雨』の主宰として、戦前の北海道俳壇における重鎮の地位にあった。 1872年(明治5年)、福岡県久留米市に生まれる。 1891年(明治24年)、屯田兵として東永山兵村へ移住する。 1897年(明治30年)、北海道庁の鉄道敷設事業手として旭川へ赴任する。このころから雪村の雅号で河東碧梧桐選の俳誌『活文壇』に投稿していた。 1900年(明治33年)、札幌の吉見香漣・祝鱸江らとともに俳誌『白雪』を発行するが、8号で廃刊となる。 1902年(明治35年)、俳句結社「若葉吟社」を興し、俳誌『若葉』を4号まで発行する。
小瀧 喜七郎(おだき きしちろう、1872年6月23日(明治… 小瀧 喜七郎(おだき きしちろう、1872年6月23日(明治5年5月18日) - 1951年(昭和26年)12月14日)は、日本の政治家。第4代岡崎市長(1期)。助役時代より岡崎公園の修築・改修に力を入れたため、公園助役、公園市長とよばれた。企業の誘致にも積極的で、日清レーヨン、日本レーヨンなどを誘致した。 額田県八町村(現・愛知県岡崎市八帖南町)で岡崎藩士の子として生まれる。1886年(明治19年)2月、真宗三河教校に入学し英語を学ぶ。1887年(明治20年)7月8日、同校を卒業。1891年(明治24年)1月から1892年(明治25年)10月まで名古屋市の私立誠心塾で漢学・剣道を修める。同年12月11日から数度にわたり兵役につき、日清戦争と日露戦争に従軍した。
江田 鎌治郎(えだ かまじろう、1872年6月22日(明治5… 江田 鎌治郎(えだ かまじろう、1872年6月22日(明治5年5月17日) - 1957年(昭和32年)5月7日)は、日本の技術者、実業家。速醸酛の発明者として知られ、「酒聖」「酒造界の大恩人」と賞される。 1872年(明治5年)、新潟県糸魚川に生まれる。新潟師範学校、東京高等工業学校応用化学科(現・東京工業大学)卒業。東京税務監督局、大蔵省醸造試験所、大阪工業大学講師などを歴任。1909年、速醸酛を開発した。大蔵省を退官後、1933年(昭和8年)に江田醸造研究所(後の江田醸造株式会社)を設立。1916年に勲六等瑞宝章、1955年に紫綬褒章を受賞。 没後、日本生物工学会による生物工学奨励賞(江田賞)が創設された。
三浦 周行(みうら ひろゆき、明治4年6月4日〈1871年7… 三浦 周行(みうら ひろゆき、明治4年6月4日〈1871年7月21日〉 - 1931年〈昭和6年〉9月6日)は、日本の歴史学者・法制史の研究者。京都帝国大学名誉教授。 明治4年(1871年)、出雲国島根郡内中原町(現:島根県松江市)に於いて、松江藩で18石4人扶持を知行した下級武士の三浦正祐の長男として生まれた。父は維新後島根県の役人を務めた。幼名は禄之助。元服し、周行と称した。1890年に東京英和学校を修業し、東京帝国大学文科大学選科に入学。1893年に国史科を修業。同年父が没したため家督を継ぐ。 卒業後は、史料編纂助員となった。のち史料編纂官に昇進。東京帝国大学法科大学より法制類聚編纂を嘱託され、歴史学と法学双方の研究を行う過程で日本に「法制史」という新しい学問分野を打ち立てた。
中山 平次郎(なかやま へいじろう、1871年7月20日(明… 中山 平次郎(なかやま へいじろう、1871年7月20日(明治4年6月3日) - 1956年(昭和31年)4月29日)は、明治後期から昭和前期にかけての日本の病理学者、考古学者。死没時の称号、位階勲等および学位は九州大学名誉教授正三位勲二等医学博士。 本来の職業は病理学者であるが、後世に残した業績は考古学分野での成果が大半を占めることから、一般には考古学者として知られている。 中山平次郎は、1871年(明治4年)、現在の京都市上京区に生まれた。東京市に移った後、家業であった医学の道を進み、1900年(明治33年)、東京帝国大学医科大学を卒業し、ドイツ・オーストリア留学から帰国した1906年(明治39年)には、京都帝国大学・福岡医科大学(のちの九州大学医学部)の教授に就任した。
白壁 傑次郞(しらかべ けつじろう、明治4年6月2日 (旧暦… 白壁 傑次郞(しらかべ けつじろう、明治4年6月2日 (旧暦)(1871年7月19日) - 昭和27年(1952年)2月26日)は、日本の教育者、化学者。第五高等学校名誉教授。 白壁又六郎の二男として福岡県に生まれる。1891年福岡県立尋常中学修猷館、1894年第五高等学校理科を経て、1897年7月東京帝国大学理科大学化学科を卒業。第五高等学校在学中は、ラフカディオ・ハーンに英語を学んでいる。 東大卒業後、京華尋常中学校、青山学院中学部、立教中学校の教諭を経て、1900年1月陸軍教授に就任。1901年1月第五高等学校の教授に就任し、化学、自然科学を講じる。1910年九州薬学専門学校(熊本大学薬学部の前身)が設立されると、その講師も兼務し、理論化学を講じた。
石橋 為之助(いしばし ためのすけ、1871年7月19日〈明… 石橋 為之助(いしばし ためのすけ、1871年7月19日〈明治4年6月2日〉 - 1927年〈昭和2年〉4月28日)は、日本の政治家、実業家、新聞記者。第6代神戸市長。衆議院議員(大阪府大阪市選出、当選3回、公正会)。族籍は大阪府平民。大阪生まれ。 1871年7月19日(明治4年6月2日)、大阪府西成郡曾根崎村(現・大阪府大阪市)で石橋有三郎の二男として生まれた。1886年(明治19年)、15歳の時に小学校教員検定試験に合格し、20歳まで教員として働きながら英語を勉強し、1891年(明治24年)9月に京都同志社神学部選科に入学、学資が続かず中途退学し、以来独学自修する。米国に遊学。 朝日新聞社(大阪朝日新聞)に入社すると在職中に衆議院選挙に立候補・当選し、10年間国会議員も務めた。